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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第42回 齋藤史『齋藤史歌文集』

永井祐

こんにちは。

今日は齋藤史『齋藤史歌文集』をやってみます。

 

斎藤史歌文集 (講談社文芸文庫)

斎藤史歌文集 (講談社文芸文庫)

 

 

講談社文芸文庫なので入手はしやすいです。

本の前半三分の一くらいは齋藤史の短歌のアンソロジー、残り三分の二は随筆等の散文作品から選りすぐったもの、という構成になっています。

齋藤史は、わたしはいちおうちょっと読んではいたのですが、ずっとそれほど熱心な読者ではありませんでした。

でも、何年か前から昭和の初頭・戦前期の短歌が気になるようになりました。

『新風十人』というアンソロジーに代表されるのですが、この頃の歌集は名作が多いのです。

佐藤佐太郎『歩道』、前川佐美雄『植物祭』とか、わたしは好きなものが多い。

その流れで齋藤史『魚歌』を読み返してみると、この時代の歌の自由さとはかなさみたいなものがやっぱり通底しているように思えて、あらためて好きな歌集の一つになったのでした。

『魚歌』の頭からさっと引きます。

 

アクロバティクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き

 

飾られるシヨウ・ウインドウの花花はどうせ消えちやうパステルで描く

 

フランスの租界は庭もかいだんも窓も小部屋もあんずのさかり

 

夜毎(よるごと)に月きらびやかにありしかば唄をうたひてやがて忘れぬ

 

佐太郎、佐美雄、史ですでに、このへんの世代の人はすごいなと思うのですが、

新人だけでなく、

斎藤茂吉が後期の文体を確立してくるのも昭和9年の『白桃』くらいからだったり、

土屋文明が本格化してくるのもこのへんからだったり、

近代以来の短歌史の中でも、一つの作品的なピークがきているようにわたしは思えます。

この頃の歌集は一般的な評価も高いんですけど、

それはやっぱり迫ってくる戦争への緊張感が反映している、みたいに説明されることが多いですね。

それが妥当なのかはちょっとわかりかねるところもあるのですが、でもこの時代の短歌には独特のひりひり感があるように思います。それは明治大正の歌とは違う。それはたとえば『桐の花』と『魚歌』の違いであり、『赤光』と『歩道』の違いです。おおざっぱな話ではあるけれど、時代の空気の違いはなんとなくわたしでもわかる。

 

では、とりあえず読んでいきましょう。

齋藤史の文章は、なんだろう、きびきびしてて調子よく読めます。

それでなにより、話題が豊富です。

若い頃から色んな場所で暮らしてきて、戦前の銀座で遊んだ話もあれば、戦争時の疎開先で言葉がわからなくて苦労したという話も出てきます。

冒頭は「ちゃぼ交遊記」という、八十代のおばあさんになってからのエッセイです。

 

隣で住んでいる娘夫婦が、ちゃぼを二羽もらってきたところからはじまります。

 

もともと動物は大好きなのである。むかし父が軍人であったから、家には別棟に馬屋があり、馬がいた。兎も飼ったし、モルモットも飼った。居着いてしまった猫も飼ったことがあるし、犬はもちろん。

 

このように何かと経験値が高い。

 

しかし歳をとってからは、動物は飼うまいと決めていた。飼主が逝ってしまったあとの、生きものの哀れさも見て来たし、買い慣れたものに死なれたあとの悲しさもやりきれない。

 

なので色々思慮深い

 

生きものがくらしの中に加わるというのは、何となく心賑やかなもので、わたくしもペンを置いてはたびたび覗きにゆく。

 

しかしけっきょく、動物が来てうきうきしている。

そして、愛するものに死なれる悲しみをよく知っている齋藤さんが「ちゃぼ」にうきうきできるのは、次のような計算によるのでした。

 

しかし今度は娘達が飼うのだし、鶏ならば、猫や犬ほど人間と密接な関係にはならないだろう―とたかをくくったわけである。

 

わたしはこの一文が、ちょっとした「人の悪さ」を感じて好きでした。

鶏ならそこまで情が移らないし、自分は直接の飼主ではない。その二重のセーフティネットがあるなら、鶏と遊びまくっていざ死なれても、こちらの感情的リスクは最小限にとどめられる。

齋藤さんはそういう計算ができる人なのでした。

けれど、八十代のおばあさんならば、ふつうこのぐらいのことを心の中の言葉にして考えるのかな。おばあさん界の感情マネジメントの相場はわかりません。

 

「むかし―銀座」

 

 日比谷か有楽町で映画をみて、銀座でお茶を―というのが、いつものコースであった。日比谷映画劇場が開館をしたときは、真紅なじゅうたんを入口から敷き詰めて、たぶん映画館としては始めての豪華さ。それを踏むだけで、心はスクリーンに入ってゆくようであった。五十銭玉ひとつで、外国映画がたのしめた時代である。

 

行きつけの店の二階、窓側の席が運よくあいていれば、ことにごきげん。―眼の下の舗道をゆく人達を見おろしてのむお茶。

見られていることを知らない人々が、さまざまな服装で、さまざまな組合せで、通りすぎてゆく―かかわりのないことの気楽さ。もすこし人の悪い言い方をすれば、こちらが見られていないことの気楽さである。五階の十階のという距離ではこういかない。下をゆく人々との縁が切れすぎて、人間の匂いがしなくなる。

  

おみやげに買うのは、たいていコロンバンの木の葉型パイ。甘いケーキはそれはそれで悪くもないけれども、私達の仲間はパイ党が多かった。女の友達と二人、フランスの映画を見て(おおルイ・ジューヴェよ、アルレッティよ、モーリス・シヴァリエよ、フランソワーズ・ロゼエよ、ジャン・ギャバンよ)

 

なんか、たいそう楽しそうですよね。

もちろん、今の銀座に行っても映画みてお茶してパイを買って帰ることはできますが、齋藤さんと同じ経験はできないだろうなと思わされる。

ダンガールを満喫してたみたいな書きぶりですけど、ご自身はほんとにそんなにイケてたんですかね。おばあちゃん話盛ってるんじゃないかという気すらちょっとしてくるんですが。

かと思うと、空襲の恐ろしい話もでてきます。

 

―今日の空襲は、どの方面へ来るらしい―とだれとなく言うと、その通りにあたる。べつに予言をするわけではなく、まだ焼けていない場所を順にあげてゆくだけのことであった。

焼夷弾が夜空にばら撒かれ、落ちて来る間、距離を見定めている者にとって、じりじりするような時間がある。それが一度闇に沈んだのち、やがてその場所から、赤黒い火の手が逆に空に向いて吹き上がりはじめる。

 

 

これは東京での空襲の経験です。

ひどくなってきたので一家で長野県へと疎開します。新宿から中央線に乗って。

 

プラットホームに列を作って並んでいる間にも警報が出る。しかしその度に待避していては汽車に乗れないから、だれ一人動く者はいない。何時の汽車にのれるか、いつ目的地に着くかは向こうまかせ。子供たちの小さいリュックにも、それぞれいささかの食べ物、小さい水飲みコップ、手ぬぐい、ちりがみ、一本のろうそくとマッチと箸にスプーン。三角布の類。書けるものには全部住所氏名年齢。血液型まで彫りこんだ認識票は各人膚に着けている。

 

印象に残ったのは、八月十五日の話。

齋藤史は疎開先の長野の村で、いわゆる玉音放送を聞きます。

 

だれもひとことも言わなかった。激しい表情も見せなかった。半信半疑のところもあったが、大体に都会人のように軽率な反応は示さない。―わたくしにしても、かねてこのような時のことを考えたほどは悲しくなかった。しかし胸の底の方は冷えて重かった。おたがいの顔は見ないようにして、わたくしたちはまた畑へ戻ってゆき、ふだんと同じように働いた。

 

夕方、例のように道具を片付け、井戸端で足を洗い、部屋の一つだけの電灯の覆いをはずしてから点けた。

思いがけないところまで灯火の裾がひろがって、部屋の中のかげが減った。初めて出会った室内のように眺め回した。開いている戸口から伸びた光が土にとどいていて、そこの雑草に当たっている。草の色は昼間の直射日光の下の緑よりも黄色をおびて(当時はけい光灯ではない)若草のようにやわらかく、明暗を刻んで見えた。うつくしかった。

取りかかった食事の支度はいつもの通り乏しい。何からどのように変化してゆくのだろうか。今のところわたくしのしたことは電灯の覆いを取っただけである。この先はどうなってゆくことか―ます、黙って世の中の動きを見ていよう―。

 

 

引用の二つ目の文章のところだけ、ちょっと文体が違うというか、敗戦の日という大きなことと合わされると、描写がすごく暗示的に見えて、それが印象に残りました。

重たく受け止めているんだけど、一種の新生みたいなニュアンスが感じられる気がします。

 

齋藤史と同年生まれの佐藤佐太郎は、「昭和二十年八月十五日、家族とともに茨城県平潟町にあり」という詞書のついた「晩夏光」という一連の短歌を残しています。

そこから抜粋。

 

かすかなる民の一人とつつしみて御声のまへに涙しながる

 

おほみこと宣(のら)せたまへば額(ぬか)ふせるいのちの上にみこゑひびかふ

 

こゑひびく勅(みこと)のまにまうつしみの四肢ことごとく浄からんとす

 

まさに玉音放送を聞いている歌です。

で、こんなこと言える筋合いでもないのかもしれませんが、僕はこの歌に引いてしまうんですよね。とくに三首目の下句、「四肢ことごとく浄からんとす」。

佐藤佐太郎は好きだし、戦前の『歩道』が好きだし、シャープでクールだった佐太郎がまじか・・・という思いがちょっとしてしまう。

歌人たちが残した戦時詠、戦争協力歌と言われるものには、もう少し儀礼的なトーンもあるし、あまり生々しく引くことはないんですが、これは号泣しながらまじで言ってるなという感じがあって、ちょっと。

比べると齋藤史の散文のトーンは、共感とまではいかなくても、わからないとは感じない。まあ、こちらは戦後ずっと経ってから思い出して書いているものですからね。佐太郎のほうはリアルタイムでしょう。

それで、共感したり引いたりできるのは、やはり齋藤史とか佐藤佐太郎の『新風十人』ぐらいの世代の人というのは、北原白秋とか若山牧水とか明治大正に青春をすごした人たちとは明らかに違って、ずっとわたしたちに近いからなんでしょうね。当たり前といえば当たり前のことですが、あらためて思います。

 

巻末には「おやじとわたし―二・二六事件余談」という、昭和54年にNHKのラジオで語った談話が収録されています。

齋藤史の父親・齋藤瀏は軍人で、二・二六事件の裁判において「反乱を利す」とされ、禁錮五年となっています。

「おやじとわたし」はけっこう長く、そのときどきのディティールや気持ちなどが細かく話されています。

(直接関係ないですけど、人前で自分の父親の話をするとき、「おやじ」って言うんですね・・)

これはやり出すと長いので今回はここまでにしましょう。

 

この本は、とにかく色んな経験をしてきてウィットに富んだおばあさんの話集、という感じがしました。けっこう読みやすいです。

 

ではまた。

第41回 藤沢周平『白き瓶 小説長塚節』

長塚節と初期アララギの混沌  堂園昌彦 

 

白き瓶―小説長塚節 (文春文庫)

白き瓶―小説長塚節 (文春文庫)

 

 こんにちは。

 

今回紹介するのは、藤沢周平が1985年に文芸春秋から刊行した『白き瓶』です。1988年に文庫化されており、上のアマゾンリンクにあるのは、2010年に出た新装版です。

 

この本は、時代小説家・藤沢周平が、子規の直接の弟子である長塚節の生涯を小説化したものです。

 

私は長塚節の歌が昔から好きで、以前やってたブログに取り上げたこともあります。

 

長塚節の歌を読む: 短歌行

 

なんでしょうね。子規の弟子の中でも変わってるというか。根岸短歌会からアララギに至る流れには、なんか歌も人間も濃い人が多いんですが、長塚節はその中で非常に爽やかかつ滋味深い歌を詠んでいます。一服の清涼な水、といった感じがあって私はとても好きです。

 

有名な歌はこんな感じ。

 

馬追虫(うまおい)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし

白埴(しらはに)の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり

垂乳根(たらちね)の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども

 

青空文庫にもあります。

 

青空文庫 長塚節歌集 上

青空文庫 長塚節歌集 中

青空文庫 長塚節歌集 下

 

そんな長塚節ですが、まさか藤沢周平が小説化しているとは思いもよりませんでした。なぜなら、歌人を小説化するときは、もうちょっと派手な人が選ばれる傾向にあります。与謝野晶子とか、中城ふみ子とか、岡本かの子とか、川田順とか、明石海人とか。情熱・恋愛・不倫・病気・夭折、などがキーワードですね。

 

実際には長塚節も37歳で結核で亡くなっているのですが、それでもやっぱりこれらの歌人たちに比べれば、長塚節は歌も人格も地味というか落ち着いた印象があります。

 

藤沢周平といえば、池波正太郎と並ぶ超メジャーな時代・歴史小説家です。映画にもなった『蝉しぐれ』とか『たそがれ清兵衛』とか『隠し剣 鬼の爪』とかが有名ですね。私はあんまり時代小説読んだことないので、それほどよくは知らないのですが。

 

この流れだと、藤沢周平がなんで長塚節のことを書いたのか誰でも気になると思うんですが、ご本人はこう語っています。

 

 発端は、平輪光三著『長塚節・生活と作品』という本だった。昭和十八年一月に、東京・神田の六芸社から発行された初版四千部のこの本の一冊が、そのころ山形県鶴岡市の郊外にある農村に住む私の手に入ったのである。それは本が出たその年か翌年の十九年のことで、私は十六か十七だったことになる。

 その年齢の私をその本にひきつけたものが何だったかは、いま正確には思い出すことが出来ないのだが、ひとつはやはり、中に引用されている「初秋の歌」、「乗鞍岳を憶ふ」などの短歌作品だったろう。それはいかにも文学好きの農村青年だった私に訴えかけるリリシズムと、理解しやすい親近感をそなえた歌だったのである。(中略)

 ともかくそんなことから、その一冊の本は私の愛読書となり、その後私の長い療養生活とか、生家の破産とかがあって、若いころの私の蔵書があらかた四散してしまった中で、不思議にいまも手もとに残る一冊となったのである。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

「初秋の歌」はこんな歌。さっき引用した「馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし」もこの連作中の一首です。

 

目にも見えずわたらふ秋は栗の木のなりたる毬(いが)のつばらつばらに

芋の葉にこぼるゝ玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ

 

 「乗鞍岳を憶ふ」はこんな歌です。

 

鵙のこゑ透りてひびく秋の空にとがりて白き乗鞍を見し

乗鞍は一目我が見て一つのみ目にある姿我が目に我れ見つ

 

いずれも、自然観察と繊細な内面が響いています。そこらへんが、「文学好きの農村青年」の藤沢周平のこころにビビッと来たのかもしれません。長塚節は、茨城県の豪農の出身で、繊細な自然観察が魅力のひとつです。そこらへんが藤沢周平にはグッときた、と。

 

 もっとも私は、最初から熱狂的に長塚節が好きになったというわけではなかった。平輪さんのその本にしても、しじゅうそばに置いて眺めていたというものではなく、時には何年に一度か、ふと思い出して本棚の隅からさがし出して読む、そういう本でしかなかった。だがそんな読み方を通して、節はやがて私の内部でいかにもなつかしい歌人となり、ことに近年小説を書くようになってからは、節はひととおりでない人間の謎を秘めた歌人として、再三にわたって私の脳裏に立ち現れることにもなったのである。

 ここまで来ると、私は小説にかぎらず、エッセーでか戯曲でか評論でか、何らかの形でいつかは長塚節について感想をのべざるを得ないところに来ていたというべきかも知れず、たとえば編集者との雑談の中で、新聞連載のあとに何か長篇のものを書きませんかと誘われて、ふと節の名前を洩らしたとしても、それはさきに記したとおり、必ずしも軽率な思いつきというものでもなかったわけである。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

そんなわけで、なぜか、藤沢周平のこころには若いころからずっと長塚節が残っていたようです。 あと、もしかすると、輝かしい栄光に浴することのない市井の人々を描き続けてきた藤沢周平の琴線に、どこか、長塚節が触れるところがあったのかもしれません。それで、藤沢周平は新聞の連載小説が終わったあとに、長塚節の小説に取り掛かります。

 

しかし、いざ長塚節の小説を書こうと決心した藤沢周平は、すぐに後悔することとなります。

理由の第一は 、まず節関係の資料が予想以上に多いことだった。単行本から各種雑誌、研究誌に掲載された論文、エッセーはおびただしい数にのぼり、それらの文章が節の作品、節の病気、節の恋愛について、それぞれに詳細に記述しているのだった。同じころに何かの雑誌で、明治以来の文人、作家について書かれた文献数といったものが取り上げられていて、長塚節が第七位を占めることも知った。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

明治以来の作家についての文献数で、長塚節が第七位! 長塚節そんななのか。どうりでやたらに古本屋で資料が手に入ると思った。

 

藤沢さんも「長塚節は地味な歌人で、その種の参考文献、資料類はそう多くはないのではないか、などという私の予想は完全にくつがえされ」たと言っています。私も正直なめてました。やばいすね。

 

そんな感じで書き始められたこの『白き瓶』。たいへん面白かったです。文庫本で600ページくらいあってけっこうぶ厚く、なかなか大変なのですが、さすが藤沢周平、ふつうの評伝より抜群に読みやすいです。

 

まあべつに、野盗に苦しめられている農民を救うために武士が七人集まるとか、昼行燈な下級武士が裏ではバットマン的な活躍をしてたりとかいった、エンターテインなシーンは一切ないので、なかなかじっくり読むことになるというか、はっきり言って地味な本なのですが、読んで行くうちにだんだんと、家や健康の問題に苦しめられながらも懸命に生きようとしている長塚節に感情移入をしてきます。

 

 

この本、小説的におもしろポイントはいくつかあるのですが、まずは面白いのは、長塚節と伊藤左千夫とのライバルものとして読める点です。

 

長塚節と伊藤左千夫は、子規の直接の歌の弟子のツートップで、かつ反対の個性を持つ二人でした。ちょうど、俳句における高浜虚子河東碧梧桐と重なりますね。

 

「俳句は虚子と碧梧桐(へきごとう)にまかせておけばいいんだ」

 不意に節のそばで声がした。見てたしかめるまでもなく、隣に坐っている伊藤左千夫の声である。

「しかし歌は長塚君、君と僕だ。二人でやって行かなきゃならん」(『白き瓶』p.47) 

 

『白き瓶』の初めのほう、子規の葬儀の席でのシーンです。子規の直接の弟子として、お互いを認め合った伊藤左千夫と長塚節ですが、子規の死後は二人で根岸短歌会を担っていかなければいかん、と左千夫は節に言います。

 

ふたりの個性の差を表す、子規が書いた面白い文章があります。

 

 左千夫いふ柿本人麻呂は必ず肥えたる人にてありしならむ。その歌の大きくして逼せまらぬ処を見るに決して神経的痩せギスの作とは思はれずと。節いふ余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならむと思ふ。その歌の悲壮なるを見て知るべしと。けだし左千夫は肥えたる人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引き比べて同じやうに思ひなすこと人の常なりと覚ゆ。かく言ひ争へる内左千夫はなほ自説を主張して必ずその肥えたる由を言へるに対して、節は人麻呂は痩せたる人に相違なけれどもその骨格に至りては強く逞たくましき人ならむと思ふなりといふ。余はこれを聞きて思はず失笑せり。けだし節は肉落ち身痩やせたりといへども毎日サンダウの唖鈴を振りて勉めて運動を為すがためにその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなむ。さればにや人麻呂をもまたかくの如き人ならむと己れに引き合せて想像したるなるべし。人間はどこまでも自己を標準として他に及ぼすものか。(正岡子規『病牀六尺』)

 

あるとき子規と左千夫と節の3人で、万葉集歌人柿本人麻呂はどんな風貌だったんだろね、という話題になりました。左千夫は「人麻呂は太ってただろう」と言い、節は「痩せてたはず」と言ったそうです。なぜなら、左千夫自身が太ってて、節は痩せてたから。人間はどこまでも自分を基準として物事を考えるものだなあ、みたいな感じの文章です。好対照の二人だったんですね。

 

人格も真逆で、左千夫はなんというか、野獣っぽい人で、もう人の気持ちとか考えなくて押し出しが強く、自分の思い通りにならないとめっちゃ人を批判します。しかし同時に不思議な魅力もあって、異様に勘がするどく、鈍いかと思ったら突然真実を突いたりします。

 

それに対して、長塚節は、あんまり人と揉めるのが好きではなく、ちょっと距離を置いて後輩を見てる感じ。繊細で批判に傷つきやすく、自分のやりたいことをひとりで黙々とやるタイプですね。

 

で、けっこうこの二人の文学的境遇、似てるんですよね。二人とも子規の写生説を独自のかたちで発展させることで自らの歌を作っていきますが、ほかにも、子規の始めた「写生文」を経由して、小説を書き、それぞれ『野菊の墓』と『土』という文学史に残る作品を書いています。で、どちらも漱石に褒められてます。

 

次のところは、二人が、お互いの小説を批評しあうシーンです。

 

「君はね、細部の描き方はじつにうまい。正直に言って、読んでいてうなったところが何ヵ所かあったな。しかし全体を通してみると、ちょっと首をかしげたくなる。不自然さが目立つんだよ」

「不自然かね」

 節はおだやかに反問した。

「前半と後半のつづきぐあいのことだな? あれはちょっとまずかった。」(中略)

 そして、そういうことから言えば、左千夫の小説だって五十歩百歩だろうと、節はひそかに思っていた。「胡頽子」の写生の拙劣さは、読むに堪えないほどのものだったのだ。左千夫の言い方を借りれば、左千夫の小説は、節とは逆に、全体としてのまとまりは悪くないものの、部分的な描写という点では支離滅裂だと節は考えている。(p.206,207)

 

ふたりは文学上でも批判し合い、お互いの作品を高めていきます。

  

左千夫の遠慮のない作品批判が節を傷つけることは再三で、節はのちに左千夫に対して愛憎相半ばするといった心境に追いこまれる。左千夫はいわゆる喧嘩上手で、その種の批判の応酬ということになると若い節にどうも分がなく、節はしまいにはいやになったのではあるまいか。しかし親友でありながら、同時に文学上の熾烈な競争相手でもあるという二人の関係が、両者の作品の質を高めたこともまた間違いないようである。 (「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

短歌の理論においても、長塚節が子規の衣鉢を継いで「客観写生」を標榜すると、伊藤左千夫はそれを批判して、短歌では「主観」の働きが大切だ、と述べる。この闘いの中で初期「アララギ」の理論は洗練されていきます。

 

 伊藤左千夫が、節の短歌の特色である客観写生の方法を、公然とまたはげしい口調で非難したのは、明治三十八年一月発行の「馬酔木」第十五号の中でだった。

 (中略)人事と配合してこそ茄子古幹も面白く見られるだろうが、人事的なものを一切抜きにして、つかねた茄子古幹を一首の中心にするのは、どう考えても不自然だ、節と自分が主観、客観ということで時時衝突するのは、こういう場合なのだと意見の相違のあり場所をあきらかにした。(p.90)

 

 要するに左千夫は、自然を捨てたわけでもなく、また四十年中の佳作「水籠十首」にみるように、主観による自然の把握という作歌の手法を捨てたわけでもなかったが、その興味はより人間に内在する自然にむかっていたのであり、また方法的には、「八面歌論」に記したように、内なる思いが余って歌になるという理論を確立しようとしてもいたのである。つまりこの時期、左千夫は次第に自然よりは人間に興味を移し、節はいよいよ自然に興味を深めて、子規という同根から出発しながら、二人の歌境は大きく相隔たろうとしていたのだった。(p.148)

 

要するにこの二人、ナルトとサスケ、花道と流川、悟空とベジータなんですよ。この二人がいなかったら、後の斎藤茂吉や、島木赤彦や、土屋文明らもいなかったでしょう。

 

しかしほんと、この『白き瓶』の中での伊藤左千夫の怪人物っぷりはすごいです。めちゃくちゃ俗物で困ったおじさんなのに、不思議と憎みきれないんですよね。完璧にこの小説のもうひとりの主人公です。

 

それはともかく、そういう事実をたしかめながら左千夫の評論や手紙を読んでいるうちに、私はすっかり左千夫というひとの個性のおもしろさにひきつけられ、しまいにはこの稀有な人間味を正確に伝えるためには、小説の形を少々損なっても誤字、脱字まじりの手紙をそのまま引用するしかないと考えるほどに、左千夫に気持ちが傾いて行ったのだった。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

左千夫の人物批評は、辛辣に過ぎて時には毒を帯びるが、不思議に間違わなかった。左千夫の性格の中には、万人がわかっているようなことを理解していない遅鈍なところと、誰もわかっていないものを鋭く看破している機敏なところが同居している。(『白き瓶』p.72)

 

節と同じように読者も、いらいらやきもきしながらも、何とも言えない魅力を伊藤左千夫に感じてしまう。そんなところが藤沢周平の筆によってけっこうはっきり伝わるのが、『白き瓶』の面白いところでしょうか。

 

 

あとは、長塚節の細腕奮闘記として読めるというか。長塚節茨城県のほうの農家の長男なんですが、家がわりと裕福で、村の中ではかなり偉い立場なんですね。

 

しかし、長塚節父親がけっこう破天荒というか、どうしようもない父親で、家業だった質屋経営を勝手にやめてしまって政治家になっちゃうんですね。で、落選して借金がかさんでしまったりしてしまう。

 

父が頼りにならないので、長男として節は家をなんとかしなければならない。そのことがいつも重くのしかかってきます。

 

家にいれば、家のことを考えないわけにはいかなかった。家は、巨大な難破船のように半ば傾いて、いつも節の頭上にうかんだまま絶え間ない圧迫を加えて来る。(p.69)

 

でもなかなか上手くいきません。節もいろいろ考えて炭焼きとか竹林経営とかやるんですが、いずれもそれほど軌道には乗らない。しかも、村の若い衆には疎まれたりとか、結婚は破談になったりとか、挙句の果てに身体を壊して結核にかかってしまいます。そんで、家の建て直しがうまくいかないと、旅好きの節は、すぐ現実逃避で旅に出ちゃいます。

 

私もよく現実逃避で旅に出るタイプなので、ここの気持ちはよくわかります。旅先で急にテンションが上がって絵葉書を送りまくるのとか、共感するなあ、と思いました。

 

そんなこんなで、節の人生はなかなか大変なのですが、そこに文学が絡んでくる。生活を成り立たせながら文学やる。それも、けっこう身につまされます。

 

で、晩年はぼろぼろになりながらも、「鍼のごとく」という傑作連作を作ったりします。

 

傑作残酷時代劇漫画『シグルイ』第9話で、道場の跡取りの座と想い人をライバルに取られちゃった主人公の藤木源之助が、絶望のどん底で神速の抜刀術を開眼するシーンがあるんですが、そんな「剣はまだ藤木源之助を見放していなかった」的な感じのことが、長塚節にも起きたりなんかします。

 

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山口貴由シグルイ』2巻 p.148より)

 

まあそれは、ある意味では長塚節を「物語」に押し込めちゃってるところもあるとは思うんですけど、それでもやっぱりこういうのは燃えますね。

 

 

 あと、読みどころもういっこ。このブログの第38回で永井さんが『近代短歌論争史 明治大正編』を取り上げて、アララギ初期メンの話をしていますが、それが現場ではどんな雰囲気だったのか。それがこの本にはすごくわかりやすく書いてあるんですね。

 

子規没後の根岸短歌会の流れがどうなったかが分かる。明治30年代後半~40年代前半くらいの話です。

 

⓪政治の改革に忙しくて文芸改革まだ(明治ひとケタ年代)

新体詩の登場(明治10年代)

新体詩に影響を受けた様々な試み 落合直文与謝野鉄幹など(明治20年代)

正岡子規歌よみに与ふる書」(明治31年)、鉄幹『明星』創刊(明治33年)

 

何度も出すこの表では、この後、④のところになるでしょうか。

 

④伊藤左千夫らが『アララギ』を創刊(明治41年)

 

子規の死後、彼が唱えた写生論が、その弟子たちによってどのように変わっていくのか。要するに、根岸短歌会がどのように「アララギ」になっていったのか、の話です。

 

以前にもちらっと書きましたが、与謝野鉄幹の「明星」に比べると、明治30年代はじめころでは子規門下の歌人たちは、歌壇の中ではそれほど目立ってはいませんでした。それが、少数精鋭の武闘派集団としてだんだんと有名になっていく過程が、この小説では描かれます。その第一歩が、子規の死後、結社の機関紙を作るところからなんですね。

 

「明星」などにくらべれば、子規の旧門人の集まりは、歌壇全体から見れば微微たる存在でしかなかった。発表の舞台といえば「日本」、日本附録の「週報」、それに森田義郎が編集委員をしている関係で、「心の花」に短歌会の記事を載せているだけで、拠るべき雑誌もない短歌結社など、だれも注目してはくれないのである。「心の花」や「日本」紙上で、左千夫が歌壇のあちこちに噛みついても、それは犬の遠吠えに似た印象しか与えなかった。(p.58)

 

とにかく、結社は自前の機関紙が大事。余談ですが、落合直文の話のときに、直文の作った「浅香社」を「結社の前身みたいなもの」と書きましたが、あれはなんでかというと、浅香社も機関紙がなかったんですね。内輪で歌会やってて時々新聞に載せてもらったりするだけだったので、結社ではない、という意味です。自前の機関紙があれば、対外的にもかなりアピールができます。その点、新詩社の「明星」は見た目もいけてたので、がんがん同人が増えます。

 

左千夫はそれに勝とうと、まず結社誌を作る。しかし、悲しいかな、自身の性質からこれを次々潰していくのです。

 

俳句も子規の死後、わりと「ホトトギス」周辺で揉めて、虚子がディスられたりしてるのですが、左千夫もまあよく周囲と揉める。

 

まずは最初に明治36年に「馬酔木(あしび)」を作るんですが、ここで同じく子規の弟子の森田義郎と喧嘩します。そんで森田が「馬酔木」を脱退し、いろいろあって「馬酔木」がつぶれて、次の「アカネ」という雑誌を作ります。で、その編集を任されていた若い東大学生・三井甲之とも左千夫は揉めて、別で「阿羅々木」を作り、「アカネ」と「阿羅々木」も一緒になくして、最終的に島木赤彦のいた「比牟呂」と合流して、明治41年に「アララギ」を作ります。

 

左千夫は、もう、揉めまくり。森田義郎と揉め、三井甲之と揉め、親友の長塚節とも結局揉め、自分の直弟子の斎藤茂吉・島木赤彦とも揉めます。

 

 左千夫は、一結社をひきいるだけの指導力も洞察力もそなえていたが、周囲にいて自分とは異なりかつ目立つ才能に対して、執拗に自分の主張に従わせるか、それを聞かれない場合には徹底して攻撃するという性癖も合わせ持っていた。家父長的な性格と言ってしまえばそれまでだが、その性格の中に含まれている頑なで偏執的な攻撃性が、古くは森田義郎からはじまり、山田三子、三井甲之、長塚節と、有望な才能がつぎつぎと佐千夫の周辺から去って行く原因をなしたことは疑えなかった。(p.434)

 

ただ、その揉め事のなかでだんだんと、子規の「根岸短歌会」を継ぐとはどういうことなのか、ということが煮詰まっていくんですね。喧嘩や論争を通して、ある意味シンプルだった子規の理論を内部的に練り上げていったのが、「アララギ」という集団と言えます。

 

子規の理論がどう変化していったかの詳しいところは、柴生田稔『短歌写生説の展開』(短歌新聞社、1987)とか読むといいと思いますし、あと他に、このピーナツの第8回大辻隆弘『アララギの脊梁』にも出てきましたが、左千夫を試金石として、それにぶつかっていくことによって、「アララギ」短歌システムは、だんだんと形成されていったのです。

 

  左千夫はそう言い、つづけて「僕の考では、前にも久保田君(堂園注:島木赤彦)の作物及び作歌態度に就て云つたことのある如く、創作理想も批判態度も、先づ意識が先に立つて、かういふ風にやつて見ようとか、かういふ事を歌にしたいとか、かういふ経路になるのが進歩であるとか、情緒的から情操的に移り、感激的から瞑想(めいそう)的になつたとか、総て計らひが先に立つ手、意識的行為に出ることが、僕にはどうしても、殊更に拵へるやうな感じがしてならないのである」と書く。

 左千夫の若い同人たちに対する不満は、ここに露呈している。つまり歌は理屈ではないのに計算ばかりしているという不満である。(中略)

 感情自然の動きの尊重と言い、言語句法の声化と言い、左千夫が言っていることは正論だった。歌はこしらえるものではなく、詩的感情がおのずから胸の中で熟した形で作品が生まれるべきだという言い方は、しかしあくまでも原則論を述べたに過ぎず、新しい文学状況に対する考察を示したものではなく、したがって茂吉以下の若い同人たちの悩みに答えたものでもないという意味では、不親切と言うほかないものだった。(p.429,431)

 

左千夫は「理屈を言うな」「短歌は叫びだ」みたいな感じで若手に怒るんですね。で、それは故なきことではないのだけれど、茂吉とか赤彦とかの若手は、当然それを煙たがる、と。いまでもよく見ますね、こういう光景。

 

ただ、「アララギ」のすごいところは、これを雑誌の論争の中で盛んに行っているところです。だから現代の私たちも、その流れが追える。で、その意見の差異をちゃんとチェックしてくと、「近代短歌」が何を担っていて、どう成立していったのかが分かる、とこういうことになっています。だから面白いんですよね、アララギ。具体的には、さっきも触れましたが、永井さんが取り上げていた篠弘『近代短歌論争史 明治大正編』でどうぞ。

 

しかし、左千夫といい、茂吉といい、なんでこの人たちはこんなに体力あるのか、と思います。「少数精鋭のとんがった同人誌、理論派で研究派で、そして超武闘派。」みたいに永井さんは言ってましたが、こんだけ内部で批判しあってりゃ、そりゃ他のグループとは一線を画していたはずです。その辺の事情がびんびん伝わってきます。

 

だからやっぱりこの本は短歌史の本でもあるんですよ。

 

あと、個人的にアララギってなんかすげえなあ、と思ったのが、左千夫の傑作を、茂吉が読むシーン。

 

時代は大正元年。茂吉は30歳くらい。左千夫は47歳、死の前年です。左千夫と茂吉の喧嘩が極まって、もうどうしようもなくなってるころです。

 

ある時、「アララギ」の編集をしていた茂吉は、左千夫から送られてきた歌稿に次の一首を発見します。

 

今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光   伊藤左千夫

 

この一首を含む連作を読んだ茂吉は、強い衝撃を受けます。

 

 要するにそのころの左千夫は、誰からも相手にされず結社の中で孤立していたのである。(略)「ほろびの光」は、左千夫に対する彼らのふだんのそういう気持や扱いに、一撃を加えるような作品だった。茂吉はじっとしていられないような感動に気持をゆさぶられながら、いそぎ足に市電の停留所の方へ歩いて行った。

――いい歌だ。

 先生は、やはり歌人だと茂吉は思った。歌の中で晩秋の風物と作者の心情は渾然と溶けあって、季節の嘆きを歌い上げていた。その季節の詠嘆が人生の詠嘆でもあるような重厚な作品だった。そのことを先生に言って上げたい、と思ったとき茂吉は突然に眼頭がうるむのを感じた。歌で結ばれた師弟という言葉が胸に溢れて来たのである。(p.453) 

 

 

「やあ、どうした?」

 左千夫は突然に庭に現れた茂吉を見て、碁石をつまんだ手をとめた。桐軒も茂吉を見た。

「『ほろびの光』を読みました。」

 茂吉は窓の外から言った。

「先生、あれは傑作です。僕は感動しました。あの歌は十一月号の話題作になります、きっと」

「そうかね」

「歌の中に何とも言えない悲傷が流れています。すばらしいです。何というか、非常に重厚で……」

「ありがとう。僕も君たちの悪口を言うだけじゃね。自分もちゃんとつくらんと……」

 と言って、左千夫は茂吉を手まねぎした。

「上がらんかね、君。そんなとこに突っ立っていないで。いま、蕨君と賭けをやってるところなんだ」

「………」

「君もやらんか。なに、大したものを賭けてるわけじゃない。負けた方が表へ行って甘い物を買って来るという約束なんだ」

 左千夫がそう言うと、桐軒が声を出して笑った。左千夫も二枚重ねの近眼鏡の奥から、小さな眼を茂吉にむけたままにやにや笑った。左千夫のその顔に、どことなく感じのいやしい、弛緩した表情があらわれているのを茂吉は見た。歌のことを考えている人間の顔ではなかった。茂吉は背筋のあたりに少し寒気に似たものが動き、感激がみるみるさめるのを感じた。茂吉は後じさりした。(p.454,455) 

 

で、こういうのがあった上で、茂吉の第一歌集『赤光』の中のあの名高い連作、伊藤左千夫の死を描いた「悲報来」になるんですね。 

 

ひた走るわが道暗ししんしんと怺(こら)へかねたるわが道くらし  斎藤茂吉「悲報来」『赤光』

 

師匠と弟子の得も言われぬ関係が、このエピソードに象徴されている気がしました。

 

 

私はいちいちチェックはしてないのですが、この『白き瓶』、文庫巻末の解説によると、資料集めまくって、小説内における情報は正確無比だそうです。なので、小説中の会話や、登場人物の気持ちの描写も、単に藤沢周平が想像で描いたものではなく、いちいち手紙や随筆から情報ソースを得ているみたいです。

 

ただ、永井さんが篠さんの『近代短歌論争史 明治大正編』の回の時に「篠さんはこの本で、一つの物語を語ろうとしていないように思います。そのぶんこちら側からいかようにも読み込める。」と書いていますが、『白き瓶』はもろ「物語」なので、そこらへんは注意したほうがいいというか、「真実」と思っちゃうと危ないところもあるのですが、そのへんを踏まえていただければ、かなり読み取りやすい本かと思います。

 

初めにも言ったように、なかなか分厚くて地味な小説ですが、ピーナツ的にはひと粒で何回も美味しい小説なので、読んでみるといいと思いますよ。

 

今回はこのへんで。それでは。

 

第40回 竹内博・編『香山滋全集別巻』

ゴジラの源流に短歌あり    吉田隼人

評論・年譜他 (香山滋全集)
 

 

 こんにちは、吉田隼人です。『シン・ゴジラ』、みなさんは何回観ましたか? 僕は歌舞伎町のTOHOシネマズ新宿で7月29日の日付が変わった直後(28日深夜)におこなわれた「世界最速上映」を含めても、まだ4回しか観ていません。最低でももう一度くらいは劇場で観ておきたいところですね。着ぐるみやミニチュアをほとんど使わない映画になるということで怪獣オタクとしてはいろいろと心配だったのですが、熱線を吐くゴジラの苦しそうな顔が表現されていたのにすっかり感動してしまいました。あの苦しんでいる感じを出すのは着ぐるみでは難しいですから、CGの強みを活かした、新しいゴジラ解釈の誕生と言っていいでしょう。ゴジラという怪獣自体がそもそも核実験の犠牲者として考案されたものですし、口から火を吐くというのはやっぱり生物として異常な状態です。これまで描写されてこなかったその苦しみが見られただけで、もう感激でした。


 今回はそんなゴジラの原作者が、実はもともと歌人だったという話を少し紹介させてください。東宝の怪獣映画は小説家に原作を頼むことが多く、「モスラ」の原作は中村真一郎福永武彦堀田善衛という堀辰雄周辺から出発した純文学作家三人によるリレー小説『発光妖精とモスラ』ですし、「大怪獣バラン」「空の大怪獣ラドン」は怪奇小説で人気のあった黒沼健という作家が原作を書いています。余談ですが、黒沼健の父親・左右田喜一郎は家業の左右田銀行で頭取として働くかたわら、経済哲学の研究者としても東京商大(のちの一橋大学)の教授をつとめ、西田幾多郎との論争のなかで初めて「西田哲学」という言葉を使ったことでも知られています。

 

 閑話休題ゴジラ・シリーズの第一作「ゴジラ」と第二作「ゴジラの逆襲」で原作を担当したのは香山滋(かやま・しげる)という作家です。レイ・ブラッドベリの短篇『霧笛』を原作とするアメリカ映画「原子怪獣現る」にヒントを得て、戦争映画「ハワイ・マレー沖海戦」などで既に有名だった“特撮の神様”円谷英二を起用した怪獣映画のプランが持ち上がったとき、東宝が白羽の矢を立てたのが香山でした。一説には、剛腕プロデューサーとして知られる田中友幸が彼のファンだったからともいわれています。時は昭和29年(1954)、香山滋は50歳。小栗虫太郎の跡を継ぐといわれた冒険小説や、古生物に対する深い造詣を活かした未知の生物が登場する怪奇幻想小説の書き手として、なかなか人気のある流行作家だったようです。

 

 もっとも、このころ既に香山は短歌を作っていません。ここでは香山滋と短歌とのかかわりを、彼の人生を大まかにたどるかたちで見てみましょう。幸いにして香山滋には、怪獣ライター・SF作家として活躍した故・竹内博氏の手でほとんどの作品を網羅的に収録した『香山滋全集』全14巻+別巻1冊が揃っています。版元はあの『現代短歌大系』の三一書房。その別巻には子供向け小説のほかに随筆と短歌、それに詳細な書誌と年譜が収められていますから、これを参考に書いていきます。


 香山滋の本名は山田鉀治(やまだ・こうじ)。明治37年(1904)、いまの東京都新宿区神楽坂に生まれました。祖父、父はともに大蔵省の職員。といってもエリート官僚ではなく一般の職員だったようです。それでも生活水準としてはまず裕福なほうといっていいでしょう。旧制の府立四中(いまの都立戸山高校)から法政大学経済学部に進学しています。中学生のころから古生物学や地質学に興味をもち、大学の講義録などを取り寄せて独学で勉強する一方、当時の文学青年の常として若山牧水などの短歌にも親しんでいたようです。法政大学の予科(いまでいう教養課程)では内田百閒からドイツ語を習っています。彼の学生時代はほぼ大正時代と重なっており、大正デモクラシーの世の中でのびのびと青春の日々を送ったといってよいでしょう。


 大正14年(1925)に大学を中退。祖父や父の跡を継いで大蔵省に入ってからは戦後までごく真面目で平凡な公務員として、預金部に勤めていました。しかし戦後間もない昭和21年(1946)、雑誌『宝石』の探偵小説募集に応募した「オラン・ペンデクの復讐」が江戸川乱歩の目にとまり、山田風太郎らとともに作家デビューを果たします。このとき職場との兼ね合いで本名を使うわけにいかず、つけたペンネームが香山滋です。昭和23年(1948)には第二作「海鰻荘奇談」で第1回探偵作家クラブ新人賞(いまの推理作家協会新人賞)を受賞、大蔵省を退職します。順風満帆で作家活動に入っていったように見えますが、本人も「千円の懸賞金欲しさに投書したまでで、これが作家生活のはじまりになろうとは夢にも思わなかった」(日経新聞、昭和24年1月8日)と書いているように、戦後の混乱期に公務員としての収入だけでは生活が厳しかったため経済的理由から筆を執ったというのが実情のようです。昭和24年(1949)、雑誌『別冊宝石』に発表したエッセイ「「人の世界」を凝視する」で香山はこんなふうに語っています。

 

私には文学の上の経歴は何ひとつない。それでも取り上げて見れば、筏井嘉一先生の門に籍を置いて短歌の勉強をさせていただくようになってから今年で十年――ちかごろはすっかりなまけてしまって同人誌「定型律」にも歌らしい歌も発表することなしにあわただしい日々を過してはいるけれど、私はやはり短歌の道に戻りたいと切なく思いつづけている。
二十有余年の官吏生活から足を洗って、いっきに飛び込んでしまった作家生活も、入って見れば、これほど恐ろしく悩み多い荊棘の道であるとは、思いも寄らなかった。

 

 というわけで、お待たせしました。ようやく香山滋と短歌の話です。『全集』別巻の年譜によって補いながら、彼の歌歴を概観してみましょう。昭和24年時点で「今年で十年」と書いてありますが、実際に短歌の投稿を始めたのは昭和12年(1937)。大蔵省の機関誌『財政』昭和12年8月号に掲載されたものが確認できる限り最も古いものです。なお彼の短歌作品はすべて本名で発表されています。

 

水槽に放てば小さき川蝦のすこし泳ぎて藻にとまりけり

 

 この『財政』に香山は他にも淡水魚の飼育法や熱帯魚についての随筆などを寄せているほか、これ以後に掲載された短歌も含め、魚介類を詠んだ歌が圧倒的に多いです。いまでいうアクアリウム趣味があり、短歌の題材ももっぱらそこから採っていたのでしょう。香山のこうした「生物オタク」的な側面が『ゴジラ』をはじめとする後年の作品に反映されているのは勿論ですが、短歌という詩形――とりわけ写生を主とするそれ――が小動物を観察し、愛でるうえで最適の器だったともいえるかも知れません。『財政』に掲載された歌を以下に5首ほど挙げてみます(なお『香山滋全集』は編集方針で短歌もすべて新字新仮名になっているので引用もそれに準じることとします)。

 

たまさかに鰻かかれば雑魚網(ざこあみ)を児等あまたして覗き合いけり
養魚池の水冷えたれば川鱒のただに寄りいてひそけかりけり
きららかにさやけき色の鰭ふりて瓶胴(びんどう)に透く囮のたなご
身をくねり闘魚の姿勢さだまると見えしすなわち生餌にむかう
陽に透きてあわれ小えびの体内のあからさまなる生命の機構

 

 これをきっかけに香山は本格的に短歌にのめりこんでいきます。前掲の随筆にいう「十年前」すなわち昭和14年(1939)、五島茂の主宰する歌誌『立春』に参加して随筆にも名前の出てきた筏井嘉一(いかだい・かいち)に師事しました。筏井嘉一は北原白秋の門下から出発した歌人で、坪野哲久や前川佐美雄らの「新興短歌連盟」に関係したほか、昭和15年(1940)の合同歌集『新風十人』に参加したことで知られ、塚本邦雄が「春荒寥のいのち――筏井嘉一」(『詩魂紺碧―詩歌の末来』所収)という作家論を書いています。


 その昭和15年、筏井嘉一は『新風十人』参加だけでなく歌集『荒栲(あらたえ)』を刊行するなど、かなり活躍していたようです。塚本が作家論の題に引いている代表歌「夢さめてさめたる夢は恋はねども春荒寥(こうりょう)とわがいのちあり」もこの歌集に収められています。そんな上り調子の筏井嘉一は『立春』を離れ、彼を慕う歌人たちも付き添って『蒼生』が創刊されました(現在の誌名は『創生』)。香山滋も『蒼生』に移り、戦争末期の昭和19年(1944)の休刊まで毎号出詠しています。その後、終戦をうけて昭和20年(1945)にふたたび筏井嘉一を主宰とする歌誌『定型律』が立ちあげられますが、ここにも香山は参加。しかし前述のように昭和21年に「オラン・ペンデクの復讐」で作家デビューしてからは、しばらく大蔵省職員との二足のわらじを履いていたこともあり(このころ同じく大蔵省勤務の作家だった三島由紀夫とも交流があったようです)多忙のためほぼ短歌を発表することはなくなってしまいます。昭和22年以降は年に一度、10首程度の発表にとどまり、昭和24年を最後に『定型律』に作品は掲載されていません。歌人としての香山の活動は実質的に昭和15年から21年まで、ほぼ戦中戦後と一致するといってよいでしょう。


 香山はデビュー当時すでに42歳と遅咲きだったこともあり、小説家としての活動も基本的には昭和20年代に集中しており、その後『ゴジラ』(昭和29年)『ゴジラの逆襲』(昭和30年)のヒットをうけて昭和30年代前半に少年向け雑誌への執筆が増えたものの、ブームが落ち着いた昭和30年代中盤以降は作品発表が激減、昭和50年(1975)に70歳で没するまでの十数年は作家としてはほぼ引退といっていい状態になります。しかし作家としての活動をほぼ絶っていた昭和41年(1966)になって、かつて「私はやはり短歌の道に戻りたいと切なく思いつづけている」と書いたように、香山はかつて発表した短歌作品を改稿して一冊のノートに筆記した私家版歌集『十年』をひそかにまとめていました。この歌集からの抜粋は昭和54年(1979)の『昭和萬葉集』(講談社)にも収められていますが、雑誌初出も含めて完全なかたちで読めるのは今のところ『全集』別巻だけです。


 歌集『十年』を読んでみてまず目につくのは、昭和13年から20年まで、ほぼ戦時中の作品が集められているにもかかわらず、戦争詠が少ないということです。これは私家版歌集にまとめるとき削ったというわけでもないようで、「補遺」として収録されている雑誌初出を通して見てもやはり戦争詠の割合はひどく少ないことがわかります。香山は大正デモクラシー軍縮の時期に徴兵年齢を迎えたのに加え、大蔵省に勤務していたこともあり、兵士として召集されることはありませんでした。戦後になって秘境を舞台にした冒険小説を立てつづけに発表したため、戦中は南洋の植民地にいたものと誤解されることが多かったようで、実際はずっと国内にとどまっていたのだと弁明するような文章も発表しています(「南への憧れ」『別冊宝石』昭和25年6月号)。そうした背景もあって、ただでさえ少ない香山の戦争詠はどれも型通りのものばかりで目立ったものはありません。凡庸な写生の歌が並ぶなかで目をひくのはやはり、香山の「生物オタク」としての側面を反映したような歌が多いようです。

 

厨辺(くりやべ)の月夜あかりはさびしきか親子守宮(やもり)の寄り添いており
はつはつにいのち保ちて冬を越す爬虫(はむし)の習性(ならい)うべないており
街中(まちなか)の店に飼われて山椒魚(はんざき)の呼吸(いき)ととのわず病みてやあらむ
軒端よりいく歩もあらぬ庭ながら蟇(ひき)のよこぎる道はありけり
汲み溜めしにごれる鹹(しお)の水に倦む海亀(かめ)うごかすと人の触(さ)やるも
安らわむ藻かげなき身は晒されてたつのおとしご日ねもす泳ぐ

 

 ヤモリ、越冬する爬虫類、サンショウウオヒキガエル、ウミガメ、タツノオトシゴなど、マニアックな動物ばかりが歌の題材に採られています。後年の香山が引用しているところによると、昭和17年(1942)の時点ですでに『蒼生』同人の沢津正彌が彼の短歌について「草木虫魚禽獣等に対する氏の性癖や深い愛情は甚だ注意せられる」と指摘しており、小説家としてデビューする前から既にその趣味ははっきりあらわれていたようです。これら動物を詠んだ作品にはとりわけ愛着があったらしく、ちょうど私家版歌集『十年』をまとめていた昭和40年(1965)から翌41年(1966)にかけて推理作家協会の会報に連載した随筆「私の博物誌」にも一首目、三首目、四首目、六首目が引かれています(ただし四首目のみ「蟇」が「とかげ」に改作されている)。

 

 歌集『十年』にはもっと身近な動物、蛾や魚なども多く登場しますが、共通しているのは異形の生き物に対する作者のやさしいまなざしです。もっと言えば、ここで香山は異形のものに共感し、かれらの穏やかな生活をおびやかし、ときに排除さえする人間たちへの嫌悪感を表明しているということになるでしょうか。

 

 サンショウウオを見世物にし、水族館のウミガメにちょっかいをかけ、タツノオトシゴの水槽に藻を入れてやらない。そうした身勝手な人々への批判的な視線は『ゴジラ』原作にまで受け継がれていきました。香山の筆になる「ゴジラ」には映画公開に合わせて発売されたノベライズ小説『怪獣ゴジラ』や少年向けに書き改められた『ゴジラ東京にあらわる』など複数のバージョンがありますが、直接に映画の原作となったものは『G作品検討用台本』と呼ばれています(全集以外にもちくま文庫ゴジラ』などで読めます)。映画「ゴジラ」で志村喬が演じた古生物学者の山根恭平博士は、水爆実験に遭ってもなお生き延びたその生命力を研究するためゴジラを殺すことに反対しますが、これが『G作品検討用台本』だともっと過激です。作者・香山滋の分身ともいうべき山根博士は、ゴジラを高圧電流に感電させる作戦を中止させるため、黒マントに身を包み、狂人のような顔をして「わしは絶対にゴジラを殺させはせんぞ」と発電所に侵入しようとして取り押さえられてしまいます。その後もゴジラが高圧電流でも死ななかったと知ると、うわごとのように「ゴジラが助かった」と騒ぐなど、とにかくゴジラへの肩入れがものすごい。ことによると、人間よりも怪獣のほうに作者が感情移入しているといってもいいほどです。映画第二作「ゴジラの逆襲」公開後、香山は「ぼく自身でさえ可愛くなりかけてきたものを、これでもか、これでもかと、奇妙な化学薬品で溶かしたり、なだれ責めにさせたり、今もって寝醒めはよろしくない」「だからぼくは『ゴジラの逆襲』を最後に、たとえどんなに映画会社から頼まれても、続編は絶対に書くまい、と固く決心している」(「『ゴジラ』ざんげ」『机』昭和30年12月号)とまで言っています。ひょっとすると今回の「シン・ゴジラ」でゴジラが死ではなく薬品によって“凍結”させられ、最後に人類との共存が示唆されているのも、『ゴジラの逆襲』でゴジラを殺すのがしのびなく「氷山を爆撃することで人工的になだれを起こして氷漬けにして眠らせる」という解決策を選んだ香山滋の精神が継承されているからかも知れません。

 

 ここまで引いた歌からもわかるように、香山滋の短歌は小動物を題材に採ることが多いという特徴こそあれ、技法の面ではごく平凡な写生による作品がほとんどを占めています。これは彼が師事した時期が、師の筏井嘉一がモダニズムの影響や浪漫的な作風から徐々に離れていった時期と重なっているためと思われますが、それでも架空の生物が所せましと暴れまわる後年の小説作品にも通じる、荒唐無稽な発想から生まれた歌もないわけではありません。

 

有尾人つどいてわめく洞窟に酋長われも尾を持ちて悲し
新月なすマンモス象の牙の反り滅びしものは美しきかな
月ふたつ空にかかれり今宵われ酔いしれりとは思われなくに
かわやつめ脛(はぎ)にとりつき血を吸うと夢みしゆうべ熱すこしあり
光りつつ青きとかげの過りけりげんげたんぼの畔の日ざかり
      
 香山は後年になって日本爬虫類両生類学会に参加したりしているので学術的な知識を蓄えるつもりもないわけではなかったはずなのですが、文献や論文がまだ完備されておらず正確な知識にアクセスすることの困難な時代が長かったこともあり、今でいうUMAのような怪しげな未確認生物を取り上げて、想像力をたくましくして小説に仕立て上げることも多々ありました。デビュー作「オラン・ペンデクの復讐」に登場する、スマトラの奥地に棲む矮小人類オラン・ペンデクなどはこの部類です。他にも「有翼人」などホモ・サピエンスとは別の進化を遂げた異形の人類が登場する小説は多いのですが、「有尾人……」の歌は昭和14年の作品ですから、この方面への香山の関心は筋金入りといっていいでしょう。二首目に登場するマンモスは、ゴジラのヒットをうけて立てつづけに書かれた少年向け怪獣小説のうちのひとつ「マンモジーラ」(昭和29年)のモデルになっています。


 三首目は昭和24年(1949)に発表された怪奇小説「月ぞ悪魔」の冒頭に出てくる歌です。まだ二十代の「私」が短歌同人誌の百号記念祝賀会の席で座興に披露したこの即詠(今でも歌人が集まるとこういうことをよくやりますね)に一人だけ、七十歳に近い老人がただならぬ反応を示します。かつて見世物専門の興行師として世界中を飛び回っていたこの老人・朝倉泰蔵が「私」に、かつてコンスタンチノープルでふたつの月が昇るのを見てしまった夜、怪しげな老婆から「次にふたつの月が昇る夜まで」預かってほしいと頼まれた美しいペルシャ女をめぐる数奇な体験を語って聞かせる、というのがこの小説の骨子。短歌や歌会はあくまで奇々怪々なおどろおどろしい物語を導くための、いわば話の枕に過ぎないといえばそれまでですが、香山の小説の多くがこの「月ぞ悪魔」と同様の、登場人物が切々と自分の体験を語るという形式で書かれていることに注意しておいてもいいでしょう。一人称で畳みかけるような会話体の「口説き」で物語ることを彼が得意とした背景には、戦中戦後にかけて“私性の文学”としての短歌を作っていたことが関係しているのかも知れません。

 

 四首目の「かわやつめ」は淡水に棲息するヤツメウナギのこと。香山滋出世作となった小説「海鰻荘奇談」(昭和22年)にはこのヤツメウナギと同じ円口類に属し、普通の生物なら生きることのできない深海にひそんでいた架空の電気ウナギ「ハイドラーナ・エレクトリス」が登場します。「あたかも恐竜が侏羅(ジュラ)の世紀に跳梁したごとく、海底の暴君として君臨し栄えたであろう」というこの怪物を創造した香山滋だったからこそ、古代の恐竜が水爆実験でよみがえる『ゴジラ』の原作を依頼されたといえましょう。しかしこの電気ウナギはゴジラと比べてずいぶん陰惨な怪物で、作中では獲物の美男美女を感電させた隙に膣や肛門からその体内に忍びこみ、内臓をことごとく食い荒らしてしまうグロテスクな生物として完全犯罪の“凶器”に使われています。ふくらはぎに取りついて血を吸うヤツメウナギの姿のみならず、その光景を夢想して恍惚とする「私」の姿まで詠みこんだこの歌は昭和13年(1938)の作ですが、雑誌などには発表されなかったようで、私家版歌集『十年』が初出です。この種の淫靡でグロテスクな嗜好は選者から嫌われたのでしょうか。

 

 最後の一首は連載随筆「私の博物誌」のうち「とかげ」を取り上げた回に引かれていた自作です。ここで香山は「蜥蜴の島」「蜥蜴夫人」といった自分の小説を挙げて、「なぜあんな気味の悪いものがお好きなのですか」という問いに答えるかたちでこう書いています。

 

 地球上にわれらの祖先人類が誕生したころには、もうあのゴジラ的怪竜(サウルス)は姿を消してしまっていた。そしておそらく、三つ目のムカシトカゲや、樹間を飛ぶドラコや、おとぼけ顔のカメレオンなどと退屈凌ぎに遊び戯れたことであろう。原始へのノスタルジアが、私をトカゲ類に引き寄せずにはおかない。

 

 この先にも香山は「ウガンダの七色のアガマや、ガラパゴスの夕焼のように赤いイグアナや、ベネズエラの緑のペンキに浸けたようなアノリス」……と好みのトカゲを列挙してやみません。小説「蜥蜴の島」(昭和23年)はそのガラパゴス諸島に棲息するウミイグアナを題材に、レズビアンの探検家が爬虫類研究のため訪れた絶海の孤島で、飛行機事故からただひとり生き残ってイグアナたちに育てられた少女と恋に落ちるという物語でした。この「蜥蜴の島」といい「蜥蜴夫人」といい、香山のなかでトカゲという生物には常に愛する女性のおもかげが重ねられているといえます。そしてそれは山根博士というキャラクターに託された、巨大なトカゲとしてのゴジラへの愛情にまでつながっていることでしょう。そういえば「シン・ゴジラ」に登場するゴジラにも、物語のキーパーソンである牧五郎元教授の妻のおもかげが重ねられているのでした。


 1997年刊行の全集別巻の解題に「歌人としての香山が今後どのように評価されてゆくか、静かに見守りたい」と編者の竹内博が書き付けてから早20年、香山の作品は短歌どころか小説すら新刊書店ではほぼ手に入らないという状況です。それでも小説は一部の稀覯本を除けば、特に1960年代以降の幻想回帰ブームに乗って文庫などのかたちで様々な出版社から刊行された選集類などは比較的安い値段でネット古書店などに売りに出ていますし、ネットで検索すればミステリやSF、幻想文学のファンによる紹介記事を読むこともできますが、こと彼の短歌への言及はほとんど見付かりません。この記事が「シン・ゴジラ」でゴジラや怪獣に興味をもったような人たちにとって、香山滋という異色の作家と、その作品のなかでもほとんど顧みられることのない彼の短歌に出逢うきっかけになればいいなあ、と思います。

 

吉田隼人:1989年福島県生まれ。早稲田大学大学院在学中。角川短歌賞、現代歌人協会賞ほか受賞。歌集『忘却のための試論』(書肆侃侃房)。

第39回 吉井勇『東京・京都・大阪』

芸と酔態と 土岐友浩

東京・京都・大阪 (平凡社ライブラリー)

東京・京都・大阪 (平凡社ライブラリー)

 

 

まぼろしは見るものではなく、見せるものだ。
短歌こそ、イリュージョンなのだ。

 

 *

 

吉井勇に「黒足袋」というごく短い随筆がある。京都に居を移してからも、落語家の履くような黒い足袋に勇は愛着を抱いているのだが、白い足袋を履くことが多い京都人からは野暮に見られてしまう、という。

結局黒足袋の持つてゐる庶民的な市井趣味が、私自身の好みや柄に合つてゐるのであつて、白足袋から感じられる貴族的な茶人趣味からは、かなり縁遠い存在らしい。 吉井勇「黒足袋」)

 

勇は「祇園歌人」とも呼ばれたが、どちらかと言えば市井の人だったことを、この黒足袋というアイテムが端的に伝えてくれる。

 

吉井勇は「市井」をこよなく愛した。

今回取り上げる『東京・京都・大阪』の前書きによれば、勇は「中学の三年頃から寄席や芝居通いをはじめ、(中略)樽に腰懸けてのんで一升、市井に於ける酒の味を解した。」そうだ。

 

『東京・京都・大阪』は現在書店で手に入れることができる、おそらく唯一の吉井勇の散文集である。

刊行は1954年。勇は68歳で、その6年後に病没している。

三都を舞台として、ありし日の交遊をつれづれと書き綴った、勇自身の言葉を借りれば「市井読本」という趣の一冊だ。森鷗外や近松秋江谷崎潤一郎といった同時代の文学者だけではなく、俳人や詩人、画家、舞台役者など本当にたくさんの人が登場する。僕が知らないだけかもしれないが、今ではほとんど顧みられない人も多いのだろう。

特に僕が好きなのは、勇が落語家について書いた文章だ。三代目蝶花楼馬楽や初代柳屋小せんなど、その噺を聞いたことはもちろんないはずなのに、彼らの声が聞こえてくるような気がする。

 

吉井勇というと「祇園歌人」のイメージが強いから、なんとなく京都人と思われているかもしれないが、生まれ育ちは東京山の手である。

短歌を本格的に始めたのは、中学校卒業後、鎌倉で肋膜炎の療養生活をしていたときだ。「明星」に心酔して与謝野鉄幹に師事し、新詩社の例会で、高村光太郎、木下杢太郎(もくたろう)北原白秋石川啄木らと知り合った。

歌人としての経歴では「明星」や「スバル」が重要だが、勇らしいという意味では、新詩社の有志と立ち上げた「パンの会」を外すわけにはいかないだろう。

「パンの会」とは、以下の引用に詳しく書かれているように、ヨーロッパのサロンにならって若い芸術家が集まり、語らった、言ってしまえば飲み会のことである。

 さて話を再び「柳橋界隈」に戻すことにするが、「第一やまと」と云ったところで、その当時の人達にさえ分らないような家だから、現今の人達には猶更分らないであろう。そこは両国橋の近く、広小路と称するところにあった牛鍋屋であつて、西洋館まがいの三階建の建物の窓からは、大川の流れが見渡され、飛んでいる鷗の影も、はつきり視野に入つて来た。

 そこで第一回の会合を開いた「パンの会」は、伯林に於て詩人美術家の一団が、新しい運動をしたものと同じ名前のものであつて、「パン」というのは希臘神話の中にある牧羊神のことで、ヘルメスとニュンフェの間に出来た子だと称せられ、顔は山羊に似て額に角があり、鉤鼻で髯が長く、山羊の足を持った半獣神だといわれている。

 これに因んで「パンの会」と名付けたのは、この神が現われると、突然の恐怖が現れると云い伝えられているためであつて、当時みんなは自由主義に目覚めた革命児であり、その力に依つて何が起るか分らないといったような意味も含まれていたのだろうと思う。いずれにしても、そこに集まった人達は、封建制を打破し、新しい異国情調的な文学を打ち建てようと念願したものばかりであつて、多少急進的な傾向のあったことは否まれない。 (「第一やまと」)

 

「パンの会」開催中は、店の入口に目印として、牧羊神の絵を描いた大きな提灯が下げられていた。だから、というわけでもないが、宴の最中に刑事がやってきて、社会主義者の会か何かと疑われたこともあったそうだ。

吉井勇というと「祇園歌人」以外に「ロマン」「デカダン」、そんなフレーズがついてくるけれど、それはこのあたりの雰囲気から来ているのだろう。

   両国の橋のたもとの三階の窓より牧羊神(ぱん)の躍り出づる日

 これはその「第一やまと」で開催された、明治四十一年十二月十二日の第一回「パンの会」の時の幻想をうたつた私の歌であるが、最初の会合の時に集つたのは、文学者としては木下杢太郎、北原白秋と私、美術家としては石井柏亭(はくてい)山本鼎(かなえ)森田恒友、それに木版彫刻の伊上(いがみ)凡骨(ぼんこつ)、写真製版の田中松太郎、そのほか異色あるものとしては、凡骨の弟子である独逸人のフリッツ・ルムプであつて、その時は別に文学や美術を談ずるというのでもなく、唯酒を飲んで気勢を揚げ、凡骨は得意の都々逸をうたい、ルムプは独逸語で伯林の駅の物売りの真似などをした。 (同)

 

勇の第一歌集『酒ほがひ』は、装丁が高村光太郎、口絵は木下杢太郎で、その木版を伊上凡骨が制作している。「酒ほがひ」とは「酒で祝う、寿ぐ」の意味で、この歌集は文字通り「パンの会」によってつくられ、「パンの会」を称えたものだった。

 

伊上凡骨というのは特に強烈な人物だったようで、本書でもいろいろと書かれているけれど、酔って歌い出すということなら、歌人も負けてはいなかった。

明治の終わりから大正にかけて、斎藤茂吉、島木赤彦、古泉千樫、北原白秋若山牧水太田水穂、中村憲吉など歌壇の第一人者たちが定期的に集まる、その名も「歌人会」というそのまますぎるネーミングの会があった。

勇は会の様子を、こう振り返っている。

 ここに集つた歌人達の中で酒を飲むのは、白秋、牧水、憲吉、千樫などで、みんなまだ三十代の血気盛んの時分だつたから、その飲み振りも凄まじかつた。その酔態もそれぞれに個性があつて、牧水が落ち着いて目をつぶり、澄み通つた美音で短歌朗詠をやると、白秋はトンカジョンらしい無邪気な顔付で、「空に真つ赤な雲のいろ、前に真つ赤な酒のいろ」と、自作の詩をうたい出すといつたような有様。酔うと憲吉は、よく舌をぺろぺろ出したが、これは茂吉にも共通した癖であつて、アララギぶりの酔態だつたのであろう。酒癖のあまりよくなかつたのは千樫で、酔つて来るとだんだん顔が青ざめて来て、何かにつけてからんで来るようなことがあつた。 (「歌人会」)

 

以前のピーナツでも酔うと短歌朗詠を始める牧水の話が出てきたが、白秋も似たようなタイプだったようだ。

引き合いに出すことに特に他意はないけれど、このあたりのカオスな感じは、『短歌という爆弾』に書かれていた「かばん」の青空朗読コンサートにも少し通じるものがあると思う。

 酔うと舌を出すのを、アララギぶりの酔態と云つたが、私がそれをはつきり感じたのは、大正九年五月頃、長崎に往つて斎藤茂吉君と会つた時で、その時私は銅座町の永見夏汀君の家に十日近くも滞在していて、そのあたりの社寺や旧蹟などを見て歩いた。その時分茂吉君は、病中であつたにも拘らず、大抵毎日私と行いを共にしてくれたが、茂吉君の歌集に名前の出て来る武藤長蔵君も、時々やつて来ては一緒にそこらを歩き廻つてくれた。武藤氏は書痴と云つてもいい位書物好きで、いつも四五冊の本を大事そうに小脇にかかえていて、何かというと直ぐに書誌学的な話になつた。その間に茂吉君とは丸山の花月南京町四海楼などで酒を飲んだが、酔うと舌を出すことだけは、七八年前「歌人会」で会つた時と少しも変つていなかつた。花月に往つた時も、「ここには時々学生がやつて来るので、廊下でぶつかりして困るようなことがあるんだよ」と云つて笑つたが、直ぐにその後ではアララギぶりを忘れずに舌を出した。

 私にはこの長崎行の際にうたつたこんな歌がある。

  長崎の茂吉はうれし酒飲みてしばしば舌を吐きにけるかも

歌人会」に出席した人達も、もう大方はこの世を去つてしまい、水穂君のほかは私ぐらいのものになつてしまつた。 (同)

 

茂吉と勇は、意外と通じ合うものがあったようだ。

アララギというと、ちょうど前回永井さんが取り上げていたように、当時から議論好きの「ヤバそうな」集団だったのかもしれないが、あたかも勇の眼には、そんなことは関係なく、舌をぺろぺろ出すばかりの愉快な飲み友達と映っていたかのように思えて、おかしい。

 

「写生」といい、「私性」という。

だが、自然詠であれ境涯詠であれ、少なくとも読者にとって、歌の向こうに見えているものは、すべてまぼろしのはずではないか。


 春の夜の祇園の街の灯を見てはわかうどの胸躍らざらめや  吉井勇

 ああ銀座こころ浮かれて歩みしもいつか昨日となりにけるかな

 

短歌の話をするつもりが、お酒の話ばかりになってしまったけれど、吉井勇の生涯と酒とは、やはり切り離すことはできない。

そもそも、勇にとって酒とは何だったのだろうか。

 

勇は、人生のよろこびを謳歌するために飲んだ。

あるいは勇は、人生のかなしみから逃避するために飲んだ。

 

どちらの見方も、まったく正しい。勇自身、実際にそのような歌をたくさん詠んでいる。

そこにひとつだけ付け加えるとすれば、勇にとってお酒を飲むというのは、どこまでも能動的で、制作的な意思に貫かれた行為だったということだ。

逆説的なようだが、だからこそ勇は、酒で身をほろぼすというような生き方とは無縁だった。

 

塚本邦雄はかつて「短歌といふ定型短詩に、幻を視る以外の何の使命があらう」と述べたが、塚本が見ていたのはまぼろしではなく、現実のネガ・フィルムだったという気がしてならない。

かの日の両国橋に牧羊神が降り立ったように、前衛短歌とは違う方法でまぼろしを現出させようとした歌人として吉井勇を考えたいと、僕は思っている。


  *

 

今回が今年最後の更新です。

4月に始まった「短歌のピーナツ」、みなさまからの応援に支えられながら、なんとか週1回ペースの更新を欠かさずに続けることができました。

僕が代表というわけでもなんでもありませんが、年末の挨拶に代えつつ、この場をお借りして、読んでくださった方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

来年がみなさまにとってよい年でありますよう、お祈りします。

第38回 篠弘『近代短歌論争史 明治大正編』

永井祐

こんにちは。

今日やるのは、

『近代短歌論争史 明治大正編』(篠弘)です。

 

近代短歌論争史〈明治大正編〉 (1976年)

近代短歌論争史〈明治大正編〉 (1976年)

 

 

この本はまあ、、

ちょっと専門書っぽい本なんですけれど、

一種のデータベースみたいにして使えるというか、

はじめから終わりまで通読するのではなくて、気になる項目のところだけ読む

という使い方をわたしはしてます。

ほんとうに平たく言うと、まとめサイトみたいなものです。

篠弘さんという生ける伝説のまとめ職人による、まとめ集です。

 

「論争史」という形をとってますが、それはなんというか、

文学史の1ジャンルとして今回は論争史をやってみた、ということではなくて、

近代短歌史を記述するうえで、もっとも適した形として「論争史」というスタイルを

選んでいる。少なくともそういうニュアンスを感じます。

これはけっこう、短歌というジャンルのローカルな事情によるのかもしれませんが、

歌人たちは常にディスカッションし続けていて、その文脈の中から歌論とかも出て

くるので、そのディスカッションの経緯を押さえてないと、そのテキストの意味が

わかりづらかったりするんですよね。

 

現在の短歌でも論争っぽいことが持ち上がったりしますが、それは昔からずっとやってるんですね。

その明治大正版のまとめ集がこの本です。

 

それで僕の場合は、

この本を読んでぐっとよくわかったのが「アララギ」についてですね。

アララギについては、ぐぐってもらうといいと思うんですけど、

近代以降の短歌史の最重要グループの一つで、当然のように現在までその影響は

残っています。

このピーナツでも話題としてはよく出てきますよね。

でも、その源流である正岡子規の歌論を読んでも、

代表作家である斎藤茂吉の短歌を読んでも、

それぞれはそれぞれに面白いんですけど、「アララギってなに?」っていうのは意外とわからないんですよ。

具体的に言うと、子規の歌論から茂吉の実作までに非常に大きなジャンプがあるんです。

この本はその間を埋める時代、明治四十年代からはじまります。

正岡子規は死んでいて、伊藤左千夫がトップで、斎藤茂吉や島木赤彦などの後のビッグネームが二十代から三十代前半、その先輩格で長塚節がいる、みたいな布陣。

この本の

若山牧水と伊藤左千夫の『別離』論争」

「伊藤左千夫と斎藤茂吉・島木赤彦の内部論争」

長塚節斎藤茂吉・古泉千樫の乱調論議」

などは、

この時代、伊藤左千夫時代の初期アララギのドキュメンタリーみたいに読めます。

この時代のアララギってすっごくかっこいいんですよ。

少数精鋭のとんがった同人誌、理論派で研究派で、そして超武闘派。

みなから恐れられている。

ふだんからつるんでるのに飲み会でも固まって座り、近づきがたいオーラを放っている、みたいな。(イメージです)

後に大きくなるグループって、ジャンルを問わず初期はだいたいこういう感じだと思うのですが、この本を読んでいると若くて才能ある人たちがつるみながらぐつぐつと文体を作っていくありさまが、生き生きと、それこそそれぞれの歌論を読んでいるよりも体感できるような気がします。僕の場合はなんかそうでした。

 

では、具体的に引用しながら進めるのがこのブログの特徴みたいになっているので、やっていきましょう。

仕事が繁忙期でちょっと忙しい感があるのですが、昨日はなんだかんだ「逃げ恥」の最終回もフリースタイルダンジョンもみたし、時間はあるはずです。

はじめの「若山牧水と伊藤左千夫の『別離』論争」だけちょっとやってみましょう。

 

 

若山牧水の第三歌集『別離』は明治43年に出ました。

自費出版だった第一、第二歌集に新作133首を加えて編集された上下二巻組で、初期の代表歌が全部入ってる、メジャーデビューにして牧水決定版となる歌集でした。

そしてこれはたいそううけた。

短歌界を席巻してしまったので、このころは牧水夕暮時代と呼ばれたりするそうです。

学生たちは風呂屋の帰り道で牧水の歌を口ずさみ、お酒を飲んでは朗詠しました。

 

そして、そこにかみついた人たちがいました。アララギです。

しかもそのかみつき方がほかと一線を画していた。

それまでの牧水に対する批判は、たとえばこんな感じでした。

 

で、若山君の芸術は、どうかすると余りに至酵に過ぐるの傾があつた。どうにかすると殊更に醜を避けんとする癖があつた。自分は思ふ。も少し突破した態度でも少し醜い方面をも歌つて欲しい。歌ふべき対照をも少しく選択し過ぎはしまいかと思はれる、が、それは余りに豊満な要素かもしれぬ。(前田夕暮「『別離』を読む」)

 

こんな感じの、歌集全体に対するふわっとした不満の表明はあったそうです。

しかし、アララギは自分たちの誌上を使い、『別離』から六首だけを取り上げ、主要同人たちでそれを一首一首精査する、合評の形式を取ったのでした。

そこであがったのはこんな歌です。

 

風凪ぎぬ松と落葉の木の叢のなかなるわが家いざ君よ寝む  若山牧水

 

初句と四句で二回切れてる歌ですよね。

風が凪いだ。木々のなかにあるわたしたちの家。さあ寝よう。

ということですよね。

 

伊藤左千夫はこの歌にはなから否定的でした。

これは、万葉集の東歌、

 

麻苧(あさを)らを 麻笥(をけ)に多(ふすさ)に 績(う)まずとも 明日着せさめや いざせ小床(をどこ)に

 

を思わせることを指摘した上で、

「言語配布が散漫」であり、「情緒が一貫していない」としています。

わかるようなわからんようなですけど、たぶん、牧水の歌の大ざっぱさみたいなことが言いたいのだと思います。

思ひつきは新しくとも、活きた情緒の動きが三十一文字の全語に行渡つて居ねば生命のある歌でない。

 

左千夫は具体的に、「落葉の木の叢のなかなる」が弛緩した表現であると言っています。

これはわたしでもちょっとわかる気がします。リズムのノリだけで乗り切ってる感が

あるというか。「叢」はこの場合は「むら」と読むのでしょう。「木叢(こむら)」で木が茂っているところ、という意味になります。

 

斎藤茂吉はこの歌に対して「発想が『拵物』である」として、

 

元来<いざ君よ寝む>といふ如き心持に起り来る第一位の動きは松だの落葉だのといふ下らぬ事であらうか内省して見るがよい。

 

と言っています。

言いぶりが激しいですが、どういう意味かというと、「いざ君よ寝む」というのは、「Let`s make love」ということですから、その心理的な段取りとして「松だの落葉だの」はおかしいでしょ、と言っています。俺は認めない的な。

これはたいへん茂吉っぽい批判だと思います。ちょっと難癖でもあると思うんですが、歌会などやると、こういう率直な人がいるほうが面白いですね。

 

島木赤彦は、この歌は「不自然な構成」であるとし、

 

<松と落葉の木の叢のなかなる吾が家>は外から我家を見た所でなくてはならぬ。所が第五句に突然<いざ君よ寝む>となると何だか家の内の事に思はれる。<いざ入りて寝ん>などあれば外部から見た感じとは合つてゐる。或は二三四句は矢張家の内に居て自分の家を斯く意識してゐるかも知れぬが夫れでは<松と落葉の木の叢の中なる>といふ詞は説明的になつてしまふ。一体<いざ君よ>など相対的に云つて居乍ら相対的な情が全体に沁み出て居らぬから結局相対的に<君よ>など云つてる功が無くなつて無駄な詞になつてしまふ。

 

と言っています。

これは視点の固定ができてない、という話ですね。どの位置から見てるのかわからんし、最後の「いざ君よ」は唐突過ぎて浮いている、と。

 

アララギの人たちはこういう風に一首一首について細かい批判を、17ページにわたってわーっと加えていきました。

牧水はかなりびびったみたいです。

自作について、

「いかにも句と句とがばらばらになつて、そして大きな点をぼつぼつと落して一貫して調和を保つという様なことにもならずに、極めて貧弱な細い線で斯の大きな題材を描き上げやうとした様な拙劣な矛盾を平気でやつて居る、今思えば誠に汗顔の至りである」

 

とまで言っています。

牧水は「議論下手」を自認するお人好しキャラだったそうで、それがよく出ているコメントでもありますが。

それでも牧水は精細な批評を受けてすごく喜んでいたそうです。これはたぶん今にも通じる実作者の心理で、細かく読まれるのって、それ自体がけっこううれしいことなのだろうと思います。

 

アララギの『別離』批評特集はかなりのインパクトがあったみたいです。

篠さんは書いています。

なるほど、『アララギ』のようなスタイルの『別離』批評は見あたらない。空穂・柴舟・夕暮・緑葉らのいずれも、作品内容面のいわば情趣についての検討であり、分析的、科学的ではなかった。

 

当時の文芸誌などでも

短歌研究欄で、根岸短歌会同人(アララギのこと)が若山牧水の短歌を研究的に合評してゐる。内容についても、外形についても忠実な分析を加えてあるので、それぞれ面白く読まれた。併し、ただ一つ此の派の人々は、細かくこれを解剖しての研究のみに走つて、却つて一首全体から来る情緒を閑却してはゐなからうかと思はれる点がある。牧水の歌には確に技巧上の欠点はあるが、それを補つてなほ余りある情緒の横溢してゐるのも事実である。其処を見ないのは嘘だと思ふ。(『文章世界』「雑誌合評」)

 

こんな批判まで出てきました。

先に見たアララギの批評スタイルは、今ではがっつり短歌やってる人と歌会などやれば、似たような評言は出てくるようなものかもしれません。

でも、当時にあっては、

アララギはヤバい。

なんか研究してるらしい。

なんか理論的らしい。

なんか哲学があるらしい。

短歌って、ふんわりしたノリで書いちゃいけないのかも・・・

みたいなビビりを人々に与えてたみたいなんですよね。

篠さんのこの本を読んでいると、もちろんこんな言葉ではないですが、そういう空気をなんとなく感じます。

この「歌の言葉の一語一語を問題にする分析的な短歌観」みたいなものって、アララギってなに? というときにけっこう本質的なところであるように、この本を読んでわたしは思えたのでした。

 

一方、アララギの若手層にはむしろ牧水の歌がよい刺激になったのでは、という見方も篠さんはしています。

こののち、伊藤左千夫と茂吉・赤彦が反目し合うようになる顛末が

六章「伊藤左千夫と斎藤茂吉・島木赤彦の内部論争」

論争まとめは全部で三十五本も入っています。

篠さんはこの本で、一つの物語を語ろうとしていないように思います。そのぶんこちら側からいかようにも読み込める。そして資料の引用は山盛り。それがこの本の魅力です。

第37回 岡井隆『現代短歌入門』

 60年代論争史 阿波野巧也

現代短歌入門 (講談社学術文庫)

現代短歌入門 (講談社学術文庫)

 

 

こんにちは。阿波野巧也です。

去る11月23日、東京で行われたガルマンカフェで楽しくビールを飲んでいたら、ピーナツ三銃士が僕の方へ近づいてきました。

 

「ピーナツになんか書いてよ!」

「ええ、まぁ、そのうち……」

「じゃあ締切12月でよろしく!」

 

……というわけでやっていきます。

 

(1)前書き

 

さて、みなさん、こういうの見たことありますかね。

 

短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。 (p.236)

 

〈私性〉の話をするときにほぼ必ず引用される、あるいは、引用されずに「岡井隆によるあの高名な定義」みたいにぼやっと言及されるやつですね。

『現代短歌入門』は、篠弘の文庫版解説によると1961年1月から、1963年2月の間に、角川「短歌」に「現代短歌演習」として連載されていたものを一冊にまとめたものです。

当時の岡井隆の年齢は、33歳~35歳。この年齢で2年間がっつり連載を持ってたあたりにやばさを感じます。そういうわけもあって、普通の入門書のようにハウツーが並べられているのではなく、前衛短歌を経て「現代短歌」的なものが確立してきていた真っ最中の時期に、では「現代短歌」を構成する諸要素は何なのかを思索していった文章たちが並んでいます。

 

もちろん、連載していたわけなので、時評的な性格も帯びてきます。第十章「喩法について(2)」では、滝沢亘(たきざわ・わたる)の塚本邦雄批判に対しての反論から起こるやり取り(いわゆる論争)が収録されています。滝沢はこんな風に批判します。

 

また、上句の〈釘、蕨、カラー〉(阿波野注:塚本邦雄〈釘、蕨、カラーを買ひて屋上にのぼりきたりつ。神はわが櫓〉の上句)は、それぞれ何かを暗喩しているらしいのですが、この一首からそれを読みとるのは、作者と暗号表を取り交わしていない私たちには全く不可能です。そうした独善的な表現が、一層「櫓」の存在を曖昧な無限定さに追いこむ結果ともなっているわけです。 (p.190より孫引き)

 

昨今の「わかる/わからない」の話に対応するような問題提起は50年前にすでになされていたことがよくわかりますね。これに対する岡井の反論がこちら。

 

「作者と暗号表を取り交わしていない」などと、ふざけたことをいってはいけません。(中略)「釘、蕨、カラー」のそれぞれが何かであるような喩の「暗号表」的な固定化こそ、つまらない非詩的な日常的な喩の世界への転落である。それは、もはや衝撃力を失って約束の世界にとじこめられた喩法であり、詩における喩の、あらあらしい原始性を失っているのです。そんな子供だましみたいな「書き換え遊び」では、現実は表現できません。(p.191)

  

「日常的な喩の世界への転落である」!!! かっこいい。

 

釘、蕨、カラーは、一定の何かの暗喩ではないが、おのおの具象的なものの名でありながら、それらをこの順につらねることによって、イメージの重層と交響をはかっています。(中略)どうも、「釘、蕨、カラー」が偶然性を逆用しているように見えて、塚本らしい冴えがなく、またいえば、三者が少しつきすぎた感じで、「神はわが櫓」というアイロニカルな喩の片方の重みとつりあわぬのです。 (p.191~192)

 

岡井は「暗号表」発言の批判から入って、一般論からぐいぐいいってます。暗喩は固定化されたらあかんのやで、と。これはすごくよくわかりますね。直線的な喩は「うまいこと言った系短歌」に見えちゃうよね~って話と結構近くて、現代の私たちにも響いてくる言葉です。その後に、塚本の一首については、「偶然性を逆用」「三者が少しつきすぎ」という批判を加えます。

 

暗喩ってのはこういうものなんだ! みたいなことを言いつつも、だめなものはしっかり批判するというアティテュードが単にかっこいいですね。

 

これに滝沢はさらに反論するんですが、岡井はそれをスルーします。そのため、岡井が論争に勝ったように見えます。(ちなみに、滝沢はこの数年後、肺の病でなくなります。晩年の滝沢の歌、〈生き残る者にまことの孤独あらむ冬日に鈍くひかる金蠅〉などからは〈ひかる金蠅〉など暗喩の駆使が見て取れます。滝沢なりの岡井への反論を作品で示したということなのかどうかは、わからないところです。)

 

岡井隆の文章のすごいところは、ボディーブローのように重いパンチラインを吐き出して、相手が何を反論しても弱く聞こえてしまうところです。その辺がかなり立ち回りがうまい。

 

さて、前置きが長くなっちゃいました。

今回の記事では、前述の〈私性〉のテーゼが、どのように出てきたものなのか、ということを確認していきます。

執筆にあたって、篠弘『現代短歌史 III』、小瀬洋喜『回帰と脱出』からの引用も混ぜていきます。

 

(2)岡井・小瀬のフィクション論争

 

岡井隆の〈私性〉のテーゼは、「斧」という岐阜県歌人による同人誌に掲載された、小瀬洋喜(おせ・ようき)の「イメージから創作へ」を契機とした、岡井と小瀬の論争の中で出てきたものです。まず小瀬の「イメージから創作へ」を見ていきましょう。

 

短歌――それが私の文学である限りは、それ(阿波野注:歌集が作者の生活経験が如何に詩に昇華されるかということで評価されること)も許されることであろう。しかし、それが許されるのではなくて、それでなくては許されぬのであれば問題は全く別のものとなって来る。 (『回帰と脱出』p.134)

  

新聞歌壇である時は炭鉱夫、あるときは農夫、またあるときはセールスマンの歌を出していたひとに、斉藤正二というひとが「通俗の暴威」として批判をしました。そういう評価の背景には、短歌から上記のような生活体験の詩への昇華を見出す鑑賞態度があります。小瀬はそうであってもいいけど、そうでなくてはならないわけじゃないでしょ、というつっこみをいれます。

 

フィクションが短歌に持ちこまれたとき、事実よりも真実をという命題が、短歌の領域を拡大するためのものとして、歌壇での目録に加えられた。この命題は作品をそのまま真実と思いこむ習慣を矯正するのに幾らかの力を果したが、作者の側においておのずからなる限界を設定し、それを超えることをしなかった。(『回帰と脱出』p.135)

 

ここから小瀬は前衛短歌批判へと移りこみます。旧態依然的な、短歌に書かれたことは事実だという考えへの批判はもちろん、そこからの脱却としてフィクションを導入の仕方にも批判を加える。

 

そこで引き合いに出されるのが、平井弘です。表舞台へはあまり出ないですが、現在でも根強いファンがいる歌人ですね。

「斧」の同人でもあった平井の歌集『顔をあげる』には、戦死した「兄」のモチーフがたくさん出てきます。

 

兄たちの遺体のごとく或る日ひそかに村に降ろされいし魚があり

兄と共に戦わざりしわれの手といもうとの脛冬まつ傷ら

もう少しも酔わなくなりし眼の中を墜ちゆくとまだ兄の機影は

 

ここで小瀬は平井弘に実在の兄が存在しないことを指摘して、これこそ戦後の日本人の血脈に訴えかける新しいフィクションなんだと称揚します。

 

事実として存在しない兄を画いて成功した「顔をあげる」は、従来的なフィクション論議からは全く別の次元にあるものなのだ。短歌が長く閉じて来た創作の世界への斧をふりあげたものだからである。想像力の回復を云った前衛作家たちは、私性の脱却のためにとるべき創作の方法をさけて、非現実の世界に舞台を求めた。(中略)しかしキリスト教や、ギリシャ神話が日本人の血液には殆ど何の栄養をも与えていない現実にあっては、水に油は遂に親和力を示すことがなかったのである。(『回帰と脱出』 p.137)

 

「斧をふりあげたものだからである」!!! これが「斧」って同人誌に載ってるのちょっとおもしろくないですか?

小瀬は続けて、「前衛作家は”私性”からの脱却をイメージと想像にすりかえってしまったのである。然かもかなり多くの前衛作家は、血脈のない概念に日本人の抒情を仮託した。」と批判を加えます。

 

かみくだくと、前衛短歌は私性からの脱却をうたっているけれど、西洋的なモチーフの導入や、イメージの重視に苦心しているだけじゃないか、そんなものは日本人の抒情じゃねえぞ! という感じですかね。

小瀬は「兄」「母」などのフィクショナルな創作は従来の短歌ではできなかったのに平井含む「斧」の同人はそれをやっている、これこそが「私性の克服」なんじゃないか、とまとめています。

つまりは、前衛短歌のようにイメージに振り切ったフィクションの文体でフィクションをやるよりも、リアリズムの文体にちょいちょいフィクションを混ぜていったほうがむしろ「私」を脱却できるんじゃね? というのがこの論の重要なポイントでしょう。

ただし、この文章は「斧」に掲載されたもので、「斧」同人たちの歌がどういう可能性を持っているのか、ということを主眼に置いた文章になっています。それがちょこっと前衛短歌に文句を言ったために岡井に取り上げられ、攻撃されたんだろうとおもいます。

 

それでここからが『現代短歌入門』に書いてある小瀬への反論です。

 

まず岡井は、小瀬の「恋人にはウソがあっても、兄や母は短歌ではウソがないものとされて来たのだ」という言葉から論を立てていきます。ここで『現代短歌史』を参照しますが、岡井隆は「平井の作風のような、主体にまつわる事実関係の変更は許容できなかった」のだろうことを頭に入れておいてください。

 

岡井は、文芸上における虚構と、実生活における嘘の決定的な違いは、「文芸上の虚構があくまでそれが虚構にすぎぬという約束を前もって読者のまえにあきらかにしているという点」であるとします。「恋人」がいる、という嘘も、いないはずの「兄」「母」がいる、という嘘も、文芸上では同じものだろう、と。ではそもそも、短歌のなかで嘘をつくということはどうか。

 

写実派の短歌に関するかぎり、恋人も兄も母も区別なく、その実在性に関してのみならずその人々にまつわる個々の事実の内容についでまで、「ウソがない」のがたてまえです。(p.211)

 

えー! その反論ちょっとずるくない? と思わないでもない。

 

歌壇が他のどのジャンルよりも不幸だったのは、写実派が存在したことではなく(中略)、写実派がえらび取り世上に流布させた「約束」だけが唯一の約束であるかのような錯覚が、あまりに長く歌壇を制圧しすぎた点にあるのです。(p.212)

 

約束というのは、作者と読者との間の作品の受け取り方の約束です。その結び方は多種多様にありうる、というのが岡井の主張です。ここから事実偏重主義への懐疑がつづき、「嘘は毒のようにひそかに写実派の作品に入りまじってきましたが、しかもそれがあくまで「事実」らしい顔をしてあらわれ、読む側もそれを事実として読んでいたのです。」とまとめます。

 

塚本をはじめとする前衛短歌の一派は、そういった「写実派流の約束の万能説を否定しようとするもの」でした。しかし、それが徐々に受け入れられていったことによって、「さまざまに非写実の毒を嚥下しつつ歌を作っているのに、他方、形式上は旧来の約束を盾に取っているという二重の嘘」が歌壇をおおっていった、と岡井は言います。岡井はその二重の嘘にのっとって、「恋人も母も兄も区別がない」と述べたわけですが、これってどうなんでしょうね。彼自身の筆の迷いが表れてると捉えてもいいのかもしれません。

こういう二重の嘘、現代でもありそうですよね。たとえば、短歌を「一首を基本として鑑賞する」と「連作・作者情報などのコンテクストを参照しながら鑑賞する」とかは、どちらか一方が正しいとかじゃなくて、この二つをどっちも援用しながらひとびとは歌を読んでいきます。良く言えばバランスを取っているわけですが、これもまた「二重の嘘」と言えるのかもしれない。

 

岡井は平井の作品について、「一見してそれとわかるどぎつい非写実の特徴を持たず、むしろ写実派のそれとして読んだ方が素直に受け取れる種類のもの」と述べ、「平井の場合「兄」を虚構と考えるより、そういう「兄」を持つ「われ」が仮構であり作者のアルター・エゴの化身と考えるべきではないか」と述べます。アルター・エゴというのは別人格、ぐらいの意味にとらえてOKだとおもいます。

 

また、「「母」を創作した先例には、すでに寺山修司の有名な「アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちてゐむ」があるではないですか。「新次元の開拓」はまこと容易ではない。」と切り捨てます。この「まこと容易ではない。」で小瀬への反論を終えるんですがこの辺りかっこいいですね。論争慣れしてる感じがあります。

 

そして、読者の方も小瀬さんに突っこみたくなったかもしれませんけれど、やはり岡井は小瀬に対して、「わたしは小瀬に一つ問いただしたいと思うのですが、塚本邦雄がしばしば彼の作品のなかに登場させる「父」や「母」の実在性について、一体小瀬はどのような根拠から疑いをいだこうとしないのか。」と文句を言います。まあそうなりますよね。

 

両方読むと、岡井さんの立ち回り方けっこう見えにくい気がしますね。小瀬の「兄」や「母」の虚構という「日本人の血脈」に訴える私性の拡張に関する主張や、イメージ重視で私性を脱却できていないじゃんという前衛批判について、岡井は「虚構するということにおいて兄も母も恋人も同じだし、前衛でも塚本や寺山は架空の家族歌ってるじゃん」って感じにかわします。

 

さて、今まで見てきたのは第十一章、「私文学としての短歌」の(2)の部分です。次に、例のテーゼが出てくる(3)を見ていきましょう。小瀬による岡井への反論は、これも面白くはあるんですが、今回はあまり重要ではないので置いておきましょう。

 

(3)〈私〉の拡散と回収

 

「私文学としての短歌」の(3)はAとBの対話形式からなる文章で、ちょっとおもしろいです。

 

A くさくさしてるんだよ、まったく。よそで有用だった概念や分析を無反省に持ちこんできて、その実、短歌的土壌の一寸も掘れていないという手合いが多すぎるんだ。他国他郷生まれの概念や分析用語は、税関で厳重審査の上、入国させてほしいよ。

B しかし、あなたがそんなこと言っていいんですか。この「議論」がそもそも成り立たなくなりぁせんですか。(p.230)

 

文体が話し口調だし「税関で厳重審査の上、~」なんてジョークも飛ばします。なんか饒舌で僕なんかは読んでると笑ってしまう。この「A」と「B」両方が岡井隆の「アルター・エゴ」、すなわち別人格のようなものであるというのがちょっとメタ的なかんじですね。

 

この(3)でのお相手はもっぱら、寺山修司です。寺山は岡井の歌集『土地よ、痛みを追え』について、岡井は、歌集『土地よ、痛みを負え』の中の「ナショナリストの生誕」や「思想兵の手記」といった連作において、「ナショナリスト」や「思想兵」といった、「全体という概念の中に〈私〉を拡散」させているが、「そのあとの回収された〈私〉を見出すことは、この歌集の限りでは不可能にちかい」と言っています。あとは「〈私〉が観念に疎外されている」とか「トータルな人間にヴィジョン」とかいかつい評言が飛び交います。

 

ちょ、いきなり拡散とか回収とかなんやねん、みたいな感じですね。

まあとりあえず岡井の反論を見てみましょう。岡井は作中の「われ」と作者との関係を三つに分類します。

1.「われ」=作者

2.「われ」と作者の間に第三の人物(例:「思想兵」「ナショナリスト」)が介在して、「われ」と作者を媒介する場合

3.一首の歌に三人称の主人公を仮構し、そこに作者の分身を定着させようとする場合

岡井はもちろん2の立場だと表明します。一人称の「われ」を仮構することで、1の立場からも読めるようにしつつ、作品世界に客観性・普遍性を与えようとしているのだと。

 

この場合、その架空の歌い手は作者のなかのどの要素かが強調拡大されてとり出されたものであり、普通に、作者の分身と呼ばれています。(中略)その意味で、寺山修司は、これを〈私〉の拡散と呼んでいました。しかしこれらの歌が、はたしてその後に回収を要するような〈私〉の拡散の仕方を示しているかは、むしろ疑問なのではないでしょうか。

 

こういう構造を持った連作の場合、(もし成功しさえすれば)一首一首は、一枚一枚のレンズが同一焦点に集光するように、その背後に一人の告白者の像を結ばざるをえないように構成されている。(中略)全体のプロポーションとしては現実の作者そのものとちがっているが、たしかにそれは、作者の分身です。そしてそれらの分身像の重積から、作者に関する統一したイメージを画くことを、もし〈私〉の回収というのなら、それは、作者の行なう〈私〉の拡散作用の逆作業を読者が行ないさえすれば可能なわけで、もともと、そういうことを予想せずには拡散作業はできるはずもないのです。(p.238~239)

 

ここでも岡井さんは、言葉の定義があいまいなことを逆手にとって、自分の中でがっつりその言葉を解釈し、〈私〉の拡散と回収ということについて普遍性のあるパンチラインを吐いてきます。一首一首がレンズとなって、連作中の〈私〉像を結ぶ…その像を結ぶということが〈私〉の回収なのだ、と定義してみせてますね。これほぼ、〈私〉論というか連作論になってますからね。

 

寺山修司のその後の反論で示された「拡散と回収」の定義はこんな感じです。篠弘『現代短歌史 III』からの孫引きすると、「作者の中にある全体像のイメージ、「幻の私像」が存在」していて、「その全体像のイメージが一首一首の中の私的具象性を持って拡散されてゆく」のが拡散です。回収については、「こうした全体像、つまりメタフィジックな「私」を内部に創造し得ぬまま、拡散されてしまった個人体験、個人のイメージはきわめてバラバラであって、読者には決して回収作業などできないであろう。」と述べています。

 

ふむ。わかりましたかね。「幻の私像」てなんやねん、て感じですよね。

 

ここで小瀬さんの活躍です。『回帰と脱出』中の「〈私〉の論理」には寺山と岡井のいう「拡散」「回収」についての定義の検証がなされています。見ていきましょう。

 

〔定義1〕 “私”とは作者の拡散した一つである。

 

内部現実(=真実?)と外部現実(=事実?)が結合している場合に、

(A 寺山の場合)

・その外部現実(事実)を破壊して、再構成することを「拡散」という。

・その再構成のためには、構成基盤としての一つの作者の姿勢が必要であり、この姿勢が明らかになっている状態を「回収」という。

・(具体例)平井弘のような、初めから一冊のテーマがある歌集を意図しながら、歌の配置を考えていく態度。作歌においては、一首ずつが、回収点からの投影となる

 

(B 岡井の場合)

・その外部現実(事実)を破壊して、再構成することを「拡散」という。ただし、再構成のために、一首一首、作者の分身としての独自性が与えられ、その一首一首の分身の姿勢を構成基盤とする。

・作者は、一首一首の分身の統合体として初めて統一的なイメージを結び得る。この統一像を得ることを「回収」という。

・(具体例)岡井隆が「ナショナリスト」「思想兵」など、それぞれの分身として画いたものがまとめられる。分身の一部を欠いたり、分身の一部が加えられれば、統一像は変わる

 

がんばってまとめましたけど若干小難しいし、僕も完全に理解はしていないので難しかったら読み飛ばしてください。

 

ともあれ、寺山の立場は、その「拡散」を統べるべきひとつの回収点(=作者のなかの「幻の私像」)が揺るぎなく存在しなければならない、ということでしょうか。着地点が見えてるべき、あるいは作者が全部コントロールすべき、みたいな感じで僕は理解しましたが、どうだろう。一方で岡井の立場は、歌を連ねるごとに像の結ばれ方が変わってくる、(ともすれば結べなくなる)という感じでしょうか。

 

ちなみにそもそも小瀬さんは、〈私〉の拡散と回収は一首の中で行われるべきだ、という立場を主張しています。こんな感じです。

 

ピペットに梅干色にわが血沈む 一揆にも反乱にも敗れたりき/斎藤史

上句と下句とには異質の分身の拡散がある如くでありながら、実は同一体に他ならない。その同一体が具象表現と抽象表現に場を分けて描かれ、見事に回収されているのである。

短歌において問題とすべき拡散と回収はそれが一首の中でどう位置づけられているかということであって、幾つかの作品からの作者像の結像ではない。(『回帰と脱出』p.155)

 

夜の花屋の格子の彼方昏睡の花々の目 クレー展見そびれつ

緑蔭を穿ちて植ゑし新緑の杉 愛しすぎて友を失ふ/塚本邦雄

 

(中略)わたしは「分る、分らない」の分岐点は一首の中での〈私〉の回収の成否にあると思う。(中略)クレー展を見そびれたという塚本と、昏睡の花々の眼を感じた塚本との間に、まったく別個に拡散し独立した〈私〉を認める読者は回収し得ぬ〈私〉に焦らだつに違いない。(同上p.157~158)

 

どうでしょう!? これ、永田和宏の有名な歌論、「「問」と「答」の合わせ鏡」に通じる部分がありませんか。上句と下句に拡散した〈私〉が統一した〈私〉に帰ってくるか、というのはそこに短歌的な、詩情としての連関を見ることができるか、ということにつながってくるのではないでしょうか。

 

また、小瀬洋喜は〈私〉の回収について、このように寺山批判を行います。

 

問題とすべき〈私〉性とは、一首のなかにみごとに〈私〉の回収が行われているか否かである。(中略)しかしこの〈私〉とは作者であるという定義がややもすると、作者をして、“短歌的抒情に規定された人間像”にだけ制約させてしまう危険があることも、われわれは充分に知っている。〈私〉の問題においてこの危険を無視することはできない。一首には一つの〈私〉が回収されていなければならないが、その一つの〈私〉がそのまま作者全部であると思ってはいけない。(同上 p.159)

 

この辺は、僕が角川短歌の年鑑座談会で、「短歌では受け入れられやすい人間を演じてしまいがちになる」って発言したのとやや似ているところがあって、やっぱり昔からそういうの考えてるひといるんだな~って思わされます。

 

まぁ、こういう風に、〈私性〉議論って、連作論だったり、一首の読みの理論だったり、あるいは読者論だったり、色んな物を巻き込んでるわけですね。そりゃあ紛糾もするし、語の定義もあやふやになります。小瀬さんは水質学の先生で、短歌評論中にも図表をぶちこんでくるかなりの「定義厨」「分類厨」なんですが、その彼をしても、正確に分類しきれていないように感じます。難しい話題なんでしょうね。いま資料を追っかけて読んでもだいぶわけわかんないですからね。

 

(4)ただ一人だけの人の顔

 

さて、話を戻して、寺山・岡井バトルの後半戦です。

 

そして、寺山修司の、「前衛短歌のひとたちは告白(コンフェッション)しない」という批判に対して、岡井は次のようにまとめていきます。

 

A ただね、その場合、これは何度もくりかえしていうのだけれど、告白性こそ短歌固有のものだとか、あるいはその逆だとか、それから、私性はいけない、トリヴィアリズムはいけない。そういったことを妙に固定化して、どうしていけないのか、その原因追究をおこたったままいってみても仕方がないということですよね。(中略)私小説の生理と病理は、短詩型文学の〈私性〉の生理と病理と大へんよく似ながらまったく別のことでもあるのです。(中略)所詮、短歌は〈私性〉を脱却しきれない私文学である、などとあきらめたような言い方をする人があるが、こういう無気力な受身の肯定も、他方また、短歌に〈私性〉を脱した真に客観的な人間像の表現を期待するオプチミストも、結局、短歌の生理に暗い点においては同罪でしょう。短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(阿波野注:即作者である場合もあるしそうでない場合もある)を予想することなくしては、この定型詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔をより彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。(p.235~236)

 

A (中略)戦後以来一貫して悪しき〈私性〉の復活の風潮は流れています。〈私性〉の悪用または濫用は、ね。(中略)それと闘うためには、良貨を発行するほかない。〈私性〉の活用ですね。(p.237)

 

ちょっと長くなっちゃいました。

ちょうどこの時期は、安保以降の「後退期」と言われて、前衛の「脱・私」みたいな方法論が挫折してんじゃね? みたいな空気感が漂っていたようです。岡井自身がリアリズムへ回帰してるんじゃないかみたいな。そんな中で、1人称のアルター・エゴを仮構して連作を組んだりして、「私が回収されてない」と批判され、「拡散された断片がレンズのように像を結び、回収される」という図式的にわかりやすい反論を行ったわけです。そして、従来のトリビアルな日常性に終始する「悪しき私性の濫用」に釘を刺す一方で、自らの方法にも対応できる〈私性〉の単純かつ明快な定義として、「作品の背後にただ一人の顔が見える」ということを提唱し、それを生かすも殺すも歌人次第、という言い方をしたわけです。ある種、岡井さん自身の生存戦略であったようにも僕には見えます。

 

長々と書いてきましたが、特に華々しい結論があるわけではありません。ただ、岡井隆の言葉だけが非常に有名になってひとり歩きしていますが、その周りには、寺山やら、小瀬やら、さまざまな他の歌人がいたわけです。岡井さんの文章だけが残っているから岡井さんが論破しきってるようにも見えますが、ディグってみると意外と論点ずらしてうまく切り抜けたりしながら、岡井さんが落としどころを探っていった結果、この有名なテーゼが出てきた、というような感じがあります。

 

とにかくこの『現代短歌入門』は、他者との論争が載っているのが面白いところです。これ一冊だけでも、相手側の主張も引用し、説明されるのでなんとなくその時代の雰囲気がわかります。そして、その論争を通じて岡井隆はあくまで一般的な結論へ着地しようとしているのが見てとれます。そのため、「入門書」として成立しているのでしょう。(ほんとうの初学者にはあんまりおすすめしないですが。)

もちろん、その当時の論争相手の文章をディグるのもおすすめですし、あとは篠弘『現代短歌史』を読みながら読んでいくのも面白いです。年末年始をゆったり過ごす方にはもってこいですよ!

 

阿波野巧也:1993年、大阪府生まれ。「京大短歌」、「塔」、「羽根と根」で活動。

第36回 楠見朋彦『塚本邦雄の青春』

 映画「この世界の片隅に」と呉時代の塚本邦雄 堂園昌彦

 

塚本邦雄の青春 (ウェッジ文庫)

塚本邦雄の青春 (ウェッジ文庫)

 

 こんにちは。堂園です。

 

今回やるのは、2009年にウェッジ文庫からでた楠見朋彦著『塚本邦雄の青春』です。

 

この本は、塚本邦雄の弟子で小説家の楠見朋彦さんが、いままでヴェールに包まれていた塚本邦雄の青年期に迫る、という本です。本人があまり話をしていない、幼年期・青年期・習作期。第一歌集『水葬物語』が刊行される以前の塚本邦雄です。

 

資料となっているのは主に塚本が発表した初期作品や散文などで、日記とか書簡とかは使われていません。だから、一般的な評伝とはちょっと違っています。塚本の若い時代の行動をいっこいっこクリアにする、というよりも、もうちょっと遠くから、塚本自身が作った柵の間から塚本の青年期を覗き見る、みたいな本で、ふつうの評伝を期待するとちょっと肩すかしを食らいます。

 

しかし、塚本邦雄は自身の若い時代をあまり明かすことはありませんでした。この本でも触れられていますが、その象徴となるのが、生年月日を実際の年齢よりも2年若く偽っていたことです。かつて実人生を否定していた塚本邦雄の、青年時代を覗き見ることができるのは、なかなかすごいことなのです。

 

もともとは「京都新聞」(滋賀版)に連載されていた記事を改稿したものらしく、新聞のコラムっぽくわりと1回1回短いものが、ぶつぶつ話切れながら進んでいきます。しかも、ちょくちょく時代が前後するので、独特の読みにくさがあったりします。

 

しかし、特に後半のほうの、どのように『水葬物語』の作風の塚本邦雄が出来ていくのか、といった話はすごく面白かったです。塚本が、西脇順三郎や、モダニズム短歌や、新旧約聖書や、西洋絵画などを次々に吸収し、そして杉原一司という盟友を得ながら、自らの文体を形作っていったことがよくわかります。若い塚本青年が、だんだんと「塚本邦雄」になっていく様が燃えるのです。それだけでも、この本を読む価値があります。

 

ところで皆さん、全然話変わりますけど、11月12日に全国公開が始まったアニメ映画、「この世界の片隅に」はご覧になったでしょうか!?

 

観てない方はぜひ観に行ってください。もうほんとぜひ! 私は公開日に観て、さっき2回目を観たんですけど、ものすごく良かったです。

 

この映画の原作は、こうの史代が2007年~2009年に連載していた漫画『この世界の片隅に』です。どういう映画かというと、第二次世界大戦中の広島が舞台で、絵が好きな主人公の女性「すず」さんが18歳の時に故郷の広島から山一つ隔てた、軍港・呉へと嫁いでいき、その日常、といった感じの話です。主な時代は昭和19・20年くらい。

 

すずさんは大正14年生まれなので、山中智恵子と同い年です。今生きていたら91歳ですね。

 

この時期の広島・呉ということは、戦争映画なんですけど、ふつうの戦争映画とちょっと違うのは、戦時中の暮らし・日常をすごく丁寧に描いています。もちろん、つらいこともあるんですけど、それ以上にユーモアをもって描写している。笑えるシーンがふんだんにあって、「戦争ひどいよね」っていうお説教映画ではぜんぜんないです。

 

とにかく風景がきれいで。呉の軍港を見下ろす景色とか……。この世は生きるに値することを全力で伝えてくるというか。私はもう開始5秒で涙が出まくりでした。

 

主演の「のん」(能年玲奈)の声の演技がまたすごくて。彼女の出世作NHK朝ドラの「あまちゃん」でも、主役の天野アキ役は「本人そのもの」というハマリ役でしたが、今回も、めちゃくちゃハマリ役です。本人としか思えません。「困ったねえ」の言い方とか。

 

あと、この映画、すごく没入感があって、観ていて飽きません。映画評論家の町山智浩さんは、この映画は「『マッドマックス 怒りのデス・ロード』みたいにパッパッパと展開が進んでいく、ものすごくテンポのいい映画」と評していましたが、そのあたりも、この映画の没入感に関係があるかもしれません。

 

また、私はこうの史代の原作漫画のファンでもあったのですが、原作以上によかったところも多かったです。

 

たとえば、主人公のすずさんが丘から呉の湾内の風景を写生しているところを憲兵に咎められるシーンがあります。

 

漫画と違うのは、憲兵の声が入っていることで、これがけっこう耳に障る。人を脅す声なんですね。

 

それで、原作ではちょっとギャグっぽく終わらせていたシーンが、なんていうか、やっぱり実際もっとシリアスだったんだなと気づきました。この映画の音の表現はものすごいです。防空壕で爆撃を聞くシーンとか。呉港に対する空襲は、軍艦壊すためにやってますから、建物燃やす焼夷弾だけじゃなくて、一トン級の爆弾を落としてくるんですよね。だから、音もものすごい。そういうところが、すごく伝わりました。

 

わりとこの作品、原作でもシリアスっぽくふっといて、ギャグっぽくすかすんですよね。あんまりネタバレしたくないんですが、ある人が突然倒れて心配したら、実は眠くて居眠りしちゃっただけ、とか。

 

シリアスをどう回避するか=いかに日常を続けていくか、ということがギャグ漫画の文法と重なってるという構造なんですが、これが映画になり、音や演出が加わると、やはりその背後に、常に重たいものが張り付いていることが、はっきりわかります。それゆえ、日常や自然の美しさがより際立って伝わってくるのです。

 

そんな感じのものすごいリアリティのあるアニメなんですが、驚愕するのが、次のツイートの内容です。

 

 

 

 

これ、やばくないですか。このアニメは、単に当時の広島・呉の街並みを資料や写真から再現するだけじゃなくて、当時の人々にインタビューして、写真に写っている人々まで特定しています。なので、この映画に出てくる人々は、単なるモブではありません。全員が実在して生きている人間で、それぞれの人生を送っているのです。

 

ジェイムズ・ジョイスは自作の小説『ダブリナーズ』について「たとえダブリンが大災害で壊滅しても、この本をモデルにすればレンガの一個一個に至るまで再現できるだろう」と豪語していましたが、はっきり言って、そのレベルを超えてます。

 

で、なんで今回この映画の話をしたかというと、実は戦時中の呉には、当時、20代の塚本邦雄が暮らしていたはずなんですよね。

 

なので、そう!! この映画には塚本邦雄が映っている可能性があります!!!!

 

塚本さん、年齢でいうとすずさんの夫の周作さんの1つ上で、21歳から25歳まで呉市にあった広海軍工廠(ひろかいぐんこうしょう)に徴用されていました。塚本が暮らしていた広町と呉町はお隣。今でいうと、電車で2,3駅です。なので、休みの日とかはしょっちゅう行ってたみたいです。充分、映っている可能性があります。

 

そんなわけで、今回は『塚本邦雄の青春』から、「この世界の片隅に」で塚本邦雄が映っている可能性のあるシーンを探してみました。

 

一番可能性が高いのは、中盤ですずが夫の周作さんの職場に帳面を届け、その後デートをする呉の繁華街でしょう。周作さんが「映画でも観るか」と言って2人は繁華街を歩くのですが、塚本邦雄はよく呉の繁華街まで映画を観るために通っていました。

 

 呉市広町では、どんな生活をしていたか。空襲が激化する前は、休日によく山一つ隔てた呉へ出て映画を見ていたようである。(p.68)

 

なので、このシーンの群衆の中に塚本邦雄が混ざっている可能性があります。 

 呉港館ではなぜか敵国であるフランスの映画、ジュリアン・デュヴィヴィエの『モンパルナスの夜』を見ることができた。邦雄は三度も観に通った。ドイツ系では『たそがれの維納』『未完成交響曲』のウィリ・フォルスト。「極論するなら私の青春前期など、フォルストの作品の記憶、ただそれのみによつてきらめくと言つてもよい。」(『虹彩(イリス)と蝸牛殻(コクレア) 映畫とシャンソン』)

(p.128)

 

アメリカ・イギリスとかの英語圏の映画は「敵性映画」と見なされていたのですが、同盟国であるイタリアとかドイツとかはオッケーだったみたいなんですね。フランスもほんとは敵国なんですが、どうもフランス語がイタリア語とかと区別できず、スルーされてたとか。

 

塚本は、レコードをかける店にもよく通っています。

 

 ラパンという酒場があった。フランス語で飼兎(かいうさぎ)を意味する。軍港であるのに、敵国の言葉をつかう度量のひろさがあった。

 借りたままの本がある。返す機会がついになかったという。トリオという音楽喫茶があった。珈琲一杯で、何時間もねばった。

 

「今でも、空襲直前の夜に聴いた、モーツァルトの交響楽四十番のモチーフを耳にすると涙が溢れます。」(「初心忘るべし」)(p.125)

 

塚本さんのレコード趣味は有名ですが、戦時中の厭な気分を、こういう場所で紛らわせていたんでしょうね。

 

 呉九丁目の音楽喫茶「鳥雄」で、「国民服」を着た邦雄は、ベートーベンやバッハ、ヴェルディプッチーニレスピーギをむさぼり聴いた。

 ラパンの創業は、一九三一年。パリはモンマルトルの老舗シャンソンカフェ、「ラパン・アジル(跳ね兎)を真似ていたのだろう。海軍将校らも集まっていた呉のラパンは、「我々にはオフ・リミットでした。楽しみは音楽を聴きに〈トリオ〉へ行くのと今一つは映画です。当時、呉港館という、洋画専門館がありました。」(p.127)

 

「ラパン」の創業は1931年(昭和6年)とありますから、周作の姉で、モガ(モダンガール)だった佳子さんは、若い頃、このあたりのお店に行っていたかもしれません。

 

ダンガール、モダンボーイのいた昭和初めのころは、日本はまだ街に軍国的な雰囲気は薄かったのですね。そっから10年くらいでいっきに雰囲気がきな臭くなります。

 

また、塚本邦雄は、ここ呉で貸本屋に通い詰めています。

 

 邦雄は呉の貸本屋「桃太郎図書館」で、よく本を借りていた。

 太宰治の『晩年』と、強烈な出会いがしばしば語られる萩原恭次郎の『死刑宣告』(第二十三回参照)の二冊は、空襲がひどくなったので返却がままならなかった。広町にも貸本・古書店があり、足しげく通った。

 広の小川書店経営者はたまたま『木槿』同人で、あるとき、邦雄が会に入ったということを聞くと、これからは無料で良いと言ってくれた。これ幸いと、邦雄は店にある本をすべて読破した。中山義秀「厚物咲き」、太宰治の「虚構の春」や「右大臣実朝」、中島敦「光と風と夢」……。それらを読んだときの感激は、何年経っても鮮やかに頭に浮かべられた。(以上、「初心忘るべし」)(p.71)

 

萩原恭次郎は初期塚本に強い影響を与えました。また、塚本は太宰治もそうとう好きだったみたいです。初期塚本を作っていった本は、ここ呉で読まれたということです。

 

もっと言えば、塚本さんが短歌を作り始めたのも、呉においてです。

 

「当時、私、たしか広海軍工廠の方へ配属されていました。学徒仲間もたくさんいまして、中の一人が実は私にはじめて萩原朔太郎を教えてくれた男なんです。(略)」

 ――その友人と文学談をかわしていると、短歌をやってみる気はないかと誘われた。すすめられた二誌のうち、万葉調の、勤皇の志士のような歌がずらりと並ぶ『石楠』を避けて、『木槿』を選び、歌を出した。それが「初心」であるという。(p.129)

 

それで塚本さんは、繁華街の古書店で、結社誌のバックナンバーを探し求めます。

 

本通りの古書店で、『心の花』『水甕』『潮音』『靑樫』といった短歌雑誌のバックナンバーを入手した。(p.129)

 

本通りというと、現在の地図ではここですね。

 

 

ちなみに、さっき触れたすずさんと周作さんの繁華街デートで、2人が川を見ている橋(小春橋)があるんですが、

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 (こうの史代この世界の片隅に』中巻 p.33)

 

 

映画にも出てくるこの橋は、

 

 

 

ここです。 

 

 あるいは、これも中盤ですずさんが闇市に行くシーンがあるのですが、ここの群衆の中に塚本がいる可能性もないわけではありません。

 

 

また、塚本は広海軍工廠に昭和16年(1941年)から勤めています。そして、そのお隣の「第11航空廠」に、すずの嫁ぎ先のお義父さんの円太郎が勤めているのです。当時の海軍工廠の組織図は下の通り。

 

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こうの史代この世界の片隅に』下巻 p.12)

 

円太郎さんは、「第11航空廠」の発動機部。塚本さんは「広工廠」の会計部だったそうです。この下のコマ見ると、ほんとにお隣ですね。

 

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 (『この世界の片隅に』下巻 p.15)

 

だから、ふつうに円太郎と塚本が話をしていた可能性もありますし、後半、「第11航空廠」と「広工廠」への爆撃で円太郎が負傷し、そのお見舞いにすずさんが病院に行くシーンで、塚本が病院内にいる可能性もあります。友人のお見舞いとかで。そういえば、この病室では負傷した海軍兵が、塚本の好きな「敵性音楽」のレコードをかけていました。

 

まあ、この頃の呉には、ピーク時には全国から10万人近い工員が集められたと言いますから、それだけ多けりゃそうそう知り合いにはなっていないかもしれませんが。

 

それと、他に可能性があるのは、原作にある花見のシーンです。

 

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(『この世界の片隅に』中巻 p.131)

 

これは呉市・二河公園(にこうこうえん)ですが、塚本もここを訪れたことがあるようです。

 

『底流』十七巻夏号(昭和五十九年七月)に、邦雄の約四十年ぶりの呉再訪時の様子を報告した、「塚本邦雄先生に従いて歩きの呉」という吉富英夫(『木槿』同人)の随筆がある。

(中略)

 一行はまず、邦雄の希望で、二河公園を訪ねた。(p.71,72)

 

実はこのシーンは、映画にはないのですが、外国向けトレーラーの1分34秒のところにちらっと花見のシーンが出て来るので、シーンとしては作られていて、本編ではカットされたのでしょう。そのどこかに塚本が映っていたかもしれません。


In This Corner of the World full film trailer

 

 

そして後半の空襲のシーン。ああ、塚本邦雄はこの爆撃の中にいたんだ、と思いながら私は観ていました。

 

 敵機を撃ち落とすための高射砲が、耳をつんざく音で発射される。

 B29が超低空飛行で空に出現し、爆撃を開始。

 艦載機も来襲し、機銃掃射は婦女子であろうと動く者であればことごとく薙ぎ倒した。低空飛行のため、搭乗員の米兵の顔が見えたとは、戦争体験者がよく語る話である。一トン爆弾の爆風波、学生服のボタンをひきちぎった。

 爆撃は続く。

 六月二十二日には、工廠の造兵器地区は潰滅した。(p.121)

 

昭和20年6月22日に工廠は爆撃を受け、潰滅します。映画中で起きるとあるショッキングなシーンは、この日の出来事です。

 

 迫り來て機影玻璃戸をよぎるとき刺し違へ死なむ怒りあるなり

 

 右は、戦中に発表した最後の一連三首から(六月号、幸野羊三によるガリ版。発行自体が奇跡的であった)。絨毯爆撃に加えて、艦載機による機銃掃射で多くの一般市民が命を失った。

 

「昭和二十年八月、連日、焼夷弾が天から降つてゐた。」(『詩歌博物誌 其之弐』)

 

 空襲でガラスがびりびり響くとき、殺意が湧く。そのゆがんだガラスにうつった怒りの形相は、きっと、醜かった。(p.119)

 

「刺し違へ死なむ怒りあるなり」。空襲の最中、絵を描く人であるすずさんが「ああ、ここに絵具があれば」というシーンがあるのですが(この映画は戦争と表現の映画でもあります)、月並みな言い方ですが、塚本には言葉があったのですね。

 

しかし、「昭和二十年八月、連日、焼夷弾が天から降つてゐた。」。この焼夷弾がどういう焼夷弾かも、映画を見るとよくわかります。

 

また、塚本邦雄が昭和18年5月に工廠の避難訓練の際に作った次の歌、

 

ガスマスクしかと握りて伏しにけり壕内の湿り身に迫りくる  『初学歴然』

 

も、「壕内」が映画を見るとよく伝わります。

 

あとは、やはり、広島に原爆が投下されるシーン。

 

 呉での講演に、恐ろしい一節がある。

 

「私は実は呉から、広島の原爆の雲もまざまざと見た記憶をもっています。」(p.120)

 

あの日、呉の人々がみな見上げたであろうあの恐ろしい雲を、塚本邦雄も見ていました。

 

塚本邦雄は敗戦後、一週間で呉を後にします。後年、そのときを思い出して作ったのが、次のような歌です。

 

われが不在となりたる街に軋みつつ鹽積みて入りゆきし荷車  『装飾樂句(カデンツア)』

 

私はこの映画を、特に2回目に行ったとき、ずっと塚本邦雄の気配を感じながら観ていました。ああ、塚本さんはこんな風景を見ながら暮していたのか、と。そして、ラストシーン付近になると、ああ、もうここには塚本さんはいないんだなあと不思議な寂しさを感じたのです。

 

(メモ的に書いておきますが、塚本邦雄が呉にいたのは、昭和16年8月~昭和20年8月23日です。さっきも書きましたが、21歳から25歳まで。映画でいうと、序盤中頃~ラスト手前です。)

 

「呉というところは私にとって大変懐かしい、文学の故郷です。」(p.128)

 

塚本邦雄がこの映画に映っているというのは、まあ実際は大げさではあると思うのですが、でもやっぱり可能性は捨てきれません。そして、主人公のすずさんの住む家は、呉市を見下ろす山の麓の、高い所にあるのですが、そこからすずさんは何度も何度も街を眺めます。そのどこかには、塚本邦雄が、必ずいたはずなのです。実際に画面に映ってはいなくとも、この映画の時空間のどこかに塚本が存在し、主人公のすずさんと同じ空気を吸い、同じようにご飯を食べ、同じように眠り、同じように空襲に怯えていたはずなのです。

 

そして、私たちの知っている塚本さんがこの映画に出ているということは、この映画の日常は、やはり私たちの日常とつながっているということです。

 

呉の音や景色や光が本当にリアルに感じられますし、もっと言えば匂いや風や物の手触りまで感じることができます。塚本さんが青年期にどういった空気を吸っていたかを知るには、この映画以上のものはないのではないか、と思いました。

 

なんというか、この映画を見たときに、いままで感じられなかった塚本さんとの圧倒的な「近さ」を感じたんですね。

 

この世界の片隅に」を見ると、塚本邦雄理解が深まるでしょう。ぜひ、公開中に劇場へ!!

 

※引用中の塚本邦雄の歌・文章は表記上、一部旧字を新字にしています。

第35回 玉城徹『茂吉の方法』

茂吉「凡」歌 土岐友浩

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茂吉の方法 (1979年)

 

これは、方法の書である。わたしは、もっぱら、斎藤茂吉が、その短歌において用いた方法のみを、考察の対象にすることを心がけた。あるいは、次のように言った方が正確かもしれない、茂吉の作品を通して、「短歌の方法」を探求しようとしたのだと。 (玉城徹『茂吉の方法』後記)

 

玉城徹。

その名前は飲み会でよく挙がるけれど、家に帰って『現代短歌の鑑賞101』をチェックしても載っておらず、どういう人なのかずっとわからなかった。

 

それもそのはず、伝え聞くところによると、玉城は自分の作品がアンソロジーに掲載されるのを、すべて断っていたそうだ。

だから玉城の歌は、迢空賞を取るくらい高い評価を得ているにもかかわらず、『現代の歌人140』でも講談社学術文庫の『現代の短歌』でも、最近出た河出書房新社の『近現代詩歌』でも読むことはできない。

 

その信条が、どこから来るのか。

僕は第二歌集『樛木(きゅうぼく)』の文庫版を持っているのだが、このあとがきを読むとよくわかる。

歌集『樛木』は『馬の首』に次ぐ、わたしの二番目の歌集で、昭和三十七年から同四十六年に至る十年間の作品を収めてある。

(中略)

編集はおおむね発表順によっている。わたしの場合、発表順、制作順ということは、それほど厳密な意味を持たないのであるが、作風のおもむろな変遷を観察する便宜にはなるかもしれない。一首一首の歌は、二、三誤りを正した箇所はあるにしても、ほとんど発表したままで手を加えてはいない。制作からあまり長い時間を隔てた推敲というものの意味を信じないからである。 (樛木後記)

 

歌集のあとがきとしては普通のことが書いてあるようで、ストイックな、手ごわい感じも受ける。

しかし、作品の配列、編成に関して言えば発表時とはかなり違っている。(中略)それは、わたしの場合、発表時の配列は、発表機関の性質や、その折の事情などによる偶然的、便宜的なもので、制作の時期や理由とは緊密な関係をもたないということが、一つの原因となっている。その限りでは雑誌等における発表は、わたしにとって仮発表にしかすぎないのである。

 

短歌の原稿依頼が来るときは、7首とか12首とか、必ず歌数が決まっている。10首の連作をつくりたいので10首でお願いします、というわけにはいかない。

しかし、それは雑誌の都合で、自分の制作意思とは関係がないのだから、歌集に収めるときは構成し直してしかるべき、というわけだ。たしかに一理ある。

別の面からこれを言えば、わたしの作品には連作は皆無なのである。わたしは、伊藤左千夫以来の一切の連作論を、論としても拒否するつもりである。近代短歌の堕落の一因は、連作態度の中にあるとつねづねわたしは思って来た。「群作」などと衣裳を替えてみても、事はそう変わるわけのものでもない。

 

……とひとり合点しそうになったのだが、どうもそういう話でもないようだ。

子規が試み、左千夫が「連作論」とともに発展させた短歌の連作というものを、玉城は「近代短歌の堕落の一因」だと根底から否定している。

いったい、どういうことか。

さらに別の面から言えば、わたしの作品は生の記録でないと同時に、ある観念の文学的表現でもない。この両者とも、今日のところ連作の形態をとることが避けられないもののようである。そして、方法としては両者とも形象的である。(中略)こうした方法は、わたしをして言わしむれば、短歌の根源的な叙情力を大きくそこなうものである。この方法と連作形態はだから表裏一体をなすので、両々相まって、一見短歌の表現力を拡張するごとく見せつつ、実は、短歌を散文の代替物の位置にまで引き下げるはたらきをしているのである。

 

ここのところはやや難しい。特に、観念を文学的に表現した短歌が形象的だというあたりが、抽象的すぎて、わかるようでわからない。「形象」はイメージと言い換えてもいいのだろうか。

一般に連作とは、場面を統一することで、テーマを掘り下げ、深めていく手法と理解されているが、玉城にとってそれは短歌の散文化であり、堕落なのだというのを、ひとまず押さえておこう。

しかし、この集の作品を単純に一首一首独立したものとして味わってほしいと言っているわけではない。わたしは連作を否定するにもかかわらず、作品の真の成立は歌集刊行という形式以外にあり得ないと考える。すなわち刊行された歌集こそ、一つの完結した作物なのである。

 

これは、文句なしにかっこいい。

 

短歌は歌集によって真に成立するというのだ。

歌人のプライドを見せてもらった、という感じがする。

 

賛成するかしないかはともかく、ここまで断言されると、さすがに一回くらい玉城徹の歌集を読んでみよう、という気になるではないか。

 

もうこれ以上の言葉はいらないくらいに思うのだが、ここまでで、あとがき全体の三分の一程度で、以下、玉城自身の短歌的スタンスの説明が、まだまだずっと続く。

それは機会があれば読んでいただくとして、『樛木』の作品を少しだけ読んでみることにしよう。

 

 年越えしゑのころの穂は濃き霧に水のごとくにわななきて見ゆ  玉城徹

 芽ぐみたる小さきものがしかすがにいちじくの葉のかたち具へつ

 冬枯れのしじに枝生ふるれんげうを夕べのかげのひたしたるかも

 

どの歌も、なるほど、ただの自然詠とは一味違う。

 

一首目は、一月の初め、枯れた猫じゃらしが霧の向こうに揺れている、という光景のようだが、僕の知っている猫じゃらしとはまったく違う。二首目も、ただの小さな葉っぱに、作者がなにか宿命的なものを見出していることがわかる。

三首目は、好きな歌だ。「しじに」は「繁に」で、隙間なく、みっしりとの意味。下句の「夕べのかげのひたしたるかも」がとてもいい。たしかに、こういう夕暮れの木を見たことがある、と思う。

 

歌集で有名なのは次の一首だろうか。

 

 冬ばれのひかりの中をひとり行くときに甲冑は鳴りひびきたり

 

この歌が印象に残るのは、ベタだけれど、やはり玉城徹という歌人と、騎士ドン・キホーテのイメージがぴったり重なるからだという気がする。

 

 *

 

『茂吉の方法』は、1979年、玉城徹が54歳のときに刊行された評釈本である。

キーワードは書名の通り「方法」だ。

斎藤茂吉が、もっとも卓越した近代歌人の一人であることは、疑いをいれぬところである。しかし問題は、茂吉の歌人としての優秀性は、いったい、何に由来するかという点である。わたしは、批判的な方法意識の確立こそ、茂吉を他にぬきんでさせた根本のものであったと考えている。 (「茂吉の方法」後記)

 

茂吉は、天然、素朴、天性の歌人、ともすればそういうイメージがあるかもしれないが、それはそれとして、きわめて「方法」に意識的な歌人でもあった、というのが本書のメインテーマである。

 

特に前書きもなく『赤光』の一首の引用から本文は始まる。資料的な考証や制作時の茂吉の境遇、そういうものはほとんど無視して、玉城は選んだ歌をただ読んでいく。

『赤光』から最終歌集の『つきかげ』まで順に、俎上に載せられたのは計133首。茂吉の代表歌もあれば、玉城ならではの選歌もある。

 

「方法」とは何か。少なくとも、単なる技術とか技法のことではない。

方法とは、作品の内部で探求され、そして作品の方向を内部から変更してゆくものであり、それは、綜合的な概念なのである。作家が、自分の素質(テンペラマン)に従いながら、自分と現実世界との間に通路を発見してゆく、そういう精神の活動全体が方法とよび得るものである。

 

それは作品の内部に宿り、歌全体をいきいきと動かすものなのだ。

この意味で、玉城の言う「方法」は、他の作品や、連作に還元できるものではないというのも納得できる。

だからこそ、一首一首をそこに書かれたことだけに即して、できるだけ正確に読むことが、なにより重要になる。

 

このあたり、第2回で永井さんが取り上げた花山多佳子の『森岡貞香の秀歌』を思い出す方も多いのではないだろうか。永井さんの言葉を借りれば、「歌がある。それを読む。ザッツオール」という姿勢は、ここから受け継がれたものだ、と考えてもよさそうだ。

 

では、具体的にどんな歌がどう読まれたのかを見てみよう。

 

 さむざむと時雨は晴れて妙高の裾野をとほく紅葉うつろふ  『ともしび』

 

風景を風景として、つまり、風景としての立体性、遠近性においてうたおうという努力は、近代もだいぶ後になってあらわれてきたかと思える。(中略)ここに掲げる一首なども、茂吉が先師、左千夫の試みを継承し、発展させたものと言うことができる。そして、なかなかに効果をあげている。

 

子規の時代は、自然を描くといってもスケッチのようなものだったのだが、左千夫以降、自然をより奥行きのある風景として捉え、表現しようという動きが出てきた。

 まず二段に切った手際があざやかである。前段二句で、時雨のはれた山のさむく鋭い空気と光線だけを感じさせた。そして、第三句ではじめて、「妙高の裾野を」と、大景を言いおこしている。そのために、二句末の「て」が軽くならず、そこで、深く、しっかり歌がきれている点は注目すべきである。

「裾野をとほく紅葉うつろふ」はきはめてすぐれた句で、十分に快感を味わわしめる。まず一番に「を」の助辞が良い。これがために、裾野のひろがりが、静止的な空間としてでなく、運動として感じられてくる。「うつろふ」もたくみである。すがれかかって、色もくすんできたのを、「うつろふ」と包括している。時間的な語だから、それによって、大きな空間を代置した結果になった。ここで、視覚印象的なことばを出すと、どうしても、部分的になることを免れがたい。せっかく「妙高の裾野をとほく」と言ってきたのと、規模の合はぬ、ちぐはぐな視覚印象に縮小せざるを得なくなってくる。

 

できればここは読み流さず、歌と評をじっくり読み比べてほしい。

助詞の「て」や「を」の効果や「うつろふ」の巧みさを、ものすごく精密に、過不足なく、しかもわかりやすく批評している。鑑賞としても、評者の感動がよく伝わってきて、歌会でここまで言えたら100点というくらいのものだ。

 風景遠近法は、短歌の叙情にあらたに大きな負荷をかけるものであった。それは、うっかりすると、短歌形式を破壊しかねない。しかし、一方からいうと、それは短歌の方法に対する異質な抵抗として、その拡大のために大きな刺激となったことも認めないわけにはいかないだろう。

 この一首に、一つの解決があったことはたしかである。しかし、実作の上でこれを一歩踏みこえるということは、そうたやすいことではない。「踏みこえる」という意識をもつことすら容易ではない。批評というものの存在意義は、この「踏みこえ」をすこしでも助けることにあると言ってよかろう。

 

この歌について言えば、大きな景を描くために時間的な表現を持ち込んだという「方法」を見出しているわけだけれど、僕などは、最後の「よかろう」あたりのかっこよさに痺れてしまう。

 

 *

 

佐藤佐太郎と塚本邦雄は、その名も『茂吉秀歌』という本を書いているが、『茂吉の方法』でピックアップされるのは、必ずしも秀歌とはかぎらない。

玉城はむしろ見逃されそうな歌に注目し、その読み方を読者に教えてくれる。

 

 公園の石の階より長崎の街を見にけりさるすべりのはな  『つゆじも』

 

 小高いところにある公園であろう。その石の階から街を見下ろすことができる。平明に、ごく単純にうたっていて、対象を力づくで表現しつくそうとしたところが見えない。ほとんど、日記がわりの記録的一首という風に、さらりと歌っている。

 四句を「見にけり」と端的に言い切って、結句にぽつんと「さるすべりのはな」とだけ言ったのも、何か、手を抜いた不十分な言い方のように思える。これでは、どこに「さるすべり」が咲いているのかわからぬという苦情も出そうである。

 

これなど、歌集で読んでもそのまま通り過ぎてしまういい例だろう。しかし玉城はこの歌に立ち止まり、読む者の視界を広げていく。

 この歌、一見いかにも欲のない歌いぶりでいながら、夏陽の下に広がる明るい都市、そのところどころに咲く百日紅のくれない。そういう情景をうたいながら、見下ろしている作者の孤独な胸中の煩悶を、いつか読者に伝えないではいない。ことばとして言ったものしか伝えないというのであれば、三十一音の短歌は、はじめから、長い詩にも、小説にも太刀うちできないにきまっている。

 ぽつんと最後に「さるすべりの花」*1 とつぶやくように加えているところが、じつは、作者の心の鬱々たる状態を、具体的なすがたで読者に感じさせてくれるのである。

 

いい批評は、歌の見え方をあざやかに変えてくれる。

見はるかす街の風景と、さるすべりの花の対比。それだけにとどまらず、玉城は「さるすべりのはな」に茂吉の苦悩する心を読み取っている。

ここまで読むことができれば、この一首を『つゆじも』という歌集の中にどう位置づけたらよいのかも、おのずと明らかになるだろう。

 

僕が本当にすごいと思うのは、こういう地の歌を、丁寧に、過大評価することなく読んでいることだ。だから、本書は隅から隅まで、どこを読んでも勉強になる。

 

 鳳仙花いまだ小さくさみだれのしきふる庭の隅にそよげり  『あらたま』

 

 大正六年作。茂吉としては目だたぬ部類の作と言えるが、わたしは、このような歌にひどく愛着をおぼえる。まだ茎の伸びぬ、小さな鳳仙花が、庭の隅で、ふりしきるさみだれの降る中に、たえずそよいでいるというだけにすぎない。

 一首の隅々にまで、鳳仙花のそよぎがみちわたっていて、ほかに余分なものが感じられないところに、この歌の生命がある。つまり感傷というものがほとんど影をひそめている。

(中略)

 茂吉がこうした感傷を、みずからの作歌行動の中で否定し、克服していったところに、彼のゆたかさ、偉大さが生まれたという理解をしている。

(中略)

「鳳仙花」一首には、まだ弱弱しいものとはいえ、感傷性離脱の一歩が見られる。それをわたしは尊重したい。感傷をはなれて、茂吉は、鳳仙花の「そよぎ」そのものと一体になろうとしている。そこに、愛すべき歌の「すがた」が出現している。

 

こういう一見なんでもないような歌に、玉城は、感傷から脱却しようという茂吉の作歌姿勢を読み取っている。

 

本書は玉城自身が繰り返しているように、一首一首の歌を読むこと、ただそれだけなのだが、その積み重ねによって、やはりひとつの視座というか、玉城の茂吉論が顔をのぞかせているように思う。

 

一方で、有名な「白桃」や「逆白波」の歌には、玉城はダメ出しをしている。その視点や書きぶりが、とてもユニークで面白いので、こちらもぜひ読んでみてほしい。

第34回 岡井隆『森鷗外の『沙羅の木』を読む日』

永井祐

こんにちは。

今日は、さいきん読んだ本からやります。

 

森鷗外の『沙羅の木』を読む日

森鷗外の『沙羅の木』を読む日

 

 

 

岡井隆『森鷗外の『沙羅の木』を読む日』(幻戯書房)。今年の7月に出た新しい本です。

これは、1914年、大正4年に出た森鷗外による詩歌集『沙羅の木』を、

岡井さんがエッセイ調というか、雑談も含めつつ自然体な感じで作品を一個一個読んでいく、という本です。

『沙羅の木』は鷗外53歳のときに刊行なのですが、けっこう不思議な本で、

構成が、ドイツの詩人の翻訳・自作の詩・自作の短歌の三部立てになっている。

それで、鷗外の残した仕事の中では、あんまり研究とかされてない本らしいのですが、

岡井さんはこの風変わりな書物の謎を新たに解明するのかと思いきや、

それほどしないです。

ときどきで鷗外の意図について考え、「~かもしれないのだ」とか言うだけです。

それよりは一個一個作品を読んでく過程を大事にする感じですね。

 

さて森鷗外。

わたしは実は今年になるまでさほど興味がなく、作品もあまり読んでいませんでした。

ところが今年、「新・観潮楼歌会」という、文京区の千駄木にある森鷗外記念館主催の

イベントに出たのがきっかけで、文庫とか読んでみて、すごくピンとくるものがあって、すっかり好きになりました。

わたしが好きなのは彼の歴史小説です。「阿部一族」「護持院原の敵討」「最後の一句」などの。現代物で「百物語」とか「鶏」もとてもよかった。「カズイスチカ」も好きでした。

逆によく言及されてるけど「かのように」とか「普請中」とか「妄想」とかは、よくないと思います。「かのように」とか、言ってること中二っぽい気がしますね。

歴史小説は、昔なのにスーパーリアルなんですよね。やりとりとか、こういう流れで切腹するのかとか。昔の人が昔の人の論理のまま動いていて、1ページごとにおどろきがある。いわゆる時代小説とはまったく違うもので、こういうものをわたしは読んだことがなかった。

そういうわけでけっこう鷗外ファンになったので、友人知人に鷗外トークをしかけてみたのですが、みんな反応がひどかった。「あの最低の人ですよね」という反応が一番多かった。

これはどうも教科書の「舞姫」押しのせいであるようです。

鷗外というと「舞姫」が定着しすぎていて、日本の近代を代表するクソメンみたいなイメージになってしまっている。

ちょっとおおげさに言うみたいですが、文学史へのリスペクトとか別にない人からすると、けっこうそんな感じになってるんですよね。

そこで、知人の学校教師に「舞姫」はもうやめよう、最高の歴史小説か、オフビートな現代物の短編にしようと言ってみたのですが、その人が言うには、

「『舞姫』は授業での議論が盛り上がる」

とのことでした。

そうかもしれない、という感じがしました。「現場の声」です。現場では現場の論理によって「舞姫」が求められているのかもしれません。世界の複雑さをあらためて感じる出来事でした。

 

 

この本には、取り上げる詩が一回一回全文引用されます。

『沙羅の木』に入っていないものも、話の流れでどんどん引用されます。

それを読むのが今回は楽しかったです。

 

シャボン玉   ジャン・コクトオ

 

シャボン玉の中へは

庭は這入れません

まはりをくるくる廻つてゐます

 

 

これとか、すごくよかった。

シャボン玉と庭の情景が自分の記憶のように焼き付いて、

もう忘れません。

上田敏による名訳と言われるものだそうで、日本語の音感とですます調の選択がパーフェクトな出来ですね。

 

歌会に出て、世代の若い歌人たちと話していると、わたしと翻訳詩読みの体験を共有している人は、少く(あるいは絶無に)なりつつある。

 

と岡井さんは書いていますが、わたしはそのとおり翻訳詩をろくに読んでいないので、この有名な「シャボン玉」も今回はじめて知りました。

次は鷗外の創作詩の冠頭のもの。

 

沙羅の木 

 

褐色(かちいろ)の根(ね)府川(ぶかは)石(いし)に

白き花はたと落ちたり、

ありとしも青葉がくれに

見えざりしさらの木の花。

 

 

各行が五七調になっている四行詩。

根府川石」は、神奈川県の根府川に産する輝石安山岩で、石碑などに使われるとのことです。

「褐色」は濃い紺色。

「さらの木」はいわゆるナツツバキの木で、十メートルに達する高い木、花は六月ごろ咲いて、あっさりと散る。

 

詩の意味するところは、濃い紺色の敷石の上に、今まで青葉にまぎれて見えなかった白い花が、あっというまに、高い木から散り敷いているというだけのことだ。これを象徴詩だという解があるので、それに従って思えば、これは単なる、眼に見たものを写生した即興の詩詠ではない。

落ちてこそ(死してこそ)、はじめて気付く花がある。それも背景に褐色の敷石があってこそ、はじめてあざやかにその存在に気付くということなのである。それらが、ア母音の頭韻風の扱いと、イ母音の脚韻風のあしらいによって、こころよい響きと共に歌われているのである。なお「根府川」のような地名―それも「ぶ」という濁音が目立つ単語―が、異物として、よく効いていて、詩の重石(おもし)になっている。

象徴詩として、つまり、石や花やを寓意のあるものとして解いてみたが、もちろん、これを庭の景色をみつめて作った即興の詩として読むことも自由である。

 

 

こういう感じで、岡井さんと一緒に詩を読んでいこうというのがこの本です。

わたしは、一緒に読んでもらわないとこれとかちょっと、一人では読めないですね。

普通に意味をとる。

音韻を感じる。

そして、寓意を考える。

この寓意っていう要素が、わたしにはあまりなじみのないもので新鮮でした。

古い詩とか読むときにはやっぱり欠かせない要素なんでしょうか。

でもこの詩はなんとなく好きでした。さっぱりしてて、上の方の見えないところに白い花がたくさん咲いているというイメージがこころよかった。

 

ほかには、これなんかも。

ドイツの詩人、デエメルの詩。

 

泅手(およぎて)    リヒァルト・デエメル

 

助かつた。さて荒海と闘つて

纔(わづ)かにかち得た岸の土を手で撫でた。

その土をまだ白沫が鞭打つてゐる。

さて荒海を顧みた。

 

さて灰色な陸の四辺(あたり)を見廻した。

陸は昔ながらの姿に、固く、又重くるしく、

暴風の中に横(よこた)はつてゐる。

 

ここはこれからも不断の通であらう。

さて荒海を顧みた。

 

 

これは、「およぎ手」なので、

「助かつた。さて荒海と闘って

わづかにかち得た岸の土を手で撫でた」

というのは、荒海の中を泳いできて、なんとか岸にたどりついたというシチュエーションになります。

 

鷗外の訳詩を一篇の人生寓話詩あるいは箴言詩として読んでみる。そうすると、わたしなどが、人生の争闘を諷刺しているなと思うのは、第二連の「陸は昔ながらの姿に、固く、又重くるしく、/暴風の中に横はつてゐる。」というところである。泳ぎ手の男は、荒海と闘って、やっと岸にたどりついた。「助かった!」と思ったのも束の間のこと。やっと戻って来た陸地が「昔ながらの姿で固く重くるしい」ものだったのだ。海も荒れれば大へんではあるが、かといって陸地も安らぎの地ではないのだ。そして「ここはこれからも不断(普段)の通(とおり)であらう。」(変りばえもしない、世界なのだ)という認識におちつく。と読めば「さて荒海を顧みた。」の最終行の感慨も、単純ではない。荒海が、なんとなく、なつかしい場所のように思われるのではないか、と読みとくことも出来るのだ。

 

なるほど。助かってやっとたどりついた陸地なのに、灰色で「昔ながらの姿で固く重苦しい」ところがポイントであると。

僕はこれもけっこう好きでした。雄々しい感じですけど、読むと灰色の平たい土地が広がってて気が遠くなるような感じがします。人生の寓話だと言われるとそうかもしれず、ハードな相田みつをというニュアンスもあるかもしれませんが、なんか、景色もそうだけど世界観が日本人じゃないような気がしますね。

 

こうやって一つずつ、古い詩を読んでいく本です。原文を引用したりもしながら。

けっこう楽しいですよ。古い訳詩はなんだか新鮮なものがあるし。

最後にもう一個好きだったやつを、長いので前半だけ。

 

馬と暴動  石原吉郎

 

われらのうちを

二頭の馬がはしるとき

二頭の間隙を

一頭の馬がはしる

われらが暴動におもむくとき

われらは その

一頭の馬とともにはしる

われらと暴動におもむくのは

その一頭の馬であって

その両側の

二頭の馬ではない

ゆえにわれらがたちどまるとき

われらをそとへ

かけぬけるのは

その一頭の馬であって

その両側の

二頭の馬ではない

 

 

岡井さんは「難解な寓話詩」と言っていますが、けっこうわかるような気がしますね。

まず二頭が走るんだけど、その間から一頭の馬が出てくる。その一頭の馬とともにいく。

というのは原文を繰り返してるだけなので、寓意を解するというのとまったく違うのかもしれません。でも何かやるっていうときに、そういう感じがあるというのはわかるような気がします。

こういうLINEスタンプがほしい気がします。自分の中に、二頭の間の一頭が出たときに、ドンと押してみたいと思います。

第33回 前田透『落合直文―近代短歌の黎明』

 「近代短歌」の祖、落合直文  堂園昌彦

落合直文―近代短歌の黎明 (1985年)

落合直文―近代短歌の黎明 (1985年)

 

 

こんにちは。堂園です。

 

今回やるのは、前田透著『落合直文―近代短歌の黎明』(明治書院、1985)です。

 

私の前々回、第27回で新体詩=明治10年代の話をしました。そんときに、「まあ、今回はこの話はこれくらいにして、明治20年代の話はまた今度にしましょう。」と書きましたが、今回こそが明治20年代の話です。ようやく本が手に入りました。

 

ちょっと復習しときましょう。以前にも書きましたが、明治期の短歌の改革の流れは

 

⓪政治の改革に忙しくて文芸改革まだ(明治ひとケタ年代)

新体詩の登場(明治10年代)

新体詩に影響を受けた様々な試み 落合直文与謝野鉄幹など(明治20年代)

③「歌よみに与ふる書」(明治31年)、『明星』創刊(明治33年)

 

でした。①は第27回でやりましたね。

 

で、今回は②のところ。主役は明治20年代短歌のキーパーソン、落合直文(1861~1903)です。

 

落合直文っていっても、たぶんほとんどの人は知らないと思います。ちょっと知ってる人でも「あ、あれでしょ? 近代短歌アンソロの一番はじめに載ってるひと。あと? あとは、うーん、よくわかんない」みたいな感じじゃないかと思います。私もまさにそんな感じです。

 

落合直文が近代短歌のスタート地点にいるのはたぶん定説っぽいんですが、ひとつ下の世代の、与謝野鉄幹佐佐木信綱正岡子規の、和歌改革三銃士にくらべて、かなり知名度が低いです。そのことは、この本のいちばん初めの「緒言」でも縷々述べられています。これ、ちょっと言い方おもしろいんで、引用します。

 

近代短歌の流れを遡って行くと、その水源地帯に連なる山々の、もっとも奥に位置する山に行き当たる。それが落合直文である。和歌革新期に屹立する群峯の奥に霧をまとって、今はもうさだかに見えぬ水源のこの山をきわめようとする人はまれである。それは、その山が意外に平凡であって、旧派和歌と峰つづきの、ほんとうに水源地であるかどうかも判然としない、きわめるだけの価値の乏しい山であると思われがちなことにもよろう。実際、直文の作物にはたいして取柄のない感じのものが多いことは事実である。(p.1) 

 

わお! 直文、いきなりディスられてます。「直文の作物にはたいして取柄のない感じのものが多いことは事実である」ってすごい言われようです。近代短歌の源流を探っていくと落合直文にたどり着くけど、見てみると旧派なんだか新派なんだかわかんないし、しかも作品そんなにおもしろくない、ってことです。

 

こないだ出た河出書房の日本文学全集『近現代詩歌』の穂村さん選でも、子規・鉄幹・信綱は載っているのに、落合直文は載ってないですしねー。実際、愛弟子鉄幹にも、落合直文はその「古典的趣味と古典的技巧」によって「実感の自由なる表現」が妨げられていた、とか言われてます。直文、けちょんけちょんです。

 

しかしよくよく読んでいくと、落合直文、なかなか侮れません。どうして、和歌が「近代短歌」になったのか。その話をするときに、落合直文は外して考えることはできないと思います。著者の前田透さんも「しかし、歌人直文の存在は決して小さなものではない」と述べています。直文、めっちゃ重要です。

 

落合直文のちゃんとした本は、実はこの前田透『落合直文―近代短歌の黎明』1冊しか読んでないんですが、たぶんですけど、現時点での直文の評論の決定版なんじゃないかな。それくらい、この本、おもしろかったです。

 

あ、前回「なるべく短くします」とか言いましたが、撤回します。今回くそ長いです。

 

 

はい、まず落合直文の生まれからです。落合直文は旧伊達藩の重臣・鮎貝盛房の次男として、明治維新(1868年)のちょい前に生まれました。1861年(文久元年)、現在の宮城県気仙沼市の生まれです。

 

生まれから話始めるのは、タルいかもしれませんが、今回けっこう社会の話したいので、わりと重要なんです。すいません。

 

「旧伊達藩の重臣の子として明治維新のちょい前に生まれた」ってどういうことかというと、生まれてちょっと経つと実家が速攻没落した、ということです。明治維新は薩摩・長州・土佐・肥前の各藩が中心となって行われましたから、旧体制派であった伊達藩は、明治政府ができるとかなり縮小させられてしまうんですね。

 

で、直文ん家である鮎貝家も、お家お取りつぶしではないものの、部下や召使を全部解雇しなきゃいけないくらい貧乏になってしまい、多かった兄弟もほとんど養子に出さざるを得なくなります。

 

うわー、困った。しかし、この次男の直文(このころは幼名・亀次郎)は、かなり勉強ができました。12歳のときに地元仙台に仙台中教院という僧侶・神官を育てる学校みたいなのができたので、入学します。で、その運営をしていた国学者・神官の落合直亮(なおとし)に才能を見込まれて、落合家の養子になります。

 

この落合直亮は明治中期に「仙台六歌人」と称された桂園派(=伝統派)の歌人でもありましたので、家庭環境的に、和歌の素養があったみたいです。落合直文も影響を受けてか、若いころから和歌を作っています。あと、このお養父さんは元々は尊王攘夷派の幕末志士で、新政府の要人である岩倉具視を暗殺しようとして逆に丸め込まれたという過去を持っていたりします。

 

そんなこんなで直文(亀次郎)は、神官の家の子になりました。ゆくゆくは自分も神官になるつもりで、学校で勉強しています。17歳のときにお義父さんの落合直亮が、別の神官養成学校である伊勢神宮教院に招かれたので、亀次郎もついていきます。伊勢なので、三重県ですね。

 

そろそろ直文のキャラがどんな感じかわからないと、読んでてイメージしにくいと思うので17歳ぐらいの時の直文(亀次郎)の学校での評判を言っておくと、

 

亀次郎の寮の副寮監であった青戸波江(のち国学院教授、神道学の権威と言われた。(略))は、亀次郎が勝ち気で負けぬ気の性格であり、撃剣に秀れ、野仕合の時には寮生がきそって落合方に入ろうとしたこと、青戸と有神無神の議論をして、青戸が無神論で圧倒すると口惜涙をぽろぽろこぼして立ち向かって来たこと、歌は堀秀成・植松有園に習い特に有園を敬慕したこと、寮で一夜百首会をやったことなどを語っている。(p.41)

 

という感じでした。

 

スポーツも勉強もできて議論好き、クラスの人気もあって、自分に自信のある勝ち気なタイプですね。

 

まー、線の細い文学青年ではなく、はったりの効いたガッハッハタイプでしょうか。「和歌がうまい」っていう評判もかなりあったみたいで、かなり嘘っぽいんですが「桜の歌を二万首詠んだ」とかいう伝説もあるとかないとか。

 

勝気で負けずぎらいな、才気煥発と大言壮語癖のある、東北出の青年、といったものであって、歌に思いをひそめる文芸好きな若者という感じは全くない(p.43)

 

て感じですね。

 

この神官学校は政府から保守系の人材を養成することを求められていたんですが、実際の勉強は博物学とか、ギリシャ・ローマ史とか、新旧約聖書の勉強とかも入っていたらしく、けっこう開明的でした。それがあってか、だんだん同じ保守系仏教側からいちゃもんつけられたりしだします。亀次郎はここで頭角を現し、のびのびやってたんですが、ごたごたしてきたんで「東京に上京したいなあ」と思うようになっていきました。

 

それで、明治14年に21歳のときに、東京に出ます。私塾である二松学舎にちょろっと入って、翌年、22歳で東京大学古典講習科(のちの文学部国文科の前身)に入学します。

 

はい! 直文が東大に入って幼年期が終わったので、そろそろ社会の話をします! めんどくさいとは思いますが、覚悟して聞いてください。

 

直文のこの時点での社会的階層(クラス)はどんなところにいるのか。それを説明したくて、これまで長々しゃべってきました。

 

まず、旧体制派である伊達家の子弟という出身。これは、薩摩・長州・土佐・肥前出身ではない、ということを意味します。つまり、明治政府の中枢を牛耳っていた藩閥に入れない、非藩閥系士族の子弟ということです。

 

要するに、エリートではあるけれども、政治に直接かかわるスーパーエリートにはなれないということを意味します。どう頑張っても軍人・政治家として頭角を現すのは難しいということです。

 

これにかなり近い境遇なのが、旧松山藩士の長男である正岡子規ですね。直文より6歳年下の子規も、同じように東京大学へ行き、国文科に進学しています。

 

こういう環境の若者たちはどうするのか。言ってしまえば、学問や文学くらいしかできることがないのです。

 

維新後最後の武力反乱となった西南戦争の終結と共に、明治藩閥政府の中央集権は強固なものとなり、従前にもまして東京がすべての中心となった。どの分野でも社会の上層部に抜け出ようとする青年には、東京に出るということが先決問題であった。殊に旧「賊軍」佐幕藩士族の子弟は、軍人になっても先の望みがなかったから、東京で学問をして身を立てることが、残された活路である。(p.53)

 

鹿島茂はこのことを『ドーダの人、森鷗外』(2016、朝日新聞出版)で、人口動態から説明しています。

 

まず、人口のうち青年男子の識字率が50パーセントを超えると、政治的な革命が起きます。この状態は「息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界」であり、必然的に家庭内での権威関係が不安定化し、ゆくゆくは国家体制をゆるがす、ということです。

 

青年男子の識字率が50パーセントを超えるのは、フランスでは1770年ごろであり、日本では1850年ごろだそうです。そこから社会は不安定になり、20年後くらいに革命が起きます。すなわち、1787~1799年のフランス革命であり、1868年の明治維新です。

 

これを日本のケースに当てはめた場合、一八五〇年から六〇年の間に二十歳に達した男子というと、一八三〇年から一八四四年まで例外的に続いた天保年間に生まれた世代ということになる。たしかに、この天保世代の男子、なかんずく、あらたに識字階級となった下級武士階級と上級農民階級の青年が明治維新を担ったのだ。彼らは、いずれも保守的な父親や家族と戦い、家庭内でのしがらみを断ち切って江戸へ京都へと出奔して行った。(『ドーダの人、森鷗外』p.64)

 

で、政治的革命が起きた後30年くらいして、今度は文学・思想の革命が起きます。フランスでは、1830年前後にロマン主義革命が全盛になり、日本では明治20年代に坪内逍遥、森鷗外たちが登場してきます。

 

なぜ政治的革命の約30年後かというと、政治的革命によって公教育が普及し、都市部の商工業者、官吏、あるいは没落した中産階級、農村の有力者などの下層中産階級が識字階級に組み込まれるからです。

 

親には多少の金があっても教養がないか、あるいは多少の教養はあっても金がないというような中間階級の子弟、とりわけ男子が公教育というバイパスによって識字階級に組み入れられることになったのである。(『ドーダの人、森鷗外』p.66)

 

旧伊達藩の重臣の子である落合直文は、ばっちり「没落した中産階級」です。

 

ところで、この公教育世代というのは、政治体制は革命から三十年以上経過し、社会は政治的に安定を見ているため、前世代の政治・社会的なドーダ人間(堂園注:政治・社会的行為で自己愛を満たす行動をする人々)と異なって、政治権力の奪取には向かえない。政治分野はすでにニッチが塞がっていて、付け入る隙間は存在していないのだ。(『ドーダの人、森鷗外』p.66)

 

なので、文学・思想に向かうんですね。明治20年代の日本に急に文学者が出て来るのは、こんな理由によります。具体的には、慶応4年(1868年)を挟んで前後5,6年の間に生まれた人々が、明治の文学革命を担っていきます。

 

坪内逍遥 安政6年(1859)

落合直文 文久元年(1861)

森鷗外 文久2年(1862)

二葉亭四迷 元治元年(1864)

夏目漱石 慶応3年(1867)

幸田露伴 慶応3年(1867)

正岡子規 慶応3年(1867)

山田美妙 慶応4年(1868)

北村透谷 慶応4年(1868)

巌谷小波 明治3年(1870)

国木田独歩 明治4年(1871)

田山花袋 明治4年(1871)

島崎藤村 明治5年(1872)

岡本綺堂 明治5年(1872)

与謝野鉄幹 明治6年(1873)

 

という感じ。この人たち、ほとんどが非藩閥系士族の子弟なんですね。

 

また、没落した旧体制派の子弟で、かつ尊王攘夷の志士くずれである国文学者・神官の家の養子となったという出自は、反権力的であり、素朴なナショナリストの性格を直文に植え付けることになりました。パブリックなものに関わっていこうという意識がかなり強いです。ここもポイントです。

 

パブリックなものにかかわって行く姿勢は、明治中期以後の詩歌人にはほとんど見られない。それは『小説神髄』以降、小説作家から「公」への志向が脱け落ちて行ったのと同様である。日本近代文学は「公」へかかわって行く視点を消去して、「私」の内部に下降することを正道とした。(p.47,48)

 

 

はい、落合直文の社会的クラスはこんな感じなんですが、直文自身はかなり生き生き勉強します。東大古典講習科が馬に合ったみたいです。勉強のできる直文は、ここでもめきめき目立っていきます。

 

かなり楽しく過ごしていたんですが、なんと政府から突然徴兵の報せが来ます。これには直文びっくりしました。当時、家の長男とか養子とかは、だいたい徴兵免除されていました。長男が戦争に行って死んでしまうと、家がなくなってしまうからです。養子もだいたい跡取りなんで、おんなじです。落合家の跡取りだった直文には、普通、徴兵の命令が来ることはないはずなんです。

 

なにかの手違いか、嫌がらせか。このへんよくわかってないらしいんですが、直文はしぶしぶ東大を退学し、中国で3年間の兵役につきます。向こうではそれを同情されたのか、文章読んだり書いたりできる、それほどしんどくない仕事に就かされたようです。

 

3年後の明治20年、27歳で兵役から帰ってくると、お養父さんの落合直亮は地元宮城県気仙沼に帰ってきて教師でもやれよ、というのですが、直文は学問・文学で身を立てると宣言します。大学中退しちゃって地元で教師になってもそんな偉くなれないし、あと、国文学がなんか性に合ったんでしょうね。

 

学問・文学で身を立てる覚悟のためか、このころから、幼名の「亀次郎」ではなく「落合直文」を名乗っています。

 

はい、このあたりから第27回を思い出してください。明治15年に『新体詩抄』が出て、文芸の世界では新体詩がメインストリームになるというあのくだりです。

 

落合直文の名前が初めて活字になったのは、明治21年2月発行の「東洋学会雑誌」に発表された「孝女白菊の歌」です。これ、第27回でも出てきましたね。

 

阿蘇の山里秋ふけて

ながめさびしき夕まぐれ

いづこの寺の鐘ならむ

諸行無常とつげわたる

をりしもひとり門(かど)に出で

父を待つなる少女(をとめ)あり……

 

これですね。

 

これで直文は、バン! と有名になります。この「孝女白菊の歌」は大評判で、1年のうちに17の雑誌に転載されたそうです。

 

なんでしょうかね、愛唱性があったんですかね。『新体詩抄』の詩は硬かったですから。当時唱歌の流行が始まっていて、「孝女白菊の歌」は歌唱としてメロディつきで歌われることで、全国的に広まっていったみたいです。

 

古典講習科の後輩である佐佐木信綱が初めて落合直文に会ったとき、「孝女白菊の歌も読んでおり、その文名はよく知っておった」とか言ってますから(佐佐木信綱『作歌八十二年』)、そうとう名前は知られてたみたいです。佐藤春夫とか和辻哲郎とかも、小さいころに愛唱したと言っています。

 

同時にいろんな学校にも国文学の講師として出向くんですが、ここでも人気沸騰。一高(第一高等中学校)の講義は人があふれて入れないほどだったそうです。

 

そんな感じで名前が有名になったせいか、明治22年にドイツから帰ってきたいっこ下で27歳の森鷗外に「一緒に文学をやらないか」と誘いを受け、「新声社」というグループを形成します。そして、新声社が出版したのが、日本文学史上に名高い翻訳詩集『於母影』です。

 

『於母影』は、まず森鷗外がドイツ語の詩をざっと訳し、それを新声社のメンバーがよい日本語に整えてく、という制作過程を取ったそうです。文芸的にはまだ無名の鷗外は、当時最もメジャーな新体詩人としてかなり直文を頼りにしていて、いろいろ文法や仮名遣いを聞いたみたいです。 

 

実は森鷗外の先輩・先生格なんですね、直文は。そりゃえらいわ。後年、直文が亡くなったあとに森鷗外は一高の受験に失敗した直文の長男を一時家に預かっていて、鷗外はかなり寂しい人だったらしく、家族が出払うと直文の息子はよく話相手をさせられたのだとか。

 

余談ですが、この直文の息子さんは学識豊かな鷗外とのトークがよっぽど楽しかったらしく、熊本の第五高等学校に入ったのですが、鷗外の話に比べて学校の講義がいかにもつまらなく、せっかく苦労して入った第五高等学校を中退してしまいます。その後朝鮮に渡ったあとも、鷗外の命日には彼が大好きだったふかし芋を、どんなに小さくとも細くとも探してきて、必ず写真に供えていたそうです。鷗外のことが大好きだったんですね。

 

続いて、直文はがんがん新体詩を作っていくのですが、同時に、国文学者として新しい国語・国詩をつくらにゃならん、という考えになっていきました。これも第27回に出てましたね。この頃はいろんな人が新たな統一した日本語を作るために四苦八苦していたのです。

 

で、国文学の中心はやっぱ和歌だろう、ということで和歌改革に乗り出し、旧い和歌を批判する文章も書いていきます。実はこの頃、これが流行りで、いろいろ書かれました。

 

やっぱり明治15年の『新体詩抄』ショックはけっこうなものがあったみたいで、なにしろ「和歌はもう時代遅れ」みたいなこと言われたわけですからね、そんで、歌人のほうもそれにリアクションしなきゃいけなくなったというわけです。

 

代表的なものは、明治17年~18年の末松謙澄の「歌楽論」とか、明治20年の萩野由之の「和歌改良論」とか、明治21年の佐佐木弘綱(信綱のお父さん)の「長歌改良論」とか。「歌楽論」なんかは子規に先駆けて、万葉集の重要性を言っていたりします。いちいち名前覚える必要ないですけど。

 

ただ、こういうの読んでると、明治31年の子規の「歌よみに与ふる書」もそれ単体で出てきたのではなくて、当時のトレンドに乗っかってるのがよくわかります。ちょっと脇道に逸れますけど、昭和33年に出ている『明治短歌史―近代短歌史・第1巻』(春秋社)に、窪田空穂がこの頃の思い出を書いていて、おもしろいので引用します。当時の文学青年がここらへんの流行をどんな感じで見てるのかわかります。

 

 第一に思い出すことは明治三十年の初頭の歌界というものである。(略)

 私たち文学青年(私は未熟な者で、その数にも入らない者であったが)には、『文庫』、『新声』(『新潮』の前身)などの投書雑誌があって、これが私たちには甚だ魅力あるもので、創作欲も発表欲も優に充たしてくれて、それで事足りていたのである。

 

当時も投稿がだいぶ流行ってたみたいです。意識高い文学青年は、そういうとこに投稿してた、と。

 

 『文庫』、『新声』の叙情詩方面、すなわち新体詩(現在の詩)、和歌、俳句に限っていうと、私の知る範囲では、新体詩を作る者が最も多く、まれには俳句を作る者もあったが、和歌を作る者は全然なかった。これは理屈あってのことではない、和歌というものは少しも面白みのないもの、つまらないものとして見切りをつけられていたからである。ここに和歌というのは、御歌所系統のそれである。御歌所系統の和歌は、当時の青年には精神的に何のつながりもなく、完全に消滅していたのであった。

 

投稿欄はあったけれども、みんな新体詩ばっかり作ってて、和歌を作るやつなんかいなかったと。

 

明治30年くらいなので、明治10年生まれの空穂は20歳くらいです。『新体詩抄』が出た直後から、新体詩の投稿が若者のあいだで流行ったことを思い出してください。それに比べて和歌は、当時の若者からすると、もう完璧にダサいものだったんですね。

 

 当時は落合直文・池辺義象・萩野由之の三氏は、新進の国文学界の権威者で、和歌の革新を唱道した。しかしほとんど反応がなかった。老成者は頷いても転回はできず、文学青年は問題にしなかったからである。正岡子規の「歌よみに与ふる書」は、或る程度の反応があったようであるが、これはそれを発表しているのが『日本』という勢力のある日刊新聞の紙上だったからで、勢い多くの人の注意を惹いたからである。私などでさえ、子規ともあろう人が、なんだってこんなきまりきった、問題にするにも足りないことを取り上げたのだろう、と怪しんだくらいで、それが実感だったのである。

 

「子規ともあろう人が、なんだってこんなきまりきった、問題にするにも足りないことを取り上げたのだろう」、これ、けっこう興味深くないですか。あの「歌よみに与ふる書」がですよ。

 

ただ、いまも「完全口語で短歌を作ろう!」というと、短歌の世界ではまだまだラディカルな部分がありますが、短歌を読んでない人からすると、いまさら何言ってんの? 今21世紀ですよ、21世紀、とかなりますもんね。子規が「古今集ふるい!」とか言っても、ふつうの文学青年からすると、そっすか、みたいな。

 

正岡子規による短歌の大革新!!」とか言ってると、こういうことがわからなくなります。

 

いや、子規はえらいんですよ、もちろん。それはそれとして、革命というのはいきなり起きるんじゃなくて、連続性の中にありますから。

 

ちなみに、子規が万葉集に目覚めたのも、明治26年に落合直文の弟の鮎貝槐園と仙台で6日間ぶっ続けで短歌の話をして、槐園から万葉集を教えられてからです。そのとき子規は「私は和歌はよくわからない。古今集は面白いと思ってんですけどねー」とか言ってたらしいですが。

 

で、空穂は続けて、その後「なるほど今までにない心親しいものがある、面白いものだ、もっと観たい、できるなら自分もして見たい、という誘惑」を和歌ジャンルにおいて初めて感じさせたのが『明星』だった、と告白しています。実際、のちに空穂は『明星』に参加するようになります。

 

若者を和歌の世界に取り戻したのが、『明星』だったんですね。そりゃすごい。『明星』なかったら、完璧短歌ほろんでましたね。そのうち『明星』の話もやりたいと思います。

 

はい、で、話を落合直文に戻すと、直文も和歌改革のために明治24年に和歌入門書『新撰歌典』を書いたり、明治25年に「歌学」という和歌雑誌を創刊したりします。

 

『新撰歌典』は用語を「今の普通語」を使ってよいとしたり、題を先に決めて想を表す題詠の不自然さを指摘してたりします。まあ、実はここらへんは明治20年の萩野由之の「和歌改良論」ですでに言われてたりしてたんですが、他に、感情の動きを重視しています。これは後の鉄幹に通じる主張です。この本、かなり読まれたみたいで、明治29年までに6版になってます。ということは、明治31年の「歌よみに与ふる書」までに、こうした考え方はけっこう広まってたということです。

 

また、雑誌「歌学」では、御所派とか古典派とか新桂園派とか、あるいは民間の歌人とかに関わらず選歌をすることで、流派の垣根を取り払おうとしています。これも、それまでではなかったことです。

 

直文は「歌学」で「かのやむごとなき公達のたはぶれ、かの世をそむける老人のたのしみ」から歌を開放し、「すべての国人、ことに青年有為の人々に」将来を託する宣言をしています。貴族や老人から和歌を解き放って、青年によって作られることを期待しました。

 

要するに、直文(や、他の人々)は、新派和歌を作っていくための露払いをしているのですね。そうして直文が均していった道に、鉄幹や信綱や子規が続いていったというわけです。

 

直文の革新運動は、最終的に「浅香社」に結実します。これは、短歌結社の前身みたいなもので、直文の声名を慕って若者たちが直文の家に集まってきて、グループみたいになったやつです。直文が住んでたのが本郷区駒込浅嘉町だったんで、浅香社。メインメンバーは直文の弟の鮎貝槐園と、与謝野鉄幹。のちに金子薫園、服部躬治、尾上紫舟らが参加します。

 

週2、3で歌会やったり、新聞「日本」にグループで短歌発表したりしてました。新聞「日本」は子規が「歌よみに与ふる書」を発表したとこですね。

 

鉄幹は当時20歳。なんか家の目の前のお寺で超貧乏生活をしていたところを、直文が憐れんで家に連れてきたみたいです。2月の雪の日で、煎餅布団にくるまってあんまり寒そうだったので、と。直文はメジャー新体詩人でしたから、元々鉄幹は直文を尊敬していて、文学上の関わりはすでにあったみたいですが。

 

鉄幹門下からは、石川啄木北原白秋吉井勇などが出てきますし、薫園門下からは土岐善麿・吉植庄亮、紫舟門下からは、若山牧水前田夕暮らが出てきます。そりゃ、近代短歌の源流をたどっていくと、落合直文にたどり着きますよ。まじで。

 

 

さて、ようやく直文の作風の話ができます。長かった。

 

直文、生涯のうちにけっこう作風が変わってます。ほんとに若いころの作品は、まだ完全に旧派っぽいんですが、変わってきたのはこの辺から。明治25年の作品。

 

緋縅の鎧をつけて太刀佩きて見ばやとぞ思ふ山桜花

 

緋縅は「ひおどし」。赤い鎧ってことです。直文はこの歌で「緋縅の直文」の名前を得たそうです。

 

なんでしょうね。桜を見ているときのヒロイックな気分を歌った歌というか。直文のお義父さんが尊王攘夷派の志士だったことを思い出していただければと思います。こう、幕末志士を引きずっているというか、志士として理想のために美しく死ぬぞ! みたいなテンションが背後にあって、「見る」という意志的な行為で美のひとつの形を強調してます。

 

ここには、日清戦争(明治27、28年)前夜のナショナリスティックな気分が強く表れています。

 

いちおう、比較のために、同時代の旧派の歌で桜を歌ったものを挙げてみると、

 

さくら花さきてののちの雨ならばいかにわびしき日数ならまし  渡忠秋

 

みたいな感じでした。

 

直文の歌は今読むとげんなりするところあると思うんですけど、当時の旧派和歌の「花鳥風月……」「雅……」みたいな、なよなよした歌に比べると、やっぱり新しかったわけです。まずはこんな「雄壮活撥なる歌」を出して、旧派和歌の類型的な言語観とは異なる美意識を提示しました。

 

で、この作風は鉄幹に受け継がれました。聞いたことありますかね。「虎剣調」ってやつです。

 

いたづらに、何をかいはむ。事はただ、此太刀にあり。ただこの太刀に。  与謝野鉄幹『東西南北』

 

鉄幹の最初期は、もろ直文に影響うけてます。鉄幹は直文の弟の槐園と一緒に朝鮮に行って、政治活動に関わったりするんですが、その頃の歌がこの「虎剣調」です。こうした歌は、自我を現実世界に開放しようとする過程で、パブリックなものに関わっていこうとする方法を取っています。

 

こういう歌は、なんというか、ローラーでガガガッと言葉を地ならししているようなところがあります。まずは強い言葉で、美意識を変えちゃう、と。

 

しかし、なんすかね、こないだの新体詩もそうだったんですけど、言語や芸術が変わっていくときの始まりには、ナショナリスティックなものが避けられないんでしょうか。

 

まあいいや。で、直文も鉄幹も最初はこんな感じだったんですけど、日清戦争が終わると、作風が変わっていきます。それは、戦争前はナショナリズムの理想の時代だったのが、戦争後は「戦後経営」の経済の時代に移っていったからです。

 

正直、この時代の変化は、私はよくわかっていないのですが、この本にはそんなことが書いてありました。たぶん、簡単にまとめると「緋縅の~」みたいにテンション上げる言い方が、昔はよい反応だったのに戦後は、「え、なにいってんの、今は経済でしょ」みたいに変わったんだと思います。ぜんぜん自信ないけど。

 

で、鉄幹は政治の理想にやぶれて、「虎剣調」の鉄幹から、『紫』の鉄幹になります。

 

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子  与謝野鉄幹『紫』

 

みたいな作風にチェンジしました。「明星」の作風ですね。自我の解放を、政治から恋愛とかの方向に変えた、ということです。

 

直文の歌もこんな感じに変ります。

 

をとめ子が泳ぎしあとの遠浅に浮輪の如き月浮かび来ぬ

 

「緋縅の~」とぜんぜん違います。こういう、少女達が去っていた浜に浮輪のような月が浮かんでいる、という風景は日本の和歌の伝統にありませんでした。西洋絵画的な視点です。この作風が与謝野晶子に継承され、「明星」の浪漫主義の作風になっていきます。

 

あるいは、

 

砂の上にわが恋人の名をかけば波の寄せきて影もとどめず

 

なんていう普通の言葉を使い、かつロマンチックな歌も作っています。これもぜんぜん旧派の「花鳥風月」じゃありません。「恋人」なんていう言葉を初めて短歌に使ったのは直文のこの歌ではないか、と言われています。これなんかは啄木に継承されていったと考えられる、と著者の前田透さんは言っています。

 

かといって、直文は浪漫一辺倒ではなく、写実的な、現実主義的な歌も作っています。

 

霜やけの小さき手もて蜜柑むくわが子しのばゆ風の寒きに

 

とか、すでにかなり「近代短歌」ですし、

 

賤が家の門のはひりに樫の実のひとつこぼれて冬は来にけり

 

これは初期の歌ですが、ちょっと子規を先取りしているようなところがあります。

 

また、子規の有名な歌、

 

瓶にさす藤の花房短ければ畳の上にとどかざりけり  正岡子規

 

が作られるすぐ前に、

 

文机に小瓶をのせてみたれどもなほたけ長し白藤の花  落合直文

 

なんていう歌を直文は作ってたりします。よく似てますよね。この頃、子規は直文の歌をひどく批判していたので、どうも子規は直文の歌を見て、あえて逆のことを詠ったんじゃないか、と言われています。

 

ただ、文体レベルでは、子規のほうがやっぱり徹底度が高くて、子規の歌では畳の上に花が届かないことに気づく=視点が低いことがわかる=作者は病で寝ている、のように主体の状態まで表すのに対し、直文の歌はそういうところはありません。

 

あと、こういう写実的な歌を作ったあとに、急に旧派っぽい、なんの取り柄もない歌を無邪気に作ったりするんですよね。このあたりが直文があんまり言及されない理由なのかなーと思います。おもしろいと思いますけどね、落合直文の短歌。

 

直文の浪漫的な歌は「明星」ができてそこに歌を出すようになって増えていきますし、また、写実的な歌も子規と直文のどっちが先、と簡単には言いにくいところがあります。たぶん、相互影響があったんでしょう。師匠と弟子となると一方的に弟子が師匠の作風を学んだり、ライバルというと正反対の作風、みたいにイメージしちゃいますけど、弟子が師匠に影響与えたり、ライバルの作風をパクッたり、ぜんぜんありますもんね。

 

前も言いましたけど、「文学史」と思うとなんか文豪は歴史上の人物になっちゃって、あらかじめ運命みたいに決まったことをしてるみたいに見えますし、今回のこの記事もそんな感じで読めちゃったら申し訳ないんですけど、いっこいっこ読んでくと、実際にはそれぞれの作者たちは思い付きで行動して、探り探りやってることがよくわかります。で、作風も「アララギ派」とか「白樺派」とか「無頼派」とかキャッチコピー的に決まってたわけじゃなくて、わりと互いの作品を読みまくって、影響受けまくってます。

 

だっていま口語で短歌を作ろうとすると、斉藤斎藤とか永井祐とか木下龍也とか読みますよね。こんな感じなんだー、って。で、自分でも真似したりずらしたり。それとおんなじだと思います。

 

ただ、そんな感じでどっちが先とか言いきれないところもあるんですけど、大きく見ると落合直文がパイオニアなのはほんとに否定できなくて、結社というものにおいても、近代短歌の文体においても、あらゆることを先取りしてるとこがあります。よく「旧派と新派の折衷的」とか「微温的」とか言われることの多い直文ですが、ぜんぜんそんなことなくて、そのことは何度も何度も著者の前田透さんがこの本で主張しています。

 

やっぱりけっこうすごい人なんじゃないですかね、落合直文

 

そして、晩年は「明星」に歌を発表したりなんかして、明治36年12月16日に、持病の糖尿病からくる肺炎の合併症で、落合直文は亡くなります。享年41歳。若いです。辞世の歌は次の歌。

 

木がらしよなれがゆくへの静けさのおもかげゆめみいざこの夜ねむ

 

前田透さんの評を引用します。

 

木枯の音にとりまかれた直文は、終末感の中に永生の平安を夢みたのであろう。そこに、この世の人のおもかげを重ね合わせたこの歌は、声調の深沈とした哀切と、屈折のある豊かな内容によって明治の秀歌の一首に数えられる資格がある。(p.211)

 

 

はい、長くなりました。最後に子規と直文のエピソードを紹介します。金子薫園が昭和9年に「現代」に書いた話です。時代は明治34年3月。子規が「墨汁一滴」に毎日のように直文の悪口を書いていたときのことです。

 

 先生が晩年から著述のために、南品川の万松軒といふ或る旅館に滞在して居られた時のことである。その頃、正岡子規が日本新聞に病牀での随筆を連載して居つた中に、胃腸がひどくわるくなつて林檎のもみ汁か何かでなければ通らぬといふやうな事が出て居つたのに、先生はひどく同情された。すると丁度先生の郷里に近い盛岡から非常に見事な林檎がとゞいたので、すぐ、それを見舞に贈らうとされた。

 そしてふいとその日の日本新聞を見ると当時与謝野寛氏主宰の「明星」に載つた先生の歌を子規が批難攻撃した文が出初めてゐた。その時先生は当惑された。何で当惑されたのであらうか。

 子規の折角自分の歌を批評してくれようと思ふのに、この林檎など贈つたら筆鋒が鈍つて、幾分緩和するやうなことでもあつては遺憾である。また自分としても、かういふ矢先きに贈るのは、何かうしろめたいものがある。かういふ事を感じられて、その日は林檎を贈ることをやめにされた。するとその次の日も、またその次の日も続いてその批難攻撃の文が出てゐるので、先生はその林檎を籃にいれたまま、とうとう腐らせてしまつたのである。この一事を以て見ても、先生がいかに人情味があつく思ひやりが深かつたかを想はせるものがあるではないか。(金子薫園「林檎を腐らせた話」)

 

直文ー!! 林檎ー!! 直文ー!!

 

あ、あと蛇足なんですが、この本は前田透さん(前田夕暮の息子さん、いまはその系譜が「かばん」につながることで有名でしょうか)の遺作だそうですが、理知的な文体や、ふっとした瞬間に記述される自身の体験に根ざした戦争への批判がかっこよく、すっかりファンになりました。

 

今回はこんなところです。それでは。