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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第3回 岡井隆『辺境よりの註釈 塚本邦雄ノート』

土岐 評論

星を動かす眼 土岐友浩

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辺境よりの註釈―塚本邦雄ノート (1973年)

 

サブタイトルにある通り、岡井隆塚本邦雄を読む、という本である。

書き出しは、こうだ。

九月十日 これより一日も欠かすことなく、塚本大人(うし)が歌の註を為すこととしたい。重陽節もすぎ、秋風しきりに部屋内(へやぬち)をふきぬける宵。 *1

気合が入っている。格調高い文体から、さあ書くぞ、という静かな熱気が伝わってくるではないか。

辞書と百科事典を座右に、岡井はさっそく歌集『水銀傳説』の分析に取りかかるのだが、次の日いきなり仕事に忙殺され、毎日書くという目標がわずか一日で挫折してしまう。

二日後のノートを読むと、 

今後、わたしは精励の習慣を放棄して、もっぱら波まかせ風まかせの体たらくになりかねない。このノートが妙に断片的になるとすれば、一部は九月十一日夜筑城町の夜のせいである。 *2

何があったのか、早くも心が折れている。文体の気の抜け方、この落差の大きさはどうだろう。行間から悔しさがにじみ出ているようだ。

しかし岡井はここから気を取り直して、『辺境よりの註釈』を再開する。

 

 *

 

『辺境よりの註釈』は2部構成で、第1部は塚本邦雄の総論的なノート、第2部は塚本の第七歌集『星餐圖』を読むノートとなっている。それぞれ3ヶ月ほどの期間をかけて書き継がれたものだ。

 

第1部では塚本の歌をいくつか取り上げ、モチーフや語彙、韻律などの多角的な視点から、ゆっくりと、深く読んでいく。ノートだから、特にまとまった構成というものがあるわけではない。余談、雑談もたくさんあるのだが、それが抜群に面白い。いわゆる評論文とは違う、脱線の醍醐味を存分に味わうことができる。

 

壮年。実はそんなものはありゃしない。わたしたちは、いつまでも青年のつもりでいる。そして、いつのまにか老年期に入っているのに気付く。壮年の語は、一種欺瞞的なまで浪曼的である。  *3

たとえば「壮年」という語が歌の中に出てきたら、岡井は鑑賞の筆を進めつつ、ふと歌から離れて、こんな感慨を書き留める。

かと思えば、こんな一文が飛び出したりするから、油断ならない。

昨夜は、宿直室へまぎれ込んだ蟹になやまされどおしだった。 *4

僕は思わず自分の眼を疑った。「蚤」の間違いかと思った。

茂吉は「蚤」に悩まされたが、岡井隆は夜、病院で当直をしていたら、どこからか「蟹」が入り込んできたというのだ。しかも一匹ではないらしい。いったいどんな病院なのだろうか。

とても気になるが、蟹闖入事件の顛末は詳しく書かれておらず、代わりになぜか、この夜につくったらしき蟹の俳句が三句、ノートに記されている。

仲秋の蟹硝子戸をよじのぼる
方丈のとのゐのそとへ蟹を遣(や)
患児熱鎮まるべしや夜半の蟹

句の中でも、やはり「蟹」の存在感がシュールだと思う。

ところでこのノートが書かれたのは1972年、岡井隆は当時44歳で、歌壇から離れ、九州の田舎に移り住んでいた。

たしかこの時期、岡井は短歌をつくっていなかったというインタヴューを読んだような気がするのだが、それを踏まえると、ここで俳句が出てくることが、なおさらシュールなものに思えて仕方がない。

 

乳房その他に溺れてわれら在(あ)る夜をすなはち立ちてねむれり馬は

塚本の歌は「読み」がひとつに定まらず、しばしば難解だと言われる。

たとえばこの歌、「乳房その他」の「その他」とは何なのか。女性の身体のことか、それとももっと別の何か(「工芸品の美、数学の整序たる法則性、自然のエネルギー、ギャンブル、酒等々」 *5)に溺れているのか。「われら」とは誰のことなのか。そして「われら」と「馬」との関係は。

読むほどに別の可能性が浮かび、「読み」が分かれる。だが、それはまさしく塚本が、そのように歌をつくっているからだ、というのだ。

近代短歌は、基本的に歌意がひとつで、「読み」がぶれるということはない。塚本の歌はそのことへのアンチテーゼで、多義的だが、そこが魅力なのだという岡井の視点は、僕にとってはコペルニクス的な転回だったというか、とても本質的なことを教わったようで、唸らされた。

 

 *

 

第1部だけでも、まだ紹介したい話はたくさんあるのだが、個人的には特に第2部の「星餐圖ノート」が面白かった。

時系列でいうと、先に書かれたのは第2部のほうだ。「星餐圖ノート」を書き終えた後、依頼があって書かれたのが第1部で、だからこちらはある程度、読者の眼を意識した文章になっている。

第2部はもっとプライヴェートな、公表を前提とせずに綴られたノートなのだ。

 

『星餐圖』はこの歌から始まる。

青年にして妖精の父 夏の天はくもりにみちつつ蒼し

岡井は「青年にして妖精の父」という上の句を「要素α」、下の句を「要素ω」と名づけ、それぞれのイメージを繊細に読み込んでいくのだが、長くなるのでその詳細は割愛したい。

興味深いのは、この一首が「歌として不出来」で「失敗」だという、岡井の見解だ。

その原因は「モチーフの展開過程」にあるという。平たく言えば、韻律に難があるということだ。

たしかにこの歌は、

青年に/して妖精の/父_夏の/天はくもりに/みちつつ蒼し

と、全体的にリズムがつっかえている印象を受ける。特に「青年に/して〜」という最初の句またがりに、違和感がある。

しかし岡井は、塚本自身がその失敗に気づかないはずがない、という。

そして、

「あはれ青年、妖精の父」

とか、

「妖精の父たり青年」

などの改作例を示しつつ、塚本は、あえてこのようには韻律を整えず、「不出来」な歌を巻頭に持ってきたのだと推測する。では、そうしたのはなぜか? という謎を最初に設定して、岡井は『星餐圖』を読んでいく。

 

これはもちろん、端的な解答が与えられるような問題ではないが、ノートを読んで、僕なりに理解したことをまとめてみたい。

まず、ざっくり言えば『星餐圖』のテーマは「人間」と「天」の対立である。

この歌も、「青年」(=要素α)と「夏の天」(=要素ω)が対立している。

 

もう一例、次の歌。

愛恋を絶つは水断つより淡き苦しみかその夜より快晴

これは岡井の鑑賞が別の意味ですごいので、本題に入る前に紹介したい。

愛恋を絶ったことは一度もないから、そのくるしみの程は測りがたい。
(中略)
愛恋は絶てるものではない。向うから絶たれる形で、結果として絶つに至るにすぎない。
(中略)
語り手が〈愛恋を絶つは〉云々と言っているのは、だから絶つことが出来る程度の愛恋なのだという告白ともとれようか。 *6

「愛恋を絶ったことは一度もない」に、僕はのけぞった。

岡井はそれを前提に読んでいくわけだが、僕が思うに、この歌は「淡き」が反語であって、「水を断つのと同じくらい、愛を絶つのはとても苦しい」という意味ではないだろうか。

ともあれ、一首の主眼は、愛恋を絶つ精神の苦しみと、水を断つという肉体の苦しみとの対比である。

これを岡井は、ノートに以下のようにまとめる。

f:id:karonyomu:20160420231913j:plain *7

この図をもとに、さらに結句の「その夜より快晴」について、次のように考察する。

天の曇から晴への運動は、人の愛の運命に対するイロニーであり、批評の役目を果しているといっていい。/愛恋が水と比較される段階で、愛恋は一たび深く批評されている。そして、その結果としての「愛の断念」は、もう一度、天の運行によって、暗に批評されることになる。 *8

「天」という言葉が二度出てくることに注目していただきたい。岡井は「愛の断念」というモチーフが、「肉体」と「天」の二つの次元から批評される、という構造をこの歌から読み取っている。

 

「星餐圖ノート」ではこのように、様々な図を駆使しつつ、その対立構造が検証されていく。

構造だけではなく、一首の韻律に潜むかすかな不協和音をも、岡井は聴き逃さない。僕がすごいと思うのは、それをただの傷ではなく、塚本が韻律と戦った跡として読み取っていることだ。

「人間」と「天」の対立というのはつまり、他でもない塚本自身が、短歌の韻律という「天」に立ち向かおうとする姿そのものだった。岡井は『星餐圖』を読みながら、この歌集が、歌人の苦闘の記録だったことを明らかにしていくのである。

 

 *

 

いろいろと書いてみたけれど、メモをとり、ノートをまとめながら歌集を読む岡井隆のその姿に、僕はやはり心打たれる。

 

岡井隆塚本邦雄の読者にはよく知られているように、『星餐圖』は、九州に姿をくらました盟友・岡井隆へ捧げられた歌集である。歌集の跋文で塚本は、岡井を地の果ての人馬座(サジタリウス)になぞらえた。『辺境よりの註釈』は、歌集発行の翌年、それに応えて書かれたノートである。

 

あえて本書をひと言で言い表すとすれば、岡井隆塚本邦雄が、遠く離れつつタッグを組んで、短歌の韻律に挑み、格闘した本だと思う。新しい韻律を生み出すというのは、天の星を動かすような途方もない試みだが、それができるとしたら、このノートのような読解と実作の試行錯誤、その積み重ねによるしかないのではないか、という気がする。

 

(原典の漢字は、原則として常用漢字に改めました)

*1:p.14

*2:p.17

*3:p.31

*4:p.33

*5:p.99

*6:p.261

*7:p.262

*8:p.264