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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第4回 大井学『浜田到 歌と詩の生涯』

 優れた評伝と短歌の破調 堂園昌彦

浜田到―歌と詩の生涯

浜田到―歌と詩の生涯

 

  浜田到を知っているだろうか。前衛短歌運動の時代に活躍した歌人で、1918年に生まれ、1968年に不慮の交通事故で亡くなっている。

ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ

一九四九年夏世界の黄昏れに一ぴきの白い山羊が揺れている

(リールデン) ――妻のそのながき縁光(ふちて)る毎に恵まれざりしは斯くもうれしく

 一読してすぐにわかると思うのだが、浜田到の歌の大きな特徴はふたつある。ひとつは、暗く不穏ながらも静謐で美しいイメージ。「ふとわれの掌さへとり落すごとき夕刻」の赤色の強さとか、「白い山羊が揺れている」の白い山羊とか。大きく括ると前衛短歌が得意とする、象徴やイメージを多用する作風だけれども、塚本邦雄のようにガヤガヤとしていない。妙に静かで潔癖な風景だ。

 もうひとつは、その特徴的なリズム。浜田到の歌は破調がほとんどで、定型きっちりの歌がとても少ない。他の歌人にはない独特の韻律感覚で歌を詠んでいた。「瞼(リールデン)」の歌などは、初めはリズムの取り方に戸惑うけれども、慣れると、流麗に流れないぶん、癖になる韻律である。

 まあひと言でいえば、好きな人はすぐに魅力を感じ、いっぱつで好きになるタイプの歌人だ。沢山の人に大声でお勧めするのはためらうけれども、自分ひとりの心に深くしまっておきたい、いわゆる「マイナー・ポエット」というやつだ。

 この本は、生前歌壇と距離を取っており、その実像があまり知られていなかった浜田到の生涯を、歌人の大井学さんが初めて資料を通して解き明かした評伝である。2007年に角川書店から出版されている。

 私も短歌を始めた頃からのファンなのだが、この本を読んで知ることがとても多かった。たとえば、浜田到の年譜を読むと、初めに、

1918年(大正7年)6月19日、ロスアンゼルスに生まれる。 

 と書いてある。

 このロスアンゼルスがなんともミステリアスで、どういうことなんだろうかとずっと思っていたのだが、どうやら、浜田到の父の父、つまり祖父が知人の保証人になってしまい、その負債を返すために、浜田到の父が移民としてアメリカへ行き、農園経営に携わっていたらしい。そこで生まれたのが、到だったそうだ。ただ、当時のアメリカ社会では、日本人移民は周囲の白人社会からは白眼視されることが多く、そのためか、4歳のときに浜田到は弟とともに帰国させられ、母方の祖母の家に預けられている。

 到にとって、アメリカは「豊かな母」の背景だった。そしてその「豊かな母」は、昭和五年(一九三〇)六月十七日、到十二歳の年に儚くなった。母こそは喪われた存在の象徴である。喪失の背景として、記憶の中のアメリカがあり、青年期を喪失させた戦争はまた、アメリカとの戦いだった。(中略)

 到は、喪失の原点としてのアメリカで生を授かったのである。 (p.14)

  とあり、へー! と思った。

 また、浜田到には、孤高の歌人というイメージが強い。それは、浜田到が亡くなったときに塚本邦雄が書いた追悼文に多くを負っている。

ぼくは同人誌『極』についての通信の中に、“九州へ旅することがあったら会いたい”との一行を添えた。私信のたぐいを殆どくれたことがなく、くれたとしても忘れた頃の返信のみであった彼が、この時だけ、うてばひびくようにこたえた。“決して訪ねてくれるな。私に会おうとなど思ってくれるな。これは私の切なる希いである”と、例の比類のない繊細なペンの筆蹟でしたためてあった。

塚本邦雄「詩の死」『現代歌人文庫 浜田到歌集』(国文社)p.117 )

  この塚本の文中の浜田到は、はっきり言ってすごくかっこいい。しかし、現実には、地元鹿児島の歌友や文学仲間と焼酎を酌み交わしながら、しばしば詩歌論を戦わせていたようだ。大井さんが、地元の歌友・青山恵真の浜田到が亡くなったときの弔辞を引用している箇所がある。

 浜さん、覚えていますか、終戦直後私が田上で開業したての頃、あなたがひょう然と訪ねて見えて「青さん、生き残ったことは不潔なような気がしもすなあ、文学でも始めもそや」とつぶやくように云われた。それからあの菊花寮時代と呼ぶなつかしい同士の世界が始まったのです。「少年飛脚武丘のふもとをめぐる時、秋はまさしく来にしと思う」と歌にそえて「青さん出て来ませんか、チュウもあります」と少年のもって来た手紙に、私は足もそぞろ菊花寮へ飛んだものです。

(「詩稿」昭和四十三(一九六八)年十七号)

(※本文から孫引き p.66) 

  浜田到が「青さん出て来ませんか、チュウもあります」(「チュウ」は焼酎だろう)と言うのも、それはそれで胸に来るところがある。

 かといって、「塚本の作ったイメージは虚像だった」などと言いたいわけではない。浜田到は訥弁で人見知りであり、特有の気難しさを持っていた。若いころには、自殺を考えたりもしている。他に、本文中で紹介されているエピソードとしては、こういうものがある。

「歌宴」の同人であった東田喜隆によれば「「歌宴」が終刊になってからは、彼と会うのは困難なことでしたね。だいいち電話に彼は出なかったですから」(「南日本短歌 」一九八七年十月二号)という。またこの引越しの後にも、次のようなエピソードがあったという。「わたしははっきり覚えていますよ。久し振りに宮原さん(注・「歌宴」同人)と会って飲んでいるうちに、だいぶ気分が乗ってきて「到のところに行こう」ということになった。そうして二人で行って、扉を叩きながら「おい、リルケ、出て来い」と言ったら、それまで点いていた家の灯りが消えてしまった」(同誌)(p.226)

 電話に出なかったり、訪ねて行っても居留守を使ったり。浜田到はドイツ詩人のリルケ好きを公言していたから、「おい、リルケ、出て来い」なのだろう。まあ、「おい、リルケ、出て来い」も相当ひどいとは思うが……。

 ともかく、この評伝は、浜田到のイメージを裏切るというよりも、今までのイメージがより立体的になるというか、肉体を持って浜田到が現れてくるのである。それは、おそらく、浜田到の「形而上的」と呼ばれる歌たちを読むのにも、決して悪い影響を与えていないはずだ。

 また、この評伝では、中井英夫との交流にも多くのページが割かれている。浜田到が歌壇にデビューしたのは、「短歌研究」の1951年8月号の「モダニズム短歌特集」であり、広く知られるようになったのは、その7年後の1958年の角川「短歌」6月号掲載の20首からであった。そのどちらも、編集者として中井英夫が深く関わっている。中井英夫は鹿児島に住んでいる浜田到に、作品依頼のため、何度も手紙を送った。こんな手紙だ。

 “坐睡”何百首でしようか、たしかに 受けとりました。いま一通り拜見したところです。はじめに苦言を申しあげると、お願いしたのはこれほど大へんなお仕事ではなく、五十首ぐらいを 雜誌に発表出来るようまとめていただきたかつたので、何もかも完璧を願つての御努力は感服しますが、もうすこし 気軽に考えていただかぬとノイローゼになられちまうでしよう。(中略)

 さて、内容はたしかにいいものでしたが、何しろ大作すぎて、何かの美術展を見たようにすつかり疲れました。印をつけていつたのですが、数えてみると、ちようど八十首ほどあります。順に感想を記しますと、 坐睡 これは自信作なのでしようが、次の 晩婚式 耳の少年 一滴の世界 ともども、あなたの悪い言葉癖が一番ひどく出ていて、ここは発表しても受けとれる人は誰もいないでしよう。ここいらは短歌じゃ無理だという気がします。(中略)

 何より 今後 作家(そう、たしかにあなたは作家だ。歌壇にはあまりにも素人が氾濫しすぎている)として立つてゆかれるのには、難解でありすぎることが 一番危惧されるので、歌壇の旧勢力は 何とかして ジヤーナリズムの押す傾向を叩きつぶそうと躍起になつているので(それは当然で、ジヤーナリズムの押す傾向をみとめれば、彼らの無能と菲才は到底“歌人”の名に値しませんから)いままた こうした一人が誕生しても すさまじい罵言の霰がふるぐらいが関の山です。それを沈黙させ、若い層に新しい読者を開拓してゆくには、やはり ぼくのあげたような歌を、あなたにもよしと認めていただかなくてはならない。

  中井英夫の勢いや語気の強さ、また、大井さんが本文中に書いているように「唐突に人の懐にまで入り込んでくるような」個性。質の高い作品を当然のように要求し、しかもそれを自分の思うように構成しなおす。そして、浜田到はその個性に戸惑いながらも、中井英夫の要求に応えようとし、必死に作品を書いた。ちょうど、春日井建がデビューし、塚本邦雄が『日本人霊歌』を出し、村木道彦が現れようという時期である。このあたり、『黒衣の短歌史』の裏面史、といった趣きがあり、とても面白い。

 余談だが、中井英夫

またあなたの弟のような作品を発見、ぞくぞくして出しました。村木道彦という慶応の学生です。(p.218)

 という手紙に対して、浜田到の

村木さんの歌、小生もゾクゾクいたしました。竜之介―由紀夫―塚本とつづく漢語脈に対し、春夫―太宰―寺山とつづく口語脈のなかに、彼がアタラシク加はることは、もう疑えない事実ですし、ふかいよろこびです。(p.219)

 という返事はテンションが上がった。 

 しかし同時に、浜田到はこうした中井英夫とのやり取りや中央歌壇での取り上げられ方に疲れ、自身の作品に悩み、次第に沈黙していく。そのあたりも痛ましい。

 また、この本で注目しておきたいのは、浜田到の死で記述は終わらず、その後の受容史およびその検討にも踏み込んでいる点だ。

 具体的には、塚本邦雄が国文社の『現代歌人文庫 浜田到集』(現在、浜田到に触れる読者は、ほぼすべての人がこの本を手に取るであろう)の解説に載せた「晩熟未遂」という文章についてである。

その論「晩熟未遂」は、浜田到を語る場合に避けて通ることの出来ないものであり、またその論調の激越さ故に、それ以降到を論じることを封じてしまってもいる。(p.232)

 大井さんは、塚本のこの論考は、それ以降浜田到を論じることを封じている、と言う。では、塚本は浜田到の作品のどの点について批判を加えたか、それは主に破調についてであった。

「律調は著しく亂れ躓く」、「十音の異常な剰音」、「一首一首痙攣し、挫け、舌を嚙むやうな吃音」、「殊更めいた破調」、「短歌的韻律音癡」、「彼は聲に出して誦するのが怖かつたに相違ない」と。塚本の指摘は執拗すぎていささかエキセントリックに響く。しかしその陰に隠れた塚本の本音もまた、聴き取るべきだろう。(中略)すなわち、短歌という「形式に対しての純潔性」をいかに到が意識していたのか、その意識は詩人として甘いものではなかったのか、という批判である。(p.236)

 塚本にとっての字余りや句跨りは、戦後社会を撃つという目的のために、厳密な定型意識から生み出されたものであった。そのような塚本邦雄からすれば、浜田到の破調は「定型意識の甘さ」と見えたのであろう。大井さんも、

破調は、従って、いかに作者が意識的にそれを選択したとしても、「短歌性」そのものへの抵触を避けることが出来ない。それは塚本が『装飾樂句』の時代から実践の中で潔癖なまでに意識してきたことである。「句跨りを強行する場合は、なほさら音數を整へて、元來の句の切目を意識して讀めば讀めるやうに讀者を誘導するのが、極く初歩的な約束であらう」という塚本の指摘にもそれは垣間見える。そして破調の多い到の歌を読者の側が迎えて理解しようとする時、「その讀者側の奉仕を作者はいささかも意に介してゐない。結果的には横着な甘えと同斷ではないつたか」と断ずるのである。到の態度を「歌人としての怠慢」と喝破し、奉仕する読者の姿勢をも批判する塚本の言葉は、「定型詩としての短歌」を考えた時に、やはり問題として重い。(p.237)

 と述べている。つまりここには、浜田到というひとりの歌人の作風の問題に止まらず、短歌韻律の必然性とは何か、という広い問題が含まれているのである。

 その上で、大井さんは、浜田到が浜田遺太郎という名前で書いていた詩作品を踏まえながら、塚本が批判した浜田到の破調をこう捉えなおす。

しかし、到にとって「歌」は形式なのではなかった。年少の頃から慣れ親しんだ形式である短歌は、到の生活における詩の記録形式であったが、その「詩」を制約する必須の条件なのではない。自らの詩情の求めるまま、短歌・詩・散文の間を行き来し、そこにおいて自らを表現していたのである。(中略)そしてこうも言える。詩に対して潔癖であろうとした到にとっては、短歌形式は暗黙的な概念形式としてあり、その律は潜在的に感じられれば良いものであった、と。破調の多い到の作品が、それでも「短歌」として受容されるには、到の作品の中に「暗黙の律」があるからではないだろうか。(p.238)

  浜田到の作品に「暗黙の律」を感じる意見には、私もうなずける。

すなわち、到の歌における破調は、内容と律の鬩ぎ合いの中で、その受容可能性を探った結果だった。(中略)塚本は到のこれらの作品を「短歌的音癡」と言うだろうが、寧ろ塚本のストイックなまでの短歌的韻律への拘泥が、到―遺太郎の意図した韻律を見えなくさせてはいないだろうか。(中略)到の作品が、数多くの破調を抱えながら、それでも短歌として読まれるのは、単に読者による迎合的受容によるものばかりではない。到―遺太郎が企図した韻律性が何処かで感じられ、またその作品世界とともに理解されているのである。(p.240)

  こうした理解はいかがだろうか。まあ、人によって判断は分かれるかもしれない。塚本が厳しく破調を批判したのもよくわかるし、私も、ちょっと慎重になりたいところだ。定型を簡単に離れてしまうと、短歌である必然性は揺らいでしまう。

 しかし、浜田到の作品を、単なる「短歌的音癡」とするのではなく、独自の律の必然性を備えた「短歌作品」として捉えるのは、短歌の世界を考える上でも、大切なことだと思う。また、こうした考え方を視野に入れると、高瀬一誌や加藤克己や、あるいは、フラワーしげるや瀬戸夏子といった、現代の歌人たちの破調を、再び捉えなおすことができるかもしれない。

 というわけで、この評伝は、単なる浜田到の人生報告に留まらない。最後に開かれた問題を提出している、優れた評伝と言えるだろう。

 あとは蛇足。いま読んでいる田中純『過去に触れる――歴史経験・写真・サスペンス』(羽鳥書店・2016)にこの本にぴったりの箇所があったので引用したい。引用が好きなので。なので、この後は読みたい人以外は別に読まなくてもいいです。それでは。

  或る人物の日記や手紙からその人生を再構成しようとする場合、日時や場所、行動の動機・内容・関係者を特定するために行う一連の作業を、まるでミステリー小説やドラマにおける探偵か刑事による捜査であるかのように感じることがある。こうした感覚を抱くのはなぜなのだろうか。その一因はもちろん、証拠を集めて過去に起こった出来事を再現するという、わずかな痕跡から獲物の所在を読みとる狩人にも似た「徴候的知」(カルロ・ギンズブルグ)が、ちょうどシャーロック・ホームズが体現しているような推論的パラダイムに拠っていることだろう。ギンズブルグに従えば、これは「物語ること」という、太古から存在する人類の営みのパラダイムであり、歴史という知の形式でもある。

 だが、おそらくそれだけが理由なのではない。この感覚の底には何か、死者に対する負債を返そうとするかのような、誰から与えられたのでもない使命感に似たものが隠れている。だから、これが一種の捜査であったとしても、それは法の執行者として犯人を捜し出し罰するために、警察や探偵が社会的役割として果たす営みのようなものではけっしてないだろうい。この負い目に似た感情はもっと個人的で、それにともなう使命感とは、死者たちに対する秘められた約束のようなものだからである。

 にもかかわらず、それを捜査に譬えるのは、確固とした証拠にもとづく厳密な推理による事実の確定という、一種の法的な規範がつねに自分に課せされるためだ。もちろん、証拠の欠如ゆえに行わざるをえない、空白を埋めるための想像が推理過程には随伴するとしても、この規範からの恣意的な逸脱は許されない。こうした禁止もまた、死者に対する負債の感情ゆえなのだろう。

 そんな理不尽な負債感とは、自分が甦らせるべき死者を選んだのではなく、その死者から自分が選ばれてしまったという、本来ありえない事態の錯覚である。けれど、過去を復元し歴史を書く営みが死者たちの土地に旅することにほかならないとすれば、うずたかい資料の山の文字や図像からなる冥府のなかで、死者たちこそがわたしたちを選ぶこともまた起こりうるのではないだろうか。なるほどそれは対象への同一化であり、転移であるにせよ、そのように死者に選ばれているがゆえの使命感こそが、歴史を綴るための最後のよりどころになりうる。歴史叙述の客観性やディシプリン学術性、真理の追究といった抽象的な規矩は外在的な道徳にすぎず、歴史を書く者、過去を物語る者をより内面的にはっきりと縛る倫理は、死者たちとのあいだに結ばれるこうした関係性に根ざすように思われる。

 このような負債を強く感じる対象は、多くの人びとに知られず、あるいはまた、忘れ去られた人物であることが多い。逆に言えば、広く知られた存在であれば、その人生や業績の一部のみを切り取って学術的に研究することが一般の流儀だろうし、一研究者としてはそれで足りる。そもそも、或る人物の全体を扱った評伝など科学(science)ではないとする立場もある。しかし、人文学(humanities)としての歴史には、個別事象に還元された主題の分析を主とする科学の範疇には収まらない、死者を可能な限り完全な姿で甦らせようとする、それこそ呪術的な思考が残存しているように思われる。誰からももはや記憶されることなく資料のなかに埋もれている存在に、もう一度 肉声を語らせたいという欲望は、科学的な客観性や学術性の要求とはじつは異質なものだろう。

 わたしがジルベール・クラヴェルというほとんど無名の芸術家の評伝『冥府の建築家』(みすず書房)を書いた背景には、そんな欲望がたしかにあった。

田中純『過去に触れる―歴史経験・写真・サスペンス』)

過去に触れる―歴史経験・写真・サスペンス

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