短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第5回 三枝昂之『前川佐美雄』

 永井祐

前川佐美雄 (五柳叢書)

前川佐美雄 (五柳叢書)

 

 今日とりあげるのは三枝昂之『前川佐美雄』。 

93年刊。四六判ハードカバー、446P、人名索引までついたがっつりした本です。

わたしは数年前に「植物祭」を読んで前川佐美雄に興味をもち、

その流れでこの本を手に取りました。

 

三枝さんによると、

「心ひそかに、<昭和短歌の精神史>というサブタイトルを本書に想定している」とのことで、つまり、佐美雄の軌跡を追いつつ、「昭和短歌」の軌跡も描こうとしてる本なわけです。

だから、戦争に際しての皇国っぽい歌、三枝さんの言葉で言えば「公的短歌」のこととか、

戦後に「時局便乗」的に言われてきつい批判を受けていく過程とか、そういったことも

たくさん書いてあります。

三枝さんはこの本のあとの2005年にその名も『昭和短歌の精神史』という本を出して

いるので、これはそのプロトタイプみたいな感じでしょうか。

 

ただ、

わたしの興味のベクトルはそっちの方にはあまりなく、本の前半部分、戦前の短歌の雰囲気みたいなものをもう少し知りたいという動機でこの本を読んだのでした。

戦前の人間はどういうノリで短歌をやっていたのかな、ということですね。

 

へえ、と思うことはたくさんありました。一行目から、

 

明治三十六年(一九〇三)二月五日、前川佐美雄は大和に生まれた。

 

佐美雄には、

春がすみいよよ濃くなる真昼間の何も見えねば大和と思へ

という、謎めいた名歌があるのですが、すると、この歌には「地元をレペゼンする」というニュアンスがあるのだな、とか、そういう感じですね。だいぶ初歩的な「へえ」ですが。

 

佐美雄が第一歌集を出す前、昭和初期の短歌の状況は、

・文語定型守持の既成歌人

・プロレタリア派

モダニズム

三国志状態だったそうです。(「勢力拮抗ということではない。圧倒的勢力として伝統派は歌壇の中心にいた。」ということわりがついていますが。)

さらに、革新勢力のプロレタリア・モダニズムの中でも

・定型派

・自由律派

がいて、さらに別のファクターとして、

・文語派

・口語派

に分かれていたそうです。

それぞれ説明していくのはたいへん面倒なのではぶきますが、プロレタリアとは、

 

醜くひんまがつた指を見ろこれが十七年勤続のお土産だ  渡辺順三

いよいよと云ふ日になりあおれたちはビルデングだつてゆり倒すんだ  坪野哲久

 

 

前が自由律プロレタリアで後が定型プロレタリアということになります。

モダニズムとは、非現実系、シュール系みたいな感じです。

面白いのは労働系とシュール系って逆みたいですけど、わりと近い位置にいたんですね。同じ革新勢力として。

団結して「新興歌人連盟」というのを作ろうとしたりしました。

しかし、九月に結成して同じ年の十二月に解散します。

このあたりのぐだぐだ感。

混沌としていますよね。

でもそのへんにこの時代の魅力があって、『植物祭』はそういうアナーキーな状態をきっちりレペゼンしているんだろう思います。

 

それと、「自由律」というもののリアリティが今とは違っていた。

 

昭和六年前後のモダニズム自由律短歌の方は、これはなかなか活況を呈していた。前田夕暮の「詩歌」が雑誌まるごと自由律に転じたのは昭和五年である。土田杏村、清水信らの「短歌建設」、児山敬一らの「短歌表現」も同じ昭和五年である。以下翌六年の「近代短歌」「短歌創造」、七年の「短歌と方法」と続き、金子薫園の「光」もこの年自由律に転進している。

 

これ、やばいですよね。ガンガン自由律に転身してる。「雑誌まるごと」転身というのは、「うちは来月から自由律雑誌になるから」みたいにみんなに言うんですかね。

次は自由律・プロレタリア側からの言ですが。

 

「我々の運動の目標は、労働者大衆の現実の生活からわきおこるところの、刹那の感情を表現するものとしての短い詩型、それは長い伝統をもつ短歌の、歴史的な発展としての短い詩の創造、といふところにあるのではないだろうか」(渡辺順三『近代短歌史』)

 

要するに五七五七七じゃだめだから新しい「短い詩」をつくらねば、ということです。

そういう意識が革新派の方には共有されていた。そしてそれが既に名のある歌人の方にも波及していって、短歌が「散文化」していったと言われています。

佐美雄さんはその中で少数派の定型派でした。北原白秋とかもその勢いにびびっていて、「惟うに、当今の歌壇、諸流錯綜し、清濁相混じ、玉石亦相分たず。その放恣なるものに至っては、遂に論外の破毀を悔いず。」とかと書いています。

前回、塚本邦雄による浜田到の破調への批判の話がありましたが、塚本さんという人はこのころの先輩たちのイタい顛末とかが骨の髄まで沁みている人だと思うので、批判の裏には当然このころの記憶もあるだろうなと思います。

それで興味深いのが、こうした自由律の一斉発症が止むのは、戦争、戦時体制によるんですよね。

自由律軍団の大同団結、「新短歌クラブ」の発会式が「時局の余波をうけて」=二・二六事件の影響で集会ということ自体ができにくくなって、延期になった。

このあたりが曲がり角でみんなどんどん定型にもどっていく。

 

木俣修は、「自由律という名目の『自由』という言葉でさえも、既に、摘発しようとするような当局の眼の前で、自由律作者たちが、一種の不安を感じ始めていたことは覆うことのできない事実であった」(『昭和短歌史』)と述べている。

 

ま、自由律やりにくい空気になっていったということなんでしょうけど、わたしはこれ、すごく不思議なことだと思うんですよね。

自由律で書きつつめちゃめちゃ国のために一丸となろうとしている人もいるかもしれないじゃないですか。

短歌の内容はともかく、形式として定型で書こうが自由律で書こうが別に政治性には関わりなくない?って思いませんか。今のふつうの感覚だと。

でもそうはならないんですよね。

定型、破調、口語、文語、などなどのスタイルを選択することは、その時点で何かの政治性にコミットすることであり得るんですよね。究極的に言えば。それで、だからこそスタイルの革新に大きな意味があったりする。

このころのことの顛末をながめていると、何かそういうことを考えさせられます。

 

この本の前半部分が扱っている昭和初期の短歌って、だいぶ混沌としていて、

そこでは五七五七七で書くことすら自明ではなくて、

作品的にはダメなものも、今から見ればそれは無理でしょと感じるしかない方向性のものも非常に多く、実際残らなかったものの方が多い。

でも、短歌のことを考える上ではすごく面白い時期で、

いま当たり前に見えることの地盤みたいなものが露出している気がします。

では、

アナーキーな戦前短歌の世界へ、タイム・スリップ!