短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第6回 正岡子規『仰臥漫録』

美と楽しみの眼 土岐友浩

仰臥漫録 (岩波文庫)

仰臥漫録 (岩波文庫)

 

 

正岡子規の文章を読むと、とても元気が出る。

子規の歌論といえば「歌よみに与ふる書」だ。

「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。此の外の歌とても大同小異にて佗洒落か理窟ッぽい者のみに有之候。(再び歌よみに与ふる書 

古今和歌集の冒頭歌を批判した有名なくだりだが、内容よりもまず、「実に呆れ返った無趣味の歌に~」という調子の小気味よさ、清々しいまでの一刀両断に、つい笑ってしまわないだろうか。

そのすぐ後はこう続く。

それでも強ひて『古今集』をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取得にて、如何なる者にても始めての者は珍しく覚え申候。

万葉集から離れて新しい和歌のスタイルをつくり上げたことをとりあえず評価しているわけだが、

この面白くなさそうな言い方が、面白い。面白すぎて、どんどん引用したくなるのが、子規の文章の魅力だと思う。

 *

子規は「理窟」を攻撃した。

詩歌は理屈じゃない、という言葉はよく聞くし、僕もそう思うけれど、子規ほどそれを徹底した人はいなかった。

たとえば『仰臥漫録』の明治34年9月23日の記事では、

五月雨をあつめて早し最上川

という芭蕉の句を取り上げて、こう書いている。

この句、俳句を知らぬ内より大きな盛んな句のやうに思ふたので、今日まで古今有数の句とばかり信じて居た。今日ふとこの句を思ひ出してつくづくと考えて見ると「あつめて」という語はたくみがあつて甚だ面白くない。 *1

「あつめて」が駄目だ、というのだ。

雨が降りそそいで川の水量が増え流れも速くなる、その迫力というか、ダイナミズムを芭蕉は描こうとしているのだが、川が水を「あつめる」という見立てに、子規は疑問を投げかける。

なかなか、この「あつめて」を、上手いとは思っても面白くないと言える人はいないだろう。

子規はその代わりに、

五月雨や大河を前に家二軒

という蕪村の句を引き合いに出し、こちらのほうが「遥かに進歩して居る」と、高く評価している。

どちらの句がいいのか、蕪村の句がいい句なのか、正直なところ僕にはよくわからないけれど、少なくともこのふたつの句を比べれば、子規がいかに「理窟」を排したか、というのが見えてくる。

 *

同じく10月15日の記事で子規は、中江兆民の『一年有半』という本を批判している。

兆民居士の「一年有半」といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。

と書いてあるように、どうやらこの時点で本そのものは手に入れておらず、新聞の書評か何かを読んだだけのようだ。

兆民は自由党を辞職してまもなく病に倒れ、医師から余命が一年半だと宣告される。その限られた時間のなかで、兆民は社会を論じ、芸術を説き、身辺の出来事を素描して、それらを随筆集にまとめた。

つい最近『一年有半』は光文社新訳文庫版が出たから、そこから引用しよう。

わたしはすでに不治の病にかかって、いわゆる一年半の宣告を受けており、妻は日夜わたしに寄り添って看病に尽くしてくれるのだが、全快ではなく、ひたすら死期を待っているのである。(中略)わたしはもとより蓄財につたなく、家に負債はあるが財産はなく、しかもこの重病にかかっている。悲惨といえば悲惨であろう。今夕、わたしは妻に笑って言った。「おまえはもう年は四十を過ぎ、わたしが死んだら再婚の望みはあるまい。どうだ、わたしとともに水に飛び込んで、いっそ何事も起こらない国へ行くとするか」ふたりで大笑いして、途中、かぼちゃ一個とあんず一籠を買って仮住まいに帰ると、ちょうど夜の九時であった。(「浜辺の風景」) *2

重病を患い、お金もなく、遺される妻の身を案じるがゆえに、いっそ水に飛び込もうかなどと話して笑いあう、なんというか、大人にしか書けない文章ではないだろうか。

しかし子規は容赦なく、こう言う。

(兆民)居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけわれらに劣り申すべく候。理が分ればあきらめつき申すべく、美が分れば楽み出来申すべく候。杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれども、どこかに一点の理がひそみ居り候。焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理窟か候べき。 *3

相手と刺し違えるような批評だ。芭蕉の句を貫く「理窟」を見抜いた眼で、子規は妻と杏を食べる兆民の「一点の理」を暴き、攻撃する。

この「一点の理」を説明しようとするのは、難しいが、先ほどの芭蕉の句をもう一度読んでみよう。

僕は先ほど最上川の迫力を云々と鑑賞したけれど、

五月雨をあつめて早し最上川

この句から感じられる雰囲気は、迫力というよりもむしろ、整然として、どこかゆったりとしていないだろうか。

兆民の文章から受ける印象も、これに近い。

死という宿命に翻弄されそうになっている精神の急流を、兆民は理性で抑え、哀感のあるユーモアに包んで妻と分かち合う。洗練された文章に流れる時間は、とても穏やかだ。

だが、子規はそのような兆民の「理」をこそ批判する。そんなものは本当の「美」でもなんでもない、と言う。

「美」を解するのに「理窟」など必要ない。

では、子規にとっての「美」とはなにか。

それは、

焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理窟か候べき

という一文に集約されている。

夕顔が風に吹かれて揺れている、ただ、そのことがおそろしく美しい。

むき出しの自然の、ひたすらな美しさ。

子規の眼に映っていたであろう、白くかがやく夕顔が、僕にとっての写生のイメージで、原点にして、ひとつの頂点だ。

この一文を読み返すたびに、思う。

これほど美しいものを、この先、僕の眼は一回でも見ることができるだろうか。

 *

『仰臥漫録』は子規の私的な日記で、まとまった歌論ではない。寝返りもままならない身体で書いた、その日の体調、読んだものや食べたもの、思いついた短歌俳句、それからちょっとしたイラストなどが収録されている。

食事の記録がすごいのは有名で、ほとんどその日のメニューをそのまま列挙しただけなのだが、実際に読むと言い知れない圧倒的なエネルギーが伝わってくる。

もちろんそれを食への執着がなせる業、と理解しても間違いではないのだが、その執着心は、「美」を求め、「美」を楽しむ心と地続きなのだ。

花を見てよろこび、ものを食うことを楽しむ。

なるほど、そこに「理窟」はない。

『仰臥漫録』はいわゆる歌書ではないけれど、ここで晩年の子規は期せずして、みずからの歌論を実践していると僕は思う。むき出しの生を、なんの衒いもなく、ありのままに書き留めることで、子規は「理窟」ではない方向へ、文学を連れて行こうとした。

その精神は、たしかに今日の短歌にも受け継がれている、という気がする。

*1:p.68

*2:鶴ヶ谷真一訳、光文社新訳文庫、2016年

*3:p.113