読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第7回 山田航・編著『桜前線開架宣言』

土岐 アンソロジー

一万匹の中の一匹の羊の眼 土岐友浩 

桜前線開架宣言

桜前線開架宣言

 

 

現代短歌の成果が、とうとう目にみえる形になってまとめられた。

 

2015年の年末に刊行された『桜前線開架宣言』。

正岡子規の短歌革新運動、戦後の前衛短歌、そして1980年代のニューウェーブ。そんな短歌変革の歴史をそこはかとなく思い起こさせる書名だ。

 

編者の山田航は「まえがき」で、こう書いている。

困る。本当に困る。何にって、ぼくが根っからの文学青年だと思われることだ。知っていて当然かのように小説の話などを振られるのは困る。名作といわれている小説なんてろくに読んだことがない。

 

山田はここで、自分は「文学青年」ではない、と表明している。(「根っからの〜と」「ろくに〜ない」とあるから、完全な否定ではないのかもしれないが)

 

山田の短歌観や歌人観は、穂村弘から強い影響を受けているが、「文学」へのスタンスは、かなり異なっていることに注目したい。

穂村は、意地悪な見方をすれば、自分が歌人として文学に対してどのようなスタンスをとっているかを、明らかにしていない。 *1

一方、山田は、文学からきっぱりと距離をとり、文学では自分は救われなかった、と言い切った。

 

だからこそ山田は、現状「商業出版される小説の九割は、自費出版の歌集よりつまんない」と断言し、本書の最後で「二十一世紀は短歌が勝ちます」と勝利宣言を掲げる。

しかし、それにしても、ここまで「小説」や「文学」に対抗意識を燃やしているのは、なぜだろうか。

 * 

本書に収録されている歌人は、

石川美南 井上法子 今橋愛 内山晶太 大松達知 大森静佳 岡崎裕美子 岡野大嗣 小原奈実 加藤千恵 木下龍也 黒瀬珂瀾 小島なお 齋藤芳生 笹公人 笹井宏之 澤村斉美 しんくわ 瀬戸夏子 高木佳子 田村元 堂園昌彦 永井祐 中澤系 野口あや子 服部真里子 花山周子 兵庫ユカ 平岡直子 松木秀 松野志保 松村正直 光森裕樹 望月裕二郎 藪内亮輔 山崎聡子 雪舟えま 横山未来子 吉岡太朗 吉田隼人 の40人。 

 

このうち、まだ歌集を発表していないのは井上法子、小原奈実、しんくわ、平岡直子、藪内亮輔の五人だが、このエントリを書いている2016年5月の時点で、井上、しんくわ、藪内の三氏は書肆侃侃房という出版社から歌集が出ることが決まっている

 

ちょうどTwitterが広まったころからだろうか、短歌の場が一気に多様化して、すごい歌をつくる歌人が次々に登場した。

しかし、いざその人たちの作品を読もうと思ったら、かなりハードルが高かった。

 

このアンソロジーは、最近活躍している若手歌人の代表的な作品が読める、ほとんど唯一の本である。収録歌数はなんと2,000首以上。実績と実力を備えた40人が選ばれている。

 

はじめに僕は「現代短歌の成果」と書いたが、それは、ここにあるのは現代短歌の「可能性」とか「原石」とか、そういうレベルではない、と言いたかったのだ。

現代短歌は、もう、花開いている。

 

たとえば、先ほど名前を挙げた5人の作品を読んでみてほしい。

ふいに雨 そう、運命はつまずいて、翡翠のようにかみさまはひとり

(井上法子)

老いてわれは窓に仕へむ 鳥来なばこころささげて鳥の宴を

(小原奈実)

カンフーアタック 体育館シューズは屋根にひっかかったまま 九月

(しんくわ)

ちゃんとわたしの顔を見ながらねじこんでアインシュタインの舌の複製

(平岡直子)

ぐちやぐちやつと咲いとけば大丈夫なんだつて顔ほぐしゆく朝顔に云ふ

(藪内亮輔) *2

 

どの歌も、五者五様にすごい。

 

ふいに雨 そう、運命はつまずいて、翡翠のようにかみさまはひとり  井上法子

井上の歌は、「かみさまはひとり」というフレーズが鮮烈だ。「かみさま」の孤独に気づいたのか、それとも、自分にとってたったひとりの「かみさま」を見出したのか。いずれにせよ、ここに詠まれた「かみさま」は、綺麗だとしか言いようがない。

 

老いてわれは窓に仕へむ 鳥来なばこころささげて鳥の宴を  小原奈実

小原の歌も、井上とはまた違った方法で、美しい世界を立ち上げている。「窓に仕える」という発想、これだけで、作者の世界観へと一気に引き込まれる。「鳥の宴を」という言い差した表現が、読者の脳裡に「宴」の残像をのこす。

 

カンフーアタック 体育館シューズは屋根にひっかかったまま 九月  しんくわ

しんくわの歌は、短歌の57577の定型を軽々と超えている。しかし、緩急のリズムがあり、最後に置かれた「九月」の一語に詩的な余韻がある。誰の手にも届かないところに行ってしまった体育館シューズは、楽しい青春の象徴だ。

 

ちゃんとわたしの顔を見ながらねじこんでアインシュタインの舌の複製  平岡直子

平岡のこの歌は、「率」という同人誌で最初に見たときから忘れられない。官能的な場面だが、ねじこまれた舌はアインシュタインの舌の複製なのだ、という。熱いとも醒めているとも、生々しいとも即物的とも言えない、奇妙な感覚が詠まれている。

 

ぐちやぐちやつと咲いとけば大丈夫なんだつて顔ほぐしゆく朝顔に云ふ  藪内亮輔

藪内の歌は、一見乱暴な口調のなかにある優しさが美質だと思う。たとえば花壇に咲く花は、よく見るときれいなものばかりではないが、藪内はむしろそのような花、「ぐちやぐちやつと」咲いた花のほうに温かい眼差しを向け、呼びかけている。

 *

もちろんこのような短い鑑賞で、作品の魅力が語り尽くせたとは思っていない。

ここで紹介したのはほんの一例だが、本書にどのような短歌が収録されているのか、ということだけでも見ていただければ幸いだ。 

 *

福田恆存氏はかつて、政治が九十九匹の善き羊を救うものであれば、文学は最後の迷える一匹の羊を救うためにある、という趣旨のことを述べた。

その比喩にならって言えば、もっとたくさんの、一万匹くらいの羊の群れがいたとしたら、文学が救うべき羊の中に、やはりそこから迷い出た一匹の羊が、存在するのではないだろうか。

本書で山田は、まさにそのような羊、一万匹の中の一匹の羊として、自分の姿を書いてみせた。

 

山田は文学と対峙し、文学ではない短歌の道を切り拓こうとしているように、僕には見える。

(念のために言えば、僕は文学を否定しているわけではないし、山田が文学を否定している、と言いたいわけでもない。ひと言でいえば、短歌と文学、それぞれが占めるべき「領分」はどこか、という話だ。)

 

文学ではない短歌とは何か。

結論めいたものを書いてしまえば、それは「音楽」だ。

山田は、短歌の音楽性を武器に、小説に対抗しようとしている。

だから山田は、紹介文で歌人をミュージシャンにたとえ、音楽の比喩で短歌の魅力を語ろうとする。実作者としての山田が得意としている言葉遊びも、広い意味での音楽性に含まれるだろう。

 

長々と書いてみたが、もちろん『桜前線開架宣言』は、短歌とは何か、文学とは何か、そういうことを気にせずに読むことができる本である。現代短歌の世界はとても広く、豊饒なことが、この本を開けば必ず伝わるはずだ。

 

*1:穂村弘は『短歌という爆弾』で、短歌とは「絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾」だと書いた。
「一本のギターさえ重すぎる」人間、つまり、スポーツや音楽や美術はハードルが高すぎるという人間が、だからこそ全力で打ち込めるものとして、短歌を再発見した。
だが、『桜前線』を読んだあとで『短爆』を読み返すと、なぜ穂村弘は文学の他ジャンルに言及しなかったのか、というのが気になってくる。
すなわち、なぜ短歌なのか。なぜ、小説を書こう、エッセイを書こう、詩を書こう、そういう選択肢を一切すっ飛ばして、短歌なのかが、『短歌という爆弾』からは、うまく見えてこないのだ。

*2:桜前線開架宣言』未収録、短歌同人誌『率』創刊号(2012年)より引用