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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第10回 塚本邦雄『新撰小倉百人一首』

星を編んだ眼 土岐友浩

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新撰小倉百人一首 (1980年)

 

映画の「ちはやふる」が面白かったから、というわけでもないのですが。

 

競技かるたに使われる百人一首は、藤原定家が晩年に編んだもので、後世のものと特に区別する場合は「小倉百人一首」と呼ぶ。

もちろん定家は、自分の選んだ歌がかるたとして広く親しまれることになるとは、想像もしなかっただろう。元々は、小倉山に隠棲していた蓮生入道(宇都宮頼綱)の依頼に応えて、別荘の襖を飾るために、定家が百首を選んで贈ったものだという。
百人一首に紅葉の歌が多いのも、小倉山が紅葉の名所だから、ということらしい。)

 

ただし、定家が揮毫したはずの肝心の色紙は、現存していない。そのため、現在伝わる百人一首の歌は、一部、定家の選から改変があるとも言われている。

そこは意外と重要なポイントで、なぜかというと、百人一首のセレクトの基準が、どうもよくわからないからだ。

 

定家は、なぜ、この百首を選んだのか。

 

百人一首というコンセプトからして、いい歌を選りすぐったベスト盤のようなものを想像してしまうけれど、実際には、その歌人の代表歌というべき作品はほとんど収録されていない。例外は二条院讃岐の「沖の石」の一首くらいだ。

 

塚本邦雄は、こう言い切っている。

伝・定家撰「小倉百人一首」が凡作百首であることは、最早定説になりつつあると言つてもよからう。勿論百首すべて、曲りなりにも、勅撰和歌集入撰歌だから、どこかに取柄はあらう。強いて褒めようと思へば、いくらも迎えた解釈を試み、作者も鼻白むくらゐの頌詞(オマージュ)は捧げられるだらう。現に、そのたぐひの、見事な鑑賞文は、まさに汗牛充棟の趣である。

『新撰小倉百人一首』の「序」の冒頭を引用したが、塚本は正岡子規の「歌よみに与ふる書」を彷彿とさせるような皮肉たっぷりの文体で、百人一首は凡作だと断言し、さらには平凡な歌に「迎えた解釈」を施すことをも批判する。

 

そして「凡作百首」を選んだ定家については、こう書いている。

たとへば、私が、新古今時代最高の歌人、定家も、その詩魂に関しては、一籌を輸さねばならぬと信ずる後京極摂政太政大臣、藤原良経の、「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」を見る毎に、私は悲憤を通り越して、この歌を殊更に採つた定家に、殺意を感じてしまふ。(跋)

もう死んでいる定家に、殺意を感じるというのがすごい。

「一籌を輸する」とは、一段劣るという意味だが、要するに塚本は定家と良経の二人を、当代最高の歌人として認めていたということだ。だからこそ、秀作ひしめく良経の作品から「きりぎりす」の一首を選ぶとはどういうわけだ、と塚本は嘆く。

 

そこで定家選を捨て、塚本自身の言葉を借りれば、「これこそかけがへのない」という一首を選び直したのが、『新撰小倉百人一首』である。百人一首以外の作品が知られていない安倍仲麿と陽成院の二人を除いて、九十八人全員、百人一首とは別の歌が採られている。

 

本文は、作者一人につき、きっちり三ページ。改選歌の解説と鑑賞がメインだが、百人一首歌へのコメントも載っている。

個人的には、なんといっても後者の、百人一首を塚本がどう読んだか、というのが面白かった。

 

たとえば権中納言敦忠の有名な、 

あひ見ての後のこころにくらぶれば昔はものを思はざりけり

 

という歌は、

なるほど全くその通りの心理ではあるが、これは作者がひそかに洩らすひとり言のたぐひで、貴公子らしいおつとりした歌などと見るのは過大評価といふ他はない。

とばっさり切り棄てられている。この調子で塚本は百首の歌を、平凡、駄作、これは珍しく秀作、と、どんどん評価をつけ、選り分けていく。

 

もちろん批判しているのは歌の内容だけではなく、

しのぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

 

この平兼盛の歌については、「ものものしい倒置法めいた文体が、この場合はなぜか耳に逆ふ。結句の『まで』も要らざる念押しではあるまいか。」と、主に表現上の問題点を指摘している。

 

永井さんが前回の記事で掛詞について触れていたけれど、僕も掛詞などの和歌の修辞を見ても、「そういうものか」くらいにしか思わない。

しかし塚本はその修辞の綾に分け入り、かつ手厳しく批評していく。

いわく、伊勢の「難波潟」の歌は「序詞と懸詞技巧の目立つ、やや龍頭蛇尾な文体」、藤原実方朝臣の「さしも草」を「せせこましく、こうるさい感なきにしもあらず」、皇嘉門院別当の「みをつくしてや」は「聞き飽いたやうな縁語・懸詞のアラベスク(略)類歌が多過ぎて紛らはしい」と、毒舌のオンパレードだ。

極めつけは定家の「焼くや藻塩の」の歌なのだが、本文を読んでもらったほうが面白いと思うので、ここで引用するのは控えよう。

 

もっとも、技巧的な歌がすべて退けられているわけではない。中納言兼輔の

みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ

 

は「流麗な韻律はまことに快く」と、高く評価されている。

 

ちなみに、では、百人一首歌で、塚本が認めているのはどれかというと、

本書を読むかぎりでは、先にも挙げた、二条院讃岐の

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかはくまもなし

 

それから、

春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ  周防内侍

たまの緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする  式子内親王

 

の計四首くらいである。

 

さて、ここまで塚本邦雄百人一首を斬っていく様子を紹介してきたが、改選された歌と、塚本の意を尽くした鑑賞文も、やはり見逃すわけにはいかない。

 

たとえば巻頭の天智天皇の御製、

秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつつ

 

この歌の代わりに塚本は、

朝倉や木の丸殿にわがをればなのりをしつつ行くはたが子ぞ

 

の一首を挙げている。塚本の解説によれば「朝倉」は筑前国(福岡西部)の地名で、天智天皇中大兄皇子)は当時、朝鮮半島の戦いを支援するためこの地に滞在していた。下の句は、出仕した官人が自らの姓名を名乗って、定めの部署に就いていったという「名対面」と呼ばれる場面を詠んだものだ。

塚本はまず、「朝倉や」の歌い出しの爽やかさや、「木の丸殿にわがをれば」の大らかな素朴さを味わう。そして、この西征の際に、斎明天皇が没し、大伯皇女や草壁皇子大津皇子が生まれていることに触れ、「たが子ぞ」の呼びかけが含むところを示唆しながら、「この朗朗たる調べの背後にある史実も、知れば一層面白い」と結んでいる。

 

毒舌も苦い薬のようなもので、本書も読み方を間違えなければ、百人一首の作者や作品への理解を、おのずと深めることができる。

塚本はこれ以外にも、『清唱千首』など古典和歌のアンソロジストとして多くの仕事を残しており、

今は講談社文芸文庫『王朝百首』『珠玉百歌仙』などが比較的気軽に手に入る。(残念ながら本書はまだ文庫化されていない)

 

塚本が織り上げた見事な和歌の世界を、ぜひ覗いてみてほしい。

 

 *

 

ところで定家自身は、百人一首の選歌について、こう書き残している。

 

上古以来の歌仙の一首、思ひ出づるに随ひてこれを書きいだす。名誉の人、秀逸の詠、皆これを漏らす。用捨は心に在り。自他の傍難あるベからざるか。 *1

秀歌が選から漏れているのはわかっているが、その理由は自分の心のなかにある。非難は無用だ、というわけだ。

なんとも意味深な一文である。

こう言われると、定家の秘めた「心」を知りたくなるというもので、今日まで様々な考察本が出ている。

読みやすい研究書としては『百人一首の謎を解く』(草野隆)、他に文字通りミステリに仕立てた『QED 百人一首の呪』高田崇史)という小説もあり、興味がある方はぜひご覧いただきたい。

 

定家はなぜ、この百首を選んだのか。

 

百人一首はミステリアスなアンソロジーでもあり、その謎に多くの人が惹きつけられ、解明しようとしてきた。

 

だが、おそらく塚本は、そんなことにはなんの興味もなかっただろう。

 

なぜなら塚本は、極言すれば「いい歌」にしか関心がないからだ。

塚本にとってそれは「定家の面妖な好み」の一言で片付けられる問題でしかなかった。

 

塚本は和歌の規範とは無関係に、あるいはそれを呑み込みながら、独自の、何にも左右されない選歌眼を鍛えていった。

あえて一言で言い表せば、一首の韻律がもたらす「快」の感覚、その陶酔の体験こそが塚本にとっての絶対的な価値だったのだ。

 

だから読者にとっても、塚本の文章を読むのは、至福の体験である。

しかし、あるときから僕は、塚本の本を読み終わると一抹の悲しさを覚えることに気づいた。

 

塚本は、その比類のない鑑賞眼に、みずから殉じることしかできなかったのではないだろうか。

 

*1:百人一首の原型である「百人秀歌」の奥書