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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第12回 臼井和恵『窪田空穂の身の上相談』

 窪田空穂39歳、身の上相談に答える 堂園昌彦

窪田空穂の身の上相談

窪田空穂の身の上相談

 

  窪田空穂。1877年(明治10年)生、1967年(昭和42年)没。言わずと知れた結社「まひる野」創立者にして、近代短歌のビッグネームである。

 私がいちばん好きな窪田空穂の歌はこれです。いい歌だと思う。

 

はらはらと黄の冬ばらの崩れ去るかりそめならぬことの如くに 窪田空穂『老槻の下』

 

 短歌を始めてちょっと経てば、だいたい窪田空穂の名前は聞いたことがあると思う。しかし、彼が39歳のときに読売新聞で身の上相談の記事を書いていたことは知っているだろうか。ちなみに私はぜんぜん知らなかった。

 この本は、その空穂の身の上相談の全容を、家政学の教授である臼井和恵さんが解き明かした、けっこうぶ厚い本である。A4版で500ページくらいあって2006年、角川学芸出版から出ている。

 空穂が身の上相談欄を始めた経緯はこうである。1914年(大正3年)、読売新聞は他の新聞との差別化をはかるために、日本初の新聞婦人欄「よみうり婦人附録」というものを始める。その中で始まったのが「身の上相談」である。

 「身の上相談」というジャンル自体は、それ以前の明治時代から雑誌や新聞等でぽつぽつあったのだが(代表的なのは東京新聞の前身である『都新聞』のもの)、日刊新聞の女性欄の連載記事という形で新聞に登場したのは、これが初めてらしい。当時は、文書で送られてきたものだけではなく、実際に新聞社に来た人の話を記者が書き起こしたりしていたようだ。

  当初、読売新聞の身の上相談欄は女性作家水野仙子田山花袋の弟子で、歌人・服部躬治の妹らしい)が担当していて好評を得ていた。しかし、1916年(大正5年)、水野は結核になってしまい、身の上相談欄を続けられなくなる。で、この「よみうり婦人附録」の編集長が空穂の学生時代からの親友である前田晁だった。困った前田が急遽頼ったのが、女学校を辞職して職のなかった「わけ知り」の親友、窪田空穂なのだ。

 ようするに、窪田空穂は現在まで連綿と続く「身の上相談」という新聞コラムの一ジャンルの黎明期において活躍し、そのフォーマット自体を作り上げた立役者の一人なのである。すごいぞ、空穂。

 で、実際の相談はこんな感じである。いちいち長いと思うけれども、はしょったり現代語に直したりするとこういうのは台無しなので、せっかく字数制限のないブログだ、省略せずに相談と空穂の回答をぜんぶ載せようと思う。面倒な方はがんがん引用とばして読んでください。あと、読みづらいので、適宜赤字強調を入れてみました。そこだけ読めば話はだいたいわかります。

 ちなみに大正5年と言われてもピンと来ない人もいるかもしれない。斎藤茂吉『赤光』と北原白秋『桐の花』の発行が大正2年なので、まあ、だいたいそこらへんの時代をイメージしていただければ大丈夫です。

 まず、大正6年2月18日の相談から。△が相談者、▲が空穂の回答です。ではどうぞ。

私は二年前から或る婦人と相思の仲となつて清い交はりをつゞけて参りました近頃一層お互の愛が確実になつて来ましたので、自然結婚といふ事を考へなくてはならなくなりました。そこで私は自分の意志を両親に打明けますと、お前の配偶者を深切に世話してゐて呉れる人がある、その人に対し申訳がないから許せないといふ事になりました。世話する者のない結婚は大罪悪のやうに見て、甚だしく非難する習慣になつてゐる私の地方の事ですから、両親の反対するのも一応は尤もだと思ひました。併し一歩進めて考へて見ますと、結婚といふものは世間体や義理立てによつて成立たすべきものではないと思ひます。殊に現在我国に行はれつゝある仲介結婚といふものは、夫婦となるべきお互が性格も気質も知る事が出来ず、只両親と仲介人との間で纏めてしまふので、当事者に取つては不安心な結婚法といはねばなりません。私は既に二年間も彼女と交際して、気質もよく知りぬいてゐますので、彼女との結婚は、この点では最も安心で、最も幸福だと思ひます。併しその結婚の為に、年を取つた両親に、世間へ対して肩身の狭い思ひをさせ、自分も亦不品行呼ばはりをされる事を思ふと、迷はずにはゐられません。私は其の婦人とはまだ結婚の約束はしてゐませんから、今のうちならば自分の決心次第で何うにでもする事が出来ますが此の場合親の意見に随つて、即ち親の安心する旧式な結婚法に甘んじてゐるべきでせうか。又は両親を説き伏せて、彼女と結婚すべきでせうか。現在の私として執るべき道をお教へ下さい。(結婚する男)(p.111)

 こまった。自分の決めた恋人と結婚したいのに、両親は紹介した人間と結婚しろと言うのだ。大正時代、自由恋愛はまだまだ珍しく、「ご法度」と捉えられることも多かった。ただ、価値観が移り変わってきてもいて、この質問だけではなく同じような悩みを抱えた相談がたくさん来ている。空穂はこう答える。

▲貴方の云はれる通り、我国の従来の結婚法は、昔の時代には適したのであつたでせうが、現在の時代には適さないものであるといふ事は、識者の殆ど全部が承認してゐる事です。今はそれが問題ではなく、問題は実行方面に移つてゐます。即ち結婚する者の自由意志に基いたもので、同時に若い者に伴ひ易い、一時の感情に駈られた無分別なものでなくするには何ういふ方法を執ればよいかと考案中になつてゐます。今貴方の場合を考へて見ますと、貴方が旧式の結婚法には満足の出来ないといふのは、寧ろ当然な事です。出来る範囲に於いて古い習慣を打破して進むといふ事は御自身に対する義務とお考へになつて然るべきでせう。貴方の地方の習慣がそのやうでしたら、一時の非難ぐらゐは覚悟して正しい先例をひらく為めに、或る程度までの犠牲になるつもりでなさるべきでせう。併し貴方の態度が潔くなく、その結果もよくないやうでしたら、御自身を辱しめる事であると共に、一地方の進歩も阻む事になりますから、その辺は十分の御注意を要します。貴方のやうな境遇に立つた方は人一倍の責任のある事を、呉れ呉れもお覚悟になるべきです。(記者)(p.112)

  空穂は、恋愛結婚を認めている。「従来の結婚法は、昔の時代には適したのであつたでせうが、現在の時代には適さない」とし、「貴方が旧式の結婚法には満足の出来ないといふのは、寧ろ当然な事です。」と励ます。しかし同時に、「先例をひらく為めに、或る程度までの犠牲になるつもりでなさるべきでせう。」とその困難なことも踏まえ、「貴方のやうな境遇に立つた方は人一倍の責任のある事を、呉れ呉れもお覚悟になるべきです。」と相談者の責任をも促す。時代の趨勢と若者の責任に同時に目を配った名回答ではないだろうか。ちなみに、空穂も自分の元生徒と、恋愛の末結婚している。

 このように、空穂は進歩的な視点からアドバイスをすることが多い。と、同時に「自分を恃む」というところが空穂の回答の特徴である。「自分で決めたことは自分で責任を持て」というのが、空穂の基本スタンスなのだ。

 次の職業に関する質問も、空穂の「自分を恃む」という姿勢がよく出ている。

△私は二十二歳になる女でございますが、或る事情の為め独立生活をして行かなければならぬ身でございます。その事情は詳しくは申上げ兼ますが、生来私は非常に演芸を好みますので、女優にならうと決心はしました。保護者である実兄も賛成してくれました。世の中の人は、女優などといふと直ぐに嘲笑いたしますが、それは此れまで女優となつた或人が、世の嘲笑をうけるやうな失態があつたり、且つ女優が自重しなかつた為だと思はれます。私は今後真面目に芸術を研究し、女優として恥しからぬ品性の陶冶と、人格の修養につとめて行つたならば、女優も世間から嘲笑されたり、安価に扱はれるやうなことはあるまじと思ひ、又決して恥づべき職業ではないと思考されますので選択した次第でありますが、しかし私は此道に一人の知人もなく、それに入つて行く手段方法もないので困つてゐるのでございます。記者様、一代の名優と思はれる方に弟子入りするのと、女優学校と申すものに入るのと何方がよいのでせう。将来信頼するべき名優と申せば何人で、又女優学校と申ますのは何所にあるのでせうか。又弟子入りするのと学校に入る方法や損益は如何なものでせう。私は普通教育は受けてゐる者でございます。(きぬ女)(p.362)

 女優になりたいのだけれど、どうすれば、という相談だ。当時、女優は「賤業」と見なされており、ひどいときは、それが理由で家族から絶縁されるなどの事例もあったようだ。そんな風潮の中で女優になろうとする強い決意を感じる相談である。空穂はあたたかくこう答えている。

▲職業に対しての貴方の御考は正しいものと思ひます。自分の天分を発見し、それを重んじて、そちらに向かつて進んで行く事が其人としての進歩の路です。周囲の批評などは、其事に較べると云ふにも足りない程小さいものです。社会としての進歩も、さうした人々の進歩の集積に過ぎません。女優が我が道だと信じられるならば安んじてそちらに向ふべきです。御質問の名優に弟子入りするのと学校に入るのと何方が利益かといふのは、御返事が致しかねます。これは恐く誰にも分らない事でせう。又将来信頼すべき名優の誰であるかも分りかねます。とにかく女優を養成する所としては、芸術倶楽部附属の俳優養成所(牛込区横寺町芸術倶楽部内)があります。又帝國劇場附属の女優部も、或は養成するかも知れません。これらに就いて御照会になれば、大凡の様子は知れませう。(記者)(p.362)

 空穂は言う、「女優が我が道だと信じられるならば安んじてそちらに向ふべきです。」と。同じ読売「身の上相談」欄でも、空穂以前の回答者は同じく「女優になりたい」という十九歳の女性に対して、「先ず先ず普通の処女などはさういふ方面に足を踏みいれないのが安全であらうと思はれます。」と答えているので、空穂の回答は同時代としても、ずいぶんと親身になったものだとわかる。「自分の天分を発見し、それを重んじて、そちらに向かつて進んで行く事が其人としての進歩の路です。」に、空穂の職業に対する基本スタンスが見られる。

 しかし、若い頃から職を転々としてきた苦労人・窪田空穂は、リアリストでもある。次の相談は、画家になりたい18歳からの相談だ。 

 △私は本年三月或る学校の洋画科を出、もう少し勉強したい為に或る洋画家の塾に見習ひに行つてゐますが、塾生の皆さんと一緒に進んで行く事が出来ないので、自身について疑ひを持ち始めました。一体私は家の跡取ですが、絵が好きな所から前後をも考へずにその道に入つて来ました。そしてたとへ無器用でも、精神一到何事か成らざらんと思つて今日まで勉強して来たのです。しかし絵は天性器用でなくては駄目なものではないかと此頃になつて迷ひ出してしまひました。私は本年十八ですから成るべくは今まで通続けて絵を勉強したいのですが、駄目ならば他の事業に移らなければなりません。この事は自分の決心のついた上で親に相談したいのですが、御判断下さるやうに願ひます。(迷える生)(p.74)

 洋画科を出てからさらにある画家の塾に入ったが、周りについていけない、辞めたほうがいいですかねえ、という内容だ。空穂の回答は次のものだ。

▲絵が好だといふ事と、画家になれるか何かといふ事とは別な問題です。絵が好きでなければ画家にはなれないが、好きだからといつて天分が伴つてゐないと画家にはなれません。即ち勉強だけでは駄目です。その人が画家になれるか何うかは、恐く十年くらゐ勉強した上でなければ分らない事でせう。十八歳の貴方がそれを云ひ出すのは早過ぎますが、今から自身が疑はれるやうだと、貴方は絵は好きだが天才に乏しいのかも知れません。天才が乏しいならば絵は趣味に止めて置いて職業とはせず、職業は他の方面で求める方が生涯の幸福だらうと思ひます。貴方と同じやうな疑問を抱いてゐる人が大勢あつて同様な相談をされます。この返事はそれらの方からも見て頂くつもりで申ます。(記者)(p.74)

 先ほどの女優の相談との差異が際立つ。空穂は言う。「自身が疑われるようだと止めておけ」と。リアリストだ。「自分を恃む」ことができない場合は止めておいたほうがいいのだ。

 空穂は、長野県の田舎の次男であり、一度は大きな家に婿養子に入るも、そこを出て行ってしまったりしている。その後、東京に上京した後も、新聞社や出版社や学校教員などを転々としている。ずっと職で苦労している空穂だ。今回の読売新聞婦人欄への就職も、そんな空穂を哀れんだ親友の前田晁が、気を利かせた側面がある。

 このへんで、空穂の、進歩的、リアリスト、自分を恃む、という性質が分かってくる。そして、それはどうやらは、空穂の生い立ちにくわえて、空穂のキリスト教信仰からも来ているらしい。空穂は、28歳の時に明治・大正時代の指導的キリスト教牧師・植村正久に心酔し、洗礼を受けている(ちなみにこの植村正久は日本文学史上重要な人物で、他に、国木田独歩島崎藤村正宗白鳥などにも影響を与えている)。次の回答などは、そうしたキリスト教的な考え方が出ている例だ。

私は四年以前に継子の四人ある所へ縁づきました。頭は十九で昨年死去し、次ぎは此春縁づき唯今家には中学一年の十四の長男と小学三年の九歳の子とがあります。私は継母だからと云はれたくなく余程注意してゐる積りでしたが、それでも旨く行きません。それには夫が非常に子煩悩で、子供を信用し過ぎるといふ点もあります。例へば夫は私が子供を叱るのを厭がり、又私の言葉づかひが邪慳だといつて非難し、子供には足蹴にされても我慢しろと申しますが、私は生来肝癪持ちで、長上の者にならば格別、子供に足蹴にされても黙つてゐる程の雅量はありません。所が子供は我儘で、私に悪口雑言など致しますので、叱らずにはゐられないのです。先日も子供の事に就いて夫と話をしました末、私の年寄つて世話になりたさに子供を育てるのではない、親の義務だから育てると申しますと、夫は、お前は兄弟が多いから子供の世話になどならなくともいゝだらうと申し、それからは一層気色を損じ、今では夫も子供も私を出て行けよがしに致します。私は皆がそれ程に思ふなら出て行つてもやりたいのですが、悲しい事には一昨年の十二月生れた子と今年の七月生れた子が可愛くて、死んだならば仕方もないが生れてゐる中には迚(とて)も別れる事は出来ません。それで若し子供を二人連れて兄弟の世話にならずに暮して行けないものかと思ひ煩悶してをります。私の最善の路は何処にあるのでせう。(辰子)(p.54)

 あるところに後妻として入ったが、義理の子供たちとうまく行かない、と。「子供に足蹴にされても黙つてゐる程の雅量はありません。」に怒りが滲んでいる。雅量って。ぎりぎり怒りに堪えている相談者の歯軋りが聞こえてきそうだ。空穂はこう答える。

▲継母といふものゝ苦しい心持は察しますが、併し継母でも立派にやつてゐられる方もありますから、今後の身の振方などお考へになるよりも、先づ現在の境遇を善くしようと努力しなければなりません。夫は子煩悩に過ぎると云ひますが夫の方になつて見れば、生みの母を失つた子供だと思つて不憫も一層でせう。又子供になつて見ればもう物心が附いてから母に別れたのですから、貴方に対して親しみの薄いのも無理とは云へません。夫の方の云はれるやうに、足蹴にされても辛抱する程の愛を貴方は持つ事が出来ないでせうか。その心になつたらまさか足蹴にもしますまい。又親の義務だから子供を育てるとは思はず貴方が実子に対するやうに可愛くて育てずには居られない心持になりませう。さうなつたら母子の中の感情も融和して行きませう。対等の心持に止らず、進んで此方から与へて行かうとする事が、何よりもお考へになるべき事です。(記者)(p.55)

 空穂は、義理の子供も可哀想だから、実の子に対するように愛を持てないだろうか、と言う。「対等の心持に止らず、進んで此方から与へて行かうとする事」は、とてもキリスト教的だ。相談者のお母さんは納得しただろうか。

 空穂が受洗したのは若い頃だったから、39歳のこの頃は、毎日教会に行ったりはしていない。しかし、空穂の中にキリスト教信仰は、大きなものとしてずっと残っている。

我は神の造ったもの、聖霊の宿る神殿で、限りなく重んずべきものである。(『わが文学体験』) 

と後年空穂は述べている。相談者の側に立つ、という空穂の回答姿勢には、キリスト教の影響が大きくあるようだ。

 また、まだまだ迷信の強かった大正時代、こんな質問も舞い込む。易者から言われたことを気にする夫婦の相談。

△私は八年前に従兄と結婚して睦しく暮して来ましたが、一昨年の夏夫は二月ばかり病気をし、その看護づかれの為か妊娠中であつた子供は生れると間もなく死にました。昨年の秋夫は易者から身の上を見てもらひますと、この縁は合性が悪い故長くは続かぬ、続ければ夫の身体が弱つて行き、子供も満足の者は出来ないといはれたさうです。元来夫は体の弱い上に、血族結婚を気にしてゐた所へこんな事を云はれたのですから、それ以来私たちは何うしたらよいかと気ぬけしたやうに成つてゐます。離別される位ならば私は死んだ方がましだと思ひますが、さりとて一緒に居る為に夫の生涯が駄目になるやうでしたら、自分の体は犠牲にしても夫は幸福にしなければ済まないと思つて、生きる甲斐もない日々を送つてゐます。合性の悪いのは何うする事も出来ないものでせうか。(苦しむ女)(p.287)

 易者から「合性が悪い」と言われ悩んでいる夫婦。易者からの言葉なので、「ちょっと相性が悪いよねー」レベルではなく、たたりがあるとか、運命が悪いほうに行くとか、そのレベルで脅されたのだろう。1916年だなあ、という気もするが、現代でもマジで悩んでいる人はけっこういるだろう。空穂先生どう答えるか。

合性の良し悪しなどといふ事のある筈がありません。いはゆる合性は悪くても仕合せな夫婦もあり、合性は善くても不仕合せな夫婦もあります。合性などゝいふ事のないのはそれだけでも分ります。一体人が生まれた時から運命がきまつてしまつてゐるなんて事があつてたまるものですか。何うでも易者を信じるならば、五人十人と見てお貰ひなさいまし、云ふ事が皆違ひませう。八年も一緒に睦ましく暮してゐる中には、一度位の不仕合せは誰の身の上にもあります。それ位の事で迷ひ出してはいけません。そんな役に立たない心配こそしてはなりません。(記者)(p.288)

 「合性の良し悪しなどといふ事のある筈がありません。」と迷信をビシッと否定している。空穂、ちょっと怒っている。「一体人が生まれた時から運命がきまつてしまつてゐるなんて事があつてたまるものですか。」がかっこいい。うんうん、そうだ、と言いたくなる

 他にも、「転居したいんですが、方角の良し悪しはあるものですかねえ」という質問に対しては、「そんなものない」と答えたあとに、

記者は、この美しい天地の、何方の方角がよく何方は悪るいなどいふ事を考へるのは、大それた事だと思つてゐる一人で、何方の方面も皆いゝ方面だと思つて安心してゐます。(p.290)

と答えていて、にやりとする。かっこいい。

 そんな空穂の読売新聞社内での働きぶりはどんな感じだったかといえば、こんな証言が残っている。

 空穂は、毎日、社へ遅く来る。相談の手紙を見、面白いのを選んで返事を書いて、何枚分か書くと用がない。一、二時間の事務である。まだ日が高いのに「おれや、帰るよ」で、帰つてしまう。そうかと思うと、社会部長の机へやって来て「おいおい土岐君、どうだい」なんて話しかける。社会部には青野季吉などもいたわけで、部下の手前、土岐は少し困った。……中には、紙面に発表せられるのを嫌つて本人が社に来るのもある。空穂はそれにも会つて助言を与えた。

(村崎凡人『評伝窪田空穂』)

 おもしろい。空穂はサッと仕事して、サッと帰っていたようだ。「土岐君」は土岐哀果(善麿)。このころ読売新聞社会部長だった。土岐は、空穂より8歳年下で、もちろんお互い歌壇では見知った顔だ。土岐哀果はずっと読売に勤めているたたき上げの新聞人であり、空穂はそこにひょっと入ってきた形になる。土岐はやりにくかっただろうなあ、と思って笑ってしまう。

社会部長の土岐哀果は窪田さんとは肌合いがちがい、編集室にいるときは新聞記者になり切っていた。窪田さんは、編集室にいても歌人であった。

青野季吉「解説」窪田空穂『わが文学生活Ⅲ』)

 というコメントもあり、なるほど、と思う。

 そして、婦人欄で一番多いのは、家庭に関する相談だ。次は、子供のできない夫婦の相談。 

私は本年三十一歳になる男ですが四年前相思の間柄の或女と親の許しを得て結婚しました。妻はよく親に傅(かしづ)き仕へてゐます。食事の時にも親より先へは膳にも向はない位です。大勢ある小姑にも誰彼れの差別なく一様に親切にしてくれます。又家の内の掃除整頓はもとより嘗て手馴ない仕事をさへいそいそと働いてゐます。これは皆私に対する愛の現れであるとして深く感謝してゐます。然るにこゝに一つの煩悶があります。それは結婚後四年にもなるのに子供が一人もありません。つくづく考へるに人間として子供のない程不幸な事はありません。しかし子供の無かつた人でも妻が変り夫が変つた為に出来た人も沢山あるやうに思ひます。私はそれを理由として離縁してもよいものでせうか。絶えず苦んでゐます。(東北の煩悶生)(p.94)

 妻はよく私に尽くしてくれて感謝しているけれど、子供ができないから離縁してもいいだろうか、という相談だ。とんでもない。とんでもないが、この時代は「良妻賢母」が女性の至上価値とされていた、そういう時代だ。空穂はどう答えるだろうか。

結婚といふ事と、子供といふ事とは別にしてお考へになる方が正しくはないかと思ひます。相思の間であつた只今の細君と結婚しようとされた時、子供を得る方便としてこの婦人と結婚するのだとは御思ひにならなかつたでせう。細君も亦同様だつたらうと思ひます。細君は子供を生ませる為の者、子供を生まなければその資格がないと御思ひになるのは間違つてゐませう。それに又、子供の出来ないのは何方かの体に何かの障りのある為でせう。それだと医学の進んだ今日の事ですから専門家から調べてもらふなど力の尽しやうがあります。子供を欲しかつたならば先ずそれを成さるべきです。何方の体も丈夫であつたらば必ず子供は出来ませう。天の与へる日を心長く待つてゐるべきです。(記者)(p.95)

 結婚と子供は別だ、とはっきり答えている。また、それを「相性」や「慣習」の話ではなく、医学の問題として捉えていることもポイントだ。やはり時代の空気からすると、随分と進歩的だと言える。この「よみうり婦人附録」の「身の上相談」欄が、女性から大きな人気を得たのもうなづける。

 次の質問も印象に残る。

私は結婚後三ヶ月にして全快の見込の附け難い病気に罹りました。夫に離縁を申込みますと、うまい事を云つて喜ばして置き乍ら無断で結婚してしまひました。此事を知人に知らせてやりますと、その人は未婚時代から私を愛してゐて呉れたとの事で、今度の事にもひどく同情して呉れましたので、嬉しく感じました。私は今後も此人と交際をしたく、親戚にも断つて許しを得たいと思ひますが、かうした結婚も出来ない体をしてゐては、仮令精神上で相愛して行くだけでも、何となく不正な行為をしてゐるやうに感じられて身が責られてなりません。さりとて私は今孤独な身ですから交際を止めたら何んなに心細いだらうと思はれてそれも出来難いのです。何ういふ道を執るべきものかお教へ下さい。(たま子)(p.92)

 結婚後、難病が見つかり夫に離縁されてしまった。しかし、そのことに同情し、自分を愛してくれる別の人が出てきて、自分も嬉しいが、結婚もできない身体だとなんとなくその人に悪いことをしている気がする、どうすれば、という相談だ。空穂の回答はあたたかい。

▲結婚を予想しない男女交際は不正な行為のやうに感じると貴方は云ひますが、何故そんな気がするのでせう。それだと男と女とは友達となる事は全然出来ない事になつてしまひます。人類の一半を占め合つてゐる男と女がそんな考を持たなければならないといふ方が不思議な位です。殊に貴方は結婚の出来ない病気を持つてゐるとの事ですから、男女といふやうな性的の心持を離れて、人間同志といふ広い心持で交際をなすつたら宜いでせう。(記者)(p.93)

 空穂は言う。「男女といふやうな性的の心持を離れて、人間同志といふ広い心持で交際をなすつたら宜いでせう。」と。「それだと男と女とは友達となる事は全然出来ない事になつてしまひます。」はとても印象に残る。たぶん、相談者は嬉しかったに違いない。

 次の質問も妻の立場に立っている。

△私は本年六月某私立大学の政治経済を卒業した二十三歳の青年ですが、先月中伯父の媒介で、母一人娘一人の親族に当る田舎の財産家へ婿養子に参りました。その娘とは中学時代から度々逢つたことがあるので性格はよく知つてゐましたが、田舎ながら女学校を卒業してゐるにもかゝはらず所謂虫の好かぬ女でした。しかし実家の両親や親族が私のその結婚を熱望してゐたので、反感を怖れ強制に任せて納得した次第です。結婚後の私は実際に娘の欠点を見出し、彼女の一挙一動が癪を醸す種となつて毎日不快な生活を継続してゐます。彼女の醜貌、音声の悪濁、音楽趣味の皆無な点は殊に私の嫌悪する所で、その為墻璧(せうへき)なき愛情を提供することの不可能なる事を是認しました。この場合如何にせば社会的に満足を得ることが出来るでせうかお伺ひ致します。終りに妻は非常に私を慕つてゐることを附言して置きます。(煩悶生)(p.151)

 エリート大学生が、田舎の財産家へ婿に入って、そこの結婚相手が虫が好かない、とぶちぶち文句を言っている。顔が醜い、声が汚い、果ては音楽の趣味がない、とけちをつけている。このエリートの性格の悪いところがよく出ててすごい。「終りに妻は非常に私を慕つてゐることを附言して置きます。」じゃねえよ! と言いたくなる。空穂の回答は次のとおり。

▲高等教育を受けた事に対して矜りを持つてゐる貴方のやうですが、何よりも大事な品性といふものに対しては何等の修養も持つてゐないのは驚かれるまでゞす。厭な、虫の好かない娘だといふ事は前々から承知してゐたが、両親や親族の手前を憚つて結婚したと、貴方はそれが男子の意気でゞもあるやうに云つてゐますが、結婚といふ如き大事をさういふ態度で扱ふのは、第一は自身を辱しめ、第二は他人を辱しめる事で、道徳の上から観てこれ位ゐ不道徳な恥づべき事はないでせう。さうした貴方だから結婚して一と月もたゝない中からそれに伴ふべき責任を無視して、顔が醜い、声が悪い、音楽の趣味がないから嫌ひだと、遊蕩児が芸妓の批評でもするやうな批評を新妻に加へて、世間体さへ悪くなければ離縁しやうと思つて、それの出来ないのを煩悶と称して相談をするやうな事になるのです。貴方は品性の上では幼稚園の生徒となつて、新しく修養を始めなければなりません。(記者)(p.151)

 甘えたことぬかしてるんじゃない、とこてんぱんだ。「貴方は品性の上では幼稚園の生徒となつて、新しく修養を始めなければなりません。」とはすごい言いようだ。こちらもスカッとする。新聞紙上でこんなに怒られて、相談者は立つ瀬がなかったんじゃないだろうか。

 と、ここまで空穂をべた褒めしてきたが、もちろん、空穂の回答にも問題がないわけではない。たとえば、次の相談を見て欲しい。

△私は本年某高等専門学校を卒業した未婚の者ですが、数年の中に父の業を継いで働かねばならぬので目下結婚を勧められてゐます。そして相手の選択の自由を与へられてゐます。然るに私は一年余り前不図した機会から花柳界の女と知合ひになり、今では互に心を許して婚約までする仲となつてをります。結婚となると私はこの女の事を考へなくてはなりませんが、一旦さうした境遇に陥つた女が、真面目な生活が出来、一生の苦楽を偕にする事が出来るものでせうか。即ち家庭が円満に行き、私が社会から後指をさされて家業に不利を招くといふやうな事は無いものでせうか。又さうした女は一般に子供が出来ないものだと聞きますが如何でせう。今となつて手を切るのは余り酷いと思ふ事情もあるので悶えてをります。(AH生)(p.142)

 花柳界の女性と結婚して果たして円満な家庭を築けるか、という質問だ。空穂はこう答える。

大体から観ますと境遇と婦人とは一致してゐて、悪い境遇にはゐるが悪い感化は受けてゐないといふ婦人は極めて少いやうです。しかしその極めて少数の者は、さうした境遇にも打克つて、普通の境遇にゐる者には得られない修練を受けてゐるといふ事もありませう。要するにその人次第の事でそこは第三者には分りません。貴方の云はれる人がその少数者の一人であつたら家庭は円満には行きませう。しかし周囲から後指をさされて家業に不利を来すといふ事は有る事と思はなければなりません。世間はさういふ境遇にゐる婦人に対しては経緯を持つてゐませんし、それを何うする事も出来ないからです。尚ほ結婚前には一つの欠点もないと思はれる程立派な婦人でも、同棲すると欠点が現はれがちなものです。初めから躊躇されるやうな相手では恐く良い結果はなからうと思はれます。(記者)(p.142)

 空穂は言う。「だいたいにおいて境遇と婦人は一致している」と。「もちろん、その中の少数は、そうした境遇にも関わらず優れた人品の女性もいるが」と一旦留保しながらも、「それは第三者にはわからないし、世間はなおわからないから、後ろ指を指されることはある」と。すなわち、止めておけ、とのことだ。

 世間のことがよくわかっているとも言えるが、これまでの空穂のヒューマンな回答を見ていると、えー、そりゃないよ、という気持ちになってしまう。

 次の質問も同様の意見が見られる。

△私は不図したことにより故郷を後にして旅に出て、困難の結果、口入屋に欺かれて料理屋に奉公いたしました。私はその日稼業はしてをりましたが、心まで堕落してはをりませんでした。一日も早く卑しき稼業はやめて真面目な生活をいたしたいと明け暮れに祈つてをりましたが、僅な金銭の為に束縛されてもそれも出来ずにゐました。ところが二三年前、或富豪に借金を払つていたゞき、今日では真面目な暮しをしてをります。しかし或る一部の人は、私が一旦いやしき稼業をしたところから非常に軽蔑してをります。成程私は卑しい稼業はしましたが、今日では真面目に働いてゐますのに、それでも社会の人は軽蔑するのでせうか。私の考へでは、或有名な人の奥様にも、花柳界にゐた人が随分あります。その事を考へれば然程軽蔑さるゝものではあるまいと思つてゐますが、しかし私如き者は何所までも社会の蔭ものでせうか。記者様、哀れな女がせつかく明るい所で働いてをりますのに、何所までも軽蔑されるものでせうか。知らせて下さい。(哀れなる女)(p.81)

  口入屋は、人材斡旋業者。そこに騙されて料理屋に勤めることになってしまった。文中に「花柳界」とあるので、たぶん「料理屋」はふつうのレストランではなくて、芸者やホステスっぽい仕事なのだろう。ある富豪に借金を払ってもらって自由の身となったが、今でも後ろ指さされてつらい、という内容である。さっきの相談と似ている。

 空穂の答え。

▲貴方の御一身からいふと、暗黒の境を去つて光明の境に出て、そして楽しく働いてゐるのですから、初めて生き甲斐のある生活に入られた訳です。貴方から云へば名誉のある生活です。その貴方に対して軽蔑する者のあるのは、貴方から見れば心外でせう。しかし軽蔑する者の方にも一理ないとは云へません。職業に高下は無いといひますが、婦人がその節操を売り、又はそれに近いと見做される職業をしてゐる者は、この言葉の例外とし、やはり軽蔑されるべきものだと思ひます。貴方は精神は堕落してゐないと云ひますが、形式からばかり人を見て評す多数の者には、それも為方のない事だと思ひます。貴方としては、過去に対しての多少の非難は止むを得ない事とし、徳行を積むことによつてそれを消さうと努力されるべきで、今はその非難を非難されるべき時ではないでせう。(記者)(p.82)

  どうも、花柳界はダメらしい。空穂は「職業に高下は無いといひますが、婦人がその節操を売り、又はそれに近いと見做される職業をしてゐる者は、この言葉の例外とし、やはり軽蔑されるべきものだと思ひます。」とひどいことを言っている。これは身の上相談欄なので、空穂の意見そのままと見るのはナイーブだが、それでも、ひどいなーと思う。

 実は私、この『窪田空穂の身の上相談』を読むちょっと前に、同時代の女性アナキスト伊藤野枝の伝記『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(栗原康著・2016・岩波書店)を読んでいた。ウーマンリブの元祖とも言われる伊藤野枝なら、たぶんこの回答を読んだらブチ切れるだろう。伊藤野枝の言葉を引用してみる。

「賤業」という言葉に無限の侮辱をこめてかのバイブルウーメンが「一人ひとりの事情については可愛そうに思うが――」などと他聞のよさそうな事をいいながらまだその「賤業」という迷信にとらわれて可愛そうな子女を人間から除外しようとしている。それだけでも彼女たちの身のほど知らずな高慢は憎むべきである。まして彼女たちは神の使徒をもって自(みず)から任じてたつ宗教婦人ではないか? 博愛とは何? 同情とは? 友愛とは? 果(はた)してそれらのものを与え得る自信が彼女たちにあるか? 恐らく彼女たちの全智全能の神キリストは彼女らが彼の名を口にしつつかかる偏狭傲慢の態度をもって人の子に尽(つく)すことをかなしんでいるに相違はないと私は思う。

伊藤野枝「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」)(1915)

 これは、伊藤野枝が、婦人矯風会というキリスト教団体を批判したときの文章だ。婦人矯風会は政府の公娼制度を止めさせようとしていて、それはいいのだが、売春している女性を「賤業婦」と呼んでいた。女性が可愛そうだから売春を止めさせよう、ではなく、売春は「賤しいもの」だから止めさせようとしていた。それを伊藤がブチ切れのだ。お前らは世間体のいいことを言っているが、本心は「賤業」とか言って、そうした人々を下に見ているじゃないか、そんなのがキリスト教の精神か、とカンカンである。

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

  ちなみに伊藤野枝は大正12年(1923年)の関東大震災のどさくさにまぎれて軍部に、恋人の大杉栄と一緒に虐殺されている。空穂とは完全に同時代人だ。伊藤はなかなか複雑な人なので、詳しくは伝記を読んでほしいのだけれど、ともかく、空穂とはいえ、当時の支配的価値観を内面化しているところは免れていない。伊藤野枝の眼で見るまでもなく、そこに突っ込みを入れることは可能だ。

 実は、空穂の身の上相談回答の限界もここにあって、それは著者の臼井さんも指摘している。空穂の回答には「自分を恃む」という姿勢が強いが、それはつまり個人的解決を重視するということでもある。その反面、問題の背後に社会的・経済的な要因があり、それは女性個人の修養向上のみでは解決ができないという視点が、皆無とは言わないが弱い傾向にある。

 たしかにそれは批判点だろう。だが、窪田空穂の回答が、日本初の新聞女性欄のいちコーナーとして、その時代の女性たちの助けになっていたことは、紛れもない事実だと思う。

 次の相談と回答は、その最も大きなもののひとつとなった例だ。

△二十三日の御紙上の「独身を覚悟した訳」といふ相談を読みました時、私は悲しみもし、驚きもしました。それは余りに私の境遇とよく似通つてゐるからです。私は十四歳の時、知人の家へ手伝ひに参りました。夏休み中手伝つて呉れと達て云はれて止むなく参つたのです。そして毎日変りなく過ごしてをりました。その中御主人と奥様とはちよつとした事から口論をされ、それが元で奥様はお里の方へ三四日お出になり、家には御主人(当時三十七八歳)だけになりました。その時(大正二年八月)私は御主人の為に、清い操を汚されてしまひました。私は何んなに泣いたでせう。その後御主人様は大層私に深切にして呉れましたが、私は何なにその深切がいやだつたでせう。しかし私は二た月ばかりもその家にゐて、帰宅ができると父母の許にたのしく過ごしました。さて其の当時は何事も知らぬ私の事ですから、時々思ひ出しては、自分ながら怖ろしいやうな考へを小さい胸へ浮かべたこともありましたが、自分さへ黙つてゐれば円満におさまる御家庭と思つて、今日まで黙つて過ごしました。今日ではもう恐ろしい考へなど持つてはをりません。私は只今は十八歳になります。そして昨今は看護婦になつて、大勢の患者に接してをります。そして男子の方を思ひ出すと、私は昔の事が思ひ出されてなりません。それと同時に男子を呪はずにはゐられません。又私は至つて快活な性質でしたが、その事のあつた時から非常に陰気になり、寂しい程静かな室を好み、本などを読んでゐるのが楽しみのやうになつてしまひました。そして又、清い月や清い少女などを見ると、たまらなく懐かしい気がし、そして心は如何に清くても、女子に最も大切な操を汚された自分であることを思ひますとたまらないまで悲哀を感じずにはゐられません。右の事情から私は独身と覚悟を定めてをります。そして早く産婆なり薬剤師になり、一人前の者となつて父母に安心をさせたいと思つてゐます。然るにもう二三軒から結婚を申込まれてゐます。その度毎に私は断つてをりますが、何も知らぬ父母は唯不思議にに思つてゐます。親類も頻(しきり)に同じ事を勧めますが、以前の事を思ひ出しますと、私も結婚はおろか男といふ言(ことば)さへいやな位です。記者様、私の心を御察し下され、父母にこの委しい事を話さずに、結婚問題をことわる法を御教へ下さいまし。尚ほ私は、汚された事は一度だけでございました。(埋れし弱者)(p.258)

 どうもこのような、年若いころにレイプされ、それが元で結婚をあきらめたり、あるいは夫に対して後ろめたい気持ちを抱いたりといった、反吐が出るような事件が大正時代にはかなりあったらしく、空穂の回答を読んだ女性から、こういった類の相談がバンバン舞い込んだ。「あの回答を読んで思わず筆を取りました」と。みんな、相談したくてもどこにも相談できなかったのだ。悩み苦しんだ女性たちにとっては、新聞でこうした話題が取り上げられることは、当時の風潮からすると本当に救いのように見えたのであろう。空穂はそんな女性からの相談に、一回一回丁寧に答えていった。この相談に対する空穂の回答は以下のようなものだ。

▲此頃打続いてかうした悲しむべき手紙を手にして、世にはかうした事の如何に多いかを知つて、嘆きと怒りとを交々感じてゐます。かうした事の起つた事情を見ると、婦人が自意識が足りない為とか、又は勇気が足りない為とかいふのではなく、総て皆男子が暴力を以て、抵抗力のない婦人を蹂躙してゐる事が分ります。男子の一時の戯れ心が、如何に婦人の生涯を暗いものとし、如何に内部的に変化を起させてゐるかを思ふと、原因の小さきに較べてその結果の余りにも大きいのを見て、驚かずにはゐられません。婦人に対して男子は、今よりは遙かに責任のある態度を執らなければなりません。男といふ字を見るのさへもいやだといふ貴方の呪も貴方としては尤もの事だと云はなければなりません。さて、貴方の純潔を失はれた悲みに対しては同情します。しかしその動機から見ると貴方は暴力によつて奪はれたので、その中に貴方の意思は含まつてゐません。失つたには相違ないが、いはゆる災難であつて、貞操を破つたといふ事とは違ひます。悲みではあるが、責任の伴はない、悔の伴はない悲みです。即ち他からは十分に同情されるべき不幸といはなければなりません。随つて自分は貞操を破つた、女としての資格がない、結婚は出来ないとまで御考へになるのは、形にばかりつき過ぎた考へ方で、第三者から見るとそれ程までに考へるべき事ではないと思ひます。記者は貴方が良縁があつたら結婚される事を希望します。そして結婚前に、自身の事情を然るべき方法で先方に通じたならば、良縁といふべき縁であつたならば、必ず其事は許さるべき事だらうと思ひます。それより外に方法は無いでせう。(記者)(p.259)

  「あなたには何の責任もありません」とはっきり言っている。この時代として、空穂のこの回答はすごい。「レイプされるのは、女性に隙があるからだ」「誘惑したんじゃないか」「死ぬ気になれば抵抗できるはずだ」などという意見がまだまだ多くを占めていた(もしかしたら、今でもそうかもしれない)。相談者の女性も、それゆえ苦しんでいる。空穂はそれにしっかりとノーといったことになる。

 実際この回答の後に、読売婦人欄は上からの圧力で「女性は自ら気をつけねばなりません」「死ぬ気になれば抵抗できるものです」というサクラの投書を掲載させられている。反響が大きかったために、バランスを取らされたのだ。大正時代はそんな空気だった。そんな中で、空穂の回答は同じ境遇にある女性たちを励ますものだったに違いない。

 もちろん、結婚のみを救いと捉える考え方を批判することもできるが、この空穂の回答はじゅうぶんにあたたかいものだと思われる。

 しかし、こういった回答がトラブルの原因になる。さっきも「上からの圧力」と書いたが、このような女性の側に立った回答は、「風紀を乱す」と上層部から睨まれていたらしい。ある時、読売新聞の社長夫人であり、また愛国婦人会会長でもあった本野久子が、「身の上相談」にいちゃもんをつけた。要するに、男女問題や性に関する問題をあからさまに取り扱っていることが、当時の上流夫人の道徳観に抵触したのだ。

 本野久子は、上司を介して前田に意見書を渡す。曰く、「読むに忍びざる」「賤しむべき」内容であり、こういう記事は「害があつて益がない」と。前田はそれを空穂にそのまま見せた。

 空穂は手紙を見て激怒した。すぐさま返事を書く。内容はまとめると次の通り。

『身の上相談』は、相談を寄せて来た人に対して有益な回答をするものであって、教育者としての私の意見を述べることが目的ではない。もし、私の回答が不適当だとか、文章がまずいということなら直せるが、実際に来ている問題そのものに手を加えることはできない。読者である女性が、記者に訴えてくるような問題は、見知らぬ人であることを幸いとして、他人に語れないような、心のうちの秘密を相談してくる。これを無視して捨て去ることはできない。それでも記者に責任があると言うのならば、私は辞めるしかない。

 いちゃもんをつけられ憤慨し、空穂は身の上相談の回答を書かなくなる。しかし、その間も新聞は毎日発行されるし、空穂の原稿のストックも切れる。仕方なく、別の婦人部記者が回答をしたりしているが、これが空穂とぜんぜん違っている。

△記者様。私は今年十五歳の少女でございます。先日、日曜日にお友だちのおうちへ遊びにまゐりましたら、お友だちのおねえさまが教会へつれて行つてあげると云はれました。私もお友だちも喜んで行きました。牧師さまがいろいろけつこうなお話をして下さいましたので、うれしく思つて、お友だちやお友だちのお姉さまと次ぎの日曜にも行きませうと約束して帰りました。そしておばあ様にこの事をお話しました。するとおばあ様は大層怒つて、家には仏さまがあるのに、そんなヤソ教の家へ行くのはいけないと云つて、お友だちの家へも、教会へもやつて呉れなくなりました。私は牧師さまのお話がけつこうで面白いので、もつと教会へ行きたいと思ひますのに行かれません。それに何より淋しいのは仲のよいお友達と遊ばれなくなつた事です。記者さま、ほんたうに家に仏さまがあつたら教会へ行くのは悪いでせうか。おばあさまの云ふことは無理ではありませんのですか。どうぞお教へ下さい。(みつ子)(p.412)

 教会へ行きたいけれど、おばあ様が怒る、友だちにも会えなくなった、教会に行くのは悪いことなの? という15歳の少女からの相談である。ピンチヒッターで答える婦人部記者の回答は次のようなもの。

▲それはほんたうにお困りでせうね。教会へ行けないのは兎に角、仲のよいお友達とも遊ばれないのは、ほんたうに淋しいでせう。お可哀相にね。けれども、おばあさまの仰有ることを、無闇に無理だなどゝ思つてはいけませんよ。まだあなたはお小さいので、むづかしいことをお話してもよくは分りますまいけれど、昔はさういふ事の為めに、即ち人が違つた信仰を持つたが為めに、大戦争が起つて、沢山の人が死んだり、国が滅びたり、色々な事がありました。それほどの事まであつた位ですから、おばあさまの仰有ることを無理などと言つて、背いたりすると、猶の事叱られるかも知れません。おばあさまの仰有ることも尤もなれば、あなたの困るのも尤もです。それはどちらが悪いことではありませんけれど、あなた位の時には、年取つた方の言ふ事に従ふのが、大抵の場合に悪いことではありませんから、まあ暫くの間は、おばあさまの仰有る通りにしてゐる方がよろしいでせう。そのうちにまた、時節といふものが来て、おばあさまのお心も自然と解けて、また仲のよいお友達の家へも行けるやうになりませう。(記者)(p.413)

 「それはほんたうにお困りでせうね。」って、もう全然違う。空穂なら、「教会へ行けないのは兎に角」と、教会はどうでもいいかのようには言わないだろう。「出来る範囲に於いて古い習慣を打破して進むといふ事は御自身に対する義務とお考へになつて然るべきでせう。」と述べた空穂ならば、きっと「ご自分の責任において、行くべきでせう」くらい述べる。こんなもやもやした慰めているだけのようなことは言わないに違いない。他の回答と比べると、やはり空穂の回答は抜きんでている。

 それはともかく、もう辞めるしかない。実は、空穂はこの身の上相談をやっている期間中に、急な病で愛妻を亡くしている。どうやら臨月だった妻がインフルエンザに罹って、あっという間に亡くなってしまったらしい。それで気落ちして、なんとなく身の上相談を辞めたがっていた。また、前田も上層部にケチをつけられたんなら辞めると言っている。結果、せっかく成果を出していたのに、婦人部は空穂だけではなく、部長以下総辞職となる。

  実はこの身の上相談欄いちゃもん事件にはどうやら裏があって、元々、土岐哀果の率いる社会部と、前田の率いる婦人部との軋轢がその原因にあったらしい。婦人部の記者は、空穂が運営していた雑誌『国民文学』出身の文学者ばかりで、土岐はそれにやりにくさを感じていた。また、社会部も婦人部も新聞の部数を伸ばすために展覧会イベントなどを企画・実行したりしているのだが、婦人部のほうが成功してしまったりしていた。他に、前田は意志は強いが人とぶつかりやすい性格で、しょっちゅう敵を作っていた。そんなこんなで、社会部は婦人部を白眼視していたようだ。

 つまりこれは、土岐と前田の権力争いが前提にあったのである。で、前田のほうが負けた、ということのようだ。うわあ、こわいなあ、それは。ただ、この時は親友前田に殉じたかたちになったが、空穂自身は土岐と仲たがいをしておらず、その後も、土岐の歌集の選を空穂がしたり、空穂の早稲田大学上代文学の講義を、定年後土岐が引き継いだりしていて、晩年まで厚い交流がある。

 空穂の読売新聞勤務の最後は、証言によると、こんな感じだ。

  社内で「身の上相談」には少し男女のことが多すぎるという批判が起こり、上層部からその点少し注意するようにという達しが部長まであった。友人同士である前田部長からそれが窪田さんに取りつがれると、窪田さんは笑って「なるほどね、男女問題が多すぎるか。しかしこの人生に男女問題以外に何があるかね?」と言っておられたが、そのうちにさっさと机の上を片づけて、「じゃあな前田、おれはこれでよすよ。あとはよろしく。」こう言って、すっと帰ってしまわれた。

(中村白葉「窪田空穂の大きさ」『短歌』昭和四十二年七月号)

 というわけで、空穂の大正5年10月から大正6年5月までの八ヶ月間の「身の上相談」欄は幕を閉じた。

 以上、窪田空穂が読売新聞紙上で行っていた「身の上相談」の経緯をたどってきたが、改めて見てみるとこの仕事は、有名な近代歌人では空穂以外はムリなのではないかという気がしてくる。啄木、茂吉、白秋、牧水……、それぞれに魅力的な歌人たちだが、また皆それぞれにうしろぐらい所を持っている。こんなヒューマンな回答は、たとえ仕事としても、他の近代歌人たちにはおそらくできないだろう。別に品行方正であることが文学の価値を決めたりはしないから、言動が清廉であるかどうかはどうでもいいのだが、空穂のヒューマニスティックなところは、私には妙に面白く思われる。

 それはたぶん、空穂がつるりとした聖人君子だからではなく、むしろその逆で、こうしたヒューマンな視点も、辛酸を舐めてきた末に生れてきた、ほの暗く陰影を伴ったものだからだと思う。空穂自身はよく「人生は我慢の連続だ」と述べていた。

  冒頭で、空穂のことを「誰もが知っているビッグネーム」と書いておいて恐縮だが、実は空穂はわかりにくい歌人でもある。茂吉や白秋などの輪郭のはっきりした歌人に比べて、イメージを捉えづらいと思っている人も多いのではないだろうか。「境涯派」「人生派」と呼ばれることの多い空穂だが、「境涯派」「人生派」なんて何にも言っていないに等しい。

 だが、こうした空穂の身の上相談なんかを読んでいると、やっぱり空穂も変ってるよなという気になってくる。そして、空穂の名高い長歌に表れているようなクリアな視点と情の厚さの両立は、こうしたところにも出ているんだな、と思うのである。

 著者の臼井さんは歌人ではないのだが、研究を続けるうちに空穂に魅せられたのだろう。すっかりファンになっている。

この空穂の回答は忘れ難い名回答で、筆者も励まされる(p.69)

 

大正五年十二月十三日の三十一歳男性への回答は、胸がすくほど素晴しい(p.94)

 

空穂のヒューマンな女性観(人間観)が迸り出たような名回答であろう(p.97)

果ては、

大正女性の『真の愛』の一様相と身に覚えある空穂の回答を味わっていただきたい(p.340)

という、ソムリエか、というような言葉まで出てくるのである。「(研究している)この三年間、わたくしは空穂に片恋をしていたように思われる」とまで言っている。そこらへんほほえましい。 

 実はこの本、知った初めは「窪田空穂が人生相談!? なにそれ! おもしろい!」とウキウキで購入したのだが、実際にアマゾンから届いたら、字のびっしりある超まじめな学術書で、読んでいくのに非常に骨が折れた。なにしろこの本、空穂担当期間の八ヶ月間の相談・回答をすべて載せている。全211件、読んでも読んでも身の上相談が出てくる。

 だが、すべての回答を読んでいくうちに、大正時代の人々が悩んでいたこと、そこには欲望がうごめいていたこと、古臭いジェンダー観や家意識、それを空穂がバシバシ切っていったこと、にもかかわらず空穂自身にも保守的な部分があること、それを著者の臼井さんが指摘していること、にもかかわらず臼井さん自身にも保守的な部分があること、そしてそれはたぶん読者である私の中にもあること、それでもやはり人の悩みを読むのは面白く時代の空気が生々しいかたちでこちらに次々手渡されていくこと……、とどんどんぐるぐるしていって、へんなトリップ状態になっていった。他にない読書体験だったと思います。

 読んでみたい方は読んでみるといいと思いますが、超ぶ厚いことはもう一度お伝えしておきます。あと、空穂入門としては、いささか斜めというか、他の本から入ったほうがやはりいいかもしれません。面白かったけど。 

 なお、もっと気軽に当時の身の上相談を楽しみたい方は、山田邦紀『明治時代の人生相談』(2009年・幻冬舎文庫)、カタログハウス編『大正時代の身の上相談』(2002年・ちくま文庫)を読むといいと思います。身の上相談、面白いです。とくに、『大正時代の身の上相談』のほうは、まさに読売新聞の身の上相談欄を元にしているので、ばっちり空穂の回答も入ってます。ただ、単なる匿名記者扱いになっていて、この本の著者は空穂が回答していたことにまったく気づいてないみたいですが。

明治時代の人生相談 (幻冬舎文庫)

明治時代の人生相談 (幻冬舎文庫)

 

 

大正時代の身の上相談 (ちくま文庫)

大正時代の身の上相談 (ちくま文庫)

 

 

 ちなみに、日本および読売新聞における「身の上相談」欄の成立過程は、以下の論文に詳しいので、興味のある人は読んでみてください。

桑原桃音「大正期『讀賣新聞』「よみうり婦人附録」関係者の人物像にみる「身の上相談」欄成立過程」(龍谷大学学術機関リポジトリ

http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/handle/10519/6559

 今回も長くなってすみません。それでは。