短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第15回 来嶋靖生『大正歌壇史私稿』

 読みやすい大正歌壇史 堂園昌彦

大正歌壇史私稿

大正歌壇史私稿

 

 こんにちは。

 突然だが、皆さんが大正時代の短歌の流れをザッと概観したいと思ったとき、初めに読むべき短歌史の本はなんだろうか。

 大本命の名著、木俣修『大正短歌史』(1971)だろうか、それとも、主要な論争を取り上げることで流れが分かる篠弘『近代短歌論争史 明治・大正編』(1976)だろうか、当事者ならではの短歌史、斎藤茂吉『明治大正短歌史(正・続)』(1955)だろうか。

 私はこう答えたい。2008年にゆまに書房から出ている、来嶋靖生『大正歌壇史私稿』だと。

 理由はかんたんで、この本は抜群に読みやすいからである。先の短歌史の本はどれも函入りの鈍器になりそうな分厚さで、木俣修『大正短歌史』は堂々の1100ページを誇っている。それに対し、この来嶋さんの『大正歌壇史私稿』は本文わずか244ページだ。薄くはないが、常識的なレベルである。

 そして、大正元年、大正2年、大正3年、と年ごとにだいたい20ページずつくらい、5,6項目で構成されている。たとえば、大正3年の目次はこんな感じ。

大正三年 51 

新派和歌の定着と停滞 52 空穂の推敲 53 島木赤彦の状況 62 「水甕」と「国民文学」創刊 66 諸歌人の動向 67

 1項目1~2ページくらいでパッパッパッと進んでいくので、非常に読みやすい。また、年ごとに「諸歌人の動向」とかあっていろんな歌人をまとめているのもポイント高い。

 そしてこれが何よりも重要なのだが、この本は、今まで論じられているところはいちいち詳述せずに、元の本に譲るという姿勢をとっている。要するに、参考文献がいちいち本文に書いてあるのである。たとえばこんな感じだ。

 

「御歌所については片桐顕智『明治短歌史論』(人文書院 昭14)による」

「牧水の動きについては大悟法利雄『歌人牧水』(桜楓社 昭和60)に負うところ多い」

「最近では岡井隆『「赤光」の生誕』(書肆山田 平14)に詳細な言及がある」

「論争の詳細や意義は篠弘の既出『近代短歌論争史』参照」

 

 こーゆーのを読めば、ここに関してはあれを読めばいいんだなとわかる。くどくど述べていないところも読みやすい。大変親切な本なのだ。

 もちろん、「私稿」とあるように、来嶋さんはこれをパブリックな短歌史というよりも、個人の興味に触れたところを並べただけ、と断っている。

 この『大正歌壇史私稿』は、大正短歌の通史ではなく、大正歌壇の歴史でもない。大正十五年間の短歌界の人々や出来事などについて、気儘に、自分の関心のあることどもを書き連ねたものである。(p.7)

 やはりそこは留意したほうがいいだろう。しかし、その点を踏まえていれば大正期の歌壇の流れがザッとつかめるので、大変お得な本でもある。

 先に述べたように、くどくど説明しない本でもあるから、まったく知識がないとピンと来ないところもあるかもしれないが、そこらへんはどんどん飛ばして読んじゃえばいいことだ。読むときは「太田水穂」って何度も出てくるからなんか偉い人なんだな、くらいで別にいいと思う。

 そんな親切かつ読みやすい本なのだが、本で大事なのはやっぱり面白いかどうかだ。で、どうだったかというと、なんだかんだで私には大変面白かった。

 それは来嶋さんの視点がけっこうユニークなためだ。はじめの「序にかえて」を引用してみたい。「以下内容について、私の心がけたことを記したい」と、来嶋さんがこの本を書く際に注目した項目を述べている。

同時性 編年体だから当然のことだが、同じ年にそれぞれの歌人がどのような状態で何をしていたか。できるだけ多くの歌人の動きが鳥瞰できるよう、同時性に配慮した。

 さっきも書いたが、年ごとのまとめと「諸歌人の動向」、これがありがたい。白秋が姦通事件のあと三浦三崎でへこんでいるときに、茂吉は母の危篤に駆けつけたりしていることがわかったり、反アララギ連合・「日光」が創刊された年は、茂吉の青山脳病院が全焼して終わっていたりすることがわかる。それぞれの歌人が、それぞれに波乱万丈で、「みんな人生大変だったんだな」と馬鹿みたいな感想を持つに至った。英雄群像劇みたいだった。

推敲過程の把握 短歌の資料はすべて当時の新聞雑誌であるから、後に歌集に纏められた形とは違う場合が多い。初出と歌集との異同を確かめることは、同時にその作者の推敲過程を把握することに繋がる。しかも歌だけでなく、作品の配列や連作の構成の変化も見ることができる。とくに窪田空穂や北原白秋、釈超空らは歌集編纂に当たって大幅に改変するのが常である。すべてというわけには行かないが、煩雑になるのを承知でいくつかの作品とその作者について検討した。

 この本はもともと、来嶋さんが『編年体 大正文学全集』全15巻別巻1巻の短歌部門の選出に携わっていて、その際に書き記したノートが元になっている。『編年体 大正文学全集』は、年毎に制作された文学作品がまとめられる形式で編集されたものらしく、作品を書籍の刊行年ではなく、新聞雑誌に発表された初出から選出している。

 そのため、短歌作品も歌集に収録された形ではなく、雑誌の初出の状態で掲載されている。来嶋さんはそれを大量に選出した。そのため、初出と歌集収録作品とを比べることができたのだ。

 まあ実は、この点にはそれほど私は興味はないのだが、つぶさに見ていくと、各歌人がどのようなところを気にして歌を作っているかがわかってくる。たとえば、来嶋さんが挙げているところでは、茂吉の『あらたま』と白秋の『雀の卵』の推敲の比較などがある。

技法の成立過程 明治中期から大正初期にかけて、さまざまの華麗な花を咲かせて出発した近代短歌だが、大正中期に至って「アララギ」の勢力が高まり、影響は全国に及んだ。他方、窪田空穂や北原白秋は独自の技法をそれぞれ深化し、変容させてきた。技法的には写生・写実が大きな流れとなるが、その技法の機微を作品や批評の上で例示できないか、一首ごとの批評がどのように行われ、技法として成熟していったか、をいくつか追ってみた。

 大正期は、ほんとにアララギイズムの成立期だ。たとえば、以前も大辻さんの本のときに挙げたが、島木赤彦の「主観語の抑制」などが出てくる。これも同じく挙げたが、斎藤茂吉釈迢空の相互批判もこの時期になる。

ジャーナリズムとの関係 歌集は、一般に商品として市場性をもちにくい。が、大正期には僅かながら短歌に熱意をもつ出版社の存在があった。その存在を不十分ながら辿ってみた。これは大正期に限らず、明治から平成に至るまで追求したいことである。

 この時代、出版社がどんどん生れていた時期であり、いくつかの商業出版社による雑誌やシリーズ企画が、歌壇を彩った。史上初めての短歌総合誌「短歌雑誌」ができたのも、この頃である。また、結社誌も、バンバン出来ている。そして、潰れまくっている。なんか、現在では結社誌は歴史のあるものというイメージが強いが、この頃は30代・40代そこそこの歌人たちが、チャレンジングに作っては、次々に潰していた時期だ。例外は、明治29年以来ずーっと続く「心の花」と、あとやっぱり「アララギ」だろうか。明治で「明星」の天下は終わり、大正期は「アララギ」拡大の時期だ。「アララギ」強い。

 こんなに雑誌を創ろうとしたのは、それぞれの発表の場を作るためでもあったし、経済的に食っていくためも、両方あったのだろう。なんか「短歌ヴァーサス」をちょっと思い出したりした。

事実の周辺 すでに多く論じられている著名な作品や評論についての論議は、それぞれの専門書に委ね、論理をあげつらうよりも作品相互の関係や周辺の事情をなるべく解きたいと努めた。文壇諸雑誌ではゴシップ的な記事が多くなった大正期であるが、文学外のことに触れると通俗に堕ちやすい。その選択には慎重を期した。

 これは単純に面白く、初めて知ることが多かった。ちなみに私の前更新回の『窪田空穂の身の上相談』もこの本で初めて知った。他にも面白かったエピソードをいくつか挙げてみたい。

  まず面白かったのは、大正2年、窪田空穂と高村光太郎上高地で出会ったエピソードだ。

 この頃、スポーツ登山が初めて日本に入って来て、ブームになっていた。空穂も登山に魅力を感じ、歌人として初めて槍ヶ岳に登った。で、高村光太郎も同じ時期に山に行っていた。恋人の長沼智恵子が山に来るとの報せを受けて、光太郎は迎えに行く。たまたま槍ヶ岳を降りて東京に帰るところだった空穂も同行する。空穂は、颯爽と登ってくる智恵子の美しさに目を奪われる。

 帰京後、そのことを誰かに話したら、なんとそれが「山上の恋」として新聞にゴシップとして書き立てられてしまった。光太郎はそれを空穂自身が書いたと思い、以後、空穂に不快感を感じるようになってしまったようだ。悲しいね。

 光太郎と智恵子の恋は、この頃有名なゴシップネタだったらしく、よく雑誌に取り上げられていたようだ。ただ、光太郎も雑誌に智恵子に向けた詩を発表することで、気を引いたりなどしていて、進んでスキャンダルを引き起こしていた節がある。高村光太郎という人はけっこうヤバい人なので、知りたい方は最近出た福井次郎著『映画「高村光太郎」を提案します』(言視舎、2016)を読んでみてください。

映画「高村光太郎」を提案します

映画「高村光太郎」を提案します

 

  また、大正4年の啄木追悼会も面白かった。啄木は明治末年である明治45年に26歳で亡くなっている。その3年後、啄木の親友、土岐哀果(善麿)の実家の浅草松清町等光寺で石川啄木三年忌追想会が行われ、歌壇の人がいろいろ集まった。その時のことを空穂が回想しているのを、来嶋さんが紹介している。

 空穂が会場に来たのはまだ開会前で、畳敷きの書院にすでに二、三十人の人が来ていた。与謝野寛、晶子夫妻の姿を見出だした 空穂は、先輩である与謝野に「よくいらっしゃいましたね」と挨拶した。すると「彼は軽い笑いをうかべて、『啄木、こうなるとえらそうだね』と言った。その笑いと、その語気とから私は、今日の追悼会は、彼啄木にとっては過分な似合わしくないものだということを、言外にこめていると感じとった。」(昭和三十年執筆)

 つまり空穂は啄木の死の前と後とでは啄木の評価に差があること、生前の評価が低かったことを感慨をこめて記しているのだ。(p.78,79)

 あー、なんかこういうことってあるよなあ、と思う。啄木は今でこそ夭折の天才歌人だが、当時は24歳で第一歌集を出してすぐに亡くなった駆け出しの文学者だ。生前もある程度は評価されていたが(じゃないと死後に歌集が出たりしない)、歌壇的にはそこまですごい人ではなかったのだろう。与謝野寛(鉄幹)は師匠格に当るひとだから、こんなもの言いもするだろうなって感じだ。

 私はそのこと自体を良いとも悪いとも思わないが、あー、でもこういうことは今でもあるよな、と思った。

 他に、古泉千樫がアララギの編集を遅らせまくることに赤彦がブチ切れて上京してくる話とか、長崎に赴任する茂吉の送別会で、歌人が送別の歌を作る話とか面白かった。送別の歌はこんな感じ。

霜氷る冬の夜ふかくゐむれつつ君を送ると杯をとる 太田水穂

長崎の鶏の啼く夜は長くとも赤き舌をな出しそ茂吉よ 北原白秋

ゑひどれのむれてどよもすとおもふ、ゑひどれのゑひどれのむれをぬけてゆくか、ながさきへ 若山牧水

ながさきの夜はかなしと酒のみて歌ひありくなゑひはゑふとも 古泉千樫

 牧水は何言ってるのかわからない。来嶋さんは「歌は即興でひどい? ものもあるがのどかなよき時代であったことを思わせる」と書いている。白秋が弟と出版社・阿蘭陀書房を創り、新雑誌「ARS」を出したときにも、各歌人が即興歌を寄せているから、当時はそんな文化がメジャーだったのかもしれない。

 あとは、この本のピークとしては、関東大震災の歌がある。関東大震災は大正12年(1923年)に起きた、日本最大級の震災のひとつだが、歌人たちはその衝撃を詠わずにはいられなかった。面白いのは、当時の「和歌革新」の波をまともにはくぐらなかったいわゆる「旧派」の歌と、「新派」の歌を比べていることだ。

ノアの世もかくやありけむ荒れくるふ火の海のうちに物みなほろびぬ 坪内逍遥

ゆりうごく大地をなほもたのみつつせむすべしらず人のかなしさ 九條武子

千よろづの霊の行方や迷ふらむ暗の世てらせ秋の夜の月 跡見花蹊

 「心の花」に掲載されたこれらの旧派の歌たちは、具体的な災害そのものはわずかしか描かれず、大仰で観念的な詠嘆が目立つ。それに対し、「アララギ」の歌人たちや、空穂、土岐善麿といった歌人たちは具体的な描写を主としている。

地震(なゐ)のなかに眠り居る子を抱き上げ歩むとすれば家はくづれつ 築地藤子

水を見てよろめき寄れる老いし人手のわななきて茶碗の持てぬ 窪田空穂

くろこげのむくろよく見ればよこ顔にいきのみの肉のすこしなほある 土岐善麿

「震災は実に写実を基本とする近代短歌の可能性がはじめて問われる大事件であった。」「短歌は表現形式としてどこまでの可能性をもつか。その大きな課題にはじめて遭遇したのがこの大震災なのであった。」と来嶋さんは述べている。また、「終わりに」でも、

大正末期、最小限のメチエとしての「写生」をアララギの何人かの人は身につけていた。だからこそ関東大震災に際して、高田浪吉、藤沢古実、築地藤子らは迫真的な作品を生み出し得たのだ。同じく自然主義文学の波をかぶり、描写への意識を強く持っていたからこそ、窪田空穂も土岐善麿もあれだけの震災詠を生み出し得た。これはのちの太平洋戦争中の戦場詠や空襲詠についても言い得ることで、写生または写実という方法は、国民的な大変事における人間感情を見事に形象化し得たのである。(p.240)

と述べて、これらの震災詠を来嶋さんは高く評価している。

 私自身はこれを読んだからといって「短歌は写生が絶対だ!」なんて思ったりはしないが、この比較は面白い。そういえば、このブログの第1回で「時局詠のときの茂吉は、写生派歌人ではなかった。」なんていう佐藤通雅さんの言葉を引用したりしたなあ、とか思った。

karonyomu.hatenablog.com

 

 長くなってきたので、そろそろ終わりにしたいが、私がこの本を読んで思ったのは、大正時代も歌人たちはけっこう互いに交流しまくっているし、互いに影響受けまくっているなあ、ということだ。現在の目で見ると、近代歌人はみんな偉い人だ。しかし、当時は生きていて、しかも20代とか30代とか40代なわけで、作風は生きているお互いの影響を受けながらどんどん変わっている。それは、現在の口語短歌が微妙な細かさで互いに影響を受けまくっているのと同じだと思う。なんというか、もうちょっと動きのある生きた人間として、近代歌人たちをとらえたいと思うのが、このブログの私の目的のひとつでもある。

  あと、もういっこ思ったのは、これは来嶋さんがこの本をそういう編集にしているからだが、明治は啄木の死で終わって、大正は赤彦の死で終わっているんだなということだ。「たしかに赤彦とともに一つの時代が過ぎたのである。」と来嶋さんは書いている。そういえば、昭和が終わり平成に入ってすぐ土屋文明が亡くなったんだよな、とかも思った(調べてみたら文明は平成二年没だった)。

 大正時代は近代短歌のおいしいところ、という感じ。読んでみるとよいかもしれません。では、今回はこんなところで。