短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第17回 阿木津英『折口信夫の女歌論』

折口信夫の女歌論」を越えて 土岐友浩 

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折口信夫の女歌論 (五柳叢書)

 

折口信夫は、国文学の大学者であり、近代社会を徹底的に批判したアウトサイダーでもあった。

 *

近代短歌は、正岡子規が「写生」を唱えたところから始まった。言い換えれば、「写生」が短歌を近代化させた。

8回の堂園さんの記事でも触れられたように、「写生」という言葉は元々西洋画の用語で、見たものを先入観なく、客観的に描く手法として子規が導入したものだ。

大辻隆弘は、こう要約している。

写生とは「視点としての私」と「遠近法的な外界の秩序」を同時に成立させるような認識論的な枠組みの転換であった。

(大辻隆弘『アララギの脊梁』) *1

 

西洋画の手法を取り入れる、というのは、そのバックグラウンドである西洋的な個人主義、合理主義の思想を取り込むということでもあった。

子規の目論見は、伝統文芸である俳諧・短歌を革新することにあったが、結果的に「写生」はそれを越えて、近代日本の文芸全般に広がる運動となった。

 

もちろん西洋の異質な価値観を取り込んだ「近代化」に、批判がなかったわけではない。 

そのひとつとして、今回は阿木津英の『折口信夫の女歌論』を読んでいきたい。

(ちなみに「女歌」は「じょか」ではなく、「おんなうた」と読むようだ)

 *

折口はアララギの短歌を男のための歌である、と言い切った。

アララギの写生・鍛錬道といふものは、そこから今井邦子さん、杉浦翠子さん、その他の優れたひとが出てゐますけれども、アララギ自身にとつても、どうしても女の為の歌ではなく、根本的に男歌と謂はなければなりません。

必しも島木赤彦が出なくつても、斎藤茂吉さんが出なくつても、正岡子規その人の作風を分解してみても、女歌といふものの存在の余地が殆なかつたといふことが出来る。尤、伊藤左千夫先生、それから古泉千樫なんかの歌風の方は、女の為事にも向くといつた、まあ余裕を持つてをつたとは思ひます。けれど、大体アララギ時代で、ひとまづ日本短歌史の上に長かつた女歌の時代は過ぎ去つた――とかいふことになるのです。 折口信夫「早期の与謝野婦人」) *2

 

「写生」を掲げたアララギの隆盛とともに「女歌」は終わってしまった、と折口は言う。

「写生」は対象を客観的に記述できる手段として人々に広まったが、第8で詳しく解説されているように、短歌の世界で「写生」はむしろ、主観を表現する方法を模索しながら、独自の発展を遂げていった。

そのため話はやや複雑なのだが、いずれにせよその発展は、赤彦や茂吉など、男性歌人が担ったものだったことを折口は指摘する。

彼らの指導下に、「女歌」は抑圧された。

〈写生〉という男女に共通の目標は掲げられながらも、男性歌人の指導によって、女性は女性としての感情や生活をうたい出していった。たとえば、アララギという組織を歌壇の主流とする基礎を築いた島木赤彦は、武士道精神による鍛錬道としての写生道を掲げて、いわば家父長的な面倒見のよさで女性歌人の何人かを育て上げた。つまり、ここでは、社会の管理ピラミッドの末端としての家族、その家族のなかでの性別役割を担った女性の歌、という枠組が作られたのだ。(阿木津英「〈性の政治〉と二〇世紀女性短歌」) *3

 

読み間違えないようにしたいのだが、これは赤彦批判ではない。

子規の弟子たちは「写生」の技法を発展、洗練させ、日常生活やそこから生まれる感情を、短歌にすくい取ることができるようになった。女性は妻や母としての自分の姿を詠うことが可能になったのだ。

ただし、その「妻」や「母」というのは、近代の「家族」という一種の社会構造に組み込まれた「役割」だったことを見逃してはならない。

折口の別の談話を引きながら、阿木津はこう書いている。

「赤ん坊に乳を飲ます歌」「嫁入りの歌」というような、一般にいかにも女らしい歌と思われているものは、じつは女の生活という素材を男の歌の口まねでうたっているにすぎない、もっと根本的に違う女の歌があるはずだ、と(折口は)いうのである。 *4

 

アララギの女性歌人は「写生」の手ほどきを受け、「赤ん坊に乳を飲ます歌」や「嫁入りの歌」を題材に、「女性としての感情や生活」を歌にした。

 

しかし、それは女歌ではなく「男の歌の口まね」なのだ。

 

阿木津は必ずしも「女性の生活」を詠うことそのものを否定しているわけではない。アララギの「写生」を問うことで、「女性の生活」を成り立たしめしている「家族」や「社会」、その構造を決定づけた政治を問うているのである。

短歌や俳句は、家庭における性別役割を分担しながら、つまり言うなら政治や社会のもたらす大きな枠組を不問に付したまま、自己表現欲求も自己達成感も満足させることができる小さな詩型である。日本という国は、良くも悪しくもこのような詩型を持つ国なのであり、ここに数知れないほどの女性がかかわっている。 *5

 

さらに言えば、この構造はアララギだけにとどまる問題ではなかった。

 

折口信夫は「写生」を主義としない女歌として、たとえば与謝野晶子の歌を挙げた。

しかし晶子の背後には「与謝野鉄幹の文学的戦略」があったと折口は言う。

鉄幹は子規に対抗して、自然主義文学とは距離をとりつつ、西欧の浪漫主義に学んだ新しい文学を目指していた。その答えが「恋」の歌であり、「明星」は鉄幹が作り上げた舞台だった。晶子は山川登美子と競い合うようにして、そこに情熱的な歌を送り届けた。

 

つまり「アララギ」の客観を重んじる短歌も、「明星」の主観を詠い上げる短歌も、どちらも男性が主導した、新時代の文学という名の枠組を築くための政治的な運動にすぎなかった。

折口によれば、それは「やまとうた」の女性像から遠く隔たるものである。

古代の貴族の女性は「男性の思ふまゝにはならない、女は女としての歴史的品位を保つ、と言ふ風が出来て来た」「古代の女性は、男の言ふなりになるのを最恥辱とした。思ひあがつた矜持を失ふまい、と努めた。其上に女としての優しみを何処までも保つて行かうと言ふのである」というような、持論を(折口は)述べる。(阿木津英「折口信夫の短歌論I」) *6

 

阿木津は、他にも中城ふみ子をプロデュースした中井英夫の例などを挙げつつ、以上の議論をこうまとめる。

明治以降、短歌は他の文学ジャンルにもまして多くの女性が関わってきたが、そこにはつねに枠組決定者としての男性、あるいはコーディネーターとしての男性が関わっていた。女性の表現がどのような方向をとるかということは、男性次第であった。  *7

 

さて、ここまでとても駆け足で、いわゆるフェミニズム的な視点から本書を紹介してきたが、折口信夫の女歌論』の射程は、そのような地点にとどまるものではない。

まずは阿木津自身の言葉で、阿木津の立場を確認しておこう。

わたしたちはもはや、〈女性〉というカテゴリーにアイデンティティを求めてはならない。あらゆるカテゴリー意識からフリーであること。民族というカテゴリー、国家というカテゴリー、性別のカテゴリー……そのいずれのカテゴリーにもアイデンティティを埋め込まず、逆にそれらをこちらに引き寄せ、まとまりある一つとして統合し、織り合わせる主体としての「個人」。日本語によって自己形成をしてきた、アジアの黄色人種でもあり、女という経験を持つ、それらもろもろの経験の束を持つ、このわたし。 *8

 

阿木津は西洋発祥のフェミニズムの思想に学びつつ、自身の作歌経験を通して、それを乗り越えなければならないことを学んだという。

もっとも、「あらゆるカテゴリー意識からフリーであること」というスローガンは、理解こそできても、実践するのは至難の業である。

現代ではむしろカテゴリーはかぎりなく細分化し、そのことによって個人のカテゴリーへの依存度は、自由になるどころか、かえって高まっているようにさえ見える。

 

だからこそ、1999年に発表されたこの阿木津の宣言は、現代の文脈において読み替えられなければならないだろう。

その考察に代えて、本書で紹介されていた、釈迢空折口信夫の筆名)のある短歌のことを最後に考えてみたい。

 

かたくなに 森鷗外を蔑(サ)みしつゝありしあひだに、おとろへにけり

 

とても不穏な空気のただよう一首だ。

鷗外といえば『舞姫』などの作品で誰でも知っている文豪の中の文豪で、短歌史においても、観潮楼歌会を主催し、文芸誌「スバル」を発行するなど、その貢献は計り知れない。

だが、その鷗外こそが、近代短歌を壊滅させた張本人だと折口は考える。

 

実のところ、折口がほんとうに批判していたのは、「アララギ」でも「明星」でもなかった。

歌が行き詰まると、「思索的に哲学にゆくか、社会的に労働問題・生活問題」に行くかということになって、いつまでも「一つ覚え」を繰り返している、(中略)このままでは歌は滅亡する、"日本の文学" も滅亡するというのが、その考え方でもあったろう。そして、近代短歌がこのように概念的思想的なものを含むようになったその転換点に、「鷗外の指導方針」「鷗外美学」があった、とするのである。 *9 

理論や思想、概念、いでおろぎいを先立て、いわば図面を引いておいて、その図面通りに歌を向かわせていくといった弊が、近代短歌には潜在している――これが、ことに戦後の第二芸術論をくぐったのちの、歌壇一般の歌に対する、折口の批判のポイントであったといっていい。 *10

 

僕なりの理解で言えば、「理論や思想、概念、いでおろぎい」というのは、「理想」のことだ。鷗外と坪内逍遥のあいだで交わされた「没理想論争」の「理想」である。

一般化して言えば、あるべき「理想」の姿というものがあって、そこからの逆算で「いま」を把握するのが、西洋的な時間意識である。

鷗外はまさしく「理想」を唱え、人々を導いた、最も先進的な近代人の一人だった。主要な結社の重要人物を集めて超結社の歌会を主宰し、新詩社を脱退した若き歌人たちを鉄幹と和解させ、「明星」終刊の後にはみずから新しい文芸誌を立ち上げた。

 

しかしその「理想」こそが、折口にとって軽蔑されるべきものだった。

 

なぜなら「理想」は歌を形骸化させるからだ。折口に言わせれば、森鷗外の掲げる理念を変曲点として、新詩社の浪漫主義は象徴主義へと変質し、「写生」は「写生主義」という「或種の概念歌」に陥った。

 

新詩社はまもなく潰え、アララギの「写生主義」は戦後大きな批判に晒され、折口の主張も一定の支持を得た。その流れを受けて「女人短歌会」が興り、折口もそれを大いに応援することになるのだが、阿木津はこう述べる。

問題を単純化すれば、日本近代の女性たちは、西欧近代輸入概念である〈人間〉になろうとする意欲と、民俗学・国文学によって引き出された 日本古来の〈女の特質〉に自己同一化しようとする誇りと、いわば二派の男性の指導によるはざまで右往左往してきたのである。(あとがき)

 

この「二派」とは言うまでもなく、鷗外一派と、折口のことなのだが、この視野の広さは、すごい。

阿木津は「折口信夫の女歌論」をたどりつつ、その外側にある、より大きな枠組を乗り越えようとする。本書にはその思索の道筋が示されている。

そして、だからこそ阿木津には、近代短歌の主流にたった一人で立ち向かい、実作と歌論の両方で大きな仕事を残した折口信夫の、その偉大さを展望することができたに違いない。

*1:「短歌のピーナツ」第8回の引用を再掲

*2:折口信夫の女歌論』p. 44

*3:p. 105

*4:p. 44

*5:p. 124

*6:p. 43

*7:p. 106

*8:p. 126

*9:p. 54

*10:p. 57