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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第27回 尼ヶ崎彬『近代詩の誕生―軍歌と恋歌』

堂園 短歌史

 日本最初の「詩」は軍歌だった!?  堂園昌彦

近代詩の誕生―軍歌と恋歌

近代詩の誕生―軍歌と恋歌

 

 こんにちは。

 

今回は尼ヶ崎彬『近代詩の誕生―軍歌と恋歌』(大修館書店、2011)をやります。近代における詩の始まり、「新体詩」の話です。

 

以前、このブログで「新体詩はそのうちやりたいと思います」とか言ってましたが、今回がそれです。新体詩、って初めて聞くひともいるかと思いますが、まあざっくり、明治時代にできた、現代詩のご先祖みたいに思ってもらえればいいんじゃないかと思います。

 

そもそも何で私が新体詩に興味を持ったのか、話はそっからですね。

 

ひと言で言えば、よく語られる正岡子規とか『明星』とかの前には何があったのかなー、という興味からです。

 

第18回にも書きましたが、短歌の革命は明治30年前後に起きました。子規が明治31年に「歌よみに与ふる書」を書き、与謝野鉄幹は明治33年に「明星」を創刊しています。与謝野晶子の『みだれ髪』は明治34年です。だいたいこの辺からが「近代短歌」と見なされていて、人々の間で語られることも増えていきます。短歌史でもめちゃめちゃ記述が増えます。

 

ただ、その前はどんな感じだったの? ということが気になりました。もちろん知ってる人は知っているんでしょうけれど、明治30年以降に比べてそれ以前は、語られることが少ない印象があります。

 

以前にも書きましたが、いろんな本を読んでみて、現在の私の把握をすごく大雑把に述べると、

 

新体詩の登場(明治10年代)

新体詩に影響を受けた様々な試み 落合直文与謝野鉄幹など(明治20年代)

③「歌よみに与ふる書」(明治31年)、『明星』創刊(明治33年)

 

という感じです。

 

この前の「0.明治ひと桁代」には人々は政治と経済の改革で忙しく、極端なことを言えば、文学の改革まで回らなかったのです。

 

 今回参考資料にした、岩波現代文庫の『座談会 明治・大正文学史(1)』に

 

中村(光夫) 明治の大体十年前後までは、西洋に興味がある人というのは文学に興味がない。それで文学に興味のある人は西洋に興味がない。

 

柳田泉勝本清一郎・猪野謙二・[編]『座談会 明治・大正文学史(1)』(岩波現代文庫)p.62

 

という言葉がありました。まあ、そういうことだったのでしょう。

 

もちろん、何にも起きてなかったわけではなく、勤王志士の和歌とか、次の時代を準備するものはあったみたいですが、今回はとりあえず置いておきたいと思います。

 

 

新体詩」の始まりは、明治15年『新体詩抄』の出版がスタートです。

 

新体詩」は自然発生的ではなく、かなり人為的に作られました。これは西洋の「ポエトリー」を日本に持ってこようとしてついた名前です。

 

西洋には「ポエトリー」というものがあるらしい。それは、俳諧でも和歌でもなく、また、漢詩でも戯作でもなく、俗謡でも浪曲でもない、また別種のもののようだ、ならいっちょそれを日本にも作ってやろう、とまあこんな感じの動機です。

 

新体詩抄』は外山正一・井上哲次郎・矢田部良吉の3人の東京帝国大学教授が作りました。外山は社会学者、井上は哲学者、矢田部は植物学者であり、3人ともいわゆる文学の専門家ではありませんでした。

 

こういう新しいものには序文が大事です。序文はそれぞれ、漢文・漢文訓読文・戯作調の3つで書かれました。

 

程子曰……

 

というのと、

 

人常ニ善悪是非ノ差別ヲナスト雖モ……

 

というのと、

 

唯々人に異なるは、人の鳴らんとする時は、しゃれた雅言や唐国の……

 

みたいなのの、3つをわざわざ書きました。

 

なんで3つも書いたのか。それは、当時はまだ考えたことを適切に伝えるための文体自体が存在していないからです。言文一致体の開発はもう少し先の話です。なので、なんとかありあわせの漢文や訓読文や戯作の文体で伝えようとしているのです。

 

これ、なんか燃えませんか。伝えたい内容はあるのだけれどそもそも言葉がない、というときの苦し紛れの工夫が胸を打つというか。

 

なんというか、地球外生物に向かってなんとかメッセージを伝えようとするために、ボイジャー探査機にゴールデンレコードを載せたみたいな。ぜんぜん違うかもしれませんけど。

 

で、3つも書いたのですが、内容はほとんど一緒です。かいつまんで説明すると、

 

これまでの日本の詩は、日常の言葉を使ったものではない。新時代には誰にでも理解できるような、新しい詩の形式が必要だ。

また、内容面から言っても、和歌や川柳は短すぎて新しい時代の思想を表すことができないし、漢詩は元々外国語なので日本人には心地よい音調を作ることができない。

それで、西洋の詩を真似て、新しい形式の詩(新体詩)を作ってみた。これは自分たちではけっこういいんじゃないかと思う。

卑俗な言葉を使っているし、自分たちは文学の専門家ではないので、批判も受けると思うが、将来は評価されるかもしれないので発表してみる。

 

と、まあ、こんな感じでした。詩の言葉を、和語漢語西洋語ぜんぶごちゃまぜにして、今まで禁じられていた卑俗な言葉も取り入れて、さらには形式の縛りもとっぱらっちゃう、ということですね。

  

ただ、『新体詩抄』自体は、ほとんどの詩が七五調で書かれています。これもさっきの序文のときの話と一緒で、まだ七五調以外の読みやすい文体が開発されていないので、仕方なく七五調で書いているのです。

 

それで、『新体詩抄』に載っていた代表的な新体詩はこんなものです。

 

我は官軍我敵は   天地容れざる朝敵ぞ

敵の大将たる者は   古今無双の英雄で

之に従ふ兵(つわもの)は  共に慓悍(ひょうかん)決死の士

鬼神に恥ぬ勇あるも  天の許さぬ叛逆(はんぎゃく)を

起しし者は昔より  栄えし例(ためし)あらざるぞ

敵の亡ぶる夫迄(それまで)は   進めや進め諸共(もろとも)に

玉ちる剣抜き連れて   死ぬる覚悟で進むべし

 

 外山正一「抜刀隊」

 

はい、読んでいただければわかるように、これは「軍歌」です。「抜刀隊」というタイトルで、日本で一番初めに作られた新体詩であり、かつ、当時、最も有名な新体詩でした。「軍歌」は新体詩の代表ジャンルだったのです。いま私たちが考える「詩」とはだいぶ隔たりがありますね。

 

「詩」っぽくないと言えば、『新体詩抄』には、論文まで新体詩で載っています。

 

そも社会とは何ものぞ   其発達は如何なるぞ

(中略)   種々な政府の違ひやら

違ひの起る源因や  僧侶社会のある故や

其変遷の源因や   儀式工業国言葉

智識美術や道徳の   時と場所との異同にて

遷り変りて化醇(かじゅん)する   其有様を詳細に

論述なして三巻の  (中略)

 

これは、ダーウィンの進化論を社会現象に適用した、当時最新のスペンサーの社会進化論を七五調で説明したものです。これ、今の基準からすると、「詩」ではないし、「文学」でもないですよね。でも、堂々と『新体詩抄』には載っていました。

 

そもそも今ある論文の形式自体が日本にはなかったわけなんですが、なんだかすごいことになっています。

 

で、こうした論文みたいな「連続した思想」は、従来の和歌や俳諧では語ることができない、ということを外山は言います。

  日本人が愛してきた短歌は恋の感想や季節の印象などを述べるものであり、劇的な物語や思考の軌跡などを語るものではなかった。(中略)そして『新体詩抄』の出現がもたらした影響は、おそらくこの点が最も大きい。(中略)青年たちの思考内容をそのまま表現するためには、従来の短歌や俳句はあまりにも短く、窮屈であったのだ。たとえば社会風刺なら狂歌や川柳などの短い形式でもかまわない。誰もが感じていることを一言で皮肉ればいいのだから。しかし連続した思想でなければ語れないことはあり、明治という時代はそのような表現欲求を青年たちに生み出したのである。(p.44,45)

そもそも、当時、「芸術」というものはありませんでした。「詩」は思想を伝えるための道具だったのです。

 

3人は元からそれを意識していました。『新体詩抄』に載る作品が初めに載った明治14年の『東洋学芸雑誌』には、こんなことが書いてあります。

  まず前提として「我邦人の理学の思想に乏しきは識者の常に憂ふるところなり」と、日本人が科学的知識や思考の乏しいという状況認識を語り、「故に」科学の「性質及び効能」を世間に知らせるという雑誌発刊の目的を明らかにする。次に予想される問題として、世間の人が「この雑誌の読み難き」にうんざりするという反応を想定し、「因(よ)りて」領域を広げて「文芸上にわたれる平易なる文章をもその間にまじえ、甘苦相半ば」するようにした、というのである。(p.20)

 

要するに、科学思想を啓蒙するための、飴として、文芸作品を載せようということですね。当時はそれが「飴」になったのです。「まんが日本の歴史」みたいな発想ですね。

 

当時の知識人には焦りがありました。早く日本が変わり、西洋諸国と対等にならなければ、日本が滅ぶという焦りです。物品や制度は輸入できますが、精神と文化は容易には変わりません。そのため、『東洋学芸雑誌』は日本人の一般の人々の精神を変えるための土台をなんとか築こうとしていたのです。

 

ここら辺は、第21回の茂吉の話なんかを思い出してもらえればいいかもしれません。茂吉には、このような焦りはありませんでした。ある意味、第二世代である大正っ子らしいと言えるかもしれません。

 

さらに言えば、専門家にしか分からない雅語や漢語を廃止し、誰にでもわかるような文体を開発するということの先には、戦争があります。

 

ここには近代的な人間観や国民観が背後にある。それは学制や徴兵制とも無関係ではない。なぜ江戸時代にはそれなりにうまくいっていた寺子屋や私塾ではなく全国一律の学校制度が必要だったのか、なぜ強力な武士たちの軍隊ではなく全国から一律に徴兵された兵士でなければならなかったのか。ここで深く立ち入る余裕はないが、ここには国民のひとりひとりを平均した一律のものとみなし(そうでなければ学年制という教育システムは成り立たない)、その全員参加のゲームとして国家を運営しようという発想がある。そのためには文章は平明でなければならなかった。(p.27,28)

 

雅語と俗語の区別は、要するに身分制社会なんですね。専門家がわかればいいという。で、明治の時代はそうした身分を撤廃しようとしたんだけれど、その先には「国民国家」を形成して、徴兵制を敷くためであったと。

 

このあたりは、まあ歴史の教科書の話になるので、あんまりここでは立ち入りませんけれど。

 

ともかく、ある意味ではかなり功利的な、こうした目的が『新体詩抄』にはあったのですが、「新体詩」はやはり革命的でした。もう一度その特徴を箇条書きにすると、

 

・言葉を、雅俗、中国日本西洋に関わらず混ぜる

 

・誰でも読めるようにする

 

・七五調にこだわらない

 

・行わけをした

 

ということです。

 

最後の「行わけをした」というところですが、外山の「抜刀隊」は日本で初めて行わけを行った詩です。これは西洋の詩が「句(ウペルス)」と「節(スタンザー)」で区切られているのを参考にしたようです。

 

古典を原文で読んだことのある方はよく知っていると思うのですが、昔のものは行わけがされていません。源氏物語も、徒然草も、ずらずらと全部つながって書かれています。しかし、『新体詩抄』から「詩」に行わけが発生し、そうすると、途端に「詩」っぽくなるんですね。ある意味では、「詩」とは行わけのこと、とも言えるのです。

 

で、『新体詩抄』が出版された後のリアクションですが、なんと、たった二ヶ月ですぐに新体詩の投稿が始まります。また、『新体詩歌』や山田美妙の『新体詞選』など、新体詩の類書がどんどん出ます。

 

難しい決まりごとはないし、和歌とか漢詩とかと違って勉強しなくてもできるし、しかも、創始者は素人だ、じゃあ、自分もいっちょやってやろう、ということです。また、内容的にも「連続した思想」を表現したい人が、明治時代にはいっぱいいました。

 

ここ、かなり大事ですね。外山たちも、「自分たちは拙劣だが」という自覚はありましたし、それゆえ、文学側からは下手くそだとか、言葉がなってないとか、けちょんけちょんに言われるんですが、だからこそ、誰もが書いてみようと思った。この感覚が新しいジャンル成立時には重要です。

 

国木田独歩は明治30年に「独歩吟」という文章で、この頃のことを振り返って、こんな内容のことを言っています。

 

 新日本を建設するに当たって全く欠乏していたものは詩歌だった。

 (中略)まさにこの時、井上・外山両博士が主唱し編集した『新体詩抄』が出現した。嘲笑は四方から起こった。けれどもこの頼りない小冊子が、草の間をくぐって流れる水のように、いつの間にか山村の校舎にまで普及し、「われは官軍わが敵は」という没趣味の軍歌さえ各地の小学校生徒が足並み揃えて高唱するようになった。

 文学界の長老たちが想像もしなかった感化をこの小冊子が全国の少年に及ぼしたのだが、その現象は当時一少年だった私のような者でないと知らないだろう。現実の影響力にもかかわらず、文学界は新体詩というものを決して歓迎してこなかった。

 しかし時代は変わった。西南戦争を寝物語に聞いていた小児も今は堂々たる男児となり、新体詩はいつしか世人の眼に慣れて、その新しい詩形も奇異なものとは見えなくなった。(p.150,151)

 

明治15年に『新体詩抄』が出て、この文章は明治30年ですから、明治4年生まれの国木田独歩は11歳のときに「抜刀隊」を読み、26歳のときにそれを振り返っているわけです。感覚的には、いま、宇多田ヒカルのデビュー当時を思い出すとか、それくらいの時間の隔たりですかね。

 

そんなこんなで、新体詩はどんどん増えていきます。

 

 

で、外山たちは「自分たちは拙劣で」と言っていたんですが、文学側からは、実際めっちゃ批判が来ます。でかいところでは2つです。

 

まず一つ目が、伝統派の歌人からの批判。ここは「短歌のピーナツ」ですから、今回ここをメインに取り上げましょう。

 

代表的なところでは池袋清風(いけぶくろきよかぜ)のもの。この人は桂園派の歌人で、桂園派はざっくり説明すると、明治時代の宮中の御歌所をつかさどっていた一派です。まあ、伝統派の代表格といった感じですね。

 

池袋清風が明治22年に『国民之友』に発表した批判をまとめると、 

 

新体詩は誰もがわかる詩が必要だ、と古語を使う和歌を批判するけれども、逆に新体詩の使う漢語も大衆には難しすぎるじゃないか。また、俗語や日常語を使うのは、そんなものはやっぱり詩歌として良くない。

 

というものです。やはり、歌人は雅俗の区別にこだわるわけです。

 

池袋清風は、「言葉遣いがあまりにも下手で品がなく読むに堪えない。草も木もない墓石だらけの野原のようで、死を感じて頭痛がしてきたほどだ」みたいなこと言ってます。なかなか飛ばしてますね。


しかし、清風は単なる保守派ではありません。同志社英学校で学んだ清風は、英詩を読むこともできましたし、知り合いに欧米の文学事情に詳しい外国人もいました。キリスト教神学さえ学んでいます。

 

なので、西洋の詩を訳すことにも、短歌でない詩を作ることにも、清風は反対ではありませんでした。しかし、それは「雅味」を持つ言葉で行うべきで、野卑な俗語や日常口語は採用するべきではない、という意見でした。

 

池袋清風が雅俗の区別をすること、日常語を否定し、歌語・古語を使うことにこだわるのは、ある意味では当然です。なぜならそれは、自らのアイデンティティーに関わることなのです。

 

先にも触れたように、この時代は「国民全員に伝わる言葉」の開発が急がれていました。「国語」の構築です。それは、身分制社会から、国民が平等である国民国家へと移り変わるためには必須だったのですが、歌人たちはその「国語」を和語を基準として作っていくべきだと考えていました。 

 

 つまり知識人は漢文や古語という共通語を持っていたが、下層階級は生活圏の人々と意思疎通できればよいので、狭い集団でしか通じない言葉で不自由がなかった。しかし国民国家としてはそれでは困る。徴兵した兵士に上官の命令が理解されないようでは戦争ができない。そこで文部省は標準的な「国語」というものを構築し、教科書を作成し、学校で普及させようとしていた。その「国語」の語彙として漢語を減らし日本古来の和語をもっと取り入れれば、日本人なのに昔の和歌がわからないなどということもなくなるだろうと清風は考えていたのだ。(p.173)

それゆえ、清風は、『新体詩抄』の中にあるイギリス詩人のトマス・グレイの翻訳詩を雅語の価値観に合うように「添削」してみせます。

 

元の『新体詩抄』の詩は、

 

山々かすみいりあひの  鐘はなりつつ野の牛は

徐(しづか)に歩み帰り行く  耕(たが)へす人もうちつかれ

やうやく去りて余(われ)ひとり  たそがれ時に残りけり

四方(よも)を望めば夕暮れの  景色はいとど物寂し

唯この時に聞こゆるは  飛び来る虫の羽の音

遠き牧場(まきば)のねやにつく  羊の鈴の鳴る響き

 

といったものだったのですが、清風は、

さて清風はこの訳の措辞を細かに吟味してゆくのだが、まず初句の「かすみ」について以下のように論ずる。「山々かすみ」というのは「野山もかすみ」のほうがよい。そもそも日本の歌には四季の感情について規則があり、春はのどかなもの、秋は寂しいものと決まっている。「かすみ」は古来春ののどかな風景に使うのが慣用だから、これでは春の日がのどかに暮れて朧月夜(おぼろづきよ)にでもなりそうで、少しも寂寥の情が生じない、と。(p.175)

というようにコメントします。

 

簡単に言えば、和歌の伝統に「山々かすみ」という夕暮れ時に山が暗くシルエットになっている風景は出てこないから、和歌の伝統にある「野山もかすみ」という言葉に変えた方がいい、ということです。

当時の歌語は千年近い和歌の歴史の蓄積によって連想されるイメージや感覚が決まっており、歌人たちはそれを豊かな文化遺産として利用した。だからわずか三十一文字の短歌に多くの含蓄をこめ、複雑な思いを絡めることができたのである。しかしこれを逆に見れば、ありふれた語法ではちょっとした風景を詠んでも一つ一つの歌語に歴史的なイメージや思いがべたべたと絡みつき、結局伝統的な季節感の枠の外に出られないということである。「野山もかすみ」と言ったとたんにそれは伝統的な和歌の世界の野山になり、春ののどかな野辺や遠山桜にかすむ山になってしまう。だが「山々かすみ」という和歌らしくない語法はその連想を断ち切ることができる。夕暮れの山々のシルエットのイメージは伝統的な和歌にはないものであり、その手前に広がる草原を歩む牛の群れもまた和歌に詠まれたことはない。それは題材として新しいというだけでなく、歌語の連想を断ち切って自己完結する叙景であったという点で新しいのである。(p.176)

新体詩が新しい点はやはりここでした。「歌語の連想」を断ち切ることで、伝統の外に出ることが出来たのです。そして、明治30年代の正岡子規の革命は、このことの延長線上にあります。

  和歌を学ぶとは、このような歌語の機能を学び、それを駆使できるようになるということだった。だから『新体詩抄』を見た歌人たちは矢田部らが文化資産としての歌語についてまったく無知だということに呆れ、青少年たちは和歌の世界にまったく囚(とら)われない詩歌の作り方があるということに清新な感銘を受けたのだ。子規が短歌の方法として「写生」を唱えて人々を驚かすのは少しあとの話である。「写生」とか「ありのまま」という情景叙述法が新鮮だったのは、個々の言葉が歴史的連想を求めるという和歌の約束を破棄し、それぞれの言葉がただ表面の意味だけで完結するという単純な語法だったからだ。(p.177)

 

清風の話に戻れば、清風も新しい時代の思想に合った「新体詩」が書かれるべき、ということには同意していました。しかし、もし新時代にふさわしい長い内容のものが書きたければ、和歌の延長としての長歌形式で行うべきだ、と考えていたのです。そして、先ほどのトマス・グレイの詩をこんな風に長歌に添削してみせます。

 

あし曳(ひき)の、遠山寺の、入相の、鐘のひびきは、かへりこぬ、けふの別れを、告げにけり、野末はるかに、うちむれて、野がひの牛の、帰り行く、声もあはれに、聞こえつつ、畑をたがへす、賤の男も、つかれはてけん、とりどりに、広き野中を、しづしづと、家路さしてぞ、帰りける、

 

こうなると見事に和歌の伝統の中に取り込まれるのですね。

 

その後、歌壇は西洋の長い詩に対抗する日本の詩歌形式は、長歌なのでは、という作戦を取っていきます。

 

まず西洋の高尚な芸術と日本の「風雅の道」とがほぼ対応しているという前提にたつ。次に、雅の文学である『古今集』などの和歌が、「芸術」としての日本文学の古典であると定める。そして芸術という観点からは、明治においてもこの雅の文学の系譜をひくものだけが正統な日本の詩歌であるということになる。こうなると新体詩さえも、時代のニーズに対応するために昔の長歌形式をリサイクル(復古)したものとか、和歌の題材や語彙や詩形などを「改良」したものであった、いわば和歌の変種にすぎないとみなすことができる。(p.181)

これ、なかなかすごいですね。「新体詩も和歌の変種にすぎない」! いちど奪われた詩歌形式を、再び自分たちの内側に取り戻そうというか、そういう壮絶さがあります。

 

こうした考えの元で作られた代表的なものに、明治21年に発表された落合直文の「孝女白菊の歌」があります。52行の長編詩で、ストーリーとしては少女が行方不明の父をたずねて冒険の旅に出て、ハッピーエンドに終わる詩で、当時、広く愛唱されました。

 

阿蘇の山里秋ふけて

ながめさびしき夕まぐれ

いづこの寺の鐘ならむ

諸行無常とつげわたる

をりしもひとり門(かど)に出で

父を待つなる少女(をとめ)あり

袖に涙をおさへつつ

憂にしづむそのさまは

色まだあさき海棠(かいどう)の

雨になやむにことならず

 

という感じです。

 平明な言葉を軽快な七五調で綴る長編の詩。『新体詩抄』のなかに置いても違和感はない。(中略)

 ただ、外山のような俗語はここにはない。語彙に難解な古語はないが優雅を損なわないように選択されており、「海棠の雨に悩むに異ならず」といった伝統的な比喩も採用され、全体的に古典の気分を残している。つまり朗誦しやすい七五調にわかりやすい語彙で構築された現代風長歌である。(p.184)

このように明治20年代の時点では、まだ歌人たちは伝統的な雅語を手放していません。しかし、新体詩が示した新しい時代の気分は、確実に歌人たちに影響を与えていきます。簡単なところでは、語彙が増えたり、価値観が広がったり。

 

落合直文も後の明治26年に「あさ香社」という短歌結社の前身のようなグループを作り、そこから与謝野鉄幹らが出てきます。また、落合直文与謝野鉄幹正岡子規佐佐木信綱ら、明治の短歌の革新者たちは皆、新体詩の制作またはそれに近い、軍歌・唱歌の制作の経験がありました。

 

そして、この流れが、明治30年代の短歌の革命につながってきます。まあ、今回はこの話はこれくらいにして、明治20年代の話はまた今度にしましょう。

 

 

はい、話を戻しますと、『新体詩抄』にはもうひとつの強力な批判者が現れました。それは、同じように西洋の価値観に影響を受けながらも、外山らとはまったく違うかたちで「ポエトリー」を日本に導入しようとした「西洋派」です。その代表的な一人が、森鷗外になります。

 

西洋派はいらだっていました。 本来、自分たちがやるはずだった「ポエトリー」の紹介を先にやられてしまい、しかもそれはなんだか変なものになってしまっています。そりゃそうです。論文や軍歌まで「新体詩」に含めた外山らは、「ポエトリー」をかなり拡大解釈していると言えるでしょう。

 

では、『新体詩抄』の人々と、西洋派が捉えた「ポエトリー」の違いはどういったものだったのか。それは、西洋派は「ポエトリー」を近代西洋が作り出した「芸術」という概念の元で考えた、ということです。

 

西洋派の指導者たちはたいがい英語、ドイツ語などの西洋語をよくし、西洋の詩や文学論を読み、訳し、紹介する中で自分の詩についての考えを固めていった。そのとき何が起こるだろうか。近代西洋の詩論は、近代西洋の文学・芸術の制度に従って詩について語っている。つまり、西欧一八世紀に確立した「芸術」の制度を前提としている。その制度の下では「芸術」の一部として「文学」があり、さらにその一部(ないし代表)として「詩」というジャンルがあるとされる。(p.198)

西洋派が重んじた「芸術」の基本概念、それは「芸術のための芸術」という考え方でした。

 

鷗外に先だって芸術の独立性を訴えたのが、坪内逍遥の『小説神髄』です。

衆知のとおり、逍遥は小説の存在理由を社会的有用性(勧善懲悪とか政治思想の啓蒙とか)ではないとし、ただ市井の人々の人情や生活ぶりを描写すればよいとした。これ以降、日本の小説の書き方は一変したと言ってよい。(p.203)

小説の存在理由は社会的有用性ではない。これは、科学的思想を啓蒙しようとした『新体詩抄』とは、まったく違う考えだと言えるでしょう。

そして、さらにその考えを引き継いで発展させたのが、森鷗外です。

 この西洋の芸術論にもとづいて日本の新体詩を論じた代表が森鷗外であった。彼は明治二一年に留学から帰ると、同志を集めて新声社を旗揚げし、文学活動を開始する。そして翌二二年五月、『国民之友』誌上に「『文学ト自然』ヲ読ム」と題した評論を発表した。この論説こそ、西欧の芸術論に依拠して芸術を倫理から切り離すべきことを説く、日本で最初の宣言であった。(p.203,204)

鷗外は、芸術は倫理に関わらない、と宣言しました。善と美を分け、芸術が美を追求するときには、時として不道徳を伴うことができる、ということです。これは、現在ではかなり一般的な考え方でしょう。まあ実際はほんとに道徳的とはなにか、とか、ポリティカルコレクトネスの問題とか考え出すと、なかなか難しいですが、一般的には、芸術表現上では、通常の社会では不道徳とされることも表現することができます。じゃないとギャング映画とか成り立ちません。

 

そして、鷗外はこうした考えを元に、外山に論争を仕掛けます。その際の主なフィールドは絵画論だったのですが、そのおおもとには、外山の「芸術は思想を伝える道具」という考えと、鷗外の「芸術は審美的な目的以外あってはならない」という考えの対立がありました。

 

結果、この論争は鷗外が勝ちます。実際には鷗外は外山との論争では、外山が言おうとした内容に対する批判ではなく、細かい用語の妥当性について、「ドイツ美学ではそう言わない」のように、ねちねちと重箱の隅をつつくことでイニシアチブを取っていくという作戦を取り、それに外山が沈黙したことで勝利宣言をした、という側面があるのですが、論客として有名だった外山を黙らせたとして、この論争は鷗外の名を非常に高めることになります。

 

そして、文学者たちの間では、この「芸術のための芸術」という考えがその後主流になっていきます。鷗外は明治22年に新声社の仲間たちと翻訳詩集『於母影(おもかげ)』を出版するのですが、文学史上では、言葉が拙く通俗的な外山らの『新体詩抄』ではなく、この非政治的で非社会的で、かつ優美な日本語で書かれた『於母影』こそが近代詩のルーツだとされることも多いようです。

 

 ※

 

その後は島崎藤村与謝野晶子らの活躍。そして、象徴詩がでてきますが、いいかげん長くなったのでその辺は省きます。本を実際に読んでみてください。

 

この本のあとがきには

 本書は日本の近代詩が先の見えない暗闇の中を歩き出し、やがて薄明の中で進むべき道を確定し、全力で走り始めるまでの記録である。それは順調な経過ではなかった。先頭集団は後続の集団に突き飛ばされ、踏みつけられた。試行錯誤が繰り返され、確信をもって別の道を進む者もいた。メンバーたちは互いにののしりあい、あるいは徒党を組み、公衆の面前で争った。だからこれは戦いの記録である。明治十五年から四十年まで、およそ二十五年間の出来事である。(p.296)

とあります。盛りだくさんの内容なのですが、それがたった25年間で起きているのです。

 

しかし、25年、本当に短いですね。今から25年前と言うと、穂村弘『シンジケート』が1990年ですから、2016年の今年はだいたい25年後ですね。

 

先にも触れましたように、語られる詩の歴史上では、「西洋派」が提唱した「芸術のための芸術」という概念が定着し、その後はそのラインのみ芸術は語られることになります。いま、私たちを支配している芸術に対する価値観も、基本的にはこの「芸術のための芸術」の上に成り立っているでしょう。

 

通常ならば、それで、めでたしめでたしです。しかし、この本がユニークなのは、歴史の中で葬り去られてしまった外山の価値観を評価しているところです。

 

 今回触れられなかったこの本の第九章では、外山が行った数々の詩の実験に触れています。それは朗読だったり、自由律だったり、感動を基準とした詩の評価だったりするのですが、そのどれもが、「芸術のための芸術」という芸術界の決まりごとを覆す可能性がありました。

 今日の美学者たちの間では、何が「芸術」であるかを決めてきたのは芸術家や評論家などの芸術関係者の言説、アメリカの美学者ダントーの言葉を借りれば「アートワールド」であるとの認識が一般化している。マスメディアはこのアートワールドの決めた「芸術」の定義に従って芸術報道を行う。このとき大衆と感動を重視する外山の見解は、一種のエリート集団であるアートワールドにとって「芸術」と「非芸術」の境界を危うくする通俗的芸術観でしかない。外山の敗北は、彼の理論の欠陥のためというより、「芸術」の領域の決定権が大衆ではなくアートワールドにあるという近代芸術のルールのためだと言える。(p.291,292)

 

現在でも、「芸術」は「芸術」と枠を設けた時点で、ゆっくりと死んでいきます。現代の詩歌の行き詰まりは、この「芸術のための芸術」という考えにあらかじめ織り込まれていたとも言えるでしょう。そうすると、「芸術」という名のもとに排除してしまった外山の試みのほうに、活路があったかもしれないのです。

 

ただ同時に、やっぱり日本の詩の始まりが「軍歌」ということは、覚えておいたほうがいいんじゃないか、という気もしています。

 

このブログでも何度か触れている、近代詩史をテーマにした漫画『月に吠えらんねえ』の第26話「純正詩論」では、今回触れた近代詩の流れを振り返る箇所が出てきます。私はこの回、かなり興味深かったです。

 

月に吠えらんねえ(5) (アフタヌーンKC)

月に吠えらんねえ(5) (アフタヌーンKC)

 

 

 

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(清家雪子『月に吠えらんねえ 5巻』p.230より)、

 このコマの後ろに引用されているのが、外山正一の「抜刀隊」です。近代詩の始まりはこの詩に求められます。

「日本古来の和歌長歌とも唐国(からくに)の漢詩とも違う」

「おれたちの詩は西洋詩の模倣から始まった」

というのが、今回のブログで触れたところです。

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(『同』p.231より)

同じく、明治22年・森鷗外『於母影』、明治30年・島崎藤村若菜集』、明治41年・蒲原有明有明集』と続きます。 「20年程度で『詩』として形作られていった」とありますが、この短さには、何度も立ち止まりますね、私は。

 

そして、話は太平洋戦争中の戦意高揚詩に及びます。戦争中の詩人・歌人俳人たちの行動は、この漫画のメインテーマのひとつです。

 

「詩」はずっと役に立たないものでした。詩人は社会から役立たずと罵られ、金になる小説を至上とする文壇からも軽視されます。それが、太平洋戦争では、詩が「戦意高揚」として、社会から熱烈に求められます。詩人たちはそれに応え、戦争詩をたくさん書きます。それは、「詩」が初めて社会から必要とされた時代でした。具体的には、高村光太郎斎藤茂吉の戦争詩・戦争歌などを考えてもらえばいいと思います。

 

この漫画では、

 

 

「社会が最上と認めるものが芸術の価値ならば」

「日本近代詩の頂点は」

「あの無残な」

「響きも実験精神も何もない」

「雰囲気に追い立てられ無理に生み出された出来損ないの」

「戦争の詩なんだよ」

 

というセリフのあと、次のコマがあります。

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(『同』p.243より)

 

このコマでは、近代詩の始まりである外山正一の「抜刀隊」と、太平洋戦争の戦意高揚詩が結び付けられています。終わりが始めに戻ってくる。日本近代詩が始まりに持った「軍歌」という出自が、太平洋戦争に復活してきます。

 

その時、外山らのやったことは、はたしてどういう意味を持つのでしょうか。

 

さて、私には手に余る問題ですし、特に結論はありません。しかし、この辺のことは何度も考えてもいいんじゃないかと思います。

 

では、今回はそろそろお終いです。お疲れさまでした。

 

あ、いっこ文句を言い忘れていました。この『近代詩の誕生―軍歌と恋歌』、私にはかなり面白い本だったのですが、ひとつだけ気になるところがあって、それは、「引用する古文のうち、詩歌以外の文章は原則として現代文に訳す。訳文は〈  〉に入れて掲出する。」とかいうわけのわからないルールがある点です。これは本当に最悪だと思いました。たぶん、国文学の専門家ではない私みたいな一般の読者に配慮をした、ということなんだと思いますが、単純に原文と現代語訳を並置してくれればいいことなのに、こんなことをやられてしまうと、著者の「現代語訳」が本当に正しいのか判断がつかず、論自体の信憑性が疑わしく見えてきます。なので、このブログでも、なんだかもやもやとした引用しかできなかったので、今回、このブログからの孫引きはやめていただければ幸いです。国木田独歩くらい元の文章を載せてくれよ、と思いましたよ、私は。

 

それでは。