短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第29回 坂野信彦『七五調の謎をとく』

七と五のまわり 土岐友浩

七五調の謎をとく―日本語リズム原論

七五調の謎をとく―日本語リズム原論

 

 

昨日、こんなツイートが回ってきた。

@Perfect_Insider
「ヘリコプター」の切れ目が「ヘリコ・プター」であることを知った。「キリマ・ンジャロ」の衝撃は超えないが、「カ・メハメハ」「クアラ・ルンプール」「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」には並びそう。日本語だと「清・少納言」「言語道・断」「間・髪を入れず」「登・竜門」あたりが難しい。

 

日本語は二音でリズムをとるので、「ヘリ・コプ・ター」、「キリ・マン・ジャロ」、「カメ・ハメ・ハ」と無意識に読んでしまう。

つまりこれらの外来語は、日本語のリズムで理解され、使われているということで、元の意味やリズムは考慮されていない、と言っていい。


語源に従い「ヘリコ・プター」と切って読んだときの響きは、かなり新鮮だ。僕が知っている「ヘリコプター」という言葉とは、ほとんど別の何かのようにさえ感じられる。


このツイートは、僕のところに回ってきた時点で15,000RTを超えていた。

ヘリコプターが「ヘリコ・プター」に解体されたとき、日本語の向こう側に、その言葉が持っていた本来の姿が立ち現れる。


その驚きのことを、考えてみたい。

 

 *

 

そもそも、本に書いてある一行の短歌(啄木の場合は三行だけれど)は、一体どうやって読んだらいいのだろうか。

 

短歌というのは、57577だ。

それは、誰でも知っているとして、では、それだけで短歌を読めるのか、どうか。

教科書に載っている有名な歌や、どこかで聞いたことがある歌ならいざ知らず、初めて見た歌を、57577に区切って読むというのは、決して簡単ではない。

 

たとえば今回取り上げる『七五調の謎をとく』に、面白い例文がある。

なぜ、七五調が日本語韻文の基本となっているのでしょうか。

 

一見、ただの評論文の一節のようだけれど、この文章は、短歌形式の57577で読むことができる。


 なぜ、七五/調が日本語/韻文の/基本となって/いるのでしょうか。


とは言え、すんなりとこう区切れるのは、それなりに短歌に通じた人の話で、はじめは指を折らないとわからないはずだ。

 

短歌は、読者が自分で57577を数え、うまく区切って読まないといけない。

この「自分で」というのが、実はハードルなのだと思う。

 

カレンダーには、今日が何日なのかという肝心のことがどこにも書かれておらず、自分でそれを知っていなければ意味がない。

同じように、活字をいくら眺めても、読者のなかに57577のリズムがないと、短歌を短歌として読むことはできないのだ。

 

だから、僕が思うに、短歌を読むというのは、なによりもまず、短歌のリズムを身につけることだ。


すべての短歌が、57577というわけではない。

初句が七音になったり、結句が六音になったり、例外はいくらでもある。

そしてそのわずか一音や二音の違いで、歌の印象がガラッと変わったりする。このあたりのことは、永井さんの第19回の「リズム考」のくだりを適宜参照していただきたい。

 

その違いは、どこから来るのか。短歌が57577とは限らないのなら、短歌の定義とは何か、どこまでが短歌なのか。

短歌のピーナツが始まってちょうど半年、もうすぐ第30回になろうというのに、いきなり話が原点に戻ってしまうようけれど、こういう問題を整理したくなったときに、本書を勧めたい。


著者の坂野信彦氏は1947年生まれ。

和歌・短歌の韻律が専門の国文学者だが、短歌の実作者でもあり、歌集『銀河系』で現代歌人集会賞を受賞している。

書き出しを見てみよう。

  ちちんぷいぷい

  街に緑を 窓辺に花を

  古池や蛙飛びこむ水の音

 いずれも七音ないし七音と五音の組み合わせからなっています。これらがたいへん調子のよいものであることは、だれもが感じることです。ではなぜ、これらの文句は調子がよいのでしょう。――ほとんどのひとは答えられません。まして、なぜ七音・五音という音数なのか、という問題にいたっては、だれにも答えられません。(はじめに)

 

というように、本文はですます調で書かれ、例も豊富で親しみやすく、全体的にとても読みやすい。

本書は三章構成。最初の章では、日本語の音の特徴から、七音・五音という「句」の意味を考え、第二章ではその七音・五音の「句」の組み合わせとして短歌や俳句等の「形式」を考察し、最後の章で、こうした「形式」が成立するまでの歴史を見ていく。

 

ここでは、短歌の話を中心に、そのさわりだけを紹介することにしたい。

まず、問題を

・短歌を構成する「句」は、なぜ七音や五音なのか。
・短歌形式は、なぜ57577なのか。

このふたつに分けて考えよう。

冒頭で書いたように、日本語は「たっ・きゅー・びん」など、二音を一単位としている。

その二音の繰り返しで、四音と八音のまとまりが生まれる。

本書では、図や記号を使ってわかりやすく説明されているのだが、残念ながらブログ上では再現が難しい。僕なりのイメージで代用すれば、こんな感じだろうか。

 ◯◯/◯◯//◯◯/◯◯

◯のひとつが、一音に相当し、全部で八音のまとまりになっている。

この構成に従えば、たとえば「ちんぷんかんぷん」と「わけがわからない」とでは、同じ八音の言葉でも、語感がまったく異なる理由が説明できる。

前者は「ちん / ぷん // かん / ぷん」という二音→四音→八音のリズムにぴったり乗っているが、後者はうまく乗らない。
無理矢理「わけ / がわ // から / ない」と当てはめても、意味の切れ目と音の切れ目が一致せず、リズムはむしろ、ガタガタになる。

一致させようとすれば、「わけ / が、// わか / らな い。」となるが、八音一句のフレームから一文字、はみだしてしまう。


いま、一拍の休符を示すために読点「、」を入れてみたが、八音の「句」には休符も含まれ、これによってリズムの緩急が生まれる。


 ◯◯/◯◯//◯●/●●

 ◯◯/◯◯//◯◯/◯●


前者が五音、後者が七音の句をあらわす。もっとも、僕自身は、歌をつくるときに初句は五音で黒丸が三つ、と数えているわけではない。実作上は、五音は大きな休符、七音は小さな休符くらいに考えておけば十分だろう。

七音の句は、さらに休符を前半に置くか後半に置くかで、「三・四型」と「四・三型」に分けられる。


 ◯◯/◯●//◯◯/◯◯ 「三・四型」

 ◯◯/◯◯//◯◯/◯● 「四・三型」


特に結句では、この違いが大きい。「三・四型」はきっちり歌が終わる感じ、「四・三型」だと余韻を残す終わり方になる。

具体例を挙げれば、啄木の「われ泣きぬれて蟹とたはむる」「楽にならざりぢつと手を見る」は結句三・四型、寺山修司の「身捨つるほどの祖国はありや」「モカ珈琲はかくまでにがし」は四・三型だ。

 

 こうしてみると、七音・五音は、たしかに八音・六音よりも歯切れのよいリズムを生みだす、と言ってよいようです。しかも、一音分の休止は日本語の音の特性に由来するものなのです。してみれば、七音と五音こそ日本語の律文にもっともふさわしい音数ということになりそうです。

 ことわざ、標語、キャッチフレーズなど非定型律文の多くが七音・五音を好んで用いているのは、それらの歯切れのよさのゆえにちがいありません。短歌や都々逸などの定型が七音・五音を採用しているのも、やはりそれらの歯切れのよさを大きな理由としているのでしょう。

 では、はたしてそれだけの理由で、日本全土のすべての定型が七音・五音を採用しているのでしょうか。

 ことはそう単純ではありません。歯切れがよいということは、一面では、軽々しいということでもあります。流麗さや重々しさに欠けるということでもあります。明治時代の新体詩がさまざまな音律の詩句の創成に試行錯誤を繰り返したのは、七五調にはない壮麗さや沈静さを求めてのことでした。 (坂野信彦『七五調の謎をとく』)

 

新体詩」というキーワードが出てきた。前々回の堂園さんの記事で詳しく論じられているように、新体詩は明治十年代、外山正一らによって興った文芸運動である。

これを韻律という視点で見れば、新体詩は七五調から離れ、八六調や、八七調、八五調など、時代にふさわしい韻律を模索し、実作を試みた。『七五調の謎をとく』にも、それらの例がひとつひとつ紹介されている。

 

しかし、新しい韻律を目指した新体詩は、結局、七五調に収束していったという。

 本格的な七五調の新体詩といえば、やはり藤村の『若菜集』ということになるでしょう。有名な「初恋」は、七五調の四行を一連とする四連で構成されています。


 まだあげ初めし前髪の

 林檎のもとに見えしとき

 前にさしたる花櫛の

 花ある君と思ひけり

 七五調は、この藤村をはじめとして、新体詩人がこぞって採用するところとなりました。もちろん、"新体" を自称する詩人たちは、これまでにもみてきたように、七五調以外のさまざまな音律を試みてはいました。
(中略)
 こうした努力にもかかわらず、けっきょくのところ、新体詩は終始七五調を中心として展開されることになりました。七五調を主とし、五七調を従とし、それにその他もろもろの形態をとりまぜた、という展開に終わったのです。 (同上)

 

それだけ、七五調は強力だった、ということだろう。

短歌は千年以上の歴史を受け継いでいるとよく言われるけれど、それは伝統というより、他の形式が淘汰され、生き残ったのが七五調なのだという進化論的な見方をしても、それほど間違いではない気がする。

 

一方で、上の引用から、七五調は決して万能なものではない、ということもわかってくる。七五調よりも、もっと重いものを表現しようとすれば、それに見合った別の韻律が、必要になる。

新体詩が七五調に回帰したからといって、これから新しい韻律が生まれる可能性がなくなったわけではない。

ここまで特に文語と口語を区別せずに話を進めてきたけれど、たとえば現代口語短歌には、口語固有のリズムがあり、それを活かした作品や批評が、すでにいくつもある。


第二章、第三章は形式と歴史の話だが、こちらは手短に、短歌形式成立の経緯だけをまとめておこう。

記紀の時代に、「五七・七七」という片歌形式や、「五七・五七・七七」という短歌形式の原型ができあがった。「歌」の起源は、大きな休符と小さな休符をワンセットにした五七のリズムを繰り返したもので、「五七・五七・五七・五七…」とこれをひたすら続けていくと、長歌になる。いずれも最後だけは五七ではなく七七で終わるのだが、この結びの七七のところは、まったく同じ句が繰り返されることも多かったらしい。

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を (その八重垣を)

というように。

こうして記紀から万葉の時代にかけて「五七・五七・七(七)」という形式が成立したのだが、やがて読まれ方そのものが変化し、「五七」よりも「七五」の結びつきのほうが強くなったり、最後の「(七)」が脱落したりして、「五・七五・七七」の形式が定着し、今に至った。


ただ、このあたりは、五とか七という数字だけを並べてもピンと来ないと思うので、機会があれば牧水の万葉調の歌などを例に挙げながら、もう少し詳しく書いてみたい。

 

本書は、短歌の他にも、俳句の「切れ」の分析や、現在ではマイナーとなった、七七七五の都々逸や七五七五七五七五の今様、そして破調についての考察など、七五調をめぐる話題がほぼ網羅されている。


僕自身は短歌しかつくらないが、自分の定型感覚を見直したくなったとき、よくこの本を読み返す。

今のところ、57577はできるだけ守りつつ、外来語はあまり厳密に音数を気にしても仕方がない、というあたりを自分の指針にしているのだが、最近は、僕のなかで初句だけ六音であとは定型という67577がブームで、実作を試したり、当てはまる歌がないか歌集を読んで探したりしている。

細かいと言えばほんとうに細かい話なのだけれど、七と五のまわりには、意外といろいろなものが転がっていることに気づくと、やっぱり面白い。

 

57577の定型には、それなりの理由があるのだが、それを文字通り定められた型と考えてしまっては、つまらない。

短歌のリズムは、育てていくものだ。

たくさんの歌を読んだりつくったりするなかで、自分なりの歌というものが少しずつ見えてくる。

そこに短歌を読む楽しさがあるのだと、僕は思う。