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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第32回 関川夏央『子規、最後の八年』

にぎやかに、時に静かに 土岐友浩

子規、最後の八年 (講談社文庫)

子規、最後の八年 (講談社文庫)

 

 

子規たちも、かつて闇鍋をしていた。

 闇汁会を発案したのは子規であった。群議一決、子規を残してみな買出しに出掛けたところに内藤鳴雪がやってきた。材料持寄りと聞いた子規より二十歳年長の鳴雪は、買物のために玄関を出るとき、「下駄の歯が出て来ても善いのですか」と笑いながらいった。
 煮こまれた鍋からは、カボチャ、サトイモ、レンコン、カブ、チクワ、ユズが出た。麩と豚肉と魚とハマグリが出た。何を入れたか各自申告する必要はなかったが、大福餅をすくいとった碧梧桐は「誰だ誰だ」と叫んだ。虚子が入れたのである。
 味は思いのほかよかった。「飯を食うてきて残念しました」と嘆いた鳴雪も二椀食べ、子規ほか残る全員が三椀食べた。虚子の細君がマツタケ飯を炊いたので、それも心ゆくまで味わった。 関川夏央『子規、最後の八年』)

 

明治32年10月、ホトトギス俳人10人ほどが高浜虚子の家に集まった。秋田に帰ってしまう石井露月の送別の意味合いもあったようだ。

虚子や碧梧桐といった近代俳句の創始者たちが、闇鍋に大騒ぎしている様子を思い浮かべると、なんとも言えない気持ちになる。

個人的には、虚子がこっそりと大福餅を投入するキャラだったというのが、衝撃だ。

 

子規はこのときの記録を「闇汁図解」というタイトルで「ホトトギス」に発表している。原文は青空文庫で読むことができるが、上に引用した関川の文章とはまた違った味わいがある。

一、鳴雪翁曰く、うまい。碧梧桐曰く、うまい。四方太曰く、うまい。繞石曰く、うまい。我曰く、うまい。虚子曰く、うまい。露月独り言はず、立どころに三椀を尽す。

一、下戸も喰ひ、上戸も喰ひ、すこやかなる者も喰ひ、病める者も喰ひ、飯喰ふた者も喰ひ、飯喰はぬ者も喰ふ。喰ひ喰ひて鍋の底現るゝ時、第二の鍋は来りぬ。衆皆腹を撫でゝ未だ手を出さゞるに、露月黙々として既に四椀目を盛りつゝあり。

 

「うまい」の連呼もおかしいけれど、送別される側の露月だけが、黙って食べ続けているというのもいい。

 

僕はすぐに田口綾子さんの「闇鍋記」という連作を思い出した。 *1

詞書によれば、2008年10月のある日、歌会のあと突発的に闇鍋をしようという流れになり、OBの五島さんを含めた早稲田短歌会のメンバー7人が参加した。

何首か抜粋してみよう。


 何となく見送っている夜のバスここに全員いるはずなのに

 

 「一人あたり七〇〇円」と決めしのち閉店間際の店内に散る

 

 鍋のふた開ければ日付が変わる頃にんじんじゃがいも火が通りたり

 

   「これでもっともっとおいしくなりますよ!」
 服部さんの魔法使いのような笑みあさりの水煮一缶(ひとかん)を手に

 

 隼人くんの深い頷き 長森の「いや、普通っす」という感想に

 

 「おいしいなら、僕も食べたい」 五島さんがたばこを消して近寄りて来つ

 

   「これも絶対においしいですよ!」
 魔法使いが鍋に再びやってきてためらいもなくきなこを投ず

 

   本当の悲劇は、ここからだった。
 ごほごほと喉につかえるきなこ味ひとり残らずむせこんでおり

 

   「……中ボスの段階でやられちゃった感じですね。」
 缶詰のトマトは未開封のまま部屋の隅にて朝を迎える

 

闇鍋に、きなこをぶち込む服部さん。

遠巻きに見ながらおもむろに近寄ってくる五島さんの、OB感。

笑いどころが満載の楽しい作品だけれど、たとえば最初のバスの歌からは、一抹のさびしさも読み取ることができる。

 

100年以上の時間を隔てつつ、僕たちがやっていることは全然変わらないのだ、と思うと、なんだか勇気づけられるような気がする。

 

 *

 

『子規、最後の八年』は、「短歌研究」に2007年から2010年まで連載され、2011年、単行本にまとめられた。去年、講談社文庫になったばかりである。解説は岡井隆

関川夏央には明治の文豪に関する著作が多く、漫画原作者として『「坊っちゃん」の時代』という作品も発表している。作画は『孤独のグルメ』の谷口ジローだ。

この時代の人々は、みな魅力的だが、人間関係を整理するのはややこしい。子規の周辺にかぎっても、親友の夏目漱石、ライヴァルの与謝野鉄幹、門弟として根岸短歌会の伊藤左千夫や長塚節、日本派俳人高浜虚子河東碧梧桐など、挙げ始めればきりがない。文学者以外にも秋山真之中村不折、家族の八重と律の存在も重要だ。

坂の上の雲』を読めばいいのかもしれないが、なにしろ長い。

 

本書はその書名が示す通り、明治28年に結核を悪化させてから、明治35年に病没するまでの八年間に絞って、子規とその周囲の人々を描いた評伝である。

 

たった八年だけれど、その時間は本当に濃密だった。

特に短歌に関しては、伊藤左千夫と初めて会ったのが明治33年の新年だったというから、そこからわずか三年足らずで、アララギの基礎が築かれ、近代以降の短歌史が決定づけられたことになる。

 

子規といえば、そのすさまじい闘病の姿に誰しも圧倒される。脊椎カリエス、現在でいう結核性脊椎炎の激痛に耐え、ほぼ寝たきりとなりながらも、驚くほどよく食べ、膨大な量の作品を書き残した。

本書でも多くの引用を交えつつ、その生き様が克明に描かれているのだが、一方で、随想風に書かれたさりげないエピソードのひとつひとつも、胸に残る。

たとえば、長塚節が初めて子規を訪ねる場面。

 節が鶯横町の角を曲がると、子規庵の前に人力車が一台とまっているのが見えた。車夫がしゃがみこんで、客の帰りを気長に待つ構えだ。通りすぎしな、あいたままの玄関に客の下駄が二、三足並べてあるのが見えた。節は何度か行きつ戻りつしたが、その日は引き返した。今日こそはと覚悟して出てきたつもりなのに、気おくれしたのである。
 三月二十八日は別の来客に先んじられぬよう、午前中に出掛けた。勇をふるって玄関に立ち、半紙を切った名刺を母親にさし出した。子規の咳音が聞こえた。
 通された六畳の病間で、子規は蒲団の上に置いた名刺をじっと見ていた。子規は節に、寝たまま「失敬」といい、俳句の方でお目にかかったことがあったですか、歌の方でお目にかかりましたか、とつづけた。
 節は、自分は歌について教えを受けたいのです、といった。
 しばしの沈黙のあと、子規はいった。
 いくらでもつくるがいいのです。
 また沈黙があった。
 つくっているうちに悪い方へ向かっていると、それがいつかイヤになってくるのです。
 節はもっと多弁な人を想像していた。意外であった。昨日もきてみたが、来客があったようなので帰った、と節がいうと、子規は、それは惜しいことをした、歌の人が二、三人きていたのです、と答えた。
 入門を許されたと思った節は、前日むなしく持参した短冊を出し、揮毫をもとめた。短冊は二十枚もある。人を気づかう節には、そんなところもあった。

 

淡々とした描写だが、来客が絶えなかった子規庵の雰囲気や、節の性格が十分に伝わってくる。言うまでもなく、多くの資料の裏付けがあることも、おのずとわかる。

このあと子規と節との関係は、他の門人たちがうらやむほど深いものにまで発展するのだが、あまりに仲が良すぎたために、二人と左千夫との間には、微妙な距離感があったというのも、本書を読んではじめて知った。

 

岡井隆は解説で、子規庵で育まれた「座」の場が、現在の短歌結社につながっていることを読者に説明する。

 子規の短歌の弟子の一人、伊藤左千夫の系列が、「アララギ」という結社で、この結社の中でわたし自身、歌の道に入ったのだから、よく分かるのだが、子規庵に集まった歌人俳人の歌会や句会が、実は、現代にまで続いている結社の原型なのである。
(中略)
「歌にも俳句の『座』を持ちこむ。会した面々が相互批評のうちに刺激を受けあい、その結果、歌のあらたなおもしろさが引出される、それが子規のもくろみであった。人好きな子規は、どんな文学ジャンルであれ、他者との関係を重んじずにはすまなかった」と関川氏が説いている通りである。「座」の文芸として、人との直接の関わりを通じて、俳句も短歌も、近代化を遂げた。その淵源のところに、死病と闘う病子規がいた。
 子規は、短歌・俳句の他に新体詩(西欧の影響をうけた自由詩)も漢詩も作り、小説も試作した。しかし究極において、俳句と短歌の近代化にだけ成功した。それは「座」の文芸に一番ふさわしいのが歌・俳という、短い定型詩だったからだ。

 

これを読むと、やはり子規は「座」の人であり、交遊の人だったのだろうと思う。子規は短歌や俳句を革新したが、その運動は、子規庵に集った人々に受け継がれることによって、空前の成功を収めたのだ。

 

子規の晩年の八年間に起こったことは、もちろんこれだけではない。漱石との交流や、「ホトトギス」発行をめぐる虚子や碧梧桐の奮闘と確執などの興味深いテーマが、本書には余すところなく、かつ、すっきりとまとめられている。

すべてを紹介すると煩雑になってしまうので、それは別の機会に譲って、僕が一番好きな場面、子規が世を去った夜のくだりを引用することにしたい。静かな描写に、それぞれの万感の思いが込められている。

 八重の、「のぼさん、のぼさん」と呼びかける声に虚子は起こされた。鷹見夫人も唱和するその声には切迫感がある。律も病間隣りの四畳半から起き出してきた。
 時々うなっていた子規が、ふと静かになった。鷹見夫人と昔話をしていた八重が手をとってみると、冷たい。呼びかけにも反応しない。顔をやや左に向け、両手を腹にのせて熟睡しているかに見えるが、額は微温をとどめるのみであった。子規の息は、母親が目を離した隙に絶えていた。
 旧暦ではまだ八月十七日、新暦では明治三十五年九月十九日になったばかりの午前十二時五十分頃であった。子規の生涯は満三十四年と十一ヵ月余りであった。
 律は陸家に走った。家人を起こし、電話を借りて宮本医師に報じた。
 虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。
「子規逝くや十七日の月明に」
 虚子の口をついて出たのは、この一句であった。

 

 *

 

僕が持っている講談社文庫版の帯の背には、いみじくも子規を評して「日本の文学表現を確立した巨人」と書かれている。

短歌や俳句にとどまらず、いままさに僕がこうして書いているような日本語の文章、その根幹をつくり、広めたのが、子規だった、という意味だ。

 

一体それは、どういうことなのか。

 

日本語の近代化に意識的だった作家は、もちろん子規だけではない。二葉亭四迷、山田美妙らの苦闘を踏まえた上に子規の達成があるのは、間違いない。

だが、先人の果たせなかったことが、なぜ子規にはできたのだろうか。

 

ここでは「座」をキーワードとして子規庵に集まった人々に注目したが、子規は「ホトトギス」の誌上で、一般の人々から「日記」を募集して掲載するなど、「座」を越えた、より遠くの「場」へと「写生」を広めようとしていた。

 

子規のアイデアとエネルギー、それから「ホトトギス」というメディアの力。

分析すれば、そういうことなのだが、では、それらすべてを賭して、子規が目指し、成し遂げた「写生」や「言文一致」とは何だったのか。

機会を改めて、引き続き考えていきたい。

*1:「早稲田短歌38号」に収録