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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第33回 前田透『落合直文―近代短歌の黎明』

 「近代短歌」の祖、落合直文  堂園昌彦

落合直文―近代短歌の黎明 (1985年)

落合直文―近代短歌の黎明 (1985年)

 

 

こんにちは。堂園です。

 

今回やるのは、前田透著『落合直文―近代短歌の黎明』(明治書院、1985)です。

 

私の前々回、第27回で新体詩=明治10年代の話をしました。そんときに、「まあ、今回はこの話はこれくらいにして、明治20年代の話はまた今度にしましょう。」と書きましたが、今回こそが明治20年代の話です。ようやく本が手に入りました。

 

ちょっと復習しときましょう。以前にも書きましたが、明治期の短歌の改革の流れは

 

⓪政治の改革に忙しくて文芸改革まだ(明治ひとケタ年代)

新体詩の登場(明治10年代)

新体詩に影響を受けた様々な試み 落合直文与謝野鉄幹など(明治20年代)

③「歌よみに与ふる書」(明治31年)、『明星』創刊(明治33年)

 

でした。①は第27回でやりましたね。

 

で、今回は②のところ。主役は明治20年代短歌のキーパーソン、落合直文(1861~1903)です。

 

落合直文っていっても、たぶんほとんどの人は知らないと思います。ちょっと知ってる人でも「あ、あれでしょ? 近代短歌アンソロの一番はじめに載ってるひと。あと? あとは、うーん、よくわかんない」みたいな感じじゃないかと思います。私もまさにそんな感じです。

 

落合直文が近代短歌のスタート地点にいるのはたぶん定説っぽいんですが、ひとつ下の世代の、与謝野鉄幹佐佐木信綱正岡子規の、和歌改革三銃士にくらべて、かなり知名度が低いです。そのことは、この本のいちばん初めの「緒言」でも縷々述べられています。これ、ちょっと言い方おもしろいんで、引用します。

 

近代短歌の流れを遡って行くと、その水源地帯に連なる山々の、もっとも奥に位置する山に行き当たる。それが落合直文である。和歌革新期に屹立する群峯の奥に霧をまとって、今はもうさだかに見えぬ水源のこの山をきわめようとする人はまれである。それは、その山が意外に平凡であって、旧派和歌と峰つづきの、ほんとうに水源地であるかどうかも判然としない、きわめるだけの価値の乏しい山であると思われがちなことにもよろう。実際、直文の作物にはたいして取柄のない感じのものが多いことは事実である。(p.1) 

 

わお! 直文、いきなりディスられてます。「直文の作物にはたいして取柄のない感じのものが多いことは事実である」ってすごい言われようです。近代短歌の源流を探っていくと落合直文にたどり着くけど、見てみると旧派なんだか新派なんだかわかんないし、しかも作品そんなにおもしろくない、ってことです。

 

こないだ出た河出書房の日本文学全集『近現代詩歌』の穂村さん選でも、子規・鉄幹・信綱は載っているのに、落合直文は載ってないですしねー。実際、愛弟子鉄幹にも、落合直文はその「古典的趣味と古典的技巧」によって「実感の自由なる表現」が妨げられていた、とか言われてます。直文、けちょんけちょんです。

 

しかしよくよく読んでいくと、落合直文、なかなか侮れません。どうして、和歌が「近代短歌」になったのか。その話をするときに、落合直文は外して考えることはできないと思います。著者の前田透さんも「しかし、歌人直文の存在は決して小さなものではない」と述べています。直文、めっちゃ重要です。

 

落合直文のちゃんとした本は、実はこの前田透『落合直文―近代短歌の黎明』1冊しか読んでないんですが、たぶんですけど、現時点での直文の評論の決定版なんじゃないかな。それくらい、この本、おもしろかったです。

 

あ、前回「なるべく短くします」とか言いましたが、撤回します。今回くそ長いです。

 

 

はい、まず落合直文の生まれからです。落合直文は旧伊達藩の重臣・鮎貝盛房の次男として、明治維新(1868年)のちょい前に生まれました。1861年(文久元年)、現在の宮城県気仙沼市の生まれです。

 

生まれから話始めるのは、タルいかもしれませんが、今回けっこう社会の話したいので、わりと重要なんです。すいません。

 

「旧伊達藩の重臣の子として明治維新のちょい前に生まれた」ってどういうことかというと、生まれてちょっと経つと実家が速攻没落した、ということです。明治維新は薩摩・長州・土佐・肥前の各藩が中心となって行われましたから、旧体制派であった伊達藩は、明治政府ができるとかなり縮小させられてしまうんですね。

 

で、直文ん家である鮎貝家も、お家お取りつぶしではないものの、部下や召使を全部解雇しなきゃいけないくらい貧乏になってしまい、多かった兄弟もほとんど養子に出さざるを得なくなります。

 

うわー、困った。しかし、この次男の直文(このころは幼名・亀次郎)は、かなり勉強ができました。12歳のときに地元仙台に仙台中教院という僧侶・神官を育てる学校みたいなのができたので、入学します。で、その運営をしていた国学者・神官の落合直亮(なおとし)に才能を見込まれて、落合家の養子になります。

 

この落合直亮は明治中期に「仙台六歌人」と称された桂園派(=伝統派)の歌人でもありましたので、家庭環境的に、和歌の素養があったみたいです。落合直文も影響を受けてか、若いころから和歌を作っています。あと、このお養父さんは元々は尊王攘夷派の幕末志士で、新政府の要人である岩倉具視を暗殺しようとして逆に丸め込まれたという過去を持っていたりします。

 

そんなこんなで直文(亀次郎)は、神官の家の子になりました。ゆくゆくは自分も神官になるつもりで、学校で勉強しています。17歳のときにお義父さんの落合直亮が、別の神官養成学校である伊勢神宮教院に招かれたので、亀次郎もついていきます。伊勢なので、三重県ですね。

 

そろそろ直文のキャラがどんな感じかわからないと、読んでてイメージしにくいと思うので17歳ぐらいの時の直文(亀次郎)の学校での評判を言っておくと、

 

亀次郎の寮の副寮監であった青戸波江(のち国学院教授、神道学の権威と言われた。(略))は、亀次郎が勝ち気で負けぬ気の性格であり、撃剣に秀れ、野仕合の時には寮生がきそって落合方に入ろうとしたこと、青戸と有神無神の議論をして、青戸が無神論で圧倒すると口惜涙をぽろぽろこぼして立ち向かって来たこと、歌は堀秀成・植松有園に習い特に有園を敬慕したこと、寮で一夜百首会をやったことなどを語っている。(p.41)

 

という感じでした。

 

スポーツも勉強もできて議論好き、クラスの人気もあって、自分に自信のある勝ち気なタイプですね。

 

まー、線の細い文学青年ではなく、はったりの効いたガッハッハタイプでしょうか。「和歌がうまい」っていう評判もかなりあったみたいで、かなり嘘っぽいんですが「桜の歌を二万首詠んだ」とかいう伝説もあるとかないとか。

 

勝気で負けずぎらいな、才気煥発と大言壮語癖のある、東北出の青年、といったものであって、歌に思いをひそめる文芸好きな若者という感じは全くない(p.43)

 

て感じですね。

 

この神官学校は政府から保守系の人材を養成することを求められていたんですが、実際の勉強は博物学とか、ギリシャ・ローマ史とか、新旧約聖書の勉強とかも入っていたらしく、けっこう開明的でした。それがあってか、だんだん同じ保守系仏教側からいちゃもんつけられたりしだします。亀次郎はここで頭角を現し、のびのびやってたんですが、ごたごたしてきたんで「東京に上京したいなあ」と思うようになっていきました。

 

それで、明治14年に21歳のときに、東京に出ます。私塾である二松学舎にちょろっと入って、翌年、22歳で東京大学古典講習科(のちの文学部国文科の前身)に入学します。

 

はい! 直文が東大に入って幼年期が終わったので、そろそろ社会の話をします! めんどくさいとは思いますが、覚悟して聞いてください。

 

直文のこの時点での社会的階層(クラス)はどんなところにいるのか。それを説明したくて、これまで長々しゃべってきました。

 

まず、旧体制派である伊達家の子弟という出身。これは、薩摩・長州・土佐・肥前出身ではない、ということを意味します。つまり、明治政府の中枢を牛耳っていた藩閥に入れない、非藩閥系士族の子弟ということです。

 

要するに、エリートではあるけれども、政治に直接かかわるスーパーエリートにはなれないということを意味します。どう頑張っても軍人・政治家として頭角を現すのは難しいということです。

 

これにかなり近い境遇なのが、旧松山藩士の長男である正岡子規ですね。直文より6歳年下の子規も、同じように東京大学へ行き、国文科に進学しています。

 

こういう環境の若者たちはどうするのか。言ってしまえば、学問や文学くらいしかできることがないのです。

 

維新後最後の武力反乱となった西南戦争の終結と共に、明治藩閥政府の中央集権は強固なものとなり、従前にもまして東京がすべての中心となった。どの分野でも社会の上層部に抜け出ようとする青年には、東京に出るということが先決問題であった。殊に旧「賊軍」佐幕藩士族の子弟は、軍人になっても先の望みがなかったから、東京で学問をして身を立てることが、残された活路である。(p.53)

 

鹿島茂はこのことを『ドーダの人、森鷗外』(2016、朝日新聞出版)で、人口動態から説明しています。

 

まず、人口のうち青年男子の識字率が50パーセントを超えると、政治的な革命が起きます。この状態は「息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界」であり、必然的に家庭内での権威関係が不安定化し、ゆくゆくは国家体制をゆるがす、ということです。

 

青年男子の識字率が50パーセントを超えるのは、フランスでは1770年ごろであり、日本では1850年ごろだそうです。そこから社会は不安定になり、20年後くらいに革命が起きます。すなわち、1787~1799年のフランス革命であり、1868年の明治維新です。

 

これを日本のケースに当てはめた場合、一八五〇年から六〇年の間に二十歳に達した男子というと、一八三〇年から一八四四年まで例外的に続いた天保年間に生まれた世代ということになる。たしかに、この天保世代の男子、なかんずく、あらたに識字階級となった下級武士階級と上級農民階級の青年が明治維新を担ったのだ。彼らは、いずれも保守的な父親や家族と戦い、家庭内でのしがらみを断ち切って江戸へ京都へと出奔して行った。(『ドーダの人、森鷗外』p.64)

 

で、政治的革命が起きた後30年くらいして、今度は文学・思想の革命が起きます。フランスでは、1830年前後にロマン主義革命が全盛になり、日本では明治20年代に坪内逍遥、森鷗外たちが登場してきます。

 

なぜ政治的革命の約30年後かというと、政治的革命によって公教育が普及し、都市部の商工業者、官吏、あるいは没落した中産階級、農村の有力者などの下層中産階級が識字階級に組み込まれるからです。

 

親には多少の金があっても教養がないか、あるいは多少の教養はあっても金がないというような中間階級の子弟、とりわけ男子が公教育というバイパスによって識字階級に組み入れられることになったのである。(『ドーダの人、森鷗外』p.66)

 

旧伊達藩の重臣の子である落合直文は、ばっちり「没落した中産階級」です。

 

ところで、この公教育世代というのは、政治体制は革命から三十年以上経過し、社会は政治的に安定を見ているため、前世代の政治・社会的なドーダ人間(堂園注:政治・社会的行為で自己愛を満たす行動をする人々)と異なって、政治権力の奪取には向かえない。政治分野はすでにニッチが塞がっていて、付け入る隙間は存在していないのだ。(『ドーダの人、森鷗外』p.66)

 

なので、文学・思想に向かうんですね。明治20年代の日本に急に文学者が出て来るのは、こんな理由によります。具体的には、慶応4年(1868年)を挟んで前後5,6年の間に生まれた人々が、明治の文学革命を担っていきます。

 

坪内逍遥 安政6年(1859)

落合直文 文久元年(1861)

森鷗外 文久2年(1862)

二葉亭四迷 元治元年(1864)

夏目漱石 慶応3年(1867)

幸田露伴 慶応3年(1867)

正岡子規 慶応3年(1867)

山田美妙 慶応4年(1868)

北村透谷 慶応4年(1868)

巌谷小波 明治3年(1870)

国木田独歩 明治4年(1871)

田山花袋 明治4年(1871)

島崎藤村 明治5年(1872)

岡本綺堂 明治5年(1872)

与謝野鉄幹 明治6年(1873)

 

という感じ。この人たち、ほとんどが非藩閥系士族の子弟なんですね。

 

また、没落した旧体制派の子弟で、かつ尊王攘夷の志士くずれである国文学者・神官の家の養子となったという出自は、反権力的であり、素朴なナショナリストの性格を直文に植え付けることになりました。パブリックなものに関わっていこうという意識がかなり強いです。ここもポイントです。

 

パブリックなものにかかわって行く姿勢は、明治中期以後の詩歌人にはほとんど見られない。それは『小説神髄』以降、小説作家から「公」への志向が脱け落ちて行ったのと同様である。日本近代文学は「公」へかかわって行く視点を消去して、「私」の内部に下降することを正道とした。(p.47,48)

 

 

はい、落合直文の社会的クラスはこんな感じなんですが、直文自身はかなり生き生き勉強します。東大古典講習科が馬に合ったみたいです。勉強のできる直文は、ここでもめきめき目立っていきます。

 

かなり楽しく過ごしていたんですが、なんと政府から突然徴兵の報せが来ます。これには直文びっくりしました。当時、家の長男とか養子とかは、だいたい徴兵免除されていました。長男が戦争に行って死んでしまうと、家がなくなってしまうからです。養子もだいたい跡取りなんで、おんなじです。落合家の跡取りだった直文には、普通、徴兵の命令が来ることはないはずなんです。

 

なにかの手違いか、嫌がらせか。このへんよくわかってないらしいんですが、直文はしぶしぶ東大を退学し、中国で3年間の兵役につきます。向こうではそれを同情されたのか、文章読んだり書いたりできる、それほどしんどくない仕事に就かされたようです。

 

3年後の明治20年、27歳で兵役から帰ってくると、お養父さんの落合直亮は地元宮城県気仙沼に帰ってきて教師でもやれよ、というのですが、直文は学問・文学で身を立てると宣言します。大学中退しちゃって地元で教師になってもそんな偉くなれないし、あと、国文学がなんか性に合ったんでしょうね。

 

学問・文学で身を立てる覚悟のためか、このころから、幼名の「亀次郎」ではなく「落合直文」を名乗っています。

 

はい、このあたりから第27回を思い出してください。明治15年に『新体詩抄』が出て、文芸の世界では新体詩がメインストリームになるというあのくだりです。

 

落合直文の名前が初めて活字になったのは、明治21年2月発行の「東洋学会雑誌」に発表された「孝女白菊の歌」です。これ、第27回でも出てきましたね。

 

阿蘇の山里秋ふけて

ながめさびしき夕まぐれ

いづこの寺の鐘ならむ

諸行無常とつげわたる

をりしもひとり門(かど)に出で

父を待つなる少女(をとめ)あり……

 

これですね。

 

これで直文は、バン! と有名になります。この「孝女白菊の歌」は大評判で、1年のうちに17の雑誌に転載されたそうです。

 

なんでしょうかね、愛唱性があったんですかね。『新体詩抄』の詩は硬かったですから。当時唱歌の流行が始まっていて、「孝女白菊の歌」は歌唱としてメロディつきで歌われることで、全国的に広まっていったみたいです。

 

古典講習科の後輩である佐佐木信綱が初めて落合直文に会ったとき、「孝女白菊の歌も読んでおり、その文名はよく知っておった」とか言ってますから(佐佐木信綱『作歌八十二年』)、そうとう名前は知られてたみたいです。佐藤春夫とか和辻哲郎とかも、小さいころに愛唱したと言っています。

 

同時にいろんな学校にも国文学の講師として出向くんですが、ここでも人気沸騰。一高(第一高等中学校)の講義は人があふれて入れないほどだったそうです。

 

そんな感じで名前が有名になったせいか、明治22年にドイツから帰ってきたいっこ下で27歳の森鷗外に「一緒に文学をやらないか」と誘いを受け、「新声社」というグループを形成します。そして、新声社が出版したのが、日本文学史上に名高い翻訳詩集『於母影』です。

 

『於母影』は、まず森鷗外がドイツ語の詩をざっと訳し、それを新声社のメンバーがよい日本語に整えてく、という制作過程を取ったそうです。文芸的にはまだ無名の鷗外は、当時最もメジャーな新体詩人としてかなり直文を頼りにしていて、いろいろ文法や仮名遣いを聞いたみたいです。 

 

実は森鷗外の先輩・先生格なんですね、直文は。そりゃえらいわ。後年、直文が亡くなったあとに森鷗外は一高の受験に失敗した直文の長男を一時家に預かっていて、鷗外はかなり寂しい人だったらしく、家族が出払うと直文の息子はよく話相手をさせられたのだとか。

 

余談ですが、この直文の息子さんは学識豊かな鷗外とのトークがよっぽど楽しかったらしく、熊本の第五高等学校に入ったのですが、鷗外の話に比べて学校の講義がいかにもつまらなく、せっかく苦労して入った第五高等学校を中退してしまいます。その後朝鮮に渡ったあとも、鷗外の命日には彼が大好きだったふかし芋を、どんなに小さくとも細くとも探してきて、必ず写真に供えていたそうです。鷗外のことが大好きだったんですね。

 

続いて、直文はがんがん新体詩を作っていくのですが、同時に、国文学者として新しい国語・国詩をつくらにゃならん、という考えになっていきました。これも第27回に出てましたね。この頃はいろんな人が新たな統一した日本語を作るために四苦八苦していたのです。

 

で、国文学の中心はやっぱ和歌だろう、ということで和歌改革に乗り出し、旧い和歌を批判する文章も書いていきます。実はこの頃、これが流行りで、いろいろ書かれました。

 

やっぱり明治15年の『新体詩抄』ショックはけっこうなものがあったみたいで、なにしろ「和歌はもう時代遅れ」みたいなこと言われたわけですからね、そんで、歌人のほうもそれにリアクションしなきゃいけなくなったというわけです。

 

代表的なものは、明治17年~18年の末松謙澄の「歌楽論」とか、明治20年の萩野由之の「和歌改良論」とか、明治21年の佐佐木弘綱(信綱のお父さん)の「長歌改良論」とか。「歌楽論」なんかは子規に先駆けて、万葉集の重要性を言っていたりします。いちいち名前覚える必要ないですけど。

 

ただ、こういうの読んでると、明治31年の子規の「歌よみに与ふる書」もそれ単体で出てきたのではなくて、当時のトレンドに乗っかってるのがよくわかります。ちょっと脇道に逸れますけど、昭和33年に出ている『明治短歌史―近代短歌史・第1巻』(春秋社)に、窪田空穂がこの頃の思い出を書いていて、おもしろいので引用します。当時の文学青年がここらへんの流行をどんな感じで見てるのかわかります。

 

 第一に思い出すことは明治三十年の初頭の歌界というものである。(略)

 私たち文学青年(私は未熟な者で、その数にも入らない者であったが)には、『文庫』、『新声』(『新潮』の前身)などの投書雑誌があって、これが私たちには甚だ魅力あるもので、創作欲も発表欲も優に充たしてくれて、それで事足りていたのである。

 

当時も投稿がだいぶ流行ってたみたいです。意識高い文学青年は、そういうとこに投稿してた、と。

 

 『文庫』、『新声』の叙情詩方面、すなわち新体詩(現在の詩)、和歌、俳句に限っていうと、私の知る範囲では、新体詩を作る者が最も多く、まれには俳句を作る者もあったが、和歌を作る者は全然なかった。これは理屈あってのことではない、和歌というものは少しも面白みのないもの、つまらないものとして見切りをつけられていたからである。ここに和歌というのは、御歌所系統のそれである。御歌所系統の和歌は、当時の青年には精神的に何のつながりもなく、完全に消滅していたのであった。

 

投稿欄はあったけれども、みんな新体詩ばっかり作ってて、和歌を作るやつなんかいなかったと。

 

明治30年くらいなので、明治10年生まれの空穂は20歳くらいです。『新体詩抄』が出た直後から、新体詩の投稿が若者のあいだで流行ったことを思い出してください。それに比べて和歌は、当時の若者からすると、もう完璧にダサいものだったんですね。

 

 当時は落合直文・池辺義象・萩野由之の三氏は、新進の国文学界の権威者で、和歌の革新を唱道した。しかしほとんど反応がなかった。老成者は頷いても転回はできず、文学青年は問題にしなかったからである。正岡子規の「歌よみに与ふる書」は、或る程度の反応があったようであるが、これはそれを発表しているのが『日本』という勢力のある日刊新聞の紙上だったからで、勢い多くの人の注意を惹いたからである。私などでさえ、子規ともあろう人が、なんだってこんなきまりきった、問題にするにも足りないことを取り上げたのだろう、と怪しんだくらいで、それが実感だったのである。

 

「子規ともあろう人が、なんだってこんなきまりきった、問題にするにも足りないことを取り上げたのだろう」、これ、けっこう興味深くないですか。あの「歌よみに与ふる書」がですよ。

 

ただ、いまも「完全口語で短歌を作ろう!」というと、短歌の世界ではまだまだラディカルな部分がありますが、短歌を読んでない人からすると、いまさら何言ってんの? 今21世紀ですよ、21世紀、とかなりますもんね。子規が「古今集ふるい!」とか言っても、ふつうの文学青年からすると、そっすか、みたいな。

 

正岡子規による短歌の大革新!!」とか言ってると、こういうことがわからなくなります。

 

いや、子規はえらいんですよ、もちろん。それはそれとして、革命というのはいきなり起きるんじゃなくて、連続性の中にありますから。

 

ちなみに、子規が万葉集に目覚めたのも、明治26年に落合直文の弟の鮎貝槐園と仙台で6日間ぶっ続けで短歌の話をして、槐園から万葉集を教えられてからです。そのとき子規は「私は和歌はよくわからない。古今集は面白いと思ってんですけどねー」とか言ってたらしいですが。

 

で、空穂は続けて、その後「なるほど今までにない心親しいものがある、面白いものだ、もっと観たい、できるなら自分もして見たい、という誘惑」を和歌ジャンルにおいて初めて感じさせたのが『明星』だった、と告白しています。実際、のちに空穂は『明星』に参加するようになります。

 

若者を和歌の世界に取り戻したのが、『明星』だったんですね。そりゃすごい。『明星』なかったら、完璧短歌ほろんでましたね。そのうち『明星』の話もやりたいと思います。

 

はい、で、話を落合直文に戻すと、直文も和歌改革のために明治24年に和歌入門書『新撰歌典』を書いたり、明治25年に「歌学」という和歌雑誌を創刊したりします。

 

『新撰歌典』は用語を「今の普通語」を使ってよいとしたり、題を先に決めて想を表す題詠の不自然さを指摘してたりします。まあ、実はここらへんは明治20年の萩野由之の「和歌改良論」ですでに言われてたりしてたんですが、他に、感情の動きを重視しています。これは後の鉄幹に通じる主張です。この本、かなり読まれたみたいで、明治29年までに6版になってます。ということは、明治31年の「歌よみに与ふる書」までに、こうした考え方はけっこう広まってたということです。

 

また、雑誌「歌学」では、御所派とか古典派とか新桂園派とか、あるいは民間の歌人とかに関わらず選歌をすることで、流派の垣根を取り払おうとしています。これも、それまでではなかったことです。

 

直文は「歌学」で「かのやむごとなき公達のたはぶれ、かの世をそむける老人のたのしみ」から歌を開放し、「すべての国人、ことに青年有為の人々に」将来を託する宣言をしています。貴族や老人から和歌を解き放って、青年によって作られることを期待しました。

 

要するに、直文(や、他の人々)は、新派和歌を作っていくための露払いをしているのですね。そうして直文が均していった道に、鉄幹や信綱や子規が続いていったというわけです。

 

直文の革新運動は、最終的に「浅香社」に結実します。これは、短歌結社の前身みたいなもので、直文の声名を慕って若者たちが直文の家に集まってきて、グループみたいになったやつです。直文が住んでたのが本郷区駒込浅嘉町だったんで、浅香社。メインメンバーは直文の弟の鮎貝槐園と、与謝野鉄幹。のちに金子薫園、服部躬治、尾上紫舟らが参加します。

 

週2、3で歌会やったり、新聞「日本」にグループで短歌発表したりしてました。新聞「日本」は子規が「歌よみに与ふる書」を発表したとこですね。

 

鉄幹は当時20歳。なんか家の目の前のお寺で超貧乏生活をしていたところを、直文が憐れんで家に連れてきたみたいです。2月の雪の日で、煎餅布団にくるまってあんまり寒そうだったので、と。直文はメジャー新体詩人でしたから、元々鉄幹は直文を尊敬していて、文学上の関わりはすでにあったみたいですが。

 

鉄幹門下からは、石川啄木北原白秋吉井勇などが出てきますし、薫園門下からは土岐善麿・吉植庄亮、紫舟門下からは、若山牧水前田夕暮らが出てきます。そりゃ、近代短歌の源流をたどっていくと、落合直文にたどり着きますよ。まじで。

 

 

さて、ようやく直文の作風の話ができます。長かった。

 

直文、生涯のうちにけっこう作風が変わってます。ほんとに若いころの作品は、まだ完全に旧派っぽいんですが、変わってきたのはこの辺から。明治25年の作品。

 

緋縅の鎧をつけて太刀佩きて見ばやとぞ思ふ山桜花

 

緋縅は「ひおどし」。赤い鎧ってことです。直文はこの歌で「緋縅の直文」の名前を得たそうです。

 

なんでしょうね。桜を見ているときのヒロイックな気分を歌った歌というか。直文のお義父さんが尊王攘夷派の志士だったことを思い出していただければと思います。こう、幕末志士を引きずっているというか、志士として理想のために美しく死ぬぞ! みたいなテンションが背後にあって、「見る」という意志的な行為で美のひとつの形を強調してます。

 

ここには、日清戦争(明治27、28年)前夜のナショナリスティックな気分が強く表れています。

 

いちおう、比較のために、同時代の旧派の歌で桜を歌ったものを挙げてみると、

 

さくら花さきてののちの雨ならばいかにわびしき日数ならまし  渡忠秋

 

みたいな感じでした。

 

直文の歌は今読むとげんなりするところあると思うんですけど、当時の旧派和歌の「花鳥風月……」「雅……」みたいな、なよなよした歌に比べると、やっぱり新しかったわけです。まずはこんな「雄壮活撥なる歌」を出して、旧派和歌の類型的な言語観とは異なる美意識を提示しました。

 

で、この作風は鉄幹に受け継がれました。聞いたことありますかね。「虎剣調」ってやつです。

 

いたづらに、何をかいはむ。事はただ、此太刀にあり。ただこの太刀に。  与謝野鉄幹『東西南北』

 

鉄幹の最初期は、もろ直文に影響うけてます。鉄幹は直文の弟の槐園と一緒に朝鮮に行って、政治活動に関わったりするんですが、その頃の歌がこの「虎剣調」です。こうした歌は、自我を現実世界に開放しようとする過程で、パブリックなものに関わっていこうとする方法を取っています。

 

こういう歌は、なんというか、ローラーでガガガッと言葉を地ならししているようなところがあります。まずは強い言葉で、美意識を変えちゃう、と。

 

しかし、なんすかね、こないだの新体詩もそうだったんですけど、言語や芸術が変わっていくときの始まりには、ナショナリスティックなものが避けられないんでしょうか。

 

まあいいや。で、直文も鉄幹も最初はこんな感じだったんですけど、日清戦争が終わると、作風が変わっていきます。それは、戦争前はナショナリズムの理想の時代だったのが、戦争後は「戦後経営」の経済の時代に移っていったからです。

 

正直、この時代の変化は、私はよくわかっていないのですが、この本にはそんなことが書いてありました。たぶん、簡単にまとめると「緋縅の~」みたいにテンション上げる言い方が、昔はよい反応だったのに戦後は、「え、なにいってんの、今は経済でしょ」みたいに変わったんだと思います。ぜんぜん自信ないけど。

 

で、鉄幹は政治の理想にやぶれて、「虎剣調」の鉄幹から、『紫』の鉄幹になります。

 

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子  与謝野鉄幹『紫』

 

みたいな作風にチェンジしました。「明星」の作風ですね。自我の解放を、政治から恋愛とかの方向に変えた、ということです。

 

直文の歌もこんな感じに変ります。

 

をとめ子が泳ぎしあとの遠浅に浮輪の如き月浮かび来ぬ

 

「緋縅の~」とぜんぜん違います。こういう、少女達が去っていた浜に浮輪のような月が浮かんでいる、という風景は日本の和歌の伝統にありませんでした。西洋絵画的な視点です。この作風が与謝野晶子に継承され、「明星」の浪漫主義の作風になっていきます。

 

あるいは、

 

砂の上にわが恋人の名をかけば波の寄せきて影もとどめず

 

なんていう普通の言葉を使い、かつロマンチックな歌も作っています。これもぜんぜん旧派の「花鳥風月」じゃありません。「恋人」なんていう言葉を初めて短歌に使ったのは直文のこの歌ではないか、と言われています。これなんかは啄木に継承されていったと考えられる、と著者の前田透さんは言っています。

 

かといって、直文は浪漫一辺倒ではなく、写実的な、現実主義的な歌も作っています。

 

霜やけの小さき手もて蜜柑むくわが子しのばゆ風の寒きに

 

とか、すでにかなり「近代短歌」ですし、

 

賤が家の門のはひりに樫の実のひとつこぼれて冬は来にけり

 

これは初期の歌ですが、ちょっと子規を先取りしているようなところがあります。

 

また、子規の有名な歌、

 

瓶にさす藤の花房短ければ畳の上にとどかざりけり  正岡子規

 

が作られるすぐ前に、

 

文机に小瓶をのせてみたれどもなほたけ長し白藤の花  落合直文

 

なんていう歌を直文は作ってたりします。よく似てますよね。この頃、子規は直文の歌をひどく批判していたので、どうも子規は直文の歌を見て、あえて逆のことを詠ったんじゃないか、と言われています。

 

ただ、文体レベルでは、子規のほうがやっぱり徹底度が高くて、子規の歌では畳の上に花が届かないことに気づく=視点が低いことがわかる=作者は病で寝ている、のように主体の状態まで表すのに対し、直文の歌はそういうところはありません。

 

あと、こういう写実的な歌を作ったあとに、急に旧派っぽい、なんの取り柄もない歌を無邪気に作ったりするんですよね。このあたりが直文があんまり言及されない理由なのかなーと思います。おもしろいと思いますけどね、落合直文の短歌。

 

直文の浪漫的な歌は「明星」ができてそこに歌を出すようになって増えていきますし、また、写実的な歌も子規と直文のどっちが先、と簡単には言いにくいところがあります。たぶん、相互影響があったんでしょう。師匠と弟子となると一方的に弟子が師匠の作風を学んだり、ライバルというと正反対の作風、みたいにイメージしちゃいますけど、弟子が師匠に影響与えたり、ライバルの作風をパクッたり、ぜんぜんありますもんね。

 

前も言いましたけど、「文学史」と思うとなんか文豪は歴史上の人物になっちゃって、あらかじめ運命みたいに決まったことをしてるみたいに見えますし、今回のこの記事もそんな感じで読めちゃったら申し訳ないんですけど、いっこいっこ読んでくと、実際にはそれぞれの作者たちは思い付きで行動して、探り探りやってることがよくわかります。で、作風も「アララギ派」とか「白樺派」とか「無頼派」とかキャッチコピー的に決まってたわけじゃなくて、わりと互いの作品を読みまくって、影響受けまくってます。

 

だっていま口語で短歌を作ろうとすると、斉藤斎藤とか永井祐とか木下龍也とか読みますよね。こんな感じなんだー、って。で、自分でも真似したりずらしたり。それとおんなじだと思います。

 

ただ、そんな感じでどっちが先とか言いきれないところもあるんですけど、大きく見ると落合直文がパイオニアなのはほんとに否定できなくて、結社というものにおいても、近代短歌の文体においても、あらゆることを先取りしてるとこがあります。よく「旧派と新派の折衷的」とか「微温的」とか言われることの多い直文ですが、ぜんぜんそんなことなくて、そのことは何度も何度も著者の前田透さんがこの本で主張しています。

 

やっぱりけっこうすごい人なんじゃないですかね、落合直文

 

そして、晩年は「明星」に歌を発表したりなんかして、明治36年12月16日に、持病の糖尿病からくる肺炎の合併症で、落合直文は亡くなります。享年41歳。若いです。辞世の歌は次の歌。

 

木がらしよなれがゆくへの静けさのおもかげゆめみいざこの夜ねむ

 

前田透さんの評を引用します。

 

木枯の音にとりまかれた直文は、終末感の中に永生の平安を夢みたのであろう。そこに、この世の人のおもかげを重ね合わせたこの歌は、声調の深沈とした哀切と、屈折のある豊かな内容によって明治の秀歌の一首に数えられる資格がある。(p.211)

 

 

はい、長くなりました。最後に子規と直文のエピソードを紹介します。金子薫園が昭和9年に「現代」に書いた話です。時代は明治34年3月。子規が「墨汁一滴」に毎日のように直文の悪口を書いていたときのことです。

 

 先生が晩年から著述のために、南品川の万松軒といふ或る旅館に滞在して居られた時のことである。その頃、正岡子規が日本新聞に病牀での随筆を連載して居つた中に、胃腸がひどくわるくなつて林檎のもみ汁か何かでなければ通らぬといふやうな事が出て居つたのに、先生はひどく同情された。すると丁度先生の郷里に近い盛岡から非常に見事な林檎がとゞいたので、すぐ、それを見舞に贈らうとされた。

 そしてふいとその日の日本新聞を見ると当時与謝野寛氏主宰の「明星」に載つた先生の歌を子規が批難攻撃した文が出初めてゐた。その時先生は当惑された。何で当惑されたのであらうか。

 子規の折角自分の歌を批評してくれようと思ふのに、この林檎など贈つたら筆鋒が鈍つて、幾分緩和するやうなことでもあつては遺憾である。また自分としても、かういふ矢先きに贈るのは、何かうしろめたいものがある。かういふ事を感じられて、その日は林檎を贈ることをやめにされた。するとその次の日も、またその次の日も続いてその批難攻撃の文が出てゐるので、先生はその林檎を籃にいれたまま、とうとう腐らせてしまつたのである。この一事を以て見ても、先生がいかに人情味があつく思ひやりが深かつたかを想はせるものがあるではないか。(金子薫園「林檎を腐らせた話」)

 

直文ー!! 林檎ー!! 直文ー!!

 

あ、あと蛇足なんですが、この本は前田透さん(前田夕暮の息子さん、いまはその系譜が「かばん」につながることで有名でしょうか)の遺作だそうですが、理知的な文体や、ふっとした瞬間に記述される自身の体験に根ざした戦争への批判がかっこよく、すっかりファンになりました。

 

今回はこんなところです。それでは。