短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第41回 藤沢周平『白き瓶 小説長塚節』

長塚節と初期アララギの混沌  堂園昌彦 

 

白き瓶―小説長塚節 (文春文庫)

白き瓶―小説長塚節 (文春文庫)

 

 こんにちは。

 

今回紹介するのは、藤沢周平が1985年に文芸春秋から刊行した『白き瓶』です。1988年に文庫化されており、上のアマゾンリンクにあるのは、2010年に出た新装版です。

 

この本は、時代小説家・藤沢周平が、子規の直接の弟子である長塚節の生涯を小説化したものです。

 

私は長塚節の歌が昔から好きで、以前やってたブログに取り上げたこともあります。

 

長塚節の歌を読む: 短歌行

 

なんでしょうね。子規の弟子の中でも変わってるというか。根岸短歌会からアララギに至る流れには、なんか歌も人間も濃い人が多いんですが、長塚節はその中で非常に爽やかかつ滋味深い歌を詠んでいます。一服の清涼な水、といった感じがあって私はとても好きです。

 

有名な歌はこんな感じ。

 

馬追虫(うまおい)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし

白埴(しらはに)の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり

垂乳根(たらちね)の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども

 

青空文庫にもあります。

 

青空文庫 長塚節歌集 上

青空文庫 長塚節歌集 中

青空文庫 長塚節歌集 下

 

そんな長塚節ですが、まさか藤沢周平が小説化しているとは思いもよりませんでした。なぜなら、歌人を小説化するときは、もうちょっと派手な人が選ばれる傾向にあります。与謝野晶子とか、中城ふみ子とか、岡本かの子とか、川田順とか、明石海人とか。情熱・恋愛・不倫・病気・夭折、などがキーワードですね。

 

実際には長塚節も37歳で結核で亡くなっているのですが、それでもやっぱりこれらの歌人たちに比べれば、長塚節は歌も人格も地味というか落ち着いた印象があります。

 

藤沢周平といえば、池波正太郎と並ぶ超メジャーな時代・歴史小説家です。映画にもなった『蝉しぐれ』とか『たそがれ清兵衛』とか『隠し剣 鬼の爪』とかが有名ですね。私はあんまり時代小説読んだことないので、それほどよくは知らないのですが。

 

この流れだと、藤沢周平がなんで長塚節のことを書いたのか誰でも気になると思うんですが、ご本人はこう語っています。

 

 発端は、平輪光三著『長塚節・生活と作品』という本だった。昭和十八年一月に、東京・神田の六芸社から発行された初版四千部のこの本の一冊が、そのころ山形県鶴岡市の郊外にある農村に住む私の手に入ったのである。それは本が出たその年か翌年の十九年のことで、私は十六か十七だったことになる。

 その年齢の私をその本にひきつけたものが何だったかは、いま正確には思い出すことが出来ないのだが、ひとつはやはり、中に引用されている「初秋の歌」、「乗鞍岳を憶ふ」などの短歌作品だったろう。それはいかにも文学好きの農村青年だった私に訴えかけるリリシズムと、理解しやすい親近感をそなえた歌だったのである。(中略)

 ともかくそんなことから、その一冊の本は私の愛読書となり、その後私の長い療養生活とか、生家の破産とかがあって、若いころの私の蔵書があらかた四散してしまった中で、不思議にいまも手もとに残る一冊となったのである。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

「初秋の歌」はこんな歌。さっき引用した「馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし」もこの連作中の一首です。

 

目にも見えずわたらふ秋は栗の木のなりたる毬(いが)のつばらつばらに

芋の葉にこぼるゝ玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ

 

 「乗鞍岳を憶ふ」はこんな歌です。

 

鵙のこゑ透りてひびく秋の空にとがりて白き乗鞍を見し

乗鞍は一目我が見て一つのみ目にある姿我が目に我れ見つ

 

いずれも、自然観察と繊細な内面が響いています。そこらへんが、「文学好きの農村青年」の藤沢周平のこころにビビッと来たのかもしれません。長塚節は、茨城県の豪農の出身で、繊細な自然観察が魅力のひとつです。そこらへんが藤沢周平にはグッときた、と。

 

 もっとも私は、最初から熱狂的に長塚節が好きになったというわけではなかった。平輪さんのその本にしても、しじゅうそばに置いて眺めていたというものではなく、時には何年に一度か、ふと思い出して本棚の隅からさがし出して読む、そういう本でしかなかった。だがそんな読み方を通して、節はやがて私の内部でいかにもなつかしい歌人となり、ことに近年小説を書くようになってからは、節はひととおりでない人間の謎を秘めた歌人として、再三にわたって私の脳裏に立ち現れることにもなったのである。

 ここまで来ると、私は小説にかぎらず、エッセーでか戯曲でか評論でか、何らかの形でいつかは長塚節について感想をのべざるを得ないところに来ていたというべきかも知れず、たとえば編集者との雑談の中で、新聞連載のあとに何か長篇のものを書きませんかと誘われて、ふと節の名前を洩らしたとしても、それはさきに記したとおり、必ずしも軽率な思いつきというものでもなかったわけである。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

そんなわけで、なぜか、藤沢周平のこころには若いころからずっと長塚節が残っていたようです。 あと、もしかすると、輝かしい栄光に浴することのない市井の人々を描き続けてきた藤沢周平の琴線に、どこか、長塚節が触れるところがあったのかもしれません。それで、藤沢周平は新聞の連載小説が終わったあとに、長塚節の小説に取り掛かります。

 

しかし、いざ長塚節の小説を書こうと決心した藤沢周平は、すぐに後悔することとなります。

理由の第一は 、まず節関係の資料が予想以上に多いことだった。単行本から各種雑誌、研究誌に掲載された論文、エッセーはおびただしい数にのぼり、それらの文章が節の作品、節の病気、節の恋愛について、それぞれに詳細に記述しているのだった。同じころに何かの雑誌で、明治以来の文人、作家について書かれた文献数といったものが取り上げられていて、長塚節が第七位を占めることも知った。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

明治以来の作家についての文献数で、長塚節が第七位! 長塚節そんななのか。どうりでやたらに古本屋で資料が手に入ると思った。

 

藤沢さんも「長塚節は地味な歌人で、その種の参考文献、資料類はそう多くはないのではないか、などという私の予想は完全にくつがえされ」たと言っています。私も正直なめてました。やばいすね。

 

そんな感じで書き始められたこの『白き瓶』。たいへん面白かったです。文庫本で600ページくらいあってけっこうぶ厚く、なかなか大変なのですが、さすが藤沢周平、ふつうの評伝より抜群に読みやすいです。

 

まあべつに、野盗に苦しめられている農民を救うために武士が七人集まるとか、昼行燈な下級武士が裏ではバットマン的な活躍をしてたりとかいった、エンターテインなシーンは一切ないので、なかなかじっくり読むことになるというか、はっきり言って地味な本なのですが、読んで行くうちにだんだんと、家や健康の問題に苦しめられながらも懸命に生きようとしている長塚節に感情移入をしてきます。

 

 

この本、小説的におもしろポイントはいくつかあるのですが、まずは面白いのは、長塚節と伊藤左千夫とのライバルものとして読める点です。

 

長塚節と伊藤左千夫は、子規の直接の歌の弟子のツートップで、かつ反対の個性を持つ二人でした。ちょうど、俳句における高浜虚子河東碧梧桐と重なりますね。

 

「俳句は虚子と碧梧桐(へきごとう)にまかせておけばいいんだ」

 不意に節のそばで声がした。見てたしかめるまでもなく、隣に坐っている伊藤左千夫の声である。

「しかし歌は長塚君、君と僕だ。二人でやって行かなきゃならん」(『白き瓶』p.47) 

 

『白き瓶』の初めのほう、子規の葬儀の席でのシーンです。子規の直接の弟子として、お互いを認め合った伊藤左千夫と長塚節ですが、子規の死後は二人で根岸短歌会を担っていかなければいかん、と左千夫は節に言います。

 

ふたりの個性の差を表す、子規が書いた面白い文章があります。

 

 左千夫いふ柿本人麻呂は必ず肥えたる人にてありしならむ。その歌の大きくして逼せまらぬ処を見るに決して神経的痩せギスの作とは思はれずと。節いふ余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならむと思ふ。その歌の悲壮なるを見て知るべしと。けだし左千夫は肥えたる人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引き比べて同じやうに思ひなすこと人の常なりと覚ゆ。かく言ひ争へる内左千夫はなほ自説を主張して必ずその肥えたる由を言へるに対して、節は人麻呂は痩せたる人に相違なけれどもその骨格に至りては強く逞たくましき人ならむと思ふなりといふ。余はこれを聞きて思はず失笑せり。けだし節は肉落ち身痩やせたりといへども毎日サンダウの唖鈴を振りて勉めて運動を為すがためにその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなむ。さればにや人麻呂をもまたかくの如き人ならむと己れに引き合せて想像したるなるべし。人間はどこまでも自己を標準として他に及ぼすものか。(正岡子規『病牀六尺』)

 

あるとき子規と左千夫と節の3人で、万葉集歌人柿本人麻呂はどんな風貌だったんだろね、という話題になりました。左千夫は「人麻呂は太ってただろう」と言い、節は「痩せてたはず」と言ったそうです。なぜなら、左千夫自身が太ってて、節は痩せてたから。人間はどこまでも自分を基準として物事を考えるものだなあ、みたいな感じの文章です。好対照の二人だったんですね。

 

人格も真逆で、左千夫はなんというか、野獣っぽい人で、もう人の気持ちとか考えなくて押し出しが強く、自分の思い通りにならないとめっちゃ人を批判します。しかし同時に不思議な魅力もあって、異様に勘がするどく、鈍いかと思ったら突然真実を突いたりします。

 

それに対して、長塚節は、あんまり人と揉めるのが好きではなく、ちょっと距離を置いて後輩を見てる感じ。繊細で批判に傷つきやすく、自分のやりたいことをひとりで黙々とやるタイプですね。

 

で、けっこうこの二人の文学的境遇、似てるんですよね。二人とも子規の写生説を独自のかたちで発展させることで自らの歌を作っていきますが、ほかにも、子規の始めた「写生文」を経由して、小説を書き、それぞれ『野菊の墓』と『土』という文学史に残る作品を書いています。で、どちらも漱石に褒められてます。

 

次のところは、二人が、お互いの小説を批評しあうシーンです。

 

「君はね、細部の描き方はじつにうまい。正直に言って、読んでいてうなったところが何ヵ所かあったな。しかし全体を通してみると、ちょっと首をかしげたくなる。不自然さが目立つんだよ」

「不自然かね」

 節はおだやかに反問した。

「前半と後半のつづきぐあいのことだな? あれはちょっとまずかった。」(中略)

 そして、そういうことから言えば、左千夫の小説だって五十歩百歩だろうと、節はひそかに思っていた。「胡頽子」の写生の拙劣さは、読むに堪えないほどのものだったのだ。左千夫の言い方を借りれば、左千夫の小説は、節とは逆に、全体としてのまとまりは悪くないものの、部分的な描写という点では支離滅裂だと節は考えている。(p.206,207)

 

ふたりは文学上でも批判し合い、お互いの作品を高めていきます。

  

左千夫の遠慮のない作品批判が節を傷つけることは再三で、節はのちに左千夫に対して愛憎相半ばするといった心境に追いこまれる。左千夫はいわゆる喧嘩上手で、その種の批判の応酬ということになると若い節にどうも分がなく、節はしまいにはいやになったのではあるまいか。しかし親友でありながら、同時に文学上の熾烈な競争相手でもあるという二人の関係が、両者の作品の質を高めたこともまた間違いないようである。 (「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

短歌の理論においても、長塚節が子規の衣鉢を継いで「客観写生」を標榜すると、伊藤左千夫はそれを批判して、短歌では「主観」の働きが大切だ、と述べる。この闘いの中で初期「アララギ」の理論は洗練されていきます。

 

 伊藤左千夫が、節の短歌の特色である客観写生の方法を、公然とまたはげしい口調で非難したのは、明治三十八年一月発行の「馬酔木」第十五号の中でだった。

 (中略)人事と配合してこそ茄子古幹も面白く見られるだろうが、人事的なものを一切抜きにして、つかねた茄子古幹を一首の中心にするのは、どう考えても不自然だ、節と自分が主観、客観ということで時時衝突するのは、こういう場合なのだと意見の相違のあり場所をあきらかにした。(p.90)

 

 要するに左千夫は、自然を捨てたわけでもなく、また四十年中の佳作「水籠十首」にみるように、主観による自然の把握という作歌の手法を捨てたわけでもなかったが、その興味はより人間に内在する自然にむかっていたのであり、また方法的には、「八面歌論」に記したように、内なる思いが余って歌になるという理論を確立しようとしてもいたのである。つまりこの時期、左千夫は次第に自然よりは人間に興味を移し、節はいよいよ自然に興味を深めて、子規という同根から出発しながら、二人の歌境は大きく相隔たろうとしていたのだった。(p.148)

 

要するにこの二人、ナルトとサスケ、花道と流川、悟空とベジータなんですよ。この二人がいなかったら、後の斎藤茂吉や、島木赤彦や、土屋文明らもいなかったでしょう。

 

しかしほんと、この『白き瓶』の中での伊藤左千夫の怪人物っぷりはすごいです。めちゃくちゃ俗物で困ったおじさんなのに、不思議と憎みきれないんですよね。完璧にこの小説のもうひとりの主人公です。

 

それはともかく、そういう事実をたしかめながら左千夫の評論や手紙を読んでいるうちに、私はすっかり左千夫というひとの個性のおもしろさにひきつけられ、しまいにはこの稀有な人間味を正確に伝えるためには、小説の形を少々損なっても誤字、脱字まじりの手紙をそのまま引用するしかないと考えるほどに、左千夫に気持ちが傾いて行ったのだった。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

左千夫の人物批評は、辛辣に過ぎて時には毒を帯びるが、不思議に間違わなかった。左千夫の性格の中には、万人がわかっているようなことを理解していない遅鈍なところと、誰もわかっていないものを鋭く看破している機敏なところが同居している。(『白き瓶』p.72)

 

節と同じように読者も、いらいらやきもきしながらも、何とも言えない魅力を伊藤左千夫に感じてしまう。そんなところが藤沢周平の筆によってけっこうはっきり伝わるのが、『白き瓶』の面白いところでしょうか。

 

 

あとは、長塚節の細腕奮闘記として読めるというか。長塚節茨城県のほうの農家の長男なんですが、家がわりと裕福で、村の中ではかなり偉い立場なんですね。

 

しかし、長塚節父親がけっこう破天荒というか、どうしようもない父親で、家業だった質屋経営を勝手にやめてしまって政治家になっちゃうんですね。で、落選して借金がかさんでしまったりしてしまう。

 

父が頼りにならないので、長男として節は家をなんとかしなければならない。そのことがいつも重くのしかかってきます。

 

家にいれば、家のことを考えないわけにはいかなかった。家は、巨大な難破船のように半ば傾いて、いつも節の頭上にうかんだまま絶え間ない圧迫を加えて来る。(p.69)

 

でもなかなか上手くいきません。節もいろいろ考えて炭焼きとか竹林経営とかやるんですが、いずれもそれほど軌道には乗らない。しかも、村の若い衆には疎まれたりとか、結婚は破談になったりとか、挙句の果てに身体を壊して結核にかかってしまいます。そんで、家の建て直しがうまくいかないと、旅好きの節は、すぐ現実逃避で旅に出ちゃいます。

 

私もよく現実逃避で旅に出るタイプなので、ここの気持ちはよくわかります。旅先で急にテンションが上がって絵葉書を送りまくるのとか、共感するなあ、と思いました。

 

そんなこんなで、節の人生はなかなか大変なのですが、そこに文学が絡んでくる。生活を成り立たせながら文学やる。それも、けっこう身につまされます。

 

で、晩年はぼろぼろになりながらも、「鍼のごとく」という傑作連作を作ったりします。

 

傑作残酷時代劇漫画『シグルイ』第9話で、道場の跡取りの座と想い人をライバルに取られちゃった主人公の藤木源之助が、絶望のどん底で神速の抜刀術を開眼するシーンがあるんですが、そんな「剣はまだ藤木源之助を見放していなかった」的な感じのことが、長塚節にも起きたりなんかします。

 

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山口貴由シグルイ』2巻 p.148より)

 

まあそれは、ある意味では長塚節を「物語」に押し込めちゃってるところもあるとは思うんですけど、それでもやっぱりこういうのは燃えますね。

 

 

 あと、読みどころもういっこ。このブログの第38回で永井さんが『近代短歌論争史 明治大正編』を取り上げて、アララギ初期メンの話をしていますが、それが現場ではどんな雰囲気だったのか。それがこの本にはすごくわかりやすく書いてあるんですね。

 

子規没後の根岸短歌会の流れがどうなったかが分かる。明治30年代後半~40年代前半くらいの話です。

 

⓪政治の改革に忙しくて文芸改革まだ(明治ひとケタ年代)

新体詩の登場(明治10年代)

新体詩に影響を受けた様々な試み 落合直文与謝野鉄幹など(明治20年代)

正岡子規歌よみに与ふる書」(明治31年)、鉄幹『明星』創刊(明治33年)

 

何度も出すこの表では、この後、④のところになるでしょうか。

 

④伊藤左千夫らが『アララギ』を創刊(明治41年)

 

子規の死後、彼が唱えた写生論が、その弟子たちによってどのように変わっていくのか。要するに、根岸短歌会がどのように「アララギ」になっていったのか、の話です。

 

以前にもちらっと書きましたが、与謝野鉄幹の「明星」に比べると、明治30年代はじめころでは子規門下の歌人たちは、歌壇の中ではそれほど目立ってはいませんでした。それが、少数精鋭の武闘派集団としてだんだんと有名になっていく過程が、この小説では描かれます。その第一歩が、子規の死後、結社の機関紙を作るところからなんですね。

 

「明星」などにくらべれば、子規の旧門人の集まりは、歌壇全体から見れば微微たる存在でしかなかった。発表の舞台といえば「日本」、日本附録の「週報」、それに森田義郎が編集委員をしている関係で、「心の花」に短歌会の記事を載せているだけで、拠るべき雑誌もない短歌結社など、だれも注目してはくれないのである。「心の花」や「日本」紙上で、左千夫が歌壇のあちこちに噛みついても、それは犬の遠吠えに似た印象しか与えなかった。(p.58)

 

とにかく、結社は自前の機関紙が大事。余談ですが、落合直文の話のときに、直文の作った「浅香社」を「結社の前身みたいなもの」と書きましたが、あれはなんでかというと、浅香社も機関紙がなかったんですね。内輪で歌会やってて時々新聞に載せてもらったりするだけだったので、結社ではない、という意味です。自前の機関紙があれば、対外的にもかなりアピールができます。その点、新詩社の「明星」は見た目もいけてたので、がんがん同人が増えます。

 

左千夫はそれに勝とうと、まず結社誌を作る。しかし、悲しいかな、自身の性質からこれを次々潰していくのです。

 

俳句も子規の死後、わりと「ホトトギス」周辺で揉めて、虚子がディスられたりしてるのですが、左千夫もまあよく周囲と揉める。

 

まずは最初に明治36年に「馬酔木(あしび)」を作るんですが、ここで同じく子規の弟子の森田義郎と喧嘩します。そんで森田が「馬酔木」を脱退し、いろいろあって「馬酔木」がつぶれて、次の「アカネ」という雑誌を作ります。で、その編集を任されていた若い東大学生・三井甲之とも左千夫は揉めて、別で「阿羅々木」を作り、「アカネ」と「阿羅々木」も一緒になくして、最終的に島木赤彦のいた「比牟呂」と合流して、明治41年に「アララギ」を作ります。

 

左千夫は、もう、揉めまくり。森田義郎と揉め、三井甲之と揉め、親友の長塚節とも結局揉め、自分の直弟子の斎藤茂吉・島木赤彦とも揉めます。

 

 左千夫は、一結社をひきいるだけの指導力も洞察力もそなえていたが、周囲にいて自分とは異なりかつ目立つ才能に対して、執拗に自分の主張に従わせるか、それを聞かれない場合には徹底して攻撃するという性癖も合わせ持っていた。家父長的な性格と言ってしまえばそれまでだが、その性格の中に含まれている頑なで偏執的な攻撃性が、古くは森田義郎からはじまり、山田三子、三井甲之、長塚節と、有望な才能がつぎつぎと佐千夫の周辺から去って行く原因をなしたことは疑えなかった。(p.434)

 

ただ、その揉め事のなかでだんだんと、子規の「根岸短歌会」を継ぐとはどういうことなのか、ということが煮詰まっていくんですね。喧嘩や論争を通して、ある意味シンプルだった子規の理論を内部的に練り上げていったのが、「アララギ」という集団と言えます。

 

子規の理論がどう変化していったかの詳しいところは、柴生田稔『短歌写生説の展開』(短歌新聞社、1987)とか読むといいと思いますし、あと他に、このピーナツの第8回大辻隆弘『アララギの脊梁』にも出てきましたが、左千夫を試金石として、それにぶつかっていくことによって、「アララギ」短歌システムは、だんだんと形成されていったのです。

 

  左千夫はそう言い、つづけて「僕の考では、前にも久保田君(堂園注:島木赤彦)の作物及び作歌態度に就て云つたことのある如く、創作理想も批判態度も、先づ意識が先に立つて、かういふ風にやつて見ようとか、かういふ事を歌にしたいとか、かういふ経路になるのが進歩であるとか、情緒的から情操的に移り、感激的から瞑想(めいそう)的になつたとか、総て計らひが先に立つ手、意識的行為に出ることが、僕にはどうしても、殊更に拵へるやうな感じがしてならないのである」と書く。

 左千夫の若い同人たちに対する不満は、ここに露呈している。つまり歌は理屈ではないのに計算ばかりしているという不満である。(中略)

 感情自然の動きの尊重と言い、言語句法の声化と言い、左千夫が言っていることは正論だった。歌はこしらえるものではなく、詩的感情がおのずから胸の中で熟した形で作品が生まれるべきだという言い方は、しかしあくまでも原則論を述べたに過ぎず、新しい文学状況に対する考察を示したものではなく、したがって茂吉以下の若い同人たちの悩みに答えたものでもないという意味では、不親切と言うほかないものだった。(p.429,431)

 

左千夫は「理屈を言うな」「短歌は叫びだ」みたいな感じで若手に怒るんですね。で、それは故なきことではないのだけれど、茂吉とか赤彦とかの若手は、当然それを煙たがる、と。いまでもよく見ますね、こういう光景。

 

ただ、「アララギ」のすごいところは、これを雑誌の論争の中で盛んに行っているところです。だから現代の私たちも、その流れが追える。で、その意見の差異をちゃんとチェックしてくと、「近代短歌」が何を担っていて、どう成立していったのかが分かる、とこういうことになっています。だから面白いんですよね、アララギ。具体的には、さっきも触れましたが、永井さんが取り上げていた篠弘『近代短歌論争史 明治大正編』でどうぞ。

 

しかし、左千夫といい、茂吉といい、なんでこの人たちはこんなに体力あるのか、と思います。「少数精鋭のとんがった同人誌、理論派で研究派で、そして超武闘派。」みたいに永井さんは言ってましたが、こんだけ内部で批判しあってりゃ、そりゃ他のグループとは一線を画していたはずです。その辺の事情がびんびん伝わってきます。

 

だからやっぱりこの本は短歌史の本でもあるんですよ。

 

あと、個人的にアララギってなんかすげえなあ、と思ったのが、左千夫の傑作を、茂吉が読むシーン。

 

時代は大正元年。茂吉は30歳くらい。左千夫は47歳、死の前年です。左千夫と茂吉の喧嘩が極まって、もうどうしようもなくなってるころです。

 

ある時、「アララギ」の編集をしていた茂吉は、左千夫から送られてきた歌稿に次の一首を発見します。

 

今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光   伊藤左千夫

 

この一首を含む連作を読んだ茂吉は、強い衝撃を受けます。

 

 要するにそのころの左千夫は、誰からも相手にされず結社の中で孤立していたのである。(略)「ほろびの光」は、左千夫に対する彼らのふだんのそういう気持や扱いに、一撃を加えるような作品だった。茂吉はじっとしていられないような感動に気持をゆさぶられながら、いそぎ足に市電の停留所の方へ歩いて行った。

――いい歌だ。

 先生は、やはり歌人だと茂吉は思った。歌の中で晩秋の風物と作者の心情は渾然と溶けあって、季節の嘆きを歌い上げていた。その季節の詠嘆が人生の詠嘆でもあるような重厚な作品だった。そのことを先生に言って上げたい、と思ったとき茂吉は突然に眼頭がうるむのを感じた。歌で結ばれた師弟という言葉が胸に溢れて来たのである。(p.453) 

 

 

「やあ、どうした?」

 左千夫は突然に庭に現れた茂吉を見て、碁石をつまんだ手をとめた。桐軒も茂吉を見た。

「『ほろびの光』を読みました。」

 茂吉は窓の外から言った。

「先生、あれは傑作です。僕は感動しました。あの歌は十一月号の話題作になります、きっと」

「そうかね」

「歌の中に何とも言えない悲傷が流れています。すばらしいです。何というか、非常に重厚で……」

「ありがとう。僕も君たちの悪口を言うだけじゃね。自分もちゃんとつくらんと……」

 と言って、左千夫は茂吉を手まねぎした。

「上がらんかね、君。そんなとこに突っ立っていないで。いま、蕨君と賭けをやってるところなんだ」

「………」

「君もやらんか。なに、大したものを賭けてるわけじゃない。負けた方が表へ行って甘い物を買って来るという約束なんだ」

 左千夫がそう言うと、桐軒が声を出して笑った。左千夫も二枚重ねの近眼鏡の奥から、小さな眼を茂吉にむけたままにやにや笑った。左千夫のその顔に、どことなく感じのいやしい、弛緩した表情があらわれているのを茂吉は見た。歌のことを考えている人間の顔ではなかった。茂吉は背筋のあたりに少し寒気に似たものが動き、感激がみるみるさめるのを感じた。茂吉は後じさりした。(p.454,455) 

 

で、こういうのがあった上で、茂吉の第一歌集『赤光』の中のあの名高い連作、伊藤左千夫の死を描いた「悲報来」になるんですね。 

 

ひた走るわが道暗ししんしんと怺(こら)へかねたるわが道くらし  斎藤茂吉「悲報来」『赤光』

 

師匠と弟子の得も言われぬ関係が、このエピソードに象徴されている気がしました。

 

 

私はいちいちチェックはしてないのですが、この『白き瓶』、文庫巻末の解説によると、資料集めまくって、小説内における情報は正確無比だそうです。なので、小説中の会話や、登場人物の気持ちの描写も、単に藤沢周平が想像で描いたものではなく、いちいち手紙や随筆から情報ソースを得ているみたいです。

 

ただ、永井さんが篠さんの『近代短歌論争史 明治大正編』の回の時に「篠さんはこの本で、一つの物語を語ろうとしていないように思います。そのぶんこちら側からいかようにも読み込める。」と書いていますが、『白き瓶』はもろ「物語」なので、そこらへんは注意したほうがいいというか、「真実」と思っちゃうと危ないところもあるのですが、そのへんを踏まえていただければ、かなり読み取りやすい本かと思います。

 

初めにも言ったように、なかなか分厚くて地味な小説ですが、ピーナツ的にはひと粒で何回も美味しい小説なので、読んでみるといいと思いますよ。

 

今回はこのへんで。それでは。