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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第45回 穂村弘『短歌という爆弾』

宇都宮敦

 

こんにちは、宇都宮敦です。ゲストです。とりあげるのは、穂村弘『短歌という爆弾』。いわゆる、ボムを投下、ってやつです(ちがう)。

 

『短歌という爆弾』は、小学館から2000年4月に刊行された穂村弘の商業出版デビュー作である短歌入門書です。2013年11月に小学館文庫で文庫化もされました。


 全体の構成は全5章(0〜3章+終章)+あとがきになっていて、各章には「爆弾」に見立てた章題がついています。「0.導火線」は、くすぶった初期衝動をかかえた人間を煽りまくる導入。「1.製造法」は、初心者の作品の批評・添削。「2.設置法」は、作品発表の場の紹介。「3.構造図」は、秀歌・名歌解説。「終章」は、まとめ、でいいのかな、0章に呼応した自身の短歌的出自を描いたエッセイ。「あとがき」は、あとがき。文庫版ではこれに、ロングインタビューと枡野浩一による解説がつきます。こうコンテンツを書き下すと、わりと穏当な入門書にみえますが、作歌法指南的な「1.製造法」の形式は、座談会とメールの往復書簡とちょっと変わったものになっています。しかも、このもっとも入門書っぽい章はメインコンテンツではなく、「3.構造図」の秀歌・名歌解説のほうにボリュームが割かれているという変さ。ついでに上の章題、もう一回見てみて下さい。「終章」、爆弾の見立てはどこにいったの(いや、いいけど、それだったら「0.導火線」じゃなくて「序章」じゃないの)? また、この「終章」、わりとあとがきっぽい感じなので、「終章」を読み終わった後に「あとがき」がはじまると、天丼感はんぱなかったりするんですよね。こんな感じで、実際読んでみると、入門書として、本として、だいぶ変わった物を読まされたなあという印象を受けると思います。

 

と、本書のアウトライン的なことを書いてきましたが、このブログを読むような人には、いまさら感漂うというか、紹介の必要がないくらい読まれている本かもしれません。とくに、「3.構造図」のいわば評論部は、単行本発刊直後からよく言及され、議論されてきました。ただ、今となっては、その言及や議論の印象に本書の本来の内容が覆われてしまっているのではないかという疑義もあったりします。というわけで、純粋な紹介というよりは、1回読んだことのある方々へ再読してみるのもいいっすよみたいな感じの文章を書きたいと思います。

 

『短歌という爆弾』「3.構造図」(以下、「3章」)は、全16節で構成されています。各節は、だいたい、名歌・秀歌があげられ、それらを名歌・秀歌たらしめている要素の抽出がキーワードの提示によってなされるという構造をもっています。既出のキーワードを受ける節もなくはないですが、原則的には各節は独立です。つまり、「3章」はほぼ各論で構成され、少なくとも目に見える形で総論は示されません。「3章」のキーワードは、そのキャッチーさゆえに数多く引用されてきました。しかし、引用される際、このような構造込みで引用されることはまれです。それらはあくまで各論のなかで名指されたものでしかなく、穂村弘の短歌観の「総論的まとめ」ではないことに注意を払うべきでしょう。とくに、最初の節「麦わら帽子のへこみ」で提示される「共感と驚異」は、砂時計のクビレの喩えとともに最も引用されたもののひとつですが、「3章」全体に戻してみると他のキーワードと較べかなり異質です。重要部を引用しながら論旨をまとめます。

 

まず、「共感と驚異」とはなんでしょうか(以下、引用末尾に記すページ番号は文庫版のものである)。

 

短歌が人を感動させるために必要な要素のうちで、大きなものが二つあると思う。それは共感と驚異である。共感とはシンパシーの感覚。「そういうことってある」「その気持ちわかる」と読者に思わせる力である。(「麦わら帽子のへこみ」p.140)
共感=シンパシーの感覚に対して、驚異=ワンダーの感覚とは、「いままでみたこともない」「なんて不思議なんだ」という驚きを読者に与えるものである。(同上p.142)

 

ここで共感と驚異と呼ばれているものが相反する価値として提示されていることがわかります。本節では、共感的秀歌の代表として俵万智石川啄木の歌があげられ、その共感がどこからくるのか分析がなされます。

 

砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね 俵 万智

 

例えばこの歌の場合、ポイントは「飛行機の折れた翼」にある。…(中略)…
 仮にこの歌のここの部分をブランクにして埋める問題を出したらどうだろう。…(中略)…多くの人は例えば「貝殻」などを選択するのではないか。

 

砂浜に二人で埋めた桜色のちいさな貝を忘れないでね 改作例

 

 体験に即しているという点では原作よりもむしろこの方が自然である。つまり多くの読者の体験と一致しているはずである。それにもかかわらず、感動の度合いでは明らかに原作のほうが強い力を持っている。「桜色のちいさな貝」では、心の深いところには刺さらないのである。読者の多くは、自分では「飛行機の折れた翼」を砂浜に埋めたことがないにもかかわらず、その思い出に対してより強い感情移入をすることができる。なぜだろう。
「翼」と「桜貝」の違いはそのまま、言葉が驚異の感覚を通過しているかどうかの違いである。おかしなたとえになるが、「桜貝」の歌がコップのように上から下までズンドウの円筒形をしているとすれば、原作の方は砂時計のようにクビレを持ったかたちをしている。この「クビレ」に当るのが「飛行機の折れた翼」の部分である。この歌を上から読んできた読者の意識はここに至って、「えっ? 飛行機の翼?」という、自分自身の体験とはかけ離れた一瞬の衝撃を通過することによって、より普遍的な共感の次元へ運ばれることになる。(同上p.142-4)

 

長くなってしまいましたが、共感には相反するはずの驚異が必要であると砂時計の喩えを用いて説かれています。「驚異なくして共感なし」、「no 驚異, no 共感」、です。


 さらに本節では、「驚異志向」の例として啄木の歌集未収録作品や「驚異と共感の共振」した例として若山牧水の歌があげられます。しかし、このとき「砂時計のクビレ」ほどのキレのある説明はされていないため、驚異がより前景化したとき、共感との関係がどうなるのかいまいち不明瞭です。


 なぜそのようなことが起きているのか。端的に言って、本書は「驚異についての書」だからです(他の節で驚異という言葉は使われませんが)。そもそも本書のタイトルは『短歌という爆弾』です。共感と驚異、それぞれに同じ体重をかけようとする人間がつけるタイトルではないでしょう。冒頭のアウトライン紹介でちょっとちゃかし気味に書いた本としての体裁の不自然さ(もっと言えば不格好さ)は、驚異を引き込むためにとられたものだというのは言い過ぎかしら。ただ、「終章」についた副題は「世界を覆す呪文を求めて」で、いくらでも爆弾喩えできそうなのに敢えてしてない印象があるんですよね。ともかく、「共感と驚異」といわれるとそれらが並列の関係にあるようにみえる、もしくは、この節だけだと前景化している共感がより上の目的(共感を得るために驚異を使う)のように勘違いしてしまいますが、むしろ、穂村弘のなかでは圧倒的に驚異が上、共感ですら驚異の感覚がなくては成り立たないものとなっています。


 ただし、他節で扱われる驚異は、本節で「砂時計のクビレ」として扱われている驚異とは別物です。

 

その際一首のなかで「飛行機の折れた翼」はあくまでも共感へ向かうためのクビレとして機能しており、多くの俵作品同様に、ここに含まれる驚異の感覚は、それ自体の純度を追求されてはいないという点にも注意したい。(同上p.144)

 

「砂時計のクビレ」としてあらわれる驚異は、いわばスポイルされた驚異です。本来の驚異はクビレのみしかない砂時計=砂時計の比喩が通用しないようなものであり、なので、それぞれの驚異に対してつどつど対峙し、その痕跡がこの「3章」となったと言っていいでしょう。ただ、驚異のなかで示されるキーワードにも重みのちがいがあることが、筆ののりかた、テンションの違いでわかります。ずばり、もっとも価値のあるものとされるのが「愛の希求の絶対性」です。というか、明言もされていますね。

 

愛の希求の絶対性は、すべての表現を通じて最も大切な要素だと信じるが、
(「どんな雪でもあなたはこわい」p.247)

 

愛の希求の絶対性については、直接抜き書きしやすいところがないのですが、「キーワードは宙(そら)の知恵の輪、すなわち愛の希求の絶対性である。」とあって、「宙(そら)の知恵の輪」はこんな感じでまとめられています。

 

宙(そら)の知恵の輪は、現実の物語の顛末や、愛の成就をすら越えて、一首の中にあり続ける。その美しさはひとえに、知恵の輪の強度、つまりそれが永遠に解けないことに因っている。
(同上p.246)

 

また、『短歌という爆弾』刊行後の「早稲田短歌32号」(たぶん2001年)に穂村弘のがっつりとしたインタビューが載っていて、web版があるのでそれを貼っておきます。記名のないインタビュアー(ズ)は、たしか永井祐さんの代(原本もってないので、「たぶん」「たしか」ばっかりで申し訳ないですが)。

 

http://wasetan.fc2web.com/32/homura.html

 

結局、『短歌という爆弾』について語ること=「愛の希求の絶対性」について語ることになっています。それにしても、ジャンプ脳なので『スラムダンク』「vs陵南戦」の例え話がわかりやすすぎて困る。ここでの話や

 

愛の希求の絶対性は、恋愛というモチーフの限定性に直結するものではなく、その希求感覚は、次章で採り上げる葛原妙子などに典型的にみられるように、狭義の相聞の枠を越えて作品世界の全体を統べる力として強烈に作用する。
(同上p.249)

 

といったところを読むと、60年前の詩人のこんな言葉を思わずにはいられません。

 

そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在(ザイン)しないものへの憧憬である。

 

引用元は、萩原朔太郎『詩の原理』。青空文庫にもあります。

 

萩原朔太郎 詩の原理

 

永井さんが何回か前のここで取り上げていた吉本隆明は朔太郎のこの言葉に対して

 

朔太郎の原論で、「そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在しないものへの憧憬である」という個処は、あきらかにわたしの詩の動機と接触する。「現在しないものへの憧憬」を「現在しえないものへの憧憬」とでも言い直せば、一致するさえようにみえる。(吉本隆明「詩とはなにか」(思潮社詩の森文庫))

 

なんてことを言っています。ほかに、吉本には「世界を凍らせる言葉」っていう有名な言葉もありますね。

 

詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。(同上)

 

このあたりのある種の詩人たちの詩の定義との共鳴から、驚異とは「詩」の別名であり、「3章」は短歌における「詩」のありかについて延々と考えていると言ってもいいかもしれません。

 

 しかし、言葉というのは現在する世界に属するものです。言葉で「現在しえないもの」、「ほんとのこと」を目指せば、コミュニケーション的な「わかりやすさ」からは離れざるをえません。ただ、伝達をあきらめているわけではない。

 

ひとつの歌と出逢うことはひとつの魂との出逢いであり、言葉の生成も変化も、すべては魂の明滅、色や温度の変化に連動しているように感じる。魂を研ぎ澄ますための定まったシステムなどこの世になく、その継承は時空間を超えた飛び火のようなかたちでしかあり得ない。ひとりの夢や絶望は真空を伝わって万人の心に届く。(「しんしんとひとりひとりで歩く」p.280)

 

砂時計の寸胴部のような共感とは、別の共感が夢見られているのです。

 

 最初に各論が並んでいると書きましたが、その各論が「スポイルされた驚異によるスポイルされた共感」から「ほんとうの共感を夢見るほんとうの驚異」に到るように配されているというのが僕が読んだ「第3章」です。

 

「再読」を勧めると言っていたわりには、「ネタバレ」しすぎに見えるかもしれませんが問題ありません。読んでほしいのは要点ではないので。評論って、大きく2つに分けられると思うんですね。ひとつは結論が検証可能な(あるいは可能性を残す)もの。もうひとつは、短歌とは何か? みたいな大きな問題を扱っていて、検証不能なもの。地道に資料に当たることや取材が必要な前者のような評論がきちんと評価されるようになってきたというのが近年の流れで、それはすごくよいことだと思うのですが、後者は後者で大事だと思うんです。検証不能だからって放言でいいってわけじゃなくて、論理で届かないものだからこそ、最後の最後に飛ぶ手前までは論理でつめなくてはいけない。検証不能な大きな話の結論って、要約したら1桁種類くらい(もしかしたら2種類?)しかなくて、『短歌という爆弾』で言っていることも、朔太郎や吉本が既に言っていることとほぼ同じだというのは上でみたとおりです。でも、そのほぼ同じことにたどり着くまでにたどる論理はそれぞれに違い、読むべきはそこにあります。キーワードの創出という名付けによって追いつめていくのが穂村弘のスタイルで、同じ大きな問題を扱うでも、若手はもっとうだうだと書きながら考えるようなスタイルを好むのかなと思うのですが(僕もそういうのも好きだし、自分が書く物はそちらに近い)、穂村弘はたんにキーワードを振り回しているわけではないことが読めばわかると思います。『短歌という爆弾』は、その「ほとんど妄想に近い」考えをたんなるオカルトにしないために、一首一首に表出されているものを愚直に読んでいった軌跡が記録されていて、まだまだ読んでおもしろい、血液の温度があがる本だと思います。

 

 一応結論までいきましたが、ちょっと長めの余談。(前景化した)共感と驚異が横並びじゃなくて、上下(驚異が上、共感が下)の関係だと書いたけど、これは『短歌という爆弾』ではそうなっているというだけで(そうなっているというか、僕がそう読んだ)、逆の価値体系もぜんぜんあると思います。「愛の希求の絶対性」基準でみれば、「スポイルされた驚異によるスポイルされた共感」と「ほんとの共感を夢見るほんとの驚異」となるものも、現在する世界でなんとか他人に「詩」を届けることを考える人にとっては「まっとうな格闘」と「ひきょうな逃避」以外のなにものでもないでしょう。何年かに1回くらいある「わかる/わからない」問題って、この立場の違いってのが多分にあると思っています(さらに短歌に「詩」なんか必要ないって立場もある)。だから「わかる/わからない」問題って、根本的には「好き/嫌い」問題なのであって、好きじゃないけど評価するってことはできるはず。啄木や俵万智に対する『短歌という爆弾』での態度はこれで、そのような共感を自分が求めるわけではないが、求めるとしたら最上のものはこれって感じで挙げられているのだと思います。これが、挙げた上でディスだったら(まさに「スポイル」とかって言葉を使ってね)、最後のほうの「愛の希求の絶対性」とか「わがまま」が分かりやすくなるんだろうけどそうはしていない。

 

 余談の余談になりそうなので戻すと、好き嫌いとか短歌に対する態度で上下はいれかわることはあるだろうけど、どっちにしてもここでの共感と驚異は横の関係にはなりません。これは、共感と驚異がもつ本質的な問題なのでしょうか。僕はそうではなくてナナメなんじゃないかと思うんですね。つまり、比べている物が違うから上下になっているだけで、それぞれに対応して横にくるべき驚異、共感は別にあると考えられると。下の図のような感じ。

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まず、クビレがないと寸胴部が認識できないなら、クビレだって寸胴部がないと認識できないはずです。「驚異なくして共感なし」なら、「共感なくして驚異なし」って話。たとえば機知をみせたい歌なんかは、共通認識がなければそれが機知だとわからないはずです。また、本来、私のものではなく世界のものである言葉によって、わたし固有のひとつの「ほんとのこと」を希求するという不可能性とは別に、ある言葉がわたしとあなたで同じものを指しているか証明できない状況で、あなたの「ほんとのこと」に触れることを希求するという不可能性もありうるはずです。図にすると下のような感じ。

 

 

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相対的/絶対的は、現実的/イデア的でも、スカラー的/ベクトル的でもいいかもですが。これだけだと態度の話で、その態度がどう表出されるかを述べるべきかもしれませんが、それは別の機会にゆずりましょう。ではでは。

 

 

宇都宮敦(うつのみや・あつし)
プロフィールはここを参照→ http://air.ap.teacup.com/utsuno/45.html