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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第49回 品田悦一『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』

超ロジカル茂吉評伝 堂園昌彦 

斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり (ミネルヴァ日本評伝選)

斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり (ミネルヴァ日本評伝選)

 

 

 

こんにちは。

 

今日やるのは、品田悦一(しなだよしかず)著『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』です。2010年にミネルヴァ書房から出ています。前々回の47回の永井祐さんのやった『万葉集の発明』と同じ著者の方ですね。

 

短歌のピーナツ、去年の4月から始めたのでそろそろ開始から一年経ちます。だいたい一年やってきて、面白い歌書も、面白くない歌書も、そこそこの数読んできました。で、ようやく最近、面白い歌書とそうでないやつの差がどういうところにあるのか、なんとなくわかってきたような気がします。

 

それは、取り扱ってる対象をあらかじめ「素晴らしい」と決めてから書き始めてる本はほぼ面白くなく、「これは良いのかなんなのかわからないけど、なんか妙だから考えてみよう」という本は、だいたい面白いということです。

 

言い換えると、「素晴らしい」に至るまでのプロセスをちゃんと書いてくれてると面白くなるのですが、「素晴らしい」から出発しちゃうと、どうも著者だけが了解していることが多すぎて読者は入り込めないことが多い。まあ、当たり前っちゃ当たり前なのですが、短歌の本は概して後者のことが多いのです。

 

もちろん、そうした評論にも示唆的なところは多々あるんですが、あんまり情緒的な誉め言葉ばかりを読んでいると、「澄み切った精神によるあらたな歌境に入った」とか、「この時期、〇〇は自己の寂しさを徹底的に見つめることとなったのである」とか書いてない本を読みたくなります。

 

で、今回取り上げる品田悦一さんの『斎藤茂吉』は、そういうのがないほうの本ですね。非常にロジカル、かつ分かりやすくてお勧めです。

 

どういう本かというと、大枠は斎藤茂吉の評伝なんですけど、具体的な内容としては、『万葉集』を軸として、いままでわりと曖昧にされてきた「国民歌人」としての茂吉の立ち位置をロジカルに切ってみせ、返す刀で茂吉の表現上の特徴もあぶり出す、という本です。評伝としてはわりと異色というか、2010年の出版当時も、賛否両論出てけっこう話題になってた記憶があります。

 

本書は旧著『万葉集の発明』をふまえて書かれるわけだが、その関係は、正編に対する続編というよりも、むしろ概論に対する各論に近い。(p.8) 

 

と、著者が言っているように、概ね、第47回で永井さんが取り上げてた『万葉集の発明』で論じられたことのラインにあります。でも、別に『万葉集の発明』を読んでいなくても大丈夫です。基本はしっかり説明してくれます。いままで歌人たちの評論がぼんやり記述してきたことを、明確な論拠を示しながら考察していて、はっきりいってかなり気持ちいいです。

 

品田さんは、序章で茂吉の文章の特徴をこう述べています。

 

 肝心な点を韜晦する反面、韜晦の身振りがやけに大袈裟で、それだけに何かが隠されていることだけははっきり伝わってくる――根が正直なのか、それともよほどの食わせ者なのか、おそらく両方なのだろうと思われるが、とにかく、茂吉の文章と付き合うには前もってこの呼吸を飲み込んでおくことが肝要だろう。(p.11)

 

「肝心な点を韜晦する反面、韜晦の身振りがやけに大袈裟で、それだけに何かが隠されていることだけははっきり伝わってくる」……、うわあ、ここらへんまじ茂吉だわ。実際、研究対象として斎藤茂吉は非常に取り扱いにくいところがあります。その辺の苦闘は、このブログの第一回で取り上げた佐藤通雅さんの『茂吉覚書 評論を読む』でばっちり出ていました。品田さんは茂吉の曲者っぷりをちゃんとわかって取り扱おうとしている。期待が高まるじゃないですか。

 

 行間が不透明でありながら同時に雄弁でもあること、それは茂吉の短歌にも通ずる性格だろう。私はなけなしの想像力と洞察力とを傾注して解読に努めたつもりだが、見極めを誤った場合がないとは言いきれない。ただし、事実と判断とをないまぜにするような記述だけはしなかったはずだから、読者諸賢はそこを的確に読み分け、各自の判断につなげてくだされば幸いである。(p.12) 

 

「事実と判断とをないまぜにするような記述だけはしなかったはずだから、読者諸賢はそこを的確に読み分け、各自の判断につなげてくだされば幸いである。」、いいですね。ヨッ! と声をかけたくなるようなロジカルな宣言です。この本はやっぱりこれまでの茂吉本からすると異色の部分が多いのですが、筆致は非常にクリアーなので、読まれて判断されるのもいいんじゃないかと思います。

 

品田さんは『斎藤茂吉 異形の短歌』という、今回の本のさらに各論を2014年に出していて、私はそっちは未読なんですが、そちらもぜひ読んでみたくなりました。

 

 

ほんとおもしろかったんでいろいろ書きたいんですが、どっから喋ろうかな。

 

じゃあ、まず、茂吉の短歌のスタートから。 斎藤茂吉は明治15年(1882年)山形県生まれ。生家はそこそこ大きい中農でした。茂吉は勉強がめっちゃできる子供で、よくあるパターンですが「神童」とか呼ばれてました。

 

で、同郷の出身で東京浅草で開業していた医師の斎藤紀一が、「男の子に恵まれないので、故郷に優秀な少年がいたら引き取って育て、ゆくゆくは養子にしたい」と漏らしていたのが、茂吉の父親に伝わり、茂吉は明治29年(1896年)に15歳で上京し、紀一のもとで寄宿生活に入ることになります。将来的には、紀一の跡を継ぎ、精神科医になることを期待されていました。

 

本格的に短歌を始めたのは、一高三年の冬、23歳のとき。正岡子規の歌を読んで魅了されたのがきっかけです。子規はそのとき、2年ほど前にすでに亡くなっていましたが、遺歌集『竹の里歌』が出ていました。茂吉はそれを神田の貸本屋で借りて読んだそうです。それ以前にも開成中学3年生のときに周りの文学少年たちが回覧雑誌を出していたのに影響されて、ちょろっと作ったりはしていたみたいですが、のめり込むようになったのは、子規の歌を読んでからのようです。

 

当時、茂吉は友人への手紙にこう書いています。

 

「小生は鉄幹が詩も分らぬながら敬服して見、信綱直文諸氏の歌も一読いたし候へしもドーモ竹の里歌が気に入り申候これも意味なき事にて、何か前世からの宿縁とでも申すべきことならむと考ひ〔ママ〕居り候」(p.53) 

 

与謝野鉄幹佐佐木信綱落合直文正岡子規……、ここらへんが明治37年あたりにはメジャーだった歌人たちなんですね。で茂吉はそのなかで子規に惹かれた、と。

 

茂吉が子規に惹かれた理由は、その「万葉調」ゆえとこれまでは言われてきました。しかし、品田さんはそれに否を唱えます。

 

子規の歌が「万葉調を混じて居る」と「断定」できた、という茂吉の回想は、まったくの作り事ではなかったかもしれない。けれども、その「断定」は、たとえば、終助詞「かも」が使用されているから万葉調だという程度の、ごく表面的な判断でしかなかったに違いない。しかも、特に印象に残ったらしい上記「柿の実の」以下六首には、その「かも」はおろか、万葉特有の語詞や語法はまったく使用されていないのだ。彼の感動は「万葉調」とは無関係だったと見ておかなくてはならない。(p.56,57)

 

「彼の感動は『万葉調』とは無関係だった」。では、茂吉が子規に惹かれたのはなんなのか。品田さんは、子規の持っていた「分かりやすさ」が理由ではないか、と分析しています。

 

では何が感動の原因だったか。私は、本人が「かういふ種類の歌ならば、僕にも出来ないことはないと思はせた」(⑥)、「従来の歌のやうにむづかしくなく、これならば私にも出来るやうにおもはれた」(⑦)と繰返し回想している点を重視したい。(p.57)

 

「従来の歌のやうにむづかしくなく、これならば私にも出来るやうにおもはれた」。あの大歌人斎藤茂吉がスタート時にはこう思っていたことは、面白いですね。もちろん、いかなる大歌人といえど、始める前は素人ですから、この感想は当たり前といえば当たり前なんですが、それでもやはり注目してもいいと思います。

 

子規の歌は何よりもその平明さ、分かりやすさによって茂吉を魅了したのではなかったか。というのも、そのとき彼の念頭にあった「従来の歌」とは、子規以前の新派和歌ではなく、中学時代に読みかじった『歌のしをり』や『山家集』に載っていた古典和歌、具体的には次のような歌々だったはずだからである。(略)

 

いつしかと明けゆく空のかすめるは天の戸よりや春はたつらん 顕仲

あかてゆく春の別にいにしへの人やうづきといひはじめけん 実清

 

 

(略)これら古典和歌の典雅艶麗な歌境が、明治三十年代の中学生の精神世界からおよそ縁遠いものだったことは想像に難くない。(略)茂吉少年の脳裏には〈歌は難しくて歯が立たない〉との悪印象ばかりが刻みつけられたに相違ない。

 その印象を『竹の里歌』が一蹴してしまったのだと思う。難しいとばかり思い込んでいた歌がすらすら分かる。そして同感できる。世の中にこういう歌もあったかと思うと「僕は嬉しくて溜らない」「僕は溜らなくなつて、帳面に写しはじめた」(略)

(p.57~59)

 

本格的にのめり込む前、茂吉の頭にあった「短歌」のイメージは、古典和歌の〈難しい〉イメージでした。それが、子規の歌を読んだらすらすらわかり、気持に同感できる。そのことが「嬉しくて堪らない」と茂吉は言います。これ、まんま現代で、穂村弘枡野浩一、あるいは俵万智の歌を読んだ読者の感想とおんなじですよね。そのことに私はちょっと感動します。

 

で、そもそもなんで子規の歌はわかりやすいのか。その背後には、「国詩/国民的詩歌(ナショナル・ポエトリー)の創出」という目的がありました。

 

出た! 「国民的詩歌(ナショナル・ポエトリー)」!! このブログで第27回新体詩の話とか、第33回落合直文の話とかでさんざん出てきましたよね。明治になって「日本」が出来たため、これまでバラバラだった各地の言語や意識を「国民」の名のもとに統一しようとする動きです。ひらたく言うと、「みんなに通じる詩歌を作ろう」というやつですね。

 

以前の話の繰返しになりますが、明治15年に外山正一らが『新体詩抄』を出版し、「国民的詩歌」を作ろうとする運動を始めます。その中には、伝統的な和歌を批判する部分がありました。

 

外山正一・井上哲次郎・矢田部良吉の三名が『新体詩抄』(初版一八八二年、丸屋善七)を刊行して以来、「国詩」創出の指針として繰り返し唱えられたのは次の四点だった。新時代にふさわしい複雑雄大な内容を盛り込むために、

 一、詩形の長大化

 二、用語の範囲の拡張

を図ること、そして国民的普及を可能にするために、

 三、表現の平明化

 四、過剰な修辞や擬古的措辞の排除

を推進することである。(p.61)

 

要するにまとめると、「和歌は短すぎ」「和語しか使わないなんて言葉限られすぎ」「むずかしすぎ」「よくわかんない凝った修辞使いすぎ」ということです。そんなのもう時代遅れっすよ、と外山らは言ったわけですね。

 

それに反応して、国文学者の萩野由之(よしゆき)・池辺義象(よしかた)・落合直文らは「いやいや、確かに平安時代以降の和歌にはそういうところもあるけど、万葉集は違うよ?」と反論します。曰く、万葉集には長歌もあるし、漢語もちょっと使ってるし、万葉のことばは当時の普通語でわかりやすいし、あと、表現も率直だよ、と言い、万葉集こそ、むしろ「国詩」の古代における先例なのだ、と持ち上げます。

 

明治の詩歌は明治のことばで創作されなくてはならない。さもないと国民的普及は期しがたい。ところでここに『万葉集』という由緒正しい手本があって、天皇から庶民までの歌があまねく収められている。奈良時代には和歌という同一の文化を国民全員が享受していたのだ。なぜそういうことが可能だったか。何よりも、小難しいことばづかいを避けたからである。今でこそ耳遠い古語となってしまったものの、当時はあれが現代語であり、日常会話に使用されるのとそう隔たりのないことばであって、万葉の歌人たちは、自身の内面を流れるそのことばを使用して、思ったり感じたりしたことを偽らずありのままに表現した。枕詞やら序詞やらはこのさい無視しよう。過剰な装飾も末梢の技巧も介在しない自然な表現こそ万葉の持ち味であり、尊いゆえんでもある――啓蒙主義的言語観に導かれて、およそこのような見方が通り相場となっていった。(p.65)

 

実際には、万葉集のことばが「当時の日常語」だったりとか、「天皇から庶民まで」あらゆる階層のひとの歌が収められている、というのは言い過ぎというか嘘なのですが、「国詩」の要請の前に、なんとか和歌を守ろうと、こういう主張をするのです。第47回『万葉集の発明』で永井さんも説明してましたよね。

 

で、子規はこれに乗っかったわけです。子規の万葉尊重は、あくまでも「国詩」、つまり、わかりやすく伝わりやすい詩歌を創り出すための手段でした。なので、子規は万葉調を奉じ、万葉集の言葉を歌に取り入れようとする一方で、現代の読者にはあまりに耳遠くわかりづらい万葉の言葉は避けていた節があります。

 

そんな感じの子規の歌の「わかりやすさ」に、23歳の茂吉は感動し、それ以後、一時期学校の成績を悪くするまで短歌にのめり込んで行きます。それで、子規の直接の弟子であった伊藤左千夫が、子規亡きあとに運営していた『馬酔木』を購読し始めます。

 

ただ、『馬酔木』の歌は、茂吉にはよくわからなかったそうで、それも面白いところです。実は、伊藤左千夫は、子規の万葉尊重の理念を誤解して、万葉集は「雅」だから良い、と子規とは真逆のことを言ってました。

 

子規は、『日本』紙上で初めて左千夫と接触したころ、和歌・俳句が国民の文学として発展すべきことを強調して、当時「春園」と号した彼を牽制したことがある(「人々に答ふ 十一」一八九八年四月、全集7)。その左千夫は、子規に没書とされた投稿の中で、人類の性質に天賦の賢愚利鈍がある以上は社会に階級が生ずるのは必然で、社会現象としての文学も階級による分裂を免れることはできない、と論じていた(「日本新聞に寄せて歌の定義を論ず」同年三月筆、全集5)。彼の発想には「国民」という観念が欠落していたのである。現に、別の投稿で「和歌は貴族の如し」などと口走って(「小隠子にこたふ」同年二月、全集5)、子規に厳しくたしなめられたこともある。

 左千夫の信ずるところ、和歌は本質的に「雅」なものであり、その「雅」の極致は『万葉集』にある。万葉時代の歌聖たちが完全無欠の歌境を達成してしまった以上、後世の自分たちはそこに少しでも近づこうと努力するまでで、凌駕したいなどと望むのは不遜も甚だしい。まして万葉の歌を「自然の調」「有のまゝの言葉」などと称するのは、歌の分からぬ愚か者の言いぐさでしかない(「歌の定義を論ず」前掲)。詩歌の史的発展を否認するこの議論は、子規の考えから見ても、当時広まりつつあった万葉像から見ても、さらには進化論全盛の当時の思潮全般から見ても、およそ反動的なものにほかならなかった。(p.70,71)

 

そんな考えなので、子規はシンプルさを狙って万葉を取り入れたのに、左千夫は逆に雅っぽさを狙って万葉集の古語を導入しようとします。『馬酔木』はまるっきり時代を逆行することになってしまいます。

 

散りばめられた古語にどういう効果があるかといえば、せいぜい厳かな印象を与えるくらいのことで、なかにはそういう印象が逆効果となっているものさえある。(略)

 要するに、最晩年の子規が憂慮していた傾向を左千夫たちが推進した結果、万葉調は仲間内だけで通じ合う一種の符牒と化して、その符牒への精通ぶりを互いに競い合うような、マニアックな空気が結社に蔓延していったのである。(p.74)

 

なので、当然、根岸派は『明星』の新詩社などに比べて、歌壇的には箸にも棒にもかかりません。

 

そういう根岸派が世間から時代錯誤の擬古派と目されたこと、そのためもあって明治期を通じたかだか数十人の弱小集団でしかなかったことは、ある意味では当然のなりゆきだったろう。(p.74)

 

ここら辺の左千夫の迷走と奮闘は、第41回・藤沢周平『白き瓶 小説長塚節』の回を読んでいただきたいのですが、それでも、茂吉は子規の影を求めて、なんとか『馬酔木』を読もうとします。

 

再三触れたように、『竹の里歌』が機縁となって作歌に熱中していった茂吉は、やがて『馬酔木』の購読者ともなったが、掲載されていた歌にはむしろ違和感が先立ったらしい。このときの印象を彼は、《この雑誌の歌は、「竹の里歌」の歌よりも、古調といふのであつて、なかなかむづかしいものであった。単にむづかしいといふよりも、私の実力では読めないのが幾つもあつたし、「竹の里歌」を読んだ時のやうな感奮をも得ることが出来なかつた》(「文学の師・医学の師」前掲⑦)、《古語をしきりに使つて、難解なものであつた。私は勝手がちがふといふ気持もした》(「短歌への入門」前掲⑧)などと繰り返し語っている。それでいて「アシビ所収の歌は皆優秀なものに相違あるまいと、堅い盲目的な尊敬をはらつて」、辞書を引き引き苦心して読んだともいう(「思出す事ども」前掲)(p.78)

 

「『馬酔木』の歌はなんか難しいし、子規の歌と違うなー」「でもたぶんこーゆーのがいい歌なんだろうなー」と思ってる茂吉がいじらしいというか、泣かせます。でもまあ、後の茂吉と左千夫との確執は、すでにこういったところに埋め込まれてたのかもしれません。

 

で、茂吉は特に『馬酔木』に入会しようとは思ってなかったのですが、ある時、自分の作った歌を同級生に馬鹿にされます。なんか、文法が間違ってたらしいんですね。当時から負けず嫌いな茂吉は、反論したくていろんな本を調べまくるのですが、それでもやっぱりそういう語法は載ってない。茂吉はやり込められた形になります。悔しくて仕方がない茂吉です。

 

でも実は、その語法は元々、『馬酔木』で見かけた使い方を真似てみたものだったんですね。諦めきれない茂吉は迷った末、左千夫にその語法の根拠を手紙で質問してみます。そしたら、なんと左千夫からすぐに返事が来ました。その説明は、左千夫らしく支離滅裂なものだったみたいですが、茂吉はすっかり感激してしまい、文法のことはどうでもよくなったとか。

 

感謝の手紙を左千夫に送り、そこに自作の短歌を十首くらい書き添えたところ、「面白かったから、5首を馬酔木に載せる」と返事が来ます。その後、遊びに来いと言われ左千夫の家を訪れて、茂吉は左千夫の弟子になることになりました。25歳の時でした。

 

 *

 

はい。ここまでが茂吉のスタート。しかし茂吉は『馬酔木』入会後、第一歌集『赤光』を32歳で出版するまで、長く低迷することになります。

 

惰性で作歌していたのかといえば、決してそうではない。大学時代の茂吉は、学業がおろそかになるほど歌に熱中し、「こんなに歌が好きであつたかと自ら思ふこともあつた」というし(「短歌への入門」前掲⑧)、そのころはもう『万葉集』も読めば『金槐集』も読み、根岸派の雑誌のほか『心の花』『明星』などにも広く目を配って、吸収できるものを吸収するよう努めていた。渡辺幸造宛の書簡には急所を突いた批評がいくつもあるから、歌を見る目もかなり肥えてきたらしい(柴生田七九)。それでいて実作がさっぱり振るわなかったのは、つまり努力が空回りしていたのだと見るほかはない。(p.91,92)

 

茂吉の習作期は努力が空回りしていた。理由はいろいろあるんですが、まずは『馬酔木』全体の擬古的な雰囲気に、違和感を覚えながらも無自覚に追随してしまったこと。そして、歌の細部に変にこだわって、全体をないがしろにしてしまったことがあります。

 

老いらくの母がはろはろ寒かろと女文字せす健やか吾は

をこ人はむなぎがぬめら握らまく習へるほどに年をへにけり

 

当時の茂吉の歌を挙げると、こういうものになります。左千夫から「君は言葉に興味を持ちすぎるね」と指摘されたとおり、言葉の響きばかりに淫して、全体の整合性をないがしろにしている作品が多いです。一首目は、「はろはろ(遙々)」という万葉語と「寒かろ」という俗語を響き合わせていますが、文体の統一感は壊されてしまってますし、二首目は「むなぎ(鰻)」という万葉語の響きの面白さに、茂吉が夢中になっている様はわかるものの、「馬鹿者は鰻のぬめらを握ろうと練習しているうちに年を経てしまった」とかいう内容は、何なのかさっぱりわかりません。「ぬめら」って何よ。鰻のぬめぬめのこと?

 

というふうに、たしかに低迷期だなあ、という作品なのですが、品田さんはここに『赤光』の文体を準備したものを見ます。これらの歌に見られるように、茂吉は万葉の言葉を、左千夫のように擬古的に「雅」なものとして捉えたのでもなく、かといって子規のように平明さを追及する上での語の拡張とも捉えていません。そういった思想的な背景はなく、単に見慣れない言葉、珍奇な言葉として面白がっています。そして、それらの言葉をまるで玩具を扱うように、撫でまわしたり、感触を確かめたりして、ひたすら味わおうとしているのです。

 

そして、こうした奇妙な言葉たちは、後に茂吉が「生きてこの世にあること自体への戦き」という根源的なテーマに出会ったときに、歌の中で異質なものとして、存在感を放ち始めます。それこそが、『赤光』の文体を作り上げたものだと、品田さんは言っているのです。

 

では、具体的に『赤光』の歌を見ていきましょう。

 

めん鶏(どり)ら砂あび居(ゐ)たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり

 

有名な、『赤光』中の一首です。真夏の白昼、鶏小屋では雌鶏らが焼けた砂を浴びている音が聞こえてくる、そこに剃刀研ぎが過ぎて行った、という内容の歌ですが、一読、異様な迫力を感じることができます。

 

まず、「剃刀研人(かみそりとぎ)」という言葉がすごい。めっちゃ異様に響きますね。

 

恥を記せば、私はある時期まで、明治大正ごろの東京には剃刀ばかりを専門に研いで回る職人がいたものと思っていた。が、どうもそうではなく、同じ人が鋏も研げば包丁も研いだものらしい。その、ふつう「研ぎ屋」と呼ばれていた職人を「剃刀研人(かみそりとぎ)」としたのは、たぶん一種の造語で、もっとも鋭利な刃物に焦点を当てたのだろう。(p.111)

 

剃刀砥人は、造語だったんですね。げー、全然気づかなかった。品田さんは塚本邦雄の言葉を引きながら、「この語が一首に『禍々しい気配』を呼び込んでいる。」と言っています。

 

また、「砂あび居たれ」という語法も異様です。これは文末が已然形になっていますが、上に「こそ」はないし、係り結びでもないのに已然形になるのは、実はヘンなんですね。

 

意味的にも、もしこの語が〈砂を浴びていたら〉という意味の条件句だったら、「砂あび居れば」が自然です。あるいは〈砂を浴びている〉といったんここで切れる終止句ならば、「砂あび居たり」とするでしょう。「砂あび居たれ」だと条件句なのか終止句なのか、わかりません。

 

万葉集には、似た用法はないでもないのですが、用例は極端に少なく、しかもその時は順接の確定条件句となって下へ続くのが通例だそうです。「砂あび居たれ」みたいな使い方は、茂吉が万葉の語法をデフォルメして、勝手に作っちゃったみたいなんです。

 

要するに、こんな言い方はないし、よくわからない言い方なので、歌意をきちんと取りづらいんですね。だが、茂吉はそれをあえて使っていて、その耳慣れない語法はかえって違和感を掻き立て、万葉っぽさを読者に印象づけます。結果、この砂浴びの異様さが強調されるのです。

 

また、「ひつそりと」の語も重要です。これは現代語で、全体の万葉っぽさの中で異分子のように働きます。万葉の言葉には促音(ッ)がありませんから、音韻的にも全体の調和を乱しています。試しにこれを「ひそやかに」とか「ひそかにも」等の古典和歌にありそうな言葉にすると、全体的に雰囲気は統一されますが、かえって張りつめていた空気が弛緩して、印象は平板になってしまいます。

 

使用語彙に沿って言えば、かつての根岸派がそうしたように、あらゆる事象をことごとく万葉語でまかなうのでは、図と地が反転するようにして、万葉語自体が見慣れたことばに転落しかねない。非万葉語の大胆な取り込みは、万葉語の異化作用を維持するための手法と解釈できるし、万葉語の側から見れば非万葉語自体が異化作用をもつともいえる。作者はおそらく手探りでこの手法にたどり着いたのだろうが、それを可能にしたのは、前章までに述べておいたような、特異な言語感覚だったはずである。(p.114,115)

 

他の根岸派(子規の追随者たち)がやったように、一首全体を万葉語とか古典和歌っぽい言葉で統一してしまうと、かえって万葉語自体が見慣れたことばになってしまい、言葉の異様さは際立ちません。茂吉は、万葉っぽい言葉と現代語を大胆に混ぜたからこそ、その「万葉調」が活きた。そして、それは言葉にやたら執着するという茂吉独特の性質が手繰り寄せた、という品田さんの分析は鮮やかだと思います。

 

しかし、なんですかねー。茂吉のすごさはよくわかったんですが、たぶん皆さんもちょっと思ったんじゃないかと思うんですが、そうすると、よく言う「文語」と「口語」の差ってなんなんだ、とか思いますよね。このブログの第25回・安田純生『現代短歌のことば』の回で、永井さんが紹介してくれたように、今の短歌の「文語」はかなり「口語」だということがわかっているのですが、この茂吉の例なんか見てても、「短歌に文語が適しているのは、1400年ずっと文語で作ってきたのだから明白だ」という言説は、どうなんだろうと思います。思いっきり明治の時代に新しく語法まで発明しちゃってますからね。

 

まあいいや、ここでは深入りしません。話をもとに戻すと、こうした、万葉語と非万葉語を衝突させ、一首のテンションを上げる、みたいな技法は、『赤光』の随所に見られます。たとえば、

 

ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終(つひ)にかへり見ずけり

くれなゐの百日紅は咲きぬれど此(この)きやうじんはもの云はずけり

にんげんの赤子(あかご)を負へる子守(こもり)居りこの子守はも笑はざりけり

 

とかいった歌では、「ダアリヤ」や「狂人」、「百日紅」(ひゃくじつこう)や「きやうじん」、「にんげん」といった言葉は、全体の万葉調の中で、音韻的にも異様に響きます(さっきも言いましたが、万葉語には、「ッ」とか「ン」とか「キャ、キュ、キョ」とか、あと「ダアリヤ」みたいに語頭に濁音がくる言葉はありません)。

 

こうした技法上のインパクトが読者にも刺さったのか、第一歌集『赤光』で茂吉は、ドカン! と有名になります。書評にも「びっくりした」「すげえ」「新しい世界だ」みたいな言葉がガンガン出ます。茂吉は『赤光』一発で、歌壇の第一人者です。

 

低迷していた茂吉がどうして『赤光』の文体を手にすることができたのか。いろいろあるみたいですが、基本は、当時森鷗外のやっていた観潮楼歌会に出て様々な作風から刺激を受けたこと、そして、学校を卒業し精神科医として働きだしたことがあるみたいです。つまり、「狂人」たちの世界に入り、「にんげん」におののいたことで、世界への違和感をするどく感受することになったのでしょう。品田さんは、『赤光』の特徴をこう評しています。

 

『赤光』とは、生きてこの世にあることを大いなる奇蹟と観じた男が、まのあたりに生起するあらゆる事象に目を見張り、戦(おのの)き、万物の生滅を時々刻々に愛惜しつづけた心の軌跡なのだと思う。そこには自明なことがらは何一つない。ことばを覚えはじめた幼児にとってそうであるように、世界は真新しく、謎に満ちている。(p.119,120)

 

 

はい、大正2年に32歳で第一歌集『赤光』が出て、茂吉は一躍スターに。しかしなんと、第二歌集『あらたま』で、また茂吉は低迷してしまいます。

 

茂吉の『赤光』の影響もあり、大正時代をかけて『万葉集』は人々の認識に「国詩」としての位置を占め始めます。と、同時に「万葉調」を標榜していた『アララギ』は、会員がどんどん増えます。弱小集団だったのは過去のこと。『明星』の時代だった明治に代わり、大正は『アララギ』の時代です。

 

アララギ』内部でも、万葉集の位置は微妙に変わっていきます。伊藤左千夫亡きあとに『アララギ』の編集を取り仕切っていた島木赤彦は、万葉集に道徳的な観点を見て、人格の陶冶と短歌の上達を一致させる「鍛錬道」を唱えていきます。要するに、『アララギ』の中で『万葉集』は、どんどん聖典化していったということです。

 

茂吉は『万葉集』に言葉の面白さの側面だけを見ていて、こうした啓蒙的・政治的な見方はぜんぜんありませんでした。茂吉は基本ことばにしか興味のない人で、たぶん本質的には政治とかに関心の持てないタイプの人間です(このへんの話は、第21回 岡井隆・小池光・永田和宏『斎藤茂吉――その迷宮に遊ぶ』でも出てきました)。だからこそ、万葉集の言葉をある意味自分勝手に拝借したりすることができ、それゆえ、現代においても古語のポテンシャルを活かすことができました。しかし、アララギ内部のこうした変化や、「万葉調の茂吉」みたいに人々から言われたことをきっかけに、茂吉自身も「やっぱり万葉集の言葉には忠実にならなければならない」と、伝統主義的な価値観に陥ってしまいます。

 

あと、さっき説明した、『赤光』にあった文法的には意味がつながらないというか、無理しているところは批判も受けて、茂吉自身もそこをけっこう気にし出しちゃうんですね。『あらたま』を出したのと同じ年に、茂吉は気になるところを直しちゃった『改選 赤光』を出版したりします。

 

こうして、『あらたま』後期からそれ以後にかけて、茂吉の文体は急速に枯れていきます。そして、どんどん歌が作れなくなります。それもそのはずで、「幼児のように世界を異様なものとして見る」という茂吉本来の性質から外れたことをやろうとしているのですから、モチベーションはどんどん下がっていきます。

 

汗(あせ)いでてなお目(め)ざめゐる夜(よ)は暗(くら)しうつつは深(ふか)し蠅(はへ)の飛(と)ぶおと

 

いささかの為事(しごと)を終(を)へてこころよし夕餉(ゆふげ)の蕎麦(そば)をあつらへにけり

 

 

『あらたま』後半の歌は、こんな歌です。『赤光』とは明らかに違うのがわかります。こうした作風は、当時もアララギの有力同人には「円熟味が出た」と高い評価を得られ、現在でも同様の見方は多いです。

 

しかし、茂吉本人としては、これ以後作歌が不振になってしまい、ついには、第二歌集『あらたま』の編集さえ諦めかけてしまうのです。

 

僕の第一歌集「赤光」を編んだ時、自分の歌の不満足なのをひどく悲しんで、どうしようかと思つた。それでも「赤光」を発行してしまふと、「赤光」以後の歌は僕の本物のやうな気がして、第二歌集には今度こそいい歌を載せられるといふ一種の希望が僕の心にあつたのである。そこで未だ発行もしない第二歌集に「あらたま」などと名を付けて、ひとり秘かに嬉しがつてゐた。〔……〕

 さういふことをいろいろ思い出してくると、「あらたま」の編輯にまだ手を著けない前は、「あらたま」の発行に就てなかなか気乗がしてゐたことが分かる。優れた歌集になるやうなつもりで居たのである。然るにいよいよ編輯をはじめてからは、刻々にその希望が破壊されて行つて、編輯の了つた今では、希望のかはりに只深い深い寂しさが心を領してゐる。その間に人知れぬ煩悶もあつたのであるが、今ではそんな心の張りも無くなつてゐる。編輯の長引いたのは、途中で自分の歌を見るのが厭になつたからで、思出したやうに雑誌の切抜などをひろげて纏めかかると、数首読んでゆくうちにもう厭になる。厭で溜まらぬから改作しようとすると到底思ふやうに行かない。そこで放擲してしまふ。手を著けては中止し中止ししてゐたのが、このたび病になつて山中に転地したために、一週間ばかり毎日少しづつ為事をして、どうにか纏めてしまつた。   〔「あらたま編輯手記」前掲〕

 

こうして、なんとか大正10年(1921年)に40歳で「どうにか纏めて」出したのが、第二歌集『あらたま』でした。

 

万葉集』は、単に見慣れないことばに富むだけでなく、真の意味の技巧の宝庫でもある――マンネリ打開の道を求めていた茂吉は、この“発見”にも励まされて、『万葉集』に全面的に帰順することを決意したのだろう。以来、修練の第一義を先人の技巧の体得に置く反面、大胆なことばの実験にはあえて挑まなくなっていったのだと思われる。

 創作者としての内発的要求と、同時代の思潮とが合致するかに見えたこと――茂吉が名実ともに万葉調歌人となろうとした理由はそこに求められるだろう。陥穽は、自らの資質を裏切るこの転向を本人が「自己本来の道」(柴生田七九)と信じ込んだ点にあった。(p.176,177)

 

実際、36歳~40歳の長崎時代、40歳~43歳のドイツ留学時代には、茂吉はほとんど歌を作っていません。本人的には、短歌はもう余技として時々やるくらいで、本分は医師として学究生活に入ろうとしていたみたいです。

 

あの「短歌の権化」の茂吉が三十代後半から四十代半ばにかけて、いったん短歌を諦めかけてたのは、けっこうびっくりしますよね。例の「実相観入」などを唱えだしたのも実はこのころで、品田さんは、作品の不振の代償行為として、評論を充実させたのではないか、と分析しています。

 

短歌を完全に止めたわけではないのですが、茂吉の歌集はこの後長く出版されず、次に出た『寒雲』は昭和15年(1940年)と、『あらたま』の発行から実に19年も経っています。

 

 

さて、こっからもまた面白いのですが、全部書いちゃってもあれなので、このへんにしときましょうか。これでこの本の前半はんぶんくらいです。後半も、ドイツ留学から帰って来るちょうどその瞬間に青山脳病院が焼けてしまうことで目指していた医学生活が閉ざされ、結果的に短歌にカムバックしていくこととか、島木赤彦が亡くなることで、『アララギ』を茂吉1人が担うことになった結果、元々そんなに詳しくなかった『万葉集』を説き、「国民歌人」としてのアイデンティティーを担わざるを得なくなった過程とか、茂吉と赤彦の写生論の違いとか、非常に興味深いです。

 

あと、茂吉と戦争に関する記述も、茂吉が戦争詠を「未開の地」と捉えて、創作上の好奇心から積極的に詠おうとしていた、とか非常によくわかりますし、「文学的良心」が戦争協力と矛盾しなかった話とか、戦後、戦争責任に対する非難をまったく理解できず、ただただ不条理なものとしてしか受け止められなかったことなど、「非政治的人間」茂吉の、ある意味での一貫性を見ることができます。

 

この本、かなり驚きがあるのですが、その分析はきめ細かくて、すごく説得力がありました。ぜひ、原文で読んでみてください。それでは。