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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第50回 続 品田悦一『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』 

永井祐

こんにちは。

 

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

 

 

今回はもう一回、品田悦一『万葉集の発明』をやります。

一回でおわるのがもったいない気がしたからです。

と思ったら、前回では堂園さんも品田悦一さんの本を取り上げていました。

ブログは「春の品田まつり」のようになっていますが、まあいいでしょう。

 

この本は三章立てになっていて、

第一章 天皇から庶民まで―『万葉集』の国民歌集化をめぐる問題系

第二章 千年と百年―和歌の詩歌化と国民化

第三章 民族の原郷―国民歌集の刷新と普及

となっています。

第47回でやったのはこの第一章。今回は第三章の後半の島木赤彦の万葉観についての

ところをやろうと思います。

この本において島木赤彦はある種とくべつな位置にあります。

それは彼が、「国民歌集・万葉集」というコンセプトを最も熱く生きた人間だからです。

 

複雑なので上手くいくかわかりませんが、やっていきましょう。

 

前回やったのは明治の話。時代は下って今度は大正です。

学制が発布されてから約半世紀、中等教育機関への進学率は徐々に上向き、読書人口は増大していた。

万葉集』のテキストもいろいろ種類が出てきて、文庫的なものも出回っていた。

明治時代のエリートたちによって構築された国民歌集としての万葉集は、学校教育をもとにしながら、その外へとどんどん読む人を増やしていった。

 

明治ナショナリズムの構築物は、こうして観念としての本質を表面上消し去りながら、その実、人々の感性や美意識の領分にまで食い込んでいったのである。この、国民歌集の大衆化/内面化の過程の中心に位置していたのが、赤彦率いるところのアララギ派であった。

 

アララギの万葉尊重は短歌史的にも有名な話ですが、それは日本人の万葉観が出来ていく過程の中でも外せないような大きなものだったんですね。

この本では、折口信夫、伊藤左千夫、斎藤茂吉の果たした役割がそれぞれ解説されますが、

団体としてのアララギの中心にいたのが島木赤彦でした。

 

大正期におけるアララギ派の急成長は、文学上の流派の興亡という次元では決して捉えきれない。事態は一個の社会現象として解明されなくてはならないが、従来そうした見地からの接近はほとんど試みられていない。万葉尊重の方針が広汎な支持を得たことまでは誰もが認めるところなのだが、十数年間の沈滞がなぜこの時期に克服されたのかという点についてさえ、説得力のある説明はまだなされていないと思う。

 

少数精鋭時代のアララギの話はピーナツでもやりましたが、この時期にどんと規模が大きくなった。

品田さんの仮説では、前回やったような、「国民歌集としての万葉集」を学校で教えられた人の数が、この頃すでに五十万人にはのぼっていたという事実が大きいのではないかとのことです。明治にまいた種によって土壌ができていたということですね。

が、それを検証する準備はないとのことで、典型例として中心人物の赤彦の分析が行われます。

 

島木赤彦は1876年(明治9年)生まれ。父親は長野県の小学校教員でした。

自身も学校を出てからは地元の小学校の教員をやりながら詩歌の創作をしていた。

はじめは新体詩の投稿とかをしていたのですが、だんだん短歌にはまってきて伊藤左千夫と緊密な交流を持つようになる。そして創刊時に「アララギ」に参加。

1913年(大正2年)に伊藤左千夫が死ぬと妻子も仕事も置いて単身上京。「アララギ」の編集に心血をそそぐ。

赤彦は結社の経営、門弟の獲得ということかけては抜群の才能を発揮した。

そして万葉集を崇拝した。

 

万葉集ヲ勉強シタマヘ歌ノ聖典コノ以外二ナシト深ク信ジテ只々一途二万葉集二没頭シタマヘコレカラ出発セネバ有難キ歌出来申スマジ(1915年・門弟宛ての書簡)

 

ちょっと宗教っぽいですが、

 

愚直とも見える彼の言説は、ある種の人々を辟易させた反面、別の人々にはかえって説得力を発揮して、周囲に集う人の輪がみるみる拡がっていった。

説得されたのはどのような人々か。むろんさまざまのタイプがあったわけだが、特に注目されるのは、教職に就いていた人が相当の割合を占めるという点だ。

 

 

さっきも出ましたが、赤彦は小学校教員だったし、校長もやってるし、諏訪郡視学(旧制度の地方教育行政官)もやってます。教育界との縁は終生切れることはなかったそうです。

その教育関係の人脈からどんどんアララギに入れていた。

 

上京してからは「アララギ」に心血をそそいだと言いましたが、

実は上京後も教壇に立っているし、信濃教育会の機関誌『信濃教育』の編輯主任までやって、教育関係の論説をそこに発表したりしていた。

 

赤彦はこのように、生涯を通じて教育者の顔をもちつづけた。というよりも、歌人/文学者の顔と教育者の顔とを使い分けようとしなかった。彼の教育論にはしばしば『万葉集』や、子規や、鷗外が引き合いに出される。かと思うと、歌論や万葉論がいつの間にか『論語』の話へ流れ、教育論にすり替わってしまう。二つの分野の区別など、本人はなんら意に介していなかったらしい。

 

それはわりとやばい感じがするのですが、ともあれ、赤彦が本質的に教育者だったことが一番大事なポイントになります。

 

赤彦が短歌について語るときに出てくる語彙、「鍛錬」「感銘の集中」「主観の統率」などなどは、当時の教育学書、英米系の心理学説に依拠した書物から仕入れられたものだろうと品田さんは言います。

赤彦の歌論では「鍛錬道」という言葉が有名で、わたしは名前にびびってちゃんと読んでいないのですが、すごくおおざっぱに言うと、

鍛錬された心が物事に一心集中して向かい合う。その力がいい歌を生む、みたいな話です。

従来の赤彦研究者だとこの「鍛錬」を儒教思想の影響と説明して済ますことが多いそうですが(本人も似たようなことを言っている)、それでは解くことができない。

 

教育学の分野で「鍛錬」といえば、このように、児童の自制心や品性を高めるための訓練、つまり英語でいうdisciplineのことだった。

 

ほかにも、「日本人は元来体慾の旺盛な人種であった。従つて官能の働きが熾烈であつた」とか、「肉や感覚機を統率する所の強大なる主観」の働きを追求すべきとか、独特の言い回しをするのですが、これらはみな教育学系の心理学の述語に根をもっていた。

 

鍛錬説を編み出した赤彦の思考は、東洋思想どころか、実は英語系の翻訳語群に支えられていたのだ。”作歌という行為を成立させるサブジェクトが自身に適切なディシプリンを加え、旺盛なアペタイトとセンスの作用を一点にコンセントレートすることに成功したとき、至高の歌境がひらける”というのが、その思考の筋道だった。

 

「鍛錬」はこの本にそって考えると、短歌をつくる主体(サブジェクト)を作り上げる訓練というニュアンスになります。そして彼の中では教育と短歌が一つのことですから、

 

小学校ワ国民養成場デアル。即チ、国民トシテ最、完全ナル人物オ養成スル所デアル。(「玉川村村勢調査」)

 

このような教育観、「ちゃんとした国民を作り上げる」という教育の目標と、作歌の主体の心を鍛錬するっていう話が同じこととして彼の中にあったということになります。こういう教育観は1890年代のナショナリズム昂揚を背景に普及した考えで、当時の教育者たちに広く共有されたものだったそうです。今では人に引かれると思いますが。

品田さんはこんな風にまとめます。

 

(略)「写生」「全心の集中」「直接表現」を実践する主観(サブジェクト)、つまり作歌の主体(サブジェクト)をどう確保するかを問題にした点に、赤彦の教育者らしい着眼があった。その答えが「鍛錬(ディシプリン)」だったのだ。そこには、短歌の国民化を<国民の歌人化>によって果たそうする構想が含まれていたと見られる(略)

 

ちなみに斎藤茂吉などは作歌をもっと個人的な営為として考えていて、赤彦のこういうノリに違和感を覚えているふしがあったそうです。

 

そして万葉集について。

赤彦は素朴な万葉崇拝者ではありませんでした。

赤彦が三十代のころの伊藤左千夫との対立においてはこの点が争点になります。

左千夫と赤彦は、「原始的な、情緒的な感情の生活」とか「古代日本人の赤裸々な肉体や心の生活」とかいった万葉観においてはおおむね一致していましたが、

その万葉的な直情の表現が現代に通用するかどうかという点で真っ向から対立しました。

 

左千夫の万葉尊崇には一点の曇りもない。歌は「叫び」を目指すべきである。『万葉集』は「叫び」の歌の宝庫である。ゆえにわれわれは万葉を手本とせねばならぬ、というのだ。一方、赤彦に言わせると、万葉時代の感情生活は現代人にとってはすでに「失われたもの」であり、われわれはそれを「追憶して尊く思ふ」しかないということになる。これは事実上の万葉離れの主張にほかならないし、左千夫の目にもそう映ったに違いない。

 

のちには万葉集聖典視するようになるものの、現代歌人としての赤彦は万葉集の歌そのままでいけると考えていたわけではなかった。

 

子どもらのたはれ言(ごと)こそうれしけれ寂しき時に我は笑ふも 島木赤彦

 

わが家の池の底ひに冬久し沈める魚の動くことなし 同

 

これらの歌に品田さんはこうコメントします。

 

万葉語を織り混ぜるとはいえ、これら生活詠・自然詠に表現されたものは本質的に近代的な境地であり、外界の事物を凝視する視線に融かし込まれた自意識や、その自意識が感傷に向かおうとしながらも流路を堰かれて内攻した姿であって(略)。『万葉集』にこんな歌はない。

 

このように赤彦の中では万葉集聖典視する部分と、現代の実作者として自分の歌を作っていく上での構えが一見矛盾して存在していました。

そしてこれを解くためのロジックもやはり、彼の教育者として思想から得られます。

次は左千夫との論争の過程で出された文章の一節。万葉集一点張りの左千夫に対して、「それはもう失われたものなんだよ」と言っている。

 

我々は子供の時に力限り泣き、力限り笑つた。今ではあのやうな泣き方や、笑ひ方は出来ない。(略)あのやうな純一な泣き方や、笑ひ方が我々の一生に通じて失はれなかつたならば、我々はいつも原始的な神の生活が送られるのであらう。しかし我々は実際に於て、何時迄も左様な単純一途な感情に住してゐる訳に行かない。せち辛い人情の流れに住して、そこに境遇の変転を見、そこに世故の悲惨を嘗めて、単純なる感情は幾多の曲折と幾多の研練を歴ねばならない。[・・・/]その代わりに神は我々に別趣なものを与へた。強みのある単情の代りに深みのある情趣を与へた。発作的な感激の代りに瞑想的な感傷を与へた。叫び呼んだ泣き方が涙を呑む泣き方に変わつたのである。[・・・]心理学者が情緒と情操とを区分して考へるのも是である。情緒は動的に激しいものである。情操はそれに比べて静的にしみじみしたものである。[・・・]失はれたものは尊いものであつた。併し、与へられたものは更に深く有難いものであると云へる。[・・・/・・・]我々は決して新しいもののみを認めて、旧いものを認めぬといふのではない。夫れは我々が原始的な、情緒的な感情の生活を追想して尊く思ふのと同じである。只夫れと共に近く発生した生き生きした新しい運動を更に愉快に有難く思ふのである。離れて味ふ歌。叫ばずして沈吟する歌。騒がずして沁み入る微動の響き。眼を閉ぢて瞑想さるる動き。強みよりも深みのある情趣。斯様な色調を帯びて生れ出て居る新しい芽ざしが今後どのやうな発育を遂げるのであろうか。

 

ここから赤彦が教育学系の心理学説から摂取した論点が洗い出されます。

まず、感情の発育/発達過程に「情緒」と「情操」という二段階を設ける点。

赤彦も在学していた師範学校(教員を養成する学校)の教科書には、イギリスの心理学者の書に依拠した、そういう記述があるそうです。

 

「情操」は、このように、もともと<真善美にわたる高尚な感情>を意味する総合的な概念で、そこには芸術的な感受性ばかりでなく、知的好奇心や正義感のようなものまでが包摂されていた。現在でも時おり耳にする「情操教育」の「情操」なのだ。

 

わたしは教育学はかじったこともありませんが、その「情操」に聞き覚えはあります。

さらに、個人の発育史と人類の発達史とを類比的に捉える点。

つまり、「子供から大人へ」と「万葉びとから現代人へ」をパラレルに捉える視点のことですね。

こういう考え方は欧米の教育思想には古くからあり、一九世紀の教育学者たちのあいだで広く支持されていたそうです。これが日本に輸入されていて、教育界ではけっこうメジャーな考え方だったみたいです。

こういう風に、さっきの赤彦の文章のベースの部分は、どれも明治後期の教育学界の概念系に出自をもっていた。

 

そしてそこに、赤彦独自の考え方が付加されている。

赤彦は師範学校を出てから十年目の春に、児童の粗暴な行動にどう対処すべきかを論じた、「動物性と人間性」という教育論を発表しています。

 

「感情を情緒と情操とに分てば、情緒は大体に於て動物性にして、情操は人間性であると云ひ得る」

「特に児童期に属する小学校時代の被教育者にありては、自然の発達上動物性感情の高潮なる時代である」

「教育の目的は勿論真善美の高尚なる感情を養成するにある。併し真善美の情は根底なくして忽焉として養成されるものではない」

「動物性感情の旺盛なるはやがて人間性感情の旺盛を来すべき階段である。此の間に立つて教育者の執るべき用意は只指導である。抑圧ではない。矯正である。刈除ではない。思慮ある助長である。角を矯めぬ修正である。」

 

 

赤彦はこのように、感情発達史の初期段階を格別重視する立場を打ち出し、その立場から「動物性感情」つまり情緒の尊重を主張していた。

 

赤彦の見るところ、情緒はそれ自体としては低級な感情であるものの、同時に、情操という高次の感情を根底で支えるものであって、この土台がしっかりしていなければ立派な建物など建ちようがないのだった。子供のころ思うさま笑ったり泣いたりしたことのない者が、成長してからどうしてあくなき探究心や、堅固な正義感や、優れた芸術的趣味や、その他もろもろの豊かな心の持ち主となれよう。情緒こそあらゆる精神活動の源泉であり、人間性の原典でなければならぬ―この思想は、しかも、個々人の発育と人類の発達の双方に、同時に妥当するはずなのだった。

 

そして彼は教育論と歌論の区別がない人だから、

 

国民歌集『万葉集』は、まさにこの脈絡において、どこまでも歌の聖典でなくてはならなかった。万葉以来の伝統とは、万葉めいた歌が詠まれつづけるということではない。むしろ逆に、歌が新しくなればなるほど、ますます『万葉集』の存在が重みを増してくるのだ。歌ばかりではない。社会が進歩し、人々の感情生活が複雑化すればするほど「万葉びと」の素朴な感情生活に触れることが重要な意味を帯びてくるのである。

 

ここでさっきの個人の発達史と人類の発達を類比的に見る視点にもとづいて、さらに「教育」と「短歌」の区別がない思考回路によって、赤彦の万葉尊重が成立する。

人間の発達の土台になる「動物性感情」の重視が、短歌における古代の万葉集の尊重につながる。それを大切にしなければ、立派な人間/作歌主体にはなれない。

まとめです。

 

改めて鍛錬説について言おう。赤彦がそれを提唱した最大の意図は、万葉尊重と万葉離れとをつなぐ点にあったと考えてよいだろう。情緒的感情を情操/情趣の水準に引き上げるには鍛錬(ディシプリン)が必要だ、とこの教育者は考えた。万葉時代の人々は単純一途な原始的感情に生きていたので、詠み出でた歌々におのずと緊張した響きが備わったが、複雑化した現代社会に生きるわれわれにとうていその真似はできない。意識的に自己の精神を鍛えるのでなければ、散漫になりがちな感銘を一点に集中することは難しいし、まして成熟した歌境の開拓はおぼつかない―「鍛錬」説は、このように、作歌上の方法論として提出されながらも、本質的には修身の論であり、同時代の国民の精神をいかにして高めるかという議論であって、ありていに言えば、生温い気分を叩き出せという議論であった。

 

実はまだ続きがあるのですが、このへんで一段落にしたいと思います。

この赤彦論(作家論ではないと品田さんは書いていますが)はすごく鮮やかだし、

なんだろう、一人の人間のなかで「短歌」とか「教育」とか「国民」がここまで絡み合うのか、と思ってわたしにはとても印象深かったです。

あと、今は品田説自体を検証することはできないので、もうちょっと自分で赤彦のものを読んだら、それと付け合わせてみたいですね。

 

それにしても、「動物性感情」の重視のところは赤彦独自のもので、「一般的な考え方ではなかった」となってるのですが、小学校の先生でこんなこと考えてそうな人はわりといた気がします。わたしはけっこう落ち着いた子供でしたから、「こんなにテンションが低くては立派な人間にはなれない」とか思われてたのかもしれません。ほんとうに大きなお世話ですね(言われてないけど)。

赤彦は高校とかじゃなくて小学校の先生だったのも大きいんでしょうね。

 

わりとディープな話になりましたが、なにかの参考になれば。

 

ではまた。