短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第51回 内野光子『現代短歌と天皇制』

牛尾今日子

 

こんにちは、わたしは牛尾今日子と申します。ゲストです。

 

去年の、いわゆる天皇陛下のお気持ち会見、そして平成が終わるという話は、みなさんの記憶に新しいことと思います。今回とりあげたいのは、天皇制と短歌の話です。

 

天皇制の話は、宗教的(あるいは宗教そのもの?)で、根深いものがあって難しそうだなあと思っていましたし、今もそうです。これまでは遠くのことのような気持ちで棚に上げていたのですが、天皇制や戦争の話に正面からぶちあたっている演劇 *1を見て、その作品をめちゃくちゃ好きになったので、いま天皇の話にとても関心を持っています。

短歌においても、むしろ短歌の場合はさらに、「(歴史的背景を踏まえながら短歌をやっていこうとすると天皇制に関する問題は無視できない)という感覚」(瀬戸夏子「東京2020にも君が代ならば君のかかとの桃色がいいさ」『率』幕間)という風な立場があります。これは昔から存在した議論だと思うのですが、まじめに受け取ろうとしたときに、わたしはこの立場をさっぱり理解できていないことに気が付きました。

 

例えば、短歌をやっていくうえで社会や政治とは無関係でいられない、という立場だったら分かります。というか私自身その立場をとっているつもりでいます。

なぜなら、私という個人が生活していくうえで、その生活は社会や政治に影響されるので、これらを無視することはできない、さらに、私が歌を作ったり読んだりすることと私の生活とは切り離せないからです。

 

天皇制の場合はどうでしょうか? 

確かに短歌は、過去から現在にいたるまで、天皇家と関わりの深い芸術です。しかしそのことと、わたしたち個人が短歌をすることとの間には、どういう意味で関係があるのか。天皇制がどういうものなのか、短歌や歴史のなかでどういう意味を持ってくるのか、等々、わたしには分かっていないことが多くあります。

歴史的背景を踏まえながら短歌(あるいは芸術)をやっていこうとすると天皇制に関する問題は無視できない、というのがどういう意味で主張されるのかを分かりたいです。それができないと、同意することも反対することもできません。

 

というわけで、短歌と天皇制というのがどのような関係にあるのかというのを考えていくために、いろいろ知識や議論を仕入れていきたいです。

 

  *

 

前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。

今回取り上げるのは、内野光子『現代短歌と天皇制』(風媒社、2001)です。序章から第二章までが戦後や天皇制などに注目した文章を、第三章四章は時評などの短い文章を集めた評論集です。まだ読めていないのですが、内野は『短歌と天皇制』(風媒社、1988)という評論集も出していて、天皇制や権力の問題にずっと注目し続けている人だと言えるでしょう。

 

現代短歌と天皇制

現代短歌と天皇制

 

 

内野が前提にしている短歌と天皇制についての問題意識が共有されていないことや、ばらばらの文章だったものをまとめた評論集という形態などから、あまりすっきりしない読後感でした。というか正直に言えば、納得いかないところや、詳細や論理が分かりづらいところもありました。この本は80、90年代の評論が中心で、著者は1940年生まれ、私は1994年生まれです。知識量の問題はもちろん、戦争や安保闘争はもとより、89年の昭和天皇崩御や93年の岡井隆歌会始選者就任、皇太子ご成婚など、経験してきたことからくる世界観も大きくちがうのでしょう。

 

読み終わっても前置きした疑問は解決してないし、知らないことが多すぎるテーマを扱うのはどうかとも思ったのですが、こういうのはやっていくしかないと思うのでやります。考える材料になりそうだと思った第二章「歌会始と現代短歌」を中心に紹介していきます。よろしくお願いします。

 

  *

 

 1993年、岡井隆歌会始の選者に就任しました。

文学であるならば、天皇制と結びついた国家権力に守られたくない。民衆の下からのエネルギーで守られてこそ、その資格があるのではないか。これまでそうだったから、このままでいいとは言えない。いや、現代短歌のためには、このままでおくべきではないのだ

(「歌会始は誰のものか?《特別記事》」『短歌研究』1959.3)

 

本来これは宮中の一儀式でしかない行事であり、民衆の生活とのつながりから言えば、新聞が特に報じなければならぬほどの行事とは思えぬ。それがそうなっておらぬ所に新聞ジャーナリズムの皇室関係をとりあつかう手つきの異常さ、いやらしさがあるのではないか。

(「非情の魅力について」『現代歌人』1960.5)

 

過去の岡井は、歌会始について上のように述べていました。しかし歌会始の選者に就任した彼は、次のようにインタビューに答えています。

 

昭和から平成にかわって、天皇家の象徴性は昔ほどでなくなっていると思います。同時代に反権力を歌ってきた歌人らが選者になる日も遠くないでしょう。わたしとしてはそれを望んでいます。

(1992年9月4日『朝日新聞(夕)』〈大阪本社版〉)

 

内野は、かつて岡井が述べた歌会始の権力性は現在にもそのまま当てはまるものだとして、彼の変節を批判します。岡井の転向について、本人の文章や起こった論争をいろいろ確認していくのはとても面白そうなのですが、今回引用した岡井の文章は孫引きです、すみません。

 

ここで問題にされている、歌会始を取りまく権力とは、いったいどういうものなのでしょうか。

説明するまでもないことと思われたのか、断片的にしか触れられていません。その前提に少しでも接近したいというのが私の目的なので、もう少し読みながら推測してみます。

 

つねに時流に乗り、ジャーナリズムで脚光を浴びながら仕事をするということは、なしくずし的に自説を変えて行くことにほかならない。そして、過去のある時点の考え方とまったく正反対の立場をとるに至ったとき、その説明責任を放棄するならば、もはや開き直るしかない。その彼(引用者注:岡井隆)の心中には、かつてもっとも嫌った権威主義と、あらたな自己顕示欲が渦巻いているのだろうか。

内野は上のように岡井を非難します。

わたしは、岡井の「天皇家の象徴性は昔ほどでなくなっている」あたりをもっと掘ってほしかったのですが、それは「国家や皇室との関連をなるべく軽視したい口吻」と流されてしまいました。

 

いま取り扱っているのは、第二章第一節の「「選者」になりたい歌人たち」なんですが、なぜか終盤で歌壇において、有名歌人に各賞の選者が集中していること、有名歌人間で賞の授受がなされていることへ議論が移ります。国家から与えられる文化勲章芸術院賞、芸術選奨紫綬褒章についても、これらの賞を「抵抗なく祝福」する歌人たちへ次のように疑義が呈されています *2

この無抵抗こそが、ご都合主義を、事大主義を容認し、第二、第三の岡井隆を送り出すことになるのではないか。

 事大主義っていうのは長いものに巻かれることみたいですね。

例えばわたしたちが新人賞に応募するのも、あるいはうたらばに応募するのでも、選ばれることに価値があると認めているからです。

選ぶ―選ばれるということは権力の構造として考えられます。本書を通して、内野は「馴れ合い」、「みんな仲良く、お互いに褒め合うばかりで、さまざまな短歌賞の授受に終始する」、「事大主義や権威主義の充満している」と、選ぶ―選ばれるの権力構造に沿っておもねりが発生していると糾弾します *3

 

先ほど引用した、ジャーナリズムで脚光を浴びるために自説を変えて行く、という批判も、おもねりを忌避するという同じ視点から行われているのでしょう。

 

まとめてみるなら、歌会始の選者に選ばれるということの背景には、選ぶ―選ばれるという権力構造、そしてジャーナリズムで注目されるための権力への迎合やおもねりにつながる、ということでしょうか。

 

  *

 

歌会始には、そして、天皇が作った短歌が発表されるということには、今まで見てきたこととは別の問題系があります。

天皇の作った短歌が天皇のお言葉として解釈され影響力を持ってしまう、ということです。

 

その前に歌会始について少し確認しておきましょう。

そもそも歌会始とは、これも当たり前って感じなのかあんまり説明されていないのですが、宮内庁のホームページによれば、こういうことです。

天皇がお催しになる歌会を「歌御会(うたごかい)」といいます。宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会としてお催しになる歌御会を「歌御会始(うたごかいはじめ)」といいました。

 

今年の短歌研究の1月号2月号では、今井恵子さんが歌会始がどんなものなのかという話をされていましたね。

 

内野の記述では、『入江相政日記』(全六巻)が重要な役割を果たします。入江相政(すけまさ)は、1934年から85年まで、侍従、侍従次長、侍従長職を務めていた人です。歌を作ったり随筆とかも書いていたみたいです。

冷泉家の分家として入江家という家があり、旧華族の中でも昇殿が許されている家柄なんだとか。侍従というのは、天皇などの側近ということみたいです。

〇〇家とか、華族とか、侍従とかってほんとにあるんですねという気持ち。

だから『入江相政日記』というのも、

(入江日記の)取捨の基準は、「凡例」によれば、歴史的重要事項、昭和天皇公私の行動・発言、皇室行事・日常生活、天皇一家・皇族の動静、宮内庁(省)・職員の動静、入江自身の思想・信条・人物像、をよく表している記述があるか否かに拠ったという。

という風な記述が重要視される、昭和のことを考える資料みたいな感じなんですかね。

 

ともかくも戦後、宮内省 *4の機構は段階的に縮小されて、歌会始の改革も行われます。

そのとき相政は歌詠課の課長に就任し、日記には、「新派の歌人を四、五選者として御命いたゞいては如何と思召をうかゞつた処、至極よいからそのやうにせよとの仰せ」(1946.5.30)とあります。

実質的には川田順、佐々木信綱と相談しながら、翌年(引用者注:47年)の”新生”歌会初めの選者は、千葉胤明、鳥野幸次の旧寄人と、信綱、斎藤茂吉、窪田空穂に決定したことがわかる。

 

そして1950年には、斎藤茂吉、窪田空穂、吉井勇、尾上柴舟、釈迢空と、歌会始の選者が「すべて民間の現代歌人という画期的な年」を迎えます。

民間の現代歌人でないっていうのは、宮内庁の職員であったり、旧派和歌の歌人ではないってことなのでしょうかね。千葉や鳥野の名前を簡単に検索してみてそうなのかなって判断しただけですが。

 

入江相政日記』によれば、 天皇は「鳥野さんを止めることによつて旧派の方が果たしてどう思ふだらうか、それさへ問題がなければ差し支えないとの仰せだつた」(1949.9.28) ということです。

 

49年の歌会始からは、カメラマンが会場に入り、歌が入選した人も会場に行くこと(陪聴)ができるようになりました。 翌年の題も、秋ではなく、その年の歌会始当日に発表するなど、応募者を拡大しようとされています。

開かれた歌会始が目指されているということでしょう。

 

 話を天皇の短歌の発表/読解へと戻します。読んで一番おもしろかったのはここのあたりでした。

すっごく当然のことなんですが、御製(ぎょせい=天皇が作った短歌)は、わたしたちが短歌を作るような場合とまったく違った取り扱いをされます。 相政の日記に記述があります *5

御召で御文庫(引用者注:第二次大戦のとき作られた防空施設)に出たら御製を沢山お下げ遊ばす。時局に関するもの、自由と責任といふことについてのもの、それに大日向の開拓団等について詠ませられたものである (1947.12.26)

 

昨日御下げの御製を拝見した結果を申し上げ、鳥野に御下げ願度(引用者注:ねがいたく)申上げる。

鳥野さんが御製を拝見されたのでその結果を浄書して、御研究所へ出てお許しを得、侍従長にも拝見してもらつて総務課へ下げる (12.27)

 

御製について又思召されたことについての話がある(中略)。やはり原作のまゝ願はうと思ふ(中略)。予の考を申し上げ御諒承いたゞく (12.28)

 

役所において、新人の起案文書が、管理職に回付され、修正や意見が付され、書き直される過程にも似ている。

 と内野が書くように、御製は、天皇の公の文章のようにして扱われています。

 

従来、御製の公開は歌会始のものに限られていたそうですが、天皇の短歌は「あきらかに情報としての操作」がされていたといいます。

1948年には、明治天皇の誕生日として祝日だった11月3日が、文化の日となります。その前日に宮内庁は御製を五首発表しました。入江は各新聞社の御製の扱いについて次のように述べています。

昨日御五首が発表されたが、我々の予想通り朝日が文化に関するもの御二首を載せた。時事には五首全部謹載したが、他は全く何もかいてゐない。これは今時OPENで発表すればかうなるに決つてゐるのであり、殊に文化の日を当て込んで積極的に宮内府から発表するやうになることは全く面白くないといふ我々大金、鈴木一、入江の主張は不幸にして正しかつたと思ふ。やはり我々の思つた通り、文化の日は見送つて後の何でもない時に朝日なり毎日なりに特種として漏らすべきものであり、今後はそのやうにすべきものと思ふ。

折にふれて

海の外とむつみふかめて我国の文の林をしけらしめなむ

悲しくもたゝかひのためきられつる文の林をしけらしめはや

陶器について

たふとしと見てこそ思へ美しきすゑものつくりいそしむ人を

益子焼

さえのなき嫗のゑかくすゑものを人のめつるもおもしろきかな

コスモス

秋ふけてさひしき庭に美しくいろとりとりのあきさくらさく

(1948.11.3)

せっかく発表するなら、もっと大々的に扱ってもらえるタイミングにするのがよかったというわけですね。

 

翌年、『改造』1950年1月号に天皇の歌七首が発表されます。

『改造』歌が発表される前、49年の11月26日の『朝日新聞』には「天皇の御歌が雑誌に」の記事が出ています。

側近によって天皇の近作がリークされるという図式を作ることで、相政たちの反省はいかされたことになります。

 

側近たちが御製により注目を集めようとしたり、宮内庁が積極的にマスコミへ対応していくことについて、内野は懐疑的な書きぶりです。御製や皇室がより注目されるように発信されていくのはなんのためなのでしょうか。

 

発表された天皇の短歌がどのように読まれるのか、ということを見てみましょう。

昭和天皇崩御の時に、短歌が登場した報道には

(A)天皇の短歌作品を中心に追悼及び昭和を回顧する記事

(B)天皇の短歌作品を中心にした、歌人などの追悼文

(C)著名歌人による追悼短歌作品

(D)TVにおける天皇の短歌作品関連番組

があります。体験したわけでも他と比較したわけでもなくこんなこというのもどうかと思いますが、なるほど短歌は他の芸術よりの天皇制と近い感じがしますね。

 

制度として、公たる天皇の言動の責任が、一首の短歌で免責さえするような論法が散見された

と内野は書きます。A・B合わせて20ほどの記事の書誌情報や、Cの著名歌人による追悼作品が付されていて調べ物に便利です。

 

Aについて見てみましょう。

次の二首は昭和天皇の歌です。

あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波だたぬ世を (一九三三年歌会始「朝海」)

峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり (一九四二年歌会始「連峰雲」)

このような天皇の歌に対して、次のような報道が行われました。内野の引用を孫引きします。

平和への願い、戦時下での苦悩、復興の喜び、国民の生活を思うお気持ち、そして自然への愛情…と、堅苦しい「お言葉」では表しつくせない卒直な感情を、おおらかに、そして生き生きを、ときどきの歌に託されてきた。そうしたお歌の数々は、陛下の内面生活の歴史を如実に物語っているように見える。(「ご感懐おおらかに お歌」(七八首)『朝日新聞』1989.1.8)とあるが「戦前、停戦たたえた1首 側近が秘密に 天皇陛下のお歌」の第一段落の途中から

「御製」「大御歌」といわれるお歌は、陛下のお気持ちを推し量るうえで重い意味を持つ。世の静けさを願う心。追憶、喜び、悲哀――いくつかの折々の陛下のお歌にふれる時、その時々の胸中が伝わってくる。(「和歌に託されたお気持・昭和天皇」(三十四首)『毎日新聞(夕)』1989.1.9)

暗い戦争中も新年の歌会始は続けられた。「国民の士気のうえからも風流は面白くない」という軍部の批判は強かったが「なんとか伝統の文化の薫りを残しておきたい」という昭和天皇のお考えからだった。天皇が願われたのは、歌道を通じて皇室と国民の結びつきを緊密にすることだった。(「お歌にしのぶ昭和天皇 皇室と国民とを結ぶ三十一文字 卒直に表現」(二七首)『千葉日報』1989.1.8)

 

これらの文章からは

・歌において天皇の本心が示される

・歌から天皇は平和や国民の生活を思っていたことが分かる

・歌によって、皇室と国民とが交流できる

という主張が読み取れるといってもいいでしょう。

ある立場の人間がどのようなメッセージを発するのかという側面のみが注目されて、短歌の文体や修辞、文学性などが無視されています。

歌会始の作に、ことば以上の状況や背景、心情を付与することには、種々の危険性が伴うことに注意しなければならない。歌会始は、本来、天皇に近い人々の、私的な行事であった。現在は、その伝統に固執する部分を擁しながら、その時の国家権力や国民に対するスタンスの確保やメッセージ発信の場にしようとする意図が顕著である。天皇家と国民が、「うた」を通じて、のどかに、なごやかに交歓する光景は、まだ、しばらくは役に立つと思う人々がいる。

 

朝日新聞』の編集委員薮下彰治郎が、本多勝一との対談で述べた以下のコメントも興味深いです。

天皇の戦争責任の免責の第一の手法として(孫引用者注:内野の補足))一般国民が当時知るよしもなかった『秘話』の類や非公式の日記、いわば内輪ばなしやウラばなしを大々的にもち出す方法ですね。(中略)そういう非公式な、しかも担保の極めて薄いものを対置して、公的に明らかになっていたものを否定・免責してゆく。たとえば、詔勅で明白に天皇が宣戦しているのにもかかわらず、実はやりたくなかったんだとか、思い入れたっぷりの短歌を披露した、といった内輪ばなしこそ”真意”なんだとするやりかた

(孫引き:本多勝一「貧困なる精神41」『朝日ジャーナル』1989.1.20 p.90)

 

この本は、いろいろな話題がでてくる *6のですが、話の収拾がつかなくなるので、ここまで紹介した部分をまとめてみます。

評論集という性質上、主張のまとめみたいなことはされていないので、内野が以下のように主張していた、というより、この本を読んで私が注目した主張はこんな感じ、という感じです。

 

天皇や、国家あるいは団体が人を選んだり賞を与えたりすることは、権力の構造を作り出してそこに迎合する流れや馴れ合い生んでしまう

天皇の歌を公表するということが、皇室の広報的な意識や情報操作と結びつく

天皇の歌の解釈が、そのまま天皇の”本心”をはかることにつながる

 

スタートしたところから、短歌と天皇制についてすこし引き出しが増えたかなと思います。

もっとごりごり議論するには、天皇が「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるというのはどういうことなのか、あたりの短歌史というより一般的な話もおさえていきたいですね。

この記事はけっこう迷いながら書いたんですけど、わたしがつまずいていることについて、こういうのを読め!と思われた方はご教授いただければうれしいです。

 

  *

 

書いた人:牛尾今日子(ushio.kyoko@gmail.com

1994年生まれ。京大短歌会を最近追い出されました。同人誌「羽根と根」、「かんざし」に所属。

*1:『CHITENの近現代語』http://chiten.org/archive/archives/79

*2:歌会始の権力性・岡井隆の変節の話と、歌壇の賞の話とは論理的につながるのかどうかはやや疑問です

*3:歌壇や結社が馴れ合いばかりで正当な議論が行われない、という内野の主張は、あまりに人の批評性を信頼していないんではないかと思うのですが、この記事の要点ではないのでおいておきます。

*4:宮内省は宮内府を経て49年に宮内庁になっていますね。

*5:内野は、この相政の日記の引用の直前に、〈うらうらとかすむ春べになりぬれど山には雪ののこりてさむし〉という1948年の歌会始「春山」の御製を示しています。

内野の記述をそのまま読めば、この春山の歌が、以下で相政が扱った歌のひとつであり、これらの処理の結果として歌会始で発表されたという解釈をしたくなるのですが、実際にその前後の『入江相政日記』を読んだだけでは、相政や鳥野が確認しているのが歌会始のための歌なのかどうかは確認できませんでした。

こういう感じの引用とその表記とがあるとなんか全体的に不安になってきますね。

*6:雅子さまが受けたいわゆる「お妃教育」は、日本歴史や皇室等々について計五十時間あって、そのうち十時間は岡野弘彦による「和歌」だったんですって、びっくり