第52回 前登志夫『吉野鳥雲抄』
桜とともに 土岐友浩
いつしか四月が来ている。
四月が来るのではなく、わたしのいのちという時間が確実にあらたな季節へ移っているのである。
うちなびく春来るらし山のまの遠き木末(こぬれ)の咲きゆくみれば (『万葉集』巻八)
尾張連(おわりのむらじ)のこの歌を口誦みながら、青い山並みの斜面に白い灯のように咲いている花を眺める。辛夷であろう。
各地の花だよりはしきりであるが、山の桜はこずえをぼうと紅にけぶらせているだけである。そんなに早く桜が咲いてくれては困る。毎年そういう戸惑いをおぼえる。新年度を迎えるべき心の準備もできていない。 「桜咲く日に」
今年の桜は、すこし遅い。
京都府立植物園の桜エリアでは、二本ある河津桜の木だけが濃い花をさびしく咲かせて、人々はそこに集まり、写真を撮っていた。
もうすぐ、歩き慣れた道が桜で彩られる。
その非現実感は、まるでゲームのボーナスステージのようだ。
*
桜が、いまでも特別扱いなのは間違いない。
地図に引かれた線を見て、咲くのが遅いとかもうすぐとか、そんなことを気にする花は、他にないからだ。
そのため桜を詠むときだけは、他の草花を詠うのとは、気分というか、心構えがちょっと違う。
けれど、あるいは、だからこそ、短歌は脈々と、さまざまに桜を詠み継いできた。
堂園さんや永井さんの歌集にも、桜の歌がある。
君はしゃがんで胸にひとつの生きて死ぬ桜の存在をほのめかす 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
それは誰かが照らした桜 何回も死んだあと2人で見上げたい 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』
「力強さ」と「はかなさ」という堂園さんの文体の美質が結晶した、桜の歌。
永井さんにしてはとても珍しく、自分の「死んだあと」が詠まれた、桜の歌。
そして桜のなかの桜といえば、いわゆる名所としても、歌枕としても、奈良にある吉野の桜、ということになる。
明治のころにできた新品種の染井吉野は、山桜よりももう少し早く開花する。今日の都市の桜はこの白っぽい造花のような染井吉野が大半を占めるのではないかとおもう。少しおくれて厚ぼったく咲く八重桜のこってりした風情にくらべれば、染井吉野の一重は格段にすぐれているが、その花の気品の深さや清けさからすれば、山桜にとうてい及ぶものではない。 「桜咲く日に」
京都駅の切符売り場に立って路線図を仰ぎ見ると、奈良駅の、さらに遠くに、吉野はあった。
たとえ特急券を使っても、日帰りで行くにはかなり遠い。
そういう物理的な距離以上に、一度行ったら帰って来られないのではないか、という気持ちにさせられるのが、僕にとっての吉野だ。
そこに咲くという、山桜。
前登志夫は1926年、吉野に生まれた。
同志社大学に在籍していたが、1945年に応召され中退。
戦後になって吉野へ戻り、第5回で取り上げた前川佐美雄を短歌の師として、結社「ヤママユ」の前身である「山繭の会」を立ち上げた。
『吉野鳥雲抄』は読売新聞の連載をまとめたエッセイ集で、本書は『樹下三界』『吉野遊行抄』に続く三冊めとなる。
あとがきによれば、「とりくも抄」ではなく「ちょううん抄」と読ませるらしい。
家族が寝しずまってから、わたしはもう一度外に出て、夜の雪の山が白く輝くのを眺めた。もう月は高く昇り、山の雪が照り返すひかりは落ち着いていた。
山の暮らしは日常のすべてを遥かなものにする。家族すら遠くに存在するように思える。日常からへだたる結界の境を、わたしたちはいつも往き来しながら、その境すら見失うことがある。 「雪夜の寒満月」
山を眺め、山に暮らす。
それは、文字通りの意味で自然と一体になるということだ。
登志夫は西行の「春になるさくらの枝はなにとなく花なけれどもなつかしきかな」という歌を引きながら、こう述べる。
この歌は『風雅集』に入集していたと思う。春先の吉野山で、ふとため息のようにつぶやき出た一首のように感じられる。
(中略)
桜の枝に花はないけれども、なんとなくなつかしいと詠むのは、春先の桜のこずえであるからなのだ。無心とはこうしたものか。この歌に悟りのようなものを思い入れたりすると、たちまちいや味なものとなってしまう。無心なればこそ、花とこころはひとつになっている。 「花なけれども」
西行の平明な歌の姿に、吉野の桜とひとつになった境地を読み取っている。
春になれば、登志夫は家族と蓬を摘みに出かけ、お稲荷さまに草餅を供えた。
村人以外の来客は郵便配達人くらいで、郵便物を新聞と一緒に持ってきて、登志夫の家で弁当を食べてから、山を下りていったという。
もっとも、登志夫自身、ずっと山にこもっていたわけではなく、大阪の短大やカルチャーセンターに講座を持ってからは、よく山を下りて、電車を乗り継ぎ、街に出ていた。
娯楽や刺激に乏しい山暮らしを長く続けていると、風のそよぎや雲の流れに敏感になってしまう。むろん、現代文明のもたらしてくれる一般的な娯楽や刺激を知らないのではない。それらがあまり面白くないのである。なんとなく日々のむなしさや焦燥感を痺れさせたり、一時的にごまかすだけのものが多い。そのあとには、だぶだぶに脹れあがった自我が置き去りにされるような感覚だけがのこる。
(中略)
なべてがいそがしく、浅く、つめたく鋭い。ふかぶかと息をすることが許されないものである。貨幣と科学技術の支配する今の世の機能的な原理に、すべてのたのしみがぎっしりと取り囲まれている。固く平板なものの圧迫が、すべての快いものの背後に透けて見えている。 「春寒く」
こうした現代文明批判は、高島裕も書いているけれど、登志夫は「だぶだぶに脹れあがった自我」という表現に見られるように、身体感覚を通してそれを捉えているのが興味深い。
若者のあまりにも純粋で傷つきやすいのをおもうと胸をしめつけられる。満開の桜の上に雹が降るようないたましさである。
(中略)
今では気象の異変として片付けてしまうが、雹が降るのは天空を竜が過ぎるせいだという大昔からの言いつたえには、もっと深い認識と比喩がある。 「桜咲く日に」
たとえばこのような文章に、僕は強く惹かれる。
「もっと深い認識と比喩」の意味を、僕が理解できているとはとても言えないけれど、少なくとも「天空を竜が過ぎる」という言葉を、登志夫は非科学的な空想ではなく、ある感覚として共有し、受けとめていることがわかる。
世間を離れ、もの思いに耽りつつ、自然や読書に親しむというと、ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』のようなものを連想するけれど、登志夫の文章が異質なのは、自然を必ずしも美しく、安らげるようなものとして書いてはいないところだ。
一言でいえば、登志夫は自然をおそれつつ、自然とともに暮らした。
もう今日はこの石地蔵を裏の石垣に戻さねばならぬ。座敷で泊まっていただくのは一夜きりにきまっているが、今年は二晩も室内ですごしてもらった。石垣に彫りこんだ石龕も、毎日の雷雨で湿っているので、なんとなくそこへ戻しそこねてしまった。 「石地蔵のかたわらで」
地蔵盆の日を迎え、登志夫は石の地蔵を座敷に置き、「たどたどしく」お経を唱える。
外にあった地蔵を移動させたりしていいものなのかどうか、僕にはよくわからないけれど、それはともかく、座敷で地蔵と向かい合いながら、登志夫は考える。
わたしも今朝の石地蔵のようにすっかり湿っぽく坐っている。お前はいったい誰なのかと、稚く問うてみる。この石地蔵には、ほのかに目鼻が彫られているので無気味なものではない。仮に何も彫られていないただの石だったらどうだろう。おそらくその石は無限にふくらみ、あるいはあらゆるものに変容する神秘なものとして、わたしを圧倒しつづけるに違いない。
世界は解釈や意味づけによってなんとか危うさを克服し、張り持ちしている。だが、すべての解釈や意味づけを拒絶して、万有は自足している。そこから這い出すよりほかない。そこに還るよりほかあるまい。 (同)
顔の彫られた地蔵よりも、むしろ何の変哲もない石を、登志夫はおそれる。
登志夫がその石に見た「無限にふくらみ、あるいはあらゆるものに変容する神秘なもの」とは、一体なんだろう。
強いて言葉にすれば、自然の本来の姿、カオスそのもの、ということになるだろう。
それは人智の及ぶべくもなく、ただ、そこにあるからこそ、抗いようがない。
登志夫にとって、自然はそういうものだった。
ーーもう山を下るのはやめようか。
ーー街へ出て身すぎ世すぎにくたびれるのをよそうか。
まことしやかに講義をしたり、講演をしたり、放送したりする。その浅薄さにいつまで耐えられるか。
それじゃ書くのをやめられるかと言えば、どうしてもやめられないだろう。書くことは本来ひどく恥ずかしいつらさを含んでいるにちがいないのだが、それがしだいに麻痺してしまい、格別な美徳であるかのように錯覚してしまう。書くことによって、これからも自己という存在を問う苦しいいとなみを続けねばならない。書きつづけることによって、自分の愚かしさや空しさや醜さを、しっかりと凝視しなければならない。この貧しいわたしを生かせてくれているなべてのものに、お詫びの挨拶を捧げなければならぬ。 「含羞の時」
登志夫を苦しめていたのは、都市の喧騒やしがらみなどでは、決してない。
言葉とは、自然という大いなる混沌に、秩序の幻想をもたらすものでしかなく、それを知りつつ、なお言葉を紡がずにはいられないという耐えがたい矛盾が、登志夫を引き裂いたのだ。
前登志夫は自然を生きる苦しさを詠み続け、2008年4月5日に世を去った。
ちょうど今日が、命日である。