短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第37回 岡井隆『現代短歌入門』

 60年代論争史 阿波野巧也

現代短歌入門 (講談社学術文庫)

現代短歌入門 (講談社学術文庫)

 

 

こんにちは。阿波野巧也です。

去る11月23日、東京で行われたガルマンカフェで楽しくビールを飲んでいたら、ピーナツ三銃士が僕の方へ近づいてきました。

 

「ピーナツになんか書いてよ!」

「ええ、まぁ、そのうち……」

「じゃあ締切12月でよろしく!」

 

……というわけでやっていきます。

 

(1)前書き

 

さて、みなさん、こういうの見たことありますかね。

 

短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。 (p.236)

 

〈私性〉の話をするときにほぼ必ず引用される、あるいは、引用されずに「岡井隆によるあの高名な定義」みたいにぼやっと言及されるやつですね。

『現代短歌入門』は、篠弘の文庫版解説によると1961年1月から、1963年2月の間に、角川「短歌」に「現代短歌演習」として連載されていたものを一冊にまとめたものです。

当時の岡井隆の年齢は、33歳~35歳。この年齢で2年間がっつり連載を持ってたあたりにやばさを感じます。そういうわけもあって、普通の入門書のようにハウツーが並べられているのではなく、前衛短歌を経て「現代短歌」的なものが確立してきていた真っ最中の時期に、では「現代短歌」を構成する諸要素は何なのかを思索していった文章たちが並んでいます。

 

もちろん、連載していたわけなので、時評的な性格も帯びてきます。第十章「喩法について(2)」では、滝沢亘(たきざわ・わたる)の塚本邦雄批判に対しての反論から起こるやり取り(いわゆる論争)が収録されています。滝沢はこんな風に批判します。

 

また、上句の〈釘、蕨、カラー〉(阿波野注:塚本邦雄〈釘、蕨、カラーを買ひて屋上にのぼりきたりつ。神はわが櫓〉の上句)は、それぞれ何かを暗喩しているらしいのですが、この一首からそれを読みとるのは、作者と暗号表を取り交わしていない私たちには全く不可能です。そうした独善的な表現が、一層「櫓」の存在を曖昧な無限定さに追いこむ結果ともなっているわけです。 (p.190より孫引き)

 

昨今の「わかる/わからない」の話に対応するような問題提起は50年前にすでになされていたことがよくわかりますね。これに対する岡井の反論がこちら。

 

「作者と暗号表を取り交わしていない」などと、ふざけたことをいってはいけません。(中略)「釘、蕨、カラー」のそれぞれが何かであるような喩の「暗号表」的な固定化こそ、つまらない非詩的な日常的な喩の世界への転落である。それは、もはや衝撃力を失って約束の世界にとじこめられた喩法であり、詩における喩の、あらあらしい原始性を失っているのです。そんな子供だましみたいな「書き換え遊び」では、現実は表現できません。(p.191)

  

「日常的な喩の世界への転落である」!!! かっこいい。

 

釘、蕨、カラーは、一定の何かの暗喩ではないが、おのおの具象的なものの名でありながら、それらをこの順につらねることによって、イメージの重層と交響をはかっています。(中略)どうも、「釘、蕨、カラー」が偶然性を逆用しているように見えて、塚本らしい冴えがなく、またいえば、三者が少しつきすぎた感じで、「神はわが櫓」というアイロニカルな喩の片方の重みとつりあわぬのです。 (p.191~192)

 

岡井は「暗号表」発言の批判から入って、一般論からぐいぐいいってます。暗喩は固定化されたらあかんのやで、と。これはすごくよくわかりますね。直線的な喩は「うまいこと言った系短歌」に見えちゃうよね~って話と結構近くて、現代の私たちにも響いてくる言葉です。その後に、塚本の一首については、「偶然性を逆用」「三者が少しつきすぎ」という批判を加えます。

 

暗喩ってのはこういうものなんだ! みたいなことを言いつつも、だめなものはしっかり批判するというアティテュードが単にかっこいいですね。

 

これに滝沢はさらに反論するんですが、岡井はそれをスルーします。そのため、岡井が論争に勝ったように見えます。(ちなみに、滝沢はこの数年後、肺の病でなくなります。晩年の滝沢の歌、〈生き残る者にまことの孤独あらむ冬日に鈍くひかる金蠅〉などからは〈ひかる金蠅〉など暗喩の駆使が見て取れます。滝沢なりの岡井への反論を作品で示したということなのかどうかは、わからないところです。)

 

岡井隆の文章のすごいところは、ボディーブローのように重いパンチラインを吐き出して、相手が何を反論しても弱く聞こえてしまうところです。その辺がかなり立ち回りがうまい。

 

さて、前置きが長くなっちゃいました。

今回の記事では、前述の〈私性〉のテーゼが、どのように出てきたものなのか、ということを確認していきます。

執筆にあたって、篠弘『現代短歌史 III』、小瀬洋喜『回帰と脱出』からの引用も混ぜていきます。

 

(2)岡井・小瀬のフィクション論争

 

岡井隆の〈私性〉のテーゼは、「斧」という岐阜県歌人による同人誌に掲載された、小瀬洋喜(おせ・ようき)の「イメージから創作へ」を契機とした、岡井と小瀬の論争の中で出てきたものです。まず小瀬の「イメージから創作へ」を見ていきましょう。

 

短歌――それが私の文学である限りは、それ(阿波野注:歌集が作者の生活経験が如何に詩に昇華されるかということで評価されること)も許されることであろう。しかし、それが許されるのではなくて、それでなくては許されぬのであれば問題は全く別のものとなって来る。 (『回帰と脱出』p.134)

  

新聞歌壇である時は炭鉱夫、あるときは農夫、またあるときはセールスマンの歌を出していたひとに、斉藤正二というひとが「通俗の暴威」として批判をしました。そういう評価の背景には、短歌から上記のような生活体験の詩への昇華を見出す鑑賞態度があります。小瀬はそうであってもいいけど、そうでなくてはならないわけじゃないでしょ、というつっこみをいれます。

 

フィクションが短歌に持ちこまれたとき、事実よりも真実をという命題が、短歌の領域を拡大するためのものとして、歌壇での目録に加えられた。この命題は作品をそのまま真実と思いこむ習慣を矯正するのに幾らかの力を果したが、作者の側においておのずからなる限界を設定し、それを超えることをしなかった。(『回帰と脱出』p.135)

 

ここから小瀬は前衛短歌批判へと移りこみます。旧態依然的な、短歌に書かれたことは事実だという考えへの批判はもちろん、そこからの脱却としてフィクションを導入の仕方にも批判を加える。

 

そこで引き合いに出されるのが、平井弘です。表舞台へはあまり出ないですが、現在でも根強いファンがいる歌人ですね。

「斧」の同人でもあった平井の歌集『顔をあげる』には、戦死した「兄」のモチーフがたくさん出てきます。

 

兄たちの遺体のごとく或る日ひそかに村に降ろされいし魚があり

兄と共に戦わざりしわれの手といもうとの脛冬まつ傷ら

もう少しも酔わなくなりし眼の中を墜ちゆくとまだ兄の機影は

 

ここで小瀬は平井弘に実在の兄が存在しないことを指摘して、これこそ戦後の日本人の血脈に訴えかける新しいフィクションなんだと称揚します。

 

事実として存在しない兄を画いて成功した「顔をあげる」は、従来的なフィクション論議からは全く別の次元にあるものなのだ。短歌が長く閉じて来た創作の世界への斧をふりあげたものだからである。想像力の回復を云った前衛作家たちは、私性の脱却のためにとるべき創作の方法をさけて、非現実の世界に舞台を求めた。(中略)しかしキリスト教や、ギリシャ神話が日本人の血液には殆ど何の栄養をも与えていない現実にあっては、水に油は遂に親和力を示すことがなかったのである。(『回帰と脱出』 p.137)

 

「斧をふりあげたものだからである」!!! これが「斧」って同人誌に載ってるのちょっとおもしろくないですか?

小瀬は続けて、「前衛作家は”私性”からの脱却をイメージと想像にすりかえってしまったのである。然かもかなり多くの前衛作家は、血脈のない概念に日本人の抒情を仮託した。」と批判を加えます。

 

かみくだくと、前衛短歌は私性からの脱却をうたっているけれど、西洋的なモチーフの導入や、イメージの重視に苦心しているだけじゃないか、そんなものは日本人の抒情じゃねえぞ! という感じですかね。

小瀬は「兄」「母」などのフィクショナルな創作は従来の短歌ではできなかったのに平井含む「斧」の同人はそれをやっている、これこそが「私性の克服」なんじゃないか、とまとめています。

つまりは、前衛短歌のようにイメージに振り切ったフィクションの文体でフィクションをやるよりも、リアリズムの文体にちょいちょいフィクションを混ぜていったほうがむしろ「私」を脱却できるんじゃね? というのがこの論の重要なポイントでしょう。

ただし、この文章は「斧」に掲載されたもので、「斧」同人たちの歌がどういう可能性を持っているのか、ということを主眼に置いた文章になっています。それがちょこっと前衛短歌に文句を言ったために岡井に取り上げられ、攻撃されたんだろうとおもいます。

 

それでここからが『現代短歌入門』に書いてある小瀬への反論です。

 

まず岡井は、小瀬の「恋人にはウソがあっても、兄や母は短歌ではウソがないものとされて来たのだ」という言葉から論を立てていきます。ここで『現代短歌史』を参照しますが、岡井隆は「平井の作風のような、主体にまつわる事実関係の変更は許容できなかった」のだろうことを頭に入れておいてください。

 

岡井は、文芸上における虚構と、実生活における嘘の決定的な違いは、「文芸上の虚構があくまでそれが虚構にすぎぬという約束を前もって読者のまえにあきらかにしているという点」であるとします。「恋人」がいる、という嘘も、いないはずの「兄」「母」がいる、という嘘も、文芸上では同じものだろう、と。ではそもそも、短歌のなかで嘘をつくということはどうか。

 

写実派の短歌に関するかぎり、恋人も兄も母も区別なく、その実在性に関してのみならずその人々にまつわる個々の事実の内容についでまで、「ウソがない」のがたてまえです。(p.211)

 

えー! その反論ちょっとずるくない? と思わないでもない。

 

歌壇が他のどのジャンルよりも不幸だったのは、写実派が存在したことではなく(中略)、写実派がえらび取り世上に流布させた「約束」だけが唯一の約束であるかのような錯覚が、あまりに長く歌壇を制圧しすぎた点にあるのです。(p.212)

 

約束というのは、作者と読者との間の作品の受け取り方の約束です。その結び方は多種多様にありうる、というのが岡井の主張です。ここから事実偏重主義への懐疑がつづき、「嘘は毒のようにひそかに写実派の作品に入りまじってきましたが、しかもそれがあくまで「事実」らしい顔をしてあらわれ、読む側もそれを事実として読んでいたのです。」とまとめます。

 

塚本をはじめとする前衛短歌の一派は、そういった「写実派流の約束の万能説を否定しようとするもの」でした。しかし、それが徐々に受け入れられていったことによって、「さまざまに非写実の毒を嚥下しつつ歌を作っているのに、他方、形式上は旧来の約束を盾に取っているという二重の嘘」が歌壇をおおっていった、と岡井は言います。岡井はその二重の嘘にのっとって、「恋人も母も兄も区別がない」と述べたわけですが、これってどうなんでしょうね。彼自身の筆の迷いが表れてると捉えてもいいのかもしれません。

こういう二重の嘘、現代でもありそうですよね。たとえば、短歌を「一首を基本として鑑賞する」と「連作・作者情報などのコンテクストを参照しながら鑑賞する」とかは、どちらか一方が正しいとかじゃなくて、この二つをどっちも援用しながらひとびとは歌を読んでいきます。良く言えばバランスを取っているわけですが、これもまた「二重の嘘」と言えるのかもしれない。

 

岡井は平井の作品について、「一見してそれとわかるどぎつい非写実の特徴を持たず、むしろ写実派のそれとして読んだ方が素直に受け取れる種類のもの」と述べ、「平井の場合「兄」を虚構と考えるより、そういう「兄」を持つ「われ」が仮構であり作者のアルター・エゴの化身と考えるべきではないか」と述べます。アルター・エゴというのは別人格、ぐらいの意味にとらえてOKだとおもいます。

 

また、「「母」を創作した先例には、すでに寺山修司の有名な「アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちてゐむ」があるではないですか。「新次元の開拓」はまこと容易ではない。」と切り捨てます。この「まこと容易ではない。」で小瀬への反論を終えるんですがこの辺りかっこいいですね。論争慣れしてる感じがあります。

 

そして、読者の方も小瀬さんに突っこみたくなったかもしれませんけれど、やはり岡井は小瀬に対して、「わたしは小瀬に一つ問いただしたいと思うのですが、塚本邦雄がしばしば彼の作品のなかに登場させる「父」や「母」の実在性について、一体小瀬はどのような根拠から疑いをいだこうとしないのか。」と文句を言います。まあそうなりますよね。

 

両方読むと、岡井さんの立ち回り方けっこう見えにくい気がしますね。小瀬の「兄」や「母」の虚構という「日本人の血脈」に訴える私性の拡張に関する主張や、イメージ重視で私性を脱却できていないじゃんという前衛批判について、岡井は「虚構するということにおいて兄も母も恋人も同じだし、前衛でも塚本や寺山は架空の家族歌ってるじゃん」って感じにかわします。

 

さて、今まで見てきたのは第十一章、「私文学としての短歌」の(2)の部分です。次に、例のテーゼが出てくる(3)を見ていきましょう。小瀬による岡井への反論は、これも面白くはあるんですが、今回はあまり重要ではないので置いておきましょう。

 

(3)〈私〉の拡散と回収

 

「私文学としての短歌」の(3)はAとBの対話形式からなる文章で、ちょっとおもしろいです。

 

A くさくさしてるんだよ、まったく。よそで有用だった概念や分析を無反省に持ちこんできて、その実、短歌的土壌の一寸も掘れていないという手合いが多すぎるんだ。他国他郷生まれの概念や分析用語は、税関で厳重審査の上、入国させてほしいよ。

B しかし、あなたがそんなこと言っていいんですか。この「議論」がそもそも成り立たなくなりぁせんですか。(p.230)

 

文体が話し口調だし「税関で厳重審査の上、~」なんてジョークも飛ばします。なんか饒舌で僕なんかは読んでると笑ってしまう。この「A」と「B」両方が岡井隆の「アルター・エゴ」、すなわち別人格のようなものであるというのがちょっとメタ的なかんじですね。

 

この(3)でのお相手はもっぱら、寺山修司です。寺山は岡井の歌集『土地よ、痛みを追え』について、岡井は、歌集『土地よ、痛みを負え』の中の「ナショナリストの生誕」や「思想兵の手記」といった連作において、「ナショナリスト」や「思想兵」といった、「全体という概念の中に〈私〉を拡散」させているが、「そのあとの回収された〈私〉を見出すことは、この歌集の限りでは不可能にちかい」と言っています。あとは「〈私〉が観念に疎外されている」とか「トータルな人間にヴィジョン」とかいかつい評言が飛び交います。

 

ちょ、いきなり拡散とか回収とかなんやねん、みたいな感じですね。

まあとりあえず岡井の反論を見てみましょう。岡井は作中の「われ」と作者との関係を三つに分類します。

1.「われ」=作者

2.「われ」と作者の間に第三の人物(例:「思想兵」「ナショナリスト」)が介在して、「われ」と作者を媒介する場合

3.一首の歌に三人称の主人公を仮構し、そこに作者の分身を定着させようとする場合

岡井はもちろん2の立場だと表明します。一人称の「われ」を仮構することで、1の立場からも読めるようにしつつ、作品世界に客観性・普遍性を与えようとしているのだと。

 

この場合、その架空の歌い手は作者のなかのどの要素かが強調拡大されてとり出されたものであり、普通に、作者の分身と呼ばれています。(中略)その意味で、寺山修司は、これを〈私〉の拡散と呼んでいました。しかしこれらの歌が、はたしてその後に回収を要するような〈私〉の拡散の仕方を示しているかは、むしろ疑問なのではないでしょうか。

 

こういう構造を持った連作の場合、(もし成功しさえすれば)一首一首は、一枚一枚のレンズが同一焦点に集光するように、その背後に一人の告白者の像を結ばざるをえないように構成されている。(中略)全体のプロポーションとしては現実の作者そのものとちがっているが、たしかにそれは、作者の分身です。そしてそれらの分身像の重積から、作者に関する統一したイメージを画くことを、もし〈私〉の回収というのなら、それは、作者の行なう〈私〉の拡散作用の逆作業を読者が行ないさえすれば可能なわけで、もともと、そういうことを予想せずには拡散作業はできるはずもないのです。(p.238~239)

 

ここでも岡井さんは、言葉の定義があいまいなことを逆手にとって、自分の中でがっつりその言葉を解釈し、〈私〉の拡散と回収ということについて普遍性のあるパンチラインを吐いてきます。一首一首がレンズとなって、連作中の〈私〉像を結ぶ…その像を結ぶということが〈私〉の回収なのだ、と定義してみせてますね。これほぼ、〈私〉論というか連作論になってますからね。

 

寺山修司のその後の反論で示された「拡散と回収」の定義はこんな感じです。篠弘『現代短歌史 III』からの孫引きすると、「作者の中にある全体像のイメージ、「幻の私像」が存在」していて、「その全体像のイメージが一首一首の中の私的具象性を持って拡散されてゆく」のが拡散です。回収については、「こうした全体像、つまりメタフィジックな「私」を内部に創造し得ぬまま、拡散されてしまった個人体験、個人のイメージはきわめてバラバラであって、読者には決して回収作業などできないであろう。」と述べています。

 

ふむ。わかりましたかね。「幻の私像」てなんやねん、て感じですよね。

 

ここで小瀬さんの活躍です。『回帰と脱出』中の「〈私〉の論理」には寺山と岡井のいう「拡散」「回収」についての定義の検証がなされています。見ていきましょう。

 

〔定義1〕 “私”とは作者の拡散した一つである。

 

内部現実(=真実?)と外部現実(=事実?)が結合している場合に、

(A 寺山の場合)

・その外部現実(事実)を破壊して、再構成することを「拡散」という。

・その再構成のためには、構成基盤としての一つの作者の姿勢が必要であり、この姿勢が明らかになっている状態を「回収」という。

・(具体例)平井弘のような、初めから一冊のテーマがある歌集を意図しながら、歌の配置を考えていく態度。作歌においては、一首ずつが、回収点からの投影となる

 

(B 岡井の場合)

・その外部現実(事実)を破壊して、再構成することを「拡散」という。ただし、再構成のために、一首一首、作者の分身としての独自性が与えられ、その一首一首の分身の姿勢を構成基盤とする。

・作者は、一首一首の分身の統合体として初めて統一的なイメージを結び得る。この統一像を得ることを「回収」という。

・(具体例)岡井隆が「ナショナリスト」「思想兵」など、それぞれの分身として画いたものがまとめられる。分身の一部を欠いたり、分身の一部が加えられれば、統一像は変わる

 

がんばってまとめましたけど若干小難しいし、僕も完全に理解はしていないので難しかったら読み飛ばしてください。

 

ともあれ、寺山の立場は、その「拡散」を統べるべきひとつの回収点(=作者のなかの「幻の私像」)が揺るぎなく存在しなければならない、ということでしょうか。着地点が見えてるべき、あるいは作者が全部コントロールすべき、みたいな感じで僕は理解しましたが、どうだろう。一方で岡井の立場は、歌を連ねるごとに像の結ばれ方が変わってくる、(ともすれば結べなくなる)という感じでしょうか。

 

ちなみにそもそも小瀬さんは、〈私〉の拡散と回収は一首の中で行われるべきだ、という立場を主張しています。こんな感じです。

 

ピペットに梅干色にわが血沈む 一揆にも反乱にも敗れたりき/斎藤史

上句と下句とには異質の分身の拡散がある如くでありながら、実は同一体に他ならない。その同一体が具象表現と抽象表現に場を分けて描かれ、見事に回収されているのである。

短歌において問題とすべき拡散と回収はそれが一首の中でどう位置づけられているかということであって、幾つかの作品からの作者像の結像ではない。(『回帰と脱出』p.155)

 

夜の花屋の格子の彼方昏睡の花々の目 クレー展見そびれつ

緑蔭を穿ちて植ゑし新緑の杉 愛しすぎて友を失ふ/塚本邦雄

 

(中略)わたしは「分る、分らない」の分岐点は一首の中での〈私〉の回収の成否にあると思う。(中略)クレー展を見そびれたという塚本と、昏睡の花々の眼を感じた塚本との間に、まったく別個に拡散し独立した〈私〉を認める読者は回収し得ぬ〈私〉に焦らだつに違いない。(同上p.157~158)

 

どうでしょう!? これ、永田和宏の有名な歌論、「「問」と「答」の合わせ鏡」に通じる部分がありませんか。上句と下句に拡散した〈私〉が統一した〈私〉に帰ってくるか、というのはそこに短歌的な、詩情としての連関を見ることができるか、ということにつながってくるのではないでしょうか。

 

また、小瀬洋喜は〈私〉の回収について、このように寺山批判を行います。

 

問題とすべき〈私〉性とは、一首のなかにみごとに〈私〉の回収が行われているか否かである。(中略)しかしこの〈私〉とは作者であるという定義がややもすると、作者をして、“短歌的抒情に規定された人間像”にだけ制約させてしまう危険があることも、われわれは充分に知っている。〈私〉の問題においてこの危険を無視することはできない。一首には一つの〈私〉が回収されていなければならないが、その一つの〈私〉がそのまま作者全部であると思ってはいけない。(同上 p.159)

 

この辺は、僕が角川短歌の年鑑座談会で、「短歌では受け入れられやすい人間を演じてしまいがちになる」って発言したのとやや似ているところがあって、やっぱり昔からそういうの考えてるひといるんだな~って思わされます。

 

まぁ、こういう風に、〈私性〉議論って、連作論だったり、一首の読みの理論だったり、あるいは読者論だったり、色んな物を巻き込んでるわけですね。そりゃあ紛糾もするし、語の定義もあやふやになります。小瀬さんは水質学の先生で、短歌評論中にも図表をぶちこんでくるかなりの「定義厨」「分類厨」なんですが、その彼をしても、正確に分類しきれていないように感じます。難しい話題なんでしょうね。いま資料を追っかけて読んでもだいぶわけわかんないですからね。

 

(4)ただ一人だけの人の顔

 

さて、話を戻して、寺山・岡井バトルの後半戦です。

 

そして、寺山修司の、「前衛短歌のひとたちは告白(コンフェッション)しない」という批判に対して、岡井は次のようにまとめていきます。

 

A ただね、その場合、これは何度もくりかえしていうのだけれど、告白性こそ短歌固有のものだとか、あるいはその逆だとか、それから、私性はいけない、トリヴィアリズムはいけない。そういったことを妙に固定化して、どうしていけないのか、その原因追究をおこたったままいってみても仕方がないということですよね。(中略)私小説の生理と病理は、短詩型文学の〈私性〉の生理と病理と大へんよく似ながらまったく別のことでもあるのです。(中略)所詮、短歌は〈私性〉を脱却しきれない私文学である、などとあきらめたような言い方をする人があるが、こういう無気力な受身の肯定も、他方また、短歌に〈私性〉を脱した真に客観的な人間像の表現を期待するオプチミストも、結局、短歌の生理に暗い点においては同罪でしょう。短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(阿波野注:即作者である場合もあるしそうでない場合もある)を予想することなくしては、この定型詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔をより彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。(p.235~236)

 

A (中略)戦後以来一貫して悪しき〈私性〉の復活の風潮は流れています。〈私性〉の悪用または濫用は、ね。(中略)それと闘うためには、良貨を発行するほかない。〈私性〉の活用ですね。(p.237)

 

ちょっと長くなっちゃいました。

ちょうどこの時期は、安保以降の「後退期」と言われて、前衛の「脱・私」みたいな方法論が挫折してんじゃね? みたいな空気感が漂っていたようです。岡井自身がリアリズムへ回帰してるんじゃないかみたいな。そんな中で、1人称のアルター・エゴを仮構して連作を組んだりして、「私が回収されてない」と批判され、「拡散された断片がレンズのように像を結び、回収される」という図式的にわかりやすい反論を行ったわけです。そして、従来のトリビアルな日常性に終始する「悪しき私性の濫用」に釘を刺す一方で、自らの方法にも対応できる〈私性〉の単純かつ明快な定義として、「作品の背後にただ一人の顔が見える」ということを提唱し、それを生かすも殺すも歌人次第、という言い方をしたわけです。ある種、岡井さん自身の生存戦略であったようにも僕には見えます。

 

長々と書いてきましたが、特に華々しい結論があるわけではありません。ただ、岡井隆の言葉だけが非常に有名になってひとり歩きしていますが、その周りには、寺山やら、小瀬やら、さまざまな他の歌人がいたわけです。岡井さんの文章だけが残っているから岡井さんが論破しきってるようにも見えますが、ディグってみると意外と論点ずらしてうまく切り抜けたりしながら、岡井さんが落としどころを探っていった結果、この有名なテーゼが出てきた、というような感じがあります。

 

とにかくこの『現代短歌入門』は、他者との論争が載っているのが面白いところです。これ一冊だけでも、相手側の主張も引用し、説明されるのでなんとなくその時代の雰囲気がわかります。そして、その論争を通じて岡井隆はあくまで一般的な結論へ着地しようとしているのが見てとれます。そのため、「入門書」として成立しているのでしょう。(ほんとうの初学者にはあんまりおすすめしないですが。)

もちろん、その当時の論争相手の文章をディグるのもおすすめですし、あとは篠弘『現代短歌史』を読みながら読んでいくのも面白いです。年末年始をゆったり過ごす方にはもってこいですよ!

 

阿波野巧也:1993年、大阪府生まれ。「京大短歌」、「塔」、「羽根と根」で活動。

第36回 楠見朋彦『塚本邦雄の青春』

 映画「この世界の片隅に」と呉時代の塚本邦雄 堂園昌彦

 

塚本邦雄の青春 (ウェッジ文庫)

塚本邦雄の青春 (ウェッジ文庫)

 

 こんにちは。堂園です。

 

今回やるのは、2009年にウェッジ文庫からでた楠見朋彦著『塚本邦雄の青春』です。

 

この本は、塚本邦雄の弟子で小説家の楠見朋彦さんが、いままでヴェールに包まれていた塚本邦雄の青年期に迫る、という本です。本人があまり話をしていない、幼年期・青年期・習作期。第一歌集『水葬物語』が刊行される以前の塚本邦雄です。

 

資料となっているのは主に塚本が発表した初期作品や散文などで、日記とか書簡とかは使われていません。だから、一般的な評伝とはちょっと違っています。塚本の若い時代の行動をいっこいっこクリアにする、というよりも、もうちょっと遠くから、塚本自身が作った柵の間から塚本の青年期を覗き見る、みたいな本で、ふつうの評伝を期待するとちょっと肩すかしを食らいます。

 

しかし、塚本邦雄は自身の若い時代をあまり明かすことはありませんでした。この本でも触れられていますが、その象徴となるのが、生年月日を実際の年齢よりも2年若く偽っていたことです。かつて実人生を否定していた塚本邦雄の、青年時代を覗き見ることができるのは、なかなかすごいことなのです。

 

もともとは「京都新聞」(滋賀版)に連載されていた記事を改稿したものらしく、新聞のコラムっぽくわりと1回1回短いものが、ぶつぶつ話切れながら進んでいきます。しかも、ちょくちょく時代が前後するので、独特の読みにくさがあったりします。

 

しかし、特に後半のほうの、どのように『水葬物語』の作風の塚本邦雄が出来ていくのか、といった話はすごく面白かったです。塚本が、西脇順三郎や、モダニズム短歌や、新旧約聖書や、西洋絵画などを次々に吸収し、そして杉原一司という盟友を得ながら、自らの文体を形作っていったことがよくわかります。若い塚本青年が、だんだんと「塚本邦雄」になっていく様が燃えるのです。それだけでも、この本を読む価値があります。

 

ところで皆さん、全然話変わりますけど、11月12日に全国公開が始まったアニメ映画、「この世界の片隅に」はご覧になったでしょうか!?

 

観てない方はぜひ観に行ってください。もうほんとぜひ! 私は公開日に観て、さっき2回目を観たんですけど、ものすごく良かったです。

 

この映画の原作は、こうの史代が2007年~2009年に連載していた漫画『この世界の片隅に』です。どういう映画かというと、第二次世界大戦中の広島が舞台で、絵が好きな主人公の女性「すず」さんが18歳の時に故郷の広島から山一つ隔てた、軍港・呉へと嫁いでいき、その日常、といった感じの話です。主な時代は昭和19・20年くらい。

 

すずさんは大正14年生まれなので、山中智恵子と同い年です。今生きていたら91歳ですね。

 

この時期の広島・呉ということは、戦争映画なんですけど、ふつうの戦争映画とちょっと違うのは、戦時中の暮らし・日常をすごく丁寧に描いています。もちろん、つらいこともあるんですけど、それ以上にユーモアをもって描写している。笑えるシーンがふんだんにあって、「戦争ひどいよね」っていうお説教映画ではぜんぜんないです。

 

とにかく風景がきれいで。呉の軍港を見下ろす景色とか……。この世は生きるに値することを全力で伝えてくるというか。私はもう開始5秒で涙が出まくりでした。

 

主演の「のん」(能年玲奈)の声の演技がまたすごくて。彼女の出世作NHK朝ドラの「あまちゃん」でも、主役の天野アキ役は「本人そのもの」というハマリ役でしたが、今回も、めちゃくちゃハマリ役です。本人としか思えません。「困ったねえ」の言い方とか。

 

あと、この映画、すごく没入感があって、観ていて飽きません。映画評論家の町山智浩さんは、この映画は「『マッドマックス 怒りのデス・ロード』みたいにパッパッパと展開が進んでいく、ものすごくテンポのいい映画」と評していましたが、そのあたりも、この映画の没入感に関係があるかもしれません。

 

また、私はこうの史代の原作漫画のファンでもあったのですが、原作以上によかったところも多かったです。

 

たとえば、主人公のすずさんが丘から呉の湾内の風景を写生しているところを憲兵に咎められるシーンがあります。

 

漫画と違うのは、憲兵の声が入っていることで、これがけっこう耳に障る。人を脅す声なんですね。

 

それで、原作ではちょっとギャグっぽく終わらせていたシーンが、なんていうか、やっぱり実際もっとシリアスだったんだなと気づきました。この映画の音の表現はものすごいです。防空壕で爆撃を聞くシーンとか。呉港に対する空襲は、軍艦壊すためにやってますから、建物燃やす焼夷弾だけじゃなくて、一トン級の爆弾を落としてくるんですよね。だから、音もものすごい。そういうところが、すごく伝わりました。

 

わりとこの作品、原作でもシリアスっぽくふっといて、ギャグっぽくすかすんですよね。あんまりネタバレしたくないんですが、ある人が突然倒れて心配したら、実は眠くて居眠りしちゃっただけ、とか。

 

シリアスをどう回避するか=いかに日常を続けていくか、ということがギャグ漫画の文法と重なってるという構造なんですが、これが映画になり、音や演出が加わると、やはりその背後に、常に重たいものが張り付いていることが、はっきりわかります。それゆえ、日常や自然の美しさがより際立って伝わってくるのです。

 

そんな感じのものすごいリアリティのあるアニメなんですが、驚愕するのが、次のツイートの内容です。

 

 

 

 

これ、やばくないですか。このアニメは、単に当時の広島・呉の街並みを資料や写真から再現するだけじゃなくて、当時の人々にインタビューして、写真に写っている人々まで特定しています。なので、この映画に出てくる人々は、単なるモブではありません。全員が実在して生きている人間で、それぞれの人生を送っているのです。

 

ジェイムズ・ジョイスは自作の小説『ダブリナーズ』について「たとえダブリンが大災害で壊滅しても、この本をモデルにすればレンガの一個一個に至るまで再現できるだろう」と豪語していましたが、はっきり言って、そのレベルを超えてます。

 

で、なんで今回この映画の話をしたかというと、実は戦時中の呉には、当時、20代の塚本邦雄が暮らしていたはずなんですよね。

 

なので、そう!! この映画には塚本邦雄が映っている可能性があります!!!!

 

塚本さん、年齢でいうとすずさんの夫の周作さんの1つ上で、21歳から25歳まで呉市にあった広海軍工廠(ひろかいぐんこうしょう)に徴用されていました。塚本が暮らしていた広町と呉町はお隣。今でいうと、電車で2,3駅です。なので、休みの日とかはしょっちゅう行ってたみたいです。充分、映っている可能性があります。

 

そんなわけで、今回は『塚本邦雄の青春』から、「この世界の片隅に」で塚本邦雄が映っている可能性のあるシーンを探してみました。

 

一番可能性が高いのは、中盤ですずが夫の周作さんの職場に帳面を届け、その後デートをする呉の繁華街でしょう。周作さんが「映画でも観るか」と言って2人は繁華街を歩くのですが、塚本邦雄はよく呉の繁華街まで映画を観るために通っていました。

 

 呉市広町では、どんな生活をしていたか。空襲が激化する前は、休日によく山一つ隔てた呉へ出て映画を見ていたようである。(p.68)

 

なので、このシーンの群衆の中に塚本邦雄が混ざっている可能性があります。 

 呉港館ではなぜか敵国であるフランスの映画、ジュリアン・デュヴィヴィエの『モンパルナスの夜』を見ることができた。邦雄は三度も観に通った。ドイツ系では『たそがれの維納』『未完成交響曲』のウィリ・フォルスト。「極論するなら私の青春前期など、フォルストの作品の記憶、ただそれのみによつてきらめくと言つてもよい。」(『虹彩(イリス)と蝸牛殻(コクレア) 映畫とシャンソン』)

(p.128)

 

アメリカ・イギリスとかの英語圏の映画は「敵性映画」と見なされていたのですが、同盟国であるイタリアとかドイツとかはオッケーだったみたいなんですね。フランスもほんとは敵国なんですが、どうもフランス語がイタリア語とかと区別できず、スルーされてたとか。

 

塚本は、レコードをかける店にもよく通っています。

 

 ラパンという酒場があった。フランス語で飼兎(かいうさぎ)を意味する。軍港であるのに、敵国の言葉をつかう度量のひろさがあった。

 借りたままの本がある。返す機会がついになかったという。トリオという音楽喫茶があった。珈琲一杯で、何時間もねばった。

 

「今でも、空襲直前の夜に聴いた、モーツァルトの交響楽四十番のモチーフを耳にすると涙が溢れます。」(「初心忘るべし」)(p.125)

 

塚本さんのレコード趣味は有名ですが、戦時中の厭な気分を、こういう場所で紛らわせていたんでしょうね。

 

 呉九丁目の音楽喫茶「鳥雄」で、「国民服」を着た邦雄は、ベートーベンやバッハ、ヴェルディプッチーニレスピーギをむさぼり聴いた。

 ラパンの創業は、一九三一年。パリはモンマルトルの老舗シャンソンカフェ、「ラパン・アジル(跳ね兎)を真似ていたのだろう。海軍将校らも集まっていた呉のラパンは、「我々にはオフ・リミットでした。楽しみは音楽を聴きに〈トリオ〉へ行くのと今一つは映画です。当時、呉港館という、洋画専門館がありました。」(p.127)

 

「ラパン」の創業は1931年(昭和6年)とありますから、周作の姉で、モガ(モダンガール)だった佳子さんは、若い頃、このあたりのお店に行っていたかもしれません。

 

ダンガール、モダンボーイのいた昭和初めのころは、日本はまだ街に軍国的な雰囲気は薄かったのですね。そっから10年くらいでいっきに雰囲気がきな臭くなります。

 

また、塚本邦雄は、ここ呉で貸本屋に通い詰めています。

 

 邦雄は呉の貸本屋「桃太郎図書館」で、よく本を借りていた。

 太宰治の『晩年』と、強烈な出会いがしばしば語られる萩原恭次郎の『死刑宣告』(第二十三回参照)の二冊は、空襲がひどくなったので返却がままならなかった。広町にも貸本・古書店があり、足しげく通った。

 広の小川書店経営者はたまたま『木槿』同人で、あるとき、邦雄が会に入ったということを聞くと、これからは無料で良いと言ってくれた。これ幸いと、邦雄は店にある本をすべて読破した。中山義秀「厚物咲き」、太宰治の「虚構の春」や「右大臣実朝」、中島敦「光と風と夢」……。それらを読んだときの感激は、何年経っても鮮やかに頭に浮かべられた。(以上、「初心忘るべし」)(p.71)

 

萩原恭次郎は初期塚本に強い影響を与えました。また、塚本は太宰治もそうとう好きだったみたいです。初期塚本を作っていった本は、ここ呉で読まれたということです。

 

もっと言えば、塚本さんが短歌を作り始めたのも、呉においてです。

 

「当時、私、たしか広海軍工廠の方へ配属されていました。学徒仲間もたくさんいまして、中の一人が実は私にはじめて萩原朔太郎を教えてくれた男なんです。(略)」

 ――その友人と文学談をかわしていると、短歌をやってみる気はないかと誘われた。すすめられた二誌のうち、万葉調の、勤皇の志士のような歌がずらりと並ぶ『石楠』を避けて、『木槿』を選び、歌を出した。それが「初心」であるという。(p.129)

 

それで塚本さんは、繁華街の古書店で、結社誌のバックナンバーを探し求めます。

 

本通りの古書店で、『心の花』『水甕』『潮音』『靑樫』といった短歌雑誌のバックナンバーを入手した。(p.129)

 

本通りというと、現在の地図ではここですね。

 

 

ちなみに、さっき触れたすずさんと周作さんの繁華街デートで、2人が川を見ている橋(小春橋)があるんですが、

f:id:karonyomu:20161207205007p:plain

 (こうの史代この世界の片隅に』中巻 p.33)

 

 

映画にも出てくるこの橋は、

 

 

 

ここです。 

 

 あるいは、これも中盤ですずさんが闇市に行くシーンがあるのですが、ここの群衆の中に塚本がいる可能性もないわけではありません。

 

 

また、塚本は広海軍工廠に昭和16年(1941年)から勤めています。そして、そのお隣の「第11航空廠」に、すずの嫁ぎ先のお義父さんの円太郎が勤めているのです。当時の海軍工廠の組織図は下の通り。

 

f:id:karonyomu:20161207204033p:plain

こうの史代この世界の片隅に』下巻 p.12)

 

円太郎さんは、「第11航空廠」の発動機部。塚本さんは「広工廠」の会計部だったそうです。この下のコマ見ると、ほんとにお隣ですね。

 

f:id:karonyomu:20161207204105p:plain

 (『この世界の片隅に』下巻 p.15)

 

だから、ふつうに円太郎と塚本が話をしていた可能性もありますし、後半、「第11航空廠」と「広工廠」への爆撃で円太郎が負傷し、そのお見舞いにすずさんが病院に行くシーンで、塚本が病院内にいる可能性もあります。友人のお見舞いとかで。そういえば、この病室では負傷した海軍兵が、塚本の好きな「敵性音楽」のレコードをかけていました。

 

まあ、この頃の呉には、ピーク時には全国から10万人近い工員が集められたと言いますから、それだけ多けりゃそうそう知り合いにはなっていないかもしれませんが。

 

それと、他に可能性があるのは、原作にある花見のシーンです。

 

f:id:karonyomu:20161207204138p:plain

(『この世界の片隅に』中巻 p.131)

 

これは呉市・二河公園(にこうこうえん)ですが、塚本もここを訪れたことがあるようです。

 

『底流』十七巻夏号(昭和五十九年七月)に、邦雄の約四十年ぶりの呉再訪時の様子を報告した、「塚本邦雄先生に従いて歩きの呉」という吉富英夫(『木槿』同人)の随筆がある。

(中略)

 一行はまず、邦雄の希望で、二河公園を訪ねた。(p.71,72)

 

実はこのシーンは、映画にはないのですが、外国向けトレーラーの1分34秒のところにちらっと花見のシーンが出て来るので、シーンとしては作られていて、本編ではカットされたのでしょう。そのどこかに塚本が映っていたかもしれません。


In This Corner of the World full film trailer

 

 

そして後半の空襲のシーン。ああ、塚本邦雄はこの爆撃の中にいたんだ、と思いながら私は観ていました。

 

 敵機を撃ち落とすための高射砲が、耳をつんざく音で発射される。

 B29が超低空飛行で空に出現し、爆撃を開始。

 艦載機も来襲し、機銃掃射は婦女子であろうと動く者であればことごとく薙ぎ倒した。低空飛行のため、搭乗員の米兵の顔が見えたとは、戦争体験者がよく語る話である。一トン爆弾の爆風波、学生服のボタンをひきちぎった。

 爆撃は続く。

 六月二十二日には、工廠の造兵器地区は潰滅した。(p.121)

 

昭和20年6月22日に工廠は爆撃を受け、潰滅します。映画中で起きるとあるショッキングなシーンは、この日の出来事です。

 

 迫り來て機影玻璃戸をよぎるとき刺し違へ死なむ怒りあるなり

 

 右は、戦中に発表した最後の一連三首から(六月号、幸野羊三によるガリ版。発行自体が奇跡的であった)。絨毯爆撃に加えて、艦載機による機銃掃射で多くの一般市民が命を失った。

 

「昭和二十年八月、連日、焼夷弾が天から降つてゐた。」(『詩歌博物誌 其之弐』)

 

 空襲でガラスがびりびり響くとき、殺意が湧く。そのゆがんだガラスにうつった怒りの形相は、きっと、醜かった。(p.119)

 

「刺し違へ死なむ怒りあるなり」。空襲の最中、絵を描く人であるすずさんが「ああ、ここに絵具があれば」というシーンがあるのですが(この映画は戦争と表現の映画でもあります)、月並みな言い方ですが、塚本には言葉があったのですね。

 

しかし、「昭和二十年八月、連日、焼夷弾が天から降つてゐた。」。この焼夷弾がどういう焼夷弾かも、映画を見るとよくわかります。

 

また、塚本邦雄が昭和18年5月に工廠の避難訓練の際に作った次の歌、

 

ガスマスクしかと握りて伏しにけり壕内の湿り身に迫りくる  『初学歴然』

 

も、「壕内」が映画を見るとよく伝わります。

 

あとは、やはり、広島に原爆が投下されるシーン。

 

 呉での講演に、恐ろしい一節がある。

 

「私は実は呉から、広島の原爆の雲もまざまざと見た記憶をもっています。」(p.120)

 

あの日、呉の人々がみな見上げたであろうあの恐ろしい雲を、塚本邦雄も見ていました。

 

塚本邦雄は敗戦後、一週間で呉を後にします。後年、そのときを思い出して作ったのが、次のような歌です。

 

われが不在となりたる街に軋みつつ鹽積みて入りゆきし荷車  『装飾樂句(カデンツア)』

 

私はこの映画を、特に2回目に行ったとき、ずっと塚本邦雄の気配を感じながら観ていました。ああ、塚本さんはこんな風景を見ながら暮していたのか、と。そして、ラストシーン付近になると、ああ、もうここには塚本さんはいないんだなあと不思議な寂しさを感じたのです。

 

(メモ的に書いておきますが、塚本邦雄が呉にいたのは、昭和16年8月~昭和20年8月23日です。さっきも書きましたが、21歳から25歳まで。映画でいうと、序盤中頃~ラスト手前です。)

 

「呉というところは私にとって大変懐かしい、文学の故郷です。」(p.128)

 

塚本邦雄がこの映画に映っているというのは、まあ実際は大げさではあると思うのですが、でもやっぱり可能性は捨てきれません。そして、主人公のすずさんの住む家は、呉市を見下ろす山の麓の、高い所にあるのですが、そこからすずさんは何度も何度も街を眺めます。そのどこかには、塚本邦雄が、必ずいたはずなのです。実際に画面に映ってはいなくとも、この映画の時空間のどこかに塚本が存在し、主人公のすずさんと同じ空気を吸い、同じようにご飯を食べ、同じように眠り、同じように空襲に怯えていたはずなのです。

 

そして、私たちの知っている塚本さんがこの映画に出ているということは、この映画の日常は、やはり私たちの日常とつながっているということです。

 

呉の音や景色や光が本当にリアルに感じられますし、もっと言えば匂いや風や物の手触りまで感じることができます。塚本さんが青年期にどういった空気を吸っていたかを知るには、この映画以上のものはないのではないか、と思いました。

 

なんというか、この映画を見たときに、いままで感じられなかった塚本さんとの圧倒的な「近さ」を感じたんですね。

 

この世界の片隅に」を見ると、塚本邦雄理解が深まるでしょう。ぜひ、公開中に劇場へ!!

 

※引用中の塚本邦雄の歌・文章は表記上、一部旧字を新字にしています。

第35回 玉城徹『茂吉の方法』

茂吉「凡」歌 土岐友浩

f:id:karonyomu:20161130103329j:plain

茂吉の方法 (1979年)

 

これは、方法の書である。わたしは、もっぱら、斎藤茂吉が、その短歌において用いた方法のみを、考察の対象にすることを心がけた。あるいは、次のように言った方が正確かもしれない、茂吉の作品を通して、「短歌の方法」を探求しようとしたのだと。 (玉城徹『茂吉の方法』後記)

 

玉城徹。

その名前は飲み会でよく挙がるけれど、家に帰って『現代短歌の鑑賞101』をチェックしても載っておらず、どういう人なのかずっとわからなかった。

 

それもそのはず、伝え聞くところによると、玉城は自分の作品がアンソロジーに掲載されるのを、すべて断っていたそうだ。

だから玉城の歌は、迢空賞を取るくらい高い評価を得ているにもかかわらず、『現代の歌人140』でも講談社学術文庫の『現代の短歌』でも、最近出た河出書房新社の『近現代詩歌』でも読むことはできない。

 

その信条が、どこから来るのか。

僕は第二歌集『樛木(きゅうぼく)』の文庫版を持っているのだが、このあとがきを読むとよくわかる。

歌集『樛木』は『馬の首』に次ぐ、わたしの二番目の歌集で、昭和三十七年から同四十六年に至る十年間の作品を収めてある。

(中略)

編集はおおむね発表順によっている。わたしの場合、発表順、制作順ということは、それほど厳密な意味を持たないのであるが、作風のおもむろな変遷を観察する便宜にはなるかもしれない。一首一首の歌は、二、三誤りを正した箇所はあるにしても、ほとんど発表したままで手を加えてはいない。制作からあまり長い時間を隔てた推敲というものの意味を信じないからである。 (樛木後記)

 

歌集のあとがきとしては普通のことが書いてあるようで、ストイックな、手ごわい感じも受ける。

しかし、作品の配列、編成に関して言えば発表時とはかなり違っている。(中略)それは、わたしの場合、発表時の配列は、発表機関の性質や、その折の事情などによる偶然的、便宜的なもので、制作の時期や理由とは緊密な関係をもたないということが、一つの原因となっている。その限りでは雑誌等における発表は、わたしにとって仮発表にしかすぎないのである。

 

短歌の原稿依頼が来るときは、7首とか12首とか、必ず歌数が決まっている。10首の連作をつくりたいので10首でお願いします、というわけにはいかない。

しかし、それは雑誌の都合で、自分の制作意思とは関係がないのだから、歌集に収めるときは構成し直してしかるべき、というわけだ。たしかに一理ある。

別の面からこれを言えば、わたしの作品には連作は皆無なのである。わたしは、伊藤左千夫以来の一切の連作論を、論としても拒否するつもりである。近代短歌の堕落の一因は、連作態度の中にあるとつねづねわたしは思って来た。「群作」などと衣裳を替えてみても、事はそう変わるわけのものでもない。

 

……とひとり合点しそうになったのだが、どうもそういう話でもないようだ。

子規が試み、左千夫が「連作論」とともに発展させた短歌の連作というものを、玉城は「近代短歌の堕落の一因」だと根底から否定している。

いったい、どういうことか。

さらに別の面から言えば、わたしの作品は生の記録でないと同時に、ある観念の文学的表現でもない。この両者とも、今日のところ連作の形態をとることが避けられないもののようである。そして、方法としては両者とも形象的である。(中略)こうした方法は、わたしをして言わしむれば、短歌の根源的な叙情力を大きくそこなうものである。この方法と連作形態はだから表裏一体をなすので、両々相まって、一見短歌の表現力を拡張するごとく見せつつ、実は、短歌を散文の代替物の位置にまで引き下げるはたらきをしているのである。

 

ここのところはやや難しい。特に、観念を文学的に表現した短歌が形象的だというあたりが、抽象的すぎて、わかるようでわからない。「形象」はイメージと言い換えてもいいのだろうか。

一般に連作とは、場面を統一することで、テーマを掘り下げ、深めていく手法と理解されているが、玉城にとってそれは短歌の散文化であり、堕落なのだというのを、ひとまず押さえておこう。

しかし、この集の作品を単純に一首一首独立したものとして味わってほしいと言っているわけではない。わたしは連作を否定するにもかかわらず、作品の真の成立は歌集刊行という形式以外にあり得ないと考える。すなわち刊行された歌集こそ、一つの完結した作物なのである。

 

これは、文句なしにかっこいい。

 

短歌は歌集によって真に成立するというのだ。

歌人のプライドを見せてもらった、という感じがする。

 

賛成するかしないかはともかく、ここまで断言されると、さすがに一回くらい玉城徹の歌集を読んでみよう、という気になるではないか。

 

もうこれ以上の言葉はいらないくらいに思うのだが、ここまでで、あとがき全体の三分の一程度で、以下、玉城自身の短歌的スタンスの説明が、まだまだずっと続く。

それは機会があれば読んでいただくとして、『樛木』の作品を少しだけ読んでみることにしよう。

 

 年越えしゑのころの穂は濃き霧に水のごとくにわななきて見ゆ  玉城徹

 芽ぐみたる小さきものがしかすがにいちじくの葉のかたち具へつ

 冬枯れのしじに枝生ふるれんげうを夕べのかげのひたしたるかも

 

どの歌も、なるほど、ただの自然詠とは一味違う。

 

一首目は、一月の初め、枯れた猫じゃらしが霧の向こうに揺れている、という光景のようだが、僕の知っている猫じゃらしとはまったく違う。二首目も、ただの小さな葉っぱに、作者がなにか宿命的なものを見出していることがわかる。

三首目は、好きな歌だ。「しじに」は「繁に」で、隙間なく、みっしりとの意味。下句の「夕べのかげのひたしたるかも」がとてもいい。たしかに、こういう夕暮れの木を見たことがある、と思う。

 

歌集で有名なのは次の一首だろうか。

 

 冬ばれのひかりの中をひとり行くときに甲冑は鳴りひびきたり

 

この歌が印象に残るのは、ベタだけれど、やはり玉城徹という歌人と、騎士ドン・キホーテのイメージがぴったり重なるからだという気がする。

 

 *

 

『茂吉の方法』は、1979年、玉城徹が54歳のときに刊行された評釈本である。

キーワードは書名の通り「方法」だ。

斎藤茂吉が、もっとも卓越した近代歌人の一人であることは、疑いをいれぬところである。しかし問題は、茂吉の歌人としての優秀性は、いったい、何に由来するかという点である。わたしは、批判的な方法意識の確立こそ、茂吉を他にぬきんでさせた根本のものであったと考えている。 (「茂吉の方法」後記)

 

茂吉は、天然、素朴、天性の歌人、ともすればそういうイメージがあるかもしれないが、それはそれとして、きわめて「方法」に意識的な歌人でもあった、というのが本書のメインテーマである。

 

特に前書きもなく『赤光』の一首の引用から本文は始まる。資料的な考証や制作時の茂吉の境遇、そういうものはほとんど無視して、玉城は選んだ歌をただ読んでいく。

『赤光』から最終歌集の『つきかげ』まで順に、俎上に載せられたのは計133首。茂吉の代表歌もあれば、玉城ならではの選歌もある。

 

「方法」とは何か。少なくとも、単なる技術とか技法のことではない。

方法とは、作品の内部で探求され、そして作品の方向を内部から変更してゆくものであり、それは、綜合的な概念なのである。作家が、自分の素質(テンペラマン)に従いながら、自分と現実世界との間に通路を発見してゆく、そういう精神の活動全体が方法とよび得るものである。

 

それは作品の内部に宿り、歌全体をいきいきと動かすものなのだ。

この意味で、玉城の言う「方法」は、他の作品や、連作に還元できるものではないというのも納得できる。

だからこそ、一首一首をそこに書かれたことだけに即して、できるだけ正確に読むことが、なにより重要になる。

 

このあたり、第2回で永井さんが取り上げた花山多佳子の『森岡貞香の秀歌』を思い出す方も多いのではないだろうか。永井さんの言葉を借りれば、「歌がある。それを読む。ザッツオール」という姿勢は、ここから受け継がれたものだ、と考えてもよさそうだ。

 

では、具体的にどんな歌がどう読まれたのかを見てみよう。

 

 さむざむと時雨は晴れて妙高の裾野をとほく紅葉うつろふ  『ともしび』

 

風景を風景として、つまり、風景としての立体性、遠近性においてうたおうという努力は、近代もだいぶ後になってあらわれてきたかと思える。(中略)ここに掲げる一首なども、茂吉が先師、左千夫の試みを継承し、発展させたものと言うことができる。そして、なかなかに効果をあげている。

 

子規の時代は、自然を描くといってもスケッチのようなものだったのだが、左千夫以降、自然をより奥行きのある風景として捉え、表現しようという動きが出てきた。

 まず二段に切った手際があざやかである。前段二句で、時雨のはれた山のさむく鋭い空気と光線だけを感じさせた。そして、第三句ではじめて、「妙高の裾野を」と、大景を言いおこしている。そのために、二句末の「て」が軽くならず、そこで、深く、しっかり歌がきれている点は注目すべきである。

「裾野をとほく紅葉うつろふ」はきはめてすぐれた句で、十分に快感を味わわしめる。まず一番に「を」の助辞が良い。これがために、裾野のひろがりが、静止的な空間としてでなく、運動として感じられてくる。「うつろふ」もたくみである。すがれかかって、色もくすんできたのを、「うつろふ」と包括している。時間的な語だから、それによって、大きな空間を代置した結果になった。ここで、視覚印象的なことばを出すと、どうしても、部分的になることを免れがたい。せっかく「妙高の裾野をとほく」と言ってきたのと、規模の合はぬ、ちぐはぐな視覚印象に縮小せざるを得なくなってくる。

 

できればここは読み流さず、歌と評をじっくり読み比べてほしい。

助詞の「て」や「を」の効果や「うつろふ」の巧みさを、ものすごく精密に、過不足なく、しかもわかりやすく批評している。鑑賞としても、評者の感動がよく伝わってきて、歌会でここまで言えたら100点というくらいのものだ。

 風景遠近法は、短歌の叙情にあらたに大きな負荷をかけるものであった。それは、うっかりすると、短歌形式を破壊しかねない。しかし、一方からいうと、それは短歌の方法に対する異質な抵抗として、その拡大のために大きな刺激となったことも認めないわけにはいかないだろう。

 この一首に、一つの解決があったことはたしかである。しかし、実作の上でこれを一歩踏みこえるということは、そうたやすいことではない。「踏みこえる」という意識をもつことすら容易ではない。批評というものの存在意義は、この「踏みこえ」をすこしでも助けることにあると言ってよかろう。

 

この歌について言えば、大きな景を描くために時間的な表現を持ち込んだという「方法」を見出しているわけだけれど、僕などは、最後の「よかろう」あたりのかっこよさに痺れてしまう。

 

 *

 

佐藤佐太郎と塚本邦雄は、その名も『茂吉秀歌』という本を書いているが、『茂吉の方法』でピックアップされるのは、必ずしも秀歌とはかぎらない。

玉城はむしろ見逃されそうな歌に注目し、その読み方を読者に教えてくれる。

 

 公園の石の階より長崎の街を見にけりさるすべりのはな  『つゆじも』

 

 小高いところにある公園であろう。その石の階から街を見下ろすことができる。平明に、ごく単純にうたっていて、対象を力づくで表現しつくそうとしたところが見えない。ほとんど、日記がわりの記録的一首という風に、さらりと歌っている。

 四句を「見にけり」と端的に言い切って、結句にぽつんと「さるすべりのはな」とだけ言ったのも、何か、手を抜いた不十分な言い方のように思える。これでは、どこに「さるすべり」が咲いているのかわからぬという苦情も出そうである。

 

これなど、歌集で読んでもそのまま通り過ぎてしまういい例だろう。しかし玉城はこの歌に立ち止まり、読む者の視界を広げていく。

 この歌、一見いかにも欲のない歌いぶりでいながら、夏陽の下に広がる明るい都市、そのところどころに咲く百日紅のくれない。そういう情景をうたいながら、見下ろしている作者の孤独な胸中の煩悶を、いつか読者に伝えないではいない。ことばとして言ったものしか伝えないというのであれば、三十一音の短歌は、はじめから、長い詩にも、小説にも太刀うちできないにきまっている。

 ぽつんと最後に「さるすべりの花」*1 とつぶやくように加えているところが、じつは、作者の心の鬱々たる状態を、具体的なすがたで読者に感じさせてくれるのである。

 

いい批評は、歌の見え方をあざやかに変えてくれる。

見はるかす街の風景と、さるすべりの花の対比。それだけにとどまらず、玉城は「さるすべりのはな」に茂吉の苦悩する心を読み取っている。

ここまで読むことができれば、この一首を『つゆじも』という歌集の中にどう位置づけたらよいのかも、おのずと明らかになるだろう。

 

僕が本当にすごいと思うのは、こういう地の歌を、丁寧に、過大評価することなく読んでいることだ。だから、本書は隅から隅まで、どこを読んでも勉強になる。

 

 鳳仙花いまだ小さくさみだれのしきふる庭の隅にそよげり  『あらたま』

 

 大正六年作。茂吉としては目だたぬ部類の作と言えるが、わたしは、このような歌にひどく愛着をおぼえる。まだ茎の伸びぬ、小さな鳳仙花が、庭の隅で、ふりしきるさみだれの降る中に、たえずそよいでいるというだけにすぎない。

 一首の隅々にまで、鳳仙花のそよぎがみちわたっていて、ほかに余分なものが感じられないところに、この歌の生命がある。つまり感傷というものがほとんど影をひそめている。

(中略)

 茂吉がこうした感傷を、みずからの作歌行動の中で否定し、克服していったところに、彼のゆたかさ、偉大さが生まれたという理解をしている。

(中略)

「鳳仙花」一首には、まだ弱弱しいものとはいえ、感傷性離脱の一歩が見られる。それをわたしは尊重したい。感傷をはなれて、茂吉は、鳳仙花の「そよぎ」そのものと一体になろうとしている。そこに、愛すべき歌の「すがた」が出現している。

 

こういう一見なんでもないような歌に、玉城は、感傷から脱却しようという茂吉の作歌姿勢を読み取っている。

 

本書は玉城自身が繰り返しているように、一首一首の歌を読むこと、ただそれだけなのだが、その積み重ねによって、やはりひとつの視座というか、玉城の茂吉論が顔をのぞかせているように思う。

 

一方で、有名な「白桃」や「逆白波」の歌には、玉城はダメ出しをしている。その視点や書きぶりが、とてもユニークで面白いので、こちらもぜひ読んでみてほしい。

第34回 岡井隆『森鷗外の『沙羅の木』を読む日』

永井祐

こんにちは。

今日は、さいきん読んだ本からやります。

 

森鷗外の『沙羅の木』を読む日

森鷗外の『沙羅の木』を読む日

 

 

 

岡井隆『森鷗外の『沙羅の木』を読む日』(幻戯書房)。今年の7月に出た新しい本です。

これは、1914年、大正4年に出た森鷗外による詩歌集『沙羅の木』を、

岡井さんがエッセイ調というか、雑談も含めつつ自然体な感じで作品を一個一個読んでいく、という本です。

『沙羅の木』は鷗外53歳のときに刊行なのですが、けっこう不思議な本で、

構成が、ドイツの詩人の翻訳・自作の詩・自作の短歌の三部立てになっている。

それで、鷗外の残した仕事の中では、あんまり研究とかされてない本らしいのですが、

岡井さんはこの風変わりな書物の謎を新たに解明するのかと思いきや、

それほどしないです。

ときどきで鷗外の意図について考え、「~かもしれないのだ」とか言うだけです。

それよりは一個一個作品を読んでく過程を大事にする感じですね。

 

さて森鷗外。

わたしは実は今年になるまでさほど興味がなく、作品もあまり読んでいませんでした。

ところが今年、「新・観潮楼歌会」という、文京区の千駄木にある森鷗外記念館主催の

イベントに出たのがきっかけで、文庫とか読んでみて、すごくピンとくるものがあって、すっかり好きになりました。

わたしが好きなのは彼の歴史小説です。「阿部一族」「護持院原の敵討」「最後の一句」などの。現代物で「百物語」とか「鶏」もとてもよかった。「カズイスチカ」も好きでした。

逆によく言及されてるけど「かのように」とか「普請中」とか「妄想」とかは、よくないと思います。「かのように」とか、言ってること中二っぽい気がしますね。

歴史小説は、昔なのにスーパーリアルなんですよね。やりとりとか、こういう流れで切腹するのかとか。昔の人が昔の人の論理のまま動いていて、1ページごとにおどろきがある。いわゆる時代小説とはまったく違うもので、こういうものをわたしは読んだことがなかった。

そういうわけでけっこう鷗外ファンになったので、友人知人に鷗外トークをしかけてみたのですが、みんな反応がひどかった。「あの最低の人ですよね」という反応が一番多かった。

これはどうも教科書の「舞姫」押しのせいであるようです。

鷗外というと「舞姫」が定着しすぎていて、日本の近代を代表するクソメンみたいなイメージになってしまっている。

ちょっとおおげさに言うみたいですが、文学史へのリスペクトとか別にない人からすると、けっこうそんな感じになってるんですよね。

そこで、知人の学校教師に「舞姫」はもうやめよう、最高の歴史小説か、オフビートな現代物の短編にしようと言ってみたのですが、その人が言うには、

「『舞姫』は授業での議論が盛り上がる」

とのことでした。

そうかもしれない、という感じがしました。「現場の声」です。現場では現場の論理によって「舞姫」が求められているのかもしれません。世界の複雑さをあらためて感じる出来事でした。

 

 

この本には、取り上げる詩が一回一回全文引用されます。

『沙羅の木』に入っていないものも、話の流れでどんどん引用されます。

それを読むのが今回は楽しかったです。

 

シャボン玉   ジャン・コクトオ

 

シャボン玉の中へは

庭は這入れません

まはりをくるくる廻つてゐます

 

 

これとか、すごくよかった。

シャボン玉と庭の情景が自分の記憶のように焼き付いて、

もう忘れません。

上田敏による名訳と言われるものだそうで、日本語の音感とですます調の選択がパーフェクトな出来ですね。

 

歌会に出て、世代の若い歌人たちと話していると、わたしと翻訳詩読みの体験を共有している人は、少く(あるいは絶無に)なりつつある。

 

と岡井さんは書いていますが、わたしはそのとおり翻訳詩をろくに読んでいないので、この有名な「シャボン玉」も今回はじめて知りました。

次は鷗外の創作詩の冠頭のもの。

 

沙羅の木 

 

褐色(かちいろ)の根(ね)府川(ぶかは)石(いし)に

白き花はたと落ちたり、

ありとしも青葉がくれに

見えざりしさらの木の花。

 

 

各行が五七調になっている四行詩。

根府川石」は、神奈川県の根府川に産する輝石安山岩で、石碑などに使われるとのことです。

「褐色」は濃い紺色。

「さらの木」はいわゆるナツツバキの木で、十メートルに達する高い木、花は六月ごろ咲いて、あっさりと散る。

 

詩の意味するところは、濃い紺色の敷石の上に、今まで青葉にまぎれて見えなかった白い花が、あっというまに、高い木から散り敷いているというだけのことだ。これを象徴詩だという解があるので、それに従って思えば、これは単なる、眼に見たものを写生した即興の詩詠ではない。

落ちてこそ(死してこそ)、はじめて気付く花がある。それも背景に褐色の敷石があってこそ、はじめてあざやかにその存在に気付くということなのである。それらが、ア母音の頭韻風の扱いと、イ母音の脚韻風のあしらいによって、こころよい響きと共に歌われているのである。なお「根府川」のような地名―それも「ぶ」という濁音が目立つ単語―が、異物として、よく効いていて、詩の重石(おもし)になっている。

象徴詩として、つまり、石や花やを寓意のあるものとして解いてみたが、もちろん、これを庭の景色をみつめて作った即興の詩として読むことも自由である。

 

 

こういう感じで、岡井さんと一緒に詩を読んでいこうというのがこの本です。

わたしは、一緒に読んでもらわないとこれとかちょっと、一人では読めないですね。

普通に意味をとる。

音韻を感じる。

そして、寓意を考える。

この寓意っていう要素が、わたしにはあまりなじみのないもので新鮮でした。

古い詩とか読むときにはやっぱり欠かせない要素なんでしょうか。

でもこの詩はなんとなく好きでした。さっぱりしてて、上の方の見えないところに白い花がたくさん咲いているというイメージがこころよかった。

 

ほかには、これなんかも。

ドイツの詩人、デエメルの詩。

 

泅手(およぎて)    リヒァルト・デエメル

 

助かつた。さて荒海と闘つて

纔(わづ)かにかち得た岸の土を手で撫でた。

その土をまだ白沫が鞭打つてゐる。

さて荒海を顧みた。

 

さて灰色な陸の四辺(あたり)を見廻した。

陸は昔ながらの姿に、固く、又重くるしく、

暴風の中に横(よこた)はつてゐる。

 

ここはこれからも不断の通であらう。

さて荒海を顧みた。

 

 

これは、「およぎ手」なので、

「助かつた。さて荒海と闘って

わづかにかち得た岸の土を手で撫でた」

というのは、荒海の中を泳いできて、なんとか岸にたどりついたというシチュエーションになります。

 

鷗外の訳詩を一篇の人生寓話詩あるいは箴言詩として読んでみる。そうすると、わたしなどが、人生の争闘を諷刺しているなと思うのは、第二連の「陸は昔ながらの姿に、固く、又重くるしく、/暴風の中に横はつてゐる。」というところである。泳ぎ手の男は、荒海と闘って、やっと岸にたどりついた。「助かった!」と思ったのも束の間のこと。やっと戻って来た陸地が「昔ながらの姿で固く重くるしい」ものだったのだ。海も荒れれば大へんではあるが、かといって陸地も安らぎの地ではないのだ。そして「ここはこれからも不断(普段)の通(とおり)であらう。」(変りばえもしない、世界なのだ)という認識におちつく。と読めば「さて荒海を顧みた。」の最終行の感慨も、単純ではない。荒海が、なんとなく、なつかしい場所のように思われるのではないか、と読みとくことも出来るのだ。

 

なるほど。助かってやっとたどりついた陸地なのに、灰色で「昔ながらの姿で固く重苦しい」ところがポイントであると。

僕はこれもけっこう好きでした。雄々しい感じですけど、読むと灰色の平たい土地が広がってて気が遠くなるような感じがします。人生の寓話だと言われるとそうかもしれず、ハードな相田みつをというニュアンスもあるかもしれませんが、なんか、景色もそうだけど世界観が日本人じゃないような気がしますね。

 

こうやって一つずつ、古い詩を読んでいく本です。原文を引用したりもしながら。

けっこう楽しいですよ。古い訳詩はなんだか新鮮なものがあるし。

最後にもう一個好きだったやつを、長いので前半だけ。

 

馬と暴動  石原吉郎

 

われらのうちを

二頭の馬がはしるとき

二頭の間隙を

一頭の馬がはしる

われらが暴動におもむくとき

われらは その

一頭の馬とともにはしる

われらと暴動におもむくのは

その一頭の馬であって

その両側の

二頭の馬ではない

ゆえにわれらがたちどまるとき

われらをそとへ

かけぬけるのは

その一頭の馬であって

その両側の

二頭の馬ではない

 

 

岡井さんは「難解な寓話詩」と言っていますが、けっこうわかるような気がしますね。

まず二頭が走るんだけど、その間から一頭の馬が出てくる。その一頭の馬とともにいく。

というのは原文を繰り返してるだけなので、寓意を解するというのとまったく違うのかもしれません。でも何かやるっていうときに、そういう感じがあるというのはわかるような気がします。

こういうLINEスタンプがほしい気がします。自分の中に、二頭の間の一頭が出たときに、ドンと押してみたいと思います。

第33回 前田透『落合直文―近代短歌の黎明』

 「近代短歌」の祖、落合直文  堂園昌彦

落合直文―近代短歌の黎明 (1985年)

落合直文―近代短歌の黎明 (1985年)

 

 

こんにちは。堂園です。

 

今回やるのは、前田透著『落合直文―近代短歌の黎明』(明治書院、1985)です。

 

私の前々回、第27回で新体詩=明治10年代の話をしました。そんときに、「まあ、今回はこの話はこれくらいにして、明治20年代の話はまた今度にしましょう。」と書きましたが、今回こそが明治20年代の話です。ようやく本が手に入りました。

 

ちょっと復習しときましょう。以前にも書きましたが、明治期の短歌の改革の流れは

 

⓪政治の改革に忙しくて文芸改革まだ(明治ひとケタ年代)

新体詩の登場(明治10年代)

新体詩に影響を受けた様々な試み 落合直文与謝野鉄幹など(明治20年代)

③「歌よみに与ふる書」(明治31年)、『明星』創刊(明治33年)

 

でした。①は第27回でやりましたね。

 

で、今回は②のところ。主役は明治20年代短歌のキーパーソン、落合直文(1861~1903)です。

 

落合直文っていっても、たぶんほとんどの人は知らないと思います。ちょっと知ってる人でも「あ、あれでしょ? 近代短歌アンソロの一番はじめに載ってるひと。あと? あとは、うーん、よくわかんない」みたいな感じじゃないかと思います。私もまさにそんな感じです。

 

落合直文が近代短歌のスタート地点にいるのはたぶん定説っぽいんですが、ひとつ下の世代の、与謝野鉄幹佐佐木信綱正岡子規の、和歌改革三銃士にくらべて、かなり知名度が低いです。そのことは、この本のいちばん初めの「緒言」でも縷々述べられています。これ、ちょっと言い方おもしろいんで、引用します。

 

近代短歌の流れを遡って行くと、その水源地帯に連なる山々の、もっとも奥に位置する山に行き当たる。それが落合直文である。和歌革新期に屹立する群峯の奥に霧をまとって、今はもうさだかに見えぬ水源のこの山をきわめようとする人はまれである。それは、その山が意外に平凡であって、旧派和歌と峰つづきの、ほんとうに水源地であるかどうかも判然としない、きわめるだけの価値の乏しい山であると思われがちなことにもよろう。実際、直文の作物にはたいして取柄のない感じのものが多いことは事実である。(p.1) 

 

わお! 直文、いきなりディスられてます。「直文の作物にはたいして取柄のない感じのものが多いことは事実である」ってすごい言われようです。近代短歌の源流を探っていくと落合直文にたどり着くけど、見てみると旧派なんだか新派なんだかわかんないし、しかも作品そんなにおもしろくない、ってことです。

 

こないだ出た河出書房の日本文学全集『近現代詩歌』の穂村さん選でも、子規・鉄幹・信綱は載っているのに、落合直文は載ってないですしねー。実際、愛弟子鉄幹にも、落合直文はその「古典的趣味と古典的技巧」によって「実感の自由なる表現」が妨げられていた、とか言われてます。直文、けちょんけちょんです。

 

しかしよくよく読んでいくと、落合直文、なかなか侮れません。どうして、和歌が「近代短歌」になったのか。その話をするときに、落合直文は外して考えることはできないと思います。著者の前田透さんも「しかし、歌人直文の存在は決して小さなものではない」と述べています。直文、めっちゃ重要です。

 

落合直文のちゃんとした本は、実はこの前田透『落合直文―近代短歌の黎明』1冊しか読んでないんですが、たぶんですけど、現時点での直文の評論の決定版なんじゃないかな。それくらい、この本、おもしろかったです。

 

あ、前回「なるべく短くします」とか言いましたが、撤回します。今回くそ長いです。

 

 

はい、まず落合直文の生まれからです。落合直文は旧伊達藩の重臣・鮎貝盛房の次男として、明治維新(1868年)のちょい前に生まれました。1861年(文久元年)、現在の宮城県気仙沼市の生まれです。

 

生まれから話始めるのは、タルいかもしれませんが、今回けっこう社会の話したいので、わりと重要なんです。すいません。

 

「旧伊達藩の重臣の子として明治維新のちょい前に生まれた」ってどういうことかというと、生まれてちょっと経つと実家が速攻没落した、ということです。明治維新は薩摩・長州・土佐・肥前の各藩が中心となって行われましたから、旧体制派であった伊達藩は、明治政府ができるとかなり縮小させられてしまうんですね。

 

で、直文ん家である鮎貝家も、お家お取りつぶしではないものの、部下や召使を全部解雇しなきゃいけないくらい貧乏になってしまい、多かった兄弟もほとんど養子に出さざるを得なくなります。

 

うわー、困った。しかし、この次男の直文(このころは幼名・亀次郎)は、かなり勉強ができました。12歳のときに地元仙台に仙台中教院という僧侶・神官を育てる学校みたいなのができたので、入学します。で、その運営をしていた国学者・神官の落合直亮(なおとし)に才能を見込まれて、落合家の養子になります。

 

この落合直亮は明治中期に「仙台六歌人」と称された桂園派(=伝統派)の歌人でもありましたので、家庭環境的に、和歌の素養があったみたいです。落合直文も影響を受けてか、若いころから和歌を作っています。あと、このお養父さんは元々は尊王攘夷派の幕末志士で、新政府の要人である岩倉具視を暗殺しようとして逆に丸め込まれたという過去を持っていたりします。

 

そんなこんなで直文(亀次郎)は、神官の家の子になりました。ゆくゆくは自分も神官になるつもりで、学校で勉強しています。17歳のときにお義父さんの落合直亮が、別の神官養成学校である伊勢神宮教院に招かれたので、亀次郎もついていきます。伊勢なので、三重県ですね。

 

そろそろ直文のキャラがどんな感じかわからないと、読んでてイメージしにくいと思うので17歳ぐらいの時の直文(亀次郎)の学校での評判を言っておくと、

 

亀次郎の寮の副寮監であった青戸波江(のち国学院教授、神道学の権威と言われた。(略))は、亀次郎が勝ち気で負けぬ気の性格であり、撃剣に秀れ、野仕合の時には寮生がきそって落合方に入ろうとしたこと、青戸と有神無神の議論をして、青戸が無神論で圧倒すると口惜涙をぽろぽろこぼして立ち向かって来たこと、歌は堀秀成・植松有園に習い特に有園を敬慕したこと、寮で一夜百首会をやったことなどを語っている。(p.41)

 

という感じでした。

 

スポーツも勉強もできて議論好き、クラスの人気もあって、自分に自信のある勝ち気なタイプですね。

 

まー、線の細い文学青年ではなく、はったりの効いたガッハッハタイプでしょうか。「和歌がうまい」っていう評判もかなりあったみたいで、かなり嘘っぽいんですが「桜の歌を二万首詠んだ」とかいう伝説もあるとかないとか。

 

勝気で負けずぎらいな、才気煥発と大言壮語癖のある、東北出の青年、といったものであって、歌に思いをひそめる文芸好きな若者という感じは全くない(p.43)

 

て感じですね。

 

この神官学校は政府から保守系の人材を養成することを求められていたんですが、実際の勉強は博物学とか、ギリシャ・ローマ史とか、新旧約聖書の勉強とかも入っていたらしく、けっこう開明的でした。それがあってか、だんだん同じ保守系仏教側からいちゃもんつけられたりしだします。亀次郎はここで頭角を現し、のびのびやってたんですが、ごたごたしてきたんで「東京に上京したいなあ」と思うようになっていきました。

 

それで、明治14年に21歳のときに、東京に出ます。私塾である二松学舎にちょろっと入って、翌年、22歳で東京大学古典講習科(のちの文学部国文科の前身)に入学します。

 

はい! 直文が東大に入って幼年期が終わったので、そろそろ社会の話をします! めんどくさいとは思いますが、覚悟して聞いてください。

 

直文のこの時点での社会的階層(クラス)はどんなところにいるのか。それを説明したくて、これまで長々しゃべってきました。

 

まず、旧体制派である伊達家の子弟という出身。これは、薩摩・長州・土佐・肥前出身ではない、ということを意味します。つまり、明治政府の中枢を牛耳っていた藩閥に入れない、非藩閥系士族の子弟ということです。

 

要するに、エリートではあるけれども、政治に直接かかわるスーパーエリートにはなれないということを意味します。どう頑張っても軍人・政治家として頭角を現すのは難しいということです。

 

これにかなり近い境遇なのが、旧松山藩士の長男である正岡子規ですね。直文より6歳年下の子規も、同じように東京大学へ行き、国文科に進学しています。

 

こういう環境の若者たちはどうするのか。言ってしまえば、学問や文学くらいしかできることがないのです。

 

維新後最後の武力反乱となった西南戦争の終結と共に、明治藩閥政府の中央集権は強固なものとなり、従前にもまして東京がすべての中心となった。どの分野でも社会の上層部に抜け出ようとする青年には、東京に出るということが先決問題であった。殊に旧「賊軍」佐幕藩士族の子弟は、軍人になっても先の望みがなかったから、東京で学問をして身を立てることが、残された活路である。(p.53)

 

鹿島茂はこのことを『ドーダの人、森鷗外』(2016、朝日新聞出版)で、人口動態から説明しています。

 

まず、人口のうち青年男子の識字率が50パーセントを超えると、政治的な革命が起きます。この状態は「息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界」であり、必然的に家庭内での権威関係が不安定化し、ゆくゆくは国家体制をゆるがす、ということです。

 

青年男子の識字率が50パーセントを超えるのは、フランスでは1770年ごろであり、日本では1850年ごろだそうです。そこから社会は不安定になり、20年後くらいに革命が起きます。すなわち、1787~1799年のフランス革命であり、1868年の明治維新です。

 

これを日本のケースに当てはめた場合、一八五〇年から六〇年の間に二十歳に達した男子というと、一八三〇年から一八四四年まで例外的に続いた天保年間に生まれた世代ということになる。たしかに、この天保世代の男子、なかんずく、あらたに識字階級となった下級武士階級と上級農民階級の青年が明治維新を担ったのだ。彼らは、いずれも保守的な父親や家族と戦い、家庭内でのしがらみを断ち切って江戸へ京都へと出奔して行った。(『ドーダの人、森鷗外』p.64)

 

で、政治的革命が起きた後30年くらいして、今度は文学・思想の革命が起きます。フランスでは、1830年前後にロマン主義革命が全盛になり、日本では明治20年代に坪内逍遥、森鷗外たちが登場してきます。

 

なぜ政治的革命の約30年後かというと、政治的革命によって公教育が普及し、都市部の商工業者、官吏、あるいは没落した中産階級、農村の有力者などの下層中産階級が識字階級に組み込まれるからです。

 

親には多少の金があっても教養がないか、あるいは多少の教養はあっても金がないというような中間階級の子弟、とりわけ男子が公教育というバイパスによって識字階級に組み入れられることになったのである。(『ドーダの人、森鷗外』p.66)

 

旧伊達藩の重臣の子である落合直文は、ばっちり「没落した中産階級」です。

 

ところで、この公教育世代というのは、政治体制は革命から三十年以上経過し、社会は政治的に安定を見ているため、前世代の政治・社会的なドーダ人間(堂園注:政治・社会的行為で自己愛を満たす行動をする人々)と異なって、政治権力の奪取には向かえない。政治分野はすでにニッチが塞がっていて、付け入る隙間は存在していないのだ。(『ドーダの人、森鷗外』p.66)

 

なので、文学・思想に向かうんですね。明治20年代の日本に急に文学者が出て来るのは、こんな理由によります。具体的には、慶応4年(1868年)を挟んで前後5,6年の間に生まれた人々が、明治の文学革命を担っていきます。

 

坪内逍遥 安政6年(1859)

落合直文 文久元年(1861)

森鷗外 文久2年(1862)

二葉亭四迷 元治元年(1864)

夏目漱石 慶応3年(1867)

幸田露伴 慶応3年(1867)

正岡子規 慶応3年(1867)

山田美妙 慶応4年(1868)

北村透谷 慶応4年(1868)

巌谷小波 明治3年(1870)

国木田独歩 明治4年(1871)

田山花袋 明治4年(1871)

島崎藤村 明治5年(1872)

岡本綺堂 明治5年(1872)

与謝野鉄幹 明治6年(1873)

 

という感じ。この人たち、ほとんどが非藩閥系士族の子弟なんですね。

 

また、没落した旧体制派の子弟で、かつ尊王攘夷の志士くずれである国文学者・神官の家の養子となったという出自は、反権力的であり、素朴なナショナリストの性格を直文に植え付けることになりました。パブリックなものに関わっていこうという意識がかなり強いです。ここもポイントです。

 

パブリックなものにかかわって行く姿勢は、明治中期以後の詩歌人にはほとんど見られない。それは『小説神髄』以降、小説作家から「公」への志向が脱け落ちて行ったのと同様である。日本近代文学は「公」へかかわって行く視点を消去して、「私」の内部に下降することを正道とした。(p.47,48)

 

 

はい、落合直文の社会的クラスはこんな感じなんですが、直文自身はかなり生き生き勉強します。東大古典講習科が馬に合ったみたいです。勉強のできる直文は、ここでもめきめき目立っていきます。

 

かなり楽しく過ごしていたんですが、なんと政府から突然徴兵の報せが来ます。これには直文びっくりしました。当時、家の長男とか養子とかは、だいたい徴兵免除されていました。長男が戦争に行って死んでしまうと、家がなくなってしまうからです。養子もだいたい跡取りなんで、おんなじです。落合家の跡取りだった直文には、普通、徴兵の命令が来ることはないはずなんです。

 

なにかの手違いか、嫌がらせか。このへんよくわかってないらしいんですが、直文はしぶしぶ東大を退学し、中国で3年間の兵役につきます。向こうではそれを同情されたのか、文章読んだり書いたりできる、それほどしんどくない仕事に就かされたようです。

 

3年後の明治20年、27歳で兵役から帰ってくると、お養父さんの落合直亮は地元宮城県気仙沼に帰ってきて教師でもやれよ、というのですが、直文は学問・文学で身を立てると宣言します。大学中退しちゃって地元で教師になってもそんな偉くなれないし、あと、国文学がなんか性に合ったんでしょうね。

 

学問・文学で身を立てる覚悟のためか、このころから、幼名の「亀次郎」ではなく「落合直文」を名乗っています。

 

はい、このあたりから第27回を思い出してください。明治15年に『新体詩抄』が出て、文芸の世界では新体詩がメインストリームになるというあのくだりです。

 

落合直文の名前が初めて活字になったのは、明治21年2月発行の「東洋学会雑誌」に発表された「孝女白菊の歌」です。これ、第27回でも出てきましたね。

 

阿蘇の山里秋ふけて

ながめさびしき夕まぐれ

いづこの寺の鐘ならむ

諸行無常とつげわたる

をりしもひとり門(かど)に出で

父を待つなる少女(をとめ)あり……

 

これですね。

 

これで直文は、バン! と有名になります。この「孝女白菊の歌」は大評判で、1年のうちに17の雑誌に転載されたそうです。

 

なんでしょうかね、愛唱性があったんですかね。『新体詩抄』の詩は硬かったですから。当時唱歌の流行が始まっていて、「孝女白菊の歌」は歌唱としてメロディつきで歌われることで、全国的に広まっていったみたいです。

 

古典講習科の後輩である佐佐木信綱が初めて落合直文に会ったとき、「孝女白菊の歌も読んでおり、その文名はよく知っておった」とか言ってますから(佐佐木信綱『作歌八十二年』)、そうとう名前は知られてたみたいです。佐藤春夫とか和辻哲郎とかも、小さいころに愛唱したと言っています。

 

同時にいろんな学校にも国文学の講師として出向くんですが、ここでも人気沸騰。一高(第一高等中学校)の講義は人があふれて入れないほどだったそうです。

 

そんな感じで名前が有名になったせいか、明治22年にドイツから帰ってきたいっこ下で27歳の森鷗外に「一緒に文学をやらないか」と誘いを受け、「新声社」というグループを形成します。そして、新声社が出版したのが、日本文学史上に名高い翻訳詩集『於母影』です。

 

『於母影』は、まず森鷗外がドイツ語の詩をざっと訳し、それを新声社のメンバーがよい日本語に整えてく、という制作過程を取ったそうです。文芸的にはまだ無名の鷗外は、当時最もメジャーな新体詩人としてかなり直文を頼りにしていて、いろいろ文法や仮名遣いを聞いたみたいです。 

 

実は森鷗外の先輩・先生格なんですね、直文は。そりゃえらいわ。後年、直文が亡くなったあとに森鷗外は一高の受験に失敗した直文の長男を一時家に預かっていて、鷗外はかなり寂しい人だったらしく、家族が出払うと直文の息子はよく話相手をさせられたのだとか。

 

余談ですが、この直文の息子さんは学識豊かな鷗外とのトークがよっぽど楽しかったらしく、熊本の第五高等学校に入ったのですが、鷗外の話に比べて学校の講義がいかにもつまらなく、せっかく苦労して入った第五高等学校を中退してしまいます。その後朝鮮に渡ったあとも、鷗外の命日には彼が大好きだったふかし芋を、どんなに小さくとも細くとも探してきて、必ず写真に供えていたそうです。鷗外のことが大好きだったんですね。

 

続いて、直文はがんがん新体詩を作っていくのですが、同時に、国文学者として新しい国語・国詩をつくらにゃならん、という考えになっていきました。これも第27回に出てましたね。この頃はいろんな人が新たな統一した日本語を作るために四苦八苦していたのです。

 

で、国文学の中心はやっぱ和歌だろう、ということで和歌改革に乗り出し、旧い和歌を批判する文章も書いていきます。実はこの頃、これが流行りで、いろいろ書かれました。

 

やっぱり明治15年の『新体詩抄』ショックはけっこうなものがあったみたいで、なにしろ「和歌はもう時代遅れ」みたいなこと言われたわけですからね、そんで、歌人のほうもそれにリアクションしなきゃいけなくなったというわけです。

 

代表的なものは、明治17年~18年の末松謙澄の「歌楽論」とか、明治20年の萩野由之の「和歌改良論」とか、明治21年の佐佐木弘綱(信綱のお父さん)の「長歌改良論」とか。「歌楽論」なんかは子規に先駆けて、万葉集の重要性を言っていたりします。いちいち名前覚える必要ないですけど。

 

ただ、こういうの読んでると、明治31年の子規の「歌よみに与ふる書」もそれ単体で出てきたのではなくて、当時のトレンドに乗っかってるのがよくわかります。ちょっと脇道に逸れますけど、昭和33年に出ている『明治短歌史―近代短歌史・第1巻』(春秋社)に、窪田空穂がこの頃の思い出を書いていて、おもしろいので引用します。当時の文学青年がここらへんの流行をどんな感じで見てるのかわかります。

 

 第一に思い出すことは明治三十年の初頭の歌界というものである。(略)

 私たち文学青年(私は未熟な者で、その数にも入らない者であったが)には、『文庫』、『新声』(『新潮』の前身)などの投書雑誌があって、これが私たちには甚だ魅力あるもので、創作欲も発表欲も優に充たしてくれて、それで事足りていたのである。

 

当時も投稿がだいぶ流行ってたみたいです。意識高い文学青年は、そういうとこに投稿してた、と。

 

 『文庫』、『新声』の叙情詩方面、すなわち新体詩(現在の詩)、和歌、俳句に限っていうと、私の知る範囲では、新体詩を作る者が最も多く、まれには俳句を作る者もあったが、和歌を作る者は全然なかった。これは理屈あってのことではない、和歌というものは少しも面白みのないもの、つまらないものとして見切りをつけられていたからである。ここに和歌というのは、御歌所系統のそれである。御歌所系統の和歌は、当時の青年には精神的に何のつながりもなく、完全に消滅していたのであった。

 

投稿欄はあったけれども、みんな新体詩ばっかり作ってて、和歌を作るやつなんかいなかったと。

 

明治30年くらいなので、明治10年生まれの空穂は20歳くらいです。『新体詩抄』が出た直後から、新体詩の投稿が若者のあいだで流行ったことを思い出してください。それに比べて和歌は、当時の若者からすると、もう完璧にダサいものだったんですね。

 

 当時は落合直文・池辺義象・萩野由之の三氏は、新進の国文学界の権威者で、和歌の革新を唱道した。しかしほとんど反応がなかった。老成者は頷いても転回はできず、文学青年は問題にしなかったからである。正岡子規の「歌よみに与ふる書」は、或る程度の反応があったようであるが、これはそれを発表しているのが『日本』という勢力のある日刊新聞の紙上だったからで、勢い多くの人の注意を惹いたからである。私などでさえ、子規ともあろう人が、なんだってこんなきまりきった、問題にするにも足りないことを取り上げたのだろう、と怪しんだくらいで、それが実感だったのである。

 

「子規ともあろう人が、なんだってこんなきまりきった、問題にするにも足りないことを取り上げたのだろう」、これ、けっこう興味深くないですか。あの「歌よみに与ふる書」がですよ。

 

ただ、いまも「完全口語で短歌を作ろう!」というと、短歌の世界ではまだまだラディカルな部分がありますが、短歌を読んでない人からすると、いまさら何言ってんの? 今21世紀ですよ、21世紀、とかなりますもんね。子規が「古今集ふるい!」とか言っても、ふつうの文学青年からすると、そっすか、みたいな。

 

正岡子規による短歌の大革新!!」とか言ってると、こういうことがわからなくなります。

 

いや、子規はえらいんですよ、もちろん。それはそれとして、革命というのはいきなり起きるんじゃなくて、連続性の中にありますから。

 

ちなみに、子規が万葉集に目覚めたのも、明治26年に落合直文の弟の鮎貝槐園と仙台で6日間ぶっ続けで短歌の話をして、槐園から万葉集を教えられてからです。そのとき子規は「私は和歌はよくわからない。古今集は面白いと思ってんですけどねー」とか言ってたらしいですが。

 

で、空穂は続けて、その後「なるほど今までにない心親しいものがある、面白いものだ、もっと観たい、できるなら自分もして見たい、という誘惑」を和歌ジャンルにおいて初めて感じさせたのが『明星』だった、と告白しています。実際、のちに空穂は『明星』に参加するようになります。

 

若者を和歌の世界に取り戻したのが、『明星』だったんですね。そりゃすごい。『明星』なかったら、完璧短歌ほろんでましたね。そのうち『明星』の話もやりたいと思います。

 

はい、で、話を落合直文に戻すと、直文も和歌改革のために明治24年に和歌入門書『新撰歌典』を書いたり、明治25年に「歌学」という和歌雑誌を創刊したりします。

 

『新撰歌典』は用語を「今の普通語」を使ってよいとしたり、題を先に決めて想を表す題詠の不自然さを指摘してたりします。まあ、実はここらへんは明治20年の萩野由之の「和歌改良論」ですでに言われてたりしてたんですが、他に、感情の動きを重視しています。これは後の鉄幹に通じる主張です。この本、かなり読まれたみたいで、明治29年までに6版になってます。ということは、明治31年の「歌よみに与ふる書」までに、こうした考え方はけっこう広まってたということです。

 

また、雑誌「歌学」では、御所派とか古典派とか新桂園派とか、あるいは民間の歌人とかに関わらず選歌をすることで、流派の垣根を取り払おうとしています。これも、それまでではなかったことです。

 

直文は「歌学」で「かのやむごとなき公達のたはぶれ、かの世をそむける老人のたのしみ」から歌を開放し、「すべての国人、ことに青年有為の人々に」将来を託する宣言をしています。貴族や老人から和歌を解き放って、青年によって作られることを期待しました。

 

要するに、直文(や、他の人々)は、新派和歌を作っていくための露払いをしているのですね。そうして直文が均していった道に、鉄幹や信綱や子規が続いていったというわけです。

 

直文の革新運動は、最終的に「浅香社」に結実します。これは、短歌結社の前身みたいなもので、直文の声名を慕って若者たちが直文の家に集まってきて、グループみたいになったやつです。直文が住んでたのが本郷区駒込浅嘉町だったんで、浅香社。メインメンバーは直文の弟の鮎貝槐園と、与謝野鉄幹。のちに金子薫園、服部躬治、尾上紫舟らが参加します。

 

週2、3で歌会やったり、新聞「日本」にグループで短歌発表したりしてました。新聞「日本」は子規が「歌よみに与ふる書」を発表したとこですね。

 

鉄幹は当時20歳。なんか家の目の前のお寺で超貧乏生活をしていたところを、直文が憐れんで家に連れてきたみたいです。2月の雪の日で、煎餅布団にくるまってあんまり寒そうだったので、と。直文はメジャー新体詩人でしたから、元々鉄幹は直文を尊敬していて、文学上の関わりはすでにあったみたいですが。

 

鉄幹門下からは、石川啄木北原白秋吉井勇などが出てきますし、薫園門下からは土岐善麿・吉植庄亮、紫舟門下からは、若山牧水前田夕暮らが出てきます。そりゃ、近代短歌の源流をたどっていくと、落合直文にたどり着きますよ。まじで。

 

 

さて、ようやく直文の作風の話ができます。長かった。

 

直文、生涯のうちにけっこう作風が変わってます。ほんとに若いころの作品は、まだ完全に旧派っぽいんですが、変わってきたのはこの辺から。明治25年の作品。

 

緋縅の鎧をつけて太刀佩きて見ばやとぞ思ふ山桜花

 

緋縅は「ひおどし」。赤い鎧ってことです。直文はこの歌で「緋縅の直文」の名前を得たそうです。

 

なんでしょうね。桜を見ているときのヒロイックな気分を歌った歌というか。直文のお義父さんが尊王攘夷派の志士だったことを思い出していただければと思います。こう、幕末志士を引きずっているというか、志士として理想のために美しく死ぬぞ! みたいなテンションが背後にあって、「見る」という意志的な行為で美のひとつの形を強調してます。

 

ここには、日清戦争(明治27、28年)前夜のナショナリスティックな気分が強く表れています。

 

いちおう、比較のために、同時代の旧派の歌で桜を歌ったものを挙げてみると、

 

さくら花さきてののちの雨ならばいかにわびしき日数ならまし  渡忠秋

 

みたいな感じでした。

 

直文の歌は今読むとげんなりするところあると思うんですけど、当時の旧派和歌の「花鳥風月……」「雅……」みたいな、なよなよした歌に比べると、やっぱり新しかったわけです。まずはこんな「雄壮活撥なる歌」を出して、旧派和歌の類型的な言語観とは異なる美意識を提示しました。

 

で、この作風は鉄幹に受け継がれました。聞いたことありますかね。「虎剣調」ってやつです。

 

いたづらに、何をかいはむ。事はただ、此太刀にあり。ただこの太刀に。  与謝野鉄幹『東西南北』

 

鉄幹の最初期は、もろ直文に影響うけてます。鉄幹は直文の弟の槐園と一緒に朝鮮に行って、政治活動に関わったりするんですが、その頃の歌がこの「虎剣調」です。こうした歌は、自我を現実世界に開放しようとする過程で、パブリックなものに関わっていこうとする方法を取っています。

 

こういう歌は、なんというか、ローラーでガガガッと言葉を地ならししているようなところがあります。まずは強い言葉で、美意識を変えちゃう、と。

 

しかし、なんすかね、こないだの新体詩もそうだったんですけど、言語や芸術が変わっていくときの始まりには、ナショナリスティックなものが避けられないんでしょうか。

 

まあいいや。で、直文も鉄幹も最初はこんな感じだったんですけど、日清戦争が終わると、作風が変わっていきます。それは、戦争前はナショナリズムの理想の時代だったのが、戦争後は「戦後経営」の経済の時代に移っていったからです。

 

正直、この時代の変化は、私はよくわかっていないのですが、この本にはそんなことが書いてありました。たぶん、簡単にまとめると「緋縅の~」みたいにテンション上げる言い方が、昔はよい反応だったのに戦後は、「え、なにいってんの、今は経済でしょ」みたいに変わったんだと思います。ぜんぜん自信ないけど。

 

で、鉄幹は政治の理想にやぶれて、「虎剣調」の鉄幹から、『紫』の鉄幹になります。

 

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子  与謝野鉄幹『紫』

 

みたいな作風にチェンジしました。「明星」の作風ですね。自我の解放を、政治から恋愛とかの方向に変えた、ということです。

 

直文の歌もこんな感じに変ります。

 

をとめ子が泳ぎしあとの遠浅に浮輪の如き月浮かび来ぬ

 

「緋縅の~」とぜんぜん違います。こういう、少女達が去っていた浜に浮輪のような月が浮かんでいる、という風景は日本の和歌の伝統にありませんでした。西洋絵画的な視点です。この作風が与謝野晶子に継承され、「明星」の浪漫主義の作風になっていきます。

 

あるいは、

 

砂の上にわが恋人の名をかけば波の寄せきて影もとどめず

 

なんていう普通の言葉を使い、かつロマンチックな歌も作っています。これもぜんぜん旧派の「花鳥風月」じゃありません。「恋人」なんていう言葉を初めて短歌に使ったのは直文のこの歌ではないか、と言われています。これなんかは啄木に継承されていったと考えられる、と著者の前田透さんは言っています。

 

かといって、直文は浪漫一辺倒ではなく、写実的な、現実主義的な歌も作っています。

 

霜やけの小さき手もて蜜柑むくわが子しのばゆ風の寒きに

 

とか、すでにかなり「近代短歌」ですし、

 

賤が家の門のはひりに樫の実のひとつこぼれて冬は来にけり

 

これは初期の歌ですが、ちょっと子規を先取りしているようなところがあります。

 

また、子規の有名な歌、

 

瓶にさす藤の花房短ければ畳の上にとどかざりけり  正岡子規

 

が作られるすぐ前に、

 

文机に小瓶をのせてみたれどもなほたけ長し白藤の花  落合直文

 

なんていう歌を直文は作ってたりします。よく似てますよね。この頃、子規は直文の歌をひどく批判していたので、どうも子規は直文の歌を見て、あえて逆のことを詠ったんじゃないか、と言われています。

 

ただ、文体レベルでは、子規のほうがやっぱり徹底度が高くて、子規の歌では畳の上に花が届かないことに気づく=視点が低いことがわかる=作者は病で寝ている、のように主体の状態まで表すのに対し、直文の歌はそういうところはありません。

 

あと、こういう写実的な歌を作ったあとに、急に旧派っぽい、なんの取り柄もない歌を無邪気に作ったりするんですよね。このあたりが直文があんまり言及されない理由なのかなーと思います。おもしろいと思いますけどね、落合直文の短歌。

 

直文の浪漫的な歌は「明星」ができてそこに歌を出すようになって増えていきますし、また、写実的な歌も子規と直文のどっちが先、と簡単には言いにくいところがあります。たぶん、相互影響があったんでしょう。師匠と弟子となると一方的に弟子が師匠の作風を学んだり、ライバルというと正反対の作風、みたいにイメージしちゃいますけど、弟子が師匠に影響与えたり、ライバルの作風をパクッたり、ぜんぜんありますもんね。

 

前も言いましたけど、「文学史」と思うとなんか文豪は歴史上の人物になっちゃって、あらかじめ運命みたいに決まったことをしてるみたいに見えますし、今回のこの記事もそんな感じで読めちゃったら申し訳ないんですけど、いっこいっこ読んでくと、実際にはそれぞれの作者たちは思い付きで行動して、探り探りやってることがよくわかります。で、作風も「アララギ派」とか「白樺派」とか「無頼派」とかキャッチコピー的に決まってたわけじゃなくて、わりと互いの作品を読みまくって、影響受けまくってます。

 

だっていま口語で短歌を作ろうとすると、斉藤斎藤とか永井祐とか木下龍也とか読みますよね。こんな感じなんだー、って。で、自分でも真似したりずらしたり。それとおんなじだと思います。

 

ただ、そんな感じでどっちが先とか言いきれないところもあるんですけど、大きく見ると落合直文がパイオニアなのはほんとに否定できなくて、結社というものにおいても、近代短歌の文体においても、あらゆることを先取りしてるとこがあります。よく「旧派と新派の折衷的」とか「微温的」とか言われることの多い直文ですが、ぜんぜんそんなことなくて、そのことは何度も何度も著者の前田透さんがこの本で主張しています。

 

やっぱりけっこうすごい人なんじゃないですかね、落合直文

 

そして、晩年は「明星」に歌を発表したりなんかして、明治36年12月16日に、持病の糖尿病からくる肺炎の合併症で、落合直文は亡くなります。享年41歳。若いです。辞世の歌は次の歌。

 

木がらしよなれがゆくへの静けさのおもかげゆめみいざこの夜ねむ

 

前田透さんの評を引用します。

 

木枯の音にとりまかれた直文は、終末感の中に永生の平安を夢みたのであろう。そこに、この世の人のおもかげを重ね合わせたこの歌は、声調の深沈とした哀切と、屈折のある豊かな内容によって明治の秀歌の一首に数えられる資格がある。(p.211)

 

 

はい、長くなりました。最後に子規と直文のエピソードを紹介します。金子薫園が昭和9年に「現代」に書いた話です。時代は明治34年3月。子規が「墨汁一滴」に毎日のように直文の悪口を書いていたときのことです。

 

 先生が晩年から著述のために、南品川の万松軒といふ或る旅館に滞在して居られた時のことである。その頃、正岡子規が日本新聞に病牀での随筆を連載して居つた中に、胃腸がひどくわるくなつて林檎のもみ汁か何かでなければ通らぬといふやうな事が出て居つたのに、先生はひどく同情された。すると丁度先生の郷里に近い盛岡から非常に見事な林檎がとゞいたので、すぐ、それを見舞に贈らうとされた。

 そしてふいとその日の日本新聞を見ると当時与謝野寛氏主宰の「明星」に載つた先生の歌を子規が批難攻撃した文が出初めてゐた。その時先生は当惑された。何で当惑されたのであらうか。

 子規の折角自分の歌を批評してくれようと思ふのに、この林檎など贈つたら筆鋒が鈍つて、幾分緩和するやうなことでもあつては遺憾である。また自分としても、かういふ矢先きに贈るのは、何かうしろめたいものがある。かういふ事を感じられて、その日は林檎を贈ることをやめにされた。するとその次の日も、またその次の日も続いてその批難攻撃の文が出てゐるので、先生はその林檎を籃にいれたまま、とうとう腐らせてしまつたのである。この一事を以て見ても、先生がいかに人情味があつく思ひやりが深かつたかを想はせるものがあるではないか。(金子薫園「林檎を腐らせた話」)

 

直文ー!! 林檎ー!! 直文ー!!

 

あ、あと蛇足なんですが、この本は前田透さん(前田夕暮の息子さん、いまはその系譜が「かばん」につながることで有名でしょうか)の遺作だそうですが、理知的な文体や、ふっとした瞬間に記述される自身の体験に根ざした戦争への批判がかっこよく、すっかりファンになりました。

 

今回はこんなところです。それでは。

第32回 関川夏央『子規、最後の八年』

にぎやかに、時に静かに 土岐友浩

子規、最後の八年 (講談社文庫)

子規、最後の八年 (講談社文庫)

 

 

子規たちも、かつて闇鍋をしていた。

 闇汁会を発案したのは子規であった。群議一決、子規を残してみな買出しに出掛けたところに内藤鳴雪がやってきた。材料持寄りと聞いた子規より二十歳年長の鳴雪は、買物のために玄関を出るとき、「下駄の歯が出て来ても善いのですか」と笑いながらいった。
 煮こまれた鍋からは、カボチャ、サトイモ、レンコン、カブ、チクワ、ユズが出た。麩と豚肉と魚とハマグリが出た。何を入れたか各自申告する必要はなかったが、大福餅をすくいとった碧梧桐は「誰だ誰だ」と叫んだ。虚子が入れたのである。
 味は思いのほかよかった。「飯を食うてきて残念しました」と嘆いた鳴雪も二椀食べ、子規ほか残る全員が三椀食べた。虚子の細君がマツタケ飯を炊いたので、それも心ゆくまで味わった。 関川夏央『子規、最後の八年』)

 

明治32年10月、ホトトギス俳人10人ほどが高浜虚子の家に集まった。秋田に帰ってしまう石井露月の送別の意味合いもあったようだ。

虚子や碧梧桐といった近代俳句の創始者たちが、闇鍋に大騒ぎしている様子を思い浮かべると、なんとも言えない気持ちになる。

個人的には、虚子がこっそりと大福餅を投入するキャラだったというのが、衝撃だ。

 

子規はこのときの記録を「闇汁図解」というタイトルで「ホトトギス」に発表している。原文は青空文庫で読むことができるが、上に引用した関川の文章とはまた違った味わいがある。

一、鳴雪翁曰く、うまい。碧梧桐曰く、うまい。四方太曰く、うまい。繞石曰く、うまい。我曰く、うまい。虚子曰く、うまい。露月独り言はず、立どころに三椀を尽す。

一、下戸も喰ひ、上戸も喰ひ、すこやかなる者も喰ひ、病める者も喰ひ、飯喰ふた者も喰ひ、飯喰はぬ者も喰ふ。喰ひ喰ひて鍋の底現るゝ時、第二の鍋は来りぬ。衆皆腹を撫でゝ未だ手を出さゞるに、露月黙々として既に四椀目を盛りつゝあり。

 

「うまい」の連呼もおかしいけれど、送別される側の露月だけが、黙って食べ続けているというのもいい。

 

僕はすぐに田口綾子さんの「闇鍋記」という連作を思い出した。 *1

詞書によれば、2008年10月のある日、歌会のあと突発的に闇鍋をしようという流れになり、OBの五島さんを含めた早稲田短歌会のメンバー7人が参加した。

何首か抜粋してみよう。


 何となく見送っている夜のバスここに全員いるはずなのに

 

 「一人あたり七〇〇円」と決めしのち閉店間際の店内に散る

 

 鍋のふた開ければ日付が変わる頃にんじんじゃがいも火が通りたり

 

   「これでもっともっとおいしくなりますよ!」
 服部さんの魔法使いのような笑みあさりの水煮一缶(ひとかん)を手に

 

 隼人くんの深い頷き 長森の「いや、普通っす」という感想に

 

 「おいしいなら、僕も食べたい」 五島さんがたばこを消して近寄りて来つ

 

   「これも絶対においしいですよ!」
 魔法使いが鍋に再びやってきてためらいもなくきなこを投ず

 

   本当の悲劇は、ここからだった。
 ごほごほと喉につかえるきなこ味ひとり残らずむせこんでおり

 

   「……中ボスの段階でやられちゃった感じですね。」
 缶詰のトマトは未開封のまま部屋の隅にて朝を迎える

 

闇鍋に、きなこをぶち込む服部さん。

遠巻きに見ながらおもむろに近寄ってくる五島さんの、OB感。

笑いどころが満載の楽しい作品だけれど、たとえば最初のバスの歌からは、一抹のさびしさも読み取ることができる。

 

100年以上の時間を隔てつつ、僕たちがやっていることは全然変わらないのだ、と思うと、なんだか勇気づけられるような気がする。

 

 *

 

『子規、最後の八年』は、「短歌研究」に2007年から2010年まで連載され、2011年、単行本にまとめられた。去年、講談社文庫になったばかりである。解説は岡井隆

関川夏央には明治の文豪に関する著作が多く、漫画原作者として『「坊っちゃん」の時代』という作品も発表している。作画は『孤独のグルメ』の谷口ジローだ。

この時代の人々は、みな魅力的だが、人間関係を整理するのはややこしい。子規の周辺にかぎっても、親友の夏目漱石、ライヴァルの与謝野鉄幹、門弟として根岸短歌会の伊藤左千夫や長塚節、日本派俳人高浜虚子河東碧梧桐など、挙げ始めればきりがない。文学者以外にも秋山真之中村不折、家族の八重と律の存在も重要だ。

坂の上の雲』を読めばいいのかもしれないが、なにしろ長い。

 

本書はその書名が示す通り、明治28年に結核を悪化させてから、明治35年に病没するまでの八年間に絞って、子規とその周囲の人々を描いた評伝である。

 

たった八年だけれど、その時間は本当に濃密だった。

特に短歌に関しては、伊藤左千夫と初めて会ったのが明治33年の新年だったというから、そこからわずか三年足らずで、アララギの基礎が築かれ、近代以降の短歌史が決定づけられたことになる。

 

子規といえば、そのすさまじい闘病の姿に誰しも圧倒される。脊椎カリエス、現在でいう結核性脊椎炎の激痛に耐え、ほぼ寝たきりとなりながらも、驚くほどよく食べ、膨大な量の作品を書き残した。

本書でも多くの引用を交えつつ、その生き様が克明に描かれているのだが、一方で、随想風に書かれたさりげないエピソードのひとつひとつも、胸に残る。

たとえば、長塚節が初めて子規を訪ねる場面。

 節が鶯横町の角を曲がると、子規庵の前に人力車が一台とまっているのが見えた。車夫がしゃがみこんで、客の帰りを気長に待つ構えだ。通りすぎしな、あいたままの玄関に客の下駄が二、三足並べてあるのが見えた。節は何度か行きつ戻りつしたが、その日は引き返した。今日こそはと覚悟して出てきたつもりなのに、気おくれしたのである。
 三月二十八日は別の来客に先んじられぬよう、午前中に出掛けた。勇をふるって玄関に立ち、半紙を切った名刺を母親にさし出した。子規の咳音が聞こえた。
 通された六畳の病間で、子規は蒲団の上に置いた名刺をじっと見ていた。子規は節に、寝たまま「失敬」といい、俳句の方でお目にかかったことがあったですか、歌の方でお目にかかりましたか、とつづけた。
 節は、自分は歌について教えを受けたいのです、といった。
 しばしの沈黙のあと、子規はいった。
 いくらでもつくるがいいのです。
 また沈黙があった。
 つくっているうちに悪い方へ向かっていると、それがいつかイヤになってくるのです。
 節はもっと多弁な人を想像していた。意外であった。昨日もきてみたが、来客があったようなので帰った、と節がいうと、子規は、それは惜しいことをした、歌の人が二、三人きていたのです、と答えた。
 入門を許されたと思った節は、前日むなしく持参した短冊を出し、揮毫をもとめた。短冊は二十枚もある。人を気づかう節には、そんなところもあった。

 

淡々とした描写だが、来客が絶えなかった子規庵の雰囲気や、節の性格が十分に伝わってくる。言うまでもなく、多くの資料の裏付けがあることも、おのずとわかる。

このあと子規と節との関係は、他の門人たちがうらやむほど深いものにまで発展するのだが、あまりに仲が良すぎたために、二人と左千夫との間には、微妙な距離感があったというのも、本書を読んではじめて知った。

 

岡井隆は解説で、子規庵で育まれた「座」の場が、現在の短歌結社につながっていることを読者に説明する。

 子規の短歌の弟子の一人、伊藤左千夫の系列が、「アララギ」という結社で、この結社の中でわたし自身、歌の道に入ったのだから、よく分かるのだが、子規庵に集まった歌人俳人の歌会や句会が、実は、現代にまで続いている結社の原型なのである。
(中略)
「歌にも俳句の『座』を持ちこむ。会した面々が相互批評のうちに刺激を受けあい、その結果、歌のあらたなおもしろさが引出される、それが子規のもくろみであった。人好きな子規は、どんな文学ジャンルであれ、他者との関係を重んじずにはすまなかった」と関川氏が説いている通りである。「座」の文芸として、人との直接の関わりを通じて、俳句も短歌も、近代化を遂げた。その淵源のところに、死病と闘う病子規がいた。
 子規は、短歌・俳句の他に新体詩(西欧の影響をうけた自由詩)も漢詩も作り、小説も試作した。しかし究極において、俳句と短歌の近代化にだけ成功した。それは「座」の文芸に一番ふさわしいのが歌・俳という、短い定型詩だったからだ。

 

これを読むと、やはり子規は「座」の人であり、交遊の人だったのだろうと思う。子規は短歌や俳句を革新したが、その運動は、子規庵に集った人々に受け継がれることによって、空前の成功を収めたのだ。

 

子規の晩年の八年間に起こったことは、もちろんこれだけではない。漱石との交流や、「ホトトギス」発行をめぐる虚子や碧梧桐の奮闘と確執などの興味深いテーマが、本書には余すところなく、かつ、すっきりとまとめられている。

すべてを紹介すると煩雑になってしまうので、それは別の機会に譲って、僕が一番好きな場面、子規が世を去った夜のくだりを引用することにしたい。静かな描写に、それぞれの万感の思いが込められている。

 八重の、「のぼさん、のぼさん」と呼びかける声に虚子は起こされた。鷹見夫人も唱和するその声には切迫感がある。律も病間隣りの四畳半から起き出してきた。
 時々うなっていた子規が、ふと静かになった。鷹見夫人と昔話をしていた八重が手をとってみると、冷たい。呼びかけにも反応しない。顔をやや左に向け、両手を腹にのせて熟睡しているかに見えるが、額は微温をとどめるのみであった。子規の息は、母親が目を離した隙に絶えていた。
 旧暦ではまだ八月十七日、新暦では明治三十五年九月十九日になったばかりの午前十二時五十分頃であった。子規の生涯は満三十四年と十一ヵ月余りであった。
 律は陸家に走った。家人を起こし、電話を借りて宮本医師に報じた。
 虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。
「子規逝くや十七日の月明に」
 虚子の口をついて出たのは、この一句であった。

 

 *

 

僕が持っている講談社文庫版の帯の背には、いみじくも子規を評して「日本の文学表現を確立した巨人」と書かれている。

短歌や俳句にとどまらず、いままさに僕がこうして書いているような日本語の文章、その根幹をつくり、広めたのが、子規だった、という意味だ。

 

一体それは、どういうことなのか。

 

日本語の近代化に意識的だった作家は、もちろん子規だけではない。二葉亭四迷、山田美妙らの苦闘を踏まえた上に子規の達成があるのは、間違いない。

だが、先人の果たせなかったことが、なぜ子規にはできたのだろうか。

 

ここでは「座」をキーワードとして子規庵に集まった人々に注目したが、子規は「ホトトギス」の誌上で、一般の人々から「日記」を募集して掲載するなど、「座」を越えた、より遠くの「場」へと「写生」を広めようとしていた。

 

子規のアイデアとエネルギー、それから「ホトトギス」というメディアの力。

分析すれば、そういうことなのだが、では、それらすべてを賭して、子規が目指し、成し遂げた「写生」や「言文一致」とは何だったのか。

機会を改めて、引き続き考えていきたい。

*1:「早稲田短歌38号」に収録

第31回 吉本隆明『吉本隆明全著作集5』

永井祐

こんにちは。

最近いそがしくて。10月くらいとか、何かとあるんですよね。

そういうわけで、いつもより準備できてないんですが、

定期更新が大事であるブログなので、今回もやっていこうと思います。

 

本は、「吉本隆明 全著作集5(文学論Ⅱ)」(勁草書房)。

 

吉本隆明全著作集 5 文学論 2

吉本隆明全著作集 5 文学論 2

 

 

吉本隆明とはだれか。ぐぐってください。

戦後最大の思想家、とか呼ばれる人で、たいへんな影響力があった人。

わたしが本を読むようになるころには、文学部の学生でも、みんな読んでるわけ

ではなかったけれど、名前はみんな知ってた、ぐらいの感じでした。

 

それで、なぜこの本かというと、全集だとこの巻に吉本さんの初期の現代短歌論が

入ってるからですね。

おおむね同じ内容がのちに「言語とって美とはなにか」という本にまとめられる

んですが、ここにはその初出版というか、雑誌「短歌研究」に載ったバージョンのやつが入っています。

さらに、この全集では、岡井隆との有名な論争(「定型論争」と呼ばれる)が読めます。

吉本さん側の文章だけですが、わりとすごい内容です。論旨はやりはじめると長いので、

ショッキングなところだけ引用すると。

 

「まだ発表されないわたしの評論にけちをつけて、同時に発表したヒステリイがいたのには驚いた。岡井隆という歌人である。」

「おさとのしれた俗物歌人め!」

「去月、わたしは番犬の飼い主である『短歌研究』の編集部にたいし、お宅の玄関には「狂犬に注意」というハリ紙もなかったようだが、訪問したわたしにいきなり噛みついた番犬がいたようだ」

「岡井という歌人は、わたしが予言した通り、まったく手のつけられない自惚れ野郎である。相手は、はじめから無学低脳で、はったりだけを身上とした奴だとおもうから、噛んで含めるように教えてやれば・・・」

「間抜め。」

 

 

この本はほかにも吉本さんの論争の文章が入ってるんですが、けっこう口汚くてびびります。

昔の論争ってこんな感じだったのか。

争いになると、いきなり声のトーンや口調が変わる人って嫌ですよね。

文学ってすごく、切った張ったの世界だったんだなというのがわかるんですけど。

まあ、それはともかく本題に。

 

吉本さんの短歌論は、わたしは短歌をはじめてそれほどしない学生のころに読みました。

いわゆる「現代短歌」っていうものがよくわからないという状態だったので、

すごく参考になったし、ちょっと読み方を教わったみたいなところがあります。

現代短歌をこれほど理論的に、原理的に考える文章って、ちょっとほかには見当たらなかった。

吉本さんの考え方って、とにかくゼロから、一番はじめから考えるという感じがわたしは好きです。

 

 

現代の短歌の原型として、次の二首が引用されます。

 

国境追はれしカール・マルクスは妻におくれて死ににけるかな 大塚金之助

 

隠沼の夕さざなみやこの岡も向ひの岡も松風の音 藤沢古実

 

この作品は、国境を追われたカール・マルクスは妻より後に死んだとか、隠沼に夕さざなみがたち、こちらの岡も向いの岡も松風の音がしているというだけの意味で、それがどうしたとか、だからどうなのだとかいう作者の主体的な意志をのべる表現は存在していない。(略)なぜ、ただ、何々がどうであるというような客観的表現だけで、作者の主体をあらわす叙述がない表現が、詩の作品として一定の自立感をあたえうるのであろうか。それは、一見、ただ客観的な叙述にすぎないとみえるこれらの短歌的な原型も、よく分析してゆくと、かなり複雑な主客の転換をいいあらわしているからである。

 

 国境追はれしカール・マルクス

ここまでの表現で、作者の主体は、じつは観念的にカール・マルクスに移行して国境を追われているのである。

 妻におくれて

この表現で、マルクスになりすました作者が、「妻にさきだたれてしまったな」と述懐しているのである。(略)

 死ににけるかな

 のところへきて、作者は自分の主体的な立場にかえってマルクスの死の意味を考えている。一見すると単に歴史的な事実を客観的に表現しているにすぎないとかんがえられるこの作品も、高速度写真的に分解してみると、作者の主体が、一旦、観念的にマルクスになりすましたかとおもうと、マルクスのせりふをつぶやき、また、作者の固有の立場にかえってその死を主体的に意味づけるというような、複雑な転換を言語表現の特質に即してやっていることがわかる。

 

隠沼の夕さざなみや

この表現で、作者の主体は、夕方の隠沼の水面にたっているさざなみを視覚的にみて、ある感情をよびさましている。 

この岡も向ひの岡も

ここで、さざなみを視ている作者の視線は近景の岡に移り、つぎに遠景の岡にうつる。 

松風の音

 で、作者の主体は岡の松に吹く風の音を聴いている。

句の時間的な構成としては、一瞬にすぎない短歌型式のなかで、作者が視聴覚を移動させている実際の時間と転換の度合は、かなり複雑であり、これがこの作品に芸術性をあたえている本質的な表現上の理由である。

 

 

 ええと、どうでしょうか。ちょっと読みにくいし、細かいところでは異論もいろいろ出ると思うんですが、

吉本さん的には、短歌の表現の原型というのは、「客観的表現」がただあるだけなんだけど、それは「高速度写真的に分解して」読まなくてはいけなくて、

そうしてみると、

主体が「カール・マルクス」の位置に移動してから、もとにもどってきてまた考えるとか、沼の水面を見てからこっちの岡を見てあっちの岡を見てさらに聴覚にうつる、とか、主体・主観が裏で活発かつ複雑に動いている。それによって、芸術的な価値が生まれているという話です。

 

これは、わりと現在の短歌を読む場合でも使えるメソッドな気がします。

短歌を読み慣れている人は、たぶん、無意識にやってることだと思うんですが、

「だからどうなの」的な叙述を、スピードを落として読んで、背後にある主観・主体の動きを読み取ってこうよ、ということ。

 

さらに、吉本さんは当時の新傾向として、短歌に独特の比喩表現に注目します。

 

すこし調べてゆくとわたしたちは、短歌に固有ないわば短歌喩ともいうべきものを、どうしても想定せざるをえなくなってくるのである。これは、西欧近代詩の喩法概念からは、けっして律しえられないが、言語表現のうえからどうしても喩法の機能をもち、しかも短歌にしかあらわれないものをさしている。

 

それは、次のような作品に典型的に表われているとされます。

 

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき 近藤芳美

 

ジョセフイヌ・バケル唄へり てのひらの火傷に泡をふくオキシフル 塚本邦雄

 

灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ 岡井隆

 

 ここで、上句と下句とは、まったくちがった(無関係な)意味と対象を表現していながら、全体として表現の統一性をたもっている。さらに、詳細にみてゆくと、(近藤作品では)上句が固有の意味表現であるにもかかわらず、下句の感覚喩となっているし、(塚本作品では)上句は下句の意味喩となっていることがわかる。

(近藤作品について)たちまちのうちに霧にとざされてしまった「君」のすがたの視覚的なイメージが、「或る楽章」の聴覚的なイメージを喚起し連合している。

(塚本作品について)上句と下句とは、ほとんど、絶対的といっていいほど何の必然的な関係もないのである。それにもかかわらず、短歌として自立しえているのは、この表現が、掌の火傷をオキシフルで手当しながら、ラジオのジョセフィヌ・バケルの唄をきいている作者の像を全体として喚起し、そこにとらえにくい日常の一瞬をとらえている独特の視覚を感じさせることができているからである。もちろん、このばあい、上句を下句の意味喩と解することもできれば、下句を上句の意味喩と解することもできる。

(岡井作品について)ここでは、上句と下句とはまったくべつのことを云いながら短歌的な統一をもっている。このばあい、灰黄の枝をひろげている林を前のほうにみたとき、じぶんの失われようとしている愛恋をおもいだした、ということだろうか。それとも、失われようとしている愛恋をおもいだしていたとき、その愛恋が、あたかも灰黄の枝をひろげている林の視覚的イメージのようだと作者がかんがえたとき、この作品は成立したのだろうか。おそらく、いずれでもなく、また、いずれでもよいのだ。そういう機能のなかに短歌的喩の独特な問題がよこたわっている。上句は、下句の感覚的な喩をなし、下句は上句の意味的な喩をなしていればよい。もちろん、この反対のばあいもあるし、また、ふたつとも感覚的喩ばかりであることも、意味的喩ばかりであることもある

 

こういう、上句と下句との独特な関係は、複数のセンテンスをもって一首を構成できる程度の長さをもった、音数律の表現にのみあらわれるということができる。いいかえれば、音数律が、意識場面の構成的な対比や連合のハンイとして強力な機能をもっているため、かりに、上句と下句がまったくちがった対象についての意味表現であっても、これを統一的に連合することができるのだと解されるのだ。しかし、この場合、上句と下句との対象の相異性には一定の限界があり、この限界をこえて上句と下句とが対象の意味や感覚をことにすれば、短歌表現として成立しえなくなる。

 

どうでしょうか。

抽象的な話ですけど、

引用の三首みたいなパターン、上句と下句で別のことを言ってて、それがお互いに響き合ったり、撃ち合ったりするという歌は、

現在の短歌だとパターンといっていいぐらいに定式化されていますが、当時は新傾向として出てきていたんですね。

(のちの短歌だと、たとえば、こういう歌が同じ形でしょうか。

クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りが見えし 正岡豊

子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」 穂村弘

 

吉本さんは、こういう歌を、上句と下句がお互いを比喩し合うような関係であると解釈しました。

ここでいう「比喩」というのは、普通の意味での比喩ではなくて、短歌形式の構造上、上句は下句に、下句は上句に、独特の強い影響を与えてしまう。その響き合いのことを、比喩っていう言い方をしているという感じだと思います。

だから短歌にしか出てこない。ゆえにこれを「短歌的喩」と吉本さんは呼びました。

上下が真っ二つに分かれるこれらの歌に典型的に見られる「短歌的喩」の問題を、短歌にとって、また当時のリアルタイムの現代短歌にとって、最重要の問題であると見なしたのでした。

(上句と下句に分かれる場合以外のことも「展開」として考察されます。)

 

 

短歌をやっていると、やたら「ゆ」「ゆ」って言ってる人に出会うことがあります。

比喩のことを「喩」と呼ぶのって、あまり普通の日本語じゃない気がするんですが、

このときの吉本さんの言い方の影響が大きいようです。

そういう人の言う「喩」って、普通の意味の比喩じゃなくて、ここで言われる短歌的喩のことなんだなっていうのも、わたしはこれを読んではじめて理解しました。

 

駆け足かつ、だいぶ簡略化してやりました。

読みにも実作にも現在まで続く甚大な影響を与えた重要歌論だと思います。

興味があれば、ぜひ原典を。

第30回 田中登、松村雄二編『戦後和歌研究者列伝―うたに魅せられた人びと』

研究者でたどる和歌史  堂園昌彦

戦後和歌研究者列伝―うたに魅せられた人びと

戦後和歌研究者列伝―うたに魅せられた人びと

 

 こんにちは、堂園です。

 

最近、いろんな人から「堂園さんの記事だけ毎回毎回長すぎる、他の人は簡潔なのにどうなってんの、いいかげんにして」と言われました。

 

うう、たしかに。なので、今回は短めにしたいと思います。がんばろうと思います。がんばります。

 

はい。で、今回やるのは、『戦後和歌研究者列伝―うたに魅せられた人びと』です。2006年に笠間書院から出版されています。

 

この本、どういう本かと言うと、戦後の和歌研究史を、研究者の列伝形式で振り返っていく本です。列伝形式って馴染みのない方もいるかもしれませんが、つまり、和歌の研究者をひとりひとりピックアップしていって、その人について語る、というやつです。『70年代日本のロック100』、『知っておきたい21世紀の映画監督100』みたいな感じですね。

 

まあ、もっと簡単に言えば、『現代短歌の鑑賞101』や『現代の短歌』の和歌研究者ヴァージョンをイメージしてもらえればいいんじゃないかと思います。

 

現代短歌の鑑賞101 (ハンドブック・シリーズ)

現代短歌の鑑賞101 (ハンドブック・シリーズ)

 

 

現代の短歌 (講談社学術文庫)

現代の短歌 (講談社学術文庫)

 

 

 

和歌の研究そのものをたどっていくのではなく、研究者をたどる。はい、かなりマニアックですね。「あー、今回俺には関係ないや」と思った読者の方も多いかもしれません。

 

しかし、これがおもしろいんです。和歌は要するに外国語ですから、この解釈史をたどることが、すなわち現在私たちがイメージする「和歌」が成り立つ経緯そのものになってきます。

 

この研究者史を体感的にでも理解することが、どんなジャンルでも研究者の第一歩なのですが、さすがに素人としてはめんどくさいので、仏文でも露文でも独文でも、こういう本があったらいいのにな、と思いました。

 

正直、私も和歌に関する知識がほとんどないので(永井さん的に言えば、私も「『ながめ』が『長雨』にかかっていると言われても『はあ』という感じ」です)、わからない部分もとても多かったのですが、それでも、重要な研究者の名前だとか、研究書の名前だとかがバンバン出てくるので、和歌の世界へ分け入っていくための地図を拾ったような、そんな気がしています。

 

 *

 

この本で取り上げられてる研究者の人たちを何人か紹介します。

 

まず、萩谷朴(はぎたに・ぼく)。『平安朝歌合大成』を書いた国文学者です。

 

平安期の歌合は、この人によって全貌をあばかれたと言っても過言ではありません。

 

和歌の伝承は、家集や勅撰集といった和歌作品が沢山載っている作品集が基本です。しかし、現在の私たちが知っているように、和歌というのはそうした文字にしたためられて流通するだけではなく、歌会や歌合といったイベント事でも盛んに取り扱われていました。「座の文芸」ってやつです。

 

平安時代もしょっちゅう歌会やってたらしいのです。しかし、そんな沢山開催されていた歌会ですが、古典和歌の時代の歌会の記録ってほとんど残っていないらしいんですね。少しだけは見つかっているみたいなんですが、ほとんどは長い間に散逸してしまっていて、歌会の伝存率は0.1%にも満たないそうです。

 

ひるがえって、歌合の記録は大変良く残っているそうです。それは、それまでにあったほとんどの歌合の伝本を収集して、叢書とする国家プロジェクト的な企画が平安時代に二度あったおかげなんだそうです。それは「十巻本類聚歌合」と、そのヴァージョンアップ版である「二十巻本類聚歌合」にまとめられています。

 

で、長い間知られていなかった、この「二十巻本類聚歌合」を発見したのが、萩谷朴さんなんですね。

 

この発見のエピソードがかなりドラマチックです。

 

昭和13年(1938年)、当時、東京帝国大学国文科2年だった萩谷は、授業で歌合に興味を覚え、夏休みに実家の大阪に帰省した際に関西のいろんな文庫(国文学資料がたくさん収集されてる施設)で歌合の資料を調査してみることにしました。

 

で、京都大学の未整理の文庫でとある巻物を読んでいると、これまで全く記録に残っていない歌合が次から次に出てきます。しかも全部平安時代の墨跡です。なんだこれは、と萩谷さん、目を白黒させます。たまたま見つけてしまったんですね、いままで発見されていなかった「二十巻本類聚歌合」を。

 

かなりヤバい発見です。これ、恐竜学者がイグアノドンの歯を掘り出したとか、天文学者冥王星を観測したとか、ビートルズの未発表のアルバムが見つかったとか、そんな感じのインパクトですよね。たぶん。

 

萩谷はテンションが上がりまくり、急いで東京に戻ると、指導教官の池田亀鑑(きかん)に報告します。即座にその意味を理解した池田は萩谷とふたりで手を取り合って、狂喜します。

 

で、ふたりはめっちゃ喜んで、萩谷は世間にこの大発見を発表するべく、せっせと準備をしていたのですが、そこに驚くようなことが起こります。なんと、萩谷の話を聞いた、当時注目株の京大の若手研究者堀部正二(ほりべ・せいじ)26歳が、「新資料発見」と先に発表してしまったのです。

 

堀部はまず岩波書店の雑誌『文学』の昭和14年1月号に、次号に論文を載せると予告します。萩谷と池田はそれを見てあおざめます。先を越されまいと急ピッチで論文を完成させ、堀部の論文が載った雑誌が出るよりも前に、両者連名で『短歌研究』昭和14年2月号に発表しました。

 

おお、われらが『短歌研究』が意外なところで出てきました。この論文は萩谷と池田の連名で出されましたが、実質萩谷が1人で書いていて、急ピッチで書いたにも関わらず独力で「二十巻本類聚歌合」を歴史に位置づける、実に精緻なものだったようです。しかもこのとき萩谷は大学2年生・22歳ですからね。国文学勉強し始めてわずか2年、おそろしい……。「もちろん当時の帝大生の学力・集中力を現在の大学生と比べるのは馬鹿げているのであるが……」とこの萩谷の項を書いている浅田徹さんも言っていますが。この萩谷の論文のおかげで、この号の『短歌研究』は2倍近い厚さになったそうです。

 

今度は堀部のほうがあおざめます。堀部は堀部で、『文学』2月号で前ふりをしてから、京都帝大の雑誌『国語・国文』で全貌をゆっくり丁寧に発表する心づもりだったのですが、その計画がめちゃくちゃです。怒りつつも、堀部は発表を遅らせ、萩谷よりもさらに精緻な論文を書き『国語・国文』に掲載し、萩谷の考証を批判します。

 

さっきも書いたように、知識と経験がものを言う国文学の世界で、ふたりは弱冠22歳と26歳です。この天才ふたりのバトルが、平安時代の歌合の研究を一気に成熟させます。

 

ただ、軍配は一日の長がある堀部のほうに上がります。それとは別に、この事件は関係者の辞職をうながすトラブルに発展し、萩谷は苦汁を嘗めさせられます。後年、萩谷は「つくづく成人の醜い世界が嫌になり、一時は、大陸へでも渡ってしまおうかとさえ思った」とコメントしています。

 

堀部はその後「二十巻本類聚歌合」を含む京大寄託の近衛家蔵書の調査責任者となり、さらに研究を進め『簒輯類聚歌合(さんしゅうるいじゅううたあわせ)とその研究』という本を完成させました。昭和18年のことです。

 

しかし、ここで時代が2人の運命を変えてしまいます。太平洋戦争が激化し、2人は戦地に召集されてしまうのです。

 

堀部は『簒輯類聚歌合とその研究』の出版を知人に託して出征。同書は昭和20年2月に刊行されましたが、なんと、堀部はその刊行を目にする前に、中国にて戦死を遂げてしまいます。今でも、この天才堀部が戦争で死ななかったら、その後どれほど素晴しい研究をしていただろうか、という声が多いようです。

 

対して、萩谷は二度にわたり徴兵され、スマトラで病を得ますが、なんとか生きて帰ってきます。復員後、萩谷は師の池田の斡旋で『土佐日記』の注釈などをし、その高水準の仕事でふたたび学界の注目を集め、ついに昭和32年にこれまでの「十巻本類聚歌合」「二十巻本類聚歌合」への研究をまとめた、『平安朝歌合大成』を刊行します。

 

こうして、奇妙なめぐり合わせで、萩谷は若いころの自らの発見を結実させることができました。

 

『平安朝歌合大成』はかなりすごい本で、さっきも書いたように、平安時代の歌合のほとんどが掲載されてますから、ほとんどの歌人が載っているということでもあります。今でも、研究者は、知らない歌人の名前が出てくると、まずはこの『平安朝歌合大成』に当たるそうです。

 

もっと言えば、歌合は平安期に隆盛し、鎌倉期初期まで行われていたのですが、その後は衰退し、江戸後期になるまで復活しないんですね。だから、この『平安朝歌合大成』は歌合史の主要な部分をほぼ網羅しているのです。あと、「この題詠の題はこの頃に流行ったから、推定年代はこのくらい」みたいな、「題詠史」という画期的な観点を発明したのも、この『平安朝歌合大成』です。

 

と、この萩谷朴さんのエピソードはかなり面白かったです。萩谷さんだけではなく和歌研究者って、めちゃめちゃ頭いい人たちが、非常に地味な研究を、時代に翻弄されながら(主に戦争など)、血反吐を吐いてこつこつ地道に続けるというパターンが多く、なんかすげえなあというか、頭が下がることが多かったです。

 

 

げ、もう長くなってきた。あとひとりだけ紹介します。中世和歌史研究の藤平春男(ふじひら・はるお)です。

 

この人は、「歌論」に対する考え方が興味深かったですねー。

 

藤平さん曰く、歌論を書いた歌人は、それまでの和歌を継承できずに、定型の伝統と格闘した者である、ということです。

 

古典和歌時代の「歌論」は、一般的には歌をうまく詠むための技法を書いたもの、いわゆるハウツー的なものとみなされます。私なんかもそう思ってたんですが、まあ、保守的なものとみなされがちなんですね。もちろんそういった側面もあるんですが、藤平さんは、むしろ伝統をそのまま継承できない歌人が自らの原点を探ろうとして書いたものが「歌論」である、という見方をしているのです。

 

つまり、アヴァンギャルド歌人ほど歌論を書いた、ということですね。

 

これ、かなり面白いです。ということは、歌論を書いた歌人を追っていけば、その時々に和歌のイデオロギーが変わった瞬間を追いかけることができるということになります。もちろん、全員が全員そうではないのだろうけれど、歌人のプロフィールを見て「歌論」とあったら、ここで和歌のイデオロギーがちょっと変わったんだな、と捉えることができる。つまり、その変遷がわかれば自分なりの「和歌史」が理解できる、ということです。

 

まあ、この本ではそこまでは言ってないのですが、「歌論」というとっつきにくいものに新しいアプローチを示してもらったようで、私は、ほう、と思いました。

 

 *

他にも色々面白い研究者がいるのですが、今回はこのくらいにしておきます。

 

実績のあるえらい先生の業績を後進の研究者が紹介するという体裁上、なんかお世辞っぽい文章がずらずら続いたりして(いちおう、直接の弟子筋は避けられてるみたいですが)、そういうのはうんざりしなくもなかったんですけど、それでも、あー、和歌研究の世界には、こんなに知識と情熱と頭の良さと根気強さを持った人々が、山脈のようにいるんだなあと感じることは、なかなかおもしろかったです。

 

ただ、まあ、私も和歌に関する知識は皆無ですし、かなりコアな記述が多いので、全部興味を持てたかといわれれば、そんなことないですが。個人的には塚本邦雄経由じゃない和歌の読みかたを知りたいと思ってまして、そのためのブックガイドとして活かしていきたいな、とかそんなことを思いました。こっから本を探っていけばいいのかな、と。

 

マニアな本なのは確かですが、静かにアツい本でした。

 

しかし、久曾神昇(きゅうそじん・ひたく)とか、犬養廉(いぬかい・きよし)とか、樋口芳麻呂(ひぐち・よしまろ)とか、かっこいい名前が多かったな。和歌研究者は。

 

それでは。

 

第29回 坂野信彦『七五調の謎をとく』

七と五のまわり 土岐友浩

七五調の謎をとく―日本語リズム原論

七五調の謎をとく―日本語リズム原論

 

 

昨日、こんなツイートが回ってきた。

@Perfect_Insider
「ヘリコプター」の切れ目が「ヘリコ・プター」であることを知った。「キリマ・ンジャロ」の衝撃は超えないが、「カ・メハメハ」「クアラ・ルンプール」「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」には並びそう。日本語だと「清・少納言」「言語道・断」「間・髪を入れず」「登・竜門」あたりが難しい。

 

日本語は二音でリズムをとるので、「ヘリ・コプ・ター」、「キリ・マン・ジャロ」、「カメ・ハメ・ハ」と無意識に読んでしまう。

つまりこれらの外来語は、日本語のリズムで理解され、使われているということで、元の意味やリズムは考慮されていない、と言っていい。


語源に従い「ヘリコ・プター」と切って読んだときの響きは、かなり新鮮だ。僕が知っている「ヘリコプター」という言葉とは、ほとんど別の何かのようにさえ感じられる。


このツイートは、僕のところに回ってきた時点で15,000RTを超えていた。

ヘリコプターが「ヘリコ・プター」に解体されたとき、日本語の向こう側に、その言葉が持っていた本来の姿が立ち現れる。


その驚きのことを、考えてみたい。

 

 *

 

そもそも、本に書いてある一行の短歌(啄木の場合は三行だけれど)は、一体どうやって読んだらいいのだろうか。

 

短歌というのは、57577だ。

それは、誰でも知っているとして、では、それだけで短歌を読めるのか、どうか。

教科書に載っている有名な歌や、どこかで聞いたことがある歌ならいざ知らず、初めて見た歌を、57577に区切って読むというのは、決して簡単ではない。

 

たとえば今回取り上げる『七五調の謎をとく』に、面白い例文がある。

なぜ、七五調が日本語韻文の基本となっているのでしょうか。

 

一見、ただの評論文の一節のようだけれど、この文章は、短歌形式の57577で読むことができる。


 なぜ、七五/調が日本語/韻文の/基本となって/いるのでしょうか。


とは言え、すんなりとこう区切れるのは、それなりに短歌に通じた人の話で、はじめは指を折らないとわからないはずだ。

 

短歌は、読者が自分で57577を数え、うまく区切って読まないといけない。

この「自分で」というのが、実はハードルなのだと思う。

 

カレンダーには、今日が何日なのかという肝心のことがどこにも書かれておらず、自分でそれを知っていなければ意味がない。

同じように、活字をいくら眺めても、読者のなかに57577のリズムがないと、短歌を短歌として読むことはできないのだ。

 

だから、僕が思うに、短歌を読むというのは、なによりもまず、短歌のリズムを身につけることだ。


すべての短歌が、57577というわけではない。

初句が七音になったり、結句が六音になったり、例外はいくらでもある。

そしてそのわずか一音や二音の違いで、歌の印象がガラッと変わったりする。このあたりのことは、永井さんの第19回の「リズム考」のくだりを適宜参照していただきたい。

 

その違いは、どこから来るのか。短歌が57577とは限らないのなら、短歌の定義とは何か、どこまでが短歌なのか。

短歌のピーナツが始まってちょうど半年、もうすぐ第30回になろうというのに、いきなり話が原点に戻ってしまうようけれど、こういう問題を整理したくなったときに、本書を勧めたい。


著者の坂野信彦氏は1947年生まれ。

和歌・短歌の韻律が専門の国文学者だが、短歌の実作者でもあり、歌集『銀河系』で現代歌人集会賞を受賞している。

書き出しを見てみよう。

  ちちんぷいぷい

  街に緑を 窓辺に花を

  古池や蛙飛びこむ水の音

 いずれも七音ないし七音と五音の組み合わせからなっています。これらがたいへん調子のよいものであることは、だれもが感じることです。ではなぜ、これらの文句は調子がよいのでしょう。――ほとんどのひとは答えられません。まして、なぜ七音・五音という音数なのか、という問題にいたっては、だれにも答えられません。(はじめに)

 

というように、本文はですます調で書かれ、例も豊富で親しみやすく、全体的にとても読みやすい。

本書は三章構成。最初の章では、日本語の音の特徴から、七音・五音という「句」の意味を考え、第二章ではその七音・五音の「句」の組み合わせとして短歌や俳句等の「形式」を考察し、最後の章で、こうした「形式」が成立するまでの歴史を見ていく。

 

ここでは、短歌の話を中心に、そのさわりだけを紹介することにしたい。

まず、問題を

・短歌を構成する「句」は、なぜ七音や五音なのか。
・短歌形式は、なぜ57577なのか。

このふたつに分けて考えよう。

冒頭で書いたように、日本語は「たっ・きゅー・びん」など、二音を一単位としている。

その二音の繰り返しで、四音と八音のまとまりが生まれる。

本書では、図や記号を使ってわかりやすく説明されているのだが、残念ながらブログ上では再現が難しい。僕なりのイメージで代用すれば、こんな感じだろうか。

 ◯◯/◯◯//◯◯/◯◯

◯のひとつが、一音に相当し、全部で八音のまとまりになっている。

この構成に従えば、たとえば「ちんぷんかんぷん」と「わけがわからない」とでは、同じ八音の言葉でも、語感がまったく異なる理由が説明できる。

前者は「ちん / ぷん // かん / ぷん」という二音→四音→八音のリズムにぴったり乗っているが、後者はうまく乗らない。
無理矢理「わけ / がわ // から / ない」と当てはめても、意味の切れ目と音の切れ目が一致せず、リズムはむしろ、ガタガタになる。

一致させようとすれば、「わけ / が、// わか / らな い。」となるが、八音一句のフレームから一文字、はみだしてしまう。


いま、一拍の休符を示すために読点「、」を入れてみたが、八音の「句」には休符も含まれ、これによってリズムの緩急が生まれる。


 ◯◯/◯◯//◯●/●●

 ◯◯/◯◯//◯◯/◯●


前者が五音、後者が七音の句をあらわす。もっとも、僕自身は、歌をつくるときに初句は五音で黒丸が三つ、と数えているわけではない。実作上は、五音は大きな休符、七音は小さな休符くらいに考えておけば十分だろう。

七音の句は、さらに休符を前半に置くか後半に置くかで、「三・四型」と「四・三型」に分けられる。


 ◯◯/◯●//◯◯/◯◯ 「三・四型」

 ◯◯/◯◯//◯◯/◯● 「四・三型」


特に結句では、この違いが大きい。「三・四型」はきっちり歌が終わる感じ、「四・三型」だと余韻を残す終わり方になる。

具体例を挙げれば、啄木の「われ泣きぬれて蟹とたはむる」「楽にならざりぢつと手を見る」は結句三・四型、寺山修司の「身捨つるほどの祖国はありや」「モカ珈琲はかくまでにがし」は四・三型だ。

 

 こうしてみると、七音・五音は、たしかに八音・六音よりも歯切れのよいリズムを生みだす、と言ってよいようです。しかも、一音分の休止は日本語の音の特性に由来するものなのです。してみれば、七音と五音こそ日本語の律文にもっともふさわしい音数ということになりそうです。

 ことわざ、標語、キャッチフレーズなど非定型律文の多くが七音・五音を好んで用いているのは、それらの歯切れのよさのゆえにちがいありません。短歌や都々逸などの定型が七音・五音を採用しているのも、やはりそれらの歯切れのよさを大きな理由としているのでしょう。

 では、はたしてそれだけの理由で、日本全土のすべての定型が七音・五音を採用しているのでしょうか。

 ことはそう単純ではありません。歯切れがよいということは、一面では、軽々しいということでもあります。流麗さや重々しさに欠けるということでもあります。明治時代の新体詩がさまざまな音律の詩句の創成に試行錯誤を繰り返したのは、七五調にはない壮麗さや沈静さを求めてのことでした。 (坂野信彦『七五調の謎をとく』)

 

新体詩」というキーワードが出てきた。前々回の堂園さんの記事で詳しく論じられているように、新体詩は明治十年代、外山正一らによって興った文芸運動である。

これを韻律という視点で見れば、新体詩は七五調から離れ、八六調や、八七調、八五調など、時代にふさわしい韻律を模索し、実作を試みた。『七五調の謎をとく』にも、それらの例がひとつひとつ紹介されている。

 

しかし、新しい韻律を目指した新体詩は、結局、七五調に収束していったという。

 本格的な七五調の新体詩といえば、やはり藤村の『若菜集』ということになるでしょう。有名な「初恋」は、七五調の四行を一連とする四連で構成されています。


 まだあげ初めし前髪の

 林檎のもとに見えしとき

 前にさしたる花櫛の

 花ある君と思ひけり

 七五調は、この藤村をはじめとして、新体詩人がこぞって採用するところとなりました。もちろん、"新体" を自称する詩人たちは、これまでにもみてきたように、七五調以外のさまざまな音律を試みてはいました。
(中略)
 こうした努力にもかかわらず、けっきょくのところ、新体詩は終始七五調を中心として展開されることになりました。七五調を主とし、五七調を従とし、それにその他もろもろの形態をとりまぜた、という展開に終わったのです。 (同上)

 

それだけ、七五調は強力だった、ということだろう。

短歌は千年以上の歴史を受け継いでいるとよく言われるけれど、それは伝統というより、他の形式が淘汰され、生き残ったのが七五調なのだという進化論的な見方をしても、それほど間違いではない気がする。

 

一方で、上の引用から、七五調は決して万能なものではない、ということもわかってくる。七五調よりも、もっと重いものを表現しようとすれば、それに見合った別の韻律が、必要になる。

新体詩が七五調に回帰したからといって、これから新しい韻律が生まれる可能性がなくなったわけではない。

ここまで特に文語と口語を区別せずに話を進めてきたけれど、たとえば現代口語短歌には、口語固有のリズムがあり、それを活かした作品や批評が、すでにいくつもある。


第二章、第三章は形式と歴史の話だが、こちらは手短に、短歌形式成立の経緯だけをまとめておこう。

記紀の時代に、「五七・七七」という片歌形式や、「五七・五七・七七」という短歌形式の原型ができあがった。「歌」の起源は、大きな休符と小さな休符をワンセットにした五七のリズムを繰り返したもので、「五七・五七・五七・五七…」とこれをひたすら続けていくと、長歌になる。いずれも最後だけは五七ではなく七七で終わるのだが、この結びの七七のところは、まったく同じ句が繰り返されることも多かったらしい。

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を (その八重垣を)

というように。

こうして記紀から万葉の時代にかけて「五七・五七・七(七)」という形式が成立したのだが、やがて読まれ方そのものが変化し、「五七」よりも「七五」の結びつきのほうが強くなったり、最後の「(七)」が脱落したりして、「五・七五・七七」の形式が定着し、今に至った。


ただ、このあたりは、五とか七という数字だけを並べてもピンと来ないと思うので、機会があれば牧水の万葉調の歌などを例に挙げながら、もう少し詳しく書いてみたい。

 

本書は、短歌の他にも、俳句の「切れ」の分析や、現在ではマイナーとなった、七七七五の都々逸や七五七五七五七五の今様、そして破調についての考察など、七五調をめぐる話題がほぼ網羅されている。


僕自身は短歌しかつくらないが、自分の定型感覚を見直したくなったとき、よくこの本を読み返す。

今のところ、57577はできるだけ守りつつ、外来語はあまり厳密に音数を気にしても仕方がない、というあたりを自分の指針にしているのだが、最近は、僕のなかで初句だけ六音であとは定型という67577がブームで、実作を試したり、当てはまる歌がないか歌集を読んで探したりしている。

細かいと言えばほんとうに細かい話なのだけれど、七と五のまわりには、意外といろいろなものが転がっていることに気づくと、やっぱり面白い。

 

57577の定型には、それなりの理由があるのだが、それを文字通り定められた型と考えてしまっては、つまらない。

短歌のリズムは、育てていくものだ。

たくさんの歌を読んだりつくったりするなかで、自分なりの歌というものが少しずつ見えてくる。

そこに短歌を読む楽しさがあるのだと、僕は思う。

第28回 斎藤茂吉『斎藤茂吉随筆集』

永井祐

先日、とある会合の帰りの電車で、

同じ会に出ていた人と二人きりになった。

23時を過ぎた、それほど混んでいない中で並んで吊革につかまっていると、

その人が「永井さんは旅行、しないの?」と言ってきた。

「しない」という返事をはっきりと予想した感じだった。

その人によると、旅行というものは、自分の置かれた環境をあらためて突き放して

みることができる、よいものだということだった。

そういう体験はほしいと思いつつ、けっきょく旅行に出かける気はしないのだけれど、今日やる『斎藤茂吉随筆集』は、わたしからすると、その人のいう「旅行」にあたるものという感じがする。

要するに時間旅行で、今どき空間旅行だと、日本の東京とまったくかけ離れた体験をするのは、ある程度選んでいかないとむずかしいかもしれない。

しかし、過去に飛んでいくと、よく知らないものめずらしいものはたくさんある。

 

私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。寝てしまった後でも起き起きして物干台から瓦を伝わり其処の屋根瓦にかじりついて、冬の夜などにはぶるぶる震えながら見ていたものである。東京の火事は毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるからであった。(三筋町界隈)

 

昔の東京では、「毎晩のように」火事があって、斎藤茂吉さんは屋根に上がってそれを見るのが好きだったそうです。ほかの人が飽きて屋根から下りてしまっても、いつも一番最後まで見てたらしいです。

 

その時から殆ど四十年を過ぎようとしている今日でも、紅い火焔と、天を焦がして一方へ靡いて行く煙とを目前におもい浮べることが出来るほどである。時には書生や代診や女中なども交って見ている。「あ、今度はあっちへ移った」などというと、物のくずれる時のような音響が伝わってくる。同時に人の叫びごえが何か重苦しいもののように聞こえてくる。

 

「火事と喧嘩は江戸の華」とか言いますから、火事を見物するという習慣はわりとふつうの範疇だったんでしょうが、人の叫び声を「重苦しいもののように」聞きながら見入ってしまうという体験は、なんだかやばいですね。毎晩そんなことしてたのか。

 

 

本の紹介を。

 

斎藤茂吉随筆集 (岩波文庫)

斎藤茂吉随筆集 (岩波文庫)

 

 

斎藤茂吉随筆集」は岩波文庫に入っています。

歌人斎藤茂吉の代表的な随筆がまとめられた本です。

有名なところだと、「接吻」とか「ドナウ源流行」とかが入っています。

随筆とエッセイって、厳密に言うと違うのかもしれませんが、

感触としては今で言うエッセイに近いと思います。

評論調の堅苦しい感じはなく、かなり読みやすいです。引用したみたいな、「昔、火事を見るのが好きで・・・」とかそういう感じの文章がならんでいます。

岩波文庫から出てるくらいですから、茂吉の散文はとても評価高いみたいです。

でもなんだろう、僕の中での話ですが、わりと「コアなもの」っていう感じがします。

音楽にたとえれば、

宇多田ヒカルUtada Hikaru SINGLE COLLECTION」よりは、

エイフェックス・ツイン「Selected Ambient Works Volume Ⅱ」

に近いというか。

ただ、つまんなかったり、浅かったり、文章のセンスが感じられなかったりするのは一つもなくて、やっぱすごいな・・というのはひしひしと感じます。

 

汽車が下関を出てから、山が低くていかにも美しい。緑も濃く、その間に真紅になった紅葉が見え見えしている。稲刈が終わって、田にそれを乾かすために農夫が働いている。車窓から見える蜜柑の木に蜜柑が熟して沢山になっている。ある処では田一めんに午前の日が当って、踏切の処に尼と少女と媼が立っている。(手帳の記)

 

こういう感じです。

ふと思ったのですが、今まで評論主体でやってきたので、随筆ってどう紹介すればいいのかよくわからないですね。

評論だと内容を要約することにいちおう意味があると思うのですが、随筆って要約してしまうと終わりというか、もっとこう、流れとか文体とかに意味があるものですから。

 

まあ、めげずにもう一個やってみたいと思います。

 

変に気になったのは、

「巌流島」。

 

友達に『宮本武蔵』(当然ながら吉川英治ではない)という本をもらった斎藤茂吉さんは、旅行のついでに巌流島に行ってみようと思います。

巌流島には日清戦争のころに病院が建ったりしたのですが、いつしかそれもなくなって、そこに住むと魔物につかれるといって一時期、誰も住む人がいなかったという話を、島に渡る船で船頭のおじいさんから聞きます。

 

慶長十七年の昔、佐々木小次郎巌流という剣客が宮本武蔵のために打たれてこの島で死んだ。巌流島という名もそれに本づくのであるが、「死骸はそのとき小倉の方に持っていんだものじゃろうと思います」などと船頭の爺が話をしながら船を漕いだ。この島に住むと魔に憑かれるというのは、巌流への同情に本づく心理なのである。

 

実際に巌流島にいくと人は武蔵より小次郎に同情的になるものなのか、斎藤茂吉さんはそこに行って急激に武蔵が憎くなったそうです。

 

しかし私は巌流島に訪ねて来て、むしろ巌流に同情したのであった。いろいろ智術をやっている武蔵をむしろ私は憎悪した。幾ら智術だなどといっても三時間も故意に敵をいらいらせるなどは如何にも卑怯者であり、また一方が剣で闘うなら一方も剣で闘わなければ、剣客の勝負としては、私は面白くない。断りなく通知なくして木刀を使ったなども、卑怯者の所作である。武蔵は六十度も真剣勝負をしたというから、余りその勝負の骨(こつ)を呑込み過ぎていて私には面白くない。私はそんなことがいろいろ胸に往来し、(略)武蔵の所作をひどく悪(にく)みながらこの島を去った。

 

その夜、彼は

 

万歳楼で河豚(ふぐ)をむさぼり食った。

 

そして、短歌を作りました。

 

わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ  斎藤茂吉

 

この「人」とはもちろん佐々木小次郎のことですね。よくわからないですが、完全な小次郎派になって、その死をいたく悲しみました。

後で友達からもらった『宮本武蔵』を読んでも、

 

武蔵がこの鍛錬で巌流の頭蓋を打ちくだいたのだと思うと、私の心はひとりでに武蔵の兵法を憎悪したのであった。特に教室における私の為事(しごと)がはかどらず、論文がなかなか出来ないときに、この書物などを読むと、益々私は武蔵のペテン術鍛練法を憎悪したのであった。

 

机に本を投げつけたりしていたらしいです。

 

エッセイのラストまでしつこくこう書いています。

 

私はこの短文を書きつつも、巌流島の仕合の後、天下無敵新免武蔵として名を轟かし、六十四歳の天命を完(まっと)うした彼を、私はなお卑怯ものとするの念を脱却することが出来ない。

 

変なエッセイです。コアというのはそういう意味です。

が、斎藤茂吉さんは武蔵が嫌いで小次郎派だということは伝わってきました。

武蔵はNG。

よくわからないきっかけで、よくわからない執着が生まれ、そして人は心に地雷を抱えるようになるのでしょうか。

帰りの電車で人と二人きりになるときは、地雷のありかはあらかじめ知っておきたいなと思いました。

 

今日はこのあたりで。