短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第1回 佐藤通雅『茂吉覚書 評論を読む』

評論は意外と開かれていると思う 堂園昌彦

茂吉覚書 (青磁社評論シリーズ)

茂吉覚書 (青磁社評論シリーズ)

 

 

 こんにちは。堂園昌彦です。

 今回は「短歌のピーナツ」第1回目。このブログは巷に溢れている短歌の本のうち、個人歌集以外を読もうというブログである。評論、評伝、短歌史、エッセイ、入門書、アンソロジーなどだ。総合誌やネットでも、あんまりそういった本のリストは見ない。こういう本は膨大に出版されているけれども、もちろん、面白い本も、面白くない本もあるし、結局どうなんだ、というところが知りたいと思っていた。また、短歌の本を読むのは、なんだかんだ言ってけっこう大変だから、他の人の感想も参考にすると読みやすくなるんじゃないかな、という狙いもある。まあ、自分がそういうブログ欲しいな、あると嬉しいなと思ったので、始めてみた。どうぞよろしくお願いします。

 というわけで、第1回は佐藤通雅さんの『茂吉覚書 評論を読む』(青磁社、2009年)。

 この本は歌人の佐藤通雅さんが、斎藤茂吉全集のうち評論のところをこつこつと読んでいって、それについて考えたことをノートしたものだ。佐藤さんの個人誌である『路上』に2002年から2008年にかけて連載されていた。特に結論を決めて書き始めたものではないから、佐藤さんも考えながら、少しずつ筆を進めている。

 こんなブログを始めておいてなんだけれども、ふつう、短歌の評論はこわい。なにやらいかめしい言葉で、延々と難しいことを語っているものがほとんどだ。しかも、この本は評論を題材とする本だから、評論×評論で、こわさの二乗である。しかも、相手は、ザ・短歌ともいえる斎藤茂吉のものだ。佐藤さん本人も「茂吉の評論はおもしろいかどうかと問われれば、全てがおもしろいとはお世辞にもいえない」と書いている。いきおい、身構えてしまう。

 しかし、結論から言えば、この本はほとんどこわくなかった。まったくこわくないわけではないが、それは評論に最低限必要なこわさであり、むしろ、多くの部分ではわくわくして、そして考えながら読むことができた。それは、佐藤さんの筆致がとても丁寧で、とても親切で、そして、とても公正だったせいだ。

茂吉も相当の論争好きだ。この巻だけでも土岐哀果・若山牧水・三井甲之に挑んでいる。傍目には、それほどの問題とは思えない場合もある。しかし一旦はじめると、まるで蛇のごとき執念で絡みつく。とても大の大人とはいえないが、そこが、いかにも茂吉的でおもしろい。(p.9) 

自分らを妨害するものあらば、除去せよ、右顧左眄などいらぬ――を実行したのは茂吉自身にほかならない。時を隔てると、ガキ大将の啖呵に聞こえてくる。そのガキぶりが精彩を放っている。(p.36)

矛盾を矛盾とも自覚せずに振舞うから、茂吉はえらくて、めちゃくちゃで、おもしろいのである。(p.197)

 「蛇のごとき執念」、「ガキ大将」、「めちゃくちゃ」、まず、佐藤さんが茂吉を語る言葉はこのようなものだ。茂吉のことをよく知らない人は、なんか短歌のえらい人と思ってしまうが、知っている人は知っているように、茂吉はめちゃくちゃな人だ。この本でも、そういった茂吉のめちゃくちゃな部分は何度も出てくる。たとえば、一回論争を始めると、相手を叩きのめさずにはいられない。たとえば、自分の作風と相いれない別流派である新詩社(明星派)を、ことあるごとに口汚くこきおろす(茂吉の与謝野晶子嫌いは有名だ)。旅先で手帳をなくすと、賽銭箱をひっくり返し、ポスターを作り、村中の人を総出で探させ、しかもそれを一万字ほどのエッセイで事細かに報告する。

 そういう茂吉のめちゃくちゃな部分に、いちいち佐藤さんがツッコミを入れてくれるので、読むほうとしても、安心してそれを楽しむことができる。あ、別にそんなに神棚に祀り上げなくてもいいんだな、と。

 しかし、もちろん、佐藤さんは、そんな部分ばかりを書いているわけではない。同時に、茂吉の評論のすごさや鋭さもあぶり出されてくる。

 この記述は興味深い。和歌革新の助走期において、起爆力になったのは、専門歌人とはいえない人々だ、そこから来る無遠慮と芸術の局所を洞察して周辺にまどわされない姿勢が、運動を起す資格となった――。わかりやすくいえば、こういうことだ。(中略)この指摘は、もちろん現在にも十分に通用する。茂吉の目は曇っていなかった。(p.135)

革新ののろしをあげたものの、行く先は未だ定めがたく、盲目的たらざるをえない、そういうとき、理論よりも過去の実作に逢着し、読み、影響を受けることによって、進路を見つけていく。ここでも茂吉は、運動というものの起源と発展の仕方を公正に、しかも的確に見ている。(p.137)

  読んでいてわかってくるのが、茂吉のすごさは、茂吉のめちゃくちゃさと融合しているということだ。佐藤さんはそれを、ときに面白がり、ときに戸惑いながら記述していく。だからといって、めちゃくちゃさを神聖視したりはしない。たとえば、茂吉の戦争賛美の時局詠が、どのように茂吉自身の理論と矛盾しているかも、きちんと指摘している。

すなわち、神国を思うのも、天皇をあがめるのも、また自国の勝利に感涙するのも、うそ偽りのないそのままの事実だ、それこそ写生だという具合に。だが、そのように高唱できなかったのは、ここにおける〈私〉が肉眼による手触りを欠いていることを、〈私〉の地平に依拠していないことを、無意識の内にも感じていたためだ。

時局詠のときの茂吉は、写生派歌人ではなかった。(p.64)

 そしてこの本のスリリングなところは、やはり、茂吉の評論を読むことをきっかけとして、佐藤さん自身の思考や興味が動いていくさまを、へんに衒わずに書いていることだ。

白秋と茂吉の対比は、興味深い問題だ。意外なほどふたりは近いのに、別方向へ分れていった。その契機を垣間見ることのできたのは、思わぬ収穫である。(p.19)

学問をするうちに、実作を離れるのはなぜだろう。実作者を低く見るようになるのは、なぜだろう。歌論と実作が離れてしまうのは、なぜだろう。こういう短歌領域の疑問を私はずっと抱いていたが、茂吉はヒントを与えてくれている。(p.38) 

ことばの初源への感性、それは同時に人間の原型への感性であり、近代に対して古代の感性でもある。それが茂吉の根底にはしぶとく生き続け、しかも激しく渇き続けていた、近代に放り出された古代人のように。『古今集』や新詩社との軋み、また『万葉集』や柿本人麿崇拝などの過剰さを拭い去ったとき、内深く見えてくるのは、初源・原型を希求する心性だ。茂吉の写生論の本源も、そこまで降り立たなければ見えてこないのだと、私はやっと気づいた。(p.216,217)

  「私はやっと気づいた」。この言葉は、意外と、なかなか評論では読むことができないものではないだろうか。結論を決めずに書きだし、うろうろと脇道をさまよいながら、少しずつ思考を重ね、ようやくあるところにたどり着いた満足が、この一語に込められている。その満足を追体験できるのが、ふつうの評論とはちょっと違う、この本の面白いところだと思う。

 さて、この引用にも出てくるが、茂吉といえば、「写生」であり「実相観入」だ。茂吉のキャッチフレーズともいえるこの言葉は、近現代短歌の基礎のように謳われるが、わかりそうでわからないとかねてから思っていた。ただ、重要な概念なのはたしかなので、とても気になる。もちろん、この本にも何度も出てくる。佐藤さんはこう書く。

しかし、実は茂吉がいう写生や実相観入が、なぜ万人の従うべき善き定義であるのか、よくわからない。もしも生が万有を指すというなら、写生の語義はほとんど無限定に広がる概念ではないか。もし「アララギ」らしい特徴を付けるとしたら、空想やロマンからでなく、現実から、ないし此岸から出発せよということだけではないのか。(p.44)

 やはり「わからない」ものなのだ。そもそも、茂吉の言葉に矛盾がある。 

茂吉の写生論を読んでいて、どうしてもこちらを戸惑わせるのは、一方で内的衝迫に即くべきだと語りながら、他方では実地を絶対条件としていることだ。必要条件という甘ったるいものでなく、絶対条件なのである。内的衝迫すなわち感動に人為を加えず流露するとしたら、ロマンチシズムと変るところがない。事実『赤光』の世界には、白秋や晶子以上にしばしば狂おしいばかりの情動が走り交っている。このことと、実地に即くことの論は、反発しないか。私は大いに反発すると思う。それを知っていて、強引に統合しようとしたのが茂吉流の写生論ではなかったかとさえ思う。(p.72)

 「内的衝迫」とは、自分のなかに沸き上がる、マグマのような衝動のこと。そこから歌を始めるべきだ、と茂吉は言うが、同時に実際に見たものしか詠ってはいけないとも言う。ここに矛盾があると佐藤さんは指摘する。自分の中の衝動にしたがえば、目の前の現実とは違ったものが表れてくるのは、ある意味では当然ともいえる。そもそも、茂吉の歌自体が、写生論の中にはおさまらないではないか。

だが、考えてみると、茂吉の作品には摩訶不思議な要素(それはデモンというほかないのだが)が、しばしば噴出する。「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」が、そもそもそうではないか。これをも写生の範疇に入れたとき、写生と「神秘神来」との境界はほとんどなくなる。(p.32)

 しかし、その矛盾を佐藤さんは肯定的な側面からも捉えている。この引用にすぐ続くのは、こんな文章だ。

極論すれば、「アララギ」派でありながら、超「アララギ」派を、それこそ無意識に実行している。茂吉のおもしろさは、そこに行き着く。(p.32)

 そして、理念が強力であればあるほど、のちに権威化し固定化され、だんだんと流派が衰退していくことの問題に触れながら(そこにはもちろん現在の「アララギ」の衰退の問題が含まれている)、佐藤さんは、「写生」と「実相観入」の間の矛盾を、こう捉えなおす。

しかし、私は思うのだ、茂吉の短歌が、それこそ世界文学といっていい達成を見せたのは、写生を絶対だとしながらも、「実相観入」によって解体ルートを潜伏させたことによると。「実相観入」とは、写生絶対を装いつつ、実は解体意志も内胎させる、そういう装置だった。(p.166)

 そのうえで、衝動を抱えた茂吉がなぜ「実地」、すなわち目の前の現実を重視したのか。佐藤さんは考えた末に、それは茂吉が「人間の手触り」を重要視し、それを拡大した「人間の生の手触り」に重きを置いたからではないか、と類推する。そして、さらに論をこう進める。

では、なぜ茂吉は「手触り」にこだわり続けたか。この問いは、なぜ『万葉集』初期や柿本人麿に、そして正岡子規以来の「アララギ」系にこだわり続けたか――を問うことと同じだ。(中略)ことばの初源への感応が、抜きがたくあったと私は見る。ことばは、何もないところからいきなり発生するわけではない。まず人間が居り、物が存在し、生があり、生活がある。その中から発生してきたのがことばだから、「人間の手触り」を内胎させている。ことばは一旦ことばとして成立すると、記号となってしまう。記号化すれば、自由自在に飛翔するが、同時に根無し草のようになってしまう。こういうことへの欠落感が茂吉には潜在的にあり、だから「手触り」を希求しないでいられなかった。(p.216)

 と結論する。 そして、先ほどの引用の「私はやっと気づいた」に至るのだ。

 評論の基本は、読んで、考えて、書くということだ。この本が面白いのは、もちろん佐藤さんのこれまでの読書や思考の蓄積や、佐藤さん自身の能力に関わっているけれど、根本のところでは、読んで考えるというプロセスを、厭わずに丁寧に記述したことにある。それはある意味では、誰でもできるものだ。実は、評論というものが読む人にとっても書く人にとっても、開かれたものであることがわかってくる。

 斎藤茂吉を読むときに、まずその短歌を読むのがふつうだろう。しかし、その後、茂吉の言う「写生」や「実相観入」をよく知ろうとすると、途端に難しくなってしまうのではないだろうか。そんなときに役に立つのがこの『茂吉覚書 評論を読む』だ。さらに、佐藤さんの丁寧な記述によって、茂吉と他派の関係、正岡子規の立ち位置、万葉集における作風の変遷、茂吉の美術への傾倒などの知識も一緒に入ってくる。

 この本は茂吉入門中級編といった趣きの優れた本だ。amazonに在庫あるみたいですし、まだ今でも青磁社から買えると思います。