短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第18回 大岡信『一九〇〇年前夜後朝譚』

 「短歌」と「和歌」の違いってなんだ 堂園昌彦

一九〇〇年前夜後朝譚―近代文芸の豊かさの秘密
 

 

 こんにちは。

 この「短歌のピーナツ」を始めてから、詩歌関連の本がずいぶんと目の中に入るようになってきた。以前も目には入っていたのだろうが、なんだかそれらの本は自分にはよそよそしい感じがして、手に取るのが躊躇われたのだ。しかし、今では古本屋で詩歌に関する本を見つけると、とにかく片っ端から購入して、いそいそと持って帰るのが何よりも楽しみになっている。この本もそうして見つけた本のひとつだが、面白かったので紹介したい。

 「後朝(きぬぎぬ)譚」とあるけれども、別に恋愛詩の話ばかりではなく、1900年前後の文化に対する四方山話、というくらいの意味らしい。大岡さんは100年ほど前の時代がいろんな理由で重要だと考えたようだ。それは次のような言葉で説明されている。

私たちはこんなに日々忙しく立ち働いているのに、それにまた長寿社会だそうだのに、それにしてはなぜそれほど精神的に快活じゃないのだろう、という素朴な疑問がこの本の出発点にあります。一世紀前の思想家も文学者も、私たちより短命で病苦にもさいなまれていた人が多かったのに、私たちより本質的に快活で元気がよかったと私は感じています。それは「なぜ」なのか。その疑問を少しでも明らかにしたいと思ったのでした。(p.344)

 「一世紀前の思想家も文学者も、私たちより短命で病苦にもさいなまれていた人が多かったのに、私たちより本質的に快活で元気がよかった」、これは『短歌の友人』などで穂村弘さんがずっと言っていることと同じですね。ほんとに、これはいったいなんでなんだろう、と思う。

 この本の中でも、はっきりとした答えは出ていない。でも、やはり言えるのは、100年前はあらゆるものの転換期であり、次々にシステムが変わっていくこと自体に非常に大きなダイナミズムがあったということだ。で、この本は、そうした文芸ジャンルにおける変化をいろいろな側面から照らし出そうとした本と言える。網羅的な内容ではないけれど、大事なことがいくつもいくつも起きていたことは、うかがえるようになっている。

 タイトルに「一九〇〇年前夜」とあるように、1900年=明治33年くらいに起きたことが語られることの中心だ。日本の「詩」が劇的に変わった島崎藤村の『若菜集』が1897年=明治30年で、正岡子規の「歌よみに与ふる書」が新聞紙上に発表されたのが1898年=明治31年です。要するに、1900年前夜=明治30年前後というのは、明治に入って埋め込まれた変化の種が、じわじわと成長していって、ようやく革命となってあらゆるところで噴出し出した時期なんですね。

 内村鑑三岡倉天心坪内逍遥らの行った仕事についてなどの箇所も興味深かったのだが、やはり私は短詩型に関する箇所が気になる。ずばり、この本で一番面白かったところは、「短歌」と「和歌」の違いに関する箇所だったので、それを紹介したい。

 和歌と短歌と、どう違うのか。

 同じものを単に別の呼称で呼んでいるだけなのか、それとも名前の違いは中身の違いによるものか。

 私は和歌史・短歌史に通暁している人間ではありませんが、日頃それにふれる問題について書くことがあるため、時々右のような質問を受けることがあります。そこであらためて考えてみると、この名称の問題は一見些事のようですが、案外そうでもないことに気づきます。つまりここには、日本の詩歌伝統における前近代と近代の分水嶺がいったいどの辺りにあったかを考える上で大事なポイントになるような問題が隠されていると思われるからです。名称の違いは、単なる呼び名の違いでなく、「うた」の実質の違いに深く関わっているのです。(p.135) 

 近代において57577の形式を持つ和歌文学が刷新され、結果、「短歌」と呼び名が変った、これはある意味では常識とも言えることだけれども、実際にはいったいいつごろ「短歌」という呼び名になったのか、そして、「和歌」と「短歌」は結局なにが違うのか、これにしっかりと答えるのは、意外と難しいのではないだろうか。

 まず、枕として大岡さんは坂本龍馬の和歌を取り上げている。

 とある雑誌の、読者からの質問に答えるコラムで、

大岡信のエッセーを読んでいたところ、坂本龍馬の歌を『短歌』と呼ばず、終始『和歌』と呼んでいた。そこに引用されている龍馬の歌を見るに、現在の短歌となんら変わらないように思われるが、なぜそれを和歌と呼んで短歌と呼ばないのか説明して下さい(p.137)

と、質問を受けた。なるほど、改めて考えると不思議だ。「龍馬の時代には、まだ『短歌』と呼ばれてなかったから」とざっくりと答えてもよいのだが、たぶん、質問者が聴いていることは、もう少し細かいことだろう。大岡さんは回答として、次のような文章を書いている。

 文学史のおさらいをするような回答はあまりしたくないので、まず次の引用文をお読み頂こうと思います。筆者は明治十年生、昭和四十二年没(九十歳)の歌人窪田空穂。「作歌の跡を顧みて」という昭和十二年執筆の文章で、『窪田空穂全集』第八巻にあります。

 おっ、窪田空穂が出てきた。空穂は以前の回で長く取り上げて親しみがあるので、私はなんとなく嬉しい。ちなみに、大岡信の父は歌人であり空穂の弟子で、その縁で大岡さん自身も小さい頃から空穂と親しく付き合っていたらしい。旧制高校に入学するときの保証人になってもらったり、就職のときに相談に行ったり、困ると空穂に会いに行くという、大岡さんにとって頼れるお祖父ちゃんのような存在だったそうだ。

 これはこの本には出てこない、完璧な余談。で、続いて大岡さんは空穂の文章を引いている。先の文章に続く部分。

 まず冒頭に、

 「明治三十年代のはじめ、我々が歌に関心を持ち出したころには、今いふ『短歌』は『和歌』といふ名で呼ばれてゐた。これは漢詩に対しての名で、大和即ち日本の歌の意である」。

 空穂はこのあと、「和歌」が「短歌」に名称変えになってゆく経路を、まことに興味深い観察と体験的回想によって論じていますが、その細かい内容についてはここではとても引用できません。ただ一つ挙げておけば、明治三十年代はじめという時期が、明治二十七・八年の日清戦争における日本の勝利に続く時代だったことを指摘している点です。(p.138)

 空穂が短歌を作り始めたのは、明治三十二年、22歳のとき。地元の小学校の代用教員となり、そこに赴任してきた1歳年上の歌人太田水穂に「短歌おもしれーから、やってみろよ」とかなんとか言われて歌を作り始めた。その後、子規のところに投稿したり、鉄幹のところに投稿したりなんかして、「明星」に入ったりする。そういうスタートだが、それはともかく、この頃はまだ「短歌」という名称はなく、「和歌」とみんな呼んでいた。

 そして、大岡さんも言っているように、「日清戦争の日本の勝利」が出てくるのが興味深い。

 つまり、「和歌」という名称は長い間「漢詩」を意識して用いられてきたのだが、その先進文明の産物「漢詩」の本家本元たる清国に対して勝利をおさめたとき、「にわかに高まってきた国民の自尊心」が、「和歌」という名前の再検討をうながす結果となり、「国歌」「国詩」「短詩」「短歌」といった名前がいろいろ試みられたのである、と空穂は回想しているのです。(p.138)

 これ、ちょっと驚いた。現代短歌を書いている歌人に向かって「和歌やってるんだよね」と言うのは、「ここで一句!」と言われるのと同じくらい歌人を嫌がらせることになる、一種のあるあるネタなのだが、「和歌」が「短歌」になった背景にこうしたナショナリズム的な要素があったとはまったく知らなかったので、びっくりした。

 もちろん、「和歌」が「短歌」になったのは、ナショナリズムだけではなく、もうひとつの強い影響があった。

 意外なところで伝統詩歌の名称の再検討とナショナリズムの結びつきがあったことになりますが、もちろんこれが最終的に「短歌」に落ち着くまでには、なお他の要素もからんでいました。その一つは、当時島崎藤村らの登場によって青年たちの心を一挙につかんでしまった「新体詩」(現在のいわゆる現代詩のご先祖)の出現です。

 新体詩は西洋の詩の影響を全面的に受けて出発しました。かつての先進文明の精華である「漢詩」に代わって、今度は洋風の「ポエトリー」が歌人たちの前に立ちはだかったわけです。「和歌」の名は、ここでもあっというまに影が薄くならざるを得なかった。

 「うた」という言葉は古代からずっと存在し、愛用されてきましたが、この大和言葉ではどうも新時代の詩的表現にしっくり来ない。いろいろな試みや再検討の末に「短歌」という名前が自然に定着していったというわけです。(p.138)

 これはわかる。文芸ジャンルの革新は短歌だけで起きていたわけではないから、やはり、相互に影響を受けている。で、いろいろ読んでいると、当時の和歌革新にはこの「新体詩」が大きく関わっていたようだ。わたしのざっくりした理解だと、

新体詩の登場」(明治十年代)

「それに影響を受けた様々な試み」(明治二十年代)

歌よみに与ふる書」(明治三十一年)

という流れみたいだ(「新体詩」については、またあらためて別の回で取り上げたいと思ってます)。 

 私が幕末の坂本龍馬の「古今調」の歌について書いた時、終始それらを「和歌」と呼んだのは、以上のような歴史的背景に立ってのことです。正岡子規が和歌革新に決定的な一石を投じた有名な「歌よみに与ふる書」をご覧になってもわかることですが、子規はこの中で常に「和歌」の語だけを使っています。この文章が新聞「日本」に連載されたのは明治三十一年早春のことでした。「短歌」の語は、革新家子規にとってもまだ馴染みの薄い名称だったのです。(p.139)

 「歌よみに与ふる書」でも「短歌」ではなく「和歌」だった(読み返してみたらほんとにそうだった)というのは、強力な傍証ですね。なるほど、面白い。

 経緯は以上のような感じだが、「和歌」と「短歌」の中身の違いはなんだろうか。大岡さんは、この雑誌コラムの話に続いて、コラム中では引用する余裕のなかった坂本龍馬の実際の和歌を取り上げている。こんな歌だ。

 

桂小五郎揮毫を需めける時示すとて

ゆく春も心やすげに見ゆるかな花なき里の夕暮の空  坂本龍馬

 

 この歌は晩春のおだやかな夕暮れを詠んだなんてこともない歌なのだけれど、おそらく背景に『古今集』の次の2首を元にしている。

 

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平

久方のひかりのどけき春の日にしづごころなく花のちるらむ   紀友則

 

 どちらの『古今集』の代表的名歌だけれども、龍馬はそれを下敷きとして、「晩春、桜も散りはてた花なき里の穏やかさ、やすらかさを、『これもまたいいではないか、小五郎よ』と言っている」ということだ。

 他に大岡さんが挙げている坂本龍馬の歌も、いずれも古典的知識をもとにして、題詠の基本にのっとり、技巧を凝らしている。しかも、これらの歌は座興か旅行先の即吟であり、ふだんの龍馬の教養がそのまま出ている歌たちだ。

 はたちを過ぎて日も浅い土佐の剣術使いにしては仲々のものじゃないか、などと冷やかしてすますわけにもゆかないほどの古典和歌の嗜みがこの人物にはありました。そういう基礎教育を彼に与えたのは、おそらく彼の姉乙女を中心とする家の伝統だったと思われますが、こんな具合に『古今集』伝統を実践的に身につけていた若者であれば、今日で公卿貴族たちと面談しても、イナカモノの気後れをいだく理由はなかったと思われます。同時代の公卿貴族で、龍馬の和歌程度の歌でも即吟できた人は、たぶんごく少なかっただろうからです。(p.143)

 つまり、龍馬の歌は当時としても教養の高さを示すものであり、それは現実的に他者と交渉する際にも役だっただろう、ということである。

 和歌ができるということは、ただちにそのような実際面での効用を意味していたのです。それが、近代短歌を作る場合との、実に顕著な相違であったことは、いくら強調してもしすぎることはありません。すなわち、普通私たちが考えやすい道筋とは逆に、古典「和歌」というものは、単なる煙霞の癖(へき)、毒にも薬にもならない非現実世界への優遊といったものではなく、時にはまことに生臭い虚々実々の取引き、丁々発止の力競べそのものとして、現実世界で活用されるものだったのです。(p.143)

 「『うた』は単に内部から湧きあがる素朴純真な感動や感傷の表現ではなく、その人物の知的・情操的背景を示す『記号』なのでした。」と大岡さんは述べている。つまり、和歌は「現実的に役に立つもの」なのである。

 そうして考えてみると、明治期の和歌革新はこのことに関わっている。

 正岡子規与謝野鉄幹が成しとげた転回は、この観点からすれば、詩歌というものからそのような意味での、現実的効用(注:原文傍点)の側面をできるだけ骨抜きにすることであり、長期的視野においてこれを見るなら、現代の短歌、俳句、現代詩にまで滔々として浸透している芸術のための芸術(注:原文傍点)という観念を、伝統詩歌のボディーの中へ新たに注入することだった、と言うことができるのです。(p.144)

 和歌を現実に役に立つものから、役に立たないものへ。それが「和歌」から「短歌」へと移り変わった明治時代の実験であった。短歌が「自我の詩」になったということはそういうことだ。実際、現代でも短歌を学んだからといって社会的な地位が上がることはまず考えられない。それは、このころの和歌革新に原因を負っている。余談だが、「歌会始」などの短歌と天皇制の関わりは、この「現実で役に立つ和歌」が奇妙な形で残ったものと言えるかもしれない。

 またこれも脇に逸れるが、現代の短歌において「言葉遊び」や「折句」が、短歌をあまり読まないひとには「すごい」と思われるけれども、短歌プロパーの世界ではそれほど好まれないのも、ここらへんに関係があるような気がする。つまり、これらのものは和歌の世界では、「教養」や「機智」を表す、現世利益、現実的に役立つものだったからだ。近代短歌はその否定から始まっており、今でもそれを引きずりながら続いているから、このようなギャップが生れるのではないだろうか。

  次のところも大事なので引用したい。

 私は旧派和歌に漂う陳腐なるものの繰返しから生じる腐臭、さらには死臭に対して、とても付合いきれぬものを感じます。しかし一方で、自我の叫びを出発点に置き、感情の振幅の大小によって詩の真実を測る重要な目盛りとした近代以降の詩歌の道筋にも、荒寥たる落日を感じます。プロレタリア短歌とか俳句、またプロレタリア詩などと呼ばれた作品群を今読み返してみると、そのような「近代」詩歌の問題点がとりわけ鮮明に浮かびあがってくるのがわかります。感情の激発ののちは、淋しい感傷と傷ついた自我の泣き言が続くしかなかったのが、大方の近代的左翼詩歌の道程でした。(p.146)

 「感情の激発ののちは、淋しい感傷と傷ついた自我の泣き言が続くしかなかったのが、大方の近代的左翼詩歌の道程でした。」というのは、だいぶ厳しい言葉だけれど、まあそうですね。

 じゃあまあどうするかってことになるけれども、それは大きな話になってしまうので、今回はこれくらいにして、短歌はとかく「伝統」を言い、「千二百年続く」とさも特別なもののように言いたがるが、本当は誰もがわかっているように、短歌と和歌は完全に別物である。変に切れ目なく続いているかのように騙るよりも、違う点をはっきりさせておいた方が、はるかに建設的な気がするがどうだろうか。で、和歌が「役に立つもの」だったというのは、当たり前と言えば当たり前だけれどつい忘れてしまうので、覚えておきたいなと思ったのでした。

 あとこの本では、いわゆる俵万智現象はなぜ起きたのか、短歌だけが爆発的人気を得られる理由とは、という章もあったけれど、そこはあんまり面白くなかった。大岡さんの挙げている理由を並べてみると、

  • 現代人は、わけのわからない混沌としたものよりも、短歌・俳句といったあらかじめ形のわかっているものへの好みを強めている(ちょうどTVのチャンネルを合わせるように)
  • 現代詩は、その詩人の個人的性向すべてを読むことになるので、必然的に批評的距離を持ってしまう(=コアな読者しかいない)
  • 俳句は個人の作品よりも、連衆全体で実力を発揮するもの。また個性よりも季語・季題といった共同体的感性が重視される
  • 近代において「作者の人生経験の独自性」に価値を置く方向に舵をきった短歌だけが、素人歌人から爆発的な人気を生む可能性を残している

ということで、まあ、これはそれぞれはその通りだなとおもうけれども、それは消極的理由で、積極的な理由にはなっていないと感じた。私はですけど。

 この本は「へるめす」という岩波書店が発行していた学術誌での1989年から1994年までの連載が元になっていて、『サラダ記念日』が出たのは1987年だから、ちょっと今とは『サラダ記念日』への距離感が違うんだろうなと思った。今はもう歴史になっちゃってますからね。

 あと、最後の章にあった「二重国籍詩人」野口米次郎(=ヨネ・ノグチ)への言及が面白かった。この人は、明治二十六年(1893年)に17歳で単身アメリカに渡り、向こうで浮浪者っぽいことをしながらも、英語で詩を書いてだんだんと有名になっていって、ついには明治三十七年(1904年)に日本に凱旋したという人。彫刻家イサム・ノグチのお父さんです。俳句研究とかでも大きな仕事をしました。あと、石川啄木がこの人に超あこがれて、手紙書いたりしてます。

 この人、恥ずかしながら今まであんまり知らなかったのだけれど、面白かった。ちょっと長くなったので、そろそろ終わりにしたいのだけれど、この章については後で追記で書くかもしれません。

 啓発されるところの多い、面白い本でした。他に、興味深かったところを引用して、今回のブログはおしまいです。

 マラルメのような詩人がもし正徹の歌を読みえたなら、おそらくは驚嘆したであろうような、言葉のいわば斡旋のみごとさが彼の和歌にはありますが、禅僧であった彼は、同時に公式の間に広く信頼され、歌合や歌会に頻繁に出席して多くの弟子を育てた、社交性に富む大歌人でもありました。それは、およそ五百年後に登場したマラルメが、自分の周囲に若き詩人や小説家を集め、音楽家や画家たちとも親交を結び、見世物の類を愛好した詩人であったこととも通じる所があるでしょう。

 正徹の弟子で「冷え枯(か)らびた」境地の創出を理想とする心敬が、連歌師として実に多様な人物たちと同席し、指導力をふるったということも、彼の孤絶的印象を与える歌論の背景として、忘れてはならないでしょう。これらは結局、和歌の伝統というものが、社交性と相容れないものではなく、逆にそういう土壌のまっただ中で磨かれ続けたものだったことを意味しています。(p.223)

  和歌の伝統と社交性。

 というのも、それ以前の明治時代の詩歌作品では、恋愛という情熱が詩的世界のものとして正面切って扱われたことはなかったからで、『若菜集』と『みだれ髪』は、いわば公的要請に奉仕することを当然の任務とする讃美歌や軍歌や唱歌(小学校唱歌、また後年になりますが大和田建樹の名作「鉄道唱歌」のごとき)によって代表される目的・用途のはっきりした(注:原文傍点)詩の世界に、恋愛というすぐれて私的で無償の情熱的なモチーフを持ち、同時にきわめて具体的に両性間の社会的問題をも内包した普遍性のある一つの重要な主題を持ち込んだのでした。(p.6)

 近代詩以前の世界では、詩は「目的・用途のはっきりした」ものだった。

 藤村・晶子がやった仕事は、その意味で重要でした。彼らは様式化された恋愛詩の歴史から、思春期の悶々たる欲情や憧れや思慕をあらためて救い出しました。

 江戸時代の文学・芸術が、全体として青年の思想心情を表現することにおいて驚くほど怠惰であり、全体として実に老けて(注:原文傍点)いたことを、私はここで強調しておきたいと思います。江戸文学に生きのいい青年の思想・感情の所産を見出すのはひどく難しいことで、江戸時代が随筆の黄金時代だったのは、この事実と表裏一体のことだったのです。(p.8)

  江戸時代が老けているの、たしかに。

 しかし、それが一千年近い間人々の物の見方が変らなかったことを意味しているかと言うと、必ずしもそうではありません。物の見方は変わってきている。つまり細かくなってきています。江戸時代の中期以降は、リアリズムの眼差しが、多くのすぐれた人たちによって、はっきり獲得されています。しかしながら、彼らが作った歌の世界には、その変化がすぐそのままには現れてこなかった。「歌」は、それ独自の生命を持っていて、それに仕えるのが個々の詩人の役割だという考え方があったからです。だから、自分自身の裸の目で見ている現前の風景を、わざわざ古くからのスタイルにのっとった歌い方で歌うという屈折した詩人たちもたくさんいたにちがいない。

(中略)リアリズムの目を持ちながら、同時に伝統的様式性を重んじるという、一種の矛盾した感受性と行動様式が生じていました。これが江戸後期歌人たちの、新しい動きでした。(p.153)

 江戸期歌人もそのうち読みたいですねー。

 そこで「童謡」ですが、童謡は、このような形でおかみ(注:原文傍点)が関与・指導している児童教化的な「唱歌」に対抗して生まれた、大正時代独自の(注:原文傍点)産物だったのです。大正という時代は、一代目の明治に対する二代目の特色をさまざま持っていましたが、その重要なものの一つが、「子供の発見」と言うべきものでした。(p.167)

 大正時代を「二代目」と思って見るのも、面白いかもしれません。

日本詩歌における抒情というものの実体を、文字に惑わされて「情緒」や「感情」の側面において考えるのは、まさに考えものです。むしろある種の、他では求め得ない言語的ヴィジョンを、言葉の組合せの秘術によって作り出すこと、これが結果としてわれわれの情緒にも深い影響を与えること――これが「抒情詩」として日本詩歌の高度な達成にとって必須の条件だったと言うべきだろうと思います。(p.214)

  日本の詩歌は「今ここにないものの影」を「今ここに有るもの」を通じて捉える「時空のデペーズマン」をやってきた、と大岡さんは言っています。「デペーズマン」はシュルレアリスムなんかでよく使われる単語で、あるものを文脈を断ち切って別のところに無理やり置くと面白いでしょ? みたいな手法のことです。詳しくはググってください。

 こんなところです。それでは。