短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第19回 小池光『街角の事物たち』

永井祐

こんにちは。

 

今日やるのは!

 

 

人は「そとづら」が9割

人は「そとづら」が9割

 

 

ではなく!

 

 

街角の事物たち (五柳叢書)

街角の事物たち (五柳叢書)

 

 

小池光『街角の事物たち』(五柳書院)です。

実は去年はじめて読んだのですが、

これは名著のたぐいですね。

91年刊。小池光の最初のエッセイ・評論集です。

いろんな場所でいろんなテーマで書かれたものを集成してある本で、統一的な

テーマがあるわけではないのですが、

これを読むと、当時の小池さんの問題意識がよくわかる、ユニークな発想と洞察

に満ちた本です。

去年、わたしは『短歌』(KADOKAWA)という雑誌で半年間時評をやっていて、

そのときに冒頭の「団地暮らし、感想」というエッセイについて書いているので、

今回は別のやつをやりたいと思います。

 

二番目に入っている「笑いの位相」。

これは、奥村晃作論になっています。

 

ちょっと前置きで穂村弘『短歌という爆弾』から引用します。

 

不思議なり千の音符のただ一つ弾きちがへてもへんな音がす

次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く

「東京の積雪二十センチ」といふけれど東京のどこが二十センチか

舟虫の無数の足が一斉にうごきて舟虫のからだを運ぶ

 

これらの作品には、奥村晃作の怖さがよくあらわれている。目の前の事象に対する限度を超えた意識の集中が、先入観や常識といった日常的な認識のフレームをばらばらにして、いわば聖なる見境のなさといったものを生み出している。

 

 

穂村さんはこのような心のあり方を「灼熱の心」と呼びます。

作品と合わせて、言ってることよくわかりますよね。わたしも奥村晃作のイメージってこんな感じでした。

が、「笑いの位相」を読むと、ちょっと様子が変わってくる。

 

はつきりとこつちがいいと言ひくれし女店員が決めしボールペン持つ

ヒトゴロシ、窃盗などははつきりと悪なるゆゑにわれは成さざり

気象庁天気予報に従ひて今日も要なき傘持ちありく

 

(略)滑稽だが深刻の翳りがある。

自分自身をつかまえきれない、宙ぶらりんの存在感が正直に、マトモに(あるいはマトモ過ぎる位に)歌われている。傘を持つか否かを決めるのは気象庁であり、二本のボールペンをどっちにするかを決めるのは女店員である。確信を持ってジャッジ出来るのは、せいぜいヒトゴロシやドロボーが悪いということだ―というのだから、わたしたちは頼りない四十男の正直な告白に笑わされるが、それが自分の姿でもあるのに気付くのに大した時間はいらない。わたしたちは、多かれ少なかれ、みんなそういう状態で生きている。(略)

今、走ることが大変流行している。走ることに限らず、色々な肉体鍛錬が先進国で例外なくブームである。

その理由は、おそらく、走ることで自分自身をつかまえられるのではないかという幻想が、彼らを走らせている。自分が自分の支配者となる感覚が欲しい。

奥村晃作のとまどいと不安は、この人々をジョギングに駆りたてる衝動と同じところに根ざしているといってよい。だから、わたしたちは笑うけれども、その笑いはひきつったものにならざるを得ない。

(略)

そして、必死になって走る人が、どこか深い所でおかしく見えるように、奥村晃作の姿もおかしく見える。この歌集のおかしさは、つまるところ、そのおかしさである。わたしたちは笑うが、笑いつつ、同じ袋小路にいる自分を発見させられる。

 

わが専門は短歌にてわれは万葉集をかく通読す七、八、九…回

どの歌がどこにあるかがわかるまで万葉集をわれは読むなり

旧かなの表記で歌を作り過ぎ散文書きつつ「うえ」を「うへ」と書く

 

(略)ここで歌人は「専門」なる概念(?)を持ち出す。短歌が専門であると自己規定することで、自分をつかまえようとするのである。いいかえると、こう自問自答している。「奥村晃作とは何か?」「それは、短歌を専門にする者、である」と。その答で自分を納得させようとする。(略)

それはおそろしく空疎な思い込みといわなければならない。この空疎さは何ものかによって物質的に充填されねばならず、そこで奥村晃作万葉集を読むという行為に出る。(略)充填への欲求はのっぴきならないものであるが、それが、こういう意味での「万葉集」であることが、滑稽であり、馬鹿馬鹿しく、痛ましい。丁度ジョギングにのめり込んだ人が、地球を一周するだけ走らなければ止めないと決意するのとひどく似通った必死さであり、おかしさであり、痛ましさである。

(略)

この歌集のおかしさは、だから、追いつめられた現代人のおかしさである。

 

 

また引用長くなっちゃったんですけど、これ読んでなるほどな、と思うんです。

もちろん引用歌の傾向は(たぶん制作時期も)違うんですが、穂村さんの論を読んでいる限りだと奥村作品は「聖なる」変な人、みたいに見えます。でも、小池さんはそこに、「灼熱の心」の背後に、むしろ不安で追いつめられた者の姿を見出すんですね。そしてとても同情的に、共感的に書かれています。

『街角の事物たち』を読んでいると、当時の中年男性たちのピンチとか焦燥感みたいなものがありありと描出されていて興味深いです。それはなんだろう、終身雇用が前提の仕事をしながら家のローンを何十年も払っていくような人生における焦燥感、消費社会化の進行による価値の変容に取り残されていく危機感とか、そういうものですね。今からすると見えにくいし、同情もそんなにされなさそうなものです。しかし、だからこそ気になる。

 

もう一個、「リズム考」という韻律論をやりましょう。

これはたいへん具体的な論で、必読だと思います。

前半は短歌一首のリズムの解析。くわしくは読んでもらうとして大事なのは、

短歌形式とは、三十一音が等拍でただ並んでいるのではなく、「五句三十一音」

というだけでは表し得ない「短歌のリズム」が存在していること。(本文には

楽譜まで付いています。)そしてその肝心なところは、

 

(1)初句と三句、つまり五音の句をゆっくり読み、二句四句結句の七音を速く読む。

(2)初句と三句の終わりには休止がある。

 

これを踏まえて後半は破調の分析になります。

小池さんにとって短歌の韻律のポイントは、「短歌らしさ」とその「裏切り」とのあいだの緊張関係にあります。なので、明らかな「裏切り」として、破調が分析の対象になるんですね。

各句の増減の破調を、例を引用しながら読んでいくのですが、特に納得したところだけ紹介します。

 

A1・初句増音

(「六七五七七」の例)

(略)

(「七七五七七」に比べて)「六七五七七」は抵抗力が大きい。六音が短歌五小節のどのリズムをもってきてもおさまりにくいからである。あまりにも短歌らしくなく始まったため、二句以下との対比は一層鮮かとなるが、その分だけ下手をすれば異和感分裂感チグハグ感も与えやすく、例歌も少ない。

 

いましがたの雨のなごりは曲線を持つ屋蓋にひかりを引けり 佐藤佐太郎

 

この一首はぼくの知る限りでの数少ない成功例のもっとも見事なひとつで、「いましがたの」という吃音的イントロが、完璧ともいえる二句以下の短歌らしさによって実に小気味よく逆転されてゆく。特に「曲線を持つ屋蓋に」の句またがりに注意したい。またがったことでまこと曲線を感じさせるリズムが生じた。その流麗さが「いましがたの」の舌足らずなリズムと拮抗しあい、不思議な緊張した空間を現出せしめているといえる。「いまほどの」「さきほどの」ではこの一首の美しさは半減する。意味性によってではなく、リズムにおいて半減してしまうのである。定型の有機性ということ、二重の裏切りによる定型のダイナミズムということを強く感じさせる一首であろう。

 

 

A2・三句増音

(「五七六七七」の例)

 

白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり 高野公彦

 

(略)初句、三句は休止符があるため、増音はこの休止をうずめる方向でまず行われ、その結果短歌らしさに対する抵抗体として、強く機能するのである。(略)ここでは、三句六音の強いブレーキが<意味性>という全く別の機能と交錯しあい、微妙にそのどぎつさの角をけずり落としているのに注意したい。つまり「草の園に」の六音のリズムが、「自転車のほそいつばさ」という幻視的光景(つまり意味上における短歌らしくなさ)を呼んでくる伏線として機能しており(略)いいかえれば必然性があるのである。意味上からは「草の園に」の「に」は省略可能である(略)五音におさめるのは簡単にできる。だからと言って、

 

白き霧ながるる夜の草の園自転車はほそきつばさ濡れたり

 

では歌は「死に体」である。「自転車のつばさ」があまりに唐突に出現しすぎる

 

 

A3結句増音

 

(結句増音は)余情に対するブレーキ、と書いたが、これは実際には過度の叙情性に対する「流れどめ」として有効性を発揮する。この型の破調の第一の効力がここにある。例をみよう。

 

亡き姉をこころに持てば虹の脚ほのかに秋の海に幽(かく)れたり

亡き姉をこころに持てば虹の脚ほのかに秋の海に幽(かく)れぬ

 

前者が『汽水の光』より引いた高野氏のオリジナル、後者はそれを筆者が定型化してみたものである。並べて見ればわたしのいわんとするところは明らかになると思う。死んだ姉さんのことをおもっていると虹の脚がほのかに秋の海へ消えて行った、というイメージは魅力的であるがその美しさは繊細にすぎ予定調和気味であり、いわゆる短歌的叙情のワクの内で容易に自己完結してしまいかねない際どさを持っている。韻律の流速の中でやすらかに溺れてしまいそうなイメージである。「海に幽れたり」の八音はこの流れに投じられた垂鉛の役割を果して、一首に有機的な勁さを回復しているのだ。まことに的確な計算であると思う。

 

 

どうでしょう。

ついていけるでしょうか。

極論すると定型感覚って時代によって変わるし、個人によっても違うと思います。

結句が七から八になったから甘過ぎを免れた、と感じられない人もいるような気がします。

わたしも「リズム考」でピンとこなかったところはあるし。

でもこれを読むと、小池さんの中にはおそろしく繊細な意味と音と型の宇宙があるんだな、

ということがなんとなくわかりますよね。マスターの模範演技みたいな感じで。

 

短歌と直接関係ないエッセイもすごくいいんですけど、今日はこのあたりで。 

 

そういえば今週土曜、8/13にシンポジウムのパネルに出ます。

くわしくは下のURLを。

http://9313.teacup.com/tankajin/bbs/463 …

ピーナツの第二回でも取り上げた、森岡貞香についてのものです。

お時間あればぜひ。

見かけたら声かけてもらえるとうれしいです。