短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第24回 小高賢『宮柊二とその時代』

 宮柊二と戦後社会  堂園昌彦

宮柊二とその時代 (五柳叢書)

宮柊二とその時代 (五柳叢書)

 

 こんにちは。堂園です。

 

今日やる本は、小高賢さんが1998年に五柳書院から出した『宮柊二とその時代』です。

 

この本は、戦後を代表する歌人宮柊二の生涯を主にその作品を丁寧にたどりながら振り返っていく評伝です。「その時代」とあるように、宮柊二の生きた時代背景も浮かび上がらせようという作品ですね。

 

この本、読みやすく分かりやすい良書です。宮柊二は特にその前半生は波瀾に富んだ人生なのですが、この本はだいたい260ページでスッと読める。たしか、世評も高かった気がします。作品を多くひきながら、その人生や思想を考察していく、バランスの取れた筆致です。

 

そんなわけで良い本なのは確かなのですが、一方で、実際読んでみるとわりと変わった本というか、なかなか難しい問題を含んでいるところもあるなあと、私は思いました。

 

まあ、その「難しい問題」はとりあえずおいといて、内容を見ていきましょう。

 

小高さん自身ははっきりとそういう風な線引きをしているわけではないのですが、この本を通読していくと、従来語られることの多い、いわゆるアララギ―近藤芳美―前衛短歌といったラインの短歌史とは別のものとして、宮柊二を捉えていたことがわかります。

 

それは、次のような言葉によく表れています。

 宮柊二の新しさは、このような大衆社会のなかの個人の考察に満ちているところにある。インテリ(前衛)でもなく、しかし庶民(労働者)というわけではない。そのどちらでもある。いわゆる都会生活者のもつこのような問題が、作品のなかに透き通ってみえてくるところにある。

 「アララギ」は土屋文明、紫生田稔、近藤芳美、高安国世といった、社会の上層に属する指導者たちと、労働現場に携わるものたちとの共同組織であった。指導し、指導されることに疑いは持たれなかった。ところが戦後の時間がたつにつれ、そのような二極対立構造の捉え方では社会全体が見えなくなってしまう。

 「中間小説」「中間文化」という言葉に象徴されるような事態が訪れていたのである。

 宮の作品は、この中間者の苦しみやかなしみであり、そして悩みなのである。(p.200)

つまり、宮柊二を戦後の社会でマスを占めた層の代表として捉えているんですね。

 

アララギ―近藤芳美―前衛短歌というのは、少数派のインテリがリードした短歌の歴史です。『短歌という爆弾』や『短歌の友人』などに表れている穂村弘さんの史観も、基本的にはこのラインに乗っていると言っていいでしょう。

 

(もっと言えば、少数派でインテリで、かつ男性歌人が作った歴史ですね。以前の土岐さんの記事にもありましたが、アララギから引かれる短歌の歴史には女性の歌人は出てきません。この本にはそういったテーマは出てきませんが)

 

しかし、戦後の短歌には、そういったインテリ層の短歌だけではなく、膨大な大衆層がいました。文学的に意識の高い少数派から、新聞歌壇に代表されるような一般層まで短歌が広がっていったのが、戦後の短歌の流れです。

 

小高さんは、そのような戦後の短歌のありかたの象徴として宮柊二を規定しているのです。この把握はすごく変わった把握というわけではないですが、はっきりと語られるのは意外と珍しい気がします。

 

※ 

 

この本はこんな言葉で始まります。

ひとりの歌人の肖像は、誰であれ、その第一歌集のタイトルによってイメージされる。(p.8)

なるほど、名言です。確かに、茂吉は『赤光』、白秋は『桐の花』という感じがします。他に考えてみても、あーたしかに『海やまのあひだ』で、『歩道』で、『水葬物語』で、『わがからんどりえ』で、『シンジケート』で、『汽水の光』だわ、という感じがしますね、それぞれ。

 

で、宮柊二の第一歌集は『群鶏』です。ぐんけい。軍鶏ではありません。群れてるにわとり。

 

ここに小高さんは意味を読み取ります。こんな感じです。

鶏はごくありふれた小動物である。他の動物にも殺される。特別な意味を持たない。それをあえて自分の歌集のタイトルに選ぶ。ここに宮柊二の主張を強く感じとっていいのではないだろうか。つまり、私は今後「群鶏」で行く、「軍鶏」で生きてゆくのではありません――という控え目であるが、ゆずらない強固な申立ての存在を感じる。(p.9)

 

ふむ、なるほど。小高さんは、歌集の代表的な連作「悲歌」からタイトルをとらずに、『群鶏』としたところに、宮柊二の主張を読み取っています。

 

他に宮を評する言葉で有名なのは、師の白秋が宮柊二に言った「君は暗い」「君は何故孤独なのだ」「君の歌は瘤の樹をさするやうだ」というものです。これ、超有名なセリフなんですが、なんかこう、師弟の関係性がわかる言葉ですよね。宮柊二、というとついついみんな引用しちゃう言葉です。

 

ここからは、あんまり声高には主張したりはしないんだけれど、自分の譲らないところは譲らない、という姿勢を読み取ってもらえればいいのではないかと思います。

 

アララギ、近藤芳美、前衛短歌に共通している特徴は、論争的であり、とにかく弁のたつ人々でした。宮柊二とは、そのあたりに明確な差異があります。

 

宮柊二の前半生で大事なトピックは、乱暴にまとめると、3つです。

 

①実家の没落

②白秋に弟子入り

③戦争で中国・山西省

 

まず、①実家の没落ですが、宮柊二新潟県北魚沼郡堀之内の出身で、父は書店経営をしていました。宮柊二が小さい頃はうまくいっていたようなのですが、上越線の開通とともに商圏が移り、だんだんと没落していったそうです。で、宮柊二も旧制中学に通っていたんですが、その上の上級学校には行っていません。

 

当時、旧制中学に通えるということは、かなりのハイクラスに属していて、そのまま上に進んで、エリートの道を歩むのが普通でした。それが、進学をあきらめて家業を手伝っています。

 

要するに、エリートコースからのドロップアウトということが、宮柊二の始まりにあるわけです。

 

で、そのまま実家にいてもつらいですから、宮柊二は東京に上京します。20歳の頃です。そこで、職を転々とします。新聞配達とか、額縁屋とかやり、いろいろあって、1935年(昭和9年)、23歳のときに白秋の秘書になります。②のところですね。

 

このころ白秋は晩年で、糖尿病でだんだんと目が見えなくなってきていました。宮柊二はその秘書として、口述筆記をしたりしていたそうです。

 

白秋は宮柊二を買っていて、目をかけていたのですが、宮柊二は不安です。本当に筆で食べていけるのかと。さらに、長子であり、一家を支えなければいけないプレッシャーもあります。あと、白秋はけっこう気性の激しいひとで、住み込みの弟子はかなり大変だったと、他の本で読んだこともあります。まあ、いろいろあったのでしょう。小高さんは、文学的には白秋的な文学のあり方から脱出を計ったのだろう、と読んでいます。

 

そんなこんなで、1939年(昭和14年)、27歳のときに、白秋のもとを辞去し、富士製鉄の前身である富士製鋼所に就職します。白秋は説得するのですが、宮は聞き入れません。

 

当然、白秋はめっちゃ不機嫌になるのですが、その直後に、まさに入社して三カ月しか経ってないところに、日中戦争に召集されます。宮の友人の野村清は

この出征という事態は偶然にも、宮の頑なに対する白秋の苦い思いを一気に払拭してしまう。いうならばタイミングのいい出征だったのである。

と述べています。結果的に白秋との関係は修復され、文学的にも自立できたというわけです(その後、白秋は宮柊二が従軍中に亡くなってしまうのですが)。

 

というわけで③、27歳の宮柊二は、中国の奥地、山西省で激しい戦闘を経験します。その経験が、名高い歌集『山西省』になります。

 

ちなみに余談ですが、戦後活躍する歌人たちで、従軍経験があるひとは、意外と少なかったりします。この小高さんの本では、

宮柊二と近い世代でいえば、前川佐美雄、木俣修、佐藤佐太郎、中野菊夫、高安国世などは戦争にいっていない。近藤芳美は病気のため早く除隊になっている。一方、山本友一はシベリヤに長く抑留。前田透は、中国から南洋に転進させられる。やや下の世代の塚本邦雄は、病気のために徴兵されていない。しかし、岡野弘彦ははげしい戦闘体験を持っている。(p.48)

と書かれています。へえ、とちょっと思いました。

 

で、『山西省』なんですが、戦争の現場をリアルに描いた名歌集です。こんな歌が有名です。

 

ねむりをる体の上を夜の獣(けもの)(けが)れてとほれり通らしめつつ 

自爆せし敵のむくろの若(わか)かるを哀れみつつは振り返り見ず

 

このような迫力のある歌を宮柊二は『山西省』で残しました。

 

ただ、『山西省』の歌って、実は戦争文学として変わっているんですよね。そこを小高さんが指摘しています。

山西省』には戦争に対する批判が作品の先に、また外側にないことだ。それは思想的な観点が少ないといってもいいかもしれない。庶民の位置にかぎりなく近い。歌集の刊行時期を考えれば、戦後に獲得した思想としての戦争批判を、忍び込ませることも十分可能だっただろう。しかし、宮はそのようなことをしていない。(p.79)

言われてみるとたしかに、『山西省』には戦争への批判といったものがありません。この本で他に挙げられている戦争文学は、たとえば野間宏『真空地帯』、大岡昇平『レイテ戦記』などですが、たしかに小説の場合は、戦争への批判や戦争というものの位置づけといった、外部的な視線が少なからず入ってきます。

小説はどこかに、短歌よりも神の視線が入り込んでいる。それに対して短歌の場合、私性に固執せざるをえない。限定がはじめから存在する。その差異が、『山西省』のリアリティを保証しているのではなかろうか。(p.79)

「もちろん行き過ぎると、真実より事実を重んじるという悪しき結果をもたらす」と留保しながらも、小高さんはこう述べています。戦争全体を俯瞰する視線を導入しなかったからこそ、逆に体感レベルでの緊密なリアリティを作品の中に込めることができた、ということだと思います。

 

また、もうひとつの特徴は、『山西省』には、いわゆる「軍隊生活のイヤさ」みたいなものがまったく出てこないことです。

 

「軍隊生活のイヤさ」とは、軍隊の中での細々とした決まりごとや、ルーチンワークに象徴されます。小高さんはその一例として、安岡章太郎の『遁走』という小説の中の描写を挙げています。

起床、点呼、間稽古(まげいこ)、飯上げ、朝食、演習整列、と朝起きてからせいぜい二時間ばかりのうちにも、これだけの日課がつまっている。しかもこれは単なる日課だ。兵営生活の骨組みであるにすぎない。細い骨のまわりには筋肉やら血液などがタップリついている。たとえば朝食がおわって演習整列まで十五分ないし二十分の余裕があるとすれば、その間に食器を洗って片づけ、班内と班長室と事務室とを掃除し、背嚢(はいのう)には天幕や中旗や円匙(まるさじ)などといっしょにグニャグニャした毛織地の外套を箱のように四角をピンで折ってキチンと巻きつけなくてはならない。……

軍隊生活は、激しい戦闘行為よりも、こうした細々とした面倒くさいルーチンワークが圧倒的に多くの時間を占めていました。戦争文学を読むと、厳しい規律と特殊な人間関係の中で繰り返されるこうした生活が、本当に大変なもので、やだなあという感想を読者に抱かせます。これは、田中小実昌とか古山高麗雄とかを読んでもそうですし、また、外国の戦争文学を読んでもだいたい出てきます。

 

宮柊二が赴任した山西省は、最も戦闘が激しい地域だったので、もたもたした日々の仕事を気にする余裕がなかったのも事実でしょうが、それでも、こうしたルーチンワークと軍隊生活は切り離すことはできません。

 

戦後、「青春と老い・宮柊二氏に聞く」(「短歌」1973年1月号)というインタビューのなかで、高野公彦が宮に「貴重な時期を兵隊にとられたということに対して、被害者意識みたいなものが、歌の上にあまり出てないですね。自分の意志でないのに戦争に行ったという悔しさみたいなものはなかったわけですか」と聞いています。

 

で、宮さんの答えはこんな感じなんですね。

若いだけに、自分が犠牲につくということで、体や心のつらさとか何かを、慰籍してしまうというか、忘れてしまうんですかね。ところが、それ以外に、もう一つ知るといったらいいか、もう一人の自分を認識するというか、そうするとダメですね。たとえば、二度目の召集のときは、ぼくは結婚して、独身じゃなくなったわけですよ。そうするとダメなんですね。将来になすべき仕事がある、あるいは考えてみたいことがある。しかし最初はそういうことは考えなかった。兵隊にとられるということは至上命令だったし、ぼくらが戦争で戦うことによって女子とか子供が生きていけるという、一つの使命感があったですからね。

 「ぼくらが戦争で戦うことによって女子とか子供が生きていけるという、一つの使命感があった」と宮さんは述べています。小高さんは「戦後大分たっているということを、差し引いてもかなりの戦争へのコミットである」と言っています。これが、戦争批判とか、軍隊への嫌悪という発想に繋がらない理由なのでしょう。

 

急いで付け加えなくてはならないのは、宮柊二は別に戦争賛美者というわけではないです。晩年の歌になりますが、

 

中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ  『純黄』

 

という歌も残しています。ただ、この『山西省』の歌を作ったときは、ある使命感を持って戦場にいたということでしょう。それはもしかしたら、文学的なものも含まれていたかもしれません。

 

で、こうした戦争に対する態度は、もちろん、戦後における宮柊二の立ち位置にもつながっていくんですよね。

 

戦争へのコミットの深さゆえか、1945年の敗戦後、宮さんは戦後の社会にうまく馴染んでいくことができません。生き残ってしまった恥ずかしさや不安のようなものに、ずっと付きまとわれていくことになります。

 

かすかなる即興言ひて笑ひたる落語家(はなしか)のこゑわれは羞ぢらふ

 

戦後の歌集『小紺珠』の一首です。同歌集の

 

諦めと悲哀ひびかすまぼろしの声きこえつつわれは生きつぐ

 

という一首と合わせて小高さんはこう鑑賞しています。

 

なぜ「落語家のこゑ」に、作者は羞じらいをもってしまうのだろうか。戦いに死んでいった者たちの顔が浮かんでくる。「まぼろしの声」が、つねに宮の耳元にとどいている。笑いをとる落語家がおもしろければおもしろいほど、余計身のうちから羞恥心がたちのぼってくるのである。(p.97)

 

羞恥心、恥ずかしい、恥の感覚。このあたりが戦後の宮柊二を捉える上で大事になってきます。

 

この感覚は、もうひとりの戦後短歌のリーダー、近藤芳美と比べてみるとよくわかるのではないかと思います。この本には出てこないですが、さっきの落語家の歌を読んで、私は近藤さんの次の歌を思い出しました。

 

生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも  近藤芳美『埃吹く街』

 

戦後、近藤さんがミュージカルを観たときの歌です。ラストシーンで「生きていくのは楽しい」と歌って幕が降りた後、涙が流れた、とそういう歌ですが、戦争中はこういったミュージカルは上演出来なかったわけです。そこで、生き残った喜びと、死んでいった人々への悲しみが相まって、涙が流れたんですね。

 

どうでしょうか。どちらも死んでいった人々への思いがあると思うのですが、この差はふたりの立ち位置の差をよく表している気がします。

はやくから、いわゆる短歌の古さ、保守性を批判していた近藤芳美は、新しい短歌を標榜することで、みずからの文学を語ることができた。ところが、宮柊二の場合、そこに踏ん切りがつかない。むしろ過去をひきずりつつ、そのなかでしか自分を表現できない。(p.121)

という小高さんの言葉もあります。次の宮さんの言葉も象徴的でしょう。

ぼくはね、辛棒気もありますけれど、しょっちゅう逃げ出したい気もするんです。これまでだって、ぼくはがまんして生きながら、いつも青春から逃げ出したいという気分で生きてきたようなおもいがする。戦争の歌も、ぼくは戦争の体験者だから戦争の歌をうたっていいのかな、という気がする。生き延びて、戦争をその自分の尺度で考えていいのか、そういった疑いもあったりして、うたえなくなるんですよ。そういうことがいつも一種の負い目になって、逃げ出したくなるんですよ。歌いたくなっても発想を途中で止めてしまう。そういうことになるんですよ。(p.106)

 これも戦後だいぶたって1970年代ですが、近藤芳美との対談(二人の唯一の対談です)で、当時を振り返って、こんなことを宮さんは言っています。

 

蛇足ですが、 

 

くらやみに燠は見えつつまぼろしの「もつと苦しめ」と言ふ声ぞする   『小紺珠』

 

なんていう歌はかなりストレートにこの苦しみが出ている気がしますね。

 

それゆえ、宮柊二は戦後の民主主義の動きにも能天気に乗っかることができません。むしろ、戦争が終わると国全体が掌を返したように民主主義を賛美し始めるのに懐疑的です。

秘かに案ずるに、作家達は抵抗とのたたかひの中に自分の世界を創つていつたのではなく、たゞ易々と変化に身をゆだねたに過ぎないのではあるまいか。架けられた橋を易々と渡つてしまつてゐるのではあるまいか。

という「孤独派宣言」(「短歌雑誌」1949年6月)というエッセイの中の言葉は、そうした宮の態度がよく出ていると言えるでしょう。

 

(余談ですが、宮柊二が第二芸術論にあまり反応した形跡が見えないというのも、興味深いところです。もちろん、個人的に考えていたところはあるのでしょうが、公的に発表された文章はほとんどないそうです)

 

『小紺珠』、『晩夏』、『日本挽歌』という宮柊二の戦後の3歌集は、こうした「恥」の感覚に貫かれていました。と、同時にそのような傷を負った個人の、庶民生活・家族生活が多く描かれるのも、宮柊二の歌集の特徴です。

 

(むらが)れる蝌蚪(くわと)の卵に春日さす生れたければ生れてみよ

おとうさまと書き添へて肖像画貼られあり何といふ吾が鼻のひらたさ

 

などの歌ですね。

 

小高さんは、

読者は、このような作品にふれることによって、作者をとりかこむ場を、聖家族として位置づける認識を成立させる。家庭の理想像として見る読み方である。おそらく白秋には考えられなかった作り手――読み手の関係である。いままでも家族の作品はあった。しかし、家族詠として認識していなかった。ここに戦後短歌における宮柊二の新しさがある。(p.131)

 と述べています。

 

家族詠はいまでは当たり前ですが、当時は新しかった。しかも、宮柊二の場合は、単なる家族を詠んだ歌ではなくて、ある種の戦後社会のシンボルとして家族詠が読まれていく。時代の理想のモデルとして、歌の中の関係性が象徴になっていく。

 

戦後に対する「恥」の感覚は、戦争体験者の心情に合致していたでしょうし、こうした家族詠は、家族の理想像として、多くの読者に受け入れられました。つまり、こういった要因が、宮柊二を戦後短歌のリーダーにしていったというわけです。

 

ふー、長くなってきましたが、ここまでが宮柊二・第1章というところでしょうか。斎藤茂吉も、塚本邦雄も、あるいは穂村弘もそうだと思うのですが、時代を代表する歌人は、その時代の空気を体現しているようなところがあります。で、宮柊二の場合は、こんな感じだったと。『宮柊二とその時代』というタイトル通り、そのあたりが小高さんの筆でよくわかります。

 

このへんで一回区切って、第2章はまた次回、としたいですが、残念ながらこのピーナツはそういうシステムを取っていません。なので、続きを書きたいと思います。読者の方は、一旦休みを取って、また後日読んでいただいてもいいです。

 

 

はい。そして、その宮柊二が戦争の記憶が薄れていく社会、高度成長期の中でどのように生きていくのか。宮柊二・第2章となります。

 

この本、実はここから筆致が微妙に変わっていきます。端的に言えば、現代につながる問題が多く出てきて、それゆえか、小高さんも批判的な書き方が増えていきます。

 

後半のポイントは3つ。①新聞歌壇、②結社、③老いの歌、ですね。

 

まず、1955年(昭和30年)、宮柊二42歳、「もはや戦後ではない」という言葉が流行語になったこの年に、宮は朝日新聞読者歌壇の選者になります。近藤芳美、五島美代子との三者共選です。

 

もちろん今までも新聞歌壇はありましたが、共選は初めてでした。しかも、今まで新聞の隅のほうだった歌壇欄が、いっきに目立つところに進出します。一般社会にも注目されるようになり、ガンガン投稿者が増えます。

 話題になっているのは、歌人という特殊な人々ではない。普通の人である。新聞のなかに、自分のささやかな表現手段を見つけようという種類の文学のことなのである。現在の短歌をめぐる現実が、はじめて姿をあらわしたのである。

 それまではちがっていた。大げさにいえば、生き方のひとつとして、他の文学ではなく短歌という詩型を選んでいた。そこには強固な意志があった。ところが、いまや短歌をつくることは大げさなものでなうなった。選んでもらえるなら、だれにでも選んでもらいたい。近藤芳美、宮柊二、五島美代子は、歌の系譜も、傾向もちがう。しかし、そんなことは気にしなくなっている。島田(注:修二)がいうコンクールなのである。

 ちょっとした腕だめしという要素が生まれる。つまり、そういう暴力にもなりかねないマスとしての庶民が、新聞という巨大なメディアをとおして現出したのである。これをどのようにとらえるか。宮柊二も、当然のこととして、これを是として真剣にとりくんだ。(p.150)

 

このときから初めて、短歌を専門的に取り組むのではない人々が短歌の世界に現れました。「短歌の大衆化」ってやつですね。宮柊二はそれを肯定的にとらえ、新聞歌壇をはじめとした各種マスコミの歌壇選者に、精力的に取り組みます。それは、先にも書きましたように、時代の気分に合致する庶民性を持った歌人の代表が宮柊二だったという、マスコミ側の要請がありました。しかしそれ以上に、宮柊二自身も大衆の短歌に今までの短歌にはないものを求めていたようです。

 

 もう一度、本文の意をくりかえせば、今日の時代こそ庶民の歌、無名者の歌、それなるが故にかえって自由に時代の深いところでわいている歌が必要だ。歌人が啓もう者に変身することなく、いわゆる無名者の一人一人として人間の生き方を充てんし追求しているところから出る自由な歌が欲しいということです。(「朝日新聞」1954年3月7日)

 

選者に決まる前に朝日新聞によせている文章です。他の歌人たちは「専門歌人」と「投稿者」という区別を前提として、「投稿者」の短歌から無名者の生活が見えてくるから面白い、と捉えていたのに対し、宮柊二は選者と無名者を区別せずに、無名者の短歌の抒情こそが短歌の世界に必要だと捉えていたようです。

 

で、宮柊二は、自身の作品でも市井の人々を盛んに描写しています。

 

井戸の辺に忍びて笑ふ婢女の若きこころをおもはざらめや   『群鶏』

乗りてきて眼鏡の雨を拭ひゐつ後姿(うしろ)の肩の太き夜学生  『多く夜の歌』

自転車に囮籠載せ少年は人混み縫ひて冬山へ行く  『獨石馬』

 

第一歌集から晩年の歌集まで、こうした生活のさまざまな場面で出会った無名の人々に関する歌が、ずっと存在しています。つまり、宮柊二のなかには、ずっとこうした人々への関心があったのですね。それゆえ、選者という仕事もある期待を持って取り組むことになります。

 

ちょっと話が脇に逸れますが、この「短歌の大衆化」は実は、前衛短歌の運動とパラレルなんですね。小高さんが指摘しています。

 一方で忘れてならないことは、前衛短歌が、この頃盛んに議論されていたことだ。

 つまり、塚本邦雄岡井隆といった旗手たちの行動は、新聞歌壇のような大衆化の動きとセットで考えなくてはいけない。新聞歌壇に代表される短歌の大衆化があれば、より文学に執する動きが出てきて当然だからである。コインの表と裏のように、新聞歌壇と前衛短歌を、同時に見る視点が本当は必要なのである。(p.156)

 

アララギから前衛短歌へと引かれる短歌史とパラレルに、新聞歌壇といった短歌の大衆化の流れがあったというのは、押さえていていい事実ではないかと思います。ちょっと違う話ですが、別の箇所でも、岡井隆

 

「歌らしい歌」の好きな玄人に受け、短歌的抒情へのノスタルジヤを満足させてくれる作家として、宮の存在は貴重である。(中略)だから、朝日歌壇をはじめ、沢山の大衆短歌の選者の座を占め、「コスモス」という大結社に「魅せられた魂」を集めているのも、ごく自然なことといっていい。(中略)わたしは、宮を讃えるためにこの一文を書いたのではなく、宮のなかにどのような敵を見ているか、を明らかにするために書いたのである。敵の所在と本質を知らぬ進歩派が、この世界にはまだまだ多すぎるのだ。(「短歌」1961年10月号)

 

宮柊二を敵認定する文章を書いてるのを、小高さんが引用してたりします。しかし、岡井さん皮肉たっぷりですね。やっぱり前衛短歌のメンバーは「論争的」な気がしますね。

 

で、話を戻すと、そんなわけで、宮柊二は新聞歌壇の選者をがんばりまくり、それとともに、世間的にも短歌的にもえらくなっていく……、というストーリーなのですが、ひと言で言ってしまえば、著者の小高さんはこのことに批判的です。

 

もちろん、宮柊二内部にある必然性やその仕事への誠実さは紛れもないもので、それは小高さんも認めています。しかし、この「選者制」というシステムそのものが問題をはらんでいると小高さんは言っているのですね。

 

 振り返って見て、白秋との決別の意味はなんだったのだろうか。企業に入ることによって、生活という地点から、文学をやり直そうとした柊二の行為と、選者という仕事は乖離していないか。文学の自立という方向ではなく、マスコミの仕事分担というかたちで、選者が職業化することへの疑問はなかったのだろうか。どこまで宮柊二は自覚的だったのだろうか。大げさにいうと、現代短歌のむずかしさは、このあたりから始まっていると、私は思う。(p.154)

 

「現代短歌のむずかしさは、このあたりから始まっている」と言っています。「本当はどこかがゆがんでいると思ってもよかったのである」と、選者制のゆがみを指摘しています。

 

しかし、こっからがちょっと難しいのですが、選者制がダメな理由が、文章中では、実はそれほどはっきりしません。ただ、中でも明確なところを抜き出してみましょう。

 

 繰り返すが選者制度は、この時代になってはじめて、マスメディアが成立させた不可思議な構造なのである。文学者として優れているというだけでなく、いやむしろ選歌に携わっているか、いないかによって、文学者の評価が決まってくるような錯覚をつくりだしてしまったのである。

 自分の作品を、直接読者にむけることが、文学の第一歩のはずである。そこで作品の優劣がうまれ、うまい・下手、すぐれた・だめといったレベルができあがる。読者という存在が、文学の優劣を結果として決めていく。しかもそれは原則的にいえば、一回ごとの勝負なのである。ところが短詩型はちがう。一度評価され、選者にでもなれば、その権威はかなりのところまで保証されてしまうのである。(p.155)

 

これは確かにそうですね。文学者の権威が、その作品によってではなく、「選者をしてるからえらいんだろう」になってしまう。

 

で、次の問題が、選者を誠実にやればやるほど、それに熱心になってしまい、自分の作品制作よりも優先されてしまうことです。

 

 いつの間にかおのれの文学的行為を犠牲にしてまでも、熱心になってしまう。つまり、作品制作とは別の仕事が生まれてしまうのだ。労働といってもいいくらいの仕事にもかかわらずである。そういう行為が、自分の作品とどのように関係するか、という疑問を持った瞬間にその行為は瓦解する。だから、逆に盲信的に励まざるをえないかもしれない。(p.155,156)

 

優れた作品を作る人間だからこそ、周りの人々はその人に選者を頼む。しかし、その選者という仕事を誠実に行えば行うほど、自身の文学的活動はおろそかになってしまう。従属していたはずの活動が、大元を乗っ取ってしまうんですね。ここに矛盾が存在しています。しかも、歌の選をすることが、自分の文学とどう関係するかを考えだすと、うまく選ができなくなってしまう。こうしたゆがんだ構造がある、と小高さんは言っています。

 

さらにもうひとつ、小高さんは新聞歌壇に投稿する人々にも、どこかマイナスのイメージを抱いているようです。

 この章の冒頭に戻れば、宮は新聞に投稿する人々に、そのような庶民(理想化されたものであるが)の姿を求めたのではあるまいか。(中略)それがはたして、宮柊二の想像していた通りのものであったかどうか。かなりの疑問がある。

 しかし、人はなにかしらに託してゆく以外生きてはいけない。宮が希望を託した無名者は、次第に肥大化して、怪物のような相貌をみせてくるのである。(p.168)

無名者の人々ひとりひとりというよりも、「次第に肥大化して、怪物のような相貌をみせてくるのである」とあるように、沢山集まったとき、多くなりすぎたときに、小高さんは問題を見ているようです。マスメディアと言ってもいいかもしれませんが。

 

んー、ここらへんはどうなんでしょうね。いっこいっこの問題はその通りだなー、と思うんですが、全体としては、なんかもやっとしますね、わたしは。

 

それは、なんというか、さっきの岡井さんじゃないですけど、敵の所在がはっきりしないというか、批判対象が明確に定められていないところにあるんじゃないかと思います。小高さんも、そしてその後の世代であるところのわたしも、この「戦後歌壇」というシステムに乗っかっているわけですよね、多かれ少なかれ。その上での批判をどうすればいいかが、よくわかんなくなるというか、そんな感じです。

 

もちろん、小高さんはそんなことは当然わかっている上で文章を書いているに決まっているのですが。簡単に割り切れないことでもありますしね。

 

話を戻しましょう。宮柊二は戦後、新聞歌壇の選者としてえらくなっていく。そして、②結社の話です。

 

1935年(昭和10年)に白秋が作った結社「多磨」が、いろいろあって1952年(昭和27年)に解散します。宮柊二もそこで選者をしていました。で、翌年の1953年に「コスモス」が結成されます。現在でも続く、宮柊二創刊の結社です。

 

宮柊二は「主宰」と呼ばれるのを嫌い、「宮柊二編集」という表記をしていました。また、創刊直後の「コスモス」は選者も含め、すべてアイウエオ順に作者を並べていたそうです。外部からも常に人を読んで座談会をやったり評論を載せたり。開かれた結社を意識していたようです。

 

しかし、結論から述べると、小高さんはこの結社というものにも否定的です。

 当たり前の話だが、歌人としての宮柊二の全体像を考える際、「コスモス」という結社を抜きにして語るわけにはいかない。とりわけ中期以降はそうである。なによりも、現代短歌に大きな影響を与えた『多く夜の歌』という歌集にも如実に関係してくる。

 選歌に始まる結社運営は、一歌人を疲労させるにちがいない。いらぬゴタゴタも余人には想像できないほどに存在する。一方で、孤独な作業を強いられる歌人の営爲に対して、多様な世代、全国各地との交流は、その作歌活動に大きな刺激になることも、また忘れてはならないだろう。

 しかし、次第に結社は肥大して、バランスは崩れる。開かれた場所から閉ざされた空間に変化してしまう。(p.177)

もちろん、単純に断罪しているわけではありません。宮柊二と「コスモス」は切り離すことができませんし、その作歌活動にも大きな影響がありました。しかし、小高さんは「次第に結社は肥大して、バランスは崩れる。開かれた場所から閉ざされた空間に変化してしまう」と書いています。

 

ただ、これも「閉ざされた空間」というのがどんなものなのか、いまいち書いてないんですよね。「『コスモス』は創刊号から一五年ぐらいまでは、現代からみても斬新な編集だったといえる」(p.177)とありますから、それ以後になにか問題を見ているのは確かだと思いますが。「コスモス」は現在も続く結社ですし、言いにくかったのでしょうか。

 

他の箇所にこんな言葉もあります。

 主宰ということばを、宮は嫌ったという。しかし、結社が大きくなればなるほど、その中心人物は神格化されざるをえない。それを厭うことは不可能になる。そこにも選歌という問題が入ってくる。「コスモス」の会員に聞くと、選者団の選歌を、いまいちど宮柊二が見直すこともあったという。インタビューにもあるように、潔い覚悟のもとに、結社の仕事にも誠実に対応する。結社はますます大きくなる。ますます宮柊二の仕事がふえてゆく。そのプロセスは身体をいためることに結果するのだ。(p.234)

小高さんは言っています。「結社の仕事は、身体をいためることになる」と。

 

しかし、同時にこうした苦労の中で作られた49歳の歌集『多く夜の歌』(1961年)は、ホワイトカラー的生活をはじめて作品化した、名歌集となります。

 

病む父にきよく音鳴るくろがねの風鈴ひとつ購(あがな)ひにけり

はうらつにたのしく酔へば帰りきて長く坐れり夜(よ)の雛(ひな)の前(まへ)

馬跳びの子らの遊びを見おろすに馬として待つ子の背の孤独

 

こういった歌が『多く夜の歌』の歌です。小高さんはこう評しています。

 病気の両親と夫婦、子供三人の生活。そこに結社誌の経営がのしかかってくる。まさに多難の四十歳代ということが出来るだろう。『多く夜の歌』が、読者に勇気や感動を与えてくれるのは、だれでもが持つ家族や家庭の苦しさやかなしさを、作品としてあざやかに造形しているからである。いまさら確認するまでもない。それは現代においても同じ感動をもたらす。みごとな典型がある。(p.190)

「みごとな典型」。ここでも宮柊二の作品を、ある種の生活の典型、その先駆者として見ようとする視線がありますね。『多く夜の歌』、タイトルがいいですよね。

 

ちなみに、この歌集が出る前年に宮柊二は長年勤めていた富士製鉄を48歳で退職し、歌人一本の生活になります。そしてますます新聞歌壇の選歌や結社の仕事に精を出すことになります。そして、このことが③老いの歌、につながります。

 

選者の仕事などで長年無理をしたのがたたったのか、宮柊二は1968年、56歳のときに糖尿病が悪化してしまいます。56歳、微妙な年齢です。

 

その後の歌は晩年の歌となっていくのですが、しかし宮柊二自身にはまだ晩年という意識はありません。

 多分宮柊二には、いまだ人生の円環を閉じるような状況にはなかったのではないか。「病いにぞかく入りにたる人生の自(し)が過程をばおもひくやしむ」(『緑金の森』)という作品もあるが、生への濃厚な意欲は存在している。(中略)

 老いとは何か。現在、私自身まだ五〇歳代のはじめである。老いを実感するのはなかなかむずかしい。しかし当然老いはいつの間にかやって来ている。もちろん病いにも徐々に親しむようになって来ている。回りにも同世代の死者が生まれている。しかし、まだ老いという気分になれ親しんでいるわけではない。おそらく宮柊二の場合もそうだったのではないか。そのような時、突然病いが襲ってきた。(p.246)

まだ、「老い」と意識する前に、病のほうが先にやってきたのですね。小高さんは、宮柊二晩年の歌は、「老いの歌」というより、「病いの歌」ではないかと述べています。

 

すたれたる体横たへ枇杷の木の古き落葉のごときかなしみ  『忘瓦亭の歌』

寝つかれず夜のベッドに口きけぬたつた一人のわが黙(もだ)しゐる  『緑金の森』

(づ)を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄りは宮柊二なり  『同』

 

晩年の作品はこのようなものです。たとえばこれらの歌を、近代歌人の歌と比べると、違いが際立ちます。

 

若き日は病の器(うつは)とあきらめぬ老ゆればさみし脆き器か  窪田空穂『木草と共に』

(あかつき)の薄明(はくめい)に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの  斎藤茂吉『つきかげ』

 

空穂や茂吉の作品には、老いからくる人生の静かな終末意識があります。ゆっくりと老いが進行していく中で、だんだんとみずからの晩年を意識していく。しかし、宮柊二の場合は、老いよりも病が先に来てしまった。

 宮柊二の最後の一五年間の仕事は、いわゆる悟りとか、澄みきった心境といった感情とは隔たっている。もちろん自己の運命を受け入れようという考えが生まれてきている。しかし、本質的には自分がなぜこのような目に会うのか、という疑問は最後まで残っていたのではないだろうか。(p.244)

茂吉や空穂たちの時代と、宮柊二の時代では、老いに対する感覚が違います。また、病をめぐる環境も、現代では変わってきています。極端なことを言えば、現代の私たちには、近代短歌的な「老いの歌」はもう無理なのかもしれません。

茂吉や空穂的老いを望むことは、いまの時代かなりむずかしいことだろう。円熟から老いといったコースは、ほとんどありえないのではないか。つまり、突然、壮年から病いに入ることになる。宮柊二は、そこにおいても典型として浮かんでくる。(p.256)

ここでも、宮柊二をある種の人生モデルとして捉えようとしています。

 

たぶん、1998年に書かれたこの本の問題意識の延長線上に、第16回で永井さんが取り上げていた2011年の岩波新書の『老いの歌』があるんじゃないでしょうか。

 

この『宮柊二とその時代』には、小高さんの「私自身、現在五三歳である」「私自身まだ五〇歳代のはじめである」みたいな言葉が何度も出てきます。小高さん自身、老年期のことを考え始める時期であり、生き方のモデルを宮柊二に求めていたのでしょう。

 

宮柊二は闘病生活の末、1986年(昭和61年)に、74歳で亡くなります。

 

 

そんなこんなでこの本は終わりですが、初めに書いたこの本の「難しい部分」をまだ言ってませんでした。

 

いまさら言うのも野暮なんですが、それは、小高さんがあまりにも歌人的人生のモデルとして宮柊二を捉えようとしているところです。

 宮柊二を軸に、自分の日常を位置づける。宮との距離を計ることで、自分のこれからを考える。それほどはっきり意識しなかったが、生き方のテキスト、定点として読んでいたのかもしれない。文学の読み方として邪道だといわれれば、それほど強く否定しない。その通りかもしれない。

 本書を読み返してみて、そういった私自身の持つバイアスが、もろに出でいることは確かである。このようなものを評論といっていいのか、自信はない。まさにこんな風に、私は宮柊二を読んで来た、という痕跡のような一冊だからである。(p.259)

と「あとがき」で書いているように、もちろん小高さんは自覚的です。そして、こういった小高さんの思い入れがあるからこそ、宮柊二の内部まで分け入るような、丁寧な本になったのは間違いないでしょう。なので、ここを批判するのはお門違いなんですが、それでも、人生ストーリー、それも「歌人的人生ストーリー」のモデルとしてある歌人を捉えるのは、どうなんだろうと私は思ったりします。これ、やっぱりある作家の作品や人生を、個人の指針にすることとは、微妙に違うと思うんですよね。「歌人」が「歌人的生き方」の参考にするということですから。で、さらに突っ込んで言えば、新聞歌壇や結社に問題があることを認識していながらも、その対象が明確にならないことや、今回あえて書きませんでしたが、この本の最後になるにつれて、つまり問題が現代に近づくにつれて、「私たちは~するべきではないか」と最初のほうにはなかった「私たち」「べき」という言葉が文中に現れてくることとも、このことは関連していると思います。

 

宮柊二を、戦後社会の中間階級の人生モデル、それも男性の社会モデルとして捉えるということは、宮柊二をある特定の社会層のみの芸術家として限定してしまうということでもあります。

 

そして、小高さん自身も属していたと思われる戦後社会の中間層は、おそらく現代の社会では、もう以前と同じようには存在できなくなってきています。

 

突然ですが、穂村弘が書いたすべての言葉の中で、私が一番好きなのは次の一節です。

 世界の不気味さにはすべて意味があるのではないか。どんな意味があるのか、具体的なことはまったくつかめず、世界は依然として気味が悪いままだった。だが、私は気がついたのだ。この不気味さには確かに何か意味がある。

 他人の歌を読むようになった。大昔の誰かの歌。会ったことのない誰かの歌。無数の呪文を分析することで、世界の不気味さの意味が見えてこないだろうか。人々が残した熱い言葉を、蛇のように冷たく論理的に読み解くのだ。

(『短歌という爆弾』(2000年))

「人々が残した熱い言葉を、蛇のように冷たく論理的に読み解くのだ」。蛇のように冷たく論理的に。それはつまり、客観的であり論理的であり、特定の社会層によらず、地域差によらず、男性か女性かにも、スクールカーストにも、外向的か内向的かにも、マイノリティかマジョリティかにもよらず、誰にでも読める、ということです。

 

何度も繰り返しますが、この小高さんの『宮柊二とその時代』は名著です。小高さんは宮柊二に同情的であり、暖かさを感じさせる文章になっています。また、同時に、個人の心情と社会状況をバランスよく記述し、批判するときも、相反する要素への目配りを欠かすことはありません。変な思い込みなどは皆無のプレーンな文章です。

 

しかし、穂村さんの文章が、短歌の世界の外の人々や、特定の社会層に限定されない若い人々に読まれるのは、この「蛇のように冷たく論理的に」があるからだと、私は思います。

 

冷たさが大事なんだと思います。

 

まあ、このことは言いがかりかもしれないですけどね。

 

それでは。