短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第28回 斎藤茂吉『斎藤茂吉随筆集』

永井祐

先日、とある会合の帰りの電車で、

同じ会に出ていた人と二人きりになった。

23時を過ぎた、それほど混んでいない中で並んで吊革につかまっていると、

その人が「永井さんは旅行、しないの?」と言ってきた。

「しない」という返事をはっきりと予想した感じだった。

その人によると、旅行というものは、自分の置かれた環境をあらためて突き放して

みることができる、よいものだということだった。

そういう体験はほしいと思いつつ、けっきょく旅行に出かける気はしないのだけれど、今日やる『斎藤茂吉随筆集』は、わたしからすると、その人のいう「旅行」にあたるものという感じがする。

要するに時間旅行で、今どき空間旅行だと、日本の東京とまったくかけ離れた体験をするのは、ある程度選んでいかないとむずかしいかもしれない。

しかし、過去に飛んでいくと、よく知らないものめずらしいものはたくさんある。

 

私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。寝てしまった後でも起き起きして物干台から瓦を伝わり其処の屋根瓦にかじりついて、冬の夜などにはぶるぶる震えながら見ていたものである。東京の火事は毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるからであった。(三筋町界隈)

 

昔の東京では、「毎晩のように」火事があって、斎藤茂吉さんは屋根に上がってそれを見るのが好きだったそうです。ほかの人が飽きて屋根から下りてしまっても、いつも一番最後まで見てたらしいです。

 

その時から殆ど四十年を過ぎようとしている今日でも、紅い火焔と、天を焦がして一方へ靡いて行く煙とを目前におもい浮べることが出来るほどである。時には書生や代診や女中なども交って見ている。「あ、今度はあっちへ移った」などというと、物のくずれる時のような音響が伝わってくる。同時に人の叫びごえが何か重苦しいもののように聞こえてくる。

 

「火事と喧嘩は江戸の華」とか言いますから、火事を見物するという習慣はわりとふつうの範疇だったんでしょうが、人の叫び声を「重苦しいもののように」聞きながら見入ってしまうという体験は、なんだかやばいですね。毎晩そんなことしてたのか。

 

 

本の紹介を。

 

斎藤茂吉随筆集 (岩波文庫)

斎藤茂吉随筆集 (岩波文庫)

 

 

斎藤茂吉随筆集」は岩波文庫に入っています。

歌人斎藤茂吉の代表的な随筆がまとめられた本です。

有名なところだと、「接吻」とか「ドナウ源流行」とかが入っています。

随筆とエッセイって、厳密に言うと違うのかもしれませんが、

感触としては今で言うエッセイに近いと思います。

評論調の堅苦しい感じはなく、かなり読みやすいです。引用したみたいな、「昔、火事を見るのが好きで・・・」とかそういう感じの文章がならんでいます。

岩波文庫から出てるくらいですから、茂吉の散文はとても評価高いみたいです。

でもなんだろう、僕の中での話ですが、わりと「コアなもの」っていう感じがします。

音楽にたとえれば、

宇多田ヒカルUtada Hikaru SINGLE COLLECTION」よりは、

エイフェックス・ツイン「Selected Ambient Works Volume Ⅱ」

に近いというか。

ただ、つまんなかったり、浅かったり、文章のセンスが感じられなかったりするのは一つもなくて、やっぱすごいな・・というのはひしひしと感じます。

 

汽車が下関を出てから、山が低くていかにも美しい。緑も濃く、その間に真紅になった紅葉が見え見えしている。稲刈が終わって、田にそれを乾かすために農夫が働いている。車窓から見える蜜柑の木に蜜柑が熟して沢山になっている。ある処では田一めんに午前の日が当って、踏切の処に尼と少女と媼が立っている。(手帳の記)

 

こういう感じです。

ふと思ったのですが、今まで評論主体でやってきたので、随筆ってどう紹介すればいいのかよくわからないですね。

評論だと内容を要約することにいちおう意味があると思うのですが、随筆って要約してしまうと終わりというか、もっとこう、流れとか文体とかに意味があるものですから。

 

まあ、めげずにもう一個やってみたいと思います。

 

変に気になったのは、

「巌流島」。

 

友達に『宮本武蔵』(当然ながら吉川英治ではない)という本をもらった斎藤茂吉さんは、旅行のついでに巌流島に行ってみようと思います。

巌流島には日清戦争のころに病院が建ったりしたのですが、いつしかそれもなくなって、そこに住むと魔物につかれるといって一時期、誰も住む人がいなかったという話を、島に渡る船で船頭のおじいさんから聞きます。

 

慶長十七年の昔、佐々木小次郎巌流という剣客が宮本武蔵のために打たれてこの島で死んだ。巌流島という名もそれに本づくのであるが、「死骸はそのとき小倉の方に持っていんだものじゃろうと思います」などと船頭の爺が話をしながら船を漕いだ。この島に住むと魔に憑かれるというのは、巌流への同情に本づく心理なのである。

 

実際に巌流島にいくと人は武蔵より小次郎に同情的になるものなのか、斎藤茂吉さんはそこに行って急激に武蔵が憎くなったそうです。

 

しかし私は巌流島に訪ねて来て、むしろ巌流に同情したのであった。いろいろ智術をやっている武蔵をむしろ私は憎悪した。幾ら智術だなどといっても三時間も故意に敵をいらいらせるなどは如何にも卑怯者であり、また一方が剣で闘うなら一方も剣で闘わなければ、剣客の勝負としては、私は面白くない。断りなく通知なくして木刀を使ったなども、卑怯者の所作である。武蔵は六十度も真剣勝負をしたというから、余りその勝負の骨(こつ)を呑込み過ぎていて私には面白くない。私はそんなことがいろいろ胸に往来し、(略)武蔵の所作をひどく悪(にく)みながらこの島を去った。

 

その夜、彼は

 

万歳楼で河豚(ふぐ)をむさぼり食った。

 

そして、短歌を作りました。

 

わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ  斎藤茂吉

 

この「人」とはもちろん佐々木小次郎のことですね。よくわからないですが、完全な小次郎派になって、その死をいたく悲しみました。

後で友達からもらった『宮本武蔵』を読んでも、

 

武蔵がこの鍛錬で巌流の頭蓋を打ちくだいたのだと思うと、私の心はひとりでに武蔵の兵法を憎悪したのであった。特に教室における私の為事(しごと)がはかどらず、論文がなかなか出来ないときに、この書物などを読むと、益々私は武蔵のペテン術鍛練法を憎悪したのであった。

 

机に本を投げつけたりしていたらしいです。

 

エッセイのラストまでしつこくこう書いています。

 

私はこの短文を書きつつも、巌流島の仕合の後、天下無敵新免武蔵として名を轟かし、六十四歳の天命を完(まっと)うした彼を、私はなお卑怯ものとするの念を脱却することが出来ない。

 

変なエッセイです。コアというのはそういう意味です。

が、斎藤茂吉さんは武蔵が嫌いで小次郎派だということは伝わってきました。

武蔵はNG。

よくわからないきっかけで、よくわからない執着が生まれ、そして人は心に地雷を抱えるようになるのでしょうか。

帰りの電車で人と二人きりになるときは、地雷のありかはあらかじめ知っておきたいなと思いました。

 

今日はこのあたりで。