短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第31回 吉本隆明『吉本隆明全著作集5』

永井祐

こんにちは。

最近いそがしくて。10月くらいとか、何かとあるんですよね。

そういうわけで、いつもより準備できてないんですが、

定期更新が大事であるブログなので、今回もやっていこうと思います。

 

本は、「吉本隆明 全著作集5(文学論Ⅱ)」(勁草書房)。

 

吉本隆明全著作集 5 文学論 2

吉本隆明全著作集 5 文学論 2

 

 

吉本隆明とはだれか。ぐぐってください。

戦後最大の思想家、とか呼ばれる人で、たいへんな影響力があった人。

わたしが本を読むようになるころには、文学部の学生でも、みんな読んでるわけ

ではなかったけれど、名前はみんな知ってた、ぐらいの感じでした。

 

それで、なぜこの本かというと、全集だとこの巻に吉本さんの初期の現代短歌論が

入ってるからですね。

おおむね同じ内容がのちに「言語とって美とはなにか」という本にまとめられる

んですが、ここにはその初出版というか、雑誌「短歌研究」に載ったバージョンのやつが入っています。

さらに、この全集では、岡井隆との有名な論争(「定型論争」と呼ばれる)が読めます。

吉本さん側の文章だけですが、わりとすごい内容です。論旨はやりはじめると長いので、

ショッキングなところだけ引用すると。

 

「まだ発表されないわたしの評論にけちをつけて、同時に発表したヒステリイがいたのには驚いた。岡井隆という歌人である。」

「おさとのしれた俗物歌人め!」

「去月、わたしは番犬の飼い主である『短歌研究』の編集部にたいし、お宅の玄関には「狂犬に注意」というハリ紙もなかったようだが、訪問したわたしにいきなり噛みついた番犬がいたようだ」

「岡井という歌人は、わたしが予言した通り、まったく手のつけられない自惚れ野郎である。相手は、はじめから無学低脳で、はったりだけを身上とした奴だとおもうから、噛んで含めるように教えてやれば・・・」

「間抜め。」

 

 

この本はほかにも吉本さんの論争の文章が入ってるんですが、けっこう口汚くてびびります。

昔の論争ってこんな感じだったのか。

争いになると、いきなり声のトーンや口調が変わる人って嫌ですよね。

文学ってすごく、切った張ったの世界だったんだなというのがわかるんですけど。

まあ、それはともかく本題に。

 

吉本さんの短歌論は、わたしは短歌をはじめてそれほどしない学生のころに読みました。

いわゆる「現代短歌」っていうものがよくわからないという状態だったので、

すごく参考になったし、ちょっと読み方を教わったみたいなところがあります。

現代短歌をこれほど理論的に、原理的に考える文章って、ちょっとほかには見当たらなかった。

吉本さんの考え方って、とにかくゼロから、一番はじめから考えるという感じがわたしは好きです。

 

 

現代の短歌の原型として、次の二首が引用されます。

 

国境追はれしカール・マルクスは妻におくれて死ににけるかな 大塚金之助

 

隠沼の夕さざなみやこの岡も向ひの岡も松風の音 藤沢古実

 

この作品は、国境を追われたカール・マルクスは妻より後に死んだとか、隠沼に夕さざなみがたち、こちらの岡も向いの岡も松風の音がしているというだけの意味で、それがどうしたとか、だからどうなのだとかいう作者の主体的な意志をのべる表現は存在していない。(略)なぜ、ただ、何々がどうであるというような客観的表現だけで、作者の主体をあらわす叙述がない表現が、詩の作品として一定の自立感をあたえうるのであろうか。それは、一見、ただ客観的な叙述にすぎないとみえるこれらの短歌的な原型も、よく分析してゆくと、かなり複雑な主客の転換をいいあらわしているからである。

 

 国境追はれしカール・マルクス

ここまでの表現で、作者の主体は、じつは観念的にカール・マルクスに移行して国境を追われているのである。

 妻におくれて

この表現で、マルクスになりすました作者が、「妻にさきだたれてしまったな」と述懐しているのである。(略)

 死ににけるかな

 のところへきて、作者は自分の主体的な立場にかえってマルクスの死の意味を考えている。一見すると単に歴史的な事実を客観的に表現しているにすぎないとかんがえられるこの作品も、高速度写真的に分解してみると、作者の主体が、一旦、観念的にマルクスになりすましたかとおもうと、マルクスのせりふをつぶやき、また、作者の固有の立場にかえってその死を主体的に意味づけるというような、複雑な転換を言語表現の特質に即してやっていることがわかる。

 

隠沼の夕さざなみや

この表現で、作者の主体は、夕方の隠沼の水面にたっているさざなみを視覚的にみて、ある感情をよびさましている。 

この岡も向ひの岡も

ここで、さざなみを視ている作者の視線は近景の岡に移り、つぎに遠景の岡にうつる。 

松風の音

 で、作者の主体は岡の松に吹く風の音を聴いている。

句の時間的な構成としては、一瞬にすぎない短歌型式のなかで、作者が視聴覚を移動させている実際の時間と転換の度合は、かなり複雑であり、これがこの作品に芸術性をあたえている本質的な表現上の理由である。

 

 

 ええと、どうでしょうか。ちょっと読みにくいし、細かいところでは異論もいろいろ出ると思うんですが、

吉本さん的には、短歌の表現の原型というのは、「客観的表現」がただあるだけなんだけど、それは「高速度写真的に分解して」読まなくてはいけなくて、

そうしてみると、

主体が「カール・マルクス」の位置に移動してから、もとにもどってきてまた考えるとか、沼の水面を見てからこっちの岡を見てあっちの岡を見てさらに聴覚にうつる、とか、主体・主観が裏で活発かつ複雑に動いている。それによって、芸術的な価値が生まれているという話です。

 

これは、わりと現在の短歌を読む場合でも使えるメソッドな気がします。

短歌を読み慣れている人は、たぶん、無意識にやってることだと思うんですが、

「だからどうなの」的な叙述を、スピードを落として読んで、背後にある主観・主体の動きを読み取ってこうよ、ということ。

 

さらに、吉本さんは当時の新傾向として、短歌に独特の比喩表現に注目します。

 

すこし調べてゆくとわたしたちは、短歌に固有ないわば短歌喩ともいうべきものを、どうしても想定せざるをえなくなってくるのである。これは、西欧近代詩の喩法概念からは、けっして律しえられないが、言語表現のうえからどうしても喩法の機能をもち、しかも短歌にしかあらわれないものをさしている。

 

それは、次のような作品に典型的に表われているとされます。

 

たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき 近藤芳美

 

ジョセフイヌ・バケル唄へり てのひらの火傷に泡をふくオキシフル 塚本邦雄

 

灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ 岡井隆

 

 ここで、上句と下句とは、まったくちがった(無関係な)意味と対象を表現していながら、全体として表現の統一性をたもっている。さらに、詳細にみてゆくと、(近藤作品では)上句が固有の意味表現であるにもかかわらず、下句の感覚喩となっているし、(塚本作品では)上句は下句の意味喩となっていることがわかる。

(近藤作品について)たちまちのうちに霧にとざされてしまった「君」のすがたの視覚的なイメージが、「或る楽章」の聴覚的なイメージを喚起し連合している。

(塚本作品について)上句と下句とは、ほとんど、絶対的といっていいほど何の必然的な関係もないのである。それにもかかわらず、短歌として自立しえているのは、この表現が、掌の火傷をオキシフルで手当しながら、ラジオのジョセフィヌ・バケルの唄をきいている作者の像を全体として喚起し、そこにとらえにくい日常の一瞬をとらえている独特の視覚を感じさせることができているからである。もちろん、このばあい、上句を下句の意味喩と解することもできれば、下句を上句の意味喩と解することもできる。

(岡井作品について)ここでは、上句と下句とはまったくべつのことを云いながら短歌的な統一をもっている。このばあい、灰黄の枝をひろげている林を前のほうにみたとき、じぶんの失われようとしている愛恋をおもいだした、ということだろうか。それとも、失われようとしている愛恋をおもいだしていたとき、その愛恋が、あたかも灰黄の枝をひろげている林の視覚的イメージのようだと作者がかんがえたとき、この作品は成立したのだろうか。おそらく、いずれでもなく、また、いずれでもよいのだ。そういう機能のなかに短歌的喩の独特な問題がよこたわっている。上句は、下句の感覚的な喩をなし、下句は上句の意味的な喩をなしていればよい。もちろん、この反対のばあいもあるし、また、ふたつとも感覚的喩ばかりであることも、意味的喩ばかりであることもある

 

こういう、上句と下句との独特な関係は、複数のセンテンスをもって一首を構成できる程度の長さをもった、音数律の表現にのみあらわれるということができる。いいかえれば、音数律が、意識場面の構成的な対比や連合のハンイとして強力な機能をもっているため、かりに、上句と下句がまったくちがった対象についての意味表現であっても、これを統一的に連合することができるのだと解されるのだ。しかし、この場合、上句と下句との対象の相異性には一定の限界があり、この限界をこえて上句と下句とが対象の意味や感覚をことにすれば、短歌表現として成立しえなくなる。

 

どうでしょうか。

抽象的な話ですけど、

引用の三首みたいなパターン、上句と下句で別のことを言ってて、それがお互いに響き合ったり、撃ち合ったりするという歌は、

現在の短歌だとパターンといっていいぐらいに定式化されていますが、当時は新傾向として出てきていたんですね。

(のちの短歌だと、たとえば、こういう歌が同じ形でしょうか。

クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りが見えし 正岡豊

子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」 穂村弘

 

吉本さんは、こういう歌を、上句と下句がお互いを比喩し合うような関係であると解釈しました。

ここでいう「比喩」というのは、普通の意味での比喩ではなくて、短歌形式の構造上、上句は下句に、下句は上句に、独特の強い影響を与えてしまう。その響き合いのことを、比喩っていう言い方をしているという感じだと思います。

だから短歌にしか出てこない。ゆえにこれを「短歌的喩」と吉本さんは呼びました。

上下が真っ二つに分かれるこれらの歌に典型的に見られる「短歌的喩」の問題を、短歌にとって、また当時のリアルタイムの現代短歌にとって、最重要の問題であると見なしたのでした。

(上句と下句に分かれる場合以外のことも「展開」として考察されます。)

 

 

短歌をやっていると、やたら「ゆ」「ゆ」って言ってる人に出会うことがあります。

比喩のことを「喩」と呼ぶのって、あまり普通の日本語じゃない気がするんですが、

このときの吉本さんの言い方の影響が大きいようです。

そういう人の言う「喩」って、普通の意味の比喩じゃなくて、ここで言われる短歌的喩のことなんだなっていうのも、わたしはこれを読んではじめて理解しました。

 

駆け足かつ、だいぶ簡略化してやりました。

読みにも実作にも現在まで続く甚大な影響を与えた重要歌論だと思います。

興味があれば、ぜひ原典を。