短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第40回 竹内博・編『香山滋全集別巻』

ゴジラの源流に短歌あり    吉田隼人

評論・年譜他 (香山滋全集)
 

 

 こんにちは、吉田隼人です。『シン・ゴジラ』、みなさんは何回観ましたか? 僕は歌舞伎町のTOHOシネマズ新宿で7月29日の日付が変わった直後(28日深夜)におこなわれた「世界最速上映」を含めても、まだ4回しか観ていません。最低でももう一度くらいは劇場で観ておきたいところですね。着ぐるみやミニチュアをほとんど使わない映画になるということで怪獣オタクとしてはいろいろと心配だったのですが、熱線を吐くゴジラの苦しそうな顔が表現されていたのにすっかり感動してしまいました。あの苦しんでいる感じを出すのは着ぐるみでは難しいですから、CGの強みを活かした、新しいゴジラ解釈の誕生と言っていいでしょう。ゴジラという怪獣自体がそもそも核実験の犠牲者として考案されたものですし、口から火を吐くというのはやっぱり生物として異常な状態です。これまで描写されてこなかったその苦しみが見られただけで、もう感激でした。


 今回はそんなゴジラの原作者が、実はもともと歌人だったという話を少し紹介させてください。東宝の怪獣映画は小説家に原作を頼むことが多く、「モスラ」の原作は中村真一郎福永武彦堀田善衛という堀辰雄周辺から出発した純文学作家三人によるリレー小説『発光妖精とモスラ』ですし、「大怪獣バラン」「空の大怪獣ラドン」は怪奇小説で人気のあった黒沼健という作家が原作を書いています。余談ですが、黒沼健の父親・左右田喜一郎は家業の左右田銀行で頭取として働くかたわら、経済哲学の研究者としても東京商大(のちの一橋大学)の教授をつとめ、西田幾多郎との論争のなかで初めて「西田哲学」という言葉を使ったことでも知られています。

 

 閑話休題ゴジラ・シリーズの第一作「ゴジラ」と第二作「ゴジラの逆襲」で原作を担当したのは香山滋(かやま・しげる)という作家です。レイ・ブラッドベリの短篇『霧笛』を原作とするアメリカ映画「原子怪獣現る」にヒントを得て、戦争映画「ハワイ・マレー沖海戦」などで既に有名だった“特撮の神様”円谷英二を起用した怪獣映画のプランが持ち上がったとき、東宝が白羽の矢を立てたのが香山でした。一説には、剛腕プロデューサーとして知られる田中友幸が彼のファンだったからともいわれています。時は昭和29年(1954)、香山滋は50歳。小栗虫太郎の跡を継ぐといわれた冒険小説や、古生物に対する深い造詣を活かした未知の生物が登場する怪奇幻想小説の書き手として、なかなか人気のある流行作家だったようです。

 

 もっとも、このころ既に香山は短歌を作っていません。ここでは香山滋と短歌とのかかわりを、彼の人生を大まかにたどるかたちで見てみましょう。幸いにして香山滋には、怪獣ライター・SF作家として活躍した故・竹内博氏の手でほとんどの作品を網羅的に収録した『香山滋全集』全14巻+別巻1冊が揃っています。版元はあの『現代短歌大系』の三一書房。その別巻には子供向け小説のほかに随筆と短歌、それに詳細な書誌と年譜が収められていますから、これを参考に書いていきます。


 香山滋の本名は山田鉀治(やまだ・こうじ)。明治37年(1904)、いまの東京都新宿区神楽坂に生まれました。祖父、父はともに大蔵省の職員。といってもエリート官僚ではなく一般の職員だったようです。それでも生活水準としてはまず裕福なほうといっていいでしょう。旧制の府立四中(いまの都立戸山高校)から法政大学経済学部に進学しています。中学生のころから古生物学や地質学に興味をもち、大学の講義録などを取り寄せて独学で勉強する一方、当時の文学青年の常として若山牧水などの短歌にも親しんでいたようです。法政大学の予科(いまでいう教養課程)では内田百閒からドイツ語を習っています。彼の学生時代はほぼ大正時代と重なっており、大正デモクラシーの世の中でのびのびと青春の日々を送ったといってよいでしょう。


 大正14年(1925)に大学を中退。祖父や父の跡を継いで大蔵省に入ってからは戦後までごく真面目で平凡な公務員として、預金部に勤めていました。しかし戦後間もない昭和21年(1946)、雑誌『宝石』の探偵小説募集に応募した「オラン・ペンデクの復讐」が江戸川乱歩の目にとまり、山田風太郎らとともに作家デビューを果たします。このとき職場との兼ね合いで本名を使うわけにいかず、つけたペンネームが香山滋です。昭和23年(1948)には第二作「海鰻荘奇談」で第1回探偵作家クラブ新人賞(いまの推理作家協会新人賞)を受賞、大蔵省を退職します。順風満帆で作家活動に入っていったように見えますが、本人も「千円の懸賞金欲しさに投書したまでで、これが作家生活のはじまりになろうとは夢にも思わなかった」(日経新聞、昭和24年1月8日)と書いているように、戦後の混乱期に公務員としての収入だけでは生活が厳しかったため経済的理由から筆を執ったというのが実情のようです。昭和24年(1949)、雑誌『別冊宝石』に発表したエッセイ「「人の世界」を凝視する」で香山はこんなふうに語っています。

 

私には文学の上の経歴は何ひとつない。それでも取り上げて見れば、筏井嘉一先生の門に籍を置いて短歌の勉強をさせていただくようになってから今年で十年――ちかごろはすっかりなまけてしまって同人誌「定型律」にも歌らしい歌も発表することなしにあわただしい日々を過してはいるけれど、私はやはり短歌の道に戻りたいと切なく思いつづけている。
二十有余年の官吏生活から足を洗って、いっきに飛び込んでしまった作家生活も、入って見れば、これほど恐ろしく悩み多い荊棘の道であるとは、思いも寄らなかった。

 

 というわけで、お待たせしました。ようやく香山滋と短歌の話です。『全集』別巻の年譜によって補いながら、彼の歌歴を概観してみましょう。昭和24年時点で「今年で十年」と書いてありますが、実際に短歌の投稿を始めたのは昭和12年(1937)。大蔵省の機関誌『財政』昭和12年8月号に掲載されたものが確認できる限り最も古いものです。なお彼の短歌作品はすべて本名で発表されています。

 

水槽に放てば小さき川蝦のすこし泳ぎて藻にとまりけり

 

 この『財政』に香山は他にも淡水魚の飼育法や熱帯魚についての随筆などを寄せているほか、これ以後に掲載された短歌も含め、魚介類を詠んだ歌が圧倒的に多いです。いまでいうアクアリウム趣味があり、短歌の題材ももっぱらそこから採っていたのでしょう。香山のこうした「生物オタク」的な側面が『ゴジラ』をはじめとする後年の作品に反映されているのは勿論ですが、短歌という詩形――とりわけ写生を主とするそれ――が小動物を観察し、愛でるうえで最適の器だったともいえるかも知れません。『財政』に掲載された歌を以下に5首ほど挙げてみます(なお『香山滋全集』は編集方針で短歌もすべて新字新仮名になっているので引用もそれに準じることとします)。

 

たまさかに鰻かかれば雑魚網(ざこあみ)を児等あまたして覗き合いけり
養魚池の水冷えたれば川鱒のただに寄りいてひそけかりけり
きららかにさやけき色の鰭ふりて瓶胴(びんどう)に透く囮のたなご
身をくねり闘魚の姿勢さだまると見えしすなわち生餌にむかう
陽に透きてあわれ小えびの体内のあからさまなる生命の機構

 

 これをきっかけに香山は本格的に短歌にのめりこんでいきます。前掲の随筆にいう「十年前」すなわち昭和14年(1939)、五島茂の主宰する歌誌『立春』に参加して随筆にも名前の出てきた筏井嘉一(いかだい・かいち)に師事しました。筏井嘉一は北原白秋の門下から出発した歌人で、坪野哲久や前川佐美雄らの「新興短歌連盟」に関係したほか、昭和15年(1940)の合同歌集『新風十人』に参加したことで知られ、塚本邦雄が「春荒寥のいのち――筏井嘉一」(『詩魂紺碧―詩歌の末来』所収)という作家論を書いています。


 その昭和15年、筏井嘉一は『新風十人』参加だけでなく歌集『荒栲(あらたえ)』を刊行するなど、かなり活躍していたようです。塚本が作家論の題に引いている代表歌「夢さめてさめたる夢は恋はねども春荒寥(こうりょう)とわがいのちあり」もこの歌集に収められています。そんな上り調子の筏井嘉一は『立春』を離れ、彼を慕う歌人たちも付き添って『蒼生』が創刊されました(現在の誌名は『創生』)。香山滋も『蒼生』に移り、戦争末期の昭和19年(1944)の休刊まで毎号出詠しています。その後、終戦をうけて昭和20年(1945)にふたたび筏井嘉一を主宰とする歌誌『定型律』が立ちあげられますが、ここにも香山は参加。しかし前述のように昭和21年に「オラン・ペンデクの復讐」で作家デビューしてからは、しばらく大蔵省職員との二足のわらじを履いていたこともあり(このころ同じく大蔵省勤務の作家だった三島由紀夫とも交流があったようです)多忙のためほぼ短歌を発表することはなくなってしまいます。昭和22年以降は年に一度、10首程度の発表にとどまり、昭和24年を最後に『定型律』に作品は掲載されていません。歌人としての香山の活動は実質的に昭和15年から21年まで、ほぼ戦中戦後と一致するといってよいでしょう。


 香山はデビュー当時すでに42歳と遅咲きだったこともあり、小説家としての活動も基本的には昭和20年代に集中しており、その後『ゴジラ』(昭和29年)『ゴジラの逆襲』(昭和30年)のヒットをうけて昭和30年代前半に少年向け雑誌への執筆が増えたものの、ブームが落ち着いた昭和30年代中盤以降は作品発表が激減、昭和50年(1975)に70歳で没するまでの十数年は作家としてはほぼ引退といっていい状態になります。しかし作家としての活動をほぼ絶っていた昭和41年(1966)になって、かつて「私はやはり短歌の道に戻りたいと切なく思いつづけている」と書いたように、香山はかつて発表した短歌作品を改稿して一冊のノートに筆記した私家版歌集『十年』をひそかにまとめていました。この歌集からの抜粋は昭和54年(1979)の『昭和萬葉集』(講談社)にも収められていますが、雑誌初出も含めて完全なかたちで読めるのは今のところ『全集』別巻だけです。


 歌集『十年』を読んでみてまず目につくのは、昭和13年から20年まで、ほぼ戦時中の作品が集められているにもかかわらず、戦争詠が少ないということです。これは私家版歌集にまとめるとき削ったというわけでもないようで、「補遺」として収録されている雑誌初出を通して見てもやはり戦争詠の割合はひどく少ないことがわかります。香山は大正デモクラシー軍縮の時期に徴兵年齢を迎えたのに加え、大蔵省に勤務していたこともあり、兵士として召集されることはありませんでした。戦後になって秘境を舞台にした冒険小説を立てつづけに発表したため、戦中は南洋の植民地にいたものと誤解されることが多かったようで、実際はずっと国内にとどまっていたのだと弁明するような文章も発表しています(「南への憧れ」『別冊宝石』昭和25年6月号)。そうした背景もあって、ただでさえ少ない香山の戦争詠はどれも型通りのものばかりで目立ったものはありません。凡庸な写生の歌が並ぶなかで目をひくのはやはり、香山の「生物オタク」としての側面を反映したような歌が多いようです。

 

厨辺(くりやべ)の月夜あかりはさびしきか親子守宮(やもり)の寄り添いており
はつはつにいのち保ちて冬を越す爬虫(はむし)の習性(ならい)うべないており
街中(まちなか)の店に飼われて山椒魚(はんざき)の呼吸(いき)ととのわず病みてやあらむ
軒端よりいく歩もあらぬ庭ながら蟇(ひき)のよこぎる道はありけり
汲み溜めしにごれる鹹(しお)の水に倦む海亀(かめ)うごかすと人の触(さ)やるも
安らわむ藻かげなき身は晒されてたつのおとしご日ねもす泳ぐ

 

 ヤモリ、越冬する爬虫類、サンショウウオヒキガエル、ウミガメ、タツノオトシゴなど、マニアックな動物ばかりが歌の題材に採られています。後年の香山が引用しているところによると、昭和17年(1942)の時点ですでに『蒼生』同人の沢津正彌が彼の短歌について「草木虫魚禽獣等に対する氏の性癖や深い愛情は甚だ注意せられる」と指摘しており、小説家としてデビューする前から既にその趣味ははっきりあらわれていたようです。これら動物を詠んだ作品にはとりわけ愛着があったらしく、ちょうど私家版歌集『十年』をまとめていた昭和40年(1965)から翌41年(1966)にかけて推理作家協会の会報に連載した随筆「私の博物誌」にも一首目、三首目、四首目、六首目が引かれています(ただし四首目のみ「蟇」が「とかげ」に改作されている)。

 

 歌集『十年』にはもっと身近な動物、蛾や魚なども多く登場しますが、共通しているのは異形の生き物に対する作者のやさしいまなざしです。もっと言えば、ここで香山は異形のものに共感し、かれらの穏やかな生活をおびやかし、ときに排除さえする人間たちへの嫌悪感を表明しているということになるでしょうか。

 

 サンショウウオを見世物にし、水族館のウミガメにちょっかいをかけ、タツノオトシゴの水槽に藻を入れてやらない。そうした身勝手な人々への批判的な視線は『ゴジラ』原作にまで受け継がれていきました。香山の筆になる「ゴジラ」には映画公開に合わせて発売されたノベライズ小説『怪獣ゴジラ』や少年向けに書き改められた『ゴジラ東京にあらわる』など複数のバージョンがありますが、直接に映画の原作となったものは『G作品検討用台本』と呼ばれています(全集以外にもちくま文庫ゴジラ』などで読めます)。映画「ゴジラ」で志村喬が演じた古生物学者の山根恭平博士は、水爆実験に遭ってもなお生き延びたその生命力を研究するためゴジラを殺すことに反対しますが、これが『G作品検討用台本』だともっと過激です。作者・香山滋の分身ともいうべき山根博士は、ゴジラを高圧電流に感電させる作戦を中止させるため、黒マントに身を包み、狂人のような顔をして「わしは絶対にゴジラを殺させはせんぞ」と発電所に侵入しようとして取り押さえられてしまいます。その後もゴジラが高圧電流でも死ななかったと知ると、うわごとのように「ゴジラが助かった」と騒ぐなど、とにかくゴジラへの肩入れがものすごい。ことによると、人間よりも怪獣のほうに作者が感情移入しているといってもいいほどです。映画第二作「ゴジラの逆襲」公開後、香山は「ぼく自身でさえ可愛くなりかけてきたものを、これでもか、これでもかと、奇妙な化学薬品で溶かしたり、なだれ責めにさせたり、今もって寝醒めはよろしくない」「だからぼくは『ゴジラの逆襲』を最後に、たとえどんなに映画会社から頼まれても、続編は絶対に書くまい、と固く決心している」(「『ゴジラ』ざんげ」『机』昭和30年12月号)とまで言っています。ひょっとすると今回の「シン・ゴジラ」でゴジラが死ではなく薬品によって“凍結”させられ、最後に人類との共存が示唆されているのも、『ゴジラの逆襲』でゴジラを殺すのがしのびなく「氷山を爆撃することで人工的になだれを起こして氷漬けにして眠らせる」という解決策を選んだ香山滋の精神が継承されているからかも知れません。

 

 ここまで引いた歌からもわかるように、香山滋の短歌は小動物を題材に採ることが多いという特徴こそあれ、技法の面ではごく平凡な写生による作品がほとんどを占めています。これは彼が師事した時期が、師の筏井嘉一がモダニズムの影響や浪漫的な作風から徐々に離れていった時期と重なっているためと思われますが、それでも架空の生物が所せましと暴れまわる後年の小説作品にも通じる、荒唐無稽な発想から生まれた歌もないわけではありません。

 

有尾人つどいてわめく洞窟に酋長われも尾を持ちて悲し
新月なすマンモス象の牙の反り滅びしものは美しきかな
月ふたつ空にかかれり今宵われ酔いしれりとは思われなくに
かわやつめ脛(はぎ)にとりつき血を吸うと夢みしゆうべ熱すこしあり
光りつつ青きとかげの過りけりげんげたんぼの畔の日ざかり
      
 香山は後年になって日本爬虫類両生類学会に参加したりしているので学術的な知識を蓄えるつもりもないわけではなかったはずなのですが、文献や論文がまだ完備されておらず正確な知識にアクセスすることの困難な時代が長かったこともあり、今でいうUMAのような怪しげな未確認生物を取り上げて、想像力をたくましくして小説に仕立て上げることも多々ありました。デビュー作「オラン・ペンデクの復讐」に登場する、スマトラの奥地に棲む矮小人類オラン・ペンデクなどはこの部類です。他にも「有翼人」などホモ・サピエンスとは別の進化を遂げた異形の人類が登場する小説は多いのですが、「有尾人……」の歌は昭和14年の作品ですから、この方面への香山の関心は筋金入りといっていいでしょう。二首目に登場するマンモスは、ゴジラのヒットをうけて立てつづけに書かれた少年向け怪獣小説のうちのひとつ「マンモジーラ」(昭和29年)のモデルになっています。


 三首目は昭和24年(1949)に発表された怪奇小説「月ぞ悪魔」の冒頭に出てくる歌です。まだ二十代の「私」が短歌同人誌の百号記念祝賀会の席で座興に披露したこの即詠(今でも歌人が集まるとこういうことをよくやりますね)に一人だけ、七十歳に近い老人がただならぬ反応を示します。かつて見世物専門の興行師として世界中を飛び回っていたこの老人・朝倉泰蔵が「私」に、かつてコンスタンチノープルでふたつの月が昇るのを見てしまった夜、怪しげな老婆から「次にふたつの月が昇る夜まで」預かってほしいと頼まれた美しいペルシャ女をめぐる数奇な体験を語って聞かせる、というのがこの小説の骨子。短歌や歌会はあくまで奇々怪々なおどろおどろしい物語を導くための、いわば話の枕に過ぎないといえばそれまでですが、香山の小説の多くがこの「月ぞ悪魔」と同様の、登場人物が切々と自分の体験を語るという形式で書かれていることに注意しておいてもいいでしょう。一人称で畳みかけるような会話体の「口説き」で物語ることを彼が得意とした背景には、戦中戦後にかけて“私性の文学”としての短歌を作っていたことが関係しているのかも知れません。

 

 四首目の「かわやつめ」は淡水に棲息するヤツメウナギのこと。香山滋出世作となった小説「海鰻荘奇談」(昭和22年)にはこのヤツメウナギと同じ円口類に属し、普通の生物なら生きることのできない深海にひそんでいた架空の電気ウナギ「ハイドラーナ・エレクトリス」が登場します。「あたかも恐竜が侏羅(ジュラ)の世紀に跳梁したごとく、海底の暴君として君臨し栄えたであろう」というこの怪物を創造した香山滋だったからこそ、古代の恐竜が水爆実験でよみがえる『ゴジラ』の原作を依頼されたといえましょう。しかしこの電気ウナギはゴジラと比べてずいぶん陰惨な怪物で、作中では獲物の美男美女を感電させた隙に膣や肛門からその体内に忍びこみ、内臓をことごとく食い荒らしてしまうグロテスクな生物として完全犯罪の“凶器”に使われています。ふくらはぎに取りついて血を吸うヤツメウナギの姿のみならず、その光景を夢想して恍惚とする「私」の姿まで詠みこんだこの歌は昭和13年(1938)の作ですが、雑誌などには発表されなかったようで、私家版歌集『十年』が初出です。この種の淫靡でグロテスクな嗜好は選者から嫌われたのでしょうか。

 

 最後の一首は連載随筆「私の博物誌」のうち「とかげ」を取り上げた回に引かれていた自作です。ここで香山は「蜥蜴の島」「蜥蜴夫人」といった自分の小説を挙げて、「なぜあんな気味の悪いものがお好きなのですか」という問いに答えるかたちでこう書いています。

 

 地球上にわれらの祖先人類が誕生したころには、もうあのゴジラ的怪竜(サウルス)は姿を消してしまっていた。そしておそらく、三つ目のムカシトカゲや、樹間を飛ぶドラコや、おとぼけ顔のカメレオンなどと退屈凌ぎに遊び戯れたことであろう。原始へのノスタルジアが、私をトカゲ類に引き寄せずにはおかない。

 

 この先にも香山は「ウガンダの七色のアガマや、ガラパゴスの夕焼のように赤いイグアナや、ベネズエラの緑のペンキに浸けたようなアノリス」……と好みのトカゲを列挙してやみません。小説「蜥蜴の島」(昭和23年)はそのガラパゴス諸島に棲息するウミイグアナを題材に、レズビアンの探検家が爬虫類研究のため訪れた絶海の孤島で、飛行機事故からただひとり生き残ってイグアナたちに育てられた少女と恋に落ちるという物語でした。この「蜥蜴の島」といい「蜥蜴夫人」といい、香山のなかでトカゲという生物には常に愛する女性のおもかげが重ねられているといえます。そしてそれは山根博士というキャラクターに託された、巨大なトカゲとしてのゴジラへの愛情にまでつながっていることでしょう。そういえば「シン・ゴジラ」に登場するゴジラにも、物語のキーパーソンである牧五郎元教授の妻のおもかげが重ねられているのでした。


 1997年刊行の全集別巻の解題に「歌人としての香山が今後どのように評価されてゆくか、静かに見守りたい」と編者の竹内博が書き付けてから早20年、香山の作品は短歌どころか小説すら新刊書店ではほぼ手に入らないという状況です。それでも小説は一部の稀覯本を除けば、特に1960年代以降の幻想回帰ブームに乗って文庫などのかたちで様々な出版社から刊行された選集類などは比較的安い値段でネット古書店などに売りに出ていますし、ネットで検索すればミステリやSF、幻想文学のファンによる紹介記事を読むこともできますが、こと彼の短歌への言及はほとんど見付かりません。この記事が「シン・ゴジラ」でゴジラや怪獣に興味をもったような人たちにとって、香山滋という異色の作家と、その作品のなかでもほとんど顧みられることのない彼の短歌に出逢うきっかけになればいいなあ、と思います。

 

吉田隼人:1989年福島県生まれ。早稲田大学大学院在学中。角川短歌賞、現代歌人協会賞ほか受賞。歌集『忘却のための試論』(書肆侃侃房)。