短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第55回 三山喬『ホームレス歌人のいた冬』

足で読む 土岐友浩

ホームレス歌人のいた冬 (文春文庫)

ホームレス歌人のいた冬 (文春文庫)

 

 

 公田作品の魅力は、透明感だった。極限状況に置かれても、それをストレートに嘆くわけではない。あくまで淡々と情景を描写する抑制的な姿勢に、公田の凛とした人格がうかがわれた。

 短歌という三十一文字の世界は、平等な共和国のようなものだ。井村はそう感じた。そこには強者も弱者もない。実生活において、リストラをする側にいる者も、される側にいる人間も、作品は等しく扱われる。それどころか、路上生活者という社会の最底辺にいる者が、空前の反響を巻き起こしたのである。

 しかし、あの寒い冬以来、共和国の最有名人となった公田は、二度目の冬を迎える前に共和国を去った。 三山喬『ホームレス歌人のいた冬』)


2008年12月8日の朝日歌壇の紙上に、後に「ホームレス歌人」と呼ばれることになる公田耕一の作品がはじめて掲載された。

 

 (柔らかい時計)をもちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ  公田耕一

 

サルバドール・ダリの「柔らかい時計」をモチーフにして時間感覚の歪みを巧みに表現した秀歌だけれど、より衝撃的なのは、住所欄に記された「ホームレス」の文字だった。

朝日歌壇選者の佐佐木幸綱は、選歌会でそのハガキを目にしたとき、思わず「ホームレスから来てるぞ」と声を上げたという。 

 

 鍵持たぬ生活に慣れ年を越す今さら何を脱ぎ棄てたのか

その二週間後、ふたたび公田の作品が入選した。毎週三千首もの作品が寄せられる競争率の高い朝日歌壇では、それだけでもかなりの快挙である。

 

翌年2月16日には朝日新聞の社会面で「ホームレス歌人さん 連絡求ム」という異例の呼びかけが行われた。その記事で「ホームレス歌人」公田は、ハガキの消印などから横浜にいる可能性が高いことも明かされた。

ちょうど同じ日の朝日歌壇に、公田のこのような歌が採られている。

 哀しきは寿町といふ地名長者町さへ隣りにはあり

寿町は、横浜のいわゆる「ドヤ街」である。終戦のあと、横浜港界隈での仕事を求める日雇い労働者が集まって成立した街だ。

 

朝日新聞からの呼びかけに、公田は「皆様の御厚意本当に、ありがたく思います。が、連絡をとる勇気は、今の私には、ありません。誠に、すみません」と投稿ハガキに添え書きをして応えた。そしてそこには、

 ホームレス歌人の記事を他人事(ひとごと)のやうに読めども涙零(こぼ)しぬ

 胸を病み医療保護受けドヤ街の柩(ひつぎ)のやうな一室に居る

という挨拶歌とも読める作品で、現在の境遇が詠われていた。

 

その後も毎週二首、欠かさず公田からの投稿は続けられ、40週で計28首が入選。

朝日歌壇には公田の身を案じ、応援する歌が続々と寄せられ、「ホームレス歌人」は新聞歌壇の枠を越えて、広く世間に知られる存在となった。

 

しかし2009年9月7日、次の一首を最後に、公田の名前は紙面から消える。

 瓢箪(へうたん)の鉢植ゑを売る店先に軽風立てば瓢箪揺れる

 

消息を知る者は誰もなく、入選謝礼品の「はがき十枚」も、朝日新聞宛に送られた「第二回貧困ジャーナリズム特別賞」の賞状も、ついに受け取られることはなかった。

公田からのハガキは例外的にすべて、破棄されることなく、朝日新聞に保管されているという。没となった作品は選者以外には公開されていないため、公田の歌は、その半分以上が、いまだ日の目を見ないまま眠っていることになる。

 

 *

 

『ホームレス歌人のいた冬』は、東海教育研究所が発行する雑誌『望星』に連載されたノンフィクションである。2011年、単行本にまとめられ、2013年には文春文庫になった。

著者の三山喬は、元朝日新聞記者のフリーのジャーナリストで、長く南米に住み、『日本から一番遠いニッポン』などの著書を発表した。

 

南米から帰国したとき、三山は日本の深刻な貧困問題を目の当たりにし、その切り口として一連の「ホームレス歌人」現象を書こうと思い立つ。

本書は、その取材の記録である。

 

三山はまず、朝日歌壇の選者として永田和宏のもとへ話を聞きに行く。

 

そもそも「ホームレス歌人」は実在の人物だったのか、どうか。

 

永田もはじめは半信半疑だったものの、「温かき缶コーヒーを抱きて寝て覚めれば冷えしコーヒー啜る」などの歌を読み、考えを改めたという。

「でも、いくつか作品を読むうちに、これはもう間違いない、と確信するようになりました。短歌というものは、ぼやっとしていたら見逃してしまう細部に目を留めて、実感をもってその細部に接する、そういうところで活きてくるものですから、なかなかウソをつけるものじゃないんです」

 

公田は自分と同世代の教養人であり、おそらくホームレスという境遇になってから、自己を表現する手段として短歌を思い出したのではないか、と永田は推測する。

ただし「短歌の評価はあくまで、表現がすべて」であり、内容のインパクトだけで歌が評価されることはありえない、とも永田は付け加えた。

そこに三山は、率直な意見をぶつける。

 歌に詠まれた状況、ましてや、詠み手の立場や肩書は、作品の評価とまるでかかわりのないことだという。私はしかし、現実問題として、公田作品の人気はそうとばかりは言えないと思っていた。少なくとも、一般読者の間では、彼が「ホームレス歌人」だったからこそ、その作品に引きつけられた人が少なからずいたのではないか。

(朝日)歌壇の四十首に選ばれる、そこまでのプロセスでは、作品の質だけが純粋に問われる。それは、永田の言うとおりなのだろう。ただ、いったん紙面に掲載されてしまえば、そこからはまた別の次元の話になる。公田の実力を疑って言うのではない。その「人気」の桁外れの大きさを見るとき、そう思えてならないのである。

 

三山は短歌の「素人」だというから、現代短歌史でときどき繰り返される虚構論争を踏まえたわけではないだろうけれど、かえってそのフラットな視点が、短歌にとって虚構とは何かを問い直しているようなところがある。

 

公田耕一とは、何者なのか。

 

なぜホームレスになったのか。歌を詠み、投稿しようと思ったのか。

その問いを胸に抱き、三山はいよいよ寿町に足を踏み入れる。

 

それは公田が姿を消した翌年、2010年の夏のことだった。

 東西約三百メートル、南北約二百メートルの範囲に、百二十軒あまりのドヤがひしめいている。

(中略)

 横切る電線の低さがやけに目立つこの通りには、往来でたむろする高齢者の姿がそこかしこに見られる。路上駐車はしていても、車の通行はほとんどない。その代わり、各ドヤの玄関口には十台、二十台と自転車が並んでいる。
 通り沿いに何軒かある酒屋では、昼間から立ち飲みを楽しむ酔客が路上まではみ出していた。総じてみな、高齢者である。

 

先に寿町は「ドヤ街」だと書いたけれど、現在ここに住んでいるのは日雇い労働者ではなく、多くが生活保護を受給する身寄りのない高齢者である。時代の移り変わりとともに、寿町もまた、少しずつその姿を変えていった。

しかし生活保護さえ受けず、様々な理由でホームレス生活を送る人々もいる。

公田も、そのなかの一人だったはずだ。

 

その一人に、いったいどうしたら、たどり着くことができるのか。

 

取材を受けたあるホームレスは「この人は見つからないよ」と断言した。

それもそのはず、著者によれば「ドヤ街の住人や周辺のホームレスは、顔見知りの間柄でも、本名はまず明かさない。青森出身者なら青森さん、秋田なら秋田さんなどと呼び合っている」のだという。

「ここではみんな、名前を知らずにつき合ってる。下手に教えたら、どこかで借金されちゃったり、ろくなことはないからね。俺なんか、ここにだいたい毎日来てるけど、桜井さん以外、名前がわかる人はいないよ。」

 

自分の身を守るため、誰も素性を明かさず、通称で呼び合う。

公田はそういう世界で生活していたのだ。

 

名前が手がかりにならなければ、残されたのは短歌だけだった。

 

三山はヒントになりそうなキーワードを抜き出していく。

「炊き出しのカレーの列」「親不孝通り」「コイン・シャワー」「説教と引換えに配るパン」「リサイクル文庫」「図書館の地下」「有隣堂(書店)」「ひかり湯」「野毛山とドン・キホーテ」「マクドナルドの無料コーヒー」……。

 

その場所のひとつひとつを訪ね、三山は公田の姿をそこに重ねた。

 体調を崩しこのまま寝込みたき日でも六時に起きねばならぬ

 界隈のどこで野宿するにせよ、朝早く起きなければならないのは同じらしく、スタジアムや関内駅の周辺、大通り公園など、比較的ホームレスが多いポイントでは、一般人の通行が始まる明け方には、野宿者は "寝床" を撤去する。ガードマンからそれを求められることもあるという。段ボールや毛布を植え込みの陰などに納めたあと、日中をどこで過ごすかは人それぞれ。厳冬期や真夏は、冷暖房のある場所にたいていは移動する。公田は、図書館で過ごす時間が長かったようだ。

 

寿町の住民たちに公田の歌を見せて回ったが、返ってきた反応は、無言の拒絶、煩わしそうな身振り、そうしたものばかりだった。

次第に三山は、漠然と思い描いていた「公田」のイメージが揺らぐのを感じる。

 もしかしたら、私が、その一連の作品から想像している公田の誠実な人柄も、生身の公田とはズレがあるのかもしれない。そんなふうにも思わざるを得なかった。

 時代という不可抗力のなかで、なすすべもなく底辺へと落ち込んでしまった "純粋な被害者"。当初は何となく、そんな人物像を思い浮かべたものだったが、この街にいると、そんなホームレス像が限りなくリアリティのないものに思えてくる。

 そもそも、公田の短歌に関心を示す人が、この街ではほとんど見当たらないのである。朝日歌壇読者の熱烈な思いとは対照的に、寿の人々は無関心だった。心の奥底を見せようとしない人も多かった。

(中略)

「これだけ暑いと、ドヤから出たくないんだよ。それに、取材なんて煩わしいでしょ。誰だって普通、そう思うさ。だって、ここは寿町なんだよ」

 

しかし、三山は諦めない。

三山がとった作戦は、寿町の高齢者が集まるデイケアに行き、彼らの前で公田の短歌を読み上げるというものだった。

 室内には三十人ほどもいただろうか。結論から言えば、この試みもまた、失敗に終わった。何部かのコピーを卓上に置いても、読もうとしてくれる人はいない。こちらが読み上げる形に切り替えると、最初こそ、何事かと耳を傾けた高齢者たちも、私が二、三首も読むと、能面のように無表情になってしまった。公田の作品には難しい言葉遣いも少なくない。一首ずつ解説を挟むようにしたが、反応は同じだった。カレーづくりに集まった高齢者たちにとって、私は明らかに招かれざる闖入者だった。

「というわけで、こんな歌人を探していますので、何か噂でも耳にしたら教えてください」

 朗読を打ち切って、私はすごすごと退散した。

 

乾いた視線に耐えながら、朗読し、解説までつけて公田の短歌を伝えようとする著者の姿には、胸を打たれる。

 

こうして半年あまりの取材を経て、三山はいくつかの驚くべき出逢いを果たす。(残念ながら、公田その人との対面はかなわかった。)

詳しくは本書を読んでいただきたいのだけれど、ひとつだけ、ここで紹介しておきたいことがある。

 

それは、公田本人から電話を受けたという寿日雇労働者組合の職員の証言だ。

その職員は、「ホームレス歌人」が話題になっていた当時、自発的に呼びかけの張り紙をつくって掲示していた。

 

五十代か六十代くらいの大人しそうな声を持つその電話の主は、「コウダ」でも「キミタ」でもなく、「クデン」と名乗ったのだという。

 

朝日歌壇の関係者のあいだでは「コウダさん」と呼ばれていたが、ハガキに読み方が書いてあったわけではない。

調べると、たしかに横浜には「公田町(くでんちょう)」という町名が存在した。ちなみに「公田」と書いて「コウダ」や「キミタ」と読ませる地名は、見つからなかった。

その電話が本人からのものとすれば、公田は最初から、自分が横浜に生活するホームレスだということを、それとなく明かしていたと考えられる。

 

公田耕一は、クデン・コウイチだったのだ。

  

 *

 

「ホームレス歌人」は、いま、どうしているのか。

 

投稿がある日ぷっつりと途絶えたため、朝日歌壇で公田を追っていた人々は、最悪の事態も含めて、様々な理由を想像した。

 

本書の最終章で、一連の取材を終えた三山は、ある仮説を立てる。

公田はなんらかの理由でホームレス生活を余儀なくされたものの、おそらくそれは短期間のことで、まもなく寿町で生活保護を受け、「ドヤ」かどこかに暮らすようになった。

つまり途中から、文字通りの「ホームレス」ではなくなったのではないか、というものだ。

 

「ホームレス歌人」という先入観を捨て、公田の歌を読むと、明らかに路上生活を詠んだとわかる歌は初期に限られ、それ以降は路上生活とも、「ドヤ」住まいとも解釈できる作品が多い。

というより、どちらとも取れるようにしか公田は詠えなかったのではないか、と三山は推理する。

 公田耕一は、やはり真面目な人なのだろう。

 作品でウソをつくことはできなかった。ただ、住居表示だけはいまさら、変えるに変えられずにいた。

 そんな "良心の呵責" が、最後には「公田耕一をやめる」という決断になったのではないだろうか。

 

説得力のある仮説だと僕は思う。

 

 ホームレス歌人の記事を他人事(ひとごと)のやうに読めども涙零(こぼ)しぬ

 胸を病み医療保護受けドヤ街の柩(ひつぎ)のやうな一室に居る

 

そう考えると、先に引用したこの二首の解釈も少し変わってくる。

現在の自分は「ドヤ街の一室」に住むところを得て、もう、読者の方々がイメージするような「ホームレス歌人」は、どこにもいないのです。

ひょっとしたら公田は、そう告白したかったのではないだろうか。

 

どこまでいっても想像の域を出ることはないけれど、僕は公田の歌を読んでから、彼の消息とは無関係に、ずっと気になっていたことがある。

それは、二首目の「医療保護」という言葉だ。

 

 胸を病み医療保護受けドヤ街の柩(ひつぎ)のやうな一室に居る

 

「医療保護」とは、何を指すのだろう。

医療や福祉の関係者にとっては、なじみがなく、違和感を覚える言葉ではないだろうか。

 私(三山)は当初、この「医療保護」という言葉を、「生活保護」と同じ意味で受け止めていた。

 宿泊費や生活費と同じように、生活保護の内訳として、医療費もある。公田は短歌の表現上、医者にかかっていることをより明確に示すために、「医療保護」という言葉を使ったのだろう。私はそう思っていた。

 

「医療保護」は「生活保護」のことで、「短歌の表現上」の都合でそう書いたのだろうと三山は当初推測した。

しかしそうではなく、これも僕は本書を読んで初めて知ったのだけれど、「医療保護」は生活保護の前に、医療的な扶助を受けるために存在した制度で、書類などにもこの言葉が用いられていたという。

 

つまり公田は路上生活で「胸を病んで」健康を損ない、福祉の相談窓口で、その制度を知ったと想像できる。

 

ここで重要なのは、ただ一点、「医療保護」が公田の造語や創作ではなかったという事実である。

 

この一語の正体を突きとめたこと、あえて言えば、それだけでもこの取材には決定的に大きな意義があったと思う。「短歌の表現」とは、そういうものだからだ。

 また、私(三山)が短歌の評価に関しては、まったく知識のない素人であることも、読者には違和感を抱かせるかもしれない。
 だが、遅れてではあれ、公田耕一の読者となった素人の感想としてあえて言えば、私自身は、三十六首のなかに、とてつもないインパクトをもって心を揺さぶられた一首、あるいは何首かを見つけたわけではなかった。
 私はただ、感情を抑えて淡々と描写される底辺の日常。その作品の連なりのなかに静かに日々を生き、歌を詠み続ける公田の姿を思い浮かべ、その全体像に、心惹かれるのである。

 

「歌そのものに心を揺さぶれたわけではない」という三山の言葉は、歌人にとって、あまり愉快なものではないだろう。

しかし「静かに日々を生きる姿」を思い、「その全体像に心惹かれた」とは、深く読んだからこそ出てくる感動で、シンプルな意味で、三山は公田の短歌に心を揺さぶられたのではないか、と思ってしまう。

「感情を抑えて淡々と日常を描写している」という三山の批評も、的を射たものだ。

 少なくとも、あの作歌活動中、公田はじっと自分を見つめていた。見つめなければ、歌は詠めない。その一方で、底辺の暮らしから這い上がろうと努力はしたのか。歯を食いしばり、気持ちを奮い立たせることができたのか。その部分に関しては、何とも言いようがない。老いという冷酷な現実も、周囲で考えるほど簡単に打ち破れるものではないだろう。それでも公田は、思考停止や現実逃避という方向に流されはしなかった。
 もしかしたら、だからこそ私は公田に惹かれるのだろうか。
 追い詰められた極限状況から、物理的には抜け出せないとしても、まずは精神的に脱却しようとする。公田の足跡に、そんなものを見出したいと考えていた。

 

「ホームレス歌人」を追いかけながら、三山は自分自身の姿をそこに重ね合わせていたことに、いつしか気づく。

実はこの時期、彼自身もジャーナリストをやめるかどうかの瀬戸際にいた。

三山は無意識に、逆境にも負けない人物として「公田耕一」を思い描き、心の支えにしようとしていたのだ。

 

とはいえ、三山は幻の歌人に、自分の願望をただ仮託しただけではない。

彼がその正体にもっとも迫った人間なのは、本書を読めば明らかである。

 

三山はジャーナリストの足で、公田の短歌を読んだのだ。