茂吉「凡」歌 土岐友浩
これは、方法の書である。わたしは、もっぱら、斎藤茂吉が、その短歌において用いた方法のみを、考察の対象にすることを心がけた。あるいは、次のように言った方が正確かもしれない、茂吉の作品を通して、「短歌の方法」を探求しようとしたのだと。 (玉城徹『茂吉の方法』後記)
玉城徹。
その名前は飲み会でよく挙がるけれど、家に帰って『現代短歌の鑑賞101』をチェックしても載っておらず、どういう人なのかずっとわからなかった。
それもそのはず、伝え聞くところによると、玉城は自分の作品がアンソロジーに掲載されるのを、すべて断っていたそうだ。
だから玉城の歌は、迢空賞を取るくらい高い評価を得ているにもかかわらず、『現代の歌人140』でも講談社学術文庫の『現代の短歌』でも、最近出た河出書房新社の『近現代詩歌』でも読むことはできない。
その信条が、どこから来るのか。
僕は第二歌集『樛木(きゅうぼく)』の文庫版を持っているのだが、このあとがきを読むとよくわかる。
歌集『樛木』は『馬の首』に次ぐ、わたしの二番目の歌集で、昭和三十七年から同四十六年に至る十年間の作品を収めてある。
(中略)
編集はおおむね発表順によっている。わたしの場合、発表順、制作順ということは、それほど厳密な意味を持たないのであるが、作風のおもむろな変遷を観察する便宜にはなるかもしれない。一首一首の歌は、二、三誤りを正した箇所はあるにしても、ほとんど発表したままで手を加えてはいない。制作からあまり長い時間を隔てた推敲というものの意味を信じないからである。 (樛木後記)
歌集のあとがきとしては普通のことが書いてあるようで、ストイックな、手ごわい感じも受ける。
しかし、作品の配列、編成に関して言えば発表時とはかなり違っている。(中略)それは、わたしの場合、発表時の配列は、発表機関の性質や、その折の事情などによる偶然的、便宜的なもので、制作の時期や理由とは緊密な関係をもたないということが、一つの原因となっている。その限りでは雑誌等における発表は、わたしにとって仮発表にしかすぎないのである。
短歌の原稿依頼が来るときは、7首とか12首とか、必ず歌数が決まっている。10首の連作をつくりたいので10首でお願いします、というわけにはいかない。
しかし、それは雑誌の都合で、自分の制作意思とは関係がないのだから、歌集に収めるときは構成し直してしかるべき、というわけだ。たしかに一理ある。
別の面からこれを言えば、わたしの作品には連作は皆無なのである。わたしは、伊藤左千夫以来の一切の連作論を、論としても拒否するつもりである。近代短歌の堕落の一因は、連作態度の中にあるとつねづねわたしは思って来た。「群作」などと衣裳を替えてみても、事はそう変わるわけのものでもない。
……とひとり合点しそうになったのだが、どうもそういう話でもないようだ。
子規が試み、左千夫が「連作論」とともに発展させた短歌の連作というものを、玉城は「近代短歌の堕落の一因」だと根底から否定している。
いったい、どういうことか。
さらに別の面から言えば、わたしの作品は生の記録でないと同時に、ある観念の文学的表現でもない。この両者とも、今日のところ連作の形態をとることが避けられないもののようである。そして、方法としては両者とも形象的である。(中略)こうした方法は、わたしをして言わしむれば、短歌の根源的な叙情力を大きくそこなうものである。この方法と連作形態はだから表裏一体をなすので、両々相まって、一見短歌の表現力を拡張するごとく見せつつ、実は、短歌を散文の代替物の位置にまで引き下げるはたらきをしているのである。
ここのところはやや難しい。特に、観念を文学的に表現した短歌が形象的だというあたりが、抽象的すぎて、わかるようでわからない。「形象」はイメージと言い換えてもいいのだろうか。
一般に連作とは、場面を統一することで、テーマを掘り下げ、深めていく手法と理解されているが、玉城にとってそれは短歌の散文化であり、堕落なのだというのを、ひとまず押さえておこう。
しかし、この集の作品を単純に一首一首独立したものとして味わってほしいと言っているわけではない。わたしは連作を否定するにもかかわらず、作品の真の成立は歌集刊行という形式以外にあり得ないと考える。すなわち刊行された歌集こそ、一つの完結した作物なのである。
これは、文句なしにかっこいい。
短歌は歌集によって真に成立するというのだ。
歌人のプライドを見せてもらった、という感じがする。
賛成するかしないかはともかく、ここまで断言されると、さすがに一回くらい玉城徹の歌集を読んでみよう、という気になるではないか。
もうこれ以上の言葉はいらないくらいに思うのだが、ここまでで、あとがき全体の三分の一程度で、以下、玉城自身の短歌的スタンスの説明が、まだまだずっと続く。
それは機会があれば読んでいただくとして、『樛木』の作品を少しだけ読んでみることにしよう。
年越えしゑのころの穂は濃き霧に水のごとくにわななきて見ゆ 玉城徹
芽ぐみたる小さきものがしかすがにいちじくの葉のかたち具へつ
冬枯れのしじに枝生ふるれんげうを夕べのかげのひたしたるかも
どの歌も、なるほど、ただの自然詠とは一味違う。
一首目は、一月の初め、枯れた猫じゃらしが霧の向こうに揺れている、という光景のようだが、僕の知っている猫じゃらしとはまったく違う。二首目も、ただの小さな葉っぱに、作者がなにか宿命的なものを見出していることがわかる。
三首目は、好きな歌だ。「しじに」は「繁に」で、隙間なく、みっしりとの意味。下句の「夕べのかげのひたしたるかも」がとてもいい。たしかに、こういう夕暮れの木を見たことがある、と思う。
歌集で有名なのは次の一首だろうか。
冬ばれのひかりの中をひとり行くときに甲冑は鳴りひびきたり
この歌が印象に残るのは、ベタだけれど、やはり玉城徹という歌人と、騎士ドン・キホーテのイメージがぴったり重なるからだという気がする。
*
『茂吉の方法』は、1979年、玉城徹が54歳のときに刊行された評釈本である。
キーワードは書名の通り「方法」だ。
斎藤茂吉が、もっとも卓越した近代歌人の一人であることは、疑いをいれぬところである。しかし問題は、茂吉の歌人としての優秀性は、いったい、何に由来するかという点である。わたしは、批判的な方法意識の確立こそ、茂吉を他にぬきんでさせた根本のものであったと考えている。 (「茂吉の方法」後記)
茂吉は、天然、素朴、天性の歌人、ともすればそういうイメージがあるかもしれないが、それはそれとして、きわめて「方法」に意識的な歌人でもあった、というのが本書のメインテーマである。
特に前書きもなく『赤光』の一首の引用から本文は始まる。資料的な考証や制作時の茂吉の境遇、そういうものはほとんど無視して、玉城は選んだ歌をただ読んでいく。
『赤光』から最終歌集の『つきかげ』まで順に、俎上に載せられたのは計133首。茂吉の代表歌もあれば、玉城ならではの選歌もある。
「方法」とは何か。少なくとも、単なる技術とか技法のことではない。
方法とは、作品の内部で探求され、そして作品の方向を内部から変更してゆくものであり、それは、綜合的な概念なのである。作家が、自分の素質(テンペラマン)に従いながら、自分と現実世界との間に通路を発見してゆく、そういう精神の活動全体が方法とよび得るものである。
それは作品の内部に宿り、歌全体をいきいきと動かすものなのだ。
この意味で、玉城の言う「方法」は、他の作品や、連作に還元できるものではないというのも納得できる。
だからこそ、一首一首をそこに書かれたことだけに即して、できるだけ正確に読むことが、なにより重要になる。
このあたり、第2回で永井さんが取り上げた花山多佳子の『森岡貞香の秀歌』を思い出す方も多いのではないだろうか。永井さんの言葉を借りれば、「歌がある。それを読む。ザッツオール」という姿勢は、ここから受け継がれたものだ、と考えてもよさそうだ。
では、具体的にどんな歌がどう読まれたのかを見てみよう。
さむざむと時雨は晴れて妙高の裾野をとほく紅葉うつろふ 『ともしび』
風景を風景として、つまり、風景としての立体性、遠近性においてうたおうという努力は、近代もだいぶ後になってあらわれてきたかと思える。(中略)ここに掲げる一首なども、茂吉が先師、左千夫の試みを継承し、発展させたものと言うことができる。そして、なかなかに効果をあげている。
子規の時代は、自然を描くといってもスケッチのようなものだったのだが、左千夫以降、自然をより奥行きのある風景として捉え、表現しようという動きが出てきた。
まず二段に切った手際があざやかである。前段二句で、時雨のはれた山のさむく鋭い空気と光線だけを感じさせた。そして、第三句ではじめて、「妙高の裾野を」と、大景を言いおこしている。そのために、二句末の「て」が軽くならず、そこで、深く、しっかり歌がきれている点は注目すべきである。
「裾野をとほく紅葉うつろふ」はきはめてすぐれた句で、十分に快感を味わわしめる。まず一番に「を」の助辞が良い。これがために、裾野のひろがりが、静止的な空間としてでなく、運動として感じられてくる。「うつろふ」もたくみである。すがれかかって、色もくすんできたのを、「うつろふ」と包括している。時間的な語だから、それによって、大きな空間を代置した結果になった。ここで、視覚印象的なことばを出すと、どうしても、部分的になることを免れがたい。せっかく「妙高の裾野をとほく」と言ってきたのと、規模の合はぬ、ちぐはぐな視覚印象に縮小せざるを得なくなってくる。
できればここは読み流さず、歌と評をじっくり読み比べてほしい。
助詞の「て」や「を」の効果や「うつろふ」の巧みさを、ものすごく精密に、過不足なく、しかもわかりやすく批評している。鑑賞としても、評者の感動がよく伝わってきて、歌会でここまで言えたら100点というくらいのものだ。
風景遠近法は、短歌の叙情にあらたに大きな負荷をかけるものであった。それは、うっかりすると、短歌形式を破壊しかねない。しかし、一方からいうと、それは短歌の方法に対する異質な抵抗として、その拡大のために大きな刺激となったことも認めないわけにはいかないだろう。
この一首に、一つの解決があったことはたしかである。しかし、実作の上でこれを一歩踏みこえるということは、そうたやすいことではない。「踏みこえる」という意識をもつことすら容易ではない。批評というものの存在意義は、この「踏みこえ」をすこしでも助けることにあると言ってよかろう。
この歌について言えば、大きな景を描くために時間的な表現を持ち込んだという「方法」を見出しているわけだけれど、僕などは、最後の「よかろう」あたりのかっこよさに痺れてしまう。
*
佐藤佐太郎と塚本邦雄は、その名も『茂吉秀歌』という本を書いているが、『茂吉の方法』でピックアップされるのは、必ずしも秀歌とはかぎらない。
玉城はむしろ見逃されそうな歌に注目し、その読み方を読者に教えてくれる。
公園の石の階より長崎の街を見にけりさるすべりのはな 『つゆじも』
小高いところにある公園であろう。その石の階から街を見下ろすことができる。平明に、ごく単純にうたっていて、対象を力づくで表現しつくそうとしたところが見えない。ほとんど、日記がわりの記録的一首という風に、さらりと歌っている。
四句を「見にけり」と端的に言い切って、結句にぽつんと「さるすべりのはな」とだけ言ったのも、何か、手を抜いた不十分な言い方のように思える。これでは、どこに「さるすべり」が咲いているのかわからぬという苦情も出そうである。
これなど、歌集で読んでもそのまま通り過ぎてしまういい例だろう。しかし玉城はこの歌に立ち止まり、読む者の視界を広げていく。
この歌、一見いかにも欲のない歌いぶりでいながら、夏陽の下に広がる明るい都市、そのところどころに咲く百日紅のくれない。そういう情景をうたいながら、見下ろしている作者の孤独な胸中の煩悶を、いつか読者に伝えないではいない。ことばとして言ったものしか伝えないというのであれば、三十一音の短歌は、はじめから、長い詩にも、小説にも太刀うちできないにきまっている。
ぽつんと最後に「さるすべりの花」*1 とつぶやくように加えているところが、じつは、作者の心の鬱々たる状態を、具体的なすがたで読者に感じさせてくれるのである。
いい批評は、歌の見え方をあざやかに変えてくれる。
見はるかす街の風景と、さるすべりの花の対比。それだけにとどまらず、玉城は「さるすべりのはな」に茂吉の苦悩する心を読み取っている。
ここまで読むことができれば、この一首を『つゆじも』という歌集の中にどう位置づけたらよいのかも、おのずと明らかになるだろう。
僕が本当にすごいと思うのは、こういう地の歌を、丁寧に、過大評価することなく読んでいることだ。だから、本書は隅から隅まで、どこを読んでも勉強になる。
鳳仙花いまだ小さくさみだれのしきふる庭の隅にそよげり 『あらたま』
大正六年作。茂吉としては目だたぬ部類の作と言えるが、わたしは、このような歌にひどく愛着をおぼえる。まだ茎の伸びぬ、小さな鳳仙花が、庭の隅で、ふりしきるさみだれの降る中に、たえずそよいでいるというだけにすぎない。
一首の隅々にまで、鳳仙花のそよぎがみちわたっていて、ほかに余分なものが感じられないところに、この歌の生命がある。つまり感傷というものがほとんど影をひそめている。
(中略)
茂吉がこうした感傷を、みずからの作歌行動の中で否定し、克服していったところに、彼のゆたかさ、偉大さが生まれたという理解をしている。
(中略)
「鳳仙花」一首には、まだ弱弱しいものとはいえ、感傷性離脱の一歩が見られる。それをわたしは尊重したい。感傷をはなれて、茂吉は、鳳仙花の「そよぎ」そのものと一体になろうとしている。そこに、愛すべき歌の「すがた」が出現している。
こういう一見なんでもないような歌に、玉城は、感傷から脱却しようという茂吉の作歌姿勢を読み取っている。
本書は玉城自身が繰り返しているように、一首一首の歌を読むこと、ただそれだけなのだが、その積み重ねによって、やはりひとつの視座というか、玉城の茂吉論が顔をのぞかせているように思う。
一方で、有名な「白桃」や「逆白波」の歌には、玉城はダメ出しをしている。その視点や書きぶりが、とてもユニークで面白いので、こちらもぜひ読んでみてほしい。