短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第56回 片山貞美・編『歌あり人あり 土屋文明座談』

 土屋文明超ロングインタビュー  堂園昌彦

歌あり人あり―土屋文明座談

歌あり人あり―土屋文明座談

 

 

こんにちは。

 

今回ご紹介したいのは、片山貞美編の『歌あり人あり 土屋文明座談』です。この本は、雑誌・角川「短歌」の編集者だった片山さんが、当時、75歳だった土屋文明にインタビューした記録になります。

 

土屋文明は、ご存知アララギを支えた立役者です。生まれは明治23年(1890年)、そしてなんと、平成2年(1990年)、101歳まで生きています。めちゃくちゃ長生きですね。東大で芥川龍之介と同級生だったりしていますので、ほとんど歴史上の人物ですが、そんな人が平成まで生きていたりしたのです。まさに、明治・大正・昭和・平成まで生きた、明治以後にできた「短歌」の歴史をすべて体験している歌人、と言っても過言ではないでしょう。

 

そんな土屋文明ですが、当然、ずっと歌壇の最長老といった感じだったので、昭和39~40年(1964~1965)に月イチで話を聞いてみよう、と角川「短歌」で企画されたのが、この本の元になった連載記事です(実は、本の末尾に90歳のときのインタビューもちょろっとあります)。

 

インタビュアーであった片山貞美さんは編集後記で、どう話を進めていいか悩み、とても緊張して苦労した、というようなことを書いているのですが、なかなかどうして、興味深いインタビューになっています。

 

なんというか、文明がえらい立場だからなのか、かなりざっくばらんに、かつどこか老獪に答えていて、面白いんですよね。一読の価値のあるインタビューだと思います。

 

そんなわけで、今回も面白かったところを拾いながら紹介をしていきたいと思います。まず、文明が話すのは、かつての先輩であり盟友である、島木赤彦のことです。

 

  やはり、世間では、赤彦が晩年に鍛錬道なんていうことを言ったから、非常に堅苦しい旧式の人のように思うんですけれども、鍛錬道などということを言い出したのは、実際むしろ自分に対する戒めのようなもんでしょう。(p.11)

 

斎藤茂吉、島木赤彦、土屋文明が、アララギ三巨頭になると思いますが、その中でも島木赤彦は厳しい自然観察の歌を残し、また、「鍛錬道」といった短歌の理念を提唱した、どことなくハードな印象の人と思われています。

 

しかし、文明さんはそのイメージに異を唱えるんですね。

 

赤彦という人はむしろ、非常にセンチメンタルでさえある人で、これはどっかで一度話したことがあるが、こういうエピソードをわたしは諏訪で聞いたんです、赤彦からじゃなく。それは、赤彦がまだ諏訪の学校にいたときに、どこからか、諏訪は教育の進んだところというので、昔の学事視察というんですね、それに来た人が、学校でいろいろと話して、もっと宿で話したいという両方の希望で、宿を訪問したというんですよ。そうしたら、古い話ですね、その頃、いまのサイダーね、あれをシャンペン・サイダーという名前で売り出したんだ。そのシャンペン・サイダーを宿で出して、行った人が学校の先生たちですから、はやり初めのシャンペン・サイダーを初めての人が多かった。赤彦も初めてだったらしいと言うんですよ。それで赤彦が、「たいへんごちそうになって、酔いました」と言うんですね。「いや、これはアルコールがはいってないですよ」と言われて、赤彦がちょっと戸惑ったという話ですが、これは悪く言えば、赤彦が非常にお世辞がうまいように聞こえますが、わたしは、そうじゃなくて、赤彦はほんとに酔ったような気になってしまったのではないかと思います。赤彦という人は非常に感じやすい人だったんじゃないかと思うんですね。 (p.11)

 

初めてサイダーを飲んだときに、「いやー、酔っぱらっちゃいました」と赤彦が言ったという話です。なんだかわかったようなわからないようなエピソードですが、文明さんは、赤彦は物事に感じやすい繊細な部分を持ったひとだったんだよ、と赤彦のちょっと可愛いエピソードを拾いながら言っているんですね。

 

不二子夫人が赤彦に向きあって、赤彦を評して、「あんたは夫としてはあまりいい夫じゃないけれども、恋人とすればいい恋人だろう」という批評をしたというんです。これは、わたしはたいへん赤彦の性格を表しているんじゃないかと思うんです。(中略)それが十分出ないようなところが作品にはあるんじゃないかと思って、それはもう十年も長生きされたら、そこが自然に、鍛錬道なんかでなしに出てくるんじゃなかろうか。初期のものには、かえって、そういういいところのものが出ているんですが。初期のものは、やはり今から見れば技巧的に不十分なところがあるかもしれないですね。技巧的に十分円熟した晩年のものには、そういういいところが、わたくしには出てないような気がするんだけど。 (中略)もっと温い恋人としての資格を十分に備えている赤彦が出ている作品が少ないのは残念ですね。(p.12)

 

赤彦が奥さんに「夫としてはあんまりよくないけれど、恋人としてはいい恋人だ」と言われた、という話。これもよくわからないっちゃわからないんですが、要するに、 赤彦は一般的には「恋人としてはよくないが夫としてはよい」と思われているタイプの人間なんです。でも実際には、もっと人情味のあるところが赤彦であるし、赤彦の歌の本質的に良い部分は実はそういうところなんだよ、と文明は言っているわけです。

 

まあ、夫ー恋人の対比はなんか、アイドルのトークか、みたいな感じしますし、ジェンダー的にもどうかと思うのですが、この見方はけっこう赤彦に対する珍しい見方ではないかと思います。ふつう、赤彦ファンは「赤彦の歌の自然観察の澄明なところがいい」みたいに言いますからね。

 

アララギ」に載ったときに、赤彦は上京してきて、土屋君が久しぶりに作ったんだから、土屋君の歌を巻頭に出せばいいのに、気がきかないやつだということを、若い人に言う。そのようなことは、実際、赤彦の場合は、策略でもなんでもないんです。そういうふうに周囲の人のことを思う人だった。それを赤彦は政治的だなどというのは余りのんきな歌よみの言い草だ。 (p.20)

 

大正2年(1913年)に左千夫が亡くなったあと、いろいろあって「アララギ」は赤彦体制になりました。強力に理念を推進してアララギを拡大した反面、けっこういろんなところから「赤彦は政治的だ」とか悪口を言われたりもして、今でもそういうイメージは根強くあります。しかし、文明は「赤彦はそういう人じゃなかった」と言うんですね。

 

故人の名誉を守る、的なところもあるんでしょうが、こういう話は、やっぱり土屋文明からしか聞けないよな、という感じがします。 

 

あと、結社に関する話も面白い。「アララギ」といえば、「ザ・短歌結社」といってもいいほど、結社の代表ですが、文明本人はわりとドライな見方をしています。

 

――ここにこう書いておられます、「左千夫は文学の関係以上に人間的なつながりと生き方というようなものを大事なものとして考えていきたいという、それを人にも押し付け、あるいは、そうしてほしいと望むというところがあったが、左千夫の周囲の人たちは、文学に限っては論戦もし、競い合ってはいたが、別に実生活、処世上で共通した問題を持っていくというようなことはなく、むしろてんで関心がなかったといってもよい。ところが、その点が両者の離反を救い、つまりは『アララギ』の短歌運動の上に発展的な形をもたらしたんだ」というふうなお話をなさっておられますが……。

 

 そうかね。

 

――それは、まったく洞察的な感じのする文章だと思うんですが。たとえば短歌の結社なぞというものは人間関係が、そこによく出てくるものでしょうけれども、生活上の関係などにまで立ち入るとか……。

 

 結社なんてものは、こいつは――なんだろうね、ただ“会”だろうな。結社なんていうことばを使うのは。

 

――寄り集まり、ですか。

 

 うん。“社”なんていうことばを使うのはね、少し生意気だよ。(笑)結社なんていうのは、これは最初はいくらか信仰に起原するのかもしれないが、生活共同体のことでしょう。それがあとにはもっぱら宗教的なものになるんだね。宗教的な何々社という。それを歌詠みが、五十円か百円出し合って雑誌を出して、結社で候、なんていうのは、ちゃんちゃらおかしいよ。(笑)

 

――「アララギ」は、結社じゃなくて、短歌会で。

 

 結社じゃない。(笑)そりゃあ、結社でもいいよ。結社でもいいが、結社なら結社のようにやるがいいよ。(笑)いまの歌の雑誌を出している仲間を結社と称して、それがいいとか悪いとかいうのは問題にならない、そんなものは結社でもなんでもないよ。(p.61) 

 

「“社”なんていうことばを使うのはね、少し生意気だよ。」って(笑)。ていうか、アララギが結社じゃなかったら、なにが結社なんだ、と言いたいところですが、文明は「アララギ」をいま私たちが抱いているイメージよりも、より個人が独立したものとして見ていたのでしょう。

 

それは、次のような発言にも表れています。

 

それでだんだん歌が下手になるのは下手になるやつが悪いので、その組織が悪いんじゃないよ。それはそうでなくしたって、下手は下手だよ、いつになっても。(笑)(p.62) 

 

歌が下手になるのは、その組織が悪いんじゃなくて、個人が悪いんだ、と文明は言っています。これもずいぶん思い切った発言ですね。

 

他の箇所でインタビュアーの片山さんが「左千夫のああいう考え方は島木赤彦にきても、同じような形がみえませんでしょうか。」と聞き、それに文明が「赤彦は受け継いでいるね」と答えています。つまり、伊藤左千夫と、その死後アララギを継いだ島木赤彦は、結社は生活や人間をひっくるめた総合的な共同体、といった考え方が強かったということです。この文明のインタビューでも、「赤彦は面倒見がよかった」「教育的だった」と何度も出てきます。しかし、赤彦死後にアララギを引き継いだ土屋文明は、もっとドライで、文学的な側面に限ったものとして短歌結社を見ていたんですね。

 

文明は、茂吉や赤彦に対する尊敬は並々ならぬものがありますし、「アララギ」自体にも深い愛着を持っていますが、同時に、党派的になることをけっこう嫌ったんじゃないかなあ、とこのインタビュー読んでると思います。

 

 歌よみが弟子をどんどんならべて行くなんていうのは、ばからしい(原文傍点)ことですからね。いい人は弟子なんかになるはずはないですよ。ねえ。弟子なんかになりたがるやつはろく(原文傍点)なやつじゃないよ(笑)ほんとうに学ぶんならね、作品だけを学んだってよし、古人を学んだっていいんだから……。いま生きているやつでなくともいいんだから、古人の作品を見れば、十分学べるんだからね。ほんとうにいい人なら……。ほんとうにやる人ならね。(p.57)

 

文明の選歌もやはり独特で、「ぼくは添削はほとんどしないし、口語の歌も採る」と言っています。アララギの文明選歌欄は、集まる歌がかなりヴァリエーションに富んでいてとんがっていたのは有名ですが、こういうの読むと、文明選歌欄から近藤芳美たちが出てきて、戦後の「未来」につながっていくというシナリオは、かなり必然性があったんだなあ、と思ったりします。

 

次の引用はこの本の最後の90歳のときのインタビューですが、こんなことも言っています。 

 

われわれは、われわれの前にしていた詠み方が適当か、適当でないか知らないけれども、御歌所歌風というものには、なにも受けてないでしょ。それと同じにね、われわれの時代のものを、次の時代の人がなんにも引き継いでいかなくても、それは当然だろう。

 

――当然ですか。

 

 当然。われわれの時代の歌と、いまの若い方々の諸君の歌とは、まるで違う。それは石の層があって、その上に粘土の層があって、砂利の層があったりするでしょ。粘土層と礫層とは、関係してないよ。と、同じだ。(笑)だからね、いまの新しい人が、われわれを無視し、ついでに軽蔑して、名歌を作られるのはたいへん結構だ。その層は、われわれの層とは層が違うんだから、しかたがないよ。

 

――一概に、そうも申せないんですけどねえ。

 

 そう……まあ、そうだな。層が違うんだ。(p.291)

 

けっこう含みがあるというか、背後に諦念も張り付いていますが、言葉としては、文明は歌が時代とともに変わっていくのを良しとしています。

 

と、同時に、永井祐さんが指摘しているように、「近代の短歌を完成させてその後のあらゆる変革を呑みこみ、短歌の外側にいる人の頭に?マークを浮かばせる特有の磁場を作り上げた人、現在まで通用している短歌のOSを書いた人間、それがどうも土屋文明みたいなのだ」(「土屋文明『山下水』のこと」『率 5号』)ということもあるわけで、そう考えると、いろいろと面白いですね。

 

そして、短歌の新派と旧派の話も、興味深いです。

 

――正岡子規以前の歌が、いまの現代的な歌とすりかわってきた時期というのは、実際として、いつ頃でございましょうか。

 

 そうだね、近頃でも新聞の選歌なんかにはね、旧派の歌で稽古したおばあさんなんかが出しているよ。地方の新聞なんかじゃね、だけれども新しい学校へ行った人たちは、お嬢さんでもおかみさんでもおばあさんでも、もう旧派の歌は作らないだろうね。

 

――あの、組み合わせれば歌ができるような式のですか。

 

 うん、だから、どっかの先生がね、お弟子が詠草を持ってくると、「新派で直しましょうか、旧派で直しましょうか」(笑)と言ったという話を聞いたがね、わたしがその話を聞いたのは大正の中頃だから、その頃がすりかわりの時期かね。

 

(中略)

 

 しかし歌といえば、まったくその、いわゆる新派というのに属するんだと思うようになったのは、戦後じゃないかな。

 

――あの、宮中の詠進歌ですが、あれが改まったからというので……。

 

 そう思いますね。それで改まったか、改まったからそうなった、その前後は……原因結果は、どっちが原因でどっちが結果かということはわかりませんがね、(p.74) 

 

正岡子規が旧派和歌を批判して、短歌の世界は、だんだんと新派の歌が出てくるようになりました。しかし、かといって旧派の和歌がすぐになくなったかというと、もちろんそうではありません。文明は、旧派和歌と新派短歌の数が拮抗してきたのが、大正の中頃で、短歌といえば和歌ではなく新派、というふうに完全になったのが、戦後ではないか、と言っています。これも、ずっと体験してる人じゃないと絶対に聞けない話で、めっちゃおもしろいです。

 

戦後はもうね、「新派で直しましょうか、旧派で直しましょうか」と言う先生はないでしょうな。ぼくはそういう看板を掛けようかと思っているんだがね、ぼくは旧派だってできるよ。だから、「新派・旧派 和歌教授所」という看板をね、いよいよ食えなくなったら掛けようと思ってる。(笑)いまの連中には旧派の歌は作れないでしょう。ぼくは作ろうと思えば作れるし、「旧派で直してくれ」と言われれば、旧派で直してやるぐらいのことはできるよ。(笑)(p.75) 

 

「ぼくは旧派だってできるよ」って、お茶目か!(笑)なんかこのインタビュー、文明のジョークがちょいちょい独特の角度から入ってきて油断できないんですよ。

 

――旧派というのは、どのへんが手本になるのですか。

 

 旧派にも、もちろんいろいろ流派があるはずだが、まあ、明治になって“旧派”といっているいちばん多いのは、香川景樹くらいが手本になるんでしょうね。本式には『古今集』かなんか……ということになるんでしょうがね。実際は『古今集』までは持って行かないんじゃないかな、明治の旧派は……。

 

――子規中心の根岸短歌会は、幾分か旧派的な要素があったんでございますか。

 

 あれはね、旧派的な要素はないよ。あれは前にも書いてあるけれど、あれは集まってきた連中が悪いんだよ。(笑)旧派をやったことのある連中が集まってきたんだからね。……ぼくの説はそうだ。

 

――すると、その頃、旧派というものについて、先生はどうお考えで。

 

 つまりね、子規の「歌よみに与ふる書」というのがありますね。あの“歌よみ”というのは“旧派の歌よみ”ということだよ。一般の“歌を作る人”――歌人といった意味じゃないんだよ。その当時の旧派の歌よみを相手にして論じているんですよ。(p.75)

 

だけど、旧派のがまずいということじゃないんだ。旧派が悪いんだとか、新派がいいんだとかいうことじゃないんだよ。例の、戦後派だってそうだよ。戦後派がばか(原文傍点)で戦前派がいい子(原文傍点)だというわけじゃないんだよ。どっちにもばか(原文傍点)がおるんだよ。(笑)旧派が悪いんだということになったら、柿本人麻呂なんかいちばんまずいことになるんじゃないか。(笑)

 

――さようですね。それで、旧派と新派との違いは、どこにいちばんあるのでしょうか。

 

 そんなものはないよ。ただ、へた(原文傍点)なやつを旧派だと称していたんだ、あの頃はね。つまり、昔のままの古くさい型にはまって作っていたのを旧派だと称しただけでね、しかし、そのうちにだってやはりうまい歌はありますよ。新派にだって、ずいぶん古くさいのがあるからね。(p.76)

 

文明は、短歌は旧派・新派というくくりだけではとらえられないと言います。「あの頃は昔のままの古くさい型にはまって作っていたのを旧派だと称しただけ」と。戦前派と戦後派のどちらにも「ばか」がいる、というのもそうですが、歌人をつい党派でとらえてしまうことを戒めているように見えますね。こうした柔軟な態度が、戦後の若者たちの短歌を育てていったということは、想像に難くないです。

 

いまから見れば、落合(直文)の作品なんていうのは旧派だね。けれども、また見方によっては新派だね。その当時のほかの人のに比べれば新派だよ。

 

――比較の上では。

 

 うん。比較の問題だからね。末松謙澄なんていう人は、あれは明治十年代にイギリスのロンドンで『源氏物語』の英訳を刊行したというくらいのハイカラですがね、「日本の歌というものは『万葉集』に帰っていかなければだめだ」ということを書いている。これは西洋近代思想からそういう批評が出たんでしょう。これは先覚者ですよ。子規なんかより十年も前にそういう議論を発表している。ところが、末松謙澄の作った歌となったら、こいつは旧派も旧派、旧旧派だものなあ。(笑)むずかしいんだよ。それは、新派・旧派なんていう概念をもって片付けられないんだね。(p.80,81)

 

たしかに、末松謙澄は西洋近代思想に親しんだ人ですが、歌は旧派だった。逆に言うと、西洋近代思想のみでは、短歌の因習を打破できなかったとも言えるでしょう。新体詩の話もそうですが、明治のころは、ひとつの要素をピックアップするだけでは、誰が改革者だったかほんとに決められません。あと、このころは時代が10年経つだけでがらっと潮流が変わってますから、やっぱり末松謙澄のころはまだ機が熟しておらず、子規まで待たなくてはいけなかったのかな、なんて思います。

 

それでね、ぼくはこれはよく言うことなんだがね、文学論というのは、人間の顔と同じだと言うんだ。つまり、文学論というものは、人ごとにみんな違っていると。いろいろの文学論があっていいし、いろいろの文学があっていいと。それで、文学というものは“文学というものはこういうふうでなければいけない”“短歌というものはこうでなければいけない”というようなのは、つまらないことなんだよ(p.79,80)

 

「文学というものは、こういうふうでなければいけないというのはつまらない」なんか、こういう文明の態度が、さっき永井さんが言ってた「短歌の基本OS」を成立させているのかな、とか思いました。

 

あとは、文明の提唱した短歌の理念である「生活即短歌」につうじる、こういうところ。

 

――要するに、作って楽しむ、というだけのことなんですか。

 

 そうなんですね。ずいぶんこれはむずかしい問題ですがね。先ほど申しました“広く”というのと、“低くならないように”ということと、兼ね合ってね……。だれでも作るが、つまらないこともありますからね。まあ、たとえば、あなたのところの雑誌でも、新聞でも、歌壇に載る陰には、載らないのがどのくらいあるか……。これはだいたいつまらないもんでしょう。しかし、そういうものはどういうふうに考えたらいいか。まさかそれをどこかの大学の先生みたように「文化の敵である」とも言えないんじゃないかな。(略)

 だからまた、細かいところがある。歌の雑誌なんかでもね、無意味のようにも見えるし、あれで、何人かの人が、そこで生活のよりどころとでもいうものを持っているということになればね、あれを簡単に「あんなことはつまらない、無意味なもんだ」とも言い切れないんじゃないかね。これはむずかしい問題だよ。みんななんですからね。身体障害者や精薄者は問題外だという考えみたいになってこやしないですか、へたな歌作って喜んでるようなやつは文化の圏外だなどという考え方は。

 

――精神障害者

 

 ひとし並みで片付けてしまうのはね……。むずかしい問題だよ。だけどね、そういう点から言えば、われわれは身体障害者の一人だろうからね、運動神経不全症、知恵遅れの七十五歳翁か、(笑)ということになるでしょう。しかし、日本中の人がみんな大学教授というわけじゃないんだからね。(笑)(p.247,248)

 

身体障害者や精薄者は問題外だという考えみたいになってこやしないですか、へたな歌作って喜んでるようなやつは文化の圏外だなどという考え方は。」というのは、さすがに極論だと言えるでしょう。極論ですが、民主的な考えとも言える。以前、宮柊二の話のときにもやった「短歌の大衆化」という戦後の潮流の元には、こうした考えがあったのです。

 

そういえば、戦争中にはすごく短歌の作者が増えた、という証言も文明はしています。

 

 戦争中はね、みんな楽しみが無くなっちゃったでしょう。酒も思い通りには飲めないし、うまいものを食えないっていう世の中になってね、まあ、それじゃひとつ歌でも作ろうか(笑)という人が急にふえちまったんだね。だからその頃はね、出版界も統制出版の時代になっていてね、たくさんも刷れなかったけれども、『短歌小径』(略)も、まあ、刷るとすぐに売れるっていうくらいに売れたものですよ。戦争中にはね。(p.90)

 

戦争中は他に楽しみがなかったから、ほんとに短歌が求められたんですね。文明の短歌入門書『短歌小径』は、あの時代に爆発的に売れた。「刷るとすぐに売れる」。すごいですね。

 

文明は次のような話もしています。

 

それでね、戦争の末期から戦後にかけてね、軍人療養所のですね、療養所の人たちの間には、非常に歌を作る人たちがふえたんですね。(略)一時はずいぶん盛んなものでしたよ。それがまたどうして急に少なくなっちゃったのかと。つまり、衰えちゃったのかというとね、クイズっていうものが始まったんですよ。療養短歌ということで一時はずいぶん新聞雑誌で取り上げられたりしたのが――まあね、療養短歌っていう言い方も変だがね――その療養短歌がなぜ急に衰えたのかというとね、クイズなんだ。(p.91)

 

戦中戦後は、療養所の人たちにすごく短歌を作る人が増えた。一時期まですごく療養者の短歌は盛んだったけれど、ある時期から急に減った。その理由は、新聞や雑誌で懸賞付きのクイズが始まったからだ、と文明は言います。ほんとかよ、と言いたくなる話ですが、興味深い話です。要するに、他にエンタメができてしまうと、短歌をやる人は少なくなってしまう、とそういうことですね。

 

 

私はさっきの戦争中に短歌作者がすごく増えた話は、以前にピーナツでも触れた、漫画『月に吠えらんねえ』の「戦争中に初めて詩が社会的に求められた」という戦争詩の話なんかを思い出したりしました。

 

また、文明はこの後に、「あとにわずかずつでもほんとに歌の好きな、歌を作る人が残ればいいんですよ。わずかでもね」とも言っています。なかなか難しい問題ですので、特に結論はありませんが、記憶に残る話だと思います。

 

一方、文明はこんなことも言っています。

 

短歌のように一定の形のある文学は雑音を除くことが容易なんですね。都合がいいんですね。たとえばね、きわめて幼稚なんだが、散文で書けばだらだらしちゃってとりとめもないようになるものでもね、形式の恩恵とでもいうんでしょうかね、定型詩になるとある程度そういう混ざりものを取り除けて、純粋な部分だけに早く到着することができるという便利がある。こういうことを、わたしはね、定型文学を考えるときには忘れちゃいけないんじゃないかと思うんですね。素人の書いた小説なんてもんは、とても読めたもんじゃないでしょう。しかしね、素人の作った歌は全部が全部だめっていうわけじゃないからね。これは形式の徳ですよ。(笑)(p.86,87)

 

これも、当たり前といえば当たり前ですが、大事なことを言っています。「純粋な部分にだけ早く到着できる」。

 

 そんなこんなで、(ちょっと引用は別のところを引いたりもしましたが)わりと大事で面白かった旧派・新派の話ですが、こんなオチがついています。

 

――先生、「土屋文明座談」という題字でございますが、これに先生のご筆蹟をいただくわけにはまいりませんか。

 

 字はへた(原文傍点)でね。あれでいいよ。あれはたいへんいい。

 

――活字で、殺風景で。

 

 活字がいいよ。ぼくは活字派だ。ぼくはよくそう言うんだけれども、ぼくの歌なんか活字で読んでもらうに限る。短冊に書けなんて言われたら、ぼくのうまい歌が価値が下がってしまう。字が下手だからね。あんな字なんかないほうが、どれだけいいかしれないよ。筆蹟をなんていうと編集者としてのセンスを疑うよ。筆蹟を入れるなんて旧派だよ。(p.82)

 

「ぼくの歌なんか活字で読んでもらうに限る。」「短冊に書けなんて言われたら、ぼくのうまい歌が価値が下がってしまう。 」「筆蹟を入れるなんて旧派だよ。」って、あんたさっき旧派・新派なんてないとかさんざん言ってたやないですか、となりますが、これも編集者をからかう文明ジョークですね。お茶目だなあ。

 

文明は肉筆を嫌がった、ということですが、そういえば、文明は歌碑もいやだったみたいです。 

 

――先生の歌碑というのはあるんですか。

 

 ないよ。

 

――ああいうものはご本人の承諾がいるものなんでしょうか。

 

 ぼくはそう解釈しているんですがね。著作権が及ぶと思っているんだがね。だから、もし建てる者があればね、いまはなんて言うんだい、執行吏かな、昔は執達吏と言ったな、執行吏を差し向けて、取り壊すことできると、わたしは解釈しているんだがね。法律家に聞いたわけじゃないけどね。

 

――では、先生はいまのところ、一つもお建てになっていないんですか。

 

 そう。建てれば壊すと――。壊す権利を持っている。(笑)これはたぶんぼくの解釈でいいだろうと思うがね。とにかく、いまの世の中で、ばかばかしいものの一つは歌碑だろうねえ。(p.132,133)

 

えーと、つまり「おれの歌碑をつくる奴がいたら、ぶっ壊しに行ってやる」って言ってるわけで、それはすごいな。しかし、いまではもちろん、全国に土屋文明歌碑は、ばっちり数多くあります。嗚呼。泣いてるでしょうね、文明さん。

 

私がメインで興味深かったのは、こんなところです。あとは、面白かったところをいくつか拾っていきましょうか。

 

――先生が東京へお出になられた頃の「明星」の動きでございますね、あの「明星」が終わり方になって、白秋や啄木や、あるいは勇ですとか、ああいう歌人たちの動きを、あの頃どのように見ておられたのですか。

 

 その頃は、わたしはまだ意識しませんでしたからね、ほとんど直接には皆さん、交際はないし、ほとんど意識しませんでしたね。(p.30) 

 

――あの頃の『桐の花』とか、ああいう歌集はお読みになりましたか。

 

 ほとんど読まなかったですね。 (p.32)

 

これはけっこう意外でした。茂吉が白秋を意識していたのは有名ですが、文明の方は、あんまり「明星」の歌人たちを気にしていなかった。まあ、これをそのまま受け取るのはナイーブですが、でも、ほんとにそうだったんでしょう。

 

――今の藤岡高校というのは、分校ですか。

 

 あれは富岡の分校だった。初めは高崎なんかも、前橋中学の分校で発足したんだよ。それから独立したんだから。藤岡なんかも、初めはどうだったかな、日露戦争のあと県の経費節約のため、今まで本校だったのを、分校にしたんだよ。そして四年生と五年生は、本校へ通わせたね。大手拓次というのはぼくが二年生の時安中分校から来た五年生だが、遺稿出版会の時までちっとも知らなかった。(p.148)

 

白秋の話が出たので、白秋三羽烏のひとり、詩人の大手拓次の話も。文明と大手拓次は同じ群馬出身ですが、なんと、同じ中学だったみたいです。全然知らなかった。と言っても、文明がそのことを知ったのは、大手拓次の死後のようですが。メモ的に書いておきたいなと思いました。

 

でも、一見関係なさそうな著名な文学者が同じ学校で同じ空気を吸ってたの、ちょっと燃えませんか。浜田到と黒田三郎とか(この二人は面識あるけど)。

 

啄木の話も出ましたね。次の引用は文明の啄木評。

 

だから、常識はずれのやつが、やはりあとになってみれば、天才と言われるやつになるんだからね。「気狂いと天才は……」ということを言うけれども、「常識はずれと天才......」ということになるんでしょう。

 

――啄木なんかも常識はずれのほうだったので。

 

 いや、あれは常識家だよ。きわめて常識家だ。(p.63) 

 

これもなかなか面白いんじゃないですかね。啄木が常識家というのは、なるほどなー、と言わせる説得力があります。

 

次は、文明の茂吉評。

 

とりわけ斎藤茂吉なんていう、日本の歌はじまって以来と思われるうまい歌を作るのがいるんだから、自分にだって少しはおもしろい歌が作れないはずはない。(p.24) 

 

斎藤さんにね、「あなたが歌を作るときにどういうふうにして作りますか」と言ったら、「畳の上へ頭を抱えてうずくまって作る」って、そう言いましてね……。これなんかもわたしには非常にいいお話でしたね。(p.238)

 

茂吉の話は、この本のなかでもっとたくさんしているのですが、私にはこの二つが心に残りました。「あんなにうまい歌を作る人が身近にいるのだから、自分にも少しはできないはずはない」というのは、すごいリスペクトですよね。また、茂吉が短歌を作る時「畳の上へ頭を抱えてうずくまって作る」というのも、なにか感じ入るところがあります。

 

――先生、岩波茂雄さんとは長くおつき合いされたんですか。

 

 つき合いというんじゃないけどね、あれは赤彦と同郷でしょう。それから、茂吉は中学校から高等学校までほとんど同期でしょう。科は違うけれども。だからね、「アララギ」の面倒をとてもよくみてくれたんですよ。赤彦の時代はもちろん、赤彦が亡くなった後もよく面倒みてくれました。(p.216)

 

ここもメモ的に記しておきたい部分。ずっと前に永井祐さんと、なんで岩波文庫は句集はほとんどないのに歌集はすごく多いんだと話題になったことがあったんですが、なるほど、創業者と赤彦や茂吉が仲良かったんですね。絶対関係者がいると思ってました。

 

なにしろ、斎藤茂吉歌集も左千夫歌集も長塚節歌集も与謝野晶子歌集も土屋文明歌集も赤彦歌集も啄木歌集も子規歌集も北原白秋歌集も窪田空穂歌集も若山牧水歌集も釈迢空歌集も吉井勇歌集もあるし、それどころか、山川登美子歌集も古泉千樫歌集も中村憲吉歌集まであるんですよ。

 

俳句が、子規句集と虚子五句集と碧梧桐句集と尾崎放哉句集と、せいぜい加藤楸邨句集なのと、えらい違いです。

 

まあ、知ってる人は知ってることなのでしょうが、長年の謎が解けました。

 

とまあ、だんだん散漫になってきたところで終わりにしたいと思います。面白いところのたくさんあるインタビューでした。気が向かれましたら読んでみてください。それでは。