短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第39回 吉井勇『東京・京都・大阪』

芸と酔態と 土岐友浩

東京・京都・大阪 (平凡社ライブラリー)

東京・京都・大阪 (平凡社ライブラリー)

 

 

まぼろしは見るものではなく、見せるものだ。
短歌こそ、イリュージョンなのだ。

 

 *

 

吉井勇に「黒足袋」というごく短い随筆がある。京都に居を移してからも、落語家の履くような黒い足袋に勇は愛着を抱いているのだが、白い足袋を履くことが多い京都人からは野暮に見られてしまう、という。

結局黒足袋の持つてゐる庶民的な市井趣味が、私自身の好みや柄に合つてゐるのであつて、白足袋から感じられる貴族的な茶人趣味からは、かなり縁遠い存在らしい。 吉井勇「黒足袋」)

 

勇は「祇園歌人」とも呼ばれたが、どちらかと言えば市井の人だったことを、この黒足袋というアイテムが端的に伝えてくれる。

 

吉井勇は「市井」をこよなく愛した。

今回取り上げる『東京・京都・大阪』の前書きによれば、勇は「中学の三年頃から寄席や芝居通いをはじめ、(中略)樽に腰懸けてのんで一升、市井に於ける酒の味を解した。」そうだ。

 

『東京・京都・大阪』は現在書店で手に入れることができる、おそらく唯一の吉井勇の散文集である。

刊行は1954年。勇は68歳で、その6年後に病没している。

三都を舞台として、ありし日の交遊をつれづれと書き綴った、勇自身の言葉を借りれば「市井読本」という趣の一冊だ。森鷗外や近松秋江谷崎潤一郎といった同時代の文学者だけではなく、俳人や詩人、画家、舞台役者など本当にたくさんの人が登場する。僕が知らないだけかもしれないが、今ではほとんど顧みられない人も多いのだろう。

特に僕が好きなのは、勇が落語家について書いた文章だ。三代目蝶花楼馬楽や初代柳屋小せんなど、その噺を聞いたことはもちろんないはずなのに、彼らの声が聞こえてくるような気がする。

 

吉井勇というと「祇園歌人」のイメージが強いから、なんとなく京都人と思われているかもしれないが、生まれ育ちは東京山の手である。

短歌を本格的に始めたのは、中学校卒業後、鎌倉で肋膜炎の療養生活をしていたときだ。「明星」に心酔して与謝野鉄幹に師事し、新詩社の例会で、高村光太郎、木下杢太郎(もくたろう)北原白秋石川啄木らと知り合った。

歌人としての経歴では「明星」や「スバル」が重要だが、勇らしいという意味では、新詩社の有志と立ち上げた「パンの会」を外すわけにはいかないだろう。

「パンの会」とは、以下の引用に詳しく書かれているように、ヨーロッパのサロンにならって若い芸術家が集まり、語らった、言ってしまえば飲み会のことである。

 さて話を再び「柳橋界隈」に戻すことにするが、「第一やまと」と云ったところで、その当時の人達にさえ分らないような家だから、現今の人達には猶更分らないであろう。そこは両国橋の近く、広小路と称するところにあった牛鍋屋であつて、西洋館まがいの三階建の建物の窓からは、大川の流れが見渡され、飛んでいる鷗の影も、はつきり視野に入つて来た。

 そこで第一回の会合を開いた「パンの会」は、伯林に於て詩人美術家の一団が、新しい運動をしたものと同じ名前のものであつて、「パン」というのは希臘神話の中にある牧羊神のことで、ヘルメスとニュンフェの間に出来た子だと称せられ、顔は山羊に似て額に角があり、鉤鼻で髯が長く、山羊の足を持った半獣神だといわれている。

 これに因んで「パンの会」と名付けたのは、この神が現われると、突然の恐怖が現れると云い伝えられているためであつて、当時みんなは自由主義に目覚めた革命児であり、その力に依つて何が起るか分らないといったような意味も含まれていたのだろうと思う。いずれにしても、そこに集まった人達は、封建制を打破し、新しい異国情調的な文学を打ち建てようと念願したものばかりであつて、多少急進的な傾向のあったことは否まれない。 (「第一やまと」)

 

「パンの会」開催中は、店の入口に目印として、牧羊神の絵を描いた大きな提灯が下げられていた。だから、というわけでもないが、宴の最中に刑事がやってきて、社会主義者の会か何かと疑われたこともあったそうだ。

吉井勇というと「祇園歌人」以外に「ロマン」「デカダン」、そんなフレーズがついてくるけれど、それはこのあたりの雰囲気から来ているのだろう。

   両国の橋のたもとの三階の窓より牧羊神(ぱん)の躍り出づる日

 これはその「第一やまと」で開催された、明治四十一年十二月十二日の第一回「パンの会」の時の幻想をうたつた私の歌であるが、最初の会合の時に集つたのは、文学者としては木下杢太郎、北原白秋と私、美術家としては石井柏亭(はくてい)山本鼎(かなえ)森田恒友、それに木版彫刻の伊上(いがみ)凡骨(ぼんこつ)、写真製版の田中松太郎、そのほか異色あるものとしては、凡骨の弟子である独逸人のフリッツ・ルムプであつて、その時は別に文学や美術を談ずるというのでもなく、唯酒を飲んで気勢を揚げ、凡骨は得意の都々逸をうたい、ルムプは独逸語で伯林の駅の物売りの真似などをした。 (同)

 

勇の第一歌集『酒ほがひ』は、装丁が高村光太郎、口絵は木下杢太郎で、その木版を伊上凡骨が制作している。「酒ほがひ」とは「酒で祝う、寿ぐ」の意味で、この歌集は文字通り「パンの会」によってつくられ、「パンの会」を称えたものだった。

 

伊上凡骨というのは特に強烈な人物だったようで、本書でもいろいろと書かれているけれど、酔って歌い出すということなら、歌人も負けてはいなかった。

明治の終わりから大正にかけて、斎藤茂吉、島木赤彦、古泉千樫、北原白秋若山牧水太田水穂、中村憲吉など歌壇の第一人者たちが定期的に集まる、その名も「歌人会」というそのまますぎるネーミングの会があった。

勇は会の様子を、こう振り返っている。

 ここに集つた歌人達の中で酒を飲むのは、白秋、牧水、憲吉、千樫などで、みんなまだ三十代の血気盛んの時分だつたから、その飲み振りも凄まじかつた。その酔態もそれぞれに個性があつて、牧水が落ち着いて目をつぶり、澄み通つた美音で短歌朗詠をやると、白秋はトンカジョンらしい無邪気な顔付で、「空に真つ赤な雲のいろ、前に真つ赤な酒のいろ」と、自作の詩をうたい出すといつたような有様。酔うと憲吉は、よく舌をぺろぺろ出したが、これは茂吉にも共通した癖であつて、アララギぶりの酔態だつたのであろう。酒癖のあまりよくなかつたのは千樫で、酔つて来るとだんだん顔が青ざめて来て、何かにつけてからんで来るようなことがあつた。 (「歌人会」)

 

以前のピーナツでも酔うと短歌朗詠を始める牧水の話が出てきたが、白秋も似たようなタイプだったようだ。

引き合いに出すことに特に他意はないけれど、このあたりのカオスな感じは、『短歌という爆弾』に書かれていた「かばん」の青空朗読コンサートにも少し通じるものがあると思う。

 酔うと舌を出すのを、アララギぶりの酔態と云つたが、私がそれをはつきり感じたのは、大正九年五月頃、長崎に往つて斎藤茂吉君と会つた時で、その時私は銅座町の永見夏汀君の家に十日近くも滞在していて、そのあたりの社寺や旧蹟などを見て歩いた。その時分茂吉君は、病中であつたにも拘らず、大抵毎日私と行いを共にしてくれたが、茂吉君の歌集に名前の出て来る武藤長蔵君も、時々やつて来ては一緒にそこらを歩き廻つてくれた。武藤氏は書痴と云つてもいい位書物好きで、いつも四五冊の本を大事そうに小脇にかかえていて、何かというと直ぐに書誌学的な話になつた。その間に茂吉君とは丸山の花月南京町四海楼などで酒を飲んだが、酔うと舌を出すことだけは、七八年前「歌人会」で会つた時と少しも変つていなかつた。花月に往つた時も、「ここには時々学生がやつて来るので、廊下でぶつかりして困るようなことがあるんだよ」と云つて笑つたが、直ぐにその後ではアララギぶりを忘れずに舌を出した。

 私にはこの長崎行の際にうたつたこんな歌がある。

  長崎の茂吉はうれし酒飲みてしばしば舌を吐きにけるかも

歌人会」に出席した人達も、もう大方はこの世を去つてしまい、水穂君のほかは私ぐらいのものになつてしまつた。 (同)

 

茂吉と勇は、意外と通じ合うものがあったようだ。

アララギというと、ちょうど前回永井さんが取り上げていたように、当時から議論好きの「ヤバそうな」集団だったのかもしれないが、あたかも勇の眼には、そんなことは関係なく、舌をぺろぺろ出すばかりの愉快な飲み友達と映っていたかのように思えて、おかしい。

 

「写生」といい、「私性」という。

だが、自然詠であれ境涯詠であれ、少なくとも読者にとって、歌の向こうに見えているものは、すべてまぼろしのはずではないか。


 春の夜の祇園の街の灯を見てはわかうどの胸躍らざらめや  吉井勇

 ああ銀座こころ浮かれて歩みしもいつか昨日となりにけるかな

 

短歌の話をするつもりが、お酒の話ばかりになってしまったけれど、吉井勇の生涯と酒とは、やはり切り離すことはできない。

そもそも、勇にとって酒とは何だったのだろうか。

 

勇は、人生のよろこびを謳歌するために飲んだ。

あるいは勇は、人生のかなしみから逃避するために飲んだ。

 

どちらの見方も、まったく正しい。勇自身、実際にそのような歌をたくさん詠んでいる。

そこにひとつだけ付け加えるとすれば、勇にとってお酒を飲むというのは、どこまでも能動的で、制作的な意思に貫かれた行為だったということだ。

逆説的なようだが、だからこそ勇は、酒で身をほろぼすというような生き方とは無縁だった。

 

塚本邦雄はかつて「短歌といふ定型短詩に、幻を視る以外の何の使命があらう」と述べたが、塚本が見ていたのはまぼろしではなく、現実のネガ・フィルムだったという気がしてならない。

かの日の両国橋に牧羊神が降り立ったように、前衛短歌とは違う方法でまぼろしを現出させようとした歌人として吉井勇を考えたいと、僕は思っている。


  *

 

今回が今年最後の更新です。

4月に始まった「短歌のピーナツ」、みなさまからの応援に支えられながら、なんとか週1回ペースの更新を欠かさずに続けることができました。

僕が代表というわけでもなんでもありませんが、年末の挨拶に代えつつ、この場をお借りして、読んでくださった方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

来年がみなさまにとってよい年でありますよう、お祈りします。