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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第38回 篠弘『近代短歌論争史 明治大正編』

永井祐

こんにちは。

今日やるのは、

『近代短歌論争史 明治大正編』(篠弘)です。

 

近代短歌論争史〈明治大正編〉 (1976年)

近代短歌論争史〈明治大正編〉 (1976年)

 

 

この本はまあ、、

ちょっと専門書っぽい本なんですけれど、

一種のデータベースみたいにして使えるというか、

はじめから終わりまで通読するのではなくて、気になる項目のところだけ読む

という使い方をわたしはしてます。

ほんとうに平たく言うと、まとめサイトみたいなものです。

篠弘さんという生ける伝説のまとめ職人による、まとめ集です。

 

「論争史」という形をとってますが、それはなんというか、

文学史の1ジャンルとして今回は論争史をやってみた、ということではなくて、

近代短歌史を記述するうえで、もっとも適した形として「論争史」というスタイルを

選んでいる。少なくともそういうニュアンスを感じます。

これはけっこう、短歌というジャンルのローカルな事情によるのかもしれませんが、

歌人たちは常にディスカッションし続けていて、その文脈の中から歌論とかも出て

くるので、そのディスカッションの経緯を押さえてないと、そのテキストの意味が

わかりづらかったりするんですよね。

 

現在の短歌でも論争っぽいことが持ち上がったりしますが、それは昔からずっとやってるんですね。

その明治大正版のまとめ集がこの本です。

 

それで僕の場合は、

この本を読んでぐっとよくわかったのが「アララギ」についてですね。

アララギについては、ぐぐってもらうといいと思うんですけど、

近代以降の短歌史の最重要グループの一つで、当然のように現在までその影響は

残っています。

このピーナツでも話題としてはよく出てきますよね。

でも、その源流である正岡子規の歌論を読んでも、

代表作家である斎藤茂吉の短歌を読んでも、

それぞれはそれぞれに面白いんですけど、「アララギってなに?」っていうのは意外とわからないんですよ。

具体的に言うと、子規の歌論から茂吉の実作までに非常に大きなジャンプがあるんです。

この本はその間を埋める時代、明治四十年代からはじまります。

正岡子規は死んでいて、伊藤左千夫がトップで、斎藤茂吉や島木赤彦などの後のビッグネームが二十代から三十代前半、その先輩格で長塚節がいる、みたいな布陣。

この本の

若山牧水と伊藤左千夫の『別離』論争」

「伊藤左千夫と斎藤茂吉・島木赤彦の内部論争」

長塚節斎藤茂吉・古泉千樫の乱調論議」

などは、

この時代、伊藤左千夫時代の初期アララギのドキュメンタリーみたいに読めます。

この時代のアララギってすっごくかっこいいんですよ。

少数精鋭のとんがった同人誌、理論派で研究派で、そして超武闘派。

みなから恐れられている。

ふだんからつるんでるのに飲み会でも固まって座り、近づきがたいオーラを放っている、みたいな。(イメージです)

後に大きくなるグループって、ジャンルを問わず初期はだいたいこういう感じだと思うのですが、この本を読んでいると若くて才能ある人たちがつるみながらぐつぐつと文体を作っていくありさまが、生き生きと、それこそそれぞれの歌論を読んでいるよりも体感できるような気がします。僕の場合はなんかそうでした。

 

では、具体的に引用しながら進めるのがこのブログの特徴みたいになっているので、やっていきましょう。

仕事が繁忙期でちょっと忙しい感があるのですが、昨日はなんだかんだ「逃げ恥」の最終回もフリースタイルダンジョンもみたし、時間はあるはずです。

はじめの「若山牧水と伊藤左千夫の『別離』論争」だけちょっとやってみましょう。

 

 

若山牧水の第三歌集『別離』は明治43年に出ました。

自費出版だった第一、第二歌集に新作133首を加えて編集された上下二巻組で、初期の代表歌が全部入ってる、メジャーデビューにして牧水決定版となる歌集でした。

そしてこれはたいそううけた。

短歌界を席巻してしまったので、このころは牧水夕暮時代と呼ばれたりするそうです。

学生たちは風呂屋の帰り道で牧水の歌を口ずさみ、お酒を飲んでは朗詠しました。

 

そして、そこにかみついた人たちがいました。アララギです。

しかもそのかみつき方がほかと一線を画していた。

それまでの牧水に対する批判は、たとえばこんな感じでした。

 

で、若山君の芸術は、どうかすると余りに至酵に過ぐるの傾があつた。どうにかすると殊更に醜を避けんとする癖があつた。自分は思ふ。も少し突破した態度でも少し醜い方面をも歌つて欲しい。歌ふべき対照をも少しく選択し過ぎはしまいかと思はれる、が、それは余りに豊満な要素かもしれぬ。(前田夕暮「『別離』を読む」)

 

こんな感じの、歌集全体に対するふわっとした不満の表明はあったそうです。

しかし、アララギは自分たちの誌上を使い、『別離』から六首だけを取り上げ、主要同人たちでそれを一首一首精査する、合評の形式を取ったのでした。

そこであがったのはこんな歌です。

 

風凪ぎぬ松と落葉の木の叢のなかなるわが家いざ君よ寝む  若山牧水

 

初句と四句で二回切れてる歌ですよね。

風が凪いだ。木々のなかにあるわたしたちの家。さあ寝よう。

ということですよね。

 

伊藤左千夫はこの歌にはなから否定的でした。

これは、万葉集の東歌、

 

麻苧(あさを)らを 麻笥(をけ)に多(ふすさ)に 績(う)まずとも 明日着せさめや いざせ小床(をどこ)に

 

を思わせることを指摘した上で、

「言語配布が散漫」であり、「情緒が一貫していない」としています。

わかるようなわからんようなですけど、たぶん、牧水の歌の大ざっぱさみたいなことが言いたいのだと思います。

思ひつきは新しくとも、活きた情緒の動きが三十一文字の全語に行渡つて居ねば生命のある歌でない。

 

左千夫は具体的に、「落葉の木の叢のなかなる」が弛緩した表現であると言っています。

これはわたしでもちょっとわかる気がします。リズムのノリだけで乗り切ってる感が

あるというか。「叢」はこの場合は「むら」と読むのでしょう。「木叢(こむら)」で木が茂っているところ、という意味になります。

 

斎藤茂吉はこの歌に対して「発想が『拵物』である」として、

 

元来<いざ君よ寝む>といふ如き心持に起り来る第一位の動きは松だの落葉だのといふ下らぬ事であらうか内省して見るがよい。

 

と言っています。

言いぶりが激しいですが、どういう意味かというと、「いざ君よ寝む」というのは、「Let`s make love」ということですから、その心理的な段取りとして「松だの落葉だの」はおかしいでしょ、と言っています。俺は認めない的な。

これはたいへん茂吉っぽい批判だと思います。ちょっと難癖でもあると思うんですが、歌会などやると、こういう率直な人がいるほうが面白いですね。

 

島木赤彦は、この歌は「不自然な構成」であるとし、

 

<松と落葉の木の叢のなかなる吾が家>は外から我家を見た所でなくてはならぬ。所が第五句に突然<いざ君よ寝む>となると何だか家の内の事に思はれる。<いざ入りて寝ん>などあれば外部から見た感じとは合つてゐる。或は二三四句は矢張家の内に居て自分の家を斯く意識してゐるかも知れぬが夫れでは<松と落葉の木の叢の中なる>といふ詞は説明的になつてしまふ。一体<いざ君よ>など相対的に云つて居乍ら相対的な情が全体に沁み出て居らぬから結局相対的に<君よ>など云つてる功が無くなつて無駄な詞になつてしまふ。

 

と言っています。

これは視点の固定ができてない、という話ですね。どの位置から見てるのかわからんし、最後の「いざ君よ」は唐突過ぎて浮いている、と。

 

アララギの人たちはこういう風に一首一首について細かい批判を、17ページにわたってわーっと加えていきました。

牧水はかなりびびったみたいです。

自作について、

「いかにも句と句とがばらばらになつて、そして大きな点をぼつぼつと落して一貫して調和を保つという様なことにもならずに、極めて貧弱な細い線で斯の大きな題材を描き上げやうとした様な拙劣な矛盾を平気でやつて居る、今思えば誠に汗顔の至りである」

 

とまで言っています。

牧水は「議論下手」を自認するお人好しキャラだったそうで、それがよく出ているコメントでもありますが。

それでも牧水は精細な批評を受けてすごく喜んでいたそうです。これはたぶん今にも通じる実作者の心理で、細かく読まれるのって、それ自体がけっこううれしいことなのだろうと思います。

 

アララギの『別離』批評特集はかなりのインパクトがあったみたいです。

篠さんは書いています。

なるほど、『アララギ』のようなスタイルの『別離』批評は見あたらない。空穂・柴舟・夕暮・緑葉らのいずれも、作品内容面のいわば情趣についての検討であり、分析的、科学的ではなかった。

 

当時の文芸誌などでも

短歌研究欄で、根岸短歌会同人(アララギのこと)が若山牧水の短歌を研究的に合評してゐる。内容についても、外形についても忠実な分析を加えてあるので、それぞれ面白く読まれた。併し、ただ一つ此の派の人々は、細かくこれを解剖しての研究のみに走つて、却つて一首全体から来る情緒を閑却してはゐなからうかと思はれる点がある。牧水の歌には確に技巧上の欠点はあるが、それを補つてなほ余りある情緒の横溢してゐるのも事実である。其処を見ないのは嘘だと思ふ。(『文章世界』「雑誌合評」)

 

こんな批判まで出てきました。

先に見たアララギの批評スタイルは、今ではがっつり短歌やってる人と歌会などやれば、似たような評言は出てくるようなものかもしれません。

でも、当時にあっては、

アララギはヤバい。

なんか研究してるらしい。

なんか理論的らしい。

なんか哲学があるらしい。

短歌って、ふんわりしたノリで書いちゃいけないのかも・・・

みたいなビビりを人々に与えてたみたいなんですよね。

篠さんのこの本を読んでいると、もちろんこんな言葉ではないですが、そういう空気をなんとなく感じます。

この「歌の言葉の一語一語を問題にする分析的な短歌観」みたいなものって、アララギってなに? というときにけっこう本質的なところであるように、この本を読んでわたしは思えたのでした。

 

一方、アララギの若手層にはむしろ牧水の歌がよい刺激になったのでは、という見方も篠さんはしています。

こののち、伊藤左千夫と茂吉・赤彦が反目し合うようになる顛末が

六章「伊藤左千夫と斎藤茂吉・島木赤彦の内部論争」

論争まとめは全部で三十五本も入っています。

篠さんはこの本で、一つの物語を語ろうとしていないように思います。そのぶんこちら側からいかようにも読み込める。そして資料の引用は山盛り。それがこの本の魅力です。