第58回 小関茂研究会『歌人小関茂-作品とその世界』
宇宙と石の歌人、小関茂 堂園昌彦
こんにちは。
お久しぶりです。短歌のピーナツです。堂園です。いつぶりかなと思ったら、なんと8年ぶり。8年間、実はずっと更新しようと思ってたんですが、なんだかんだで忙しく、全然できませんでした。すみません。今回はちょっと書きたいことがあって、なんとなく再開してみました。
昨年、ふたり出版社の点滅社さんからこんな本がでました。
歌集『宇宙時刻』。この歌集は、昭和時代に活動した自由律の歌人、小関茂の生前に出た2冊の歌集をまとめて1冊として復刻したものです。
小関茂、みなさんご存じですか。1908年(明治41年)生まれ、1972年(昭和47年)没。前田夕暮の結社「詩歌」で活躍し、戦後は香川進の創った結社「地中海」の中心人物として活動。亡くなるまで編集長を勤めました。
こんな歌を作っています。
こんなことが、こんなことが、生きていることだったんだ。こんなことが
ヨーヨーをやってみた。誰も満足に出来ないのでみんなそれで満足した
あかりを消せばトマトひとつ月のひかりのなかにしんと浮かびあがる
空の青い日には、偉くなって下さいねと言われた日のことを思い出す
脳味噌の中のきいろい地図、今日もそれをみつめる眼をして蠅をみている
電車に乗ると、眼だけ生きているようなくるしい息づかいになる
空に映るものならば、幾つもの歯型が俺の背中にはあるのだろう
出会いがしらにみた眼の中の、実にそれは奇妙な、知らない人のこころ
やっぱり俺のほしいものはしゃべり尽くせないあの狂気のような論理なんだ
足のやつめ歩くたびにこれはおれの記憶にない雨靴だという
石をつかみおのれの中へ投げ入れてその音をきく午後の陽の中
七分咲きの桜の下から見上げると花も月も半透明になってしまう
宇宙旅行に出るとき僕はてのひらを地球の方に見せるだろうな
来てみればうらうらとして明るいが蠅一つ住まぬ垂直の世界
父と母の骨壺を並べて置くというそれはただ人間の歩く世界のこと
虫ピンが指を刺すとき六才の日本海の色がふいに浮かんだ
お前の好きな21世紀とやらが地獄にもあってくれるといいな
小関茂『歌集 宇宙時刻』より
先ほども言ったように、歌は自由律で、口語ですね。現在では口語は珍しくなくなってしまいましたが、近現代短歌の歴史の中ではマイノリティでした。なんでしょうね、人類と自分に対するシニカルな見方が特徴ですが、どこか不思議なユーモアがあるというか。メタ的な視線が強く、気難しそうなところもありますが、同時に「へへへ」と笑いそうな親しみやすさもある。昭和初期~40年代に作られた歌たちですが、古びた感じがまったくしません。
小関茂の歌、もしかしたらネットでみたことのある方もいらっしゃるかもしれません。Twitterでは「小関茂bot」というアカウントがあり、そこが一時期小関茂の短歌をつぶやいていました(現在は停止中)。点滅社の方も「小関茂の歌を知ったのはインターネットだった」とおっしゃっていましたから、こちらのbotで読んだのかもしれません。正直、こうしたbotの存在は著作権的にはグレーというかアウトなのですが、あまり知名度の高くない歌人の作品を広めるのに一定の効果があるのは確かなようです。
ただ一方で、小関茂がどういった人で、どういう人生を辿ってきたかはあまり知られていません。一言でいうならば、前田夕暮系列の自由律口語歌人、となるのですが、これだけでは何も説明したことにならない。そりゃ復刻した歌集の帯に「謎多き口語自由律の歌人」とか書かれてしまいます。しかも、今回復刻された『歌集 宇宙時刻』には、簡単な年譜はついているものの小関茂がどのように短歌を作ってきたかの評伝は掲載されていませんでした。
そこで、今回取り上げる本です。小関茂研究会『歌人小関茂ー作品とその世界』。この本は、小関が昭和47年に亡くなったのちに、結社『地中海』を中心とした仲間たちが小関茂についての文章を取りまとめたものとなります。
こちらを読めば、小関茂についてだいたいわかりますので、今回紹介していきたいと思います。小関茂、おもしろいからさ。
*
はい。まずは小関茂の生まれから。小関茂は、明治41年2月12日、北海道旭川に生まれました。
北海道出身の歌人といえば、小田観螢、時田則雄、中城ふみ子、菱川善夫、穂村弘、松木秀、雪舟えま、山田航、北山あさひ……とたくさんいるのですが、小関さんもこれら北海道歌人の系譜に連なる歌人です。
ところが、小関茂の生まれはだいぶハードです。旭川の山奥にある炭焼き小屋で、まるでひと目を逃れるようにひっそりと生まれました。小関さんは戸籍上は4月25日の生まれなのですが、実際には2月の生まれで、生まれてしばらく出生届が届けられていなかったため、こうしたズレが発生したみたいです。こうした実際の生年月日と戸籍のズレはこの時代にはわりかしみられることですが、小関さんの一家が社会と離れて苦労しながら生きていたことが、なんとなく察せられます。
もともと、小関茂のお祖父さんは仙台伊達藩の武士で、北海道へ開拓へ出た一群のひとりでした。伊達藩は1868年(明治元年)の戊辰戦争に敗北し、領地が没収されて、大勢いた家臣団を維持できなくなるんですね。で、小関茂の祖父が仕えていた伊達藩重臣の片倉家も家が維持できなくなり、苦肉の策として集団で北海道で開拓生活をすることになったようです。
そういえば、落合直文も同じく伊達藩の重臣・鮎貝盛房の次男で、家が没落して神主の家に養子になっていましたね。この頃はこうした話がわりとあったのです。
で、片倉邦憲とその家臣団は札幌市周辺「札幌市白石区・札幌市手稲区」と「登別市幌別」(室蘭市北東隣)のところに移住して、開拓を行いました。厳しい自然の中で原生林を切り開き、なんとか町を作っていきます。
ちょっと余談なんですが、この小関茂のお祖父さん、どうやらタレントの大泉洋さんの先祖と一緒に開拓をしていたみたいです。
いきなり「水曜どうでしょう」のひとが出てきてびっくりしたかもしれませんが、私も昨年末のNHK「ファミリーヒストリー」を観ていてびっくりしました。「ファミリーヒストリー」は有名人の先祖の経歴を調査して報告するドキュメンタリー番組なんですが、その回は大泉洋さんの回で、「大泉さんの父方の高祖父は仙台伊達藩、片倉家の家臣で~~」と始まって驚きました。
どうやら、同じく片倉家家臣ということで、小関茂の祖父とほぼ同じ境遇だったみたいです。まあ、同僚ですよね。同じように北海道へ開拓に出て、同じ場所で開拓を頑張っていた。番組中で映った開拓団の名簿のなかで大泉さんの先祖の名前の横に、小関姓の方もいたので、もしかしたらそれが小関茂の祖父だったのかもしれません。
しかし、大泉洋と小関茂につながりがあるとは……。あの番組観ていてそんなところに反応したのは、たぶん日本中で私だけだったと思います。小関さんの先祖と大泉さんの先祖、仲良かったのかなあ。そうでもなかったのかなあ。仲良かったらちょっと嬉しいなと思いました。
閑話休題。そんな感じで小関茂の祖父の一家も開拓団の一員として北海道で生活しようと頑張っていた。かなり苦しい生活だったのは想像に難くありません。そんな中、一緒に開拓生活を送っていた小関茂の祖父の娘さん、つまり小関茂の母がある男と結婚します。そして、小関茂が生まれたのです。
ただ、小関茂のお母さんは結婚後にこの男とすぐに別れてしまい、ひとりで小関茂を生んでいます。小関茂の書いた自伝小説『大雪山』の中で、主人公は祖父の三男として入籍されたと書いてあり、あくまで小説とはいえかなり実際の人生を反映しているこの小説を信じるなら、まあ、かなりハードな出自です。
自伝小説では、その後、主人公の母が小関茂の父とは違う男と再婚するのですが、その男はDV気質を持つ無頼漢で、財産を食いつぶした上にふらっといなくなってしまう。お母さんはその男を追って留萌に行ったり、一度会えたもののまた別れて炭鉱街へ行ってさらに別の男と再婚したり、その男とも別れて旭川に戻って再び一度別れたはずの無頼野郎と再婚したり、と放浪の生活を続けます。その間、幼い小関茂を連れての彷徨でしょうし、だいぶ苦労したはずです。
なんとか旭川に落ち着き、小関茂は小学校に入学する。当時、小関さんは「赤い鳥」と「立川文庫」が好きだったそうです。赤い鳥は鈴木三重吉主催の童話・童謡雑誌、立川文庫は『真田幸村』とか『猿飛佐助』などの時代物の講談とかの文庫です。童話と講談、なにか、後年の小関茂の作風を象徴するような気がします。
そして、高等小学校卒業(現在でいうと中学2年)、15歳のときに、「文化の中心である東京を夢みるように」なり、卒業式の日に単身上京します。大正12年(1923年)3月。なんにも伝手もなかったようで、日本橋のコルク問屋に奉公することになりますが、その後9月、関東大震災に遭います。
地震のどさくさで問屋を辞めることになったのか、その後、小関茂は漢学者の西村文則の秘書となります。余談ですが、小関茂はめちゃめちゃいろんな職業をやってて、電気技師とか、デパートの店員とか、バーテンとか、編集者とか、図鑑編纂者とか、晩年は神主にまでなってます。一説では、「警官と葬儀屋以外はすべてやった」とか。苦労人ですね。
この西村文則、ジャパンナレッジの文学大事典にも載ってなかったのですが、藤田東湖とか水戸学の本とか書いてるみたいです。小関茂自身による後年の文章を読むと、
十四で単身上京し、いはゆる苦学なるものをすることになつたが、その年は震災にあひ、その翌年かに、奇妙な事務所の給仕になつた。表看板売文業といふので、演説の草稿から引札、著書の代作まで引受けたが、事実は、あらゆる浪人のクラブであつた。
ここの社長が西村文則先生で、それも一室きりの、事務員一人、給仕一人、の三人ぐらしである。先生は、プロペラのやうなひげをひねつて、一時に三人も四人もと話しながら、手はせつせと原稿を書く。話題の多岐多様なこと、談論風発のおそるべきことは、今日ちよつと想像もできない別世界であつた。
先生の逸話を思ひ出すだけでも、数百頁の本ができる。たとへば、大みそかの夜、数十人の借金取りを一堂に集めたと思ふと、その演説がなんと、イソップ物語の、あの金の卵をうむガチョーの話である。そして、どうだみんなわかつたかわかつたら帰れ。小関君、表のカギをあけてやれ。
今どき、かうした風格の人間は存在できないのかもしれぬが、私はここでの数年間に、社会と人間のうら表を、まつたく赤裸々にみたと共に、昂然として生きる態度を学んだ。
小関茂「三人の父母」(『詩歌』31巻6号、昭和26年9月)
こんなひとだったみたいです。うーむ、怪人物。「プロペラのやうなひげ」って面白いですね。
しかし、イソップ物語の金の卵を産むガチョウの話をして借金取りを追い返すのはすごいな……。煙に巻くというか、借金取りの方々は納得したんでしょうかねえ。なんというか、山師っぽいというか、こんな胡乱なひとが大正時代には割といたんでしょう。「先生の逸話を思ひ出すだけでも、数百頁の本ができる。」というのもうなずけます。
小関さんはこの西村文則を結構尊敬していたみたいです。この文章のタイトルの「三人の父母」というのは、実際の母とこの西村文則と、あと前田夕暮だとか。「物心ついてから今日まで、私に決定的な影響を与へた人が三人ある」とまで書いています。「私はここでの数年間に、社会と人間のうら表を、まつたく赤裸々にみたと共に、昂然として生きる態度を学んだ」という文章は、ほんとにそうだったんだろうなあという臨場感があります。「社会と人間のうら表」。後年の小関茂作品に漂う世慣れた雰囲気は、こうした人生経験から導かれたものかもしれません。
そんな感じで丁稚奉公みたいに働きながら、小関茂は開成中学の夜間学校へ通います。そこで、初めて文学の仲間に出逢います。
理三郎との友情は夜間中学生に始まる。桜井清、榎本寛一が彼の同級生で、私は一年上であつた。昭和三年夏私は校友会誌上の作品を通じて彼を知つたが、彼にはすでに詩集『悲しき砂丘』があり、同人誌『胡桃』があった。歌も詩も知らない私は『胡桃』の同人に迎えられ、短歌という、この生涯の腐れ縁に結ばれたのである。そしてまず試みたのが口語破調歌というものであり、私の素質を認めてくれた最初の人は、彼なのである。
小関茂「白日社の歌人」
小関茂はここで短歌と出会いました。小関茂はこの人たちと同人誌を作ったりします。いいですね、同人誌。若い頃に志が一緒の友達と出会って自分たちのメディアを作る。いつの時代でもわくわくするものがあります。いわゆる、『まんが道』でいうところの「あすなろ編」です。

この頃、小関茂が作っていた歌はこんなやつです。
猫とふたり、頭そろえて小春日に、サフランの花を見つつねむる
酔生夢死を恥しむ人は憎けれ、世に酔と夢とをなつかしまざる人あらめや
余裕などあるべき筈なき生活、これが国民の九割九分
人間のみに思想ありて、木や石が考えずとは信じ難し
あとこんなのも作ってます。
歌よめぬ心がさびし
今日もまた
火をたきつつひとり思へば
読みもせぬ本を抱へて
出て歩く
笑はるごとに淋しと思ふ。
読めばわかるように、啄木の影響を受けています。あと、口語調ですし、韻律もどこか五七五七七を外していますよね。
時代は昭和2年。当時の短歌の状況としては、大正期に大きな力を持ち、客観写生を標榜するアララギとは違った潮流を示す『日光』が大正13年に創刊されていた(昭和3年に廃刊)ほか、プロレタリア短歌やモダニズム短歌が勃興してきます。ざっくり言うと、口語や自由律を中心としたアバンギャルドな動きが活発になってきた時期です。
当時の状況をダイレクトに反映しているとしてしまうのはややイージーですが(ひとりの作家の文体にはもう少し複雑な影響があるものです)、まったくの無関係ではない。小関茂はこうした状況のなかで短歌のスタートを切るのですね。
そんな感じで短歌作ることに対してだんだん盛り上がっていくうちに、一緒に同人誌をやっていた田中島理三郎から、前田夕暮に紹介してやろうかと持ちかけられます。田中島はその前から夕暮と関係があったみたいです。小関茂の師匠の西村文則も夕暮に紹介状を書いてくれました。そんで、昭和3年7月に小関茂は前田夕暮の歌会に参加します。翌年1月、夕暮の結社『詩歌』に入会します。
*
はい、ここからが小関茂の人生第二章、『詩歌』篇です。
小関茂の作品は昭和4年1月号に2首、初掲載されています。こんな作品です。
掌にうけし白き銀貨を眺めつゝ自がなりはひの寂しくなれり
灯のかげに眠れる見ればかくばかり頬骨のとがり友の面あはれ
初々しいというか、なんというか。ちょっとこちこちしています。身巡りのものがすべて自我に関係してくる感覚が若者のものだなあという感じがして、後年の擦り切れたようなユーモアのある小関茂作品と比べると、ちょっと面白いです。なんか、短歌はじめた頃、私もこういう短歌作ってたような気がします。みんな始まりがあるんだな。当たり前だけど。
ところで、小関茂が『詩歌』に入会した昭和4年は、短歌史上、重要な出来事が起きます。そう、東京朝日新聞の「空中競詠」です。
有名な話なんで、知っている方も多いかもしれませんが、昭和4年11月、東京朝日新聞はある企画を思いつきました。当時、まだ珍しかった飛行機に歌人を乗せて短歌を作らせたら面白いじゃん、と。
そこで、発案者で東京朝日新聞で記者をやっていた土岐善麿のほか、前田夕暮、斎藤茂吉、吉植庄亮の4人が飛行機に乗り、東京上空を遊覧飛行しました。
初めて飛行機に乗った4人は離陸すると興奮しまくり、すごいすごいすごいと盛り上がりまくりました。茂吉なんかは空中で乗り物酔い用の紙袋におしっこをして、それを空から投げ捨てたりなんかして、うわあいかにも茂吉、ということをしてます。下に人がいなかったらよかったけど。
その後、地上に戻った4人が即詠したのは次のような歌でした。
飛行機にはじめて乗れば空わたる太陽の心理をすこし解せり 斎藤茂吉
自然がずんずん体のなかを通つて行く。山、山、山 前田夕暮
久方の空より見ればたたなはるわが国土はかくも美しき 吉植庄亮
たちまち正面から近づく富士の雪の光の全体 土岐善麿
茂吉と吉植庄亮は定型ですが、夕暮と善麿は自由律です。
後日、茂吉と吉植庄亮も、
電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾 斎藤茂吉
大地の誘惑、二千メートルを心ましぐらに墜落す 吉植庄亮
という歌を作り、結果的に4人全員が飛行体験を自由律で表現しました。それが話題を呼び、総合誌で取り上げられたりして、歌壇において自由律が注目を集めました。
特に夕暮は衝撃が大きかったらしく、飛行機搭乗の素材で百首以上短歌を作りまくり、それまで散発的に試みていた口語自由律へ完全に移行します。そして、夕暮の結社の『詩歌』も皆が一斉に口語自由律短歌を作り始めます。この『詩歌』の口語自由律化は短歌史でかなり大きなことで、詩歌はアララギを超える投稿数の大結社でしたから、この大勢の人数がいきなり自由律になることで、歌壇のなかでの自由律の割合がめちゃくちゃ増えるのです。
自由律がマジョリティになったとまでは言えないかもしれませんが、かなり増えたのは確か。時代の雰囲気が変わった瞬間と言えるでしょう。
ただ、注意したいのは、小関茂も、前田夕暮もこのとき初めて自由律になったわけではないということです。前田夕暮は大正期の「日光」の頃からその萌芽がありますし、小関茂も先ほど述べたように詩歌入会前から口語自由律を作っていました。第33回の落合直文の回の明治の和歌改良論の話のときにも触れましたが、正岡子規の「歌よみに与ふる書」も突然出てきたのではなく、その前にいろんな人がさんざん似たようなこと喋っていて、世間的にもムードが醸成されていたからこそ、バン! とインパクトを与えられた。この東京朝日新聞の空中競詠とその後の詩歌の口語自由律化も似たような側面があります。
まあともかく詩歌は口語自由律になった。若い小関茂はそのなかで次第に頭角を表してきます。
昭和5年に『十一人 第一歌集』という合同歌集が出ます。これは元々、『十一人』という結社内同人誌みたいなものを小関茂と田中島理三郎が出していて、そのグループの作品集です。要するに、『詩歌』内のイケてる若手が集まったやつですね。夕暮が序文を寄せています。こんな本が出ることからも、当時の『詩歌』に若手がたくさんおり、勢いがあったことがあったことがわかります。
小関茂はここに「太陽を載せた汽船」という連作を載せている。こんな作品です。
風が飛んでくる、風を裂いてゆけばーー森の上のコンクリート・タワー
枯枝の影を踏んでゆく土の弾性!白く光る都會が展開してくる
赫い丘陵を越えてくれば氷原のやうに涯もないひそかな大都會
どこへいつてもうづく神經が、ぢつとしてゐて厚い壁を透してうなづきあふ
太陽がくるくると廻つて汽船(ふね)の中に沈んでしまつた、私も乗らう
小関茂「太陽を載せた汽船」(『十一人 第一歌集』昭和5年)
都市風景で、クール。乾いた風景把握がかっこいいですね。なんか、『歌人小関茂-作品とその世界』の中でも、「あれは良かった」的に言ってるひとが多かったです。
ちなみにこの『十一人 第一歌集』、国会図書館のデジタルコレクションで読めますので、興味のある方は見てみてください。
『詩歌』はわりと若い人にアピール力があったみたいで、本格的に詩作を始める前の立原道造もこの『詩歌』で自由律短歌を作っています。昭和6年7月から昭和7年6月まで。だいたい17歳から18歳ぐらいのときです。
屋根の瓦に、日光が水銀を流した。僕ばかり一人になった。
クレオン画の飛行船に乗つて、お魚みたいに時間が流れる!
つれない、光のきしり!しののめ近く青つぽい光りだよ
胸にゐた擽つたい僕のこほろぎよ、冬が来たのにまだお前は翅を震はす!
行くての道、ばらばらとなり。月、しののめに、青いばかり
読んでみると、なんか小関茂と同じ空気を吸っていたのがわかりますね。たぶん小関茂の歌は読んでいたでしょうし、ある程度影響あったのかもしれません。まあ、小関から立原道造への直接的な影響というよりも、『詩歌』の投稿欄のノリがこのような短歌を書かせたと言っていいでしょう。
ちなみに、その独自性で知られる俳句の種田山頭火も尾崎放哉も「孤独の生活の中で俳句の定型を脱し、自在な自由律の形式にたどりついた」みたいに捉えられていることが多いですが、実際にはあれ、完全に所属結社の『層雲』の投稿欄の文体ですからね。自由律とか、言い回しとか、似たような文体の俳人が沢山いました。なんというか、深夜ラジオや雑誌とかのハガキ職人みたいなものなんですよ。ちょっと古いですが、ファミ通町内会とかジャンプ放送局とかに似てます。
もちろん、彼らに独自性がないと言いたいのではなく、その中で立ち上がっていった個性と言うべきなのですが、それでも、基本的な文体の基礎は『層雲』が準備したことは疑いないでしょう。それほど、「おんなじノリで楽しく集まる場所」の影響力は大きいのです。余談ですが、現在のネットで主流の口語短歌の文体形成に最も影響が大きかったものの1つは、雑誌『ダ・ヴィンチ』で連載されている穂村弘の「短歌ください」だと私は思っています。
話を戻すと、小関茂は『詩歌』で頑張るとともに、同年代の仲間たちと積極的に活動しており、昭和5年7月に『ポエジイ』、昭和5年10年に『ポエジイ運動』という同人誌を作っています。これは、詩壇のシュルレアリスムの運動とも合流したもので、モダニズムの動きのひとつですね。『ポエジイ運動』には西脇順三郎が詩を書いたりしてます。
ポエジイ運動はわりとすぐ解散してしまいます。その後、小関茂は労働問題に関わるようになります。
彼は昭和六年『詩歌』一月号から同人として推薦された。同年二月、『ポエジイ運動』解散後、『詩歌』の友人たちと労働問題、思想問題に関する勉強を始めた。日刊銚子評論に赴任したが、一ヶ月余りで帰京、千代田区神田錦町東京電機学校卒業。電元工業株式会社入社。同年七月、三越で働き、全協に入る。「短歌研究会」をひらき「帝国主義時代の芸術」「フアシズム短歌論序論」を書き、『詩歌』七月号に「フアシズム短歌論」を発表。昭和九年八月、労働新聞の配布で検挙されたが不起訴。
『詩歌』の仲間たちも結構共産主義の活動を始めるひとが多かったらしく、この時代の雰囲気がなんか伝わりますね。この中野嘉一の文章にあるように、小関さんは労働新聞ビラを撒いて警察に検挙され、不起訴になったりしています。小関さんにとっての「政治の季節」です。この間、『詩歌』にあまり短歌を発表してなかったみたいです。
小関さんは2年ぐらい政治活動に専念した後、また『詩歌』に短歌を発表し始めます。その頃の歌が次のような作品です。
寂しいなと笑つてやれば、寂しいなと言つて煙草をのんでゐる
無精髯をなでで笑つてみせれば、自殺を考へた事があるかときかれる
生きようとすりや死ぬよりない。十年たてば三十四だからなあと言ふ
一度死んでみるんだなと言へば、黙つて人差指で灰を落してゐる
三年たちあお前も変るよといへば、さうかなあと寂しい顔をする
生きようとする。誰よりも生きようとしてゐる。寝ないかといふ
ひとり湯にゆき、本当に生きるといふことを今更の如く考へてみた
子供らはかうして青年になつたが、それが自殺と住んでゐるのだつた
小関茂(『詩歌』昭和9年1月号)
どうでしょう。クールな都市風景を描写した「太陽を載せた汽船」から作風が明らかに変わっています。後年の文体に近づいているというか、希死念慮を抱えた主体像がユーモアと共に提示されています。
香川進はこの頃の作品を、
そうした中で、小関は、自由律では(もとより定型には、)いまだだれも試みなかつた口語会話体で、どこかとぼけたような、とりとめのない、それでいて、人間というものをつかまえた作品を発表したのであつた。二十何年も後の今から考えると、稚拙といわれるかもしれないが、そのころにおいてはまぎれもない独創であつた。
香川進「小関茂ーうきくさの花ー」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
と、高く評価しています。「いままでだれも試みなかつた口語会話体」、「そのころにおいてはまぎれもない独創」と、この昭和9年という時代で口語会話体の文体を獲得したことは、かなり先鋭的で、間違いなく、いまの時代に通じる口語短歌のパイオニアの一人でしょう。
前田夕暮も評価していたらしく、この香川の文章の続きに、
夕暮は編集後記で「久しぶりで復活した小関茂の作品を佳いものだと思つた。聢りしたものだ。客観的の表現は可成りの深みがあつた」と書いている。
香川進「小関茂ーうきくさの花ー」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
とあります。香川は
わたくしは、この一連を読み、「これは困つた」という記憶をいまも忘れない。なかば嫉妬を伴つた気持で、そう思つた。長い間考えて来たひとつのスタイルとしてのこんなことを、こうとぼけたような調子でやられたのではどうにもならんと思つたのであつた。で、いまから考えると、情けないほど、以後のわたくしは、小関の、この独創の模倣をやつている。
香川進「小関茂ーうきくさの花ー」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
とまで言っています。続くところも面白いのでさらに引用すると、
富永貢などは、「小関の奴、なにをこんな独白のようなことをやつているのだ、と背中をどやしつけてやりたい衝動にかられる」とそのころの雑誌に書いているが、富永などもやはり、そんな否定的なことを言いながら、小関からは影響を受けたのであつた。古い短歌、--ことに日華事変の影響もあり、まつたくこげついてしまつたような感じのあつた短歌を、いきなり石川啄木まで還元することによつて解体してしまい、ふわふわとした会話体のここまで持つてくるには、その創造者の小関にとつては、よほどの勇気が必要であつたはずだ。啄木以後、スタイルとして、矢代東村は多行式口語歌という一型態を独創したが、小関の、このとりとめない日常会話的な自由さは、それにも劣らぬ創造であつたのではなかろうか。
香川進「小関茂ーうきくさの花ー」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
と、こんな感じです。
どうやら、小関さんのこの新しい文体は、香川進だけでなくけっこういろんなひとにインパクト与えたみたいです。「ふわふわとした会話体」は、確かにそれまでの短歌にはない要素でした。また、ここで石川啄木の名前が出てくるのは大事で、やっぱり小関さんは啄木の系譜に位置づけられる歌人だと私も思います。
夕暮は、「客観の中の深み」といつているが、在来の短歌の声調では、どうしても弱弱しく悲哀になり、--今ひとびとがいう短歌的抒情にわざわいされ、細い、はかないものになりがちな短歌の持ち味を、かれは、このようなふわあとしたニユアンスを導入することにより、広い場へ運び出したのではなかろうか。それを客観といえばいえる。が、わたくしは、戦後の短歌において、全然見落してしまつたユーモア、--文学にとつて、ひとつのたいせつな要素としてのユーモアなども、小関のこうした新風により、ふたたび、短歌のなかへ奪回されているのではないかと思う。
香川進「小関茂ーうきくさの花ー」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
あと、「ユーモア」ですね、やっぱり。どうしたわけか、短歌は「ユーモア」が苦手なんですよね。ここで香川進が言ってるように、どうしても「細い、はかないものになりがち」なので。それを「短歌的抒情」といえばそれまでですが、なんか、びそびそしてしまう。しかし、小関さんの作品には「ユーモア」があり、だからこそ「広い場」へ行ける。「広い」。これは凄く大事な要素だと思います。
ただ、小関さんはこの頃、いろいろ人生に迷っていたみたいで、ある時一念発起し、日本を捨ててロシアに渡航しようとします。たぶん、共産主義の影響で、「日本はダメだ!」とかなって、本場で暮らそうとしたのでしょう。そこで友達と二人で樺太まで行こうとしたのですが、なんかうまくいかず、旭川まで戻って来る。そこで、成功しているはずの実の父親を捜したのですが、実際にはすでに父親は亡くなっていて、傷ついて帰ってきます。小関さんの青春の挫折です。
今から考えると笑い話のようなことです。彼の誘いで、ソヴィエト行きを計画したのは、社会主義の先進国の実生活を目で見て、確かめたいという、当時の青年のロマンチックなあこがれに似た気持ちからでしょうか。また警察の監視下にあった生活にやり切れなさを味わっていたためでもあったろうか。彼はロシア語を勉強していて、可成りの知識を持っていた。私と話し合っているうちに「とにかく行ってみよう」ということになった。彼が敷香までの運賃を工面して、昭和十年七月のある日、二人は上野を発ち、樺太へ直行した。しかし稚内や連絡船・大泊駅での警戒の厳しさにびっくりし、とにかく豊原で下車した。駅前から、低い家並の続く寒々とした通りを歩きながら、決行について再検討し、その結果、内地へ逆行することになった。
その夜、旭川の彼の級友の家に落ち着き、私の姉からの電報為替が来るのを待った。彼は出発前に聞かされた実父のいる故郷を訪ね、私はカモフラージュのため、阿寒・摩周湖等の観光ルート、帯広を廻った。帰って来た時、彼の顔が蒼白であったのを、今でも思い出す。母親から成功しているはずだと聞かされた実父が、村の青年達に愛されていた文学青年で人望もあったのに、肺を病み既に他界していたと知ったのは、その時であった。
磯島正復「昭和初頭の青春」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
小関さんの年譜にはこの年について「もっとも苦しみ多い年であった」とか書いてあります。大変だったのでしょう。
一方、この頃、『詩歌』でずっと頑張っていたおかげか、人からも注目されていきました。前田夕暮からの信頼も厚く、こんな日記が残されています。
(昭和十七年)九月二日
白い茶碗十枚執筆、「靑天祭」原稿として明治美術に送る。更に虹続稿三四枚書く。香川進より長い手紙来る。何としても情熱家だ。そしてなかなか潔癖家だ。小関茂、旧「詩歌」を返しにくる。小関茂もほんたうによい青年である。一日中何かと整理におはれる。
「ほんたうによい青年である」。前田夕暮に信頼されているのがわかりますね。そんなこんなでなんやかんやありましたが、昭和ひと桁後期~10年代は小関さんが『詩歌』のなかで活躍し、だんだんとその存在感を増していった時期と言っていいでしょう。ちなみに、昭和16年には結婚して娘も生まれています。
ただ、この頃から日本社会全体がきな臭くなってきます。満州事変が昭和6年に起きていますが、その後の昭和12年の日中戦争の開戦、昭和16年の太平洋戦争の開戦など、どんどん日本が戦争へ向かって加速していった時期です。
その影響かなんなのか、前田夕暮の『詩歌』が昭和18年1月に再び自由律から定型へ戻ります。一説では、自由律の「自由」という言葉が当局から煙たがられ、そのせいもあって定型に戻ったのだとか。この頃は自由主義者が政府から睨まれており、自由律は自由主義と関係ないのですが、政府に忖度して辞めたというものです。木俣修とかがこういうことを言っています。
ただ、小関さんや夕暮の評伝を書いた息子の前田透さんなんかはその説を否定していますね。前田透さんは、しばらく疎遠だった白秋との仲が復活して、その影響を受けたからじゃないか、とか推測しています。実際の夕暮の心中はわかりませんが。
なんにせよ、『詩歌』は文語定型に戻ります。小関茂もそれに従い一旦は定型になったりしたみたいですが、自由律もやめられず、結局は自由律を突き通したみたいです。師匠の夕暮は定型に戻ったので、この件でそこそこ揉めて、破門になりかかったりもしたとか。
昭和20年4月、空襲も増えていよいよ東京も危なくなり、夕暮が埼玉県秩父に疎開します。前田夕暮は親から譲り受けた山林を持っており、秩父で製材や木炭製造などを行う会社を経営していました。これに伴い、小関茂が荻窪の夕暮の留守宅に一家で移り住み、留守を守ることになりました。この事実からも、小関茂が夕暮に信頼されていて、『詩歌』の中でも中心的な存在だったということがわかりますね。最も身近な弟子のひとり、といったところでしょう。
夕暮の留守を守っている頃どんな感じだったかというと、香川進の文章が残っています。
長谷川利行の代表作、『玉川遊園風景』をひろげる。(ひろげるというのは、額ぶちからはずし一本に巻いてあるからである)異型ながら百号といわれている絵なので、座敷から庭の芝生にむかった一間幅の廊下いっぱいになる。戦時中、昭和十五年のころであったか、上京していたとき見たときよりも、画面が一倍半くらい広く、大きくなっている。利行の絵、無造作に巻きこまれ、書庫の片隅かどこかに蔵われているあいだじゅう、生長をつづけていたんだとおもう。絵の端のところに坐つて見あげている小関茂の身体が、今日は小さいものに見えてしかたない。(わたしたち、小関と西村哲也と香川の三人は、夕暮は秩父の山に疎開したまま、前田透からは、当分チモール島の応召先から帰還の見こみがないということで、白日社の留守番をしているのだ。といえば少し格好がつくけど、いずれも戦災その他の宿無しで、本社に転がりこみ、雨露をしのぎつつ、炊飯。朝に夕に、熱心に、いやロクでもない文学と芸術の論に明けくれているという仕儀。そのばあい絵画のことについては、静穏な野口謙蔵と奔逸な長谷川利行、二人の絵の本社コレクションが俎上にのぼったりして、今日たまたま夕暮が山を降りてきた機会に、利行の絵を見ましょう、と言ったわけ)
昨夜は、茂、哲也、進の三人で、白日社の座敷に仮寝したわけだけど、茂が言った。
「いつも広くみえるこの座敷だけど、まんなかに前田夕暮が居なくて、三匹の雑魚(ざこ)が寝ては、ずいぶん狭い。寝物語すら梁にひびく」
なんか、小関茂と香川進と西村哲也の夕暮の弟子3人で集まって、毎日くだを巻いていたみたいです。「朝に夕に、熱心に、いやロクでもない文学と芸術の論に明けくれているという仕儀。」という記述から、雰囲気が伝わります。やることもないし、戦争中なのでご飯もあんまりないし、戦災で宿もないし、ということで、集まって文学について熱心に喋るしかない。たぶん、誰はすごいとか、逆に誰は駄目だとか、そういう話を延々としていたのでしょう。戦争中なので明るい雰囲気ではないでしょうけれど、なんだか青春の匂いがします。楽しいんだよなー、こういう何の儲けにもならない話を延々とするの。
一方、夕暮はどうしていたかというと、秩父の山の中で野菜を作ったりしていました。うまくいったりうまくいかなかったり。夕暮は新しいことを始めるとテンション上がっちゃうタイプですから、野菜作りに邁進します。でも、うまくいかないのでちょっとイライラもしている。年齢ももう63歳で、糖尿病を持病に持っており、生活はキツイ。そんな雰囲気が伝わるのが、次の日記です。
(昭和二十年)七月二日 曇天
朝おきて気分よからず、下痢気味、検温すると三十七度六七分あり、腰の痛みはげしく、就褥、午後検温三十八度、更に夕刻検温、どうしたのか四十度突破、これは困つた。愈々怪しいと思ひ、苦しくもあるので寝てゐると誰か来たやうだ、と思つたら突如小関茂東京より来る。電気はつかず熱発臥床の宵、突然にやつてくるとは思はなかつた、最悪の日だ、実際小関は人は好すぎるほどよいのだが、人の都合のよし悪しなどは考へない、何でも自分本位なので困る。きけば留守宅の火災保険現在住友火災に三萬圓契約してあるのを独断で十一萬圓契約したといふ、殆ど非常識もかくなると恐るべきものだ、兎に角、苦しいので何も話さずにねてしまふ。
なんか、熱で臥せっているところに、急に小関さんが東京から来たのでびっくりしています。「実際小関は人は好すぎるほどよいのだが、人の都合のよし悪しなどは考へない、何でも自分本位なので困る。」とか言っていて、「あいつはマイペースだからなあ」とぼやいている。まあ、熱のときに急に来たら嫌でしょうが、小関さん側からするとそんな事情わからないし、言われてもなあというところでしょう。
ただ、小関さんがマイペースだったのは、たぶんほんとでしょうし、一方の夕暮もかなり自分勝手。まあ、どっちもどっちだと思います。なんか、師弟の距離感が伝わって面白いですね。
そんなこんなで夕暮は秩父の山で、小関さんは荻窪の夕暮宅で戦争末期を生きる。そうしているうちに昭和20年8月の終戦です。終戦後も夕暮はしばらく山に居ましたが、昭和21年に東京に帰ることしたみたいです。それで、小関さんも昭和21年9月に夕暮宅を出ます。その後、昭和21年12月に夕暮が東京に戻ってきました。
終戦後、小関さんは日本共産党に入党して大衆向け啓蒙娯楽誌『大衆クラブ』の編集者をやったり、プロレタリア系の短歌誌『人民短歌』の立ち上げに関わったりしていました。そうこうしているうちに、師匠である前田夕暮が昭和26年4月に亡くなります。
このときの小関さんの前田夕暮への追悼文が良いので、引用します。長いですが、なかなか読む機会もないでしょうし。読むのが面倒な方はここ飛ばしても大丈夫です。ちなみに、さっき漢学者西村文則のところで引用した文章の続きです。
先生もなかなかのわがまま者だつたが、先生にひつぱり上げられた同人たちも、多くはわがまま者だつたといへるし、また、そのわがままをかなり通したからこそ、あの活気と進歩があつたと思ふ。古い伝統の世界に、あれだけの近代性をもちこめたのは、そのわがままをかなり通したからこそ、あの活気と進歩があつたと思ふ。古い伝統の世界に、あれだけの近代性をもちこめたのは、そのわがままをさせた前田先生に負うべきものと思ふ。私もたしかにその一人で、よくも二十数年、先生につながつてゐられたと思ふ。正直をいへば、私は一度も夕暮を研究しようとか、夕暮の方法論に感心したことはなく先生は、先生、自分は自分で、勝手に歩いてきた。それでもちやんとつながつてゐるのだから、先生の方がたしかにえらいと思ふ。
「詩歌」が定型にもどつてから二年ほど、私も定型をつくつてみたが、つひにものにならなかつたそれいらい、歌はほとんどすてた形になつてゐるが、今のやうな時代にどうやらたいしたインチキもせずに生きてゆけるのは、たしかに、母と西村先生と、そして前田先生から、何ををもらつたからだと思つてゐる。さういふ意味でなら、僕はさう悪い弟子ではあるまい。
先生には、ずいぶんしかられた。僕らはよく、例の調子でよび出しやこごとをもらふと顔を見合わせて、そらきた、といふやうな表情をした。なんでそんなこといふのか、しまいまでわからぬこともあつた。それでまあ、あまりこぢらせないやうにしようや、といふやうな眼つきをしたものである。こつちも従順でないのだから、先生の方も、大いにみとめてあげるほかはない。とにかく、そんなことはみんな、わすれてしまふにかぎるし、また、いつまでもおぼえてゐられるものでもない。
僕は先生に死なれて、怒られるとは思ふが、悲しいともさびしいとも思へない。四月のはじめだつたと思ふが、寒い日で、
「君、外套をきていきたまへ」
とすつかりやつれなさつた顔で、とてもたのしさうに、主治医が電車の中で卒倒し、昨日だか死んでしまつた、といふ話をしてもらつた。死といふものが観念の妖怪ではなくて、ごく身近かな、庭の雀ほどの愛らしさで話されるのをきいて私はとても気が軽くなつたのをおぼえてゐる。正直にいへば私は自分の顔に、本心が出はしまいかと、かなり心配してゐたが、そんなことはさらに問題でないことに気がついた。先生とは何百回話したかしれないが、夕暮つてたいしたもんだなあと心底から思つたのは、これがはじめてで、終りであつた。それはなにも、先生の人格の偉大さかどうかしらないがその時の先生はさうだつた。かへり道にも、とにかく先生は自分のやり方を一生おし通したなあと、大いにほこりみたいなものさへ感じた。
私はがんらい、なかなか怒れない人間の方だが、それでも先生には、癪にさはつたり怒つたりしたことがあつた。先生は、相当ながむしやら屋だつたにちがひない。だがふしぎなことに、いつでも先生といふものをぼんやり考へると、ひとりでに唇がほころんでくるから、やはりすばらしい人だつたと思ふ。二十何年間、怒つたり怒られたりした後でもさうだつた。やつぱり好きだつたといふほかない。何年も歌を休んだり、思想的に対立したり、こんどみたいに七、八年も社外の人みたいになつてゐても、いつでも昨日も来たつけといふ気分で行ける気でゐたし、先生の方も、道楽息子がまた来たなくらいの気で迎えて下さつたと思ふ。これはけして、歌だけでつながつてゐた結びつきではないやうだ。米田さんなら、いんえんといふものらしい。
私が先生に何を学んだのか、今はわからない。しかしたしかに、母と西村先生だけでは、今のやうな世の中に生きるには、たりないと思ふ。私はなんだか、先生の芸術的天才からではなく、芸術にしても、もつと別のものを学んだのではないかと思ふ。芸術などといふものは、すこしも学ばなかつたやうに思ふ。逆に、ひどく邪魔されたやうにさへ思ふことがある。私の記憶には、先生と歌論をやつたおぼえが一度もない。そのつもりで行つても、話は鳥だのホーレン草のつくり方だのといふ自然現象か、人のうわさ話などになつてしまつた。
先生は自分の社風を大いにじまんし、誇りにしてゐたが、内心、自分のにせものやまがひものを軽べつしてゐたことはたしかだ。出来のよいものに感激はしたが、それだけのことで、実さいは軽べつした。「自分は野中の一本杉」と自称してゐる本質には、同人社友にたいする痛烈な赤信号があつたのだが、多くの人は先生の顔をみると、そんなことはわすれたらしい。
とにかく先生ほど近代的自我に生きぬいた人はすくなく、またそれを、複雑柔軟になしとげた人は多くないと思ふ。大正・昭和といふ時代の、典型的人間の一人であると思ふ。
小関茂「三人の父母」(『詩歌』31巻6号、昭和26年9月)
ねえ、いいでしょう。「先生もなかなかのわがまま者だつたが、先生にひつぱり上げられた同人たちも、多くはわがまま者だつた」とか、「いつでも先生といふものをぼんやり考へると、ひとりでに唇がほころんでくるから、やはりすばらしい人だつたと思ふ。」とか愛憎入り交じっていて最高ですよね。あと、死の直前に会ったときに、「主治医のほうが先に死んじゃったんだよ」と笑いながら話す夕暮とか、なんとも言えない味があります。
小関さんと前田夕暮が短歌の話を一度もしたことがない、というのも興味深いですね。「そのつもりで行つても、話は鳥だのホーレン草のつくり方だのといふ自然現象か、人のうわさ話などになつてしまつた。」というのも、ホントかよ、という感じですが、なんか一生懸命、ほうれん草の作り方の話をしている夕暮の姿は、たしかにそんな風に話しそうだなあ、と思いました。故人の姿をしのばせる名文というやつではないでしょうか。
*
前田夕暮が亡くなったので、『詩歌』は解散します。弟子たちは今後どうしようと途方に暮れていましたが、ついに高弟のひとりである香川進が『地中海』という結社を昭和28年5月に設立し、香川と仲良かった小関茂もここに参加します。
はい、ここからが小関茂第3章、『地中海』篇です。
これから、小関茂は『地中海』の運営の中心を担っていきます。昭和37年8月に『地中海』が月刊誌となった際に編集長となり、以後、昭和47年に亡くなるまでずっと名物編集長として活躍します。
仕事の方は、平凡社や講談社の嘱託編集者として働いてたみたいで、世界大百科辞典とか学習百科全集の編纂とかやっています。ほかに、ロシアの化学記事の翻訳をやったりとか。上の方でちらっと書きましたが、小関茂は若い頃にソ連へ行こうとしていたので、その関係でロシア語がちょっとできました。
『地中海』は『詩歌』関連の人々のほか、昭和28年9月に釈迢空が亡くなったため國學院系の迢空の弟子も合流しているほか、山本友一など松村英一系の人々も創刊に関わっており、多くの人材が集まっています。代表的な人たちの名前を挙げると、山本友一、千勝重次、片山貞美、石本隆一、小野茂樹、岡野弘彦などなど。岡野弘彦さんがいたのは私はわりとびっくりしたんですが、迢空系も合流した関係で、岡野さんも一時期所属していたみたいです。
あと、なんか一時期の角川短歌は『地中海』で占められていたみたいなんですよね。片山貞美、石本隆一、小野茂樹と何人もの地中海出身者が角川短歌編集部に就職していきました。『地中海』の創刊同人の一人で釈迢空の弟子だった千勝重次は角川源義の國學院の同級生で、角川短歌創刊にも関わっていたようですし、短歌研究の編集者もやっていました。
片山貞美は第56回で角川短歌の編集者として土屋文明にインタビューしていた人です。
地中海、短歌総合誌の動きにかなり関わっている気がします。このあたりも掘っていくと面白いのですが、今回は長くなるのでやめときましょうか。
ちなみに、迢空の弟子の千勝重次さんは神主でもあり、後年、小関さんは千勝さんのところで神主やったりしています。さっきちょっと触れましたが。
当時の『地中海』の編集後記的なものを読むと、小関さんと若者たちがやいのやいのやりながら、結社誌を作っていた姿が伝わってきます。小関さんの後に編集長を引き継いだ椎名恒治さんが書いた『地中海五十年史ところどころ』から、ちょっと引用してみましょう。昭和37年3月に地中海が月刊誌になることが決まって、小関さんが「数年で3000人以上の会員増が可能だ」と「小関ラッパ」を吹き、編集部が改めて組織された回です。
・ついに誕生!ただしこれは予告号である通信丸進水式を全国の会員のみなさんと共に迎えるために。巨船は外装を残すのみ。海賊船のおもむき。七つの海へ。(O)
・黙って坐ればスルスルと座高が伸びる効能ありという地中海のデスク。験されたいむきは、毎週土曜、日曜の午後、ぜひ集まってほしい。大フロシキという声もあるが、われわれ決して背伸びしているつもりはない。きわめて着実に、地中海本誌を付録に蹴落とすべく鋭意努力しているのです。(り)
・いざさらば君にたとへむなでしこのむらさきのこのあら小関さま!小関さんまた片さんよ岑ちゃんよおよび小野ちゃんみな元気かな。あらはれし青柳猛すべからく弱かりなんとわがおもふなり。るり子さn姓は鈴木で名前などどこかに行きぬわすれはてたり(Katayama)
・たまたま出て来たる地中海遠きかな胸いたく疲れたり。しかれども元気なるものどもにはげまされ意を強くしたる。これからもチョクチョク出て来るもよしと思ひしなり(モウ)
・大きなアドバルーンがあがってしまったものだから、屋上の狂人ならぬ屋上の番人には、風圧の強いこと。創刊号は、山積した原稿の取捨選択に大汗。だが御安心。編集機動力は底なしデス。(O)
・大ラッパ大いに吹くことになっているに、こう先手に吹かれてはノドにきます。ただしノドに来ればホンモノ。よい音が出ます。今年はあちこちお訪ねするつもりですから、かわいがってください。その時ご用心。(茂)
椎名恒治『地中海五十年史ところどころ』より
この( )のなかのイニシャルとかが発言者で、たぶん、ふたつある「O」のどっちかが小野茂樹で、どっちかが岡野弘彦でしょうね。Katayamaは片山貞美、「り」は石本隆一かな。そんで、最後の「茂」が小関さんでしょう。
正直、内容は私も読んでよく意味がわからないのですが、なんか熱気は伝わる。「地中海をでっかい結社にするぞ!!! オー!!!」という感じですね。
わざわざこのよくわからない編集後記的なやつを引用したのは、当時の熱気をちょっと感じてほしいのと、小関さんが結社の中に存在していたことを伝えたかったからです。正直、結社の中の動きは外から見るとわからないことが多いですが、確実に、その中では何事かが起きていました。特にこの地中海は若い集団ですね。お互いに相互批評とかがんがんやる感じの。そうした空気の中で、小関さんや、小野茂樹や岡野弘彦の作品が培われていったことは、意外と大事なんじゃないかと思います。
最初に思い出されることは、伊豆富戸で『地中海』の年会のあった時に、小野茂樹氏なぞを中心とする数名のグループ別短歌研修会があり、亡小野茂樹氏などが提出した問題について、小関氏は、きわめて長時間に渡り熱心に論議され、その執心のほどは驚くべきものがあった。若い人々の中心になって、しめくくりをつけ、まとめ上げるといいう事もなさっていたのである。小野茂樹氏の、ひたむきな議論のすすめ方にも、驚く以外はなかったように思い出すが、小関氏の態度は、指導的態度であり、普段見ているこの人の態度とは、まこと異なるものであった。
大森義憲「小関茂短歌随想」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
今回取り上げた『歌人小関茂-作品とその世界』にはこんな文章もありました。小関さんが年上ながら、若い人々に対して身近に接していたことがわかります。
「なんか飄々としててよく分からないところがあるけれど、なんか先輩たちはあの人のこと皆褒めてて、天才とか言われてる。でも歌集は出してない。なんだ、あの人」こんな感じでしょうか。結社入ってる方はわかると思うんですが、なぜかどこの結社にもいますよね、こういう人。
当初、小関茂の歌集は地中海叢書第9編として結構早めに出る予定で、初期の地中海を読むと『豚妻愚夫』というタイトルで宣伝も載っています。しかし、実際には地中海叢書第11編とか、第12編とか、第13編とか、それどころか第63編とかのほうが先に出ていて、小関茂歌集はだいぶ出版が遅れました。しかも、後の方の作品を載せた『小関茂歌集Ⅲ』のほうが昭和40年9月に先に出て、地中海叢書第9編の予定だった『小関茂歌集Ⅱ』(『豚妻愚夫』から改題したようです)は昭和43年4月に出ています。絶対、「なんで小関さんの歌集は出ないんですか?」と言われまくっていたはずです。
ただ、もし小関茂がそのままずーっと歌集を出してなかったら、いま、復刊もなかったはずで、やっぱり歌集は出しとくもんですね、ほんとに。
そんな感じですから、小関さんはやっぱり若者にもけっこう影響与えていたみたいです。一例として、小野茂樹との関係を拾ってみましょう。
小野茂樹。戦後短歌に燦然と輝く第一歌集『羊雲離散』の作者で、
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ 小野茂樹『羊雲離散』
という歌は名歌として超絶有名です。嫌いな人いないんじゃないかな的な歌ですね。後世にもめちゃめちゃ影響与えています。そして、昭和45年(1970年)に33歳で交通事故で亡くなったことも有名ですね。
ある時、若い小野茂樹は師匠である香川進に「自由律をやってみたいんですが」と相談します。それに対して香川進は「小関茂を参考にしてみては」と言います。
定型短歌に併行して自由律短歌を「地中海」に発表したいとのこと。賛成です。
香川進「若い小野茂樹への手紙」(『体験的昭和短歌史』)
ところで、小野茂樹君。さいごに歌人としての系列では君の伯父さんにあたる歌人のことをすこし。まず、夕暮のいちばん近くにいた小関茂。かれが数十年前夕暮に話していた自由律作品集が、近く『小関茂歌集Ⅱ』として上梓されるはずだからよく見て欲しい。おそらく自由律短歌の上り坂時代の最高のものであったとおもうが、作品よりも、いつも会う地中海編集長小関茂の顔を見つめていた方がよい。彼の苦節は、年輪として克明に顔にきざみこまれていよう。
香川進「小野茂樹に問われ」(『体験的昭和短歌史』)
香川進の書いた文章では、その時の話はこんな感じでした。もちろん、『詩歌』や『地中海』の他の自由律作家も読むように薦めているのですが、上の言葉からもわかるように、特に小関茂のことを強調しています。
小野茂樹はその言葉を受け取ったのでしょう。昭和31年、32年ごろに「柳次郎」の変名で『地中海』に自由律短歌を発表しています。19、20歳ぐらいのころですね。ちなみにこの名前は、香川進に「自由律は自由律で別名でやったほうがいいだろう。太郎とか二郎とかつければいいんじゃないか」とか言われたからみたいです。
それで、どんな作品を作ったのか。一例として、昭和32年1月の『地中海』Vol.5 No.1 に発表された柳次郎作品を引用してみましょう。
食欲が畫をたち切つた。たべたいということは光ること
いつごろ死んだのと古いドイツ風の屋根の破風である
草に睡る。活字がポケツトからこぼれて種子になつている
町は伸びる。そして伸びない。町外れの花畑と庚申様の大木と
池であるとすれば憎しみは落ちて溶ける雫である
ちがひます。強さは世界をとびさ出ないことよと君
きみに落ちた雨とぼくに落ちた雨とはもう違うのだ
醒めてぼくは立派だ。うごくのを忘れるためにうごいている
柳次郎(『地中海』Vol.5 No.1 昭和32年1月)
うーん、自由律! 別に小野茂樹だけではないと思うのですが、自由律になるとやたら呟きっぽくなるというか、状況がわかりにくくなりますね。ちなみに同じ号に載っている小関さんの作品はこんな感じです。
地球の歴史を一年とすれば豚妻と愚夫の生活も一秒たらずさ
古今東西の偉人を書きながらあらかたしらがをぬかれてしまつた
やがてねカマキリみたいな顔になりますよとひたいのへんをなでる
なにやつぱり胃袋をなくしたせいですよそんなにのんきな顔をしてますかねえ
猫も人間もこんなちつぽけなやつらはお調子にのると手がつけられぬ
おなじひげははやしてもお前らは水爆なぞは破裂させなかつたのに
おまえらもごくろうであつたなと二十年ぶりで柱を洗う
小関茂(『地中海』Vol.5 No.1 昭和32年1月)
どうですかね、比べてみると面白いかも。そしてさらに、同じ号に載っている小野茂樹名義の定型短歌はこんな感じ。
砂は堅きつぶてむすばず古代より海は少年愛を育てき
颱風を海にはなちてにはかなる冷えをよびたる翳多き陸(をか)
壁塗りこむ手間を省きてゐる仕事見やりつつ壁もわれも夜となる
やや折目くづして少女の坐るよりわれは樹となる街なかの原
街の燈をあつめてまとふ樹が立てりこの夜友欲し購(あがな)へぬものか
きみが汚れてみえる夜にて乗り捨てし電車は布施のやうに消えゆく
なんすかね、やっぱり柳次郎作品と比べるとやたら端正にみえますね。ただ、根本に漂っているマインドは共通したものがあるような気もします。
はい、どうでしょうか。「すごい影響あった」みたいに言うのは言い過ぎな気がしますが、「小野茂樹はその初期に自由律作品を試行しており、その参照元のひとつに小関茂があった」くらいは言ってもいい気がしますね。
なお、小野茂樹が亡くなった際の地中海の追悼特集に小関茂はこう書いています。
十何年にもなるから、思い出すことは限りもない。在任中絶対に休刊にしないと豪語した私に、ついに一回、休刊つまり合併号を出させたのも彼であった。約束の二十頁ほどをついにスッポかしたのである。昔はそういう青年でもあった。凝り性のせいか文学青年のゆえか、それは知らない。最後に会った編集会でもそれを言って笑った。死の十日前である。
去年の大会の後、川島と高橋、それに彼と私は小寺の家に泊り、翌日は川島と三人、紀伊の海岸を一駅ずつ止る汽車に乗り、熊野まで九時間、鬼ケ城を見て海外で石を拾い、帰宅したのは夜中であった。この一日一夜十数時間、彼と私とは、それこそこの世におけるあらゆる問題について話し合った。そして最後には湯川秀樹が模索中という新しい一元的な場の理論まで至って、私も少々呆れた。
なんというどん欲な、視野至らぬ隈もなき編集者になりつつあるのか。もはや昔日の彼とは別人のような、一種豪壮な編集者魂をみた。人生から社会、政治から芸術、道楽から科学に至るまで、変転して尽きない話題のどれ一つとして、みな一秒のためらいもなかった。みごとな知識の整理棚をつくったものである。これならやがては、日本の大編集者の一人になれると思った。
「地中海」月刊へ移行までの一年間、私はまず、結社雑誌の編集部には不似合いな第編集陣をつくっている。彼もその一人だった。やがては新しい型の編集者として、巨大な足跡を残す一人になrだろう。
小関茂「世界を観る目」(香川進編『小野茂樹の歌と生涯』より)
先に触れたように、小野茂樹はまだ学生だった時分から、地中海の編集部で中心人物として頑張っていました。そして、小野はその後角川書店に入社し、角川短歌の編集に携わった後、河出書房新社へ転職し、ベストセラーになった『千夜一夜物語』の編集などをやっています。こうした編集者としての小野茂樹の姿に、編集者の先輩として小関さんは感心していたみたいですね。
はい、長くなってきましたので、最後に小関さんが晩年に書いた「自由律短歌論」に触れて終わりにしましょう。これは、昭和40年3月号~12月号に、断続的に5回にわたって連載されたものです。小関さんの、晩年における短歌への思想が垣間見えます。
これ、かなり苦悶しながら書いたみたいで、話の筋もあっちにいったりこっちにいったりしていて、かなりくどくどした文章なんですが、結論部は明瞭です。それは、「これからの新しい短歌は口語定型になる」というものです。
短歌であるがための最低条件--それさえそなえていればとにかく歌といえ、歌だと主張できる最後の一線、最後にどうしても削れない条件は、結局定型である。
小関茂「自由律短歌論3 第二章 定型の造型力」(『短歌』昭和40年5月号)
なんだ、そんなの当たり前じゃんと思われるかもしれませんが、全然当たり前じゃないんです。これまで話してきた通り、小関さんはずーっと口語自由律の作家としてやってきました。師匠の前田夕暮が定型になっても、決して自由律をやめませんでした。しかも、時代的にも口語定型の歌人はまだ本格的には現れておらず、口語といえば自由律、定型だったら文語、と口語‐自由律/文語‐定型と二つの陣営にぱっきり分かれていたのです。
実際、中野嘉一が自由律短歌の歴史をまとめた『新短歌の歴史』でも、自由律の新短歌側から前衛短歌への批判として、「前衛短歌は語彙はたしかに旧来の短歌を打破しているけれど、定型を守るなんて中途半端だ」、なんていう新短歌側の証言が残されていたりします。
林民雄は新短歌運動の立場から戦後のいわゆる前衛短歌を批判して次のように言っている。「僕たちの新短歌運動は、時代の必然性から定型を否定するが、定型の前衛歌人たちが、〈近代〉を定型に〈はめこむ〉ことに意義を見ているのと対蹠的に、〈非近代〉を定型から〈ひっぺがす〉ことが僕たちの作業になっていることも重要な差異がある。五七五七七の固守が伝統の継承であるとする前衛歌人の〈擬曲〉は定型へのもたれかかりによって古代へ逆行する時代錯誤に強いて目をつぶることにほかならない。」
中野嘉一『新短歌の歴史』
『歌人小関茂-作品とその世界』でも、この小関さんの晩年の「自由律短歌論」に対しては、「せっかく今までずっと自由律でやってきたのに、定型とか言うなんて……」とか、「あれはよく分からなかった」とかいう反応が多かったです。なので、口語自由律作家が「これからは口語定型だよ」なんていうのは、かなり型破りだったはずです。
短歌では、俳句でも同じと思うが、小説や詩とはちがって、文語を捨てるだけでは、転換も飛躍もできない。五七五七七という定型のわくは、破ることはできるが捨てることはできない。万やむをえなければ文語は捨てても歌は残るが、定型を捨てては歌は残らない。文語定型とはいうが、しょせんは定型のためなのである。定型を守ることができさえすれば、口語だって歌と認めざるをえない。だが口語は、宿命的に、定型のわくにはまらないものと、ほとんどの歌人は思いこんでいる。だから歌からはみ出し、しょせんは歌の用語に使えないというのである。文語ならばその心配はないから、口語を使うことは極力避けようというのである。文語ならばその心配はないから、口語を使うことは避けようというのである。定型のもつ本能としては、当然のことである。
だが、それは理非や証明があってのことではない。一つには口語というこの新しい言葉が使いきれないことと、他は文語が口語化することはないという独断からとである。口語による定型などみられたものではないとは、知るも知らぬもよく言う言葉である。
(中略)私自身のわずかな経験によっても、口語による定型への接近は可能である。(中略)歌の文語が年々口語化しつつあることは事実であり、口語が文章語として精錬定着されつつあることも事実であるから、口語とは下賤な話し言葉だと早がてんしない限りは、谷を越える天才が出現するのは時の問題であろう。
小関茂「自由律短歌論2 第一章 未来設定の二つの仮設」(『短歌』昭和40年4月号)
「口語は歌の用語に使えない」という思い込みを小関さんは否定します。そして文語についても、「今の文語は明治大正期に再創造された新しい文語だ」、「文語と口語は厳密に区別することはできない」、「文語と口語との相違はただ形式的なものとなり、実質的には口語と等しくなる」と言っています。これなんか、最近話題になった川本千栄『キマイラ文語』を先取りしているようなところがありますよね。また、
文語を使うことはそれほどむずかしいことはないが、口語を使いこなすには異常な努力がいる。古語は死んだ言葉だが、口語は生きて自在の変化をもつからである。
小関茂「自由律短歌論2 第一章 未来設定の二つの仮設」(『短歌』昭和40年4月号)
とも書いています。文語のやつら、口語をなめんなよ、というところでしょうか。
この自由律短歌論が書かれたのが、昭和40年。小関さんが亡くなったのが昭和47年。『歌人小関茂-作品とその世界』が出て、「あの論はあんまり……」みたいな反応だったのが昭和52年。そして、俵万智が「野球ゲーム」で角川短歌賞の次席になりデビューしたのが昭和60年……。結果、「谷を越える天才」は現れました。やはりこの「自由律短歌論」はかなり先見の明があったと言えるでしょう。いま、私たちは「口語定型」が当たり前になった時代に生きています。
「自由律短歌論」を発表後の小関さんの作品はこんな感じになっています。
夜の暗に瞬時は光るマッチの火すわぬたばこをまた胸にしまう
百億年の歴史もつ宇宙に人間の歴史は一つの気まぐれかもしれぬ
心もつ生物を世につくりしことひそかに神は悔いるかもしれぬ
小関茂「銀河回転の夜」(『短歌』昭和41年10月号)
うろうろと古材木をさがしてるがらくたのための物置のために
いつもなにか取憑かれては生きてきた四十年が見える埃のなかから
運命を怖れぬふたりこの屋根の下でゆで出しうどんをすすった
小関茂「壊される古家のうた」(『短歌』昭和45年3月号)
確かに定型になっている……。しかし……。
「自由律短歌論」をめっちゃ褒めたのに手のひらを反すようですみませんが、やっぱりこれ、以前の自由律のころのほうが良い作品な気がします。単にこれらの連作だけが良くないだけかもしれませんが、それよりも、言葉の接続がなんかこなれてない感じがする。「口語で定型」にしようとした結果、言葉がぎくしゃくしている気がします。やはり、意外と難しいんですよね、「口語で定型」。
「俺ならもうちょっとうまく作れる」と思った方もいらっしゃるかもしれません。ただ、現在の私たちは、俵万智をはじめとした口語定型作家の作品を大量に読んだあとですから、どう口語を定型に生かすかの蓄積が多分にあります。そのあとに口語定型歌を作るのと、まだ口語定型が“熟して”いないうちに作るのとでは、難しさが全然違う。今ではフィギアスケートで3回転ジャンプは普通になっているけれど、1952年にディック・バトンがオスロ五輪で成功させるまでは難しいと言われていたように。コージー富田がタモリのものまねを始めると、みんなタモリのものまねができるようになったのと同じように。
もし、小関さんがもっと長生きしていたとしたら、実際に俵万智が登場したときに何を言ったかは興味ありますね。やっぱり喜んだのかな。それとも意外と批判したでしょうか。
はい、ではあとはちょっと小関さんの人柄がしのばれるエピソードを拾っていきたいと思います。小関さん、かなり宇宙とか天体が好きだったみたいです。『歌集 宇宙時刻』の巻末に載っている略歴にも、「昭和二年 八月三十一日 はじめて手製の望遠鏡をつくる。」とありますし、『歌人小関茂-作品とその世界』にも、宇宙好きエピソードがたくさん載っていました。
彼の宇宙天体への嗜好、偏執(パラノイア的傾向)は少年時代からのことであった。これは前掲年譜によっても知られることである。
先達て未亡人知恵子さんに、押入れの中から出てきたという故人愛用の望遠鏡をみせて貰った。深夜の街の寝静まった屋根の上で望遠鏡を覗いていて泥棒なんかに間違えられたこともあったという話もある。
中野嘉一「小関茂論」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
皆が寝静まった夜に屋根に登って望遠鏡を覗く小関さん。いいですね。実際、歌集にはたくさん天体や宇宙の歌があります。
こおろぎ、宇宙のどっかでないている。夜。金ペンにみとれていると
ナトリウムの光の中にたゞ見渡す限りまっきいろく遠く宇宙の曲率が
生命は、男の黒い眼に宿り、そして永劫へと落ちてゆく宇宙の時間
光--いつもその眼は宇宙の涯の、くらいつめたい世界を遡る
望遠鏡を覗くときは、もっとも微光の星を、いつもきまって探し求めた
少年の日に屋根に登り、深夜の星をみたボール紙の筒もその眼であった
宇宙の隅にその時計は懸り、歴史を絶した時が刻まれている
小関茂『歌集 宇宙時刻』
それで、さらに面白いのが、宇宙好きが高まってか、よく宇宙人の話をしていたみたいです。「宇宙人に逢った人の話を聞いたことある」とか、「宇宙人をみたことある」とか、「俺が宇宙人だ」とか。
ある年の瀬、私は宇宙人に逢ってきた地球人の話を小関氏より伺い驚ろかされた。それはまるで狐につままれたような一種摩訶不思議な話題で、本当に信じていいのか疑わしかった。私は一瞬、狂気の世界に魂がさまよっているのかもしれないと自分自身を疑った。酔眼を通して見る氏の目は、あくまでも暖かく温和なひかりを湛え、あの物静かな語らいの中からは狂気も誑かしも微塵だにうかがうことはできなかった。
樋口美世「ひたと視線を」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
あと五百年か千年もすれば、地球人もどこかの惑星の人と交渉を持てるかと思う、と言っていた彼。奇異な話だが、あなたは興味があるか、と訊かれたこともあった。何時の出版記念会の帰途だったか、市ヶ谷の長い歩道橋を渡りながら、宇宙人の事を聞いたが、それが小関さんの口から言われると格別不思議とも思えず、肯けるのであった。
高松光代「これからのひと」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
みずからを宇宙人と称したと聞くが、宇宙的なものさしで、ものごとを考えることの出来た小関さんの作品は、時に天体を詠い、科学者のもつ眼で作っているが、本流はあくまで自分という一個の生命体を凝視したものとなっていることに注目したい。
塔原武夫「ほんものの声」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
やー、とらえどころがないですね。「宇宙人っていると思う?」とかいきなり訊いてきて、みんな面食らっちゃってるじゃないですか。でも、そんなところも小関さんの飄々とした部分として愛されていたこともわかります。聞いてみたかったですね、小関さんの宇宙人トーク。
しまいには、こんな話をしてひとを驚かせたりしています。
編集会議の日を間違えた私は、たまたまいらした小関先生と帰る途中であった。小関先生は様々な異状体験について語った。そこで田舎住いの私は、時々誰もいない野道を一人で歩いていて、ふっと人にすれ違ったような気がしたり、また名前を呼ばれたような気がしたりする、と話したところ、それは死者とすれ違ったのだ、と即座にいわれ、それも異状体験の一つであるという。また死者は身をよけないので、こちらでよけてあげなければね、といわれ、ふいにひょいと身をよじられた。私はぞーっとして思わず後を振り返った程だ。そんな私を見て、小関先生は独特のあの「ふふふっ」という笑い声をたてられた。夏の陽がようやく落ちかけた、豪徳寺駅へ向う住宅街のしーんと静まりかえった道であった。
関根栄子「われと別れる」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
「誰もいない道で人とすれ違った感じがしたら、それは死者なんだよ」と言った直後にひょいっと人を避ける動作をする。おちゃめですね。「ふふふっ」という笑いが目に浮かぶようです。こんな人を食ったようなことを小関さんはよくしてたみたいです。めちゃくちゃ作風に合ってるな。
あと、石の収集家としても有名だったみたいです。値段の高い名石を蒐めるというよりも、そのへんにある綺麗な石を拾ってきたりしていたとか。いろいろエピソードありました。引用してみましょう。
彼は「石」の蒐集家であつたらしい。多摩川の扇状地で石を拾ひ、又熊野灘の石を持ち帰つたと云ふ。
仲田俊夫「石を墓前に」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
「鴨川できれいな玉を拾った」というお便りや、「家の近くの工事現場、つまり東京の真中におやと思うほどおもしろい石がある」という話につられて、何回か先生のお宅へお邪魔するたびに「うふっふっふ」と出されるのが、名もない道端の雑草のような可愛らしい小石がほとんどであったからです。そういうときには、わたし自身も石(おもに鉱物)をいくつか持っていって交換していただこうと気負っていたものでしたが、いつも先生に肩透しをされた思いをし、そして次の瞬間、「あ、またか」と、身体の中に熱いものがほとばしるのを感じたものです。名もない道端の雑草のような小石を、小猫を懐に抱くようにして、いつもわたしに見せてくださって、どんなところに、どうやってそれらの小石があったかを語ってくれました。真に石を愛していた人の、石への対し方、すなわちそれは、とりもなおさず、自然物への対し方といえますが、問わず語りに、--初心に帰れ、といつも諫められていたのかもしれません。
黒氏利雄「石と星と茶碗酒」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
あれはいつ頃だったか。とある飲み屋の暖簾のかげで、並んで一杯交わしていた。天体の現象か何かの話から、偶々石ころのことに及ぶと、彼の目は輝き、語調に生気が加わってくるのだ。変哲もないただの石ころに無性に惹かれて、宛で掌中の玉を慈しむように愛蔵するという。奇異と偏執をより交ぜにした不思議な感動をうけたのである。単なるイロニーとはうけとれぬものがあった。改めて反芻してみると、彼はどこへ行くにも、必ずひとつポケットへしのばせる。折々片手をさしこんで確かめ、冷たい感触を貪る。時に取出して、無言の対話を試みる。そして生成の原初に遡り、古生物や、岩石学の世界にも心を遊ばせ、地殻を構成する物質としての石の、含有する化学成分まで剔抉すべく、恣に思惟の炎をかきたてるのだ。
堀内雄平「石ころのうた」(『歌人小関茂-作品とその世界』)
3つめに引用した、堀内さんの文章の、小関さんがどこへ行くにもいつもポケットに石を入れていて、時々触って感触を確かめたり、取り出して対話したり、というエピソードが特にいいですね。いつも石をポケットに入れている小関さん。非常にキャラに合っています。石の歌も多いですね。
幾万年いのち変らぬ石ひとつ手にのせているさくら咲く日に
小関茂(『歌人小関茂-作品とその世界』より)
ふっとしてやはり俺のまわりにある眼にも見えぬ石
靴の下でその石ころはやわらかいへんに生きものゝような感じがした
石をつかみおのれの中へ投げ入れてその音をきく午後の陽の中
小関茂『歌集 宇宙時刻』
しかし、宇宙人の話をして他人を煙に巻いて、そのへんにある石を集めて、晩年には突然神主になろうとして……、なんかつげ義春漫画から出てきたみたいだな、この人。

命をつなぐだけでは恥しいなんて宇宙のどこでもきいたことないな
小関茂『歌集 宇宙時刻』
はー、長くなりました。なんか浮世離れしてるけどめちゃめちゃ鋭い小関さんの人柄がよく分かって、読んでよかったです、『歌人小関茂-作品とその世界』。
この本も、国会図書館のデジタルコレクションで読めるっぽいので、機会があったらぜひ読んでみてください。
はい、というわけで久しぶりのピーナツでした。久しぶりに書いたら、ものすごく長くなっちゃってすみません。読んでくださってありがとうございました。またできたら更新したいと思っていますので、気長に待っていてください。それでは。
