短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第13回 伊藤一彦『若山牧水 その親和力を読む』

永井祐

若山牧水―その親和力を読む

若山牧水―その親和力を読む

 

 

こんにちは。

今日は、伊藤一彦『若山牧水―その親和力を読む』(短歌研究社)です。

 一年前くらいに出たわりと新しい本です。

なにか若山牧水関係のものを読んでみようと思っていて、目についたので手に取りました。

なぜ牧水か。

以前は牧水とかほぼ興味ありませんでした。有名な「白鳥(しらとり)は―」とか、高校の国語の授業でやりましたが、あまり自分に関係のあるものだと思えなかった。

それは短歌を自分で書きはじめてからもそうで、ずっとスル―していたのですけれど、

数年前からなんとなく気になりだした。

そのきっかけになったのが、玉城徹『近代短歌とその源流』という本に入っている「自然について―牧水におけるその意味」という文章でした。

 

昼の浜思ひほうけしまろび寝にづんとひゞきて白浪あがる  若山牧水『砂丘』

 

そこに引かれていたこの歌に目がとまって。あ、すごいいいなと思って。

旅・恋愛・叙情みたいないわゆる牧水のイメージともちがっていた。

波の歌なんて古今数ありますが、浜辺で考え事しつつうとうとしてたら、「づん」ときたっていうのは、ちょっといいなと思いました。

(「ほうける」は「遊びほうける」などの用法で、「夢中になって…する」、または「知覚がにぶってぼーっとする」、「まろび寝」は「転び寝」と書いて「うたたね・ごろね」)

 

そしてさらにぐっときたのが、玉城さんがこの歌に、

 

見ているうちに、美しさが心に沁みてくるようである。

 

としていて、つまり、この歌に「美しさ」を見出しているということです。

この「美しさ」は奥が深い。

玉城さんは、北原白秋斎藤茂吉の同時期の波の歌を並べます。

 

麗らかや此方(こなた)へ此方(こなた)へかがやき来る沖のさざなみかぎり知られず  北原白秋『雲母集』

 

まかがよふ真昼なぎさに寄る波の遠白波の走るたまゆら  斎藤茂吉『あらたま』

 

注意深く見るなら、白秋、茂吉に共通だが、牧水はそこから遠い、ある「心術」が浮かび出て来よう。つまり、白秋、茂吉はあくまでも、意識的な自己設定をして、そこに捕えられる自然を歌っている。

(略)近代短歌を作る主体としての自己設定を、制作のための「機械」と考えると、事の真相がはっきりしてくるであろう。この機械がキャッチした「自然」には機械の刻印がまざまざと残っている。近代短歌としての「面白さ」と一般に考えられてきたのは、この刻印にほかならない。ところが牧水の場合、この刻印が全く無いとまでは言い切れぬものの、極めて微かである。(略)牧水には「機械」が不足していたようである。

 

 

どうでしょうか。

こういう言い方をされて白秋・茂吉の歌を見てみると、「麗らか」も「此方へ此方へ」も「かぎり知られず」も「まかがよふ真昼なぎさ」も「寄る波の遠白波の」も、ある一点の目的に向かって非常に合理的な動き方をしている、まるで歯車のような言葉に見えてきます。牧水の歌に比べて、すっかり近代性に汚染された歌みたいに現れてきます。

 

まあ、ここには選歌の妙というか評論的トリックがあって、白秋・茂吉には少々意地悪な話の運びかもしれません。

 

でも、わたしは牧水の浜辺の歌に「機械」化されない「美しさ」を見るというビジョンに確かに魅力を感じたのでした。

 

それで、岩波文庫若山牧水歌集』を買ってぱらぱら読んでいたものの、それほどぴんと来ず、では牧水関係の本でも読んでみようかなと思ってこの本を手に取ったのでした。

 

前置きが長くなりましたが、やっと伊藤一彦の本にたどりつきました。

この本は、生まれたところから死ぬところまでやる評伝ではなく、テーマ別の牧水論考が九つ並んでいるという感じのものです。

結論から言うと、(残念ながら、ということになるかもしれませんが)一章「牧水という人品」、人柄エピソード編が一番面白かった。

冒頭、牧水が満43歳で死んだときの挽歌が紹介されています。

 

愛ふかきちひさき瞳円き顔短き髯は君ならで誰  尾上柴舟

 

この歌はけっこう心に残りました。人が亡くなったときに作る挽歌に、わたしはあまり興味を引かれないのですが、

顔の特徴三連打、そしてそれが君でなくて誰だろうというこの歌はありな気がしました。挽歌として。素敵だなと。

師匠にあたる尾上柴舟とはたいへん仲良しだったそうで、以下は柴舟の発言の聞き書きです。

 

若山君が、新らしく沼津に家を建てたと言つて来ましてね。序に新らしい蒲団も作つたと言ふのです。そして、是非最初に、私にその蒲団へ寝て貰ひたいから、沼津へ遊びに来てくれと言つてゐますが、私もどうも忙しくて未だに行けないでゐます。

 

新しく作ったベッドに師匠に一番に寝てほしいと、牧水は思って招待したそうです。

これは美しい話なのか気持ち悪い話なのかよくわかりませんが。

顔の話も蒲団の話もそうですが、牧水まわりのエピソードは妙にフィジカルが強い気がします。

エピソードをまとめると、

 

・顔がよかった。特に笑顔がよかった。

・普段から服がぼろぼろだった。

・オールオアナッシングが信条だった。(大悟法利雄)

・部屋にびっくりするほど物がなかった。

・田舎者ムキ出しだったが、親しみやすい人だった。

・就職したのは生涯に二回。いずれも四カ月、一カ月で辞めているが、人徳によって難しい課題を解決したりした。

・お酒を飲むと朗詠した。自作の短歌も朗詠した。

・親に恋愛を反対されてしょげている友達のため、その親のところに直談判にいった。

 

なんだろう、おおまかに、サラリーマン金太郎みたいな感じの人物が浮かんできます。わたしは短歌を十年以上やっていますが、お酒を飲んで自作を朗詠する人は見たことがないですね。

 

こういうのが心に残ったということは、前半の玉城さんの提起した問題意識は、この本では実はあまり発展しなったということなのですが、日々の読書なんてそんなものですよね。いつか貼られた伏線がいつ回収されるかわからない。

 

ただ、牧水というのは非常にノスタルジーの対象になりやすいというか、失われたものをレペゼンする存在として見られやすいんだな、ということがわかりました。作品も人も。牧水を語ると人は、「もうトム・ソーヤが生きていける時代じゃねえんだよ」みたいな目になりがちです。安易な近代・現代批判にも使われやすい。

けれど、前半の「美しさ」が垣間見える瞬間は、歌を読んでいてたしかにあるような気がします。最後に数首引用しましょう。いずれも好きな歌です。

 

秋晴や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり 『海の声』

 

空の日に浸みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る 『海の声』

 

地震(なゐ)す空はかすかに嵐して一山(いちざん)白きやまざくらばな 『別離』