短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第46回 阿木津英『短歌のジェンダー』

そして、なぜ、短歌なのか? 寺井龍哉

短歌のジェンダー

短歌のジェンダー

 

 

本郷短歌会の寺井龍哉です。
東京では寒い日が続いています。
少し歩くだけで寒さに身がちぢみ、喉がかわきますね。
外出先で喉がかわいて、でも喫茶店に入るような余裕はないとき、あなたならどうしますか?

 

自動販売機やコンビニを探して、とりあえず一番近いところにあるものを目指すでしょう。
遠くの方にコンビニの看板が見えるけれど、目の前に自動販売機がある。
この場合、ほとんど選択の余地はありません。
自動販売機が商品の詰め替え中でない限り、遠くのコンビニには行かないでしょう。
なぜ来てくれなかったんですか、とあとでコンビニの店主に聞かれても、自動販売機の方が近かったから、で十分な答えです。

 

では、いまあなたの机の上に置いてあるペン、これはどうでしょう。
なぜこのペンをお使いですか、と聞かれたら、どう答えますか。
奥村晃作さんなら、こう答えるでしょう。
「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」。
十分な答えです。
メーカーにこだわる方も多いと思います。
私も、消しゴムはAir-inと決めています。

 

でも、なかには明確な答えを出せない方もいるのではないでしょうか。
「何となく、前のが切れたときに買ったから」
「日光のお土産でもらって」
「落とし物を拝借してしまって」
何かのはずみで使いはじめてしまって、格別の不都合もないから、そのまま、ということでしょう。
奥村さんは他社のペンと比較したうえで他ならぬミツビシを選択されたのでしょう。
が、いま使っているペンと他のペンの書き味の違いを知っている人ばかりではないのです。

 

違う例を考えてみましょう。
このサイトをご覧になる方は、短歌を日頃から読んだり作ったりすることのある方が多いと思います。
そういう方々に聞いてみたいと思います。
なぜ短歌という形式をお使いなんですか?
やれやれ、またその質問か、というお気持ち、お察しします。

 

私も、短歌を作っていることを打ち明けると、よくこう聞かれました。
でもそれは、遠くのコンビニじゃなくて近くの自販機を使うようなものですよ。
机の上のペンをいきなり指されて、なぜこれをお使いで、と言われても困ります。
中学の授業で『万葉集』読むことがあって、茂吉の『万葉秀歌』という入門書のようなものを読んで、それから寺山修司俵万智を知って……、
と語ってはみるのです。
でも、どこかそらぞらしい。
私が他ならぬ短歌を作りはじめたきっかけは、もっと単純なものだったろうと思うのです。
つまり、ただ、面白そうだったから。
かっこよかったから。楽しそうだったから。
自分でも作れそうだ、と思ったから。

 

今回、私がとりあげるのは、阿木津英・編著『短歌のジェンダー』(本阿弥書店、2003年)です。
本書は二つの章から成っていて、第一章は「ナショナリズム・短歌・女性性」と題する二〇〇一年のシンポジウムの記録です。
第二章は阿木津さんと池田忍さんの対談「短歌と日本美術の交差地点」です。

 

第一章もさらに二部にわかれ、まず阿木津さん、千野香織さん、上野千鶴子さんの「提言」があります。
その後、さらに木下長宏さん、岡井隆さん、島田修三さんをくわえた六名のディスカッションの記録が収載されています。

 

第一章第一部で俎上にあがるのは、折口信夫の「女歌」についての議論です。
このブログでも折口さんの論・作にはくり返し言及がありましたね。
言わずと知れた文学史上、短歌史上の巨人です。
彼の「女歌」論は、当時の大結社「アララギ」の男性中心的な傾向に疑義を呈しました。
まず、阿木津さんのまとめを読んでみましょう。

 

まず、折口の女歌論が歌壇で大きな衝撃を与え、問題になったのは、戦後『短歌研究』に「女流の歌を閉塞したもの」という評論が出たときでした。これは、戦後に女性歌人の意識が盛り上がりまして、昭和二四年女人短歌会が結成され、翌年秋、女人短歌叢書として十数冊、続々と女性の歌集が刊行されるわけなんですが、その側面援護のようなかたちでなされた講演を、昭和二六年一月一月号の『短歌研究』に掲載したものです。
その中の、「女の方の歌は現実にかまけて、女性文学の特性をなくしてしまひ、本領を棄てたやうに見える」「アララギの第一のしくじり(﹅﹅﹅﹅)は女の歌を殺して了つた」「女歌の伝統を放逐してしまつたやうに見える」「ですから特殊な人でない限り、女性がアララギ風を賛美するといふのは、これだけは大きな間違ひでせう」というような発言が、反アララギ、反現実主義の主張として、その後の歌壇に大きな衝撃と影響を及ぼしていくわけです。
 ところが、じつは、アララギが女歌を振るわなくさせたというような意見は、戦前、昭和初期のころからの迢空=折口信夫の持論でした。敗戦直後、昭和二一年にも、『婦人文庫』にいち早く「女流短歌史」を連載していますが、そこでも述べられている意見で、このようなメッセージを受け取った女性歌人たちの何人かが、結果的には女人短歌会の中心になった。折口信夫は、女人短歌会を起こすに当たっての影の援助者でありました。(p.17~18)

 

斎藤茂吉や島木赤彦らが活躍していた「アララギ」は、大正の初年に「歌壇制覇」と称されるまでになり、その後は多少の曲折はありましたが、現実主義、写生を重視する考え方は非常に大きな影響力を持っていたようです。
そのアララギが、「女歌」を無視し抑圧してしまったというのが、折口の意見でした。
阿木津さんはこうも書いています。

 

 昭和八年、『短歌研究』では、当時指折りの有名な女性歌人、今井邦子、阿部静枝、岡本かの子、若山貴志子、杉浦翠子、そういった数人を一堂に集めまして、女性だけで座談会をやらせ、そのあと、折口信夫が短い談話をします。女性ばかりを集めて座談会をさせるという企画も、当時の短歌雑誌では、おそらく初めてのことではなかったかと思いますが、これは出版元の改造社社長山本実彦の関心が働いていたように思われます。折口信夫の女歌論を女性歌人にぶつけるとどうなるか、というような関心があったのではないかと思われますが、そこで折口は、万葉集などには男と違う女の歌というものをはっきりとたどることができる、それは古代の歌垣という生活文化の中から出てきたものだ、というようなことをあらまし論じます。そして、眼前の女性歌人たちに向かって、あなたたちが今、女の歌だと思っている子供に乳をやる歌とか、嫁入りの歌、子育ての歌、家事の歌なんていうのは、それはじつは男の歌なんですよ、そういった現実的な素材によるのではない、男とは違う女の歌といったものが歴史上にはあったのだから、男の歌に追従するばかりではなく、どううたったら女の歌になるのか、それをあなたがた、お考えなさい、といわば挑発したわけです。(p.19)

 

なるほど、こうした「女の歌だなあ」と思ってしまうような歌というのは、男の側から見た「女の歌」にすぎない、というのですね。
女であることを対象として要請するような視線から脱出せよ、という折口の考えのようです。
こうした折口の女歌論を、阿木津さんは「家族的国家観のもと、近代的家父長制下に押さえ込まれていた女性たちにとっては、大きな励ましでした」(p.26)と考え、ひとまず好意的に受けとめています。

 

〈人間〉とは近代の価値概念ですが、折口信夫は、男とは別の〈女の特質〉といったものを対置して考えていました。『青鞜』の新しい女たちは、女も人間だ、と声をあげたのですが、折口は、そんな西欧の女のプライドではなく、日本には昔から誇り高い女の伝統があるのだと、女性を励まします。(p.34)

 

青鞜』とは、平塚らいてう伊藤野枝が中心となって発行した月刊誌で、一九一〇年代に女性の権利拡張をひろく訴えました。
「原始、女性は太陽であった」という創刊号の文章が有名ですね。

 

一方で、社会学者の上野千鶴子さんは折口の女歌論に否定的です。
「提言」のなかで、次のように話しています。

 

男歌・女歌というとき、いつも典拠とされる折口信夫の「女流の歌を閉塞したものは何か」という問いは、じつに女にとって魅惑的な罠であり、男からの悪魔のささやきだったと思います。ここで何が女歌を定義するか、ということを考えて見ましょう。(p.65)

 

なぜなら、女歌を定義するのは、主題でも、情緒でも、文体でもなく、「作者の性別が女か男かは、とりあえずは関係がない」(p.66)から、と上野さんはつづけます。
たしかに女性歌人の歌がすべて「女歌」と言われるわけではなく、男性歌人が「女歌」をものすることもできそうです。

 

何が女歌を定義するのかの次に、誰が女歌を定義するのか、を考えて見ましょう。この中には、評価も入っています。これは女歌だ、これは女歌ではない、という判定の特権を行使しているのは、折口信夫本人にほかなりません。(中略)個々の作品について、これは女歌だ、これは女歌ではないと判定し、評価するのは、何を隠そう、折口のような評者であり、またさまざまな結社の領袖の方たち、主には男性の方たちでいらっしゃいます。そのときに、女性の歌人にはどのような生き延び方があるでしょうか。女には、女歌をうたってみせる、という生存戦略があります。「女歌」は「たをやめぶり」すなわち芸でありますから、いくらでも芸をやればよろしいんです。が、ひとりひとりの女には、女歌をうたって見せることもできれば、うたわない戦略をすることもできます。
女が女歌をうたって見せれば、よくやった、と力のある男から頭を撫でていただけることでしょう。そうすればひき立ててもらえ、活躍の場が広がり、知名度も上がるでしょう。他方で、女が女歌をうたわないという選択をすれば、男のようだといわれ、ペナルティを受けることすらあるでしょう。「女歌とは何か」を決めるのは男ですから、女が女歌からはみ出したときには、女はバッシングの対象になります。「女の(﹅)(つくる)歌」と「女歌」とは違います。(p.66-67)

 

折口信夫本人の意図はともかく、彼の女歌論が単に「励まし」であったのみではなく、「罠」でもあったという指摘はたしかなものでしょう。
折口信夫本人は、自分の歌について、「女歌」である、だの、そうでない、だのと言われることはありません。
彼の歌そのものは、「女歌」云々の議論に巻き込まれることはないのです。

 

彼の「女歌」についての議論の枠組は、そのような歌人の立場から設定されたものにすぎません。
だから、折口に唱導されている時点で、「女人短歌」などの試みも、結局は男の側から見られた「女歌」だ、ということになってしまうのですね。
ちなみに、「云々」は「うんぬん」と読みます。

 

 女歌をうたうという選択も、女歌をうたわないという選択も、女にとってはどちらも罠、というダブルバインドな状況が女を待ち受けています。あれかこれかの息苦しい選択肢の間で、そのどちらでもない隘路をたどるしかない、というところに追い詰められたのが、阿木津英さんという歌人でいらっしゃいます。(笑)(p.67―68)

 

上野さんはこのようにも言っています。
女歌か、そうでない歌か、という区分を意識してしまった以上、いや、その区分を知ってしまった以上、「ジェンダー二元制」からは逃れられない、ということでしょう。
阿木津さんの状況をそのように見たうえで、次の言葉は、かなり手きびしい。

 

私は外から、阿木津さんのご尽力や孤軍奮闘ぶりを、本当に尊敬して見ておりますけれど、このような奮闘をなさる方が―女歌をうたうことからも、うたわないことからも、そのいずれの罠からも逃れようともがいているこの自由を求める魂が―定型の世界にとどまりつづけている理由がわかりません。(p.70)

 

「隘路」にいながら、そしてそこを脱出したいと願うなら、なぜこの短歌という詩型を捨てて、離れてしまわないのか。
上野さんの問いはそのようなことでしょう。
短歌を作ったり読んだりしている身には、ずいぶんと残酷な問いに聞こえてしまいます。

 

短歌を作らなくなることを「歌のわかれ」と表現することがあります。
中野重治の小説の題名で知られています。
歌人でも、春日井建や寺山修司が、これを経験しました。
しかし、寺山も春日井ものちに歌をふたたび作るようになりました。
このことは、完全に「歌のわかれ」をすることの難しさを示しているようにも思えます。

 

さて、阿木津さんは、上野さんにどうこたえるのでしょうか。

 

戦後に生まれ育った私は、戦後的な価値観による戦後教育で教えられたわけで、もともと短歌なんか古臭い趣味、くらいの認識だったわけですね。それが、仕方なく短歌でもやってみるかと、やっているうちに、歌の言葉っていうものが私を遂行していくわけですよ。そして、歌というものを知ってしまうわけです。それは散文とも、詩の言葉とも違う、俳句の言葉とも違う――。
 いちばん顕著な例を申しますと、歌は、漢熟語を拒否するというか、歌の詩形が拒否するんですね。詩形が拒否するという感覚を身につけてしまう――そこが非常に面白い。そこに調べの問題、韻律の問題があるでしょうし、ナショナルなものの引きずり出され方、産出の仕方というものがあるでしょう。それを私がおこなってしまう。そして、そのことを決して後悔しない。まあ、喜びとするわけですよね。はじめて日本語というものの美しさが理解できたという気持ちになる。そして、現在世に行われている言葉というものがどうしても無意識のままでは受け入れられなくなる。小説の言葉も詩の言葉も吟味してしまう――、というような感覚が身についてしまう。
 ということは、私が、歌を言語行為として遂行、パフォーマティヴしていくうちに、そういう媒体、行為体(エージェンシー)になってしまったということなんですね。(p.88‐89)

 

この感覚、わかるような気がします。
短歌を推敲するとき、いくつも改変の例を出して検討してゆく。
助詞を「に」から「へ」に変えてみたり、下の句と上の句を入れ換えようとしてみたりしますね。

 

やがて、あ、これだ、これしかない、という気分になる。
このときの気分を「日本語というものの美しさが理解できたという気持ち」と言ってしまいたくなる、ということはよくわかります。
翌朝になってみると気の迷いに気づくこともありますが、いっときの陶酔感はたしかにある。

 

また、こうも書かれています。

 

ジェンダーの枠組は、ぜんぜん変わっていない。このことに、私は息苦しさを感じるわけなんです。そのジェンダーの枠組は何かというと、女らしさ・女性性を、〈男性〉の支配力に抗するに利用価値のあるものとして考えるまさに日本的な、このような形ですね。この形はぜんぜん変わっていない。(中略)
 「日本」という枠組と結びつきやすい短歌定型の美ということと、短歌の言葉、というか、短歌という形式の中で伝えられて来た言葉の使われ方というのは、区別すべきだというふうに思うんですね。折口信夫はしばしば短歌滅亡論を説いていて、新しい詩形へ移っていくことをつねに期待していました。私自身も、短歌形式というものに対しては、ほんとにぎこちないというか、居心地が悪いというか、自分との間にどこかで隙間があるような、そういう感じを感じ続けています。
 しかしながら、この短歌によって担われてきた私たちの言葉、その使い方あり方というのは、一人一人、自らの身を通して「遂行」すべきだと思うんですね。これ(私たちの行為としての言語遂行)がなくなっちゃったら、たんに日本語は道具にしか過ぎない、「メシ、フロ、ネル」くらいの意思疎通のためのたんなる道具にしか過ぎない。言語というものは、私たちの半ば肉に張り付いている仮面ですから、自己形成をそれでしていくわけですから。私は長い時間の中で、数え切れないほどの人々が「遂行」してきた言葉というものを、今、私たちも「遂行」すべきだと、すべきだというといけないかもしれないけど、していきたいなと。これまでも一方ならぬ力を傾けて「遂行」してきた人々の言葉の織物を読み解きたい、そこに参加したいと、いうふうに私は思うんですね。(p.97-98)

 

「遂行」という言葉がすこし独特の意味で用いられていますが、これは上野さんの「提言」の次の部分を受けています。
固有名詞がいくらか出てきますが、難しくありません。
島田修三さんは上野さんの発言を聞いて、「思想ってのは笑いながら理解できるんだというのは変な収穫で、ジュディス・バトラーが一瞬にしてわかってしまいました」(p.83)と言っています。
言葉が発されるとき、本人の意図や気持ちとは関係なく何らかの行為として、言葉を発すること自体が意味を持ってしまう、ということでしょう。

 

バトラーには、ジェンダーの「パフォーマティビティ」という概念がございます。たんにパフォーマンスといわずに、パフォーマティビティというのは、「行為遂行性」と訳すのですが、これはもともとオースティンという言語学者の言語行為論から来ております。言語というものは、行為の手段や道具ではなく、それが発されたときに、そのこと自体によって、すでに言語のなかでひとつの行為を行ってしまっている、という考え方です。言語は、それ自体が行為だっていうのが、言語行為論の核心ですが、言語行為のもっとも端的な例は、「君が代は千代に八千代に細石の・・・」という歌でございます。この「君が代」という歌に、私がもし唱和をいたしますと、この中でひとつの言語行為が行われることになります。そこでは第一に、「君」と呼ばれている存在、この国では天皇と申す方をさすようですが――「君」というのは、ボクたちやキミたち、つまり国民のことだと解釈する向きもあるようですが、たんに牽強付会というだけでしょう――その人に対する私の従属の表明と同時に、その歌をともに唱和する人々の集団、日本という国家および国民への同一化を、私は行うことになります。(p.54-55)

 

この発言をふまえて、阿木津さんは、「長い時間の中で、数え切れないほどの人々が「遂行」してきた言葉というものを、今、私たちも「遂行」すべきだと、すべきだというといけないかもしれないけど、していきたいなと。これまでも一方ならぬ力を傾けて「遂行」してきた人々の言葉の織物を読み解きたい、そこに参加したいと、いうふうに私は思う」と言っています。
お気持ちとしては、私も理解できるつもりです。

 

でも、上野さんは納得しません。

 

ただ、やはり、なぜ短歌なのか、という問いは残ります。短歌が延命してきたと言っても栄枯盛衰の波がある、少なくとも江戸時代はそうじゃなかった、近代初期もそうじゃなかった、戦時下がかなめじゃないかとか、いろいろなご発言がでました。先ほども申しましたように、短歌の延命というものは、自動的に起きるわけではなく、その時々の担い手の自発的な関与や努力、仕掛けがうまくいったり、外れたりしてようやくなしとげられるものですから、今もまた、それを担っていこうとしていらっしゃる方々がここにいらっしゃるわけです。
 そのなかで、たとえば戦時下の庶民の経験の集積が『昭和万葉集』のような形で整理されますと、痛ましさを覚えないわけにはいきません。ましてや『台湾万葉集』というようなものを見ますと、その痛ましさはもっと強くなります。庶民の経験が、国民的定型のなかに型式化されていくことを通じて、ベネディクト・アンダーソンの言う「想像の共同体」は生まれます。経験や感情をどのような形で様式化していくかという作法が、母語の中には埋め込まれています。それを生き続けさせよう、語彙や様式を更新しながら再生させようと思う人々がここにいらっしゃるのだと思いますが、その中で若い才能が育ってきているということも私は否定いたしません。しかしながら、私たちが注意して見なければいけないのは、短歌定型という言語的な遂行を通じて、この時代の文脈の中で何が成し遂げられようとしているのかという問いです。
 それは、私たちがこれまで背負ってきた歴史の重荷や桎梏を違う姿で再生産しようとしているのか、それとも古い様式を壊して超えようとしているのか、ということは、にわかには言えないと思います。私はその点では、やはり実作者の方の責任ということを考えます。阿木津さんはこの場で、短歌の世界に踏みとどまって言語遂行すべきだ、とまでおっしゃっていました。この方が、短歌という歌の様式にここまで殉じて運命をともにされようとする、短歌に責任を背負われる理由が、私にはよくわからないのですけれども、そのことの栄光と悲惨とを共に担われるであろう阿木津さんには、いずれ自分の作品で答を出していただけるであろうと期待しております。(p.125-127)

 

短歌は、ナショナリズムに結びつきやすいものであり、旧弊なジェンダー観に縛られやすいものであり、他者を傷つけ、抑圧しやすいものである。
そういうことを考えてから、私は短歌を作りはじめたでしょうか。

 

決してそんなことはないでしょう。
近くに自動販売機があったから、何となく使っているボールペン、たぶん、そんな気分ではじめました。
軽い気持ちではじめた、ということを、偽ることはできません。
短歌は、私にとってそういうものだったと思います。

 

軽い気持ちではじめて、いつのまにか本気になっている。
「まるで恋だね」とPerfumeがささやきます。
でも、そんな罠みたいなものだと、はじめる前に誰が予想できたでしょうか。
無視できない議論があり、無視することが罪になる議論がありうるのだと、身につまされる一冊でした。

 

ディスカッションでは劣勢に立たされているような岡井隆島田修三両氏の発言にも、もちろん傾聴すべき点が多くあります。
歴史的な動きと現場の実感をつなぐ思考という部分では、両名の発言に着実さを感じたのでした。
おふたりとも、サングラスをおかけになっているイメージがあります。
「色眼鏡」という言い方は、今でもするんでしょうか。

 

池田忍さんと阿木津さんの対談も、重要な論点を含んでいます。
詳細はぜひ、お手にとってお確かめください。

 

長くなってしまいました。
お読みいただき有難うございました。
寺井龍哉でした。

 

 

寺井龍哉(てらい・たつや)
1992年東京都生まれ。本郷短歌会所属。2013年短歌研究新人賞候補。2014年、評論「うたと震災と私」で現代短歌評論賞。2016年、月刊「短歌研究」にて「短歌時評」を担当(6月~8月)。剣道三段。@