読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第37回 岡井隆『現代短歌入門』

 60年代論争史 阿波野巧也

現代短歌入門 (講談社学術文庫)

現代短歌入門 (講談社学術文庫)

 

 

こんにちは。阿波野巧也です。

去る11月23日、東京で行われたガルマンカフェで楽しくビールを飲んでいたら、ピーナツ三銃士が僕の方へ近づいてきました。

 

「ピーナツになんか書いてよ!」

「ええ、まぁ、そのうち……」

「じゃあ締切12月でよろしく!」

 

……というわけでやっていきます。

 

(1)前書き

 

さて、みなさん、こういうの見たことありますかね。

 

短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。 (p.236)

 

〈私性〉の話をするときにほぼ必ず引用される、あるいは、引用されずに「岡井隆によるあの高名な定義」みたいにぼやっと言及されるやつですね。

『現代短歌入門』は、篠弘の文庫版解説によると1961年1月から、1963年2月の間に、角川「短歌」に「現代短歌演習」として連載されていたものを一冊にまとめたものです。

当時の岡井隆の年齢は、33歳~35歳。この年齢で2年間がっつり連載を持ってたあたりにやばさを感じます。そういうわけもあって、普通の入門書のようにハウツーが並べられているのではなく、前衛短歌を経て「現代短歌」的なものが確立してきていた真っ最中の時期に、では「現代短歌」を構成する諸要素は何なのかを思索していった文章たちが並んでいます。

 

もちろん、連載していたわけなので、時評的な性格も帯びてきます。第十章「喩法について(2)」では、滝沢亘(たきざわ・わたる)の塚本邦雄批判に対しての反論から起こるやり取り(いわゆる論争)が収録されています。滝沢はこんな風に批判します。

 

また、上句の〈釘、蕨、カラー〉(阿波野注:塚本邦雄〈釘、蕨、カラーを買ひて屋上にのぼりきたりつ。神はわが櫓〉の上句)は、それぞれ何かを暗喩しているらしいのですが、この一首からそれを読みとるのは、作者と暗号表を取り交わしていない私たちには全く不可能です。そうした独善的な表現が、一層「櫓」の存在を曖昧な無限定さに追いこむ結果ともなっているわけです。 (p.190より孫引き)

 

昨今の「わかる/わからない」の話に対応するような問題提起は50年前にすでになされていたことがよくわかりますね。これに対する岡井の反論がこちら。

 

「作者と暗号表を取り交わしていない」などと、ふざけたことをいってはいけません。(中略)「釘、蕨、カラー」のそれぞれが何かであるような喩の「暗号表」的な固定化こそ、つまらない非詩的な日常的な喩の世界への転落である。それは、もはや衝撃力を失って約束の世界にとじこめられた喩法であり、詩における喩の、あらあらしい原始性を失っているのです。そんな子供だましみたいな「書き換え遊び」では、現実は表現できません。(p.191)

  

「日常的な喩の世界への転落である」!!! かっこいい。

 

釘、蕨、カラーは、一定の何かの暗喩ではないが、おのおの具象的なものの名でありながら、それらをこの順につらねることによって、イメージの重層と交響をはかっています。(中略)どうも、「釘、蕨、カラー」が偶然性を逆用しているように見えて、塚本らしい冴えがなく、またいえば、三者が少しつきすぎた感じで、「神はわが櫓」というアイロニカルな喩の片方の重みとつりあわぬのです。 (p.191~192)

 

岡井は「暗号表」発言の批判から入って、一般論からぐいぐいいってます。暗喩は固定化されたらあかんのやで、と。これはすごくよくわかりますね。直線的な喩は「うまいこと言った系短歌」に見えちゃうよね~って話と結構近くて、現代の私たちにも響いてくる言葉です。その後に、塚本の一首については、「偶然性を逆用」「三者が少しつきすぎ」という批判を加えます。

 

暗喩ってのはこういうものなんだ! みたいなことを言いつつも、だめなものはしっかり批判するというアティテュードが単にかっこいいですね。

 

これに滝沢はさらに反論するんですが、岡井はそれをスルーします。そのため、岡井が論争に勝ったように見えます。(ちなみに、滝沢はこの数年後、肺の病でなくなります。晩年の滝沢の歌、〈生き残る者にまことの孤独あらむ冬日に鈍くひかる金蠅〉などからは〈ひかる金蠅〉など暗喩の駆使が見て取れます。滝沢なりの岡井への反論を作品で示したということなのかどうかは、わからないところです。)

 

岡井隆の文章のすごいところは、ボディーブローのように重いパンチラインを吐き出して、相手が何を反論しても弱く聞こえてしまうところです。その辺がかなり立ち回りがうまい。

 

さて、前置きが長くなっちゃいました。

今回の記事では、前述の〈私性〉のテーゼが、どのように出てきたものなのか、ということを確認していきます。

執筆にあたって、篠弘『現代短歌史 III』、小瀬洋喜『回帰と脱出』からの引用も混ぜていきます。

 

(2)岡井・小瀬のフィクション論争

 

岡井隆の〈私性〉のテーゼは、「斧」という岐阜県歌人による同人誌に掲載された、小瀬洋喜(おせ・ようき)の「イメージから創作へ」を契機とした、岡井と小瀬の論争の中で出てきたものです。まず小瀬の「イメージから創作へ」を見ていきましょう。

 

短歌――それが私の文学である限りは、それ(阿波野注:歌集が作者の生活経験が如何に詩に昇華されるかということで評価されること)も許されることであろう。しかし、それが許されるのではなくて、それでなくては許されぬのであれば問題は全く別のものとなって来る。 (『回帰と脱出』p.134)

  

新聞歌壇である時は炭鉱夫、あるときは農夫、またあるときはセールスマンの歌を出していたひとに、斉藤正二というひとが「通俗の暴威」として批判をしました。そういう評価の背景には、短歌から上記のような生活体験の詩への昇華を見出す鑑賞態度があります。小瀬はそうであってもいいけど、そうでなくてはならないわけじゃないでしょ、というつっこみをいれます。

 

フィクションが短歌に持ちこまれたとき、事実よりも真実をという命題が、短歌の領域を拡大するためのものとして、歌壇での目録に加えられた。この命題は作品をそのまま真実と思いこむ習慣を矯正するのに幾らかの力を果したが、作者の側においておのずからなる限界を設定し、それを超えることをしなかった。(『回帰と脱出』p.135)

 

ここから小瀬は前衛短歌批判へと移りこみます。旧態依然的な、短歌に書かれたことは事実だという考えへの批判はもちろん、そこからの脱却としてフィクションを導入の仕方にも批判を加える。

 

そこで引き合いに出されるのが、平井弘です。表舞台へはあまり出ないですが、現在でも根強いファンがいる歌人ですね。

「斧」の同人でもあった平井の歌集『顔をあげる』には、戦死した「兄」のモチーフがたくさん出てきます。

 

兄たちの遺体のごとく或る日ひそかに村に降ろされいし魚があり

兄と共に戦わざりしわれの手といもうとの脛冬まつ傷ら

もう少しも酔わなくなりし眼の中を墜ちゆくとまだ兄の機影は

 

ここで小瀬は平井弘に実在の兄が存在しないことを指摘して、これこそ戦後の日本人の血脈に訴えかける新しいフィクションなんだと称揚します。

 

事実として存在しない兄を画いて成功した「顔をあげる」は、従来的なフィクション論議からは全く別の次元にあるものなのだ。短歌が長く閉じて来た創作の世界への斧をふりあげたものだからである。想像力の回復を云った前衛作家たちは、私性の脱却のためにとるべき創作の方法をさけて、非現実の世界に舞台を求めた。(中略)しかしキリスト教や、ギリシャ神話が日本人の血液には殆ど何の栄養をも与えていない現実にあっては、水に油は遂に親和力を示すことがなかったのである。(『回帰と脱出』 p.137)

 

「斧をふりあげたものだからである」!!! これが「斧」って同人誌に載ってるのちょっとおもしろくないですか?

小瀬は続けて、「前衛作家は”私性”からの脱却をイメージと想像にすりかえってしまったのである。然かもかなり多くの前衛作家は、血脈のない概念に日本人の抒情を仮託した。」と批判を加えます。

 

かみくだくと、前衛短歌は私性からの脱却をうたっているけれど、西洋的なモチーフの導入や、イメージの重視に苦心しているだけじゃないか、そんなものは日本人の抒情じゃねえぞ! という感じですかね。

小瀬は「兄」「母」などのフィクショナルな創作は従来の短歌ではできなかったのに平井含む「斧」の同人はそれをやっている、これこそが「私性の克服」なんじゃないか、とまとめています。

つまりは、前衛短歌のようにイメージに振り切ったフィクションの文体でフィクションをやるよりも、リアリズムの文体にちょいちょいフィクションを混ぜていったほうがむしろ「私」を脱却できるんじゃね? というのがこの論の重要なポイントでしょう。

ただし、この文章は「斧」に掲載されたもので、「斧」同人たちの歌がどういう可能性を持っているのか、ということを主眼に置いた文章になっています。それがちょこっと前衛短歌に文句を言ったために岡井に取り上げられ、攻撃されたんだろうとおもいます。

 

それでここからが『現代短歌入門』に書いてある小瀬への反論です。

 

まず岡井は、小瀬の「恋人にはウソがあっても、兄や母は短歌ではウソがないものとされて来たのだ」という言葉から論を立てていきます。ここで『現代短歌史』を参照しますが、岡井隆は「平井の作風のような、主体にまつわる事実関係の変更は許容できなかった」のだろうことを頭に入れておいてください。

 

岡井は、文芸上における虚構と、実生活における嘘の決定的な違いは、「文芸上の虚構があくまでそれが虚構にすぎぬという約束を前もって読者のまえにあきらかにしているという点」であるとします。「恋人」がいる、という嘘も、いないはずの「兄」「母」がいる、という嘘も、文芸上では同じものだろう、と。ではそもそも、短歌のなかで嘘をつくということはどうか。

 

写実派の短歌に関するかぎり、恋人も兄も母も区別なく、その実在性に関してのみならずその人々にまつわる個々の事実の内容についでまで、「ウソがない」のがたてまえです。(p.211)

 

えー! その反論ちょっとずるくない? と思わないでもない。

 

歌壇が他のどのジャンルよりも不幸だったのは、写実派が存在したことではなく(中略)、写実派がえらび取り世上に流布させた「約束」だけが唯一の約束であるかのような錯覚が、あまりに長く歌壇を制圧しすぎた点にあるのです。(p.212)

 

約束というのは、作者と読者との間の作品の受け取り方の約束です。その結び方は多種多様にありうる、というのが岡井の主張です。ここから事実偏重主義への懐疑がつづき、「嘘は毒のようにひそかに写実派の作品に入りまじってきましたが、しかもそれがあくまで「事実」らしい顔をしてあらわれ、読む側もそれを事実として読んでいたのです。」とまとめます。

 

塚本をはじめとする前衛短歌の一派は、そういった「写実派流の約束の万能説を否定しようとするもの」でした。しかし、それが徐々に受け入れられていったことによって、「さまざまに非写実の毒を嚥下しつつ歌を作っているのに、他方、形式上は旧来の約束を盾に取っているという二重の嘘」が歌壇をおおっていった、と岡井は言います。岡井はその二重の嘘にのっとって、「恋人も母も兄も区別がない」と述べたわけですが、これってどうなんでしょうね。彼自身の筆の迷いが表れてると捉えてもいいのかもしれません。

こういう二重の嘘、現代でもありそうですよね。たとえば、短歌を「一首を基本として鑑賞する」と「連作・作者情報などのコンテクストを参照しながら鑑賞する」とかは、どちらか一方が正しいとかじゃなくて、この二つをどっちも援用しながらひとびとは歌を読んでいきます。良く言えばバランスを取っているわけですが、これもまた「二重の嘘」と言えるのかもしれない。

 

岡井は平井の作品について、「一見してそれとわかるどぎつい非写実の特徴を持たず、むしろ写実派のそれとして読んだ方が素直に受け取れる種類のもの」と述べ、「平井の場合「兄」を虚構と考えるより、そういう「兄」を持つ「われ」が仮構であり作者のアルター・エゴの化身と考えるべきではないか」と述べます。アルター・エゴというのは別人格、ぐらいの意味にとらえてOKだとおもいます。

 

また、「「母」を創作した先例には、すでに寺山修司の有名な「アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちてゐむ」があるではないですか。「新次元の開拓」はまこと容易ではない。」と切り捨てます。この「まこと容易ではない。」で小瀬への反論を終えるんですがこの辺りかっこいいですね。論争慣れしてる感じがあります。

 

そして、読者の方も小瀬さんに突っこみたくなったかもしれませんけれど、やはり岡井は小瀬に対して、「わたしは小瀬に一つ問いただしたいと思うのですが、塚本邦雄がしばしば彼の作品のなかに登場させる「父」や「母」の実在性について、一体小瀬はどのような根拠から疑いをいだこうとしないのか。」と文句を言います。まあそうなりますよね。

 

両方読むと、岡井さんの立ち回り方けっこう見えにくい気がしますね。小瀬の「兄」や「母」の虚構という「日本人の血脈」に訴える私性の拡張に関する主張や、イメージ重視で私性を脱却できていないじゃんという前衛批判について、岡井は「虚構するということにおいて兄も母も恋人も同じだし、前衛でも塚本や寺山は架空の家族歌ってるじゃん」って感じにかわします。

 

さて、今まで見てきたのは第十一章、「私文学としての短歌」の(2)の部分です。次に、例のテーゼが出てくる(3)を見ていきましょう。小瀬による岡井への反論は、これも面白くはあるんですが、今回はあまり重要ではないので置いておきましょう。

 

(3)〈私〉の拡散と回収

 

「私文学としての短歌」の(3)はAとBの対話形式からなる文章で、ちょっとおもしろいです。

 

A くさくさしてるんだよ、まったく。よそで有用だった概念や分析を無反省に持ちこんできて、その実、短歌的土壌の一寸も掘れていないという手合いが多すぎるんだ。他国他郷生まれの概念や分析用語は、税関で厳重審査の上、入国させてほしいよ。

B しかし、あなたがそんなこと言っていいんですか。この「議論」がそもそも成り立たなくなりぁせんですか。(p.230)

 

文体が話し口調だし「税関で厳重審査の上、~」なんてジョークも飛ばします。なんか饒舌で僕なんかは読んでると笑ってしまう。この「A」と「B」両方が岡井隆の「アルター・エゴ」、すなわち別人格のようなものであるというのがちょっとメタ的なかんじですね。

 

この(3)でのお相手はもっぱら、寺山修司です。寺山は岡井の歌集『土地よ、痛みを追え』について、岡井は、歌集『土地よ、痛みを負え』の中の「ナショナリストの生誕」や「思想兵の手記」といった連作において、「ナショナリスト」や「思想兵」といった、「全体という概念の中に〈私〉を拡散」させているが、「そのあとの回収された〈私〉を見出すことは、この歌集の限りでは不可能にちかい」と言っています。あとは「〈私〉が観念に疎外されている」とか「トータルな人間にヴィジョン」とかいかつい評言が飛び交います。

 

ちょ、いきなり拡散とか回収とかなんやねん、みたいな感じですね。

まあとりあえず岡井の反論を見てみましょう。岡井は作中の「われ」と作者との関係を三つに分類します。

1.「われ」=作者

2.「われ」と作者の間に第三の人物(例:「思想兵」「ナショナリスト」)が介在して、「われ」と作者を媒介する場合

3.一首の歌に三人称の主人公を仮構し、そこに作者の分身を定着させようとする場合

岡井はもちろん2の立場だと表明します。一人称の「われ」を仮構することで、1の立場からも読めるようにしつつ、作品世界に客観性・普遍性を与えようとしているのだと。

 

この場合、その架空の歌い手は作者のなかのどの要素かが強調拡大されてとり出されたものであり、普通に、作者の分身と呼ばれています。(中略)その意味で、寺山修司は、これを〈私〉の拡散と呼んでいました。しかしこれらの歌が、はたしてその後に回収を要するような〈私〉の拡散の仕方を示しているかは、むしろ疑問なのではないでしょうか。

 

こういう構造を持った連作の場合、(もし成功しさえすれば)一首一首は、一枚一枚のレンズが同一焦点に集光するように、その背後に一人の告白者の像を結ばざるをえないように構成されている。(中略)全体のプロポーションとしては現実の作者そのものとちがっているが、たしかにそれは、作者の分身です。そしてそれらの分身像の重積から、作者に関する統一したイメージを画くことを、もし〈私〉の回収というのなら、それは、作者の行なう〈私〉の拡散作用の逆作業を読者が行ないさえすれば可能なわけで、もともと、そういうことを予想せずには拡散作業はできるはずもないのです。(p.238~239)

 

ここでも岡井さんは、言葉の定義があいまいなことを逆手にとって、自分の中でがっつりその言葉を解釈し、〈私〉の拡散と回収ということについて普遍性のあるパンチラインを吐いてきます。一首一首がレンズとなって、連作中の〈私〉像を結ぶ…その像を結ぶということが〈私〉の回収なのだ、と定義してみせてますね。これほぼ、〈私〉論というか連作論になってますからね。

 

寺山修司のその後の反論で示された「拡散と回収」の定義はこんな感じです。篠弘『現代短歌史 III』からの孫引きすると、「作者の中にある全体像のイメージ、「幻の私像」が存在」していて、「その全体像のイメージが一首一首の中の私的具象性を持って拡散されてゆく」のが拡散です。回収については、「こうした全体像、つまりメタフィジックな「私」を内部に創造し得ぬまま、拡散されてしまった個人体験、個人のイメージはきわめてバラバラであって、読者には決して回収作業などできないであろう。」と述べています。

 

ふむ。わかりましたかね。「幻の私像」てなんやねん、て感じですよね。

 

ここで小瀬さんの活躍です。『回帰と脱出』中の「〈私〉の論理」には寺山と岡井のいう「拡散」「回収」についての定義の検証がなされています。見ていきましょう。

 

〔定義1〕 “私”とは作者の拡散した一つである。

 

内部現実(=真実?)と外部現実(=事実?)が結合している場合に、

(A 寺山の場合)

・その外部現実(事実)を破壊して、再構成することを「拡散」という。

・その再構成のためには、構成基盤としての一つの作者の姿勢が必要であり、この姿勢が明らかになっている状態を「回収」という。

・(具体例)平井弘のような、初めから一冊のテーマがある歌集を意図しながら、歌の配置を考えていく態度。作歌においては、一首ずつが、回収点からの投影となる

 

(B 岡井の場合)

・その外部現実(事実)を破壊して、再構成することを「拡散」という。ただし、再構成のために、一首一首、作者の分身としての独自性が与えられ、その一首一首の分身の姿勢を構成基盤とする。

・作者は、一首一首の分身の統合体として初めて統一的なイメージを結び得る。この統一像を得ることを「回収」という。

・(具体例)岡井隆が「ナショナリスト」「思想兵」など、それぞれの分身として画いたものがまとめられる。分身の一部を欠いたり、分身の一部が加えられれば、統一像は変わる

 

がんばってまとめましたけど若干小難しいし、僕も完全に理解はしていないので難しかったら読み飛ばしてください。

 

ともあれ、寺山の立場は、その「拡散」を統べるべきひとつの回収点(=作者のなかの「幻の私像」)が揺るぎなく存在しなければならない、ということでしょうか。着地点が見えてるべき、あるいは作者が全部コントロールすべき、みたいな感じで僕は理解しましたが、どうだろう。一方で岡井の立場は、歌を連ねるごとに像の結ばれ方が変わってくる、(ともすれば結べなくなる)という感じでしょうか。

 

ちなみにそもそも小瀬さんは、〈私〉の拡散と回収は一首の中で行われるべきだ、という立場を主張しています。こんな感じです。

 

ピペットに梅干色にわが血沈む 一揆にも反乱にも敗れたりき/斎藤史

上句と下句とには異質の分身の拡散がある如くでありながら、実は同一体に他ならない。その同一体が具象表現と抽象表現に場を分けて描かれ、見事に回収されているのである。

短歌において問題とすべき拡散と回収はそれが一首の中でどう位置づけられているかということであって、幾つかの作品からの作者像の結像ではない。(『回帰と脱出』p.155)

 

夜の花屋の格子の彼方昏睡の花々の目 クレー展見そびれつ

緑蔭を穿ちて植ゑし新緑の杉 愛しすぎて友を失ふ/塚本邦雄

 

(中略)わたしは「分る、分らない」の分岐点は一首の中での〈私〉の回収の成否にあると思う。(中略)クレー展を見そびれたという塚本と、昏睡の花々の眼を感じた塚本との間に、まったく別個に拡散し独立した〈私〉を認める読者は回収し得ぬ〈私〉に焦らだつに違いない。(同上p.157~158)

 

どうでしょう!? これ、永田和宏の有名な歌論、「「問」と「答」の合わせ鏡」に通じる部分がありませんか。上句と下句に拡散した〈私〉が統一した〈私〉に帰ってくるか、というのはそこに短歌的な、詩情としての連関を見ることができるか、ということにつながってくるのではないでしょうか。

 

また、小瀬洋喜は〈私〉の回収について、このように寺山批判を行います。

 

問題とすべき〈私〉性とは、一首のなかにみごとに〈私〉の回収が行われているか否かである。(中略)しかしこの〈私〉とは作者であるという定義がややもすると、作者をして、“短歌的抒情に規定された人間像”にだけ制約させてしまう危険があることも、われわれは充分に知っている。〈私〉の問題においてこの危険を無視することはできない。一首には一つの〈私〉が回収されていなければならないが、その一つの〈私〉がそのまま作者全部であると思ってはいけない。(同上 p.159)

 

この辺は、僕が角川短歌の年鑑座談会で、「短歌では受け入れられやすい人間を演じてしまいがちになる」って発言したのとやや似ているところがあって、やっぱり昔からそういうの考えてるひといるんだな~って思わされます。

 

まぁ、こういう風に、〈私性〉議論って、連作論だったり、一首の読みの理論だったり、あるいは読者論だったり、色んな物を巻き込んでるわけですね。そりゃあ紛糾もするし、語の定義もあやふやになります。小瀬さんは水質学の先生で、短歌評論中にも図表をぶちこんでくるかなりの「定義厨」「分類厨」なんですが、その彼をしても、正確に分類しきれていないように感じます。難しい話題なんでしょうね。いま資料を追っかけて読んでもだいぶわけわかんないですからね。

 

(4)ただ一人だけの人の顔

 

さて、話を戻して、寺山・岡井バトルの後半戦です。

 

そして、寺山修司の、「前衛短歌のひとたちは告白(コンフェッション)しない」という批判に対して、岡井は次のようにまとめていきます。

 

A ただね、その場合、これは何度もくりかえしていうのだけれど、告白性こそ短歌固有のものだとか、あるいはその逆だとか、それから、私性はいけない、トリヴィアリズムはいけない。そういったことを妙に固定化して、どうしていけないのか、その原因追究をおこたったままいってみても仕方がないということですよね。(中略)私小説の生理と病理は、短詩型文学の〈私性〉の生理と病理と大へんよく似ながらまったく別のことでもあるのです。(中略)所詮、短歌は〈私性〉を脱却しきれない私文学である、などとあきらめたような言い方をする人があるが、こういう無気力な受身の肯定も、他方また、短歌に〈私性〉を脱した真に客観的な人間像の表現を期待するオプチミストも、結局、短歌の生理に暗い点においては同罪でしょう。短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(阿波野注:即作者である場合もあるしそうでない場合もある)を予想することなくしては、この定型詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔をより彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。(p.235~236)

 

A (中略)戦後以来一貫して悪しき〈私性〉の復活の風潮は流れています。〈私性〉の悪用または濫用は、ね。(中略)それと闘うためには、良貨を発行するほかない。〈私性〉の活用ですね。(p.237)

 

ちょっと長くなっちゃいました。

ちょうどこの時期は、安保以降の「後退期」と言われて、前衛の「脱・私」みたいな方法論が挫折してんじゃね? みたいな空気感が漂っていたようです。岡井自身がリアリズムへ回帰してるんじゃないかみたいな。そんな中で、1人称のアルター・エゴを仮構して連作を組んだりして、「私が回収されてない」と批判され、「拡散された断片がレンズのように像を結び、回収される」という図式的にわかりやすい反論を行ったわけです。そして、従来のトリビアルな日常性に終始する「悪しき私性の濫用」に釘を刺す一方で、自らの方法にも対応できる〈私性〉の単純かつ明快な定義として、「作品の背後にただ一人の顔が見える」ということを提唱し、それを生かすも殺すも歌人次第、という言い方をしたわけです。ある種、岡井さん自身の生存戦略であったようにも僕には見えます。

 

長々と書いてきましたが、特に華々しい結論があるわけではありません。ただ、岡井隆の言葉だけが非常に有名になってひとり歩きしていますが、その周りには、寺山やら、小瀬やら、さまざまな他の歌人がいたわけです。岡井さんの文章だけが残っているから岡井さんが論破しきってるようにも見えますが、ディグってみると意外と論点ずらしてうまく切り抜けたりしながら、岡井さんが落としどころを探っていった結果、この有名なテーゼが出てきた、というような感じがあります。

 

とにかくこの『現代短歌入門』は、他者との論争が載っているのが面白いところです。これ一冊だけでも、相手側の主張も引用し、説明されるのでなんとなくその時代の雰囲気がわかります。そして、その論争を通じて岡井隆はあくまで一般的な結論へ着地しようとしているのが見てとれます。そのため、「入門書」として成立しているのでしょう。(ほんとうの初学者にはあんまりおすすめしないですが。)

もちろん、その当時の論争相手の文章をディグるのもおすすめですし、あとは篠弘『現代短歌史』を読みながら読んでいくのも面白いです。年末年始をゆったり過ごす方にはもってこいですよ!

 

阿波野巧也:1993年、大阪府生まれ。「京大短歌」、「塔」、「羽根と根」で活動。