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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第26回 永田和宏『解析短歌論』

土岐 評論

「ない」を見る眼 土岐友浩

解析短歌論―喩と読者

解析短歌論―喩と読者

 

 

「短歌のピーナツ」第10回で、塚本邦雄の『新撰小倉百人一首』を取り上げた。その名の通り、百人一首を丸ごと選び直そうという壮大なコンセプトの本だが、塚本は藤原定家「焼くや藻塩の身もこがれつつ」に替えて、次の一首を採っている。

 

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

 

定家25歳のときの作。新古今和歌集の「三夕」のひとつとしても有名な歌だ。

「苫屋(とまや)」は、粗末な家のこと。海辺の荒涼とした風景を目の前にして、定家は、王朝和歌の絢爛とした花や紅葉の世界にはない「美」を見出した。

 

塚本は特に上句の「見渡せば花も紅葉もなかりけり」を絶賛している。

春の桜花、秋の紅葉とは王朝人の心を尽す自然美の代表であつた。夏の時鳥と冬の雪を加へれば、四季の眺めは揃ふことにならう。(中略)抽象の抽象、心象風景とは言つても、もはや、五弁の桜や、血紅の楓のその形など、源氏物語の明石の巻にちなんで、須磨明石あたりの、当時の実景に即した作品などと言ふ、素樸で強引な論議のあったことが、むしろ不思議なくらゐだ。「浦の苫屋」もまた、心の中の透明な屏風絵の、薄墨色の幻であつた。「なかりけり」、この否定が、そのまま「無」と呼ぶ唯美主義の呪文になることは自明であらう。何もないことの安らぎと充足感、と言ふより、花と紅葉の存在を打消すことによつて生れた「虚(ヴァカンス)」の、存在を越えた豊かさが、この一首の命だ。(塚本邦雄『新撰小倉百人一首』)

 

と引用してみたものの、塚本の思い入れが強すぎるのか、鑑賞文としては何を言っているのかわかりにくいかもしれない。

 

ポイントは初句の「見渡せば」だろう。

よく考えるとこの「見渡せば」は不思議で、ふつうの散文的な感覚だったら「見渡せど花も紅葉もなかりけり」と、逆接で言うのが自然なはずだ。

「見渡せば」と、あたかも定家は花や紅葉がそこに「ある」かのように詠いつつ、その幻は第三句目で「なかりけり」と打ち消される。

 

「ない」は不思議だ。

「ない」と言われることによって、かえって心のなかにその存在が際立つ。

 

そのことに僕が気づいたのは、俵万智『あなたと読む恋の歌百首』を読んだときだった。

 

二十年前のタキシイドわれは取り出でぬ恋の晩餐に行くにもあらず  前川佐美雄

 

この歌を取り上げ、俵はこう書いている。

 日本語は、その文末にくるまで、全体が肯定なのか否定なのか、わからない。「明日わたしは学校に行き」まででは、行くのか行かないのかは、はっきりしない。掲出歌では、その特徴が巧みに生かされている。
 初めてこの歌を読んだとき、結句にいたる寸前まで、私の頭のなかには「二十年前のタキシイドを取り出し、恋の晩餐にいそいそと向かおうとする男」の図が描かれていた。それが「行く」までいって、その後「にもあらず」と否定されてしまう。ここにきて、描かれた図は、すべて空しく消え去ることになる。その落差。
「だったらなんで、タキシイドなんか取り出すのよお」と、心のなかで口をとがらせた。そこでハッとする。行くためではなく、行かないのに取り出すところが、◯しいのだ。
 ――いま、◯の中に入れる言葉をさがして大いに迷った。「悲しい」とも言えるし「楽しい」とも言えるし、また「寂しい」ようにも思われる。(俵万智『あなたと読む恋の歌百首』)

 

当時僕はまだ高校生で、前川佐美雄のことは何も知らなかったが、この鑑賞文にはとても心ひかれた。「恋の晩餐」に行くためにタキシードを取り出すよりも、行かないのに取り出すほうが、なるほど、ずっと深い。それを「あらず」の一語で表現できる、短歌のすごさ。

記憶を遡れば、このとき僕は、「ない」の不思議さを知ったのだと思う。


 *

 

『解析短歌論―喩と読者』は、1986年発行。永田和宏の二冊目となる評論集である。高安国世の後を継ぎ、塔の主宰に就いて間もない時期の著書だ。

永田和宏の歌論と言えば「問と答の合わせ鏡」が有名だが、それは最初の評論集『表現の吃水』のほうに収録されている。

 

本書は全四章構成。

第一章では「序にかえて」として、「認識の方程式」と「自己否定の回路」の二編が収められている。

タイトルの「解析短歌論」といい、「方程式」「回路」といい、いきなり理系っぽい用語がたたみ掛けてくるけれど、数式や図が出てくるような類の本ではない。

 

第二章が比喩論で、第三章が読者論。サブタイトルに「喩と読者」とある通り、この二章が本書のひとつのテーマとなっている。

永田は、短歌における「喩」を、物事をわかりやすく説明するための「たとえ」というよりも、もっと積極的で、能動的な表現として注目した。

読者はそのような参加によって、全く新しい認識の一つの型を経験することになるのだ。作者の意図へ、読者(もちろん第一番目の読者である作者も含めて)の思惑が激しくスパークする、その尖端に、作品以前には決して経験し得なかった世界への新しい認識が開かれること、それを私は短歌における喩の本質として期待したいと考えているのである。

「自己の『いのちのあらはれ』なる短歌はこの意味に於ていとほしいのである」と茂吉はいう。だが私は「いとほしい」歌よりは、その一首が自らに何らかの爪痕を残すような、世界の亀裂をその深淵を垣間見せてくれるような、怖ろしい歌を読みたいと思うし、また作りたいと思う。

 

詳しい内容はひとまず措いて、「喩」の表現可能性に賭ける永田の熱意が、よく伝わってくると思う。

 

今回は、最後の第四章、とは言うものの分量にして本書の半分、120ページを占める「虚像論ノート」を中心に読んでいきたい。

 

「虚像論ノート」のテーマはひとつ、〈見えないものそれ自体を、いかに表現するか〉である。

永田は最初に、透明人間が頭から包帯を取って〈無〉になっていく場面をたとえに引きながら、こう述べる。

リンゴの皮のように剝ぎ取られてゆく包帯あるいは「表皮」の内部は、何も存在しない空間、いわば虚の空間であろう。それを逆にいえば、〈何も存在しないこと〉を表現するためには、〈何も存在しないこと〉がそこに存在することを相手に納得させるための仕掛けなり、工夫が必要だということだ。

 

存在するものを書くことは簡単だが、「何も存在しないこと」を書くには、どうしたらいいのか、と永田は読者に問いかける。

本書でその「仕掛け」や「工夫」の手がかりとなるのが、高安国世の歌集『虚像の鳩』である。

表題になったのは次の一首。

 

羽ばたきの去りしおどろきの空間よただに虚像の鳩らちりばめ  高安国世

 

『虚像の鳩』が発表されたのは1968年で、このとき高安は、歌集名が端的に表している通り、「虚像」の表現に腐心していた。

私の歌の多くは、何か現実には欠けているものを現実を通じて求めようとしているかとも思われる。そこにないもの、なくなったものをうたうことによって、あるべきものをさし示し、空虚を通じて充実を希求すると言ってもよいかもしれない。ないことをうたうより、あるものをうたえ、と批評されたこともあるが、あるものがなくなった、あるいは、あるはずのものがないおどろきをうたうことも、私のうたわなければならない衝動のひとつである。 (高安国世『虚像の鳩』あとがき)

 

永田が高安の短歌に出会ったのが、ちょうどこの時期だった。高安自身はまもなくこのテーマから離れてしまうのだが、「虚像」の問題は永田の心に長く残った。

(永田)は、歌との出合い頭に、「ないものを歌う」という難題と、交通事故のように出くわしたことにもなる。(中略)にもかかわらず高安国世の方は、どうやらそのような危険地帯からはあっさり撤退してしまったようなのだ。置いてきぼりをくらった恨みつらみは別にあるとしても、それでは「虚像」なる概念に対して、実際にはどれだけの仕事を残して立ち去ったのか、そのあたりのことを自分なりに確認してみたい、というのが、このノートのテーマである。

 

というわけで、永田は『虚像の鳩』を読みながら、高安が残した「ないものを歌う」という研究課題を追求していくことになる。

 

まず永田は、

 

広場すべて速度と変る一瞬をゆらゆらと錯覚の如く自転車  高安国世

 

のような独特の直喩表現に着目する。


「錯覚の如く」というのは、散文ではあまり見ない不思議な比喩だ。この他にも『虚像の鳩』には、「幻の如く」「けぶりのごとく」「まなうらのごと」という直喩が頻出する。

永田の解説を見てみよう。

実際には車窓から見た、発車する瞬間の駅前広場かなにかの情景であろうが、それを「広場すべて速度と変わる一瞬」と表現したとき、物象定かならず絵の具の溶けるように流れ出した世界のその一瞬が、映画の一カットのように作品の時間の流れの中に甦る。(永田和宏『表現の吃水』*1

 

列車が進み出す一瞬、目の前の風景が揺らぎ、そのなかで、たまたまそこに停まっていた自転車に作者の意識が向かう。

「錯覚のように」とは、「錯覚ではない」ということで、逆説的にこの自転車の現実感が浮き彫りになっている。

 

次のような歌はどうだろう。

 

ふりむけばたちまち暗き黄の色に大公孫樹立つ日陰の深さ  高安国世

 

永田は高安国世の「影」の表現に注目し、例歌を10首ほど挙げている。この歌はそのひとつだが、単に「日陰」と言うのではなく、その深さを見つめることで、公孫樹の存在感が強調されている。

これは公孫樹という実体を伴う影の表現の例だが、永田はこれ以外にも、「実体不在の影」や、「実体よりも確かに知覚される影」の歌など、様々に描かれた影を見ていく。

 

黒き鳥影の如くに枝移る樹の内部(うちら)ひろくほの暗くして  高安国世

 

「影の如くに」とは、シンプルだが、厄介な比喩だ。作者は「黒き鳥」という「実体」を見ているはずが、「影のようだ」と言うのだ。先の議論を持ち出せば、「影のようだ」という比喩は、「影ではない」ということで、この鳥の存在感を際立せるはずだけれど、はたしてこの「鳥」に実体はあるのか、ないとしたらその「影」は、どこに行ってしまったのか……。

 

ややこしくなってきたので、角度を変えて、本文で永田が引用している佐藤信夫の『レトリック感覚』の一節を読んでみよう。

ピエールがいない(*2)……という否定表現は、ピエールの存在を消し去るどころか、いないピエールの姿をありありとえがき出すのである。ピエールを言語によって消去する方策は、否定することではない。何も言わないことであろう。(略)しかし、いったん「ピエールがいない」といってみた途端、ピエールはその否定によって、満たされぬ期待のように、裏切られたまなざしの先の欠如として、虚の姿をあらわすだろう。否定表現はレーザー光線のように、虚の像をえがき出す。 (佐藤信夫『レトリック感覚』)

 

「否定表現はレーザー光線のように、虚の像をえがき出す」というたとえが面白い。

「いない」と言えば、堂園昌彦さんのこの歌を思い出す。

 

僕もあなたもそこにはいない海沿いの町にやわらかな雪が降る  『やがて秋茄子へと到る』

 

「僕もあなたもそこにはいない」が謎めいている。「そこにはいない」なら、二人はいったい、どこにいるのか。あるいは、どこにもいないのか。それとも「虚の像」としてそこにいるのか。

考えているうちに、海に降る雪は消えてしまうが、町に降る雪は積もるだろう、とか、そんなところにも想像が及ぶ。

下句の字足らずも、一首全体の「いない」感につながっているようだ。

 

さらに「ない」の表現のヴァリエーションとして、永田は「影」の他に、高安の「風」や「空気」の表現を取り上げる。

 

髪になびく風見えているそれのみに命の奥処(が)吹かれいたりき  高安国世

郭公の声わたるとき潤いてこまかに満てる空気を知れり

 

「風」や「空気」は目に見えないものだ。しかし、髪の動きや、郭公の声から、高安はそれをつかまえようとしているという。

このあたりを読みながら僕は、永井祐さんの次のような歌を連想した。

 

風が、くるくると回るバス停のポールに映画みたいな人生  『日本の中でたのしく暮らす』

くちばしを開けてチョコボールを食べる 机をすべってゆく日のひかり

 

まさしくこれらは、風や光という、見えないものが見えてくるのが眼目の歌だ。見えないものの動きを描くことによって、風景がいきいきと立ち上がってくる。

さりげないようだけれど、こういう表現は、実際にやってみるとよくわかるが、とても難しい。

永田も自分の試行錯誤の経験をノートに書いている。たとえば『不思議の国のアリス』に出てくる「笑い猫」のモチーフを短歌に表現しようとして、二首ほど作ったいうエピソード。

少し私(永田)自身のことを書けば、なんとかこのイメージを作品化したいと、いくつか試みてきた。近いところでは、

 

  朝々を塀の上より見下ろして笑うこともなきこの猫よ

 

は、当然この猫を思い浮かべていただかなければアホかということになるだろうし、先日の歌会で残念ながらわかっていただけなかった拙作、

 

  鬼灯ほどの灯をともしたる暗室に呼びもどされて微笑ゆがむ

 

も、写真現像という場面で、人間の顔かたちが現われ出る以前に、笑いだけが現われて、現像液の揺れの中にゆがんで見える、と歌いたかったのである。

 

さて、本書は他にも「序詞」の研究や、「ないということ」を「もともとないもの」と「なくなったもの」の二つに分けた分析などが展開されるのだが、そろそろここで一区切りとしよう。

 

「虚像論ノート」の最後に永田は「これまであまり考察の対象とならなかった、この、ほとんど不可能とも思える問題に対して、さまざまの試行を重ねたものである。結論ではなく、問題提起として、思考実験として読んでいただきたい」と述べている。

この「思考実験」という言葉に、注意を払っておきたい。

永田は本文でも、

もう一度断っておくが、これはあくまで作品を一つのテクストとしてそこからどのような問題をひき出せるかという思考実験にほかならないのであり、作品批評や作品鑑賞とは、おのずからその領域を異にしている。

 

と言い、この「虚像論ノート」で繰り広げられた一連の「読み」は、必ずしも作品に対する批評や鑑賞ではない、と読者に断っている。

そのことを踏まえつつ、僕は思考実験の続きとして、

 

青と黒切れた三色ボールペン スーツのポケットに入ってる  永井祐

 

たとえばこのような歌を、「ない」のひとつとして読んでみたくなる。

 

この三色ボールペン、おそらく赤いインクが残っているのだろうが、読者の脳裡に浮かんでくるのは、青や黒のインクをたくさん使ってきた作者の仕事ぶりや、ボールペン一本分の時間、まずはそういうものだろう。

「赤だけ残った三色ボールペン」と「青と黒切れた三色ボールペン」とでは、物としては同じでも、それが意味するものはまったく違うのだ。

 

「ない」を意識すれば、このように、なくなった「青」と「黒」という色やその意味を読んでいきたくなるけれど、しかし、この歌の本当の眼目は、やはり最後に残った「赤」なのではないか、という読みも、捨てがたい。

仕事で消費された「青」や「黒」ではない時間、歌のどこにも書かれていない「赤」という色に、だからこそ作者が何かを託している、というのは僕の読みすぎだろうか。

 

書きながら、なんだか僕自身がだまし絵の世界に迷い込んでいるような気もするけれど、ともあれ、こんな風に「ない」という視点から短歌を読んでみるのも、面白い。

*1:『解析短歌論』に再録

*2:サルトル『存在と無』)