短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第47回 品田悦一『万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典』

永井祐

 

こんにちは。

今日は、品田悦一(よしかず)『万葉集の発明』(新曜社・2001)をやります。

 

 

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

 

 

 

みんなが知ってる万葉集、国民歌集としての万葉集は自然にその位置についたのではなく、1890年(明治23年)前後十数年間のあいだに明治人たちの手によって「発明」されたのだという主旨の本です。

 

そのことは「うすうす知ってた」という気もしながら、読んでいったのですが、

お腹いっぱいになりました。とてもよい本でした。

万葉集のとらえ方にまつわる欺瞞とかお上の戦略とかをつっこんでいくスタイルはあるのですが、国民歌集としての万葉集なんて近代の発明にすぎないといってドヤ顔をする本ではありません。

読み終えると、「人は自分の見たいものを見るんだな」とか、「何かを信じたいと思う気持ちとはなんだろう」とか、そういう感慨に打たれます。

 

そのころある出版社から、日本の古典を少年少女向きにリライトしたシリーズが出ていた。私はそれを学校の図書館から借り出しては、次々に読んでいた。

 

こういう少年でそののちに研究者になった品田さんにとって、自らの足元を切り崩すような作業でもあるわけで、その筆致にはある切実さがあります。

 

万葉の歌々を読むこと、一般に古典を読むということは、そもそも何を読むことなのだろうか。この、一見なんでもないことがらが、私にはある時期から根本的に分からなくなってしまった。今もよく分かってはいない。本書につながるテーマに取り組みだしたのは、こんな状態のまま研究を続けることにとても耐えられなくなったからである。

 

ところでわたしは、万葉集は解説がついてる選集みたいなのを読んだことがあるくらいです。万葉仮名ももちろん読めません。

今現在自分が短歌を作っている人にとっても、万葉集っていまいちどう付き合えばいいのかわからないものであると思います。「関係ない」でもぜんぜんいけるものでもありつつ、人麿のソウルに震えてみたいという好奇心もないわけじゃない、みたいなところです。

 

情報量多いので、とても全部はできませんが、とりあえず全体の総論である一部から。

 

 

現代まで残っている万葉集を言い表す定番の表現が二つあります。

 

・作者層が「天皇から庶民まで」あらゆる階層にわたっている

・素朴な感動を力強い調べで真率に表現している

 

これらの常套句は明治後期の文学史書が定着させたもので、以来百年余りにわたって使い続けられ、現行の教科書でもよく使われているものです。

要するに日本人の万葉集のイメージのコアになるものなのですが、これがたとえば、幕末から日本に滞在していたイギリス人の外交官、W・G・アストンが帰国後にロンドンで出版した『日本文学の歴史』では万葉集についてこう書かれているそうです。

 

この世紀は実に詩歌の黄金時代であった。日本は今や、前章に述べた(記紀の歌謡を特徴づける)素朴に吐露したことばの域を脱して、現在までまだ凌駕されていないほどの、卓越した韻文の一群をこの時代に生み出した。読者はことによると、未開の文化段階から浮上したばかりの国民の詩歌を、粗野で雄渾の気に満ちたものと予想されるかもしれない。ところが驚くまいことか、実際は正反対で、活力より精錬ぶりが目立つのである。情操は繊細で言語も洗練されているし、連なる詩句は精妙巧緻、しかも固有の作詩法に備わった一定の規範を周到に守っている。この時代と次の(平安)時代に詩歌を書いたり読んだりしていたのは、日本の国民のごく一部分であった。

 

さきほどの二点のほぼ真逆を言っています。

品田さんは「アストンの記述が正しいと言うつもりはない」と留保を置きつつ、

 

事と次第によってはこのような『万葉集』像もありえたのであった。裏返せば、私たちに馴染みのの万葉像もまた、実は事と次第によって成り立ったはずなのだ。ところが私たちは、その「事と次第」をすっかり忘れてしまっていて、忘れたことを覚えてさえいない。

 

とまとめます。その「馴染みの万葉像」が成立する「事と次第」が一冊かけて説明されます。

 

そして正岡子規について。

正岡子規を近代における万葉集の「発見者」とする見方がこの本では否定されています。

短歌史でもよくそんな言い方がなされることがあるのですが、子規の万葉集の読み方や極めて高い評価は、同時代の言説空間の中で既に作り上げられていた「万葉集を国詩(国民的詩歌)として見よう」という考え方に沿ったものであるみたいです。

「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」というのは子規の有名な一文ですが、「歌よみに与ふる書」が書かれる二年前に外山正一という人が「万葉の歌を以て。古今集の歌よりは。優れたものとする事は。見識のある者の間には。既に決定したる。輿論であると思はれます」と言い切っているそうです。

 

古今集の歌は。巧に出来ては居りますが。作者が。何う謂はうか。斯う謂はうかと。凝て詠だものであると云ふ事は。歴然として。其表に顕はれて居ります。然るに。万葉の歌に至りましては。想ふ所。感ずる所を。少しも憚る所なく。少しも飾る所なしに。述べた様に出来て居ります。(外山正一「新体詩及び朗読法」『帝国文学』)

 

これは大筋として子規の主張と同じであり、二年前にそれを「輿論である」と言っているのですね。さっきの常套句、万葉集に「真率」な表現をみようという方向がはっきり出ています。これっていうのは、明治の意識の高い知識人たちが共有しているラインだったみたいです。

 

万葉集』の近代を切り開いたのは、子規の「発見」でもなければ他の誰かの「発見」でもなく、「国詩」つまり国民の詩歌という、知識人たちの共同の想像だったとしなくてはならない。

 

それでこの「国詩待望」というやつが、我々にはそれほどピンと来ないところなのですが、非常に大きなことだった。

当時の日本は維新から二十年、憲法を発布したり議会を招集したり制度的には近代国家らしくなってきたけれど、福沢諭吉とかは「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と言ったりしていて、国民としての意識をみんなに持ってもらうこと、ナショナルアイデンティティーの形成が課題としてありました。

 

こうして、日本人を日本人たらしめている根拠がさまざまの角度から探求・称揚され、もろもろの文化的「伝統」が国を挙げて喧伝されることなった。

 

1890年、『日本文学史』『国文学』『国文学読本』『中等教育 日本文典』など、近代国文学の成立を予告する基礎的著作が相次いで出版され、中等教育機関の教材とされていきました。

これは「古典復興」と呼ばれますが、このときに「国民の教養」とされるものとされないのが分けられ、かつて尊重されていた漢籍などはざっくりはぶかれたそうです。日本国民の古典だから、和文ないし和漢混淆文で書かれているのが条件だった。「東海道中膝栗毛」とかは逆にここでノミネートされて、古代の貴族の作品と近世の町人文化の消耗品だったものが、国民の古典として同一平面に並びます。さらっと言えてしまいますが、時空を歪ませるような力技であるわけです。「国語」をがっつり確定させていく必要があった。

 

「古典復興」と同時に「国詩革新」の動きが起こります。

「古典復興」は過去の『文学』をリストアップし、それらに国民の共有財産としての共通の価値を付与し、その価値を称揚して人々の国民的自覚を促すこと。「国詩革新」のほうは、国民の詩歌を新たに作っていこうという動きです。この二つは同じことの両面で、つまりは国民の文学/詩歌があらねばならないという動機から出てきています。

 

国民の詩歌になんでそんなにこだわるのか、というのは、やっぱり西欧並みを目指せ、というのが大きいみたいです。

 

明治の知識人たちが、ドイツの国民詩人とされたゲーテやシラー、またイギリスのシェークスピアに対し、どれほど深刻な憧憬と羨望を抱いていたかを思うべきだろう。当時の文芸誌・総合誌のページを繰るとき、それらは随所から伝わってくることがらでもある。彼らがこれら西欧文学史上のビッグネームを羅列しながら、「偉大なる国民詩人よ出でよ」とか「何故に劇詩は出でざるか」などとたびたび叫んでいたありさまには、悲壮とも滑稽ともつかない一種独特の熱気が漂う。

 

そして単純に優れた詩歌があれば/出ればいいのかというとそういうわけでもなく、そこには独特のアングルがあります。

次は官費留学生としてドイツに派遣された芳賀矢一さんがベルリンから東京の友人に宛てた手紙の一節。

 

すべて当地に入りて感ずる事は上王候より下百姓にいたる迄同一の文学、同一の音楽を楽む事が出来ることに御座候。

 

「羨望は文学や音楽の芸術的水準の高さにではなく、それらがドイツ国民を堅く結びつけている(かに見える)点に向けられている。」と品田さんは見ます。

 

この本では、ここのところを「国民の全一性の表象」という風に言います。

それを求める心を満たすのが、「天皇から庶民まで」のはば広い作者層を擁する万葉集だった。

 

国民の全一性を具体的に喚起するこのフレーズは、国民の統合に寄与すべき将来の詩歌に適用される一方で、その心理的等価物としての『万葉集』にも当てはめられたのだった。

 

天皇から庶民まで」というフレーズは、ある意味天皇を国民化する表現であったため、人間宣言があった後、戦後の象徴天皇制のもとでも延命できたのではないか、と品田さんは言います。

 

さて、では、その万葉集に入っている「庶民」の歌の内実はというと、

 

二百三十首を越える東歌や、九十首あまりの防人歌が載せられている。藤原宮の造営に従事した役民の歌と称するものもあるし、豊前・豊後の国の漁民の歌だの、能登の国の歌だの、越中の国の歌だのもあって、さらには、乞食者(ほかいびと)の詠という、大道芸人の口上を思わせる歌までがある。

 

しかしながら、作者層が庶民にまで及ぶという事実が注目を集めたのは、近代以降、それも1890年以降のことだそうです。江戸時代の国学者とかはそんなことには関心がなかったらしい。

 

それで、ここは謎も多いみたいなのですが、その「庶民の歌」も三首を除くとほぼ定型の短歌・旋頭歌・長歌であって、当時の貴族たちが作っていたのと同一の形式のものになります。

読み書きを知らない人たちが口頭で謡ったり、唱えたりしたものとは明らかに違っているらしい。

 

問題の歌々は、古代の「庶民」の生活からおのずと生み出されたわけではない。定型短歌を標準的歌体として保持していた貴族たちとの、なんらかの接点がそこには存在したと見なくてはならない。

 

接点というのは、兵役その他の徴発だったり、東歌の場合は、現地の郡司層とそこに赴任した官人たちとの合作による、擬似的な「東国の歌」であり、王権による在地文化掌握の志向の産物だったと考えられるそうです。

 

短歌の広汎な流通という状況を現出させたのは、古代律令国家の運営に付随する物的・人的・精神的交通であって、「庶民」はそこに巻き込まれこそすれ、進んで参入したのではなかった。だから九世紀以降、列島社会内部の交通が必ずしも国家主導のものではなくなっていったときには、短歌の流通範囲自体がふたたび局限されてしまった。防人たちの子孫は防人制度が廃止されればもう短歌を詠もうとはしなかったし、東歌の命脈も基本的には八世紀で尽きた。短歌が「庶民」の生活に十分根を下ろしていたなら、一世紀に満たない期間でたちまち廃れたりはしなかったはずではないか。

 

それで、じゃあなんで東歌とか、内容もことばも風変わりな歌を万葉集はのせているのか。

 

日本の律令国家は、理念上は中華帝国と並ぶもう一つの帝国ということになっていて、帝国というものは、「-近代国民国家が統治空間の均質性を擬制するのとは対極的に-統治領域が天下の全域に及び、多種多様な民族(エトノス)を包摂することを建前としていたのだった。」

 

 万葉集はそういう小帝国の文化財として編まれた。編纂者の意図は、自分たちの支える王権が世界中の人々の心と生活を掌握しているということを歌によって示す点にあったのではないかと品田さんは言います。辺境の民、異人たちの歌として、むしろ風変わりな歌をのせることに意味があった。

 

このへん、この本のメインテーマではないのですが、面白いですね。このあたりは石母田正の古代国家論がベースになっているそうです。

海外ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」を見ている人だったら、ナイツウォッチが<壁>の北に住むの野人たちの文化に取材し、七王国定型詩の形にしてアンソロジーに載せたというところでしょうか。

 

で、そういう万葉集を明治の人たちが見つけて、作者の層の幅広さを国民の均一性の表象として読み替えて、というかそうゆう願望をたくして、「国民歌集」として作り上げ、来るべき「国詩」の源流とした。

 

 

今回、ちょっと勉強っぽくなりすぎて疲れました。これでもまだ前半三分の一くらいです。わたしは明るい分野ではないので誤読してたらすみません。

後半も、島木赤彦のところとかやばくて面白いです。赤彦に関するもので今までで一番よくわかったかもしれない。

この本は最後まで読むと、万葉集とどうやって付き合っていこう、別れるという選択肢も含めてどうやって付き合っていこう、と考えさせられます。

よい本で、何気に熱い本だと思います。

気が向いたらぜひ。

 

ではまた。