短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第48回 林和清『京都千年うた紀行』

そうだ、京都を詠もう。 土岐友浩 

京都千年うた紀行

京都千年うた紀行

 

 

旅のガイドブックと言えば、絶版だけれどガリマール社の「旅する21世紀」シリーズがとても好きだ。フィレンツェイスタンブール、タイ、ロンドンなど、その土地の歴史や文化が豊富な図版とともに紹介されていて、ぱらぱらと眺めているだけで、旅をしているような気分になれる。

 

残念ながら、京都のガイドブックで、このシリーズに匹敵するようなレベルのものは、たぶんない。仮に「これ一冊で京都がわかる」というような決定版の本があったとしても、どう考えても、ものすごく分厚くなってしまうだろう。

 

だから、京都を書くために必要なのは、おそらく「切り口」だ。

 

京都のガイドブックは、お寺や神社、カフェ、古本屋、あるいは「大人の修学旅行」や「京都散歩」など、旅のコンセプトやスタイルで京都を切り取ってみた、というものが多い。

いわゆるガイドブックにかぎらなくても、京都を知ろうと思えば、たとえば鷲田清一が京都を哲学した『京都の平熱』や、永江朗が京都にセカンドハウスを構えるまでを書いた『そうだ、京都に住もう。』などのエッセイも、独自の視点と新鮮な発見があって、とても面白い。

 

では、短歌を切り口にしたら「京都」のなにが見えてくるだろうか。という疑問に答えてくれるのが、本書『京都千年うた紀行』である。

 

雑誌「NHK短歌」の四年分の連載をまとめた本で、王朝和歌の時代を中心に書かれた京都のガイドブックとして読むことができる。

著者の林和清は京都生まれの京都育ち。塚本邦雄に師事し、現在は結社「玲瓏」の選者をつとめている。

 

本を開くと、まず口絵に、朱色の灯篭の上に満開の桜がかぶさった、平野神社の写真が一枚。

京都の桜の名所といえば、円山公園のしだれ桜を代表にたくさんあるけれど、どうして林は、最初に平野神社をもってきたのか。

その理由は、本書を半分くらい読むとわかる。

 

ここには四百本以上の桜があるが、珍種がそろっていることでしられる。三月下旬、「魁桜」がひらき、いち早く京の花見シーズンを告げる。つづいて、葉と花が同時に出て目がさめたような「寝覚め桜」、淡紅の大輪で蝶が飛んでいるような「胡蝶桜」が咲く。

(中略)

このように平野神社では、一か月以上もつぎつぎとちがった桜が堪能できる。現在、四月十日に行われている「桜祭神幸祭」は、この地に桜を植えた花山天皇にちなむ。作庭の才を謳われた帝だけに、品種や植え方にも工夫されたのだろう。御製では、夕桜の美を詠まれている。

 

 足引の山にいり日の時ぞしもあまたの花は照りまさりける  花山院
(夕日が西の山に入るときこそ、すべての花がいっそう輝きをます) *1


平野神社は、いわば「花の神社」なのだ。

そして実は、塚本邦雄が慶子夫人と結婚式を挙げたのも、ここ平野神社だったという。

それは1948年5月10日のことで、林は二人がお互いを詠んだ歌を引きつつ、「もしかすると、塚本が好んだ御衣黄桜が数輪、咲きのこっていたのかもしれない」と、この日の様子を想像している。

 

平野神社の他にも、ページをめくれば下賀茂神社の糺(ただす)の森、野宮神社の紅葉、雪の寂光院などが載っていて、京都の四季折々の姿を楽しませてくれる。巻末には京都MAPもある。

 

本文は全五章構成。

第一章は「京都十二か月うためぐり」と題して、桜の咲く四月から始まり、その月にちなんだ京都の風物を、短歌や和歌とともに紹介している。

ためしに三月の部を読んでみよう。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」

 

 この有名な言葉ではじまる『平家物語』をしらない人はいないだろうが、本物の沙羅双樹をしっている人はすくないのではないか。(中略)それに近い花を見ようと思えば、三十三間堂に行くとよい。

 

 「仏は常にいませども現ならぬぞ哀れなる。人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ」

 

 わたしは、三十三間堂に入るといつも、ひしめきあう千一体の観音像から、この今様が、かすかに聞こえてくるような気がする。当時の流行歌である今様を集大成したものが『梁塵秘抄』、編者は後白河院である。源頼朝をして、「日本一の大天狗」といわしめるほどの策略に長けた政治家であった後白河院だが、夜ともなれば、来る日も来る日も狂ったように今様をうたいつづける道楽者でもあった。のどが腫れて水さえ通らなくなっても、まだうたいつづけたという。

 その後白河院が発願し、平清盛が造営したのが蓮華王院、柱間から通称を三十三間堂と呼ばれる。(中略)全長七メートルをこえる本尊を中心に、千一体の千手観音像が金色に輝いている。その前には二十八部衆という仏教の守護神がならび、左右には風神雷神がにらみをきかせる。これだけのものを私財で建立し、院に寄進した平清盛もそうとうな大人物であったことがわかる。

 

いちおう僕も三十三間堂には行ったことがあって、金色にずらりと並んだ観音像のインパクトだけはよく覚えているものの、後白河院の名前などはすっかり記憶から抜け落ちていた。恥ずかしながら、あの観音像は全部、平清盛が集めたものだということさえ知らなかった。

平清盛と、後白河院、二人の情熱があって、あの三十三間堂ができたのだ。

 

平家は都を追われたため、その史跡は六波羅蜜寺周辺を除いて、ほとんど残っていないという。

六波羅蜜寺は東山五条を北に少し越えたあたりにある。「六波羅」というのは、東山のふもとを意味する「麓原」が転じたものだそうだ。

六波羅は)平安時代には、使者を葬る鳥辺山へ行く道すじの不気味な場所だった。六波羅蜜寺の地名は轆轤町(ろくろちょう)というが、そのむかしは髑髏町とよばれたらしい。きっと骸骨が無数に転がっていたのだろう。そんなところに拠点をつくったのが平家一門なのである。骨の転がる野をいとわず屋敷を建てたというのは、どんなに貴族化していたとはいえ、血なまぐさい戦をなりわいとする武士の一門だったからか。 

六波羅蜜寺には、清盛の木像が安置されている。出家した五十歳以降の姿で、静かな経典を手にするたたずまいは、傲岸不遜なところはなく、高徳の僧のようだといわれる。しかし、実物と相対してみると、表情などがあまりにリアルで、どこかおそろしい。時代を動かした男の強烈な自我が、まだ内側に燃えているようにも見える。

 

 かひこぞよ帰りはてなば飛びかけりはぐくみたてよ大鳥の神  平清盛
(わたしは卵ですが、かえったら飛びますので、大鳥の神よご加護を)

 

林は聞こえないはずの今様を聞き、見えないはずのドクロを足元に見る。

その語り口は、土地の記憶を呼び起こし、歌にこめられた魂を現代によみがえらせるようだ。

 

最後に、清盛の鎮守社である西大路若一神社を訪ねて、「京都十二か月うためぐり」の三月は終わる。

境内には清盛ゆかりの神水がいまもわいており、お手植えの楠の木もそびえたっている。しかし、いかにも小さい神社である。『平家物語』ゆかりの地をたずねる観光客も、あの平家の栄華の跡がこんなものか、としみじみ感慨されるだろう。清盛が好きだったのは、はなやかな桜や紅葉ではなく、地にしげる蓬だったというのも、またあわれ深い話である。

 

沙羅双樹の話から始まって、ここまで、本文にしてたった4ページなのだが、なんと濃密な旅だろう。

もう一度、三十三間堂に行って、六波羅蜜寺と、機会があったら若一神社もぜひ訪ねてみたい、というモチベーションが湧いてくる。

 

第二章は祇王祇女から始まって、式子内親王まで、平安の女性たちの悲しい運命をたどった「京都女人の面影」。

以下、第三章「花と地名のものがたり」、第四章「歴史と異界への扉をひらく」、第五章「世界遺産京都御所」と続く。

清水寺平等院鳳凰堂といった定番もしっかり押さえつつ、「天使突抜」「太秦和泉式部町」「歌ノ中山町」など、塚本が見出した現代歌枕というべきマイナーな地名まで、話題がほんとうに幅広い。

 

きっと、京都を見る目が変わるのではないかと思う。

 

 *

 

在日ファンクに「京都」という曲がある。
公式PVはこちら


在日ファンク - 京都

 

この曲、はっきり言って、京都感はゼロだ。

 

PVの冒頭から、眼と額がピカピカ光るあやしい大仏が大写しになる。

明らかに「どこが京都やねん!」という突っ込み待ちだ。

 

ゆるい小芝居があってから、軽快なギターのイントロ、ハマケンのステップ。

歌詞はなんというか、あってないようなもので、意中の相手に「京都に行こうぜ!」とひたすら呼びかける、ただそれだけだ。

なぜ、京都なのか。京都に何があるのか、そこに何をしに行くのか、そんな話はいっさい出てこない。

 

でも、たしかにこの曲は京都に行きたいという感情に、強く訴える。

言い換えると、京都について何かを語るのではなく、「京都に行きたい」という気持ちそのものが、テーマになっている曲なのだと思う。

 

京都に行きたい。

僕自身、そのわけのわからない、止みがたい衝動に駆られて京都に引き寄せられ、そして短歌に出会ったようなものだ。


 淡雪にいたくしづもるわが家近く御所といふふかきふかき闇あり  林和清

 

京都の桜から始まった『京都千年うた紀行』は、最後に御所で終わる。

第五章の「世界遺産京都御所」というタイトルからも、ここが林にとって特別な場所なのだということがわかる。

林和清の代表歌としてよく引用される一首だけれど、この歌、そもそも御所という地に「闇」を認めるかどうかで、読者の受け取るものがまったく変わってくるのではないだろうか。

 

京都に生まれ育った博覧強記の著者をもってしても、見ることができない「闇」がある。

いや、それはむしろ知れば知るほど、強く深く感じられるものなのだ。

 

その「闇」を想像することしかできない僕は、きっとこの歌を、あるいは京都を、短歌を、まだまだわかっていないのだろう、と思わずにはいられない。

*1:p.92「京の桜めぐり」