短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第2回 花山多佳子『森岡貞香の秀歌』

 永井祐

森岡貞香の秀歌

森岡貞香の秀歌

 

 

こんにちは。

永井祐です。

歌書ブログ、短歌のピーナツをやっていくことになりました。

家にある本、昔買った本、覚えている一節、などなどを適当に掘り起こしつつ

やっていこうと思います。

 

2回目の今日は、

「森岡貞香の秀歌」(花山多佳子・砂子屋書房)です。

去年の12月に出た本なので、まだ新刊の部類ですね。

森岡貞香を知ってるでしょうか?

まあ、ググってもらえばいいんですけど、今から七年前、平成二十一年に

九十三歳で亡くなりました。

戦後に活躍した歌人の一人なのですが、こう、けっこう変わった感じの

歌を詠む人なんですよね。ほとんど破調だし。そして同時に、本質的なところを

ついている感じがするのです。

わたしはしばらく前からちょっとしたファンなのですが、

この本は、その森岡さんの残した11冊の歌集をはじめから終わりまで順々に

読んでいくというものです。

必要な予備知識とか時代状況とかはフォローしてくれますが、基本は淡々と

歌を引用して淡々と読んでいき、そして、「この一月末に森岡貞香は亡くなった。」

という一文でふつっと終わるという、

とてもマイペースな本です。

序に「もとより、これは論ではなく、あくまで鑑賞である。」という一節がある

くらいなので、評論的フック、戦後論とか近代とは何かとかそういうのはあまり

出てきません。

でもそれが魅力なんですよね。歌がある。それを読む。ザッツオール。

それが基本にして奥義。それでしか深いところには行けない。

そういう種類の一種の原理主義を感じなくも、ないです。

ではこのくらいにして引用していきましょう。

森岡さんの歌だとわたしは第一歌集『白蛾』をよく読んでいて、後期の歌をあま

り読んでいなかったので、今回面白く感じたのは五十代後半以降の歌でした。

たとえば、

(森岡さんの歌は定本ではすべて漢字が旧字に統一されているのですが、この記事では新字で表記します。)

 

樹の下の泥のつづきのてーぶるに かなかなのなくひかりちりぼふ  『黛樹』

 

 ほら、ちょっと、不思議な感じでしょ。謎のひらがな書きの「てーぶる」とか、

謎の一字空けとか。これ、歌集の冒頭の歌だそうですよ。では花山さんの解説。

 

「テーブル」を「てーぶる」と表記するのはおもしろい。森岡は「てーぶる」「びにーる」とかは当初よりひらがなで書くようだ。この歌を普通に漢字とカタカナまじりにすると魅力の大半は損なわれてしまう。

眼目は「泥のつづきのてーぶる」である。驟雨の後なのか、土がぬかるんでいる。樹の下に置かれた「てーぶる」の脚が泥にめりこんでいるのを、このように言った。「つづきのてーぶる」と、いかにも泥からそのまま伸び上がっていく感じ。そして一字あけ。続けると、「かなかなのなく」が直接その「てーぶるに」であるということになるので、それを避けたのであろう。「どろのつづきのてーぶる」という垂直があり、声と光へと広がる空間。また、たしかな質感のものに対して声とひかりの無辺。この空間にてーぶるがあると絞っていくのが短歌の定番だがこの歌は逆で遠心的に広がっていく。

 

 ふむ。「つづきのてーぶる」、やっぱりカタカナにしちゃうとアウトですよね。

なんかかわいいし。

一字空けは景のピントを合わせ過ぎないように、という感じですかね。

そして次の歌がすごい。

 

新萌の欅木立にカ音もて入りこむものが鴉にてある  『黛樹』

 

カ音て。

カアだよね。

「カ音もて入りこむ」って。

さっきの「てーぶる」もですけど、絶妙なナチュラルさでボケてきていて、僕は

こういうの好きですね。

古い人間のナチュラルな小ボケにはかなわんな、という感じがします。まあ、この歌は五十代ですが。では解説。

 

「カ音もて入りこむ」が斬新というか破格で一度読むと忘れられない。茶色っぽいけぶるような欅の芽吹きのやわらかさに「カ音もて」入りこむ鴉。(略)鴉の存在の命題のような言いようがおもしろい。「カアカアと」とか「カカカカと」とかでない妙な抽象化だ。狼藉者が「カ音」を持って切り込んでいくような感じがする。一首全体も「カ音」が多い。

 

この本の魅力として、花山さんの選歌が的を得てるんですよね。

この歌なんて、人によってはさっくり落とされちゃうと思うんですよ。

花山多佳子さんは僕の知る中でもっとも森岡貞香をよく理解し、高く評価している人です。

書き方わりとそっけないけど選歌や読みの方向に間違いがない。そういう安心感があります。

 

森岡は、亡くなってから遺歌集が三冊も出てるんですね。

つまり、七十代後半以降の作品がけっこう豊富にあって、そこにしっかりページを

割いているのもこの本の特徴です。

そのへんの歌がまたけっこうすごくて、面白かったです。

 

なつかしきのごときのよりそひ此のさきのことなつかしくわが思ひゐる 『九夜八日』

 

「なつかしきのごときの」という言い回しが、例によって一般的ではない。「なつかしき」を名詞と読んで、なつかしいようなさまざまがよりそって、という感じだろうか。なつかしき人のよりそひ、というふうには言わず「のごとき」と曖昧模糊とするのが森岡流である。なつかしき人か物か空気かわからない。それで、「此のさきのことなつかしく」と、未来をなつかしく思う歌ははじめて見た。しかし、なつかしさがよりそっている身には、このさきのこともなつかしく思われる、という心持には、いたく惹かれるものがある。

 

薔薇のつる雪の重みに下りゐしなほくだりこむと椅子にゐておもふ  『九夜八日』

 

下ってきている薔薇のつるを見ながら、もっとくだってくるだろうと思っている。ふつうは眼前の状態だけうたうのに、この先の状態をいうところが森岡らしい。これも空間に時間の継続を見ている。「薔薇のつる/雪の重みに/下りゐし」とゆっくりと下ってくる調べが「なほくだりこむと」と、いかにもずり下がってくる字余りになって「椅子にゐて思ふ」も、字余り。同じ八音でひきのばされて、調子はとれている。「椅子にゐて」という、自分の位置の明示も、つるが下がってくる同じ時間をそこに感じさせる。

 

どうでしょう。言ってることも韻律もぐにゃぐにゃしてて一読ではとてもぱっとつかめないような歌たちですが、花山さんが細かく読んでくれます。

「なつかしきのごときのよりそひ」とか、「え?」って聞き返したくなる感じですが、ある極限的なゾーンに入ってる気がして、わたしはちょっとぞくぞくしますね。

 

この文体でいくと、あらゆることが曖昧模糊というか独特の感じになって、次の歌は、息子さんの車に乗っていて、渋滞に巻き込まれたときの歌だそうです。

 

あとさきの混みあふときを汝のくるま走れずなりぬわれもろともに  『九夜八日』

 

交通渋滞を「あとさきの混みあふときを」というのがまずなかなかであって、「汝のくるま」(なのくるま)という言い方も若干不思議で、「われもろともに」はそりゃ乗ってるんだから当たり前なわけだし、もうね、小ボケの嵐なんですよ。それをリズムゲームのように高速でつっこみながら読むという。一首につき四、五箇所くらいありますから。

晩年は息子さんが車出して色んなところに行ってたそうで、「汝のくるま」が出てくる歌は実は何首もあるのです。

そう思ってみると「汝のくるま」という言い方に独特の親密さがこもってるのかな、と思えてきます。「汝のくるま」にいるのわりと好きだったんだろうなとか。

ちょっとしみじみします。

 

ではきりがないのでこのへんで。

今回は後期から引きましたが、初期のものももちろんばっちり読んでるし、森岡入門には最適ではないでしょうか。

短歌史やらアンソロジーやらの紹介より、ずっと深いですよ。