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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第44回 本多正一『プラネタリウムにて 中井英夫に』

 最晩年の中井英夫とその助手について 堂園昌彦

プラネタリウムにて―中井英夫に

プラネタリウムにて―中井英夫に

 

 こんにちは、堂園です。

 

今回やるのは、2000年に葉文館出版から刊行されている、本多正一著『プラネタリウムにて 中井英夫に』です。

 

この本はどういう本かというと、稀代の作家・編集者であった中井英夫の晩年の日々を、最晩年の助手でありその死に立ち会った本多正一さんが、写真と文章でつづったものです。中身はいろんなところに発表した追悼文集みたいな感じです。現在、本多正一さんは中井英夫著作権管理者になっており、創元文庫版の中井英夫全集の編集者でもありました。

 

中井英夫は、戦後ミステリの金字塔『虚無への供物』を書いた幻想・推理作家。また、短歌でいえば、短歌雑誌の編集者として塚本邦雄寺山修司や春日井建や中城ふみ子らをプロデュースし、前衛短歌運動をけん引したことで有名です。このブログでも、第4回・浜田到のときに出てきましたよね。

 

まあググっていただければいいんですけど、中井英夫のことをご存じない読者の方に説明すると、知らないひとは全然知らないけれど、知ってるひとは、

 

中井英夫!!!!!

 

とかなるタイプの作家ですね、中井英夫は。

 

で、ご多分にもれず、私も高校生のころ『黒衣の短歌史』を読んで、なんだこれ短歌超おもしれえ!! と思い、続いて『虚無への供物』を読んで、なんだこれミステリ超おもしれえええ!!! と思いました。いやほんとどっちもまじで面白かった。しかし恥ずかしながら、その後中井英夫の他の著作へはそれほど深入りはしていないという、ものすごく浅薄な読者が私です。

 

だから、実は今回、この本を紹介するのがふさわしいのかどうか、正直ためらいがあります。浅薄な中井英夫読者である私には、その資格がないのではないかと思うからです。

 

ちょっと話が脇にそれますが、このブログの第36回で『塚本邦雄の青春』と映画「この世界の片隅に」を取り上げたときに、ありがたいことに様々な反響をいただけました。

 

 

 

なかでも歌人黒瀬珂瀾さんのこのツイートが私にはとても嬉しく、また深く感じ入るところがありました。でも同時に、私にはこの黒瀬さんと同じような気持ちになるのは難しいな、とも思いました。それはもちろん、生前の塚本さんとお会いしたことがないから当たり前なのですが、それ以上に、私は塚本邦雄という存在に対して、この黒瀬さんのツイートに込められているほどの深い精神的な親しみを、まだ抱けていないからです。

 

孤高の作家、特にその幻視の力によって非現実の王国を築いたような作家の、生前の姿や思い出を語る言葉や文章には、その「虚」と「実」の合間にあった「生身」にいくらかなりとも触れることができた者だけが持つ、独特の甘やかさのようなものがあります。

 

いや、もっと一般的に言ってしまえば、死者と立ち会えた人間だけが持つ侵しがたさ、のようなものがあり、それに私は圧倒されてしまうのかもしれません。

 

そして、今回紹介するこの『プラネタリウムにて 中井英夫に』という本は、その精髄のようなもののひとつになります。

 

 

著者の本多正一さんが、中井英夫の家で助手として働くきっかけとなったのは、1989年のことでした。

 

本多さんが中井英夫の名前を知ったのは、14歳のとき。『虚無への供物』を文庫本で読み、その世界に激しく魅了され、そのときはむしろ「自分にはこの作家に会う資格がない」とまで思いつめたようです。

 

それが大学卒業後の24歳のとき、本多さんは、中井英夫が当時住んでいた東京都世田谷区の羽根木の家から引っ越すつもりであるということを、雑誌のエッセイから知ります。それで、引っ越しの前に敬愛する作家の家をひとめ見ておこう、できたら写真に収めようと中井英夫の家に向かい、門の前にたたずんだのでした。

 

 一瞬、目と目があった。ファンの子が来たな、とでも思ったのだろうか、縁側からサンダル履きでやってきて「もしよかったら上がりなさい」と声をかけてくださった、会う資格がない、とまで思いつめ尊敬していた作家が目の前にいた。動いていた(原文傍点)。(p.84)

 

なんと、家を見るだけだったはずの本多青年は、どうしたわけか中井英夫に家の中に招かれます。そして、中井英夫と直接話をする幸運に恵まれます。

 

居間に通され話をし、夕方になると「君、悪いんだけど台所にいってグラスと氷をもってきてくれない」とソファの下からウイスキーのボトルをごそごそと取り出した。写真を撮りに行ったはずだったが中井英夫にカメラを向けることなど思い及ばなかった。ひとりグラスを傾けながらふと気付いたように「君も飲む?」と言った。とんでもない、と首をふった。中井さんが六十六歳、健康と体調が急速に衰え始めたころだったのだろう、随分とお痩せになって家の中でも杖をついていらっしゃった。(p.84)

 

思いがけない幸運に恵まれた本多さんは、後日、お礼の手紙を出します。

 

 拝啓 急いで御礼の手紙を、と考えながらも筆不精のため遅くなりました。お許し下さい。六月二十五日日曜の午後に突然お邪魔をさせて頂いた者です。

 見ず知らずの者を歓迎して下さったこと、永年の愛読者として至上の喜びでありました。いずれ改めて御挨拶をさせて頂きたいと思っています。

 とりあえずの御礼まで。御健康をお祈りしております。

                         敬具

                        本多正一

 中井英夫様(p.81)

 

そして、ふたたびお礼を言いに行きます。そしたらなんと中井英夫から驚きの提案をされるのです。

 

この一枚の葉書を出してふたたびお目にかかったとき、「よかったら住み込みで助手になってくれない」と持ち掛けられた。……(p.84)

 

まさか憧れの作家の助手になるとは思ってもみなかった本多さん。すごい運命の転回です。しかし、彼を待っていたのは、なかなか大変な日々でした。

 

実は当時の中井英夫は、同棲までしていた最愛の人・田中貞夫に先立たれ、失意の中、アル中になっており、小説もまったく書けない状態でした。

 

この本の解説に、文筆家の田中幸一さんが初めて中井英夫邸を訪れたときの文章が載っています。

 

 小金井の家は広さこそ十分過ぎるものの、室内は雑然としており、はっきり言えば小汚いという印象だった。少なくとも「流薔園園丁」をかつて名乗った人の住む家だとは思えなかった。……また中井英夫その人も、衰えを知りつつ会いに行ったにもかかわらず、やはり痩せ衰えた見すぼらしい老人だった。べらんめえ調の話しぶりだけは妙に元気であった。初めて電話をもらった時、すでに中井は酔っていた。当時、中井はアル中であったから、それは不思議でもなんでもないのだけれど、その電話は、中井が酔っているという事実を差し引いても「かなりの変わり者だな、この人は」という印象を私に与えるに充分なものだった。私は実物を前にして、その感を更に強くしたのである。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.158)

 

あの、これ、けっこうまじでびっくりします。まさかあの中井英夫が、晩年たったひとりきりで、こんな生活をしていたのか、と。はっきり言ってしまえば、ものすごく貧乏なみすぼらしい生活です。しかも中井英夫は、この本からうかがえるに、生活能力もまったくなさそう。それで、身の回りの世話をしてもらおうと、たまたま自宅を訪れたファンである本多さんを、助手に誘ったのでしょう。中井英夫は基本、いつも酒ばっか飲んでる、気難しい爺さんです。

 

 ここでインタビュー(九〇年十二月)以降の私の生活の主な変化は、出歩かないせいか軀は十キロ痩せた代わりに、六月以降、酒をまったく口にしなくなった。それまでは夕方になるといそいそとウイスキーを取り出し、それも必ずボトル半分ほどあけてしまう。当然のようにひっくり返って頭を打ち、そこらじゅうを血だらけにしてベッドに辿りつくのが毎晩のことだった。(中井英夫「冷たい炎~近況報告~」『現代歌人文庫 中井英夫短歌論集』国文社)

 

自ら記しているところはこんな感じです。血だらけて。しかも、『プラネタリウムにて』から察するに、この記述の後も、実際には酒を止めた形跡はありません。こまったもんだ。

 

それでも本多さんは、中井英夫に酒を止めさせ、なんとか書けない小説を書かせようと奮闘します。

 

ここにある「インタビュー」は、歌人福島泰樹とのインタビューです。次のような会話がありました。

 

福島 それで、菱川さん(堂園注:菱川善夫)がお礼にって言って酒を送って来まして、この酒を一杯だけでも中井先生に飲んで頂こうと思って来たんです。(笑)

中井 (笑)ほかの人ならともかく、君に先生なんて呼ばれるとくすぐったくってね。まあ中井にしておいて下さい。あのねえ、あれが(助手の本多正一)うるせえの何のってね、というのはね、僕こっちに来てから酔っぱらっちゃ引っくり返って、玄関の土間に頭から落っこっちゃったりして。それで彼が許さんと。おとといひょっと見たら、酒瓶はもう全部隠しているんだけど、酒屋の電話番号まで消してあるんですよ。(笑)でも一杯だけ頂くぞや。(略)

中井 ああ、こりゃ旨いや。こりゃいいなあ。(笑)

福島 日本酒がお好きでしたよねえ。

中井 でもねえ、この頃駄目になっちゃってウイスキー、それも四分の一位が限度なのに、ついつい三分の一とか半分とか飲んじゃうんです。それだからもう。

福島 ボトルをですか。今でも。

中井 ええ。だから、この間も頭から凄く血を出してね。今でも瘡蓋が頭ん中にある。床屋にも行けない。この隅っこにね…

         〈絨毯の隅にある血痕を示して〉

福島 あら、凄いな、それは。大出血じゃないですか。
(「黒鳥の歌」『現代歌人文庫 中井英夫短歌論集』国文社)

 

血痕て。大出血て。こりゃ、本多青年、たいへんです。

 

印税収入もほとんどなく、また、原稿も書いていないので当然原稿収入もなく、たまにエッセイを書くくらい。注意しておきたいのは、本多さんは作家志望ではなく、中井英夫の弟子というわけではありません。もとは単なるいちファン。本多青年は、そこに実質無給(むしろ、中井英夫のために実家に借金したりしてます)で働いていました。

 

……そうした話からだっただろうか、本多の話題はやがて中井英夫の経済生活へと移っていった。

 「ああいう人でしょ、仕事もしてないのに生活できてるって思ってるんですよ。『働かなきゃ、お金入んないよ。お金が無きゃ御飯も食べられないでしょ』って言うんですけど、『それをどうにかするのがお前の役目だ』なんて言うんですから……」

 いかにも中井の言いそうなことであった。中井にとってそうしたことは理屈ではなく、そうしたものだ、ということなのだろう。中井の生活実感とはそういうものだったのである。

 「去年の中井の年間収入いったいいくらだと思います」と本多が問いかけてくる。私はかなり少ないだろうとは思っても、具体的な数字は失礼でとても口にはできない。さあ、とトボけてみせると、本多は私の予想よりも更に少ない驚くような金額を口にした。そして、今は羽根木の家を地上げで追い立てをくった、その保証金を食いつぶして生活している、しかしそれもそう長くは続けられないので早急に家賃の安い所へ引っ越さねばならないのだが、中井がマンションやアパートなんて人間の住む所じゃないと駄々をこねて困っている、この際、騙し討ちにしてでも引っ越さなきゃならないだろう。そう、ため息まじりに語った。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.161,162)

 

そんななので、本多さんと中井英夫は毎日喧嘩ばかりしています。

 

 「でも、びっくりしたでしょう、あの中井英夫がこんなじいさんだなんて」

 「とんでもない」と私が答えるところへ、中井が「お前はそんなことばっかり言っていつも俺をバカにする。飯の用意もろくにしていかないし、俺を飢え死にさせるつもりか」と文句を言いはじめる。すると助手は「だって、それは中井さんが……」云々と反論し、客を放っておいて軽い口喧嘩をはじめる。だが両者の話を聞き合わせると、どうも道理は助手の方にあって先生の方にはない。どう考えてみても先生は自分の都合ばかり主張しているだけなのだ。

 ……それにしても二人の口喧嘩は見事に対等の立場で行われていた。とても「先生と助手」の関係には見えない。どちらも本気で腹を立てている様子ではなく、お互い話の分からない奴を相手にしていると悟った上での口喧嘩という感じなのだ。

 「そんな勝手なことばかり言ってて、どうなっても知らないよ」と本多が言うと、「とにかくお前は俺の言う通りにしていれば良いのだ」

 ……威張っているというよりは、むしろ少し滑稽な感じで、中井は取り澄ましてそう結論づけた。

 どこか妙に微笑ましい口喧嘩であった。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.160)

 

こういうめっちゃめいわくな爺さんなので、次第に本多青年は中井英夫のことを「きちがいじいさん」と呼ぶようになります。あの、姿を見るには自分は値しない、とまで思いつめ、世界で一番尊敬していた中井英夫に対してです。しかしそこには、二人の間の何とも言えない関係性が出ているのです。

 

 本多正一中井英夫のことを語る時、しばしば中井を「きちがいじいさん」と呼んだ。実際、中井英夫は世間の道理の通らない人、自分の思い込みのままに言いたいことを言い、他人に要求する、世間の常識で言えばまさに「きちがいじいさん」だった。だが、本多の「きちがいじいさん」という言葉には、そうした反語でしか語れぬ愛情が籠っていた。「どうしようもないきちがいじいさんでしょ。でもねえ、僕は、中井を思う気持ちでは誰にも負けないつもりですよ」と彼は私に、そう率直に語った。そこに照れはなく、むしろ胸を張るような誇らしげな断言であった。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.168)

 

そして、中井英夫のほうも悪態をつきまくりながらも、本多青年に完全に何から何まで頼り切るようになります。

 

  「本多さん、来てませんね」と私が言うと、「正一の奴、何してやがんだ。悪いけど正一んとこ電話してすぐ来るように言ってくれませんか」と言う。電話はしたが留守のようだった。病院のベッドで退屈している中井の話し相手をしていると、通りがかった看護婦が「あら中井さん、本多さん来てくれたの。良かったわね」と笑いながら声を掛けてきた。あわてて私が見舞いの者だと説明すると、その看護婦は「先生は本多さんが来ないと、正一が来ない、正一が来ないって、とってもうるさいんですよ」笑いながら言った。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.165)

 

こうして不思議なめぐり合わせの結果、「ひどく現実ばなれした日々」「奇妙なワンダランド」と感じるような中井英夫との生活を、本多さんは送るようになりました。その時期は1989年から1993年まで。年齢で言えば中井英夫は66歳から亡くなる71歳までで、本多さんは24歳から28歳までの間です。

 

 書店の棚に中井英夫の本を見つけては、あの(原文傍点)中井英夫と一緒にいるんだなあ、と幾度嘆息を洩らしたことだろう。中井も「私自身、作家に会うたび、作品から受けるものとのあまりなイメージの違いにおどろくことが多かった」(「少年とカメレオンの話」)と記しているが、あるときふと「中井さんてホントはニセモノなんでしょ。ホンモノの中井英夫は本の中にいるんだよね」といったことがある。「バレてしまったか」と笑うばかりだったが、でもやはりあれが中井英夫だった。

 無茶苦茶なワガママじいさんだったし、仕事のことも酒のことも全然いうこと聞いてくれなかったし、病院に入ってからも「全部お前が悪い」としかいわなかったけれど、でもあれが中井英夫だった。中井英夫のどんな小説よりも、美しく、やさしい、忘れられない日々だった。(p.90)

 
第4回で取り上げた浜田到への押しの強い手紙なんかを思い出しますが、エネルギッシュで美意識がつよくて頭がよくて迷惑で、そしてひどく魅力的なひとだったのだろうな、とこの本を読んでいるとものすごく伝わってきます。

 

この本に収録されている新聞記事のインタビューで、本多さんは、中井英夫のことをこう語っています。

「難しい人で閉口したけれど、何かを書かなければいやされない渇きや生そのものへの悲鳴を、生涯保ち続けた人だった。作家の生のありようがその作品の文体になるのを見せつけられた気がする」(p.128)

 

また、田中幸一さんとの会話ではこんなことを言っています。

 

だが、こと中井英夫に対する思いでは、ほとんど完璧に一致したと言っても良いと思う。要するに「中井英夫はすごい作家だ。僕は(俺は)中井が大好きだ」ということに尽きたのである。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.166)

 

初めにも書きましたが、この本は本多さんの書いた中井英夫への追悼文だけではなく、本多さんが晩年の中井英夫を写した、たくさんの写真でも構成されています。

 

その写真には、見るからに気難しそうで、そしてアルコール中毒でやせ衰えて、自ら称した「黒鳥館主人」「流薔園園丁」という名の雰囲気は明らかになく、眼光のみが鋭い浮世離れした老人の姿が写っています。しかし時折みせる、おそらくは写真を撮っている本多正一に向けるとても優しいまなざしやそこに射している光に、胸を突かれる気持ちになります。

 

死の直前、本多さんと中井英夫は「死んだらどこに行くんだろう」という会話を交わします。それは、かつて最愛の人・田中貞夫とも交わした会話でもありました。

 

 93年11月下旬、病床の中井英夫に、

 「死んだらどこへ行くんだろう」

と尋ねられたことがある。「A公が教えてくれなくちゃ」というと、「教える」といって、少し、笑った。

 

 このことは中井英夫『月蝕領崩壊』の中の一節と重なって忘れることのできない会話となったのだが、翌年NHK・ETV特集「黒鳥館日記――作家・中井英夫の生と死」制作のため、徹夜で日記を繰っていたときに、91年のとある頁を見つけてからはなおさらのこととなった。

  11月8日(金) 雨

  死んだらどこへ行くんだろう、とB(堂園注:田中貞夫)はいった。教えてくれなくちゃ、教える、とBはいった。まだ教えてくれてない、どこへ行くとも本当は思ってない。チリアクタになると思っちょる、すべて――。

  11月9日(土) ハレ

  B、死んだらどこへ行くんだろう。A(堂園注:中井英夫)、教えてくれなくちゃ、B、教える、というのが最後の会話だった。Aはどこへも行きはしない、みんな喪われるだけだ、と思っていた。

  12月8日(日) 小雨 寒

  死んだらどこへ行くのか、Bのさいごの問いだった。教えてくれなくちゃ、教える、といった。

  「他人の心の中に」だ。

  この他人を、たとえばテレビなどでいつも「タニン」といい、「他人事」をタニンゴトなどと平気で発音するが、己(おれ)は「ヒト」としか読まない。それも平がなの「ひと」だ。死んだら「ひと」の心の中へ行く。

  やっと答が見つかった。(p.175)

 

中井英夫は、その晩年に「死んだら『ひと』の心の中へ行く」と日記に書きつけ、その2年後の1993年12月10日に71歳で亡くなりました。

 

もういちど、解説の田中幸一さんの言葉を引きます。

 

 中井英夫の最晩年は、彼の素晴らしい業績に比して、決して充分なものではなかった。最愛の人、B公こと田中貞夫を失って以来の自滅の結果だとはいえ、中井英夫ほどの人がこんなに貧しい生活を強いられねばならないのかと思うと、今更ながら現世(うつしよ)の冷厳さを感じずにはいられない。だが、それでも一面、中井英夫は確かに恵まれていたと私は思う。常識的に言えば、あんな身勝手な「きちがいじいさん」の面倒など、見る者が無くて当然だった。事実、実兄との付き合いはすでに途絶えて久しかった。それも中井が死を迎えるまで、少数ではあれ、彼を守り続けたひとが常に周囲に存在したという事実、そのことをもって中井が恵まれていたと言っても過言ではないと私は思う。身勝手な「きちがいじいさん」、アル中になり体を壊し、書けなくなって久しい小説家を、それでも心から献身的に支えた人がいたことをもって、中井が恵まれていたと表現しても良いだろうと私は思うのだ。たとえそれが中井英夫という浮き世ばなれした無垢な魂、それ故の寄る辺なき孤独な魂。……その魅力に起因することであったとしてもである。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.169,170)

 

中井英夫ほどの人がこんなに貧しい生活を強いられねばならないのか」「それでも心から献身的に支えた人がいたことをもって、中井が恵まれていたと表現しても良いだろうと私は思うのだ」……。

 

なんか今回ずっとウェットな感じで申し訳ないんですが、最後に本多さんの言葉を引用して今回のブログは終わりたいと思います。

 

  この地上で四年半という短い間でしたが、一緒に飯を喰い、ネコを抱き、テレビを見、シャンソンを聴き、お風呂に入れ、背中を掻き、おしっことウンチの世話をし、讃美歌を唄い、散歩をし、原稿を書けと怒鳴り、病院に連れてゆき、病院から逃げだされ、酒をかくし、かくされ、その全存在、持てるもの全てを賭けて罵倒しあってきた奇妙な老人、キチガイの酔っぱらいの英(ヒデ)ボコに、生涯最も豊かな時間を与えてくれてありがとう、と心からの感謝を伝えたいと思います。

 

 じゃあね、英ボコ、またね、おやすみポンポン。(p.22)

 

陳腐な言葉になってしまいますが、ここにあるのはやはり愛としか言いようがないと思うのです。この美しい本をぜひ探して読んでみてください。それでは。

 

 「本多君

早く可愛い猫ちゃんと

 お嫁さんが見つかりますよう

 

           へんな

            元小説家より

      

         中井英夫」(p.171)