短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第12回 臼井和恵『窪田空穂の身の上相談』

 窪田空穂39歳、身の上相談に答える 堂園昌彦

窪田空穂の身の上相談

窪田空穂の身の上相談

 

  窪田空穂。1877年(明治10年)生、1967年(昭和42年)没。言わずと知れた結社「まひる野」創立者にして、近代短歌のビッグネームである。

 私がいちばん好きな窪田空穂の歌はこれです。いい歌だと思う。

 

はらはらと黄の冬ばらの崩れ去るかりそめならぬことの如くに 窪田空穂『老槻の下』

 

 短歌を始めてちょっと経てば、だいたい窪田空穂の名前は聞いたことがあると思う。しかし、彼が39歳のときに読売新聞で身の上相談の記事を書いていたことは知っているだろうか。ちなみに私はぜんぜん知らなかった。

 この本は、その空穂の身の上相談の全容を、家政学の教授である臼井和恵さんが解き明かした、けっこうぶ厚い本である。A4版で500ページくらいあって2006年、角川学芸出版から出ている。

 空穂が身の上相談欄を始めた経緯はこうである。1914年(大正3年)、読売新聞は他の新聞との差別化をはかるために、日本初の新聞婦人欄「よみうり婦人附録」というものを始める。その中で始まったのが「身の上相談」である。

 「身の上相談」というジャンル自体は、それ以前の明治時代から雑誌や新聞等でぽつぽつあったのだが(代表的なのは東京新聞の前身である『都新聞』のもの)、日刊新聞の女性欄の連載記事という形で新聞に登場したのは、これが初めてらしい。当時は、文書で送られてきたものだけではなく、実際に新聞社に来た人の話を記者が書き起こしたりしていたようだ。

  当初、読売新聞の身の上相談欄は女性作家水野仙子田山花袋の弟子で、歌人・服部躬治の妹らしい)が担当していて好評を得ていた。しかし、1916年(大正5年)、水野は結核になってしまい、身の上相談欄を続けられなくなる。で、この「よみうり婦人附録」の編集長が空穂の学生時代からの親友である前田晁だった。困った前田が急遽頼ったのが、女学校を辞職して職のなかった「わけ知り」の親友、窪田空穂なのだ。

 ようするに、窪田空穂は現在まで連綿と続く「身の上相談」という新聞コラムの一ジャンルの黎明期において活躍し、そのフォーマット自体を作り上げた立役者の一人なのである。すごいぞ、空穂。

 で、実際の相談はこんな感じである。いちいち長いと思うけれども、はしょったり現代語に直したりするとこういうのは台無しなので、せっかく字数制限のないブログだ、省略せずに相談と空穂の回答をぜんぶ載せようと思う。面倒な方はがんがん引用とばして読んでください。あと、読みづらいので、適宜赤字強調を入れてみました。そこだけ読めば話はだいたいわかります。

 ちなみに大正5年と言われてもピンと来ない人もいるかもしれない。斎藤茂吉『赤光』と北原白秋『桐の花』の発行が大正2年なので、まあ、だいたいそこらへんの時代をイメージしていただければ大丈夫です。

 まず、大正6年2月18日の相談から。△が相談者、▲が空穂の回答です。ではどうぞ。

私は二年前から或る婦人と相思の仲となつて清い交はりをつゞけて参りました近頃一層お互の愛が確実になつて来ましたので、自然結婚といふ事を考へなくてはならなくなりました。そこで私は自分の意志を両親に打明けますと、お前の配偶者を深切に世話してゐて呉れる人がある、その人に対し申訳がないから許せないといふ事になりました。世話する者のない結婚は大罪悪のやうに見て、甚だしく非難する習慣になつてゐる私の地方の事ですから、両親の反対するのも一応は尤もだと思ひました。併し一歩進めて考へて見ますと、結婚といふものは世間体や義理立てによつて成立たすべきものではないと思ひます。殊に現在我国に行はれつゝある仲介結婚といふものは、夫婦となるべきお互が性格も気質も知る事が出来ず、只両親と仲介人との間で纏めてしまふので、当事者に取つては不安心な結婚法といはねばなりません。私は既に二年間も彼女と交際して、気質もよく知りぬいてゐますので、彼女との結婚は、この点では最も安心で、最も幸福だと思ひます。併しその結婚の為に、年を取つた両親に、世間へ対して肩身の狭い思ひをさせ、自分も亦不品行呼ばはりをされる事を思ふと、迷はずにはゐられません。私は其の婦人とはまだ結婚の約束はしてゐませんから、今のうちならば自分の決心次第で何うにでもする事が出来ますが此の場合親の意見に随つて、即ち親の安心する旧式な結婚法に甘んじてゐるべきでせうか。又は両親を説き伏せて、彼女と結婚すべきでせうか。現在の私として執るべき道をお教へ下さい。(結婚する男)(p.111)

 こまった。自分の決めた恋人と結婚したいのに、両親は紹介した人間と結婚しろと言うのだ。大正時代、自由恋愛はまだまだ珍しく、「ご法度」と捉えられることも多かった。ただ、価値観が移り変わってきてもいて、この質問だけではなく同じような悩みを抱えた相談がたくさん来ている。空穂はこう答える。

▲貴方の云はれる通り、我国の従来の結婚法は、昔の時代には適したのであつたでせうが、現在の時代には適さないものであるといふ事は、識者の殆ど全部が承認してゐる事です。今はそれが問題ではなく、問題は実行方面に移つてゐます。即ち結婚する者の自由意志に基いたもので、同時に若い者に伴ひ易い、一時の感情に駈られた無分別なものでなくするには何ういふ方法を執ればよいかと考案中になつてゐます。今貴方の場合を考へて見ますと、貴方が旧式の結婚法には満足の出来ないといふのは、寧ろ当然な事です。出来る範囲に於いて古い習慣を打破して進むといふ事は御自身に対する義務とお考へになつて然るべきでせう。貴方の地方の習慣がそのやうでしたら、一時の非難ぐらゐは覚悟して正しい先例をひらく為めに、或る程度までの犠牲になるつもりでなさるべきでせう。併し貴方の態度が潔くなく、その結果もよくないやうでしたら、御自身を辱しめる事であると共に、一地方の進歩も阻む事になりますから、その辺は十分の御注意を要します。貴方のやうな境遇に立つた方は人一倍の責任のある事を、呉れ呉れもお覚悟になるべきです。(記者)(p.112)

  空穂は、恋愛結婚を認めている。「従来の結婚法は、昔の時代には適したのであつたでせうが、現在の時代には適さない」とし、「貴方が旧式の結婚法には満足の出来ないといふのは、寧ろ当然な事です。」と励ます。しかし同時に、「先例をひらく為めに、或る程度までの犠牲になるつもりでなさるべきでせう。」とその困難なことも踏まえ、「貴方のやうな境遇に立つた方は人一倍の責任のある事を、呉れ呉れもお覚悟になるべきです。」と相談者の責任をも促す。時代の趨勢と若者の責任に同時に目を配った名回答ではないだろうか。ちなみに、空穂も自分の元生徒と、恋愛の末結婚している。

 このように、空穂は進歩的な視点からアドバイスをすることが多い。と、同時に「自分を恃む」というところが空穂の回答の特徴である。「自分で決めたことは自分で責任を持て」というのが、空穂の基本スタンスなのだ。

 次の職業に関する質問も、空穂の「自分を恃む」という姿勢がよく出ている。

△私は二十二歳になる女でございますが、或る事情の為め独立生活をして行かなければならぬ身でございます。その事情は詳しくは申上げ兼ますが、生来私は非常に演芸を好みますので、女優にならうと決心はしました。保護者である実兄も賛成してくれました。世の中の人は、女優などといふと直ぐに嘲笑いたしますが、それは此れまで女優となつた或人が、世の嘲笑をうけるやうな失態があつたり、且つ女優が自重しなかつた為だと思はれます。私は今後真面目に芸術を研究し、女優として恥しからぬ品性の陶冶と、人格の修養につとめて行つたならば、女優も世間から嘲笑されたり、安価に扱はれるやうなことはあるまじと思ひ、又決して恥づべき職業ではないと思考されますので選択した次第でありますが、しかし私は此道に一人の知人もなく、それに入つて行く手段方法もないので困つてゐるのでございます。記者様、一代の名優と思はれる方に弟子入りするのと、女優学校と申すものに入るのと何方がよいのでせう。将来信頼するべき名優と申せば何人で、又女優学校と申ますのは何所にあるのでせうか。又弟子入りするのと学校に入る方法や損益は如何なものでせう。私は普通教育は受けてゐる者でございます。(きぬ女)(p.362)

 女優になりたいのだけれど、どうすれば、という相談だ。当時、女優は「賤業」と見なされており、ひどいときは、それが理由で家族から絶縁されるなどの事例もあったようだ。そんな風潮の中で女優になろうとする強い決意を感じる相談である。空穂はあたたかくこう答えている。

▲職業に対しての貴方の御考は正しいものと思ひます。自分の天分を発見し、それを重んじて、そちらに向かつて進んで行く事が其人としての進歩の路です。周囲の批評などは、其事に較べると云ふにも足りない程小さいものです。社会としての進歩も、さうした人々の進歩の集積に過ぎません。女優が我が道だと信じられるならば安んじてそちらに向ふべきです。御質問の名優に弟子入りするのと学校に入るのと何方が利益かといふのは、御返事が致しかねます。これは恐く誰にも分らない事でせう。又将来信頼すべき名優の誰であるかも分りかねます。とにかく女優を養成する所としては、芸術倶楽部附属の俳優養成所(牛込区横寺町芸術倶楽部内)があります。又帝國劇場附属の女優部も、或は養成するかも知れません。これらに就いて御照会になれば、大凡の様子は知れませう。(記者)(p.362)

 空穂は言う、「女優が我が道だと信じられるならば安んじてそちらに向ふべきです。」と。同じ読売「身の上相談」欄でも、空穂以前の回答者は同じく「女優になりたい」という十九歳の女性に対して、「先ず先ず普通の処女などはさういふ方面に足を踏みいれないのが安全であらうと思はれます。」と答えているので、空穂の回答は同時代としても、ずいぶんと親身になったものだとわかる。「自分の天分を発見し、それを重んじて、そちらに向かつて進んで行く事が其人としての進歩の路です。」に、空穂の職業に対する基本スタンスが見られる。

 しかし、若い頃から職を転々としてきた苦労人・窪田空穂は、リアリストでもある。次の相談は、画家になりたい18歳からの相談だ。 

 △私は本年三月或る学校の洋画科を出、もう少し勉強したい為に或る洋画家の塾に見習ひに行つてゐますが、塾生の皆さんと一緒に進んで行く事が出来ないので、自身について疑ひを持ち始めました。一体私は家の跡取ですが、絵が好きな所から前後をも考へずにその道に入つて来ました。そしてたとへ無器用でも、精神一到何事か成らざらんと思つて今日まで勉強して来たのです。しかし絵は天性器用でなくては駄目なものではないかと此頃になつて迷ひ出してしまひました。私は本年十八ですから成るべくは今まで通続けて絵を勉強したいのですが、駄目ならば他の事業に移らなければなりません。この事は自分の決心のついた上で親に相談したいのですが、御判断下さるやうに願ひます。(迷える生)(p.74)

 洋画科を出てからさらにある画家の塾に入ったが、周りについていけない、辞めたほうがいいですかねえ、という内容だ。空穂の回答は次のものだ。

▲絵が好だといふ事と、画家になれるか何かといふ事とは別な問題です。絵が好きでなければ画家にはなれないが、好きだからといつて天分が伴つてゐないと画家にはなれません。即ち勉強だけでは駄目です。その人が画家になれるか何うかは、恐く十年くらゐ勉強した上でなければ分らない事でせう。十八歳の貴方がそれを云ひ出すのは早過ぎますが、今から自身が疑はれるやうだと、貴方は絵は好きだが天才に乏しいのかも知れません。天才が乏しいならば絵は趣味に止めて置いて職業とはせず、職業は他の方面で求める方が生涯の幸福だらうと思ひます。貴方と同じやうな疑問を抱いてゐる人が大勢あつて同様な相談をされます。この返事はそれらの方からも見て頂くつもりで申ます。(記者)(p.74)

 先ほどの女優の相談との差異が際立つ。空穂は言う。「自身が疑われるようだと止めておけ」と。リアリストだ。「自分を恃む」ことができない場合は止めておいたほうがいいのだ。

 空穂は、長野県の田舎の次男であり、一度は大きな家に婿養子に入るも、そこを出て行ってしまったりしている。その後、東京に上京した後も、新聞社や出版社や学校教員などを転々としている。ずっと職で苦労している空穂だ。今回の読売新聞婦人欄への就職も、そんな空穂を哀れんだ親友の前田晁が、気を利かせた側面がある。

 このへんで、空穂の、進歩的、リアリスト、自分を恃む、という性質が分かってくる。そして、それはどうやらは、空穂の生い立ちにくわえて、空穂のキリスト教信仰からも来ているらしい。空穂は、28歳の時に明治・大正時代の指導的キリスト教牧師・植村正久に心酔し、洗礼を受けている(ちなみにこの植村正久は日本文学史上重要な人物で、他に、国木田独歩島崎藤村正宗白鳥などにも影響を与えている)。次の回答などは、そうしたキリスト教的な考え方が出ている例だ。

私は四年以前に継子の四人ある所へ縁づきました。頭は十九で昨年死去し、次ぎは此春縁づき唯今家には中学一年の十四の長男と小学三年の九歳の子とがあります。私は継母だからと云はれたくなく余程注意してゐる積りでしたが、それでも旨く行きません。それには夫が非常に子煩悩で、子供を信用し過ぎるといふ点もあります。例へば夫は私が子供を叱るのを厭がり、又私の言葉づかひが邪慳だといつて非難し、子供には足蹴にされても我慢しろと申しますが、私は生来肝癪持ちで、長上の者にならば格別、子供に足蹴にされても黙つてゐる程の雅量はありません。所が子供は我儘で、私に悪口雑言など致しますので、叱らずにはゐられないのです。先日も子供の事に就いて夫と話をしました末、私の年寄つて世話になりたさに子供を育てるのではない、親の義務だから育てると申しますと、夫は、お前は兄弟が多いから子供の世話になどならなくともいゝだらうと申し、それからは一層気色を損じ、今では夫も子供も私を出て行けよがしに致します。私は皆がそれ程に思ふなら出て行つてもやりたいのですが、悲しい事には一昨年の十二月生れた子と今年の七月生れた子が可愛くて、死んだならば仕方もないが生れてゐる中には迚(とて)も別れる事は出来ません。それで若し子供を二人連れて兄弟の世話にならずに暮して行けないものかと思ひ煩悶してをります。私の最善の路は何処にあるのでせう。(辰子)(p.54)

 あるところに後妻として入ったが、義理の子供たちとうまく行かない、と。「子供に足蹴にされても黙つてゐる程の雅量はありません。」に怒りが滲んでいる。雅量って。ぎりぎり怒りに堪えている相談者の歯軋りが聞こえてきそうだ。空穂はこう答える。

▲継母といふものゝ苦しい心持は察しますが、併し継母でも立派にやつてゐられる方もありますから、今後の身の振方などお考へになるよりも、先づ現在の境遇を善くしようと努力しなければなりません。夫は子煩悩に過ぎると云ひますが夫の方になつて見れば、生みの母を失つた子供だと思つて不憫も一層でせう。又子供になつて見ればもう物心が附いてから母に別れたのですから、貴方に対して親しみの薄いのも無理とは云へません。夫の方の云はれるやうに、足蹴にされても辛抱する程の愛を貴方は持つ事が出来ないでせうか。その心になつたらまさか足蹴にもしますまい。又親の義務だから子供を育てるとは思はず貴方が実子に対するやうに可愛くて育てずには居られない心持になりませう。さうなつたら母子の中の感情も融和して行きませう。対等の心持に止らず、進んで此方から与へて行かうとする事が、何よりもお考へになるべき事です。(記者)(p.55)

 空穂は、義理の子供も可哀想だから、実の子に対するように愛を持てないだろうか、と言う。「対等の心持に止らず、進んで此方から与へて行かうとする事」は、とてもキリスト教的だ。相談者のお母さんは納得しただろうか。

 空穂が受洗したのは若い頃だったから、39歳のこの頃は、毎日教会に行ったりはしていない。しかし、空穂の中にキリスト教信仰は、大きなものとしてずっと残っている。

我は神の造ったもの、聖霊の宿る神殿で、限りなく重んずべきものである。(『わが文学体験』) 

と後年空穂は述べている。相談者の側に立つ、という空穂の回答姿勢には、キリスト教の影響が大きくあるようだ。

 また、まだまだ迷信の強かった大正時代、こんな質問も舞い込む。易者から言われたことを気にする夫婦の相談。

△私は八年前に従兄と結婚して睦しく暮して来ましたが、一昨年の夏夫は二月ばかり病気をし、その看護づかれの為か妊娠中であつた子供は生れると間もなく死にました。昨年の秋夫は易者から身の上を見てもらひますと、この縁は合性が悪い故長くは続かぬ、続ければ夫の身体が弱つて行き、子供も満足の者は出来ないといはれたさうです。元来夫は体の弱い上に、血族結婚を気にしてゐた所へこんな事を云はれたのですから、それ以来私たちは何うしたらよいかと気ぬけしたやうに成つてゐます。離別される位ならば私は死んだ方がましだと思ひますが、さりとて一緒に居る為に夫の生涯が駄目になるやうでしたら、自分の体は犠牲にしても夫は幸福にしなければ済まないと思つて、生きる甲斐もない日々を送つてゐます。合性の悪いのは何うする事も出来ないものでせうか。(苦しむ女)(p.287)

 易者から「合性が悪い」と言われ悩んでいる夫婦。易者からの言葉なので、「ちょっと相性が悪いよねー」レベルではなく、たたりがあるとか、運命が悪いほうに行くとか、そのレベルで脅されたのだろう。1916年だなあ、という気もするが、現代でもマジで悩んでいる人はけっこういるだろう。空穂先生どう答えるか。

合性の良し悪しなどといふ事のある筈がありません。いはゆる合性は悪くても仕合せな夫婦もあり、合性は善くても不仕合せな夫婦もあります。合性などゝいふ事のないのはそれだけでも分ります。一体人が生まれた時から運命がきまつてしまつてゐるなんて事があつてたまるものですか。何うでも易者を信じるならば、五人十人と見てお貰ひなさいまし、云ふ事が皆違ひませう。八年も一緒に睦ましく暮してゐる中には、一度位の不仕合せは誰の身の上にもあります。それ位の事で迷ひ出してはいけません。そんな役に立たない心配こそしてはなりません。(記者)(p.288)

 「合性の良し悪しなどといふ事のある筈がありません。」と迷信をビシッと否定している。空穂、ちょっと怒っている。「一体人が生まれた時から運命がきまつてしまつてゐるなんて事があつてたまるものですか。」がかっこいい。うんうん、そうだ、と言いたくなる

 他にも、「転居したいんですが、方角の良し悪しはあるものですかねえ」という質問に対しては、「そんなものない」と答えたあとに、

記者は、この美しい天地の、何方の方角がよく何方は悪るいなどいふ事を考へるのは、大それた事だと思つてゐる一人で、何方の方面も皆いゝ方面だと思つて安心してゐます。(p.290)

と答えていて、にやりとする。かっこいい。

 そんな空穂の読売新聞社内での働きぶりはどんな感じだったかといえば、こんな証言が残っている。

 空穂は、毎日、社へ遅く来る。相談の手紙を見、面白いのを選んで返事を書いて、何枚分か書くと用がない。一、二時間の事務である。まだ日が高いのに「おれや、帰るよ」で、帰つてしまう。そうかと思うと、社会部長の机へやって来て「おいおい土岐君、どうだい」なんて話しかける。社会部には青野季吉などもいたわけで、部下の手前、土岐は少し困った。……中には、紙面に発表せられるのを嫌つて本人が社に来るのもある。空穂はそれにも会つて助言を与えた。

(村崎凡人『評伝窪田空穂』)

 おもしろい。空穂はサッと仕事して、サッと帰っていたようだ。「土岐君」は土岐哀果(善麿)。このころ読売新聞社会部長だった。土岐は、空穂より8歳年下で、もちろんお互い歌壇では見知った顔だ。土岐哀果はずっと読売に勤めているたたき上げの新聞人であり、空穂はそこにひょっと入ってきた形になる。土岐はやりにくかっただろうなあ、と思って笑ってしまう。

社会部長の土岐哀果は窪田さんとは肌合いがちがい、編集室にいるときは新聞記者になり切っていた。窪田さんは、編集室にいても歌人であった。

青野季吉「解説」窪田空穂『わが文学生活Ⅲ』)

 というコメントもあり、なるほど、と思う。

 そして、婦人欄で一番多いのは、家庭に関する相談だ。次は、子供のできない夫婦の相談。 

私は本年三十一歳になる男ですが四年前相思の間柄の或女と親の許しを得て結婚しました。妻はよく親に傅(かしづ)き仕へてゐます。食事の時にも親より先へは膳にも向はない位です。大勢ある小姑にも誰彼れの差別なく一様に親切にしてくれます。又家の内の掃除整頓はもとより嘗て手馴ない仕事をさへいそいそと働いてゐます。これは皆私に対する愛の現れであるとして深く感謝してゐます。然るにこゝに一つの煩悶があります。それは結婚後四年にもなるのに子供が一人もありません。つくづく考へるに人間として子供のない程不幸な事はありません。しかし子供の無かつた人でも妻が変り夫が変つた為に出来た人も沢山あるやうに思ひます。私はそれを理由として離縁してもよいものでせうか。絶えず苦んでゐます。(東北の煩悶生)(p.94)

 妻はよく私に尽くしてくれて感謝しているけれど、子供ができないから離縁してもいいだろうか、という相談だ。とんでもない。とんでもないが、この時代は「良妻賢母」が女性の至上価値とされていた、そういう時代だ。空穂はどう答えるだろうか。

結婚といふ事と、子供といふ事とは別にしてお考へになる方が正しくはないかと思ひます。相思の間であつた只今の細君と結婚しようとされた時、子供を得る方便としてこの婦人と結婚するのだとは御思ひにならなかつたでせう。細君も亦同様だつたらうと思ひます。細君は子供を生ませる為の者、子供を生まなければその資格がないと御思ひになるのは間違つてゐませう。それに又、子供の出来ないのは何方かの体に何かの障りのある為でせう。それだと医学の進んだ今日の事ですから専門家から調べてもらふなど力の尽しやうがあります。子供を欲しかつたならば先ずそれを成さるべきです。何方の体も丈夫であつたらば必ず子供は出来ませう。天の与へる日を心長く待つてゐるべきです。(記者)(p.95)

 結婚と子供は別だ、とはっきり答えている。また、それを「相性」や「慣習」の話ではなく、医学の問題として捉えていることもポイントだ。やはり時代の空気からすると、随分と進歩的だと言える。この「よみうり婦人附録」の「身の上相談」欄が、女性から大きな人気を得たのもうなづける。

 次の質問も印象に残る。

私は結婚後三ヶ月にして全快の見込の附け難い病気に罹りました。夫に離縁を申込みますと、うまい事を云つて喜ばして置き乍ら無断で結婚してしまひました。此事を知人に知らせてやりますと、その人は未婚時代から私を愛してゐて呉れたとの事で、今度の事にもひどく同情して呉れましたので、嬉しく感じました。私は今後も此人と交際をしたく、親戚にも断つて許しを得たいと思ひますが、かうした結婚も出来ない体をしてゐては、仮令精神上で相愛して行くだけでも、何となく不正な行為をしてゐるやうに感じられて身が責られてなりません。さりとて私は今孤独な身ですから交際を止めたら何んなに心細いだらうと思はれてそれも出来難いのです。何ういふ道を執るべきものかお教へ下さい。(たま子)(p.92)

 結婚後、難病が見つかり夫に離縁されてしまった。しかし、そのことに同情し、自分を愛してくれる別の人が出てきて、自分も嬉しいが、結婚もできない身体だとなんとなくその人に悪いことをしている気がする、どうすれば、という相談だ。空穂の回答はあたたかい。

▲結婚を予想しない男女交際は不正な行為のやうに感じると貴方は云ひますが、何故そんな気がするのでせう。それだと男と女とは友達となる事は全然出来ない事になつてしまひます。人類の一半を占め合つてゐる男と女がそんな考を持たなければならないといふ方が不思議な位です。殊に貴方は結婚の出来ない病気を持つてゐるとの事ですから、男女といふやうな性的の心持を離れて、人間同志といふ広い心持で交際をなすつたら宜いでせう。(記者)(p.93)

 空穂は言う。「男女といふやうな性的の心持を離れて、人間同志といふ広い心持で交際をなすつたら宜いでせう。」と。「それだと男と女とは友達となる事は全然出来ない事になつてしまひます。」はとても印象に残る。たぶん、相談者は嬉しかったに違いない。

 次の質問も妻の立場に立っている。

△私は本年六月某私立大学の政治経済を卒業した二十三歳の青年ですが、先月中伯父の媒介で、母一人娘一人の親族に当る田舎の財産家へ婿養子に参りました。その娘とは中学時代から度々逢つたことがあるので性格はよく知つてゐましたが、田舎ながら女学校を卒業してゐるにもかゝはらず所謂虫の好かぬ女でした。しかし実家の両親や親族が私のその結婚を熱望してゐたので、反感を怖れ強制に任せて納得した次第です。結婚後の私は実際に娘の欠点を見出し、彼女の一挙一動が癪を醸す種となつて毎日不快な生活を継続してゐます。彼女の醜貌、音声の悪濁、音楽趣味の皆無な点は殊に私の嫌悪する所で、その為墻璧(せうへき)なき愛情を提供することの不可能なる事を是認しました。この場合如何にせば社会的に満足を得ることが出来るでせうかお伺ひ致します。終りに妻は非常に私を慕つてゐることを附言して置きます。(煩悶生)(p.151)

 エリート大学生が、田舎の財産家へ婿に入って、そこの結婚相手が虫が好かない、とぶちぶち文句を言っている。顔が醜い、声が汚い、果ては音楽の趣味がない、とけちをつけている。このエリートの性格の悪いところがよく出ててすごい。「終りに妻は非常に私を慕つてゐることを附言して置きます。」じゃねえよ! と言いたくなる。空穂の回答は次のとおり。

▲高等教育を受けた事に対して矜りを持つてゐる貴方のやうですが、何よりも大事な品性といふものに対しては何等の修養も持つてゐないのは驚かれるまでゞす。厭な、虫の好かない娘だといふ事は前々から承知してゐたが、両親や親族の手前を憚つて結婚したと、貴方はそれが男子の意気でゞもあるやうに云つてゐますが、結婚といふ如き大事をさういふ態度で扱ふのは、第一は自身を辱しめ、第二は他人を辱しめる事で、道徳の上から観てこれ位ゐ不道徳な恥づべき事はないでせう。さうした貴方だから結婚して一と月もたゝない中からそれに伴ふべき責任を無視して、顔が醜い、声が悪い、音楽の趣味がないから嫌ひだと、遊蕩児が芸妓の批評でもするやうな批評を新妻に加へて、世間体さへ悪くなければ離縁しやうと思つて、それの出来ないのを煩悶と称して相談をするやうな事になるのです。貴方は品性の上では幼稚園の生徒となつて、新しく修養を始めなければなりません。(記者)(p.151)

 甘えたことぬかしてるんじゃない、とこてんぱんだ。「貴方は品性の上では幼稚園の生徒となつて、新しく修養を始めなければなりません。」とはすごい言いようだ。こちらもスカッとする。新聞紙上でこんなに怒られて、相談者は立つ瀬がなかったんじゃないだろうか。

 と、ここまで空穂をべた褒めしてきたが、もちろん、空穂の回答にも問題がないわけではない。たとえば、次の相談を見て欲しい。

△私は本年某高等専門学校を卒業した未婚の者ですが、数年の中に父の業を継いで働かねばならぬので目下結婚を勧められてゐます。そして相手の選択の自由を与へられてゐます。然るに私は一年余り前不図した機会から花柳界の女と知合ひになり、今では互に心を許して婚約までする仲となつてをります。結婚となると私はこの女の事を考へなくてはなりませんが、一旦さうした境遇に陥つた女が、真面目な生活が出来、一生の苦楽を偕にする事が出来るものでせうか。即ち家庭が円満に行き、私が社会から後指をさされて家業に不利を招くといふやうな事は無いものでせうか。又さうした女は一般に子供が出来ないものだと聞きますが如何でせう。今となつて手を切るのは余り酷いと思ふ事情もあるので悶えてをります。(AH生)(p.142)

 花柳界の女性と結婚して果たして円満な家庭を築けるか、という質問だ。空穂はこう答える。

大体から観ますと境遇と婦人とは一致してゐて、悪い境遇にはゐるが悪い感化は受けてゐないといふ婦人は極めて少いやうです。しかしその極めて少数の者は、さうした境遇にも打克つて、普通の境遇にゐる者には得られない修練を受けてゐるといふ事もありませう。要するにその人次第の事でそこは第三者には分りません。貴方の云はれる人がその少数者の一人であつたら家庭は円満には行きませう。しかし周囲から後指をさされて家業に不利を来すといふ事は有る事と思はなければなりません。世間はさういふ境遇にゐる婦人に対しては経緯を持つてゐませんし、それを何うする事も出来ないからです。尚ほ結婚前には一つの欠点もないと思はれる程立派な婦人でも、同棲すると欠点が現はれがちなものです。初めから躊躇されるやうな相手では恐く良い結果はなからうと思はれます。(記者)(p.142)

 空穂は言う。「だいたいにおいて境遇と婦人は一致している」と。「もちろん、その中の少数は、そうした境遇にも関わらず優れた人品の女性もいるが」と一旦留保しながらも、「それは第三者にはわからないし、世間はなおわからないから、後ろ指を指されることはある」と。すなわち、止めておけ、とのことだ。

 世間のことがよくわかっているとも言えるが、これまでの空穂のヒューマンな回答を見ていると、えー、そりゃないよ、という気持ちになってしまう。

 次の質問も同様の意見が見られる。

△私は不図したことにより故郷を後にして旅に出て、困難の結果、口入屋に欺かれて料理屋に奉公いたしました。私はその日稼業はしてをりましたが、心まで堕落してはをりませんでした。一日も早く卑しき稼業はやめて真面目な生活をいたしたいと明け暮れに祈つてをりましたが、僅な金銭の為に束縛されてもそれも出来ずにゐました。ところが二三年前、或富豪に借金を払つていたゞき、今日では真面目な暮しをしてをります。しかし或る一部の人は、私が一旦いやしき稼業をしたところから非常に軽蔑してをります。成程私は卑しい稼業はしましたが、今日では真面目に働いてゐますのに、それでも社会の人は軽蔑するのでせうか。私の考へでは、或有名な人の奥様にも、花柳界にゐた人が随分あります。その事を考へれば然程軽蔑さるゝものではあるまいと思つてゐますが、しかし私如き者は何所までも社会の蔭ものでせうか。記者様、哀れな女がせつかく明るい所で働いてをりますのに、何所までも軽蔑されるものでせうか。知らせて下さい。(哀れなる女)(p.81)

  口入屋は、人材斡旋業者。そこに騙されて料理屋に勤めることになってしまった。文中に「花柳界」とあるので、たぶん「料理屋」はふつうのレストランではなくて、芸者やホステスっぽい仕事なのだろう。ある富豪に借金を払ってもらって自由の身となったが、今でも後ろ指さされてつらい、という内容である。さっきの相談と似ている。

 空穂の答え。

▲貴方の御一身からいふと、暗黒の境を去つて光明の境に出て、そして楽しく働いてゐるのですから、初めて生き甲斐のある生活に入られた訳です。貴方から云へば名誉のある生活です。その貴方に対して軽蔑する者のあるのは、貴方から見れば心外でせう。しかし軽蔑する者の方にも一理ないとは云へません。職業に高下は無いといひますが、婦人がその節操を売り、又はそれに近いと見做される職業をしてゐる者は、この言葉の例外とし、やはり軽蔑されるべきものだと思ひます。貴方は精神は堕落してゐないと云ひますが、形式からばかり人を見て評す多数の者には、それも為方のない事だと思ひます。貴方としては、過去に対しての多少の非難は止むを得ない事とし、徳行を積むことによつてそれを消さうと努力されるべきで、今はその非難を非難されるべき時ではないでせう。(記者)(p.82)

  どうも、花柳界はダメらしい。空穂は「職業に高下は無いといひますが、婦人がその節操を売り、又はそれに近いと見做される職業をしてゐる者は、この言葉の例外とし、やはり軽蔑されるべきものだと思ひます。」とひどいことを言っている。これは身の上相談欄なので、空穂の意見そのままと見るのはナイーブだが、それでも、ひどいなーと思う。

 実は私、この『窪田空穂の身の上相談』を読むちょっと前に、同時代の女性アナキスト伊藤野枝の伝記『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(栗原康著・2016・岩波書店)を読んでいた。ウーマンリブの元祖とも言われる伊藤野枝なら、たぶんこの回答を読んだらブチ切れるだろう。伊藤野枝の言葉を引用してみる。

「賤業」という言葉に無限の侮辱をこめてかのバイブルウーメンが「一人ひとりの事情については可愛そうに思うが――」などと他聞のよさそうな事をいいながらまだその「賤業」という迷信にとらわれて可愛そうな子女を人間から除外しようとしている。それだけでも彼女たちの身のほど知らずな高慢は憎むべきである。まして彼女たちは神の使徒をもって自(みず)から任じてたつ宗教婦人ではないか? 博愛とは何? 同情とは? 友愛とは? 果(はた)してそれらのものを与え得る自信が彼女たちにあるか? 恐らく彼女たちの全智全能の神キリストは彼女らが彼の名を口にしつつかかる偏狭傲慢の態度をもって人の子に尽(つく)すことをかなしんでいるに相違はないと私は思う。

伊藤野枝「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」)(1915)

 これは、伊藤野枝が、婦人矯風会というキリスト教団体を批判したときの文章だ。婦人矯風会は政府の公娼制度を止めさせようとしていて、それはいいのだが、売春している女性を「賤業婦」と呼んでいた。女性が可愛そうだから売春を止めさせよう、ではなく、売春は「賤しいもの」だから止めさせようとしていた。それを伊藤がブチ切れのだ。お前らは世間体のいいことを言っているが、本心は「賤業」とか言って、そうした人々を下に見ているじゃないか、そんなのがキリスト教の精神か、とカンカンである。

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

  ちなみに伊藤野枝は大正12年(1923年)の関東大震災のどさくさにまぎれて軍部に、恋人の大杉栄と一緒に虐殺されている。空穂とは完全に同時代人だ。伊藤はなかなか複雑な人なので、詳しくは伝記を読んでほしいのだけれど、ともかく、空穂とはいえ、当時の支配的価値観を内面化しているところは免れていない。伊藤野枝の眼で見るまでもなく、そこに突っ込みを入れることは可能だ。

 実は、空穂の身の上相談回答の限界もここにあって、それは著者の臼井さんも指摘している。空穂の回答には「自分を恃む」という姿勢が強いが、それはつまり個人的解決を重視するということでもある。その反面、問題の背後に社会的・経済的な要因があり、それは女性個人の修養向上のみでは解決ができないという視点が、皆無とは言わないが弱い傾向にある。

 たしかにそれは批判点だろう。だが、窪田空穂の回答が、日本初の新聞女性欄のいちコーナーとして、その時代の女性たちの助けになっていたことは、紛れもない事実だと思う。

 次の相談と回答は、その最も大きなもののひとつとなった例だ。

△二十三日の御紙上の「独身を覚悟した訳」といふ相談を読みました時、私は悲しみもし、驚きもしました。それは余りに私の境遇とよく似通つてゐるからです。私は十四歳の時、知人の家へ手伝ひに参りました。夏休み中手伝つて呉れと達て云はれて止むなく参つたのです。そして毎日変りなく過ごしてをりました。その中御主人と奥様とはちよつとした事から口論をされ、それが元で奥様はお里の方へ三四日お出になり、家には御主人(当時三十七八歳)だけになりました。その時(大正二年八月)私は御主人の為に、清い操を汚されてしまひました。私は何んなに泣いたでせう。その後御主人様は大層私に深切にして呉れましたが、私は何なにその深切がいやだつたでせう。しかし私は二た月ばかりもその家にゐて、帰宅ができると父母の許にたのしく過ごしました。さて其の当時は何事も知らぬ私の事ですから、時々思ひ出しては、自分ながら怖ろしいやうな考へを小さい胸へ浮かべたこともありましたが、自分さへ黙つてゐれば円満におさまる御家庭と思つて、今日まで黙つて過ごしました。今日ではもう恐ろしい考へなど持つてはをりません。私は只今は十八歳になります。そして昨今は看護婦になつて、大勢の患者に接してをります。そして男子の方を思ひ出すと、私は昔の事が思ひ出されてなりません。それと同時に男子を呪はずにはゐられません。又私は至つて快活な性質でしたが、その事のあつた時から非常に陰気になり、寂しい程静かな室を好み、本などを読んでゐるのが楽しみのやうになつてしまひました。そして又、清い月や清い少女などを見ると、たまらなく懐かしい気がし、そして心は如何に清くても、女子に最も大切な操を汚された自分であることを思ひますとたまらないまで悲哀を感じずにはゐられません。右の事情から私は独身と覚悟を定めてをります。そして早く産婆なり薬剤師になり、一人前の者となつて父母に安心をさせたいと思つてゐます。然るにもう二三軒から結婚を申込まれてゐます。その度毎に私は断つてをりますが、何も知らぬ父母は唯不思議にに思つてゐます。親類も頻(しきり)に同じ事を勧めますが、以前の事を思ひ出しますと、私も結婚はおろか男といふ言(ことば)さへいやな位です。記者様、私の心を御察し下され、父母にこの委しい事を話さずに、結婚問題をことわる法を御教へ下さいまし。尚ほ私は、汚された事は一度だけでございました。(埋れし弱者)(p.258)

 どうもこのような、年若いころにレイプされ、それが元で結婚をあきらめたり、あるいは夫に対して後ろめたい気持ちを抱いたりといった、反吐が出るような事件が大正時代にはかなりあったらしく、空穂の回答を読んだ女性から、こういった類の相談がバンバン舞い込んだ。「あの回答を読んで思わず筆を取りました」と。みんな、相談したくてもどこにも相談できなかったのだ。悩み苦しんだ女性たちにとっては、新聞でこうした話題が取り上げられることは、当時の風潮からすると本当に救いのように見えたのであろう。空穂はそんな女性からの相談に、一回一回丁寧に答えていった。この相談に対する空穂の回答は以下のようなものだ。

▲此頃打続いてかうした悲しむべき手紙を手にして、世にはかうした事の如何に多いかを知つて、嘆きと怒りとを交々感じてゐます。かうした事の起つた事情を見ると、婦人が自意識が足りない為とか、又は勇気が足りない為とかいふのではなく、総て皆男子が暴力を以て、抵抗力のない婦人を蹂躙してゐる事が分ります。男子の一時の戯れ心が、如何に婦人の生涯を暗いものとし、如何に内部的に変化を起させてゐるかを思ふと、原因の小さきに較べてその結果の余りにも大きいのを見て、驚かずにはゐられません。婦人に対して男子は、今よりは遙かに責任のある態度を執らなければなりません。男といふ字を見るのさへもいやだといふ貴方の呪も貴方としては尤もの事だと云はなければなりません。さて、貴方の純潔を失はれた悲みに対しては同情します。しかしその動機から見ると貴方は暴力によつて奪はれたので、その中に貴方の意思は含まつてゐません。失つたには相違ないが、いはゆる災難であつて、貞操を破つたといふ事とは違ひます。悲みではあるが、責任の伴はない、悔の伴はない悲みです。即ち他からは十分に同情されるべき不幸といはなければなりません。随つて自分は貞操を破つた、女としての資格がない、結婚は出来ないとまで御考へになるのは、形にばかりつき過ぎた考へ方で、第三者から見るとそれ程までに考へるべき事ではないと思ひます。記者は貴方が良縁があつたら結婚される事を希望します。そして結婚前に、自身の事情を然るべき方法で先方に通じたならば、良縁といふべき縁であつたならば、必ず其事は許さるべき事だらうと思ひます。それより外に方法は無いでせう。(記者)(p.259)

  「あなたには何の責任もありません」とはっきり言っている。この時代として、空穂のこの回答はすごい。「レイプされるのは、女性に隙があるからだ」「誘惑したんじゃないか」「死ぬ気になれば抵抗できるはずだ」などという意見がまだまだ多くを占めていた(もしかしたら、今でもそうかもしれない)。相談者の女性も、それゆえ苦しんでいる。空穂はそれにしっかりとノーといったことになる。

 実際この回答の後に、読売婦人欄は上からの圧力で「女性は自ら気をつけねばなりません」「死ぬ気になれば抵抗できるものです」というサクラの投書を掲載させられている。反響が大きかったために、バランスを取らされたのだ。大正時代はそんな空気だった。そんな中で、空穂の回答は同じ境遇にある女性たちを励ますものだったに違いない。

 もちろん、結婚のみを救いと捉える考え方を批判することもできるが、この空穂の回答はじゅうぶんにあたたかいものだと思われる。

 しかし、こういった回答がトラブルの原因になる。さっきも「上からの圧力」と書いたが、このような女性の側に立った回答は、「風紀を乱す」と上層部から睨まれていたらしい。ある時、読売新聞の社長夫人であり、また愛国婦人会会長でもあった本野久子が、「身の上相談」にいちゃもんをつけた。要するに、男女問題や性に関する問題をあからさまに取り扱っていることが、当時の上流夫人の道徳観に抵触したのだ。

 本野久子は、上司を介して前田に意見書を渡す。曰く、「読むに忍びざる」「賤しむべき」内容であり、こういう記事は「害があつて益がない」と。前田はそれを空穂にそのまま見せた。

 空穂は手紙を見て激怒した。すぐさま返事を書く。内容はまとめると次の通り。

『身の上相談』は、相談を寄せて来た人に対して有益な回答をするものであって、教育者としての私の意見を述べることが目的ではない。もし、私の回答が不適当だとか、文章がまずいということなら直せるが、実際に来ている問題そのものに手を加えることはできない。読者である女性が、記者に訴えてくるような問題は、見知らぬ人であることを幸いとして、他人に語れないような、心のうちの秘密を相談してくる。これを無視して捨て去ることはできない。それでも記者に責任があると言うのならば、私は辞めるしかない。

 いちゃもんをつけられ憤慨し、空穂は身の上相談の回答を書かなくなる。しかし、その間も新聞は毎日発行されるし、空穂の原稿のストックも切れる。仕方なく、別の婦人部記者が回答をしたりしているが、これが空穂とぜんぜん違っている。

△記者様。私は今年十五歳の少女でございます。先日、日曜日にお友だちのおうちへ遊びにまゐりましたら、お友だちのおねえさまが教会へつれて行つてあげると云はれました。私もお友だちも喜んで行きました。牧師さまがいろいろけつこうなお話をして下さいましたので、うれしく思つて、お友だちやお友だちのお姉さまと次ぎの日曜にも行きませうと約束して帰りました。そしておばあ様にこの事をお話しました。するとおばあ様は大層怒つて、家には仏さまがあるのに、そんなヤソ教の家へ行くのはいけないと云つて、お友だちの家へも、教会へもやつて呉れなくなりました。私は牧師さまのお話がけつこうで面白いので、もつと教会へ行きたいと思ひますのに行かれません。それに何より淋しいのは仲のよいお友達と遊ばれなくなつた事です。記者さま、ほんたうに家に仏さまがあつたら教会へ行くのは悪いでせうか。おばあさまの云ふことは無理ではありませんのですか。どうぞお教へ下さい。(みつ子)(p.412)

 教会へ行きたいけれど、おばあ様が怒る、友だちにも会えなくなった、教会に行くのは悪いことなの? という15歳の少女からの相談である。ピンチヒッターで答える婦人部記者の回答は次のようなもの。

▲それはほんたうにお困りでせうね。教会へ行けないのは兎に角、仲のよいお友達とも遊ばれないのは、ほんたうに淋しいでせう。お可哀相にね。けれども、おばあさまの仰有ることを、無闇に無理だなどゝ思つてはいけませんよ。まだあなたはお小さいので、むづかしいことをお話してもよくは分りますまいけれど、昔はさういふ事の為めに、即ち人が違つた信仰を持つたが為めに、大戦争が起つて、沢山の人が死んだり、国が滅びたり、色々な事がありました。それほどの事まであつた位ですから、おばあさまの仰有ることを無理などと言つて、背いたりすると、猶の事叱られるかも知れません。おばあさまの仰有ることも尤もなれば、あなたの困るのも尤もです。それはどちらが悪いことではありませんけれど、あなた位の時には、年取つた方の言ふ事に従ふのが、大抵の場合に悪いことではありませんから、まあ暫くの間は、おばあさまの仰有る通りにしてゐる方がよろしいでせう。そのうちにまた、時節といふものが来て、おばあさまのお心も自然と解けて、また仲のよいお友達の家へも行けるやうになりませう。(記者)(p.413)

 「それはほんたうにお困りでせうね。」って、もう全然違う。空穂なら、「教会へ行けないのは兎に角」と、教会はどうでもいいかのようには言わないだろう。「出来る範囲に於いて古い習慣を打破して進むといふ事は御自身に対する義務とお考へになつて然るべきでせう。」と述べた空穂ならば、きっと「ご自分の責任において、行くべきでせう」くらい述べる。こんなもやもやした慰めているだけのようなことは言わないに違いない。他の回答と比べると、やはり空穂の回答は抜きんでている。

 それはともかく、もう辞めるしかない。実は、空穂はこの身の上相談をやっている期間中に、急な病で愛妻を亡くしている。どうやら臨月だった妻がインフルエンザに罹って、あっという間に亡くなってしまったらしい。それで気落ちして、なんとなく身の上相談を辞めたがっていた。また、前田も上層部にケチをつけられたんなら辞めると言っている。結果、せっかく成果を出していたのに、婦人部は空穂だけではなく、部長以下総辞職となる。

  実はこの身の上相談欄いちゃもん事件にはどうやら裏があって、元々、土岐哀果の率いる社会部と、前田の率いる婦人部との軋轢がその原因にあったらしい。婦人部の記者は、空穂が運営していた雑誌『国民文学』出身の文学者ばかりで、土岐はそれにやりにくさを感じていた。また、社会部も婦人部も新聞の部数を伸ばすために展覧会イベントなどを企画・実行したりしているのだが、婦人部のほうが成功してしまったりしていた。他に、前田は意志は強いが人とぶつかりやすい性格で、しょっちゅう敵を作っていた。そんなこんなで、社会部は婦人部を白眼視していたようだ。

 つまりこれは、土岐と前田の権力争いが前提にあったのである。で、前田のほうが負けた、ということのようだ。うわあ、こわいなあ、それは。ただ、この時は親友前田に殉じたかたちになったが、空穂自身は土岐と仲たがいをしておらず、その後も、土岐の歌集の選を空穂がしたり、空穂の早稲田大学上代文学の講義を、定年後土岐が引き継いだりしていて、晩年まで厚い交流がある。

 空穂の読売新聞勤務の最後は、証言によると、こんな感じだ。

  社内で「身の上相談」には少し男女のことが多すぎるという批判が起こり、上層部からその点少し注意するようにという達しが部長まであった。友人同士である前田部長からそれが窪田さんに取りつがれると、窪田さんは笑って「なるほどね、男女問題が多すぎるか。しかしこの人生に男女問題以外に何があるかね?」と言っておられたが、そのうちにさっさと机の上を片づけて、「じゃあな前田、おれはこれでよすよ。あとはよろしく。」こう言って、すっと帰ってしまわれた。

(中村白葉「窪田空穂の大きさ」『短歌』昭和四十二年七月号)

 というわけで、空穂の大正5年10月から大正6年5月までの八ヶ月間の「身の上相談」欄は幕を閉じた。

 以上、窪田空穂が読売新聞紙上で行っていた「身の上相談」の経緯をたどってきたが、改めて見てみるとこの仕事は、有名な近代歌人では空穂以外はムリなのではないかという気がしてくる。啄木、茂吉、白秋、牧水……、それぞれに魅力的な歌人たちだが、また皆それぞれにうしろぐらい所を持っている。こんなヒューマンな回答は、たとえ仕事としても、他の近代歌人たちにはおそらくできないだろう。別に品行方正であることが文学の価値を決めたりはしないから、言動が清廉であるかどうかはどうでもいいのだが、空穂のヒューマニスティックなところは、私には妙に面白く思われる。

 それはたぶん、空穂がつるりとした聖人君子だからではなく、むしろその逆で、こうしたヒューマンな視点も、辛酸を舐めてきた末に生れてきた、ほの暗く陰影を伴ったものだからだと思う。空穂自身はよく「人生は我慢の連続だ」と述べていた。

  冒頭で、空穂のことを「誰もが知っているビッグネーム」と書いておいて恐縮だが、実は空穂はわかりにくい歌人でもある。茂吉や白秋などの輪郭のはっきりした歌人に比べて、イメージを捉えづらいと思っている人も多いのではないだろうか。「境涯派」「人生派」と呼ばれることの多い空穂だが、「境涯派」「人生派」なんて何にも言っていないに等しい。

 だが、こうした空穂の身の上相談なんかを読んでいると、やっぱり空穂も変ってるよなという気になってくる。そして、空穂の名高い長歌に表れているようなクリアな視点と情の厚さの両立は、こうしたところにも出ているんだな、と思うのである。

 著者の臼井さんは歌人ではないのだが、研究を続けるうちに空穂に魅せられたのだろう。すっかりファンになっている。

この空穂の回答は忘れ難い名回答で、筆者も励まされる(p.69)

 

大正五年十二月十三日の三十一歳男性への回答は、胸がすくほど素晴しい(p.94)

 

空穂のヒューマンな女性観(人間観)が迸り出たような名回答であろう(p.97)

果ては、

大正女性の『真の愛』の一様相と身に覚えある空穂の回答を味わっていただきたい(p.340)

という、ソムリエか、というような言葉まで出てくるのである。「(研究している)この三年間、わたくしは空穂に片恋をしていたように思われる」とまで言っている。そこらへんほほえましい。 

 実はこの本、知った初めは「窪田空穂が人生相談!? なにそれ! おもしろい!」とウキウキで購入したのだが、実際にアマゾンから届いたら、字のびっしりある超まじめな学術書で、読んでいくのに非常に骨が折れた。なにしろこの本、空穂担当期間の八ヶ月間の相談・回答をすべて載せている。全211件、読んでも読んでも身の上相談が出てくる。

 だが、すべての回答を読んでいくうちに、大正時代の人々が悩んでいたこと、そこには欲望がうごめいていたこと、古臭いジェンダー観や家意識、それを空穂がバシバシ切っていったこと、にもかかわらず空穂自身にも保守的な部分があること、それを著者の臼井さんが指摘していること、にもかかわらず臼井さん自身にも保守的な部分があること、そしてそれはたぶん読者である私の中にもあること、それでもやはり人の悩みを読むのは面白く時代の空気が生々しいかたちでこちらに次々手渡されていくこと……、とどんどんぐるぐるしていって、へんなトリップ状態になっていった。他にない読書体験だったと思います。

 読んでみたい方は読んでみるといいと思いますが、超ぶ厚いことはもう一度お伝えしておきます。あと、空穂入門としては、いささか斜めというか、他の本から入ったほうがやはりいいかもしれません。面白かったけど。 

 なお、もっと気軽に当時の身の上相談を楽しみたい方は、山田邦紀『明治時代の人生相談』(2009年・幻冬舎文庫)、カタログハウス編『大正時代の身の上相談』(2002年・ちくま文庫)を読むといいと思います。身の上相談、面白いです。とくに、『大正時代の身の上相談』のほうは、まさに読売新聞の身の上相談欄を元にしているので、ばっちり空穂の回答も入ってます。ただ、単なる匿名記者扱いになっていて、この本の著者は空穂が回答していたことにまったく気づいてないみたいですが。

明治時代の人生相談 (幻冬舎文庫)

明治時代の人生相談 (幻冬舎文庫)

 

 

大正時代の身の上相談 (ちくま文庫)

大正時代の身の上相談 (ちくま文庫)

 

 

 ちなみに、日本および読売新聞における「身の上相談」欄の成立過程は、以下の論文に詳しいので、興味のある人は読んでみてください。

桑原桃音「大正期『讀賣新聞』「よみうり婦人附録」関係者の人物像にみる「身の上相談」欄成立過程」(龍谷大学学術機関リポジトリ

http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/handle/10519/6559

 今回も長くなってすみません。それでは。

 

第11回 『現代の第一歌集―次代の群像』

吉田恭大

現代の第一歌集―次代の群像

現代の第一歌集―次代の群像

 

 

こんにちは、吉田恭大です。ご縁あってゲストに呼んでいただいて、久々に本の山を掘り返しました。

 

土岐さんが『桜前線開架宣言』を取り上げていたので、もう少し前の若手のアンソロジーを読んでみます。『新響十人』(2007年・北溟社)『現代短歌の最前線』(2001年・北溟社)を探していたら、それよりもう少し前のものが出てきました。

 

『現代の第一歌集―次代の群像』(1993年・ながらみ書房) 

昭和61年より平成3年12月までに刊行された戦後生まれの歌人75名による第一歌集のアンソロジー。本書により現代短歌の若い世代の動向が一目瞭然できる。短歌入門書として最適!!


と帯にある通り、アンソロジーとしてはそれなりに網羅的なボリュームがある。

 

各項は刊行順に並んでおり、例えば昭和62年(1987年)には小島ゆかり『水陽炎(みづかげろふ)』、俵万智『サラダ記念日』、大津仁昭『海を見にゆく』、加藤治郎『サニー・サイドアップ』などが出ていることが分かる。『サラダ記念日』前後というと大雑把な認識としてどうしても「ライトバース/ニューウェーブ」の印象が強いが、作者毎に追っていくと、当然ながらみんながみんな口語というわけではない。

 

それぞれの第一歌集から抄録50首、「刊行のころ」という短文、略歴と「ノート」として今井恵子・田島邦彦・藤原龍一郎・古谷智子・武藤雅治による短い解説が付されている。

 

それと巻末に「第一歌集に関するアンケ―ト」があり、これが中々面白い。

①歌集を出されたのは何歳のときで、発行部数は何部でしたか。
②戦後短歌の中から、好きな愛誦歌を二首あげて下さい。
③短歌を作られるようになった動機について記して下さい。

例えば、1988年に『青年霊歌』を刊行した荻原裕幸はこんな感じ。

①二十五歳・五〇〇部
②回答不可能
③十四、五歳の頃、井上陽水に狂つてシンガーソングライターにあこがれてゐた。やがてセンスの悪さから音楽をあきらめ、自由詩を書いてゐた。ある日ふとしたことから寺山修司を体験した。少しあとに塚本邦雄を体験した。十七歳だつた。月並みな言ひ方にしかならないが「これしかない」と思つた。恐いもの知らずの十代は、ジャパネスクなランボーをこころざしたのだつた。これを言ふと必ず笑はれるのだが、本当の話である。

引用終わり。「刊行のころ」もそうなのだけれど、それぞれがエピソードをしっかり披瀝しているところが楽しい。きっかけとして『蛍雪時代』の投稿欄を挙げている人(小池正利、吉野裕之)がいたりするのも、時代を感じる。愛誦歌として上がっているのはやはり寺山と、それから塚本が多い。いま同じアンケートを、ここ5年くらいで第一歌集を出した人々に取ったらどんな回答が集まるだろうか。

 

ながらみ書房からは同様のコンセプトで第一歌集から採録したアンソロジーが計6冊出ている。これについては光森裕樹さんがウェブサイト「GORANNNO-SPONSOR.com」で取り上げられていて、アンケートから集計したデータも公開されている。

『処女歌集の風景 ―戦後派歌人の総展望』(1987年)
『第一歌集の世界 ―青春歌のかがやき』(1989年)
『私の第一歌集(上・下)』(1992年)
『現代の第一歌集 ―次代の群像』(1993年)
『現代短歌の新しい風』(1995年)

『ながらみ書房による第一歌集を中心としたアンソロジー』(2010.3.6)
http://www.goranno-sponsor.com/blog/2010/03/post-2.html

『第一歌集の初版発行部数』(2010.3.6)
http://www.goranno-sponsor.com/blog/2010/03/post.html

『第一歌集の収録歌数』(2010.2.15)
http://www.goranno-sponsor.com/blog/2010/02/post-1.html

 

ちなみに、93年の『現代の第一歌集』収録歌人のうち、先に挙げた2001年刊行の『現代短歌の最前線』上・下巻の計20人の中に収録されているのは、坂井修一、大田美和、川野里子、加藤治郎、大辻隆弘、小島ゆかり辰巳泰子、林和清、穂村弘水原紫苑米川千嘉子、の11人。


この面子と、さらに2005年刊行開始の邑書林『セレクション歌人』シリーズのラインナップを見ていくと、総合誌をぱらぱらめくっていても何となく名前と歌が一致して「こんな人がいるらしい」という印象がでてくる。

 

『現代の第一歌集』75人の中で、第二歌集を出さずに、あるいはそれ以降に短歌から遠ざかっていった人はどのくらいいるだろうか。この本で初めて名前を知った人でも、試しにgoogleにかけてみると、断片的でもそれなりに情報は出てくる。

 

もしかすると平成以降で、検索エンジンに引っかからない作者名は無いのかもしれない。

 

知らない人の知らない歌集も、検索すればその在り処くらいは分かる。歌集そのものにアクセスするのは、相変わらず骨が折れるのだけれども。

 

実験室のむかうの時間と夏樫のかたきひかりを曳きて来るなり/米川千嘉子『夏空の櫂』(1988年)

 

吉田恭大:1989年鳥取生まれ。早稲田短歌会OB、塔短歌会所属。Twitter@nanka_daya

第10回 塚本邦雄『新撰小倉百人一首』

星を編んだ眼 土岐友浩

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新撰小倉百人一首 (1980年)

 

映画の「ちはやふる」が面白かったから、というわけでもないのですが。

 

競技かるたに使われる百人一首は、藤原定家が晩年に編んだもので、後世のものと特に区別する場合は「小倉百人一首」と呼ぶ。

もちろん定家は、自分の選んだ歌がかるたとして広く親しまれることになるとは、想像もしなかっただろう。元々は、小倉山に隠棲していた蓮生入道(宇都宮頼綱)の依頼に応えて、別荘の襖を飾るために、定家が百首を選んで贈ったものだという。
百人一首に紅葉の歌が多いのも、小倉山が紅葉の名所だから、ということらしい。)

 

ただし、定家が揮毫したはずの肝心の色紙は、現存していない。そのため、現在伝わる百人一首の歌は、一部、定家の選から改変があるとも言われている。

そこは意外と重要なポイントで、なぜかというと、百人一首のセレクトの基準が、どうもよくわからないからだ。

 

定家は、なぜ、この百首を選んだのか。

 

百人一首というコンセプトからして、いい歌を選りすぐったベスト盤のようなものを想像してしまうけれど、実際には、その歌人の代表歌というべき作品はほとんど収録されていない。例外は二条院讃岐の「沖の石」の一首くらいだ。

 

塚本邦雄は、こう言い切っている。

伝・定家撰「小倉百人一首」が凡作百首であることは、最早定説になりつつあると言つてもよからう。勿論百首すべて、曲りなりにも、勅撰和歌集入撰歌だから、どこかに取柄はあらう。強いて褒めようと思へば、いくらも迎えた解釈を試み、作者も鼻白むくらゐの頌詞(オマージュ)は捧げられるだらう。現に、そのたぐひの、見事な鑑賞文は、まさに汗牛充棟の趣である。

『新撰小倉百人一首』の「序」の冒頭を引用したが、塚本は正岡子規の「歌よみに与ふる書」を彷彿とさせるような皮肉たっぷりの文体で、百人一首は凡作だと断言し、さらには平凡な歌に「迎えた解釈」を施すことをも批判する。

 

そして「凡作百首」を選んだ定家については、こう書いている。

たとへば、私が、新古今時代最高の歌人、定家も、その詩魂に関しては、一籌を輸さねばならぬと信ずる後京極摂政太政大臣、藤原良経の、「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」を見る毎に、私は悲憤を通り越して、この歌を殊更に採つた定家に、殺意を感じてしまふ。(跋)

もう死んでいる定家に、殺意を感じるというのがすごい。

「一籌を輸する」とは、一段劣るという意味だが、要するに塚本は定家と良経の二人を、当代最高の歌人として認めていたということだ。だからこそ、秀作ひしめく良経の作品から「きりぎりす」の一首を選ぶとはどういうわけだ、と塚本は嘆く。

 

そこで定家選を捨て、塚本自身の言葉を借りれば、「これこそかけがへのない」という一首を選び直したのが、『新撰小倉百人一首』である。百人一首以外の作品が知られていない安倍仲麿と陽成院の二人を除いて、九十八人全員、百人一首とは別の歌が採られている。

 

本文は、作者一人につき、きっちり三ページ。改選歌の解説と鑑賞がメインだが、百人一首歌へのコメントも載っている。

個人的には、なんといっても後者の、百人一首を塚本がどう読んだか、というのが面白かった。

 

たとえば権中納言敦忠の有名な、 

あひ見ての後のこころにくらぶれば昔はものを思はざりけり

 

という歌は、

なるほど全くその通りの心理ではあるが、これは作者がひそかに洩らすひとり言のたぐひで、貴公子らしいおつとりした歌などと見るのは過大評価といふ他はない。

とばっさり切り棄てられている。この調子で塚本は百首の歌を、平凡、駄作、これは珍しく秀作、と、どんどん評価をつけ、選り分けていく。

 

もちろん批判しているのは歌の内容だけではなく、

しのぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

 

この平兼盛の歌については、「ものものしい倒置法めいた文体が、この場合はなぜか耳に逆ふ。結句の『まで』も要らざる念押しではあるまいか。」と、主に表現上の問題点を指摘している。

 

永井さんが前回の記事で掛詞について触れていたけれど、僕も掛詞などの和歌の修辞を見ても、「そういうものか」くらいにしか思わない。

しかし塚本はその修辞の綾に分け入り、かつ手厳しく批評していく。

いわく、伊勢の「難波潟」の歌は「序詞と懸詞技巧の目立つ、やや龍頭蛇尾な文体」、藤原実方朝臣の「さしも草」を「せせこましく、こうるさい感なきにしもあらず」、皇嘉門院別当の「みをつくしてや」は「聞き飽いたやうな縁語・懸詞のアラベスク(略)類歌が多過ぎて紛らはしい」と、毒舌のオンパレードだ。

極めつけは定家の「焼くや藻塩の」の歌なのだが、本文を読んでもらったほうが面白いと思うので、ここで引用するのは控えよう。

 

もっとも、技巧的な歌がすべて退けられているわけではない。中納言兼輔の

みかの原わきて流るるいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ

 

は「流麗な韻律はまことに快く」と、高く評価されている。

 

ちなみに、では、百人一首歌で、塚本が認めているのはどれかというと、

本書を読むかぎりでは、先にも挙げた、二条院讃岐の

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかはくまもなし

 

それから、

春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ  周防内侍

たまの緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする  式子内親王

 

の計四首くらいである。

 

さて、ここまで塚本邦雄百人一首を斬っていく様子を紹介してきたが、改選された歌と、塚本の意を尽くした鑑賞文も、やはり見逃すわけにはいかない。

 

たとえば巻頭の天智天皇の御製、

秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつつ

 

この歌の代わりに塚本は、

朝倉や木の丸殿にわがをればなのりをしつつ行くはたが子ぞ

 

の一首を挙げている。塚本の解説によれば「朝倉」は筑前国(福岡西部)の地名で、天智天皇中大兄皇子)は当時、朝鮮半島の戦いを支援するためこの地に滞在していた。下の句は、出仕した官人が自らの姓名を名乗って、定めの部署に就いていったという「名対面」と呼ばれる場面を詠んだものだ。

塚本はまず、「朝倉や」の歌い出しの爽やかさや、「木の丸殿にわがをれば」の大らかな素朴さを味わう。そして、この西征の際に、斎明天皇が没し、大伯皇女や草壁皇子大津皇子が生まれていることに触れ、「たが子ぞ」の呼びかけが含むところを示唆しながら、「この朗朗たる調べの背後にある史実も、知れば一層面白い」と結んでいる。

 

毒舌も苦い薬のようなもので、本書も読み方を間違えなければ、百人一首の作者や作品への理解を、おのずと深めることができる。

塚本はこれ以外にも、『清唱千首』など古典和歌のアンソロジストとして多くの仕事を残しており、

今は講談社文芸文庫『王朝百首』『珠玉百歌仙』などが比較的気軽に手に入る。(残念ながら本書はまだ文庫化されていない)

 

塚本が織り上げた見事な和歌の世界を、ぜひ覗いてみてほしい。

 

 *

 

ところで定家自身は、百人一首の選歌について、こう書き残している。

 

上古以来の歌仙の一首、思ひ出づるに随ひてこれを書きいだす。名誉の人、秀逸の詠、皆これを漏らす。用捨は心に在り。自他の傍難あるベからざるか。 *1

秀歌が選から漏れているのはわかっているが、その理由は自分の心のなかにある。非難は無用だ、というわけだ。

なんとも意味深な一文である。

こう言われると、定家の秘めた「心」を知りたくなるというもので、『百人一首の謎を解く』(草野隆)など、今日まで様々な研究書が出ている。

 

定家はなぜ、この百首を選んだのか。

 

百人一首はミステリアスなアンソロジーでもあり、その謎に多くの人が惹きつけられ、解明しようとしてきた。

 

だが、おそらく塚本は、そんなことにはなんの興味もなかっただろう。

 

なぜなら塚本は、極言すれば「いい歌」にしか関心がないからだ。

塚本にとってそれは「定家の面妖な好み」の一言で片付けられる問題でしかなかった。

 

塚本は和歌の規範とは無関係に、あるいはそれを呑み込みながら、独自の、何にも左右されない選歌眼を鍛えていった。

あえて一言で言い表せば、一首の韻律がもたらす「快」の感覚、その陶酔の体験こそが塚本にとっての絶対的な価値だったのだ。

 

だから読者にとっても、塚本の文章を読むのは、至福の体験である。

しかし、あるときから僕は、塚本の本を読み終わると一抹の悲しさを覚えることに気づいた。

 

塚本は、その比類のない鑑賞眼に、みずから殉じることしかできなかったのではないだろうか。

 

*1:百人一首の原型である「百人秀歌」の奥書

第9回 塚本邦雄『新古今集新論』

永井祐

今日は塚本邦雄新古今集新論』です。

 

 

この本を読んだのはずいぶん昔です。たぶん十年以上前。

なぜこれを読んだのかはよく覚えていません。たぶん読みやすかったんだと思います。

塚本さんは古典の本をたくさん出していますが、これは中でも異色です。

「岩波セミナーブックス」というシリーズの一冊で、たぶん何かの講座をもとに

書き起こしている本みたいです。

だからしゃべり口調で書かれている。ギャグも言っています。

塚本さんの普段の書き方はカジュアルの対極ですから、そういうギャップもこの

本の面白味かもしれません。

 

この本が対象としているのは「新古今集の時代」です。

塚本さんが愛している『新古今和歌集』ですが、ここではそれをはじめから読んで

いくのではなく、その時代を描くために、新古今集の編纂に向けて行われた「六百番歌合」「千五百番歌合」がメインに扱われます。

これらの歌合(うたあわせ)は新古今集の母体となるとともに、当時の現役歌人たちの活躍の場だったんですね。

 

ちなみにわたしは、和歌の知識は乏しいです。「ながめ」が「長雨」にかかっていると言われても「はあ」という感じです。塚本さんもそれほど細かくフォローしてくれるわけではないので、歌そのものはすみからすみまでわかるわけではないのですが、

この本は読んでてなんとなく楽しいですね。

理解にはすんなり導かれないのですが、和歌を読む動機のほうを揺すってくれるというか。

語り方も少々エンターテイメント的な気がします。

まず、構図が勧善懲悪なのです。

 

十二世紀末、宮廷歌壇は六条家と御子左家(みこひだりけ)が対立して鎬(しのぎ)を削っています。(略)六条家、この方人(かたうど)で言うと季経、顕昭、経家、有家がそれに属し、俊成、定家、家隆、寂蓮が御子左家に属します。この歌合では御子左家の頭領である藤原俊成が判者をつとめています。

 

歌合は別に六条と御子左に分かれてやっているわけではないのですが、バックグラウンドとして六条家と御子左家の対立がある。

御子左家は先駆的な天才たち。六条家は何かというと万葉集を持ち出して御子左家の足を引っ張ろうとする、才能がないくせに意地悪な保守派。そんな感じで描かれています。

 

次、季経。六条家です。(略)新古今集入撰、一首。わかるでしょう、六条家の劣性遺伝が。

 

ここまでくると優生思想みたいでやばいのですが、八百年以上前なので。

 

とにかく、両家のピリついた空気のなか、六百番歌合が開かれます。

 

みなさん、歌合をやったことがあるでしょうか。

僕は一、二回あるのですが、どちらも大変な泥仕合に終わりました。悪い意味でのモヤモヤだけが残りました。歌合前夜の宿泊先のホテルでは、深夜に水を買おうと廊下を歩いていると、なぜか立ったまま何事かぼそぼそとつぶやきながら短歌を推敲している人に一人、二人と出くわしました。

 

そんな歌合を、そもそも対立している二家の混成で、しかも一方の頭領を判者として行うなんて、想像するだにきつい話です。

 

案の定、泥仕合が行われたようです。

六条家の論客、顕昭は俊成が判詞を書くたびにかみついたそうです。

 

冒頭の「元日宴」で、顕昭が「むつきたつ…」という歌を出す。「むつきたつ」という修辞は、聞いたことがない、例が少ないと俊成は言う。そんなことない、万葉集には、ちゃんと「むつきたつ」という歌があると、待ってましたとばかり顕昭が万葉を引き合いに出すわけです。なるほどと一言、俊成が言えばいいのに、万葉集も結構だがいかがわしい変な歌もたくさんあるアンソロジーであると切り出します。たとえば、山田朝臣の鼻の上を掘れというふうな変な歌があったはずだがなどと。言わなきゃいいのにね。池田朝臣なんですあれは。(略)さあ、待ってましたとばかり、顕昭は今、何か俊成さんが万葉の悪口をおっしゃったが、万葉をよく読んでからおっしゃるべきだ、「山田朝臣」なんて万葉にはない、おっしゃっているのは、多分「池田朝臣」のことだろうとね。俊成、返す言葉もない次第です。

 

こういう、山田だとか池田だとかの枝葉末端の嫌味の言い合いを冒頭からやっていた。

顕昭は歌合終了後に自分の反論をまとめて「六百番陳状」と呼ぶ論難集大成を出しているそうです。

そんな六条家を相手に、我らが御子左家の天才たちが戦っていく。

この六条家VS御子左家のところはこの本のキャッチ―なところです。

あとはやっぱり、塚本さんの歌の読みが面白い。

 

ひととせをながめつくせる朝(あさ)戸(と)出(で)に薄雪こほる寂しさの果て  定家

 

毎日、毎日、こういうふうに私は家を出て、九条家に出勤する。いつの間にか一年が経ってしまった。今朝は昨夜の、うっすらつもった雪が凍てて鈍く光っている。そのガラス状に凍った雪のするどい感触。(略)これ、現代短歌として通るでしょう。(略)

ところが、当時、このような技法が、特に六条家からいかにそしられたか、それは想像に余るでしょう。こんな用語は万葉集にはないとかね。

 

 なるほど。この歌はわたしもわかるような気がする。

でも、この歌は負けになってしまう。判者でかつ父親の俊成いわく、

 

「ひととせをながめつくし、さびしさのはてといはば、雪もふかくや侍るべらんとこそおぼえて侍るを、うすゆきこほるといへる事、たがひたる様にや侍らん」

 

俊成は、「ここは『薄雪こほる』は違うんじゃないの? 雪は深く積もってなきゃおかしいでしょ」と言っています。それに塚本さんは、

 

雪が深々と積もっていたら、ぜんぜん寂しさなんか出てこないでしょう。ガラス状に凍ててひりひりと光っていて。それだからこそ、「寂しさの果て」なんです。この感覚がどうしてわからなかったのか。

 

と言っています。わたしはこれは塚本さんの言うことよくわかります。

でも俊成の雪は深くなきゃおかしい、というのも、興味深い意見です。「そういう風に思うんだ、」という意味で気になります。

ほかには、これもよかったな。

 

手にならす夏の扇とおもへどもただ秋風の栖(すみか)なりけり  良経

 

「手にならす」というのは、当時の扇は檜扇ですからね、たたむ扇じゃありません。ぱたぱたと檜扇ですから、手にならす。音をたてるの「鳴らす」と、使い慣れるの「馴らす」と両方の意味があります、「手にならす」とは、手にならして、それが音をたて、単に風を送っているだけの扇だが、考えてみれば、ここには秋という季節そのものが住んでいるのだという。十二世紀のSF短歌です。「ただ秋風の栖なりけり」これは絶妙です。

 

ところがこれも負けてしまう。

塚本さんは誤判だといってくやしがっています。

なんだろう。塚本さんの選や読みって魅力的だし、わかるとも思うんですけど、ひょっとしたらすごい的外れなのかもな、とも思うんですよね。和歌の世界を他者としてながめたときに。わたしにもわかる自己流で読んでるんだけど、それってまったく違うルールでやってるはずの和歌にも通用するのかな、って少し不思議な気になる。でも他の和歌の本よりずっと面白いですね。少なくとも僕には。

最後に後半の「新古今歌人列伝」から、式子内親王を。

 

恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしと言ひしにあらず君も聞くらん

 

恋しい恋しいと思って、とにかく見ていて下さい。このまま世に生き存(ながら)えていようなんて、私はぜんぜん思っていません。そのことはあなたも御存じでしょう、と歌っています。迫って来るようなこのリズム、不思議な文体です。

 

日に千たび心は谷に投げ果てて有るにもあらず過ぐるわが身は

 

すさまじい歌です。直情径行、思いのたけを吐き出したという感じで、新古今調の妖艶な趣はありません。

 

ながめ侘びぬ秋より外(ほか)の宿もがな野にも山にも月やすむらん

 

勿論これの特徴は六音の初句切れです。これに無類の味があります。

 

式子はすごく追いつめて作ってることがわかる気がして、わたしも好きです。

一首目、冒頭からリズムがはりつめていて、息せき切ってるみたいな、ヴァイブスすごいのはなんとなくわかります。

二首目、上句は現代で見ない表現で、うわあ…てなりますね。「有るにもあらず」は「生きてるのかどうかもわからない」という意味です。

三首目は言うとおり「ながめ侘びぬ」の六音の初句切れがかっこよすぎです。「ながめつかれてしまった」という意味になります。

第8回 大辻隆弘『アララギの脊梁』

 アララギはやっぱりおもしろい 堂園昌彦
アララギの脊梁 (青磁社評論シリーズ 2)

アララギの脊梁 (青磁社評論シリーズ 2)

 

  面白い! 面白い! 面白い!

 いま一番おもしろい短歌評論の本を出しているのは、間違いなく大辻隆弘だろう。大辻さんの評論の本はどれも面白くて、なんか短歌の評論読みたいなー、短歌のことをいろいろぐるぐる考えてえー、という人にはマストだと思う。なんというか、テンションの上がる面白さなのだ。

 この本は、大辻さんの短めの評論を集めた本で、2009年に青磁社から刊行されている。『アララギの脊梁』とあるように、内容は主にアララギ歌人たちについてだ。

 まず、一番初めに載っている評論。タイトルは「人称の錯綜」。内容は、釈迢空の歌について。迢空の歌はかなりヘンで、そのヘンさの中身を取り扱っている(大辻さんは「ヘン」とは言ってないけど)。さて、どうヘンか。

勝ちがたきいくさにはてし人々の心をぞ 思ふ。たゝかひを終ふ  釈迢空

 終戦のときの歌。「終ふ」がヘンだ。「戦争を終わらせる」と言っているわけだが、戦争行為を終わらせることができるのは、迢空ではなく天皇である。「~思ふ。」までは迢空の一人称だったのに、「たゝかひを終ふ」で急に昭和天皇に同化している。主体がよくわからなくなる。ヘンだ。

草あぢさゐの 花過ぎ方のくさむらに向きゐる我が目 昏(クラ)くなりゆく 釈迢空

 この歌も、歌の始まりでは紫陽花を見ていたはずなのに(一人称)、途中から「我が目 昏くなりゆく」と視線は釈迢空の身体から出て、自分の眼球を外側から見ている(三人称)。これもヘンだ。大辻さんは、迢空の歌にはこのような「一人称の発語のなかに、三人称的な客観描写がなんの抵抗もなく、融通無碍に入りこんでくる」「人称の錯綜」があると述べる。

近代のリアリズムは、固定した一点から見られた情景を写すことによって成立している。一つの情景を異なった複数の視点から描きだすというキュビズム絵画のような描写は、基本的には「反則」なのだ。迢空の歌は、あきらかにその禁則に触れている。(p.10)

 固定化された一視点が近代短歌の基本だ。それなのに、迢空の歌では、その基本があっさりと捨てられている。たしかに反則だ。

 しかし、なんでこんなことが起きるのか。大辻さんは迢空が民俗学者折口信夫として研究していた古代歌謡に注目する。

 折口自身が指摘していることだが、古代歌謡では人称がわからなくなってしまうことが多い。三人称的に客観的に始まった歌謡が、語り部(巫女)の一人称になったり、そうかと思ったら神様の一人称になったりする。人称が途中でころころ変わってしまうのだ。これは、語り部である巫女が、次第にトランス状態になって、個人が語っている状態から、共同体の言語である「神の独り言」を話す状態に移っていく過程をあらわしている。

 それを踏まえて、迢空の「古い歌を口ずさんでゐると、神憑りでもした気になる」という言葉を引きながら、大辻さんはこう結論する。

釈迢空の歌における「人称の錯綜」。それは、迢空にとって必然的なものであった。迢空は、歌うことによって共同体の物語のなかに、ちっぽけな個人としての自己を放擲しようとした。(p.17)

 おおお、なるほど、面白い。近代短歌は基本的に「個人の物語」を語る詩形だが、迢空はそこに共同体の記憶を導入しようとして、このような技法を使っているわけですね。おもしろい。

 また、同じ迢空論で「呪われたみやこびと」も興味深い。この論は、「アララギ」誌上で迢空と茂吉との間で起きた論争を題材にしている。

 きっかけはこうだ。迢空は大正七年「アララギ」に全百首の大連作を発表した。こんな感じの連作だ。

お久米が子二階に来ればだまつてゐるこはきをぢにて三とせ住みたり  釈迢空

わが弟子とお久米が針子かどに逢ふ出あひがしらの顔いかならむ

わが怒りに会ひてしをるゝ一雄の顔見てゐられねば使ひに起(タゝ)

 特徴は、〈人事を〉〈口語で〉〈叙事的に〉詠んだこと。これは〈自然を〉〈文語で〉〈抒情的に〉詠むことが主流であったアララギでは、当然、すごく異質に映った。発表直後、斎藤茂吉から速攻で批判が来る。

このような口語を用いた人事詠が、すでに『あらたま』の粛々とした境地を完成していた茂吉に受け入れられなかったのは当然かもしれない。彼は「釈迢空に与ふ」(「アララギ」大7・5)という文章を書き、迢空の作品の「口語的発想」を厳しく批判する。迢空の歌のなかにあるのは、アララギが理想としている「万葉びとの語気」ではなく「阿房陀羅リズム」に近い軽薄な調べにすぎない、という茂吉の批判は非常に辛辣なものであった。(p.33)

 「阿房陀羅リズム」ってひどい。まあ要するに全然認められない、と言われたわけだ。こんなの我々の理想とする万葉調とまったく違うじゃないか、どうしちゃったの迢空、ということだ。

 しかし、迢空も黙っていない。すぐさま反論をする。そこで書かれた文章がこの論考の中心になる文章だ。

あなた方は力の芸術家として、田舎に育たれた事が非常な祝福だ、といはねばなりません。この点に於てわたしは非常に不幸です。軽く脆く動き易い都人は、第一歩に於て既に呪はれてゐるのです。(略)万葉は家持期のものですらも、確かに、野の声らしい叫びを持つてゐます。その万葉ぶりの力の芸術を、都会人が望むのは、最初から苦しみなのであります。

                   釈迢空「茂吉への返事」

 言葉はおだやかながらも、迢空もけっこうキツイことを言っている。 あなたたちアララギの同人たちは、「田舎」に育った人間で、万葉集の「野の声らしい叫び」に親和性を持っている。それに比べて私・迢空は都会に育った弱い「みやこびと」であり、はなから万葉っぽくなるのは無理だ、と。

 さらに興味深いのは、迢空が「みやこびと」としての苦しさを、日本の近代の問題と結び付けていることだ。

日本では真の意味の都会生活が初つて、まだ幾代も経てゐません。都会独自の習慣・信仰・文明を見ることが出来ない、といふことは、かなりた易く、断言が出来ます。そこに根ざしの深い都会的文芸の、出来よう訳がありません。日本人ももつと、都会生活に慣れて来たなら、郷士(強度の訳語を創めた郷土研究派の用語例に拠る)芸術に拮抗することの出来る、文芸も生まれることになるでせう。(略)都会人なるわたしどもはかういふ方向に、力の芸術を掴まねばならない、という気がします。

                         釈迢空「同」

 他の部分も含めながら迢空の言いたいことをまとめると次のようになる。

 この時期、日本は近代化して、だんだんと都市化していっている。そのなかで「自然に還れ、万葉に戻れ」と言っても、それは欺瞞じゃないか。私たちはなんとかして都市のなかの新しい生活を詠っていかなければいけないんじゃないか。そのためには、叙事的なことを詠うことのできない従来の短歌形式では難しいのではないか。

 うーん、たしかに。大辻さんは「歌の円寂する時」という迢空の有名な短歌滅亡論の背後には、このような認識があったのではないか、と指摘している。鋭い批判であり、また、現代においてもこの矛盾はまだ継続していると見てよいんじゃないだろうか。短歌に叙事が適さないことは、短歌において社会詠が難しいことともおそらく通じているよなあ、とか、短歌を抒情詩から叙事詩にするために迢空は口語の試行を繰り返したわけだけれど、それは結局歴史の中で定着しなかったんだよな、とかそんなことを私は思ったりした。

 こんな感じで、大辻さんの論は、問題提起→論理説明、がスパン! スパン! と次々決まっていくので、すごく快感だ。しかもその結論は、単なる短歌の歴史上の出来事ではなくて、現代のわれわれの作品を考える上でも大切なトピックばかりなのだ。

  短歌の言語に共同体の記憶を入れるには、とか、短歌で都市を詠むにはどうすればいいのだろう、などは現代の短歌でも気になるところですよね。そんな感じで、単に古典の研究ではなく、アクチュアルな短歌の問題に接続する視線があるのが、大辻さんの論の特徴だと思う。

 さて、この本の一番面白いところに行こう。アララギにおける「写生」の問題。まず、大辻さんは短歌で「写生」と一番初めに言い出した正岡子規の考えをこう説明する。

子規の写生の理念は、外界の描写を通じて作者の内面を描きだすという逆説的な構造をもった文学理念であった。(p.70)

 子規の考えは非常にシンプルである。見ている物だけを丁寧に描写すれば、それを見ているはずの作者の視点の位置や心情はおのずと伝わるでしょう、ということだ。「主観とは何か?」とか「客観とは何か?」とか「目の前の物を把握するときの主観の働きは?」とかいったややこしい話はない。別のところでの大辻さんの説明はこうだ。

この用語(注:「写生」のこと)をはじめて文学用語として用いたのはいうまでもなく正岡子規である。「実際の有のまゝを写すを仮に写実といふ。写生は画家の語を借りたるなり」(叙事文 明33)と回想しているように、彼はこの「写生」という用語を、当初は西洋画の「スケッチ」の訳語として用いていた。「客観」とか「主観」とかいったこざかしい認識論的な概念規定に深入りさえしなければ、子規のいう「写生」は「スケッチ」という用語と同じく、「眼の前に存在しているものをそのまま描きだそうとする方法である」とごく素朴に考えておいてよい。(p.118)

 ふんふん、なるほど。絵画をスケッチするように、外界を描写すれば、作者の内面が読者に伝わるということのようだ。

 もう少し詳しい説明は、こんな感じだ。

 私はかつて『子規への遡行』(平8)のなかで「歌よみに与ふる書」(明31)を中心に、子規の写生の理念の意味を考察したことがある。そこで私は、子規の写生とは、強い映像喚起力を持った名詞を多用することによって、和歌の文体のなかから過剰な助辞「てにをは」を排そうとする試みであった、ということを指摘した。明晰な映像喚起力をもった名詞中心の文体の確立によって、一首のなかで叙述された情景は、固定的な視点から見られた視覚像という意味を担わされてゆく。写生とは「視点としての私」と「遠近法的な外界の秩序」を同時に成立させるような認識論的な枠組みの転換であった。(p.69)

 「強い映像喚起力を持った名詞を多用」、そして「過剰な助辞『てにをは』を排そうとする」あたりがポイントのようだ。助辞「てにをは」を排するのは、それがその言葉を使う作者の心情をあらわすからである。子規はあくまで、主観を交えない客観描写のみを推奨した。主観を交えない客観描写をして初めて「固定的な視点から見られた視覚像」が得られる。それこそが作者の心情をあらわすことになるのだ。

 具体例がないとわかりにくいので、歌を挙げてみよう。

ともし火の光に照す窓の外の牡丹(ぼたん)にそそぐ春の夜の雨  正岡子規

 この歌では丁寧な描写によって子規がガラス戸を通して庭を見ていることがわかるし、主観語がないにも関わらず、それを見ている子規の静謐な感情が伝わる。このような表現の方法が子規の「写生」だ。

 ポイントは、先ほども述べたが、歌の中では主観的な判断を行う語を入れないことだ。このブログの第6回で土岐さんが『仰臥漫録』を取り上げていて、子規が芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」の句の「あつめて」が「理窟」である、というところを書いていた。客観で見れば、雨は単に川に注ぎ込んでいるだけだ。それを川が「あつめて」いると捉えるのは主観だ。「理窟」は主観だからダメなのだ。

 だから、子規は蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」のほうを褒めた。こっちは価値判断が入っておらず、ただ客観的に描写をしているだけだから。

karonyomu.hatenablog.com

 この「名詞中心」と「助辞排除(=主観排除)」の2点は、実は「歌よみに与ふる書」で初めて出てきたものではない。子規は短歌革新の前に俳句の革新を行っている。この二つの理念は、どうやら、俳句を革新する際に考え出されたものであるらしい。

句調のたるむこと一概には言ひ尽されねど普通に分かりたる例を挙ぐれば虚字の多きものはたるみ易く名詞の多き者はしまり易し虚字とは第一に「てには」なり第二に「副詞」なり第三に「動詞」なり故にたるみを少くせんと思はヾ成るべく「てには」を減ずるを要す

                正岡子規俳諧大要」(明28)

印象明瞭とは其句を誦する者をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしむるを謂ふ。故に其人を感ぜしむる処恰も写生的絵画の小幅を見ると略々同じ。同じく十七八字の俳句なり而して特に其印象ならしめんとせば其詠ずる事物は純客観にして且つ客観中小景を択ばざるべからず。

                正岡子規「明治二十九年の俳句界」(明30) 

 たしかに、俳句でも同じことを言っている。大辻さんはこう説明する。

このように考えてくると、子規の写生の理念は、俳句革新の理念の援用であったことが明らかになる。同一の理念で括られる以上、短歌と俳句の違いは形式的・外面的な違いに過ぎないということになろう。「されば歌は俳句の長き者、俳句は歌の短き者なりと謂ふて何の支障も見ず歌と俳句は只詩型を異にするのみ」(人々に答ふ 明31)といった子規の歌俳同一視は、その意味で当然のことであった。子規の「短歌革新」とは、つまるところ「和歌の俳句化」だったのである。(p.72)

 「子規の「短歌革新」とは、つまるところ「和歌の俳句化」だったのである」! なるほど、これはびっくりだ。もしかすると、「主観を交えない」というところも、俳句から発想されたものなのかもしれない。

 ちょっと話を戻すと、とりあえず、子規の考えた「写生」というものはシンプルに「主観を交えずに外界を客観的に描写することが、作者の視点と心情をあらわす」と捉えてよさそうだ。

 しかし、その後、子規の唱えたこの素朴な「写生」は変容していく。子規の死の3年後に発表された、弟子の伊藤左千夫の「写生」に対する考えを、大辻さんはこう説明する。

  このような左千夫の指摘は、俳句と短歌の詩型の差異をとらえたものとして興味ぶかい。俳句は、切れ字によって二物を衝突させることによって成立している詩型である。俳句は二つの「純客観」をそのまま衝突させる。したがって、「純客観」をそのままの形で写し取ろうとする「写生」の理念は、こと俳句においては、きわめて有効な作句理念となり得る。

 が、短歌にあっては事情はそう簡単ではない。短歌は、基本的には二物を衝突させる詩型ではなく、情景と心情をなめらかに接続する詩型である。したがって、短歌においては、子規の「写生」の理念はそのままでは有効に機能しない。そこには、複数の「純客観」を統辞によって関連づけ、種々の事物の印象を統括する「主観」の働きがどうしても必要となる。左千夫はそう考えていた。(p.121)

 つまり、短歌に俳句の方法は合わないんじゃないの、ということだ。子規の唱える「純客観」は俳句では機能するが、短歌では機能しない。それゆえ、左千夫は、「純客観」を「主観」でつなぐことが大切だという。子規の死後3年で、もう「主観を交えない」というルールはなくなってしまった。

 そして、左千夫よりも下の世代である島木赤彦は、この考えをさらに発展させる。『歌道小見』の中で赤彦はこう述べている。

私どもの心は、多く、具体的事象との接触によつて感動を起します。感動の対象となつて心に触れ来る事象は、その相触るる状態が、事象の姿であると共に、感動の姿でもあるのであります。左様な接触の状態をそのまゝに歌に現すことは、同時に感動の状態をそのまゝに歌に現すことにもなるのでありました、この表現の道を写生と呼んで居ります。

                      島木赤彦「写生」(『歌道小見』)

 今度は「感動」が出てきた。「感動」とは何か。大辻さんの説明はこうだ。

 「具体的事象との接触によって」生じる「感動」。それは、「客観」と「主観」が触れ合ったその瞬間の心のありようだ、といってもよいだろう。ここで赤彦は、もはや「純客観」と「主観」という素朴な二項対立の図式に立って物事を考えようとはしていない。彼はここで、客観と主観に分化する以前の心的な現象に注目し、その主ー客未分化の現象を「感動」と呼んでいるのである。(p.123)

 短歌では、「客観」と「主観」が触れ合う「感動」を表現するべきだという。事物だけを描写するだけでもなく、かといって主観だけを言ってもだめだ。ふたつの触れ合う状態を沈潜した語で表現するのが赤彦にとっての「写生」なのだ。

 なので、赤彦は、悲しいときに「悲し」とか嬉しいときに「嬉し」と書くような、直接的な「主観的言語」を極端に嫌う。

感情語(=主観的言語)は、そのつどそのつど湧き上がる個々の感情のこまやかな違いを捨象した結果生まれてきた抽象語である。したがって、「いま」「ここで」自分の内に起っている一回かぎりの感動は、概念的な感情語で言い表すことはできない。(中略)赤彦もまた感動の一回性を歌のなかにどのように定着させればよいかということに執拗にこだわっていたのである。(p.124)

 と、大辻さんは説明している。実際、赤彦は北原白秋が「寂し」とか直接的な主観語を使うことを批判し、白秋と論争になっている(余談だが近代詩史をテーマにした漫画『月に吠えらんねえ』3巻P.274で白さんが「島木のレッドは」「あいつとは紛うことなく仲が悪い」と言っているのは、おそらくこのへんの論争を基にしている)。

 今でも短歌のセオリーとして「嬉しい」とか「悲しい」とか直接言わずに表現せよ、とかあったりするが、その源はここらへんだったんですね。

 で、そのような主張に基づいた赤彦の歌はこんな感じになる。

石楠の花にしまらく照れる日は向うの谷に入りにけるかな  島木赤彦『柹蔭集』

 「しまらく」という副詞で時間経過をあらわし、「ける」「かな」という詠嘆の助動詞で主体の感情をあらわす。そうすると、この歌の背後に山々を見ている人間と時間の流れとその人間の微妙な感情が感じられる、という仕組みだ。

これらの歌は、叙景歌でありながら、そのような赤彦の感情のこまやかな振動を私たちに伝えてくれる。それは、ひとえに副詞や助詞・助動詞という「辞」(時枝誠記)の働きによっている、といっても過言ではないだろう。赤彦自身が「写生」の歌の理想像とした「感動」の表現は、これらの晩年の歌の細やかな「辞」のなかで達成されている。

 あからさまな感情語による声高な自己主張ではなく、それ自体は指示性を持たない「辞」によって、こまやかな「主観」の働きを表現してゆく。自体明晰な指示性を持つ「言」(自立語)ではなく、副詞・助詞・助動詞といった付属語によって、一首の叙景の背後にある主体をあぶりだしてゆく。赤彦が理想としたのは、描きだされた「客観」の背後に、かすかに、しかし確かに生動している「主観」のありようであった。(p.127)

 子規が考えたシンプルな「写生」はアララギが発展していく中でこのように変化していった。

 ただ、こうした写生の変化には子規本人も気づいていた節があって、その点も大辻さんは指摘している。「歌よみに与ふる書」の後に書かれた子規の文章には、俳句と違って短歌は時間の描写に適した詩型である、といった箇所がある。そして、子規晩年の歌は、「歌よみに与ふる書」で排したはずの助辞によって、複雑な時間の流れを表現している。大辻さんはこう述べている。

最晩年の子規は、かつて彼が提唱した写生の理念を、実作の上で超克していった。(中略)写生を提唱しながら、その限界に逢着した子規の生涯は、そのまま近代短歌百年の問題地平を先取りしていた、といってよい(p.75)

 「写生」の理念を洗練させていくことが、アララギ発展の歴史に通じるわけだが、それが子規という祖になったひとりの人間の中でも進んでいた、という説は、なかなかロマンティックでテンションが上がる。「写生」、おもしろい。

 最後に、「写生」のその後を大辻さんはこう述べる。

 写実は、なぜ、かくも衰えてしまったのか。

 この問いに対する答えは、はっきりしている。それは、近代短歌における写実や写生の理念を支えてきた「辞」の力が、二十世紀の後半の五十年間を通じて急速に衰えたからである。(中略)

 が、そればかりではない。むしろ、短歌自身が、みずから進んで「辞」の遺産を蕩尽してしまった、という側面もある。

 「アララギ」の写生歌に対する反発から生まれた塚本邦雄の短歌は、ごくおおざっぱにいえば、一首の中にある「辞」の過剰な機能を抑止し、自立語の衝撃力をむき出しにしようとしたものであった。したがって、前衛短歌のなかに現れる情景は、一つの主体から見られたものでなく、まるでキュビズムの絵画のように複数の視点が一首のなかに共存することになる。そのような「辞の断絶」(菱川善夫)のなかで、「調べ」による連続感や、統辞による統一感は、近代短歌の「負の遺産」として意識されていく。「辞」の精緻な使用によって一首の背後に存在していた統一的な継時的に生動する主体の影は、前衛短歌のなかではあっさりと抹消されてしまったのである。(p.128,129)

 このあたりの話は、「写生を超えて」「島木赤彦の写生論」「静寂感の位相」という3つくらいの章を私が無理やりまとめたものなので、詳しくはそれぞれの原文に当たって欲しいが、おおまかな流れはこんなところだと思う。

 ちなみに、この「辞」の問題が永井祐や斉藤斎藤といった現代の口語短歌ではどうなっていくかは、次作の『近代短歌の範型』(2015・六花書林)で論じられている。そちらも面白いです。

 「写生」、どうですか。このブログの第1回『茂吉覚書ー評論を読む』でもありましたが、めちゃくちゃ面白いトピックですよね。やっぱり。

karonyomu.hatenablog.com

 

 最後におまけでもういっこだけ。「子規万葉の継承」という論。会津八一の話。この論の要旨は、子規から始まり、左千夫・茂吉・赤彦・中村憲吉・土屋文明といったアララギ主流の師系の中でだんだんと取捨選択され、捨てられていった万葉集の雑多で多様な文体が、会津八一の歌の中には保存されているのではないか、ということだが、これも大変おもしろかった。

 そういえば、『茂吉覚書―評論を読む』のなかでも、佐藤通雅さんは

 だが、『万葉集』を隈なく読んだ私の印象をいうなら、この書は、相当に雑多な歌集だということだ。(中略)参考書的に三歌集の特徴をあげるならば、『万葉集』は重厚な調べ、具体的、写実的、現実的。『古今集』は優美、流麗で理知的。『新古今集』は唯美的、浪漫的、芸術至上主義的。しかし、特に『万葉集』には、そんな括り方の不可能な未分化性がある。(p.48)

 と言っていた。アララギが拡大していくにつれて、『万葉集』の中から自分たちにとって重要なところだけを恣意的に選択・宣伝してきた、ということだ。もちろんそれは、文体の洗練といった観点からも必要なことだったので、簡単に断罪できないことだが、アララギが主張している『万葉集』というものはかなりフィクショナルであり、作られたものなのだということは注意しておいてもいいかもしれない。で、会津八一の文体にそうしてアララギが振り捨てていった万葉集の文体が残されている、というのは刺激的な発見だと思う。

 こうしたアララギの話なんかを読んでいると、今現在支配的な価値観は、ずっと昔からあるわけではなくて、実はその時々に誰かが必死こいて考え出したことだとわかってくる。だからまあ神格化することもないのだけれども、同時に、その考えにはいちいち理由があってそうしているわけだから、単に古いからダメ、と言うのもナイーブだ。時代が進んで古くなってしまった技法と、それに付随するイデオロギーを批判するには、やっぱりその考え出されたときの理由を衝くのが一番いいのかな、なんてことを思ったりした。

 大辻さんの本に戻ると、大辻さんの評論が面白いのは、とにかく構造図を見せてくれるからだと思う。短歌の評論は往々にして、「この歌はこんなふうに素晴らしい」とか「この歌はこんなにダメだ」といった、主に価値判断を伝えるものが多い。もちろん、それはそれでかまわないけれど、残念ながら私はそういったタイプの評論にはほとんど興味が湧かない。それよりも、その歌に働いている力学だったりとか、背後の価値観だったりとか、歌がどのように成り立っているかを示してくれたほうが何十倍も興奮する。大辻さんはそこをきちんと論理に落とし込んだ上で説明してくれるので、面白く感じることができる。

 そして大辻さんの興味の根幹は、単なる学術的なものではなく自作も含めた現代の短歌がどうなっていくのだろうかという、実作者としての生々しい欲望に貫かれている。なので、われわれ読者が読んでも面白いのだと思う。

 長くなっちゃったけれども、私がこの本をおすすめする理由はだいたいこんな感じです。

第7回 山田航・編著『桜前線開架宣言』

一万匹の中の一匹の羊の眼 土岐友浩 

桜前線開架宣言

桜前線開架宣言

 

 

現代短歌の成果が、とうとう目にみえる形になってまとめられた。

 

2015年の年末に刊行された『桜前線開架宣言』。

正岡子規の短歌革新運動、戦後の前衛短歌、そして1980年代のニューウェーブ。そんな短歌変革の歴史をそこはかとなく思い起こさせる書名だ。

 

編者の山田航は「まえがき」で、こう書いている。

困る。本当に困る。何にって、ぼくが根っからの文学青年だと思われることだ。知っていて当然かのように小説の話などを振られるのは困る。名作といわれている小説なんてろくに読んだことがない。

 

山田はここで、自分は「文学青年」ではない、と表明している。(「根っからの〜と」「ろくに〜ない」とあるから、完全な否定ではないのかもしれないが)

 

山田の短歌観や歌人観は、穂村弘から強い影響を受けているが、「文学」へのスタンスは、かなり異なっていることに注目したい。

穂村は、意地悪な見方をすれば、自分が歌人として文学に対してどのようなスタンスをとっているかを、明らかにしていない。 *1

一方、山田は、文学からきっぱりと距離をとり、文学では自分は救われなかった、と言い切った。

 

だからこそ山田は、現状「商業出版される小説の九割は、自費出版の歌集よりつまんない」と断言し、本書の最後で「二十一世紀は短歌が勝ちます」と勝利宣言を掲げる。

しかし、それにしても、ここまで「小説」や「文学」に対抗意識を燃やしているのは、なぜだろうか。

 * 

本書に収録されている歌人は、

石川美南 井上法子 今橋愛 内山晶太 大松達知 大森静佳 岡崎裕美子 岡野大嗣 小原奈実 加藤千恵 木下龍也 黒瀬珂瀾 小島なお 齋藤芳生 笹公人 笹井宏之 澤村斉美 しんくわ 瀬戸夏子 高木佳子 田村元 堂園昌彦 永井祐 中澤系 野口あや子 服部真里子 花山周子 兵庫ユカ 平岡直子 松木秀 松野志保 松村正直 光森裕樹 望月裕二郎 藪内亮輔 山崎聡子 雪舟えま 横山未来子 吉岡太朗 吉田隼人 の40人。 

 

このうち、まだ歌集を発表していないのは井上法子、小原奈実、しんくわ、平岡直子、藪内亮輔の五人だが、このエントリを書いている2016年5月の時点で、井上、しんくわ、藪内の三氏は書肆侃侃房という出版社から歌集が出ることが決まっている

 

ちょうどTwitterが広まったころからだろうか、短歌の場が一気に多様化して、すごい歌をつくる歌人が次々に登場した。

しかし、いざその人たちの作品を読もうと思ったら、かなりハードルが高かった。

 

このアンソロジーは、最近活躍している若手歌人の代表的な作品が読める、ほとんど唯一の本である。収録歌数はなんと2,000首以上。実績と実力を備えた40人が選ばれている。

 

はじめに僕は「現代短歌の成果」と書いたが、それは、ここにあるのは現代短歌の「可能性」とか「原石」とか、そういうレベルではない、と言いたかったのだ。

現代短歌は、もう、花開いている。

 

たとえば、先ほど名前を挙げた5人の作品を読んでみてほしい。

ふいに雨 そう、運命はつまずいて、翡翠のようにかみさまはひとり

(井上法子)

老いてわれは窓に仕へむ 鳥来なばこころささげて鳥の宴を

(小原奈実)

カンフーアタック 体育館シューズは屋根にひっかかったまま 九月

(しんくわ)

ちゃんとわたしの顔を見ながらねじこんでアインシュタインの舌の複製

(平岡直子)

ぐちやぐちやつと咲いとけば大丈夫なんだつて顔ほぐしゆく朝顔に云ふ

(藪内亮輔) *2

 

どの歌も、五者五様にすごい。

 

ふいに雨 そう、運命はつまずいて、翡翠のようにかみさまはひとり  井上法子

井上の歌は、「かみさまはひとり」というフレーズが鮮烈だ。「かみさま」の孤独に気づいたのか、それとも、自分にとってたったひとりの「かみさま」を見出したのか。いずれにせよ、ここに詠まれた「かみさま」は、綺麗だとしか言いようがない。

 

老いてわれは窓に仕へむ 鳥来なばこころささげて鳥の宴を  小原奈実

小原の歌も、井上とはまた違った方法で、美しい世界を立ち上げている。「窓に仕える」という発想、これだけで、作者の世界観へと一気に引き込まれる。「鳥の宴を」という言い差した表現が、読者の脳裡に「宴」の残像をのこす。

 

カンフーアタック 体育館シューズは屋根にひっかかったまま 九月  しんくわ

しんくわの歌は、短歌の57577の定型を軽々と超えている。しかし、緩急のリズムがあり、最後に置かれた「九月」の一語に詩的な余韻がある。誰の手にも届かないところに行ってしまった体育館シューズは、楽しい青春の象徴だ。

 

ちゃんとわたしの顔を見ながらねじこんでアインシュタインの舌の複製  平岡直子

平岡のこの歌は、「率」という同人誌で最初に見たときから忘れられない。官能的な場面だが、ねじこまれた舌はアインシュタインの舌の複製なのだ、という。熱いとも醒めているとも、生々しいとも即物的とも言えない、奇妙な感覚が詠まれている。

 

ぐちやぐちやつと咲いとけば大丈夫なんだつて顔ほぐしゆく朝顔に云ふ  藪内亮輔

藪内の歌は、一見乱暴な口調のなかにある優しさが美質だと思う。たとえば花壇に咲く花は、よく見るときれいなものばかりではないが、藪内はむしろそのような花、「ぐちやぐちやつと」咲いた花のほうに温かい眼差しを向け、呼びかけている。

 *

もちろんこのような短い鑑賞で、作品の魅力が語り尽くせたとは思っていない。

ここで紹介したのはほんの一例だが、本書にどのような短歌が収録されているのか、ということだけでも見ていただければ幸いだ。 

 *

福田恆存氏はかつて、政治が九十九匹の善き羊を救うものであれば、文学は最後の迷える一匹の羊を救うためにある、という趣旨のことを述べた。

その比喩にならって言えば、もっとたくさんの、一万匹くらいの羊の群れがいたとしたら、文学が救うべき羊の中に、やはりそこから迷い出た一匹の羊が、存在するのではないだろうか。

本書で山田は、まさにそのような羊、一万匹の中の一匹の羊として、自分の姿を書いてみせた。

 

山田は文学と対峙し、文学ではない短歌の道を切り拓こうとしているように、僕には見える。

(念のために言えば、僕は文学を否定しているわけではないし、山田が文学を否定している、と言いたいわけでもない。ひと言でいえば、短歌と文学、それぞれが占めるべき「領分」はどこか、という話だ。)

 

文学ではない短歌とは何か。

結論めいたものを書いてしまえば、それは「音楽」だ。

山田は、短歌の音楽性を武器に、小説に対抗しようとしている。

だから山田は、紹介文で歌人をミュージシャンにたとえ、音楽の比喩で短歌の魅力を語ろうとする。実作者としての山田が得意としている言葉遊びも、広い意味での音楽性に含まれるだろう。

 

長々と書いてみたが、もちろん『桜前線開架宣言』は、短歌とは何か、文学とは何か、そういうことを気にせずに読むことができる本である。現代短歌の世界はとても広く、豊饒なことが、この本を開けば必ず伝わるはずだ。

 

*1:穂村弘は『短歌という爆弾』で、短歌とは「絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾」だと書いた。
「一本のギターさえ重すぎる」人間、つまり、スポーツや音楽や美術はハードルが高すぎるという人間が、だからこそ全力で打ち込めるものとして、短歌を再発見した。
だが、『桜前線』を読んだあとで『短爆』を読み返すと、なぜ穂村弘は文学の他ジャンルに言及しなかったのか、というのが気になってくる。
すなわち、なぜ短歌なのか。なぜ、小説を書こう、エッセイを書こう、詩を書こう、そういう選択肢を一切すっ飛ばして、短歌なのかが、『短歌という爆弾』からは、うまく見えてこないのだ。

*2:桜前線開架宣言』未収録、短歌同人誌『率』創刊号(2012年)より引用

第6回 正岡子規『仰臥漫録』

美と楽しみの眼 土岐友浩

仰臥漫録 (岩波文庫)

仰臥漫録 (岩波文庫)

 

 

正岡子規の文章を読むと、とても元気が出る。

子規の歌論といえば「歌よみに与ふる書」だ。

「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子を日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。此の外の歌とても大同小異にて佗洒落か理窟ッぽい者のみに有之候。(再び歌よみに与ふる書 

古今和歌集の冒頭歌を批判した有名なくだりだが、内容よりもまず、「実に呆れ返った無趣味の歌に~」という調子の小気味よさ、清々しいまでの一刀両断に、つい笑ってしまわないだろうか。

そのすぐ後はこう続く。

それでも強ひて『古今集』をほめて言はば、つまらぬ歌ながら万葉以外に一風を成したる処は取得にて、如何なる者にても始めての者は珍しく覚え申候。

万葉集から離れて新しい和歌のスタイルをつくり上げたことをとりあえず評価しているわけだが、

この面白くなさそうな言い方が、面白い。面白すぎて、どんどん引用したくなるのが、子規の文章の魅力だと思う。

 *

子規は「理窟」を攻撃した。

詩歌は理屈じゃない、という言葉はよく聞くし、僕もそう思うけれど、子規ほどそれを徹底した人はいなかった。

たとえば『仰臥漫録』の明治34年9月23日の記事では、

五月雨をあつめて早し最上川

という芭蕉の句を取り上げて、こう書いている。

この句、俳句を知らぬ内より大きな盛んな句のやうに思ふたので、今日まで古今有数の句とばかり信じて居た。今日ふとこの句を思ひ出してつくづくと考えて見ると「あつめて」という語はたくみがあつて甚だ面白くない。 *1

「あつめて」が駄目だ、というのだ。

雨が降りそそいで川の水量が増え流れも速くなる、その迫力というか、ダイナミズムを芭蕉は描こうとしているのだが、川が水を「あつめる」という見立てに、子規は疑問を投げかける。

なかなか、この「あつめて」を、上手いとは思っても面白くないと言える人はいないだろう。

子規はその代わりに、

五月雨や大河を前に家二軒

という蕪村の句を引き合いに出し、こちらのほうが「遥かに進歩して居る」と、高く評価している。

どちらの句がいいのか、蕪村の句がいい句なのか、正直なところ僕にはよくわからないけれど、少なくともこのふたつの句を比べれば、子規がいかに「理窟」を排したか、というのが見えてくる。

 *

同じく10月15日の記事で子規は、中江兆民の『一年有半』という本を批判している。

兆民居士の「一年有半」といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。

と書いてあるように、どうやらこの時点で本そのものは手に入れておらず、新聞の書評か何かを読んだだけのようだ。

兆民は自由党を辞職してまもなく病に倒れ、医師から余命が一年半だと宣告される。その限られた時間のなかで、兆民は社会を論じ、芸術を説き、身辺の出来事を素描して、それらを随筆集にまとめた。

つい最近『一年有半』は光文社新訳文庫版が出たから、そこから引用しよう。

わたしはすでに不治の病にかかって、いわゆる一年半の宣告を受けており、妻は日夜わたしに寄り添って看病に尽くしてくれるのだが、全快ではなく、ひたすら死期を待っているのである。(中略)わたしはもとより蓄財につたなく、家に負債はあるが財産はなく、しかもこの重病にかかっている。悲惨といえば悲惨であろう。今夕、わたしは妻に笑って言った。「おまえはもう年は四十を過ぎ、わたしが死んだら再婚の望みはあるまい。どうだ、わたしとともに水に飛び込んで、いっそ何事も起こらない国へ行くとするか」ふたりで大笑いして、途中、かぼちゃ一個とあんず一籠を買って仮住まいに帰ると、ちょうど夜の九時であった。(「浜辺の風景」) *2

重病を患い、お金もなく、遺される妻の身を案じるがゆえに、いっそ水に飛び込もうかなどと話して笑いあう、なんというか、大人にしか書けない文章ではないだろうか。

しかし子規は容赦なく、こう言う。

(兆民)居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけわれらに劣り申すべく候。理が分ればあきらめつき申すべく、美が分れば楽み出来申すべく候。杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれども、どこかに一点の理がひそみ居り候。焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理窟か候べき。 *3

相手と刺し違えるような批評だ。芭蕉の句を貫く「理窟」を見抜いた眼で、子規は妻と杏を食べる兆民の「一点の理」を暴き、攻撃する。

この「一点の理」を説明しようとするのは、難しいが、先ほどの芭蕉の句をもう一度読んでみよう。

僕は先ほど最上川の迫力を云々と鑑賞したけれど、

五月雨をあつめて早し最上川

この句から感じられる雰囲気は、迫力というよりもむしろ、整然として、どこかゆったりとしていないだろうか。

兆民の文章から受ける印象も、これに近い。

死という宿命に翻弄されそうになっている精神の急流を、兆民は理性で抑え、哀感のあるユーモアに包んで妻と分かち合う。洗練された文章に流れる時間は、とても穏やかだ。

だが、子規はそのような兆民の「理」をこそ批判する。そんなものは本当の「美」でもなんでもない、と言う。

「美」を解するのに「理窟」など必要ない。

では、子規にとっての「美」とはなにか。

それは、

焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理窟か候べき

という一文に集約されている。

夕顔が風に吹かれて揺れている、ただ、そのことがおそろしく美しい。

むき出しの自然の、ひたすらな美しさ。

子規の眼に映っていたであろう、白くかがやく夕顔が、僕にとっての写生のイメージで、原点にして、ひとつの頂点だ。

この一文を読み返すたびに、思う。

これほど美しいものを、この先、僕の眼は一回でも見ることができるだろうか。

 *

『仰臥漫録』は子規の私的な日記で、まとまった歌論ではない。寝返りもままならない身体で書いた、その日の体調、読んだものや食べたもの、思いついた短歌俳句、それからちょっとしたイラストなどが収録されている。

食事の記録がすごいのは有名で、ほとんどその日のメニューをそのまま列挙しただけなのだが、実際に読むと言い知れない圧倒的なエネルギーが伝わってくる。

もちろんそれを食への執着がなせる業、と理解しても間違いではないのだが、その執着心は、「美」を求め、「美」を楽しむ心と地続きなのだ。

花を見てよろこび、ものを食うことを楽しむ。

なるほど、そこに「理窟」はない。

『仰臥漫録』はいわゆる歌書ではないけれど、ここで晩年の子規は期せずして、みずからの歌論を実践していると僕は思う。むき出しの生を、なんの衒いもなく、ありのままに書き留めることで、子規は「理窟」ではない方向へ、文学を連れて行こうとした。

その精神は、たしかに今日の短歌にも受け継がれている、という気がする。

*1:p.68

*2:鶴ヶ谷真一訳、光文社新訳文庫、2016年

*3:p.113

第5回 三枝昂之『前川佐美雄』

 永井祐

前川佐美雄 (五柳叢書)

前川佐美雄 (五柳叢書)

 

 今日とりあげるのは三枝昂之『前川佐美雄』。 

93年刊。四六判ハードカバー、446P、人名索引までついたがっつりした本です。

わたしは数年前に「植物祭」を読んで前川佐美雄に興味をもち、

その流れでこの本を手に取りました。

 

三枝さんによると、

「心ひそかに、<昭和短歌の精神史>というサブタイトルを本書に想定している」とのことで、つまり、佐美雄の軌跡を追いつつ、「昭和短歌」の軌跡も描こうとしてる本なわけです。

だから、戦争に際しての皇国っぽい歌、三枝さんの言葉で言えば「公的短歌」のこととか、

戦後に「時局便乗」的に言われてきつい批判を受けていく過程とか、そういったことも

たくさん書いてあります。

三枝さんはこの本のあとの2005年にその名も『昭和短歌の精神史』という本を出して

いるので、これはそのプロトタイプみたいな感じでしょうか。

 

ただ、

わたしの興味のベクトルはそっちの方にはあまりなく、本の前半部分、戦前の短歌の雰囲気みたいなものをもう少し知りたいという動機でこの本を読んだのでした。

戦前の人間はどういうノリで短歌をやっていたのかな、ということですね。

 

へえ、と思うことはたくさんありました。一行目から、

 

明治三十六年(一九〇三)二月五日、前川佐美雄は大和に生まれた。

 

佐美雄には、

春がすみいよよ濃くなる真昼間の何も見えねば大和と思へ

という、謎めいた名歌があるのですが、すると、この歌には「地元をレペゼンする」というニュアンスがあるのだな、とか、そういう感じですね。だいぶ初歩的な「へえ」ですが。

 

佐美雄が第一歌集を出す前、昭和初期の短歌の状況は、

・文語定型守持の既成歌人

・プロレタリア派

モダニズム

三国志状態だったそうです。(「勢力拮抗ということではない。圧倒的勢力として伝統派は歌壇の中心にいた。」ということわりがついていますが。)

さらに、革新勢力のプロレタリア・モダニズムの中でも

・定型派

・自由律派

がいて、さらに別のファクターとして、

・文語派

・口語派

に分かれていたそうです。

それぞれ説明していくのはたいへん面倒なのではぶきますが、プロレタリアとは、

 

醜くひんまがつた指を見ろこれが十七年勤続のお土産だ  渡辺順三

いよいよと云ふ日になりあおれたちはビルデングだつてゆり倒すんだ  坪野哲久

 

 

前が自由律プロレタリアで後が定型プロレタリアということになります。

モダニズムとは、非現実系、シュール系みたいな感じです。

面白いのは労働系とシュール系って逆みたいですけど、わりと近い位置にいたんですね。同じ革新勢力として。

団結して「新興歌人連盟」というのを作ろうとしたりしました。

しかし、九月に結成して同じ年の十二月に解散します。

このあたりのぐだぐだ感。

混沌としていますよね。

でもそのへんにこの時代の魅力があって、『植物祭』はそういうアナーキーな状態をきっちりレペゼンしているんだろう思います。

 

それと、「自由律」というもののリアリティが今とは違っていた。

 

昭和六年前後のモダニズム自由律短歌の方は、これはなかなか活況を呈していた。前田夕暮の「詩歌」が雑誌まるごと自由律に転じたのは昭和五年である。土田杏村、清水信らの「短歌建設」、児山敬一らの「短歌表現」も同じ昭和五年である。以下翌六年の「近代短歌」「短歌創造」、七年の「短歌と方法」と続き、金子薫園の「光」もこの年自由律に転進している。

 

これ、やばいですよね。ガンガン自由律に転身してる。「雑誌まるごと」転身というのは、「うちは来月から自由律雑誌になるから」みたいにみんなに言うんですかね。

次は自由律・プロレタリア側からの言ですが。

 

「我々の運動の目標は、労働者大衆の現実の生活からわきおこるところの、刹那の感情を表現するものとしての短い詩型、それは長い伝統をもつ短歌の、歴史的な発展としての短い詩の創造、といふところにあるのではないだろうか」(渡辺順三『近代短歌史』)

 

要するに五七五七七じゃだめだから新しい「短い詩」をつくらねば、ということです。

そういう意識が革新派の方には共有されていた。そしてそれが既に名のある歌人の方にも波及していって、短歌が「散文化」していったと言われています。

佐美雄さんはその中で少数派の定型派でした。北原白秋とかもその勢いにびびっていて、「惟うに、当今の歌壇、諸流錯綜し、清濁相混じ、玉石亦相分たず。その放恣なるものに至っては、遂に論外の破毀を悔いず。」とかと書いています。

前回、塚本邦雄による浜田到の破調への批判の話がありましたが、塚本さんという人はこのころの先輩たちのイタい顛末とかが骨の髄まで沁みている人だと思うので、批判の裏には当然このころの記憶もあるだろうなと思います。

それで興味深いのが、こうした自由律の一斉発症が止むのは、戦争、戦時体制によるんですよね。

自由律軍団の大同団結、「新短歌クラブ」の発会式が「時局の余波をうけて」=二・二六事件の影響で集会ということ自体ができにくくなって、延期になった。

このあたりが曲がり角でみんなどんどん定型にもどっていく。

 

木俣修は、「自由律という名目の『自由』という言葉でさえも、既に、摘発しようとするような当局の眼の前で、自由律作者たちが、一種の不安を感じ始めていたことは覆うことのできない事実であった」(『昭和短歌史』)と述べている。

 

ま、自由律やりにくい空気になっていったということなんでしょうけど、わたしはこれ、すごく不思議なことだと思うんですよね。

自由律で書きつつめちゃめちゃ国のために一丸となろうとしている人もいるかもしれないじゃないですか。

短歌の内容はともかく、形式として定型で書こうが自由律で書こうが別に政治性には関わりなくない?って思いませんか。今のふつうの感覚だと。

でもそうはならないんですよね。

定型、破調、口語、文語、などなどのスタイルを選択することは、その時点で何かの政治性にコミットすることであり得るんですよね。究極的に言えば。それで、だからこそスタイルの革新に大きな意味があったりする。

このころのことの顛末をながめていると、何かそういうことを考えさせられます。

 

この本の前半部分が扱っている昭和初期の短歌って、だいぶ混沌としていて、

そこでは五七五七七で書くことすら自明ではなくて、

作品的にはダメなものも、今から見ればそれは無理でしょと感じるしかない方向性のものも非常に多く、実際残らなかったものの方が多い。

でも、短歌のことを考える上ではすごく面白い時期で、

いま当たり前に見えることの地盤みたいなものが露出している気がします。

では、

アナーキーな戦前短歌の世界へ、タイム・スリップ!

第4回 大井学『浜田到 歌と詩の生涯』

 優れた評伝と短歌の破調 堂園昌彦

浜田到―歌と詩の生涯

浜田到―歌と詩の生涯

 

  浜田到を知っているだろうか。前衛短歌運動の時代に活躍した歌人で、1918年に生まれ、1968年に不慮の交通事故で亡くなっている。

ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ

一九四九年夏世界の黄昏れに一ぴきの白い山羊が揺れている

(リールデン) ――妻のそのながき縁光(ふちて)る毎に恵まれざりしは斯くもうれしく

 一読してすぐにわかると思うのだが、浜田到の歌の大きな特徴はふたつある。ひとつは、暗く不穏ながらも静謐で美しいイメージ。「ふとわれの掌さへとり落すごとき夕刻」の赤色の強さとか、「白い山羊が揺れている」の白い山羊とか。大きく括ると前衛短歌が得意とする、象徴やイメージを多用する作風だけれども、塚本邦雄のようにガヤガヤとしていない。妙に静かで潔癖な風景だ。

 もうひとつは、その特徴的なリズム。浜田到の歌は破調がほとんどで、定型きっちりの歌がとても少ない。他の歌人にはない独特の韻律感覚で歌を詠んでいた。「瞼(リールデン)」の歌などは、初めはリズムの取り方に戸惑うけれども、慣れると、流麗に流れないぶん、癖になる韻律である。

 まあひと言でいえば、好きな人はすぐに魅力を感じ、いっぱつで好きになるタイプの歌人だ。沢山の人に大声でお勧めするのはためらうけれども、自分ひとりの心に深くしまっておきたい、いわゆる「マイナー・ポエット」というやつだ。

 この本は、生前歌壇と距離を取っており、その実像があまり知られていなかった浜田到の生涯を、歌人の大井学さんが初めて資料を通して解き明かした評伝である。2007年に角川書店から出版されている。

 私も短歌を始めた頃からのファンなのだが、この本を読んで知ることがとても多かった。たとえば、浜田到の年譜を読むと、初めに、

1918年(大正7年)6月19日、ロスアンゼルスに生まれる。 

 と書いてある。

 このロスアンゼルスがなんともミステリアスで、どういうことなんだろうかとずっと思っていたのだが、どうやら、浜田到の父の父、つまり祖父が知人の保証人になってしまい、その負債を返すために、浜田到の父が移民としてアメリカへ行き、農園経営に携わっていたらしい。そこで生まれたのが、到だったそうだ。ただ、当時のアメリカ社会では、日本人移民は周囲の白人社会からは白眼視されることが多く、そのためか、4歳のときに浜田到は弟とともに帰国させられ、母方の祖母の家に預けられている。

 到にとって、アメリカは「豊かな母」の背景だった。そしてその「豊かな母」は、昭和五年(一九三〇)六月十七日、到十二歳の年に儚くなった。母こそは喪われた存在の象徴である。喪失の背景として、記憶の中のアメリカがあり、青年期を喪失させた戦争はまた、アメリカとの戦いだった。(中略)

 到は、喪失の原点としてのアメリカで生を授かったのである。 (p.14)

  とあり、へー! と思った。

 また、浜田到には、孤高の歌人というイメージが強い。それは、浜田到が亡くなったときに塚本邦雄が書いた追悼文に多くを負っている。

ぼくは同人誌『極』についての通信の中に、“九州へ旅することがあったら会いたい”との一行を添えた。私信のたぐいを殆どくれたことがなく、くれたとしても忘れた頃の返信のみであった彼が、この時だけ、うてばひびくようにこたえた。“決して訪ねてくれるな。私に会おうとなど思ってくれるな。これは私の切なる希いである”と、例の比類のない繊細なペンの筆蹟でしたためてあった。

塚本邦雄「詩の死」『現代歌人文庫 浜田到歌集』(国文社)p.117 )

  この塚本の文中の浜田到は、はっきり言ってすごくかっこいい。しかし、現実には、地元鹿児島の歌友や文学仲間と焼酎を酌み交わしながら、しばしば詩歌論を戦わせていたようだ。大井さんが、地元の歌友・青山恵真の浜田到が亡くなったときの弔辞を引用している箇所がある。

 浜さん、覚えていますか、終戦直後私が田上で開業したての頃、あなたがひょう然と訪ねて見えて「青さん、生き残ったことは不潔なような気がしもすなあ、文学でも始めもそや」とつぶやくように云われた。それからあの菊花寮時代と呼ぶなつかしい同士の世界が始まったのです。「少年飛脚武丘のふもとをめぐる時、秋はまさしく来にしと思う」と歌にそえて「青さん出て来ませんか、チュウもあります」と少年のもって来た手紙に、私は足もそぞろ菊花寮へ飛んだものです。

(「詩稿」昭和四十三(一九六八)年十七号)

(※本文から孫引き p.66) 

  浜田到が「青さん出て来ませんか、チュウもあります」(「チュウ」は焼酎だろう)と言うのも、それはそれで胸に来るところがある。

 かといって、「塚本の作ったイメージは虚像だった」などと言いたいわけではない。浜田到は訥弁で人見知りであり、特有の気難しさを持っていた。若いころには、自殺を考えたりもしている。他に、本文中で紹介されているエピソードとしては、こういうものがある。

「歌宴」の同人であった東田喜隆によれば「「歌宴」が終刊になってからは、彼と会うのは困難なことでしたね。だいいち電話に彼は出なかったですから」(「南日本短歌 」一九八七年十月二号)という。またこの引越しの後にも、次のようなエピソードがあったという。「わたしははっきり覚えていますよ。久し振りに宮原さん(注・「歌宴」同人)と会って飲んでいるうちに、だいぶ気分が乗ってきて「到のところに行こう」ということになった。そうして二人で行って、扉を叩きながら「おい、リルケ、出て来い」と言ったら、それまで点いていた家の灯りが消えてしまった」(同誌)(p.226)

 電話に出なかったり、訪ねて行っても居留守を使ったり。浜田到はドイツ詩人のリルケ好きを公言していたから、「おい、リルケ、出て来い」なのだろう。まあ、「おい、リルケ、出て来い」も相当ひどいとは思うが……。

 ともかく、この評伝は、浜田到のイメージを裏切るというよりも、今までのイメージがより立体的になるというか、肉体を持って浜田到が現れてくるのである。それは、おそらく、浜田到の「形而上的」と呼ばれる歌たちを読むのにも、決して悪い影響を与えていないはずだ。

 また、この評伝では、中井英夫との交流にも多くのページが割かれている。浜田到が歌壇にデビューしたのは、「短歌研究」の1951年8月号の「モダニズム短歌特集」であり、広く知られるようになったのは、その7年後の1958年の角川「短歌」6月号掲載の20首からであった。そのどちらも、編集者として中井英夫が深く関わっている。中井英夫は鹿児島に住んでいる浜田到に、作品依頼のため、何度も手紙を送った。こんな手紙だ。

 “坐睡”何百首でしようか、たしかに 受けとりました。いま一通り拜見したところです。はじめに苦言を申しあげると、お願いしたのはこれほど大へんなお仕事ではなく、五十首ぐらいを 雜誌に発表出来るようまとめていただきたかつたので、何もかも完璧を願つての御努力は感服しますが、もうすこし 気軽に考えていただかぬとノイローゼになられちまうでしよう。(中略)

 さて、内容はたしかにいいものでしたが、何しろ大作すぎて、何かの美術展を見たようにすつかり疲れました。印をつけていつたのですが、数えてみると、ちようど八十首ほどあります。順に感想を記しますと、 坐睡 これは自信作なのでしようが、次の 晩婚式 耳の少年 一滴の世界 ともども、あなたの悪い言葉癖が一番ひどく出ていて、ここは発表しても受けとれる人は誰もいないでしよう。ここいらは短歌じゃ無理だという気がします。(中略)

 何より 今後 作家(そう、たしかにあなたは作家だ。歌壇にはあまりにも素人が氾濫しすぎている)として立つてゆかれるのには、難解でありすぎることが 一番危惧されるので、歌壇の旧勢力は 何とかして ジヤーナリズムの押す傾向を叩きつぶそうと躍起になつているので(それは当然で、ジヤーナリズムの押す傾向をみとめれば、彼らの無能と菲才は到底“歌人”の名に値しませんから)いままた こうした一人が誕生しても すさまじい罵言の霰がふるぐらいが関の山です。それを沈黙させ、若い層に新しい読者を開拓してゆくには、やはり ぼくのあげたような歌を、あなたにもよしと認めていただかなくてはならない。

  中井英夫の勢いや語気の強さ、また、大井さんが本文中に書いているように「唐突に人の懐にまで入り込んでくるような」個性。質の高い作品を当然のように要求し、しかもそれを自分の思うように構成しなおす。そして、浜田到はその個性に戸惑いながらも、中井英夫の要求に応えようとし、必死に作品を書いた。ちょうど、春日井建がデビューし、塚本邦雄が『日本人霊歌』を出し、村木道彦が現れようという時期である。このあたり、『黒衣の短歌史』の裏面史、といった趣きがあり、とても面白い。

 余談だが、中井英夫

またあなたの弟のような作品を発見、ぞくぞくして出しました。村木道彦という慶応の学生です。(p.218)

 という手紙に対して、浜田到の

村木さんの歌、小生もゾクゾクいたしました。竜之介―由紀夫―塚本とつづく漢語脈に対し、春夫―太宰―寺山とつづく口語脈のなかに、彼がアタラシク加はることは、もう疑えない事実ですし、ふかいよろこびです。(p.219)

 という返事はテンションが上がった。 

 しかし同時に、浜田到はこうした中井英夫とのやり取りや中央歌壇での取り上げられ方に疲れ、自身の作品に悩み、次第に沈黙していく。そのあたりも痛ましい。

 また、この本で注目しておきたいのは、浜田到の死で記述は終わらず、その後の受容史およびその検討にも踏み込んでいる点だ。

 具体的には、塚本邦雄が国文社の『現代歌人文庫 浜田到集』(現在、浜田到に触れる読者は、ほぼすべての人がこの本を手に取るであろう)の解説に載せた「晩熟未遂」という文章についてである。

その論「晩熟未遂」は、浜田到を語る場合に避けて通ることの出来ないものであり、またその論調の激越さ故に、それ以降到を論じることを封じてしまってもいる。(p.232)

 大井さんは、塚本のこの論考は、それ以降浜田到を論じることを封じている、と言う。では、塚本は浜田到の作品のどの点について批判を加えたか、それは主に破調についてであった。

「律調は著しく亂れ躓く」、「十音の異常な剰音」、「一首一首痙攣し、挫け、舌を嚙むやうな吃音」、「殊更めいた破調」、「短歌的韻律音癡」、「彼は聲に出して誦するのが怖かつたに相違ない」と。塚本の指摘は執拗すぎていささかエキセントリックに響く。しかしその陰に隠れた塚本の本音もまた、聴き取るべきだろう。(中略)すなわち、短歌という「形式に対しての純潔性」をいかに到が意識していたのか、その意識は詩人として甘いものではなかったのか、という批判である。(p.236)

 塚本にとっての字余りや句跨りは、戦後社会を撃つという目的のために、厳密な定型意識から生み出されたものであった。そのような塚本邦雄からすれば、浜田到の破調は「定型意識の甘さ」と見えたのであろう。大井さんも、

破調は、従って、いかに作者が意識的にそれを選択したとしても、「短歌性」そのものへの抵触を避けることが出来ない。それは塚本が『装飾樂句』の時代から実践の中で潔癖なまでに意識してきたことである。「句跨りを強行する場合は、なほさら音數を整へて、元來の句の切目を意識して讀めば讀めるやうに讀者を誘導するのが、極く初歩的な約束であらう」という塚本の指摘にもそれは垣間見える。そして破調の多い到の歌を読者の側が迎えて理解しようとする時、「その讀者側の奉仕を作者はいささかも意に介してゐない。結果的には横着な甘えと同斷ではないつたか」と断ずるのである。到の態度を「歌人としての怠慢」と喝破し、奉仕する読者の姿勢をも批判する塚本の言葉は、「定型詩としての短歌」を考えた時に、やはり問題として重い。(p.237)

 と述べている。つまりここには、浜田到というひとりの歌人の作風の問題に止まらず、短歌韻律の必然性とは何か、という広い問題が含まれているのである。

 その上で、大井さんは、浜田到が浜田遺太郎という名前で書いていた詩作品を踏まえながら、塚本が批判した浜田到の破調をこう捉えなおす。

しかし、到にとって「歌」は形式なのではなかった。年少の頃から慣れ親しんだ形式である短歌は、到の生活における詩の記録形式であったが、その「詩」を制約する必須の条件なのではない。自らの詩情の求めるまま、短歌・詩・散文の間を行き来し、そこにおいて自らを表現していたのである。(中略)そしてこうも言える。詩に対して潔癖であろうとした到にとっては、短歌形式は暗黙的な概念形式としてあり、その律は潜在的に感じられれば良いものであった、と。破調の多い到の作品が、それでも「短歌」として受容されるには、到の作品の中に「暗黙の律」があるからではないだろうか。(p.238)

  浜田到の作品に「暗黙の律」を感じる意見には、私もうなずける。

すなわち、到の歌における破調は、内容と律の鬩ぎ合いの中で、その受容可能性を探った結果だった。(中略)塚本は到のこれらの作品を「短歌的音癡」と言うだろうが、寧ろ塚本のストイックなまでの短歌的韻律への拘泥が、到―遺太郎の意図した韻律を見えなくさせてはいないだろうか。(中略)到の作品が、数多くの破調を抱えながら、それでも短歌として読まれるのは、単に読者による迎合的受容によるものばかりではない。到―遺太郎が企図した韻律性が何処かで感じられ、またその作品世界とともに理解されているのである。(p.240)

  こうした理解はいかがだろうか。まあ、人によって判断は分かれるかもしれない。塚本が厳しく破調を批判したのもよくわかるし、私も、ちょっと慎重になりたいところだ。定型を簡単に離れてしまうと、短歌である必然性は揺らいでしまう。

 しかし、浜田到の作品を、単なる「短歌的音癡」とするのではなく、独自の律の必然性を備えた「短歌作品」として捉えるのは、短歌の世界を考える上でも、大切なことだと思う。また、こうした考え方を視野に入れると、高瀬一誌や加藤克己や、あるいは、フラワーしげるや瀬戸夏子といった、現代の歌人たちの破調を、再び捉えなおすことができるかもしれない。

 というわけで、この評伝は、単なる浜田到の人生報告に留まらない。最後に開かれた問題を提出している、優れた評伝と言えるだろう。

 あとは蛇足。いま読んでいる田中純『過去に触れる――歴史経験・写真・サスペンス』(羽鳥書店・2016)にこの本にぴったりの箇所があったので引用したい。引用が好きなので。なので、この後は読みたい人以外は別に読まなくてもいいです。それでは。

  或る人物の日記や手紙からその人生を再構成しようとする場合、日時や場所、行動の動機・内容・関係者を特定するために行う一連の作業を、まるでミステリー小説やドラマにおける探偵か刑事による捜査であるかのように感じることがある。こうした感覚を抱くのはなぜなのだろうか。その一因はもちろん、証拠を集めて過去に起こった出来事を再現するという、わずかな痕跡から獲物の所在を読みとる狩人にも似た「徴候的知」(カルロ・ギンズブルグ)が、ちょうどシャーロック・ホームズが体現しているような推論的パラダイムに拠っていることだろう。ギンズブルグに従えば、これは「物語ること」という、太古から存在する人類の営みのパラダイムであり、歴史という知の形式でもある。

 だが、おそらくそれだけが理由なのではない。この感覚の底には何か、死者に対する負債を返そうとするかのような、誰から与えられたのでもない使命感に似たものが隠れている。だから、これが一種の捜査であったとしても、それは法の執行者として犯人を捜し出し罰するために、警察や探偵が社会的役割として果たす営みのようなものではけっしてないだろうい。この負い目に似た感情はもっと個人的で、それにともなう使命感とは、死者たちに対する秘められた約束のようなものだからである。

 にもかかわらず、それを捜査に譬えるのは、確固とした証拠にもとづく厳密な推理による事実の確定という、一種の法的な規範がつねに自分に課せされるためだ。もちろん、証拠の欠如ゆえに行わざるをえない、空白を埋めるための想像が推理過程には随伴するとしても、この規範からの恣意的な逸脱は許されない。こうした禁止もまた、死者に対する負債の感情ゆえなのだろう。

 そんな理不尽な負債感とは、自分が甦らせるべき死者を選んだのではなく、その死者から自分が選ばれてしまったという、本来ありえない事態の錯覚である。けれど、過去を復元し歴史を書く営みが死者たちの土地に旅することにほかならないとすれば、うずたかい資料の山の文字や図像からなる冥府のなかで、死者たちこそがわたしたちを選ぶこともまた起こりうるのではないだろうか。なるほどそれは対象への同一化であり、転移であるにせよ、そのように死者に選ばれているがゆえの使命感こそが、歴史を綴るための最後のよりどころになりうる。歴史叙述の客観性やディシプリン学術性、真理の追究といった抽象的な規矩は外在的な道徳にすぎず、歴史を書く者、過去を物語る者をより内面的にはっきりと縛る倫理は、死者たちとのあいだに結ばれるこうした関係性に根ざすように思われる。

 このような負債を強く感じる対象は、多くの人びとに知られず、あるいはまた、忘れ去られた人物であることが多い。逆に言えば、広く知られた存在であれば、その人生や業績の一部のみを切り取って学術的に研究することが一般の流儀だろうし、一研究者としてはそれで足りる。そもそも、或る人物の全体を扱った評伝など科学(science)ではないとする立場もある。しかし、人文学(humanities)としての歴史には、個別事象に還元された主題の分析を主とする科学の範疇には収まらない、死者を可能な限り完全な姿で甦らせようとする、それこそ呪術的な思考が残存しているように思われる。誰からももはや記憶されることなく資料のなかに埋もれている存在に、もう一度 肉声を語らせたいという欲望は、科学的な客観性や学術性の要求とはじつは異質なものだろう。

 わたしがジルベール・クラヴェルというほとんど無名の芸術家の評伝『冥府の建築家』(みすず書房)を書いた背景には、そんな欲望がたしかにあった。

田中純『過去に触れる―歴史経験・写真・サスペンス』)

過去に触れる―歴史経験・写真・サスペンス

過去に触れる―歴史経験・写真・サスペンス

 

 

第3回 岡井隆『辺境よりの註釈 塚本邦雄ノート』

星を動かす眼 土岐友浩

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辺境よりの註釈―塚本邦雄ノート (1973年)

 

サブタイトルにある通り、岡井隆塚本邦雄を読む、という本である。

書き出しは、こうだ。

九月十日 これより一日も欠かすことなく、塚本大人(うし)が歌の註を為すこととしたい。重陽節もすぎ、秋風しきりに部屋内(へやぬち)をふきぬける宵。 *1

気合が入っている。格調高い文体から、さあ書くぞ、という静かな熱気が伝わってくるではないか。

辞書と百科事典を座右に、岡井はさっそく歌集『水銀傳説』の分析に取りかかるのだが、次の日いきなり仕事に忙殺され、毎日書くという目標がわずか一日で挫折してしまう。

二日後のノートを読むと、 

今後、わたしは精励の習慣を放棄して、もっぱら波まかせ風まかせの体たらくになりかねない。このノートが妙に断片的になるとすれば、一部は九月十一日夜筑城町の夜のせいである。 *2

何があったのか、早くも心が折れている。文体の気の抜け方、この落差の大きさはどうだろう。行間から悔しさがにじみ出ているようだ。

しかし岡井はここから気を取り直して、『辺境よりの註釈』を再開する。

 

 *

 

『辺境よりの註釈』は2部構成で、第1部は塚本邦雄の総論的なノート、第2部は塚本の第七歌集『星餐圖』を読むノートとなっている。それぞれ3ヶ月ほどの期間をかけて書き継がれたものだ。

 

第1部では塚本の歌をいくつか取り上げ、モチーフや語彙、韻律などの多角的な視点から、ゆっくりと、深く読んでいく。ノートだから、特にまとまった構成というものがあるわけではない。余談、雑談もたくさんあるのだが、それが抜群に面白い。いわゆる評論文とは違う、脱線の醍醐味を存分に味わうことができる。

 

壮年。実はそんなものはありゃしない。わたしたちは、いつまでも青年のつもりでいる。そして、いつのまにか老年期に入っているのに気付く。壮年の語は、一種欺瞞的なまで浪曼的である。  *3

たとえば「壮年」という語が歌の中に出てきたら、岡井は鑑賞の筆を進めつつ、ふと歌から離れて、こんな感慨を書き留める。

かと思えば、こんな一文が飛び出したりするから、油断ならない。

昨夜は、宿直室へまぎれ込んだ蟹になやまされどおしだった。 *4

僕は思わず自分の眼を疑った。「蚤」の間違いかと思った。

茂吉は「蚤」に悩まされたが、岡井隆は夜、病院で当直をしていたら、どこからか「蟹」が入り込んできたというのだ。しかも一匹ではないらしい。いったいどんな病院なのだろうか。

とても気になるが、蟹闖入事件の顛末は詳しく書かれておらず、代わりになぜか、この夜につくったらしき蟹の俳句が三句、ノートに記されている。

仲秋の蟹硝子戸をよじのぼる
方丈のとのゐのそとへ蟹を遣(や)
患児熱鎮まるべしや夜半の蟹

句の中でも、やはり「蟹」の存在感がシュールだと思う。

ところでこのノートが書かれたのは1972年、岡井隆は当時44歳で、歌壇から離れ、九州の田舎に移り住んでいた。

たしかこの時期、岡井は短歌をつくっていなかったというインタヴューを読んだような気がするのだが、それを踏まえると、ここで俳句が出てくることが、なおさらシュールなものに思えて仕方がない。

 

乳房その他に溺れてわれら在(あ)る夜をすなはち立ちてねむれり馬は

塚本の歌は「読み」がひとつに定まらず、しばしば難解だと言われる。

たとえばこの歌、「乳房その他」の「その他」とは何なのか。女性の身体のことか、それとももっと別の何か(「工芸品の美、数学の整序たる法則性、自然のエネルギー、ギャンブル、酒等々」 *5)に溺れているのか。「われら」とは誰のことなのか。そして「われら」と「馬」との関係は。

読むほどに別の可能性が浮かび、「読み」が分かれる。だが、それはまさしく塚本が、そのように歌をつくっているからだ、というのだ。

近代短歌は、基本的に歌意がひとつで、「読み」がぶれるということはない。塚本の歌はそのことへのアンチテーゼで、多義的だが、そこが魅力なのだという岡井の視点は、僕にとってはコペルニクス的な転回だったというか、とても本質的なことを教わったようで、唸らされた。

 

 *

 

第1部だけでも、まだ紹介したい話はたくさんあるのだが、個人的には特に第2部の「星餐圖ノート」が面白かった。

時系列でいうと、先に書かれたのは第2部のほうだ。「星餐圖ノート」を書き終えた後、依頼があって書かれたのが第1部で、だからこちらはある程度、読者の眼を意識した文章になっている。

第2部はもっとプライヴェートな、公表を前提とせずに綴られたノートなのだ。

 

『星餐圖』はこの歌から始まる。

青年にして妖精の父 夏の天はくもりにみちつつ蒼し

岡井は「青年にして妖精の父」という上の句を「要素α」、下の句を「要素ω」と名づけ、それぞれのイメージを繊細に読み込んでいくのだが、長くなるのでその詳細は割愛したい。

興味深いのは、この一首が「歌として不出来」で「失敗」だという、岡井の見解だ。

その原因は「モチーフの展開過程」にあるという。平たく言えば、韻律に難があるということだ。

たしかにこの歌は、

青年に/して妖精の/父_夏の/天はくもりに/みちつつ蒼し

と、全体的にリズムがつっかえている印象を受ける。特に「青年に/して〜」という最初の句またがりに、違和感がある。

しかし岡井は、塚本自身がその失敗に気づかないはずがない、という。

そして、

「あはれ青年、妖精の父」

とか、

「妖精の父たり青年」

などの改作例を示しつつ、塚本は、あえてこのようには韻律を整えず、「不出来」な歌を巻頭に持ってきたのだと推測する。では、そうしたのはなぜか? という謎を最初に設定して、岡井は『星餐圖』を読んでいく。

 

これはもちろん、端的な解答が与えられるような問題ではないが、ノートを読んで、僕なりに理解したことをまとめてみたい。

まず、ざっくり言えば『星餐圖』のテーマは「人間」と「天」の対立である。

この歌も、「青年」(=要素α)と「夏の天」(=要素ω)が対立している。

 

もう一例、次の歌。

愛恋を絶つは水断つより淡き苦しみかその夜より快晴

これは岡井の鑑賞が別の意味ですごいので、本題に入る前に紹介したい。

愛恋を絶ったことは一度もないから、そのくるしみの程は測りがたい。
(中略)
愛恋は絶てるものではない。向うから絶たれる形で、結果として絶つに至るにすぎない。
(中略)
語り手が〈愛恋を絶つは〉云々と言っているのは、だから絶つことが出来る程度の愛恋なのだという告白ともとれようか。 *6

「愛恋を絶ったことは一度もない」に、僕はのけぞった。

岡井はそれを前提に読んでいくわけだが、僕が思うに、この歌は「淡き」が反語であって、「水を断つのと同じくらい、愛を絶つのはとても苦しい」という意味ではないだろうか。

ともあれ、一首の主眼は、愛恋を絶つ精神の苦しみと、水を断つという肉体の苦しみとの対比である。

これを岡井は、ノートに以下のようにまとめる。

f:id:karonyomu:20160420231913j:plain *7

この図をもとに、さらに結句の「その夜より快晴」について、次のように考察する。

天の曇から晴への運動は、人の愛の運命に対するイロニーであり、批評の役目を果しているといっていい。/愛恋が水と比較される段階で、愛恋は一たび深く批評されている。そして、その結果としての「愛の断念」は、もう一度、天の運行によって、暗に批評されることになる。 *8

「天」という言葉が二度出てくることに注目していただきたい。岡井は「愛の断念」というモチーフが、「肉体」と「天」の二つの次元から批評される、という構造をこの歌から読み取っている。

 

「星餐圖ノート」ではこのように、様々な図を駆使しつつ、その対立構造が検証されていく。

構造だけではなく、一首の韻律に潜むかすかな不協和音をも、岡井は聴き逃さない。僕がすごいと思うのは、それをただの傷ではなく、塚本が韻律と戦った跡として読み取っていることだ。

「人間」と「天」の対立というのはつまり、他でもない塚本自身が、短歌の韻律という「天」に立ち向かおうとする姿そのものだった。岡井は『星餐圖』を読みながら、この歌集が、歌人の苦闘の記録だったことを明らかにしていくのである。

 

 *

 

いろいろと書いてみたけれど、メモをとり、ノートをまとめながら歌集を読む岡井隆のその姿に、僕はやはり心打たれる。

 

岡井隆塚本邦雄の読者にはよく知られているように、『星餐圖』は、九州に姿をくらました盟友・岡井隆へ捧げられた歌集である。歌集の跋文で塚本は、岡井を地の果ての人馬座(サジタリウス)になぞらえた。『辺境よりの註釈』は、歌集発行の翌年、それに応えて書かれたノートである。

 

あえて本書をひと言で言い表すとすれば、岡井隆塚本邦雄が、遠く離れつつタッグを組んで、短歌の韻律に挑み、格闘した本だと思う。新しい韻律を生み出すというのは、天の星を動かすような途方もない試みだが、それができるとしたら、このノートのような読解と実作の試行錯誤、その積み重ねによるしかないのではないか、という気がする。

 

(原典の漢字は、原則として常用漢字に改めました)

*1:p.14

*2:p.17

*3:p.31

*4:p.33

*5:p.99

*6:p.261

*7:p.262

*8:p.264