短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第53回 佐藤通雅『岡井隆ノート 『O』から『朝狩』まで』

 岡井隆の初期とその時代について  堂園昌彦

 

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こんにちは。堂園です。

 

今回で「短歌のピーナツ」開始1周年。にも関わらず、更新遅くなって本当にすみませんでした。

 

さて、今回取り上げたい本は、佐藤通雅さんの『岡井隆ノート』です。佐藤さんは「短歌のピーナツ」第1回で取り上げた『茂吉覚書 評論を読む』と同じ著者の方ですね。開始して1年で、第1回と同じ人に戻ってきたわけです。この本は2001年に、佐藤さんご自身の「路上発行所」から自主出版されています。

 

通常の流通に乗っていないせいか、今回amazonのリンクがありません。ただ、本は佐藤通雅さんご自身のホームぺージから購入できるようです。お読みになりたい方は、そちらからぜひ。

 

rojyo.net

 

で、今回の本なんですけど、テーマはタイトル読んでわかるように「岡井隆」です。ご存じ、現代の最メジャー歌人。その第0歌集~第3歌集までを扱っています。岡井さんは賛否両論・毀誉褒貶あるのはたしかですが、いずれにせよ戦後の現代短歌を代表する歌人なのは、間違いないと思います。

 

ただ、岡井隆が「すごい歌人」なのはある意味常識なのですが、恥ずかしながら、私自身は岡井隆がどう「すごい」のか、いまいちピンと来ていませんでした。いや、わかるんですよ、重要さは。でもなんというか、肌感覚ではわかっていないというか。

 

しかし、こういう感想の方、実は意外と多いんじゃないかと思っています。

 

前衛短歌の三人衆といえば、塚本邦雄寺山修司岡井隆ですが、このなかで岡井さんが一番わかりにくいです。なんというか、「岡井隆」というイメージの核を捉えにくいんですね。こう、人に説明しにくいというか……。

 

それには理由が二つあります。まずひとつめは、岡井さんが、作風をどんどん変えまくってきたからです。

 

アララギっぽかったかと思えば、前衛短歌の象徴的な文体を確立したり、かと思えば、また「私」に還ったり、記号を試したり、口語になったり、和語を取り入れたり。現在に至るまで、短歌のあらゆる文体・技法を次から次に試行している印象があります。当然、そのイメージはころころ変わりますから、「これが岡井隆だ」と言いにくい。と、ともに実人生上でも、いったん全てを捨てて九州に行ったり、批判をしていたはずの歌会始の選者になったり、表面的な思想信条もまるで変節しているかのように見えますから、昔からのファンもどんどん振り落とされていきます。

 

この本の著者の佐藤通雅さんは、そんな岡井さんの性質を「緑騒の歌人」というフレーズで説明しています。大きな樹が風に吹かれて自らの幹を揺らすように、岡井さんは留まっていると、いつか我慢ができなくなり、周囲と自分を大きく揺さぶるのです。そして、次の「岡井隆」へと移って行く。それが、岡井さんの特徴だ、と佐藤さんは言います。

 

 そういえば岡井隆自選歌集『蒼穹の蜜』(沖積舎)の冒頭歌は、

 

  薄明の空に青葉を吹き上ぐる栗一本(ひともと)が見えて久しき

 

だ。夜明けの空に栗の木が立っている。その青葉が風にあおられて、速度はゆっくりながら内部からつき動かされるような様態をみせている。まだある。

 

  一本の杉の怒りを見て立てば緑揉まれて生きたきものを

  そよかぜとたたかふ遠きふかみどりああ枝になれ高く裂かれて

 

 それぞれの歌における位置はちがっても、「緑揉まれて」「たたかふ遠きふかみどり」は形象としては同じだ。つまり、内部から湧く力によって大きくうねり、かつ振幅する緑がイメージされる。これを仮に「緑騒(りょくそう)」ということにしよう。岡井隆が緑騒のイメージを好んで使ったのは、ほかならぬ〈表現者〉としの(ママ)内部の喩たりえたからだ。(p.13,14)

 

なので、追っていくのは面白いけれど、統一したイメージをつくるのは大変。それが、岡井隆なのです。

 

そして、ふたつめは、岡井さんの初期である「政治の季節」が今では見えにくくなっていることです。

 

前衛短歌が活躍した1960年代は、安保闘争に代表されるように、日本が政治的に揺れた時代でした。岡井さんの当時の作品は、こうした政治状況に文脈を大きく依存しています。

 

具体的にはたとえば、

 

海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ  『朝狩』

 

などは、当時の日米安保条約のことを詠っていて、日本とアメリカが条約を結ぶことを男女の結婚に喩えていますが、そういうことが今ではピンと来づらくなっています。

 

同時代の塚本邦雄寺山修司は、同じように政治状況が背後にあっても、その作風に多分に抽象的なところがありますから、現在でも内容を感受しやすい。しかし、岡井隆の作風は、時代時代の状況に文脈を依存している割合がかなり大きくて、元の〈事実〉がわからなくなると、理解がしづらくなるのです。

 

そういった感じで、私はちょっと苦手だった岡井隆の初期作品ですが、今回の本読んで、かなりピンと来ました。めっちゃ面白かった。なんでピンと来たかと言えば、それは、著者の佐藤通雅さん自身の体験として、「岡井隆がどうすごかったか」を熱く、かつ丁寧に、語ってくれるからです。

 

佐藤さん自身の岡井体験を引用しましょう。

 

  〈あゆみ寄る余地〉眼前にみえながら蒼白の馬そこに充ち来(こ)よ

  肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は

  真夏の死ちかき胃の腑の平(たいら)にはするどき水が群れて注ぎき

 

(略)

 

  これを出だしに全篇を、くり返しくり返し、ほとんど暗唱するぐらいよんだ。いきおい、駆け出し歌人の自分はもろに影響をうけて、いまみれば気恥ずかしいばかりの模倣を重ねている。

 当時の私がもとめる短歌とは、まず思想詩でなければならなかった。芸とか趣味の範疇から毅然と立ち上がり、文学として、思想詩として存在しうるもの。しかし、形式美を犠牲にしたプロレタリア系の作品には引かれるところがなかったから、思想があればいいというわけでもない。短歌としての美質もそなえることは、必要な条件だった。これら両者を兼ね備えることは、はたして可能か。私のみとおしは明るくなかったが、もしこれが不可能ならもはや短歌をやる理由が、少なくとも私にはなかった。

 こういう問題意識にこたえてくれた数少ない歌人が岡井であり、『朝狩』である。(p.395,396) 

 

佐藤通雅さんは、六〇年安保闘争の終焉した翌年の1961年に大学に入りました。ひとりの政治青年であった佐藤さんは、大学3年生のときに出版されたばかりの岡井隆第3歌集『朝狩』を読んで衝撃を受けます。短歌でこんなふうに思想を詠うことができるのか、と。それから、遡るように第2歌集『土地よ、痛みを負え』、第1歌集『斉唱』と読み、それ以来、ずっと岡井隆が気になり続けている、といった感じだそうです。

 

佐藤さんは、「政治の季節」に没入したひとりの青年として「短歌は思想詩でなくてはならない」という思いを抱え、その思いがあまりに強すぎたため、数年の間、短歌を断念してしまうほどだったのですが、そんな時代と個人の状況の中で岡井隆は、佐藤さんの中で、ずっと重要な位置を占め続けていたようです。

 

要するに、当時、岡井さんがどのようにヒーローだったのかがよくわかる。しかも、当時の政治的な状況や文学的な文脈も、丁寧に記述してくれ、かつ現在から冷静な分析も忘れない。このブログの第一回『茂吉覚書 評論を読む』でも見せていた、複数の要素に目配りを利かせる佐藤さんの公平さはほんとすごいです。結果、個人史と時代が切り結ぶ点において岡井隆がどう輝いていたのか、読者は深く納得できる。そう、この本、めちゃくちゃ熱いです。

 

佐藤通雅さんの「考えながら書く」というスタイルは、基本なんですけどかなり独特でもあって、啓発されるというのかな、読んでいくうちに自分の中にも〈問い〉がどんどん生まれていきます。

 
さらに言えばこの本、書かれるのに約10年間かかっています。冷静かつ丁寧な分析を、こつこつと粘り強く、真摯に続けた結果がこの本なのです。

 

なので、今回はいつもにもまして、ぜひ元の本を読んでいただきたいですね。要約しちゃうと、この感触がいまいちお伝えできないんで。どうぞよろしくお願いします。

 

 

はい、というわけで、岡井隆の短歌のスタートからたどっていきましょう。まずは初期歌篇の『O』(オー)から。

 

この歌集は出た事情が少々特殊で、独立して出版されたものではなく、元々、1970年に編集を終えていて、1972年に思潮社から『岡井隆歌集』が刊行されたときに、そこに収録されたものです。

 

1970年というのは、岡井さんにとってどういう時期だったかというと、全てを捨てて九州に逃げたときですね。有名な事件で、ウィキペディアの記述をそのまま書くと「北里研究所付属病院の医師として勤務していたが、1970年の夏に辞職して20歳ほど年下の愛人女性と九州に隠遁、あらゆる文学活動を停止した」年です。要するに、短歌やめちゃった年。その5年後まで岡井さんは歌壇から離れていました。だから、1972年に出たこの本にも、もう総決算のつもりで初期の歌まで載せたみたいです。なので、「初期歌篇」とはいえ、もう「岡井隆」という名が知れ渡っている頃に読者が目にしたもの、ということになります。

 

まず、岡井さんが短歌を始めたきっかけから。それは、名古屋アララギ歌会の中心人物である父・岡井弘の影響が大きかったみたいです。敗戦後、昭和20年のときです。

 

 昭和20年10月、疎開して鈴鹿山脈の麓の村、高角(たかつの)は字西野在に居た。湯の山線の途中の村である。遠縁の親類の農家の離れに、父母弟妹と五人暮しであった。部屋には父の蔵書の歌集・歌書の類が山積みされていた。

 旧制高校は敗戦のショックで臨時休校していて、開講通知が来るまで自宅待機をしていたのだった。ひまをもてあましていたのと、眼前の歌書の山が結びついて歌を作らせた、といえば、動機の一番素直な説明になるだろう。

 

『O』の前書きで、岡井さん自身はこう言っています。そして作られたのが次のような歌。岡井隆の最初期、気になりますね。

 

暁の月の寒きに黒き松の諸葉(もろは)は白きひかりを含む  岡井隆

西の辺の山脈(やまなみ)の前に雲しづみ高嶺(たかね)むらむらと立てる見ゆ夕べは

 

はい、どうでしょうか。やっぱりアララギっぽいですね。これらの歌を読んだ、岡井隆の大ファンである佐藤さんの感想はこちら。

 

私は唖然とした。なにに唖然としたのかといえば、あまりの凡庸さにである。(p.33)

 

あまりの凡庸さに唖然とした! わお! 

 

でも、確かに……。あの、ひと言でいえば「地味」ですよね。十七歳なのに。

 

一九四五(昭和20)年、十七歳の日の作品だ。一言でいえば、まるで若さがない。(p.34)

 

ちなみに、前衛短歌の雄、寺山修司と春日井建は、同じくらいの年齢で、こんな歌を作っています。

 

とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を   寺山修司

わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり  春日井建

われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり

火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり

 

 

わー、名歌! この二人、短歌作り出していきなりこの完成度ですからね。確かに、それに比べれば、岡井さんの十七歳の歌は、「地味」です。

 

当時の岡井は、短歌の前線に身をおく文字どおりの旗手だった。そして私をふくめた若い連中を鼓舞する第一人者でもあった。だから、彼の文学的出発にも、寺山や春日井に比肩しうるものがあったろうと、いつかしら勝手に想像していた。この思いこみが転倒されたので、唖然としたのである。(p.33,34)

 

佐藤さんもこう言っています。私たちは、寺山や春日井にあったような輝かしさが、岡井隆の始まりにもあったのだろうと期待してしまいます。それが覆されるのが、この初期歌篇『O』です。

 

しかし、続く記述で、この寺山・春日井と岡井の違いには理由がある、と佐藤さんは言います。

 

岡井が寺山や春日井のように天才的に出発できなかったのには、時代条件のちがいがあるのではないか。それは解き明かしておくべきことだろう。第二に、「アララギ」からの出発がまったくの偶然によるとはいえ、そこを〈故郷〉にしてしまったことの意味は小さくない。(p.36)

 

寺山・春日井と岡井隆では、時代条件が違う。3人の生年と敗戦時の年齢を比べてみましょう。

 

岡井隆 1928(昭和3)年1月生 敗戦時17歳

寺山修司 1935(昭和10)年12月生 敗戦時10歳

春日井建 1938(昭和13)年12月生 敗戦時7歳

 

つまり、先ほどの歌を作ったのは、岡井さんは戦後すぐ、寺山・春日井は戦後だいたい10年くらい経ってからです。ここの違いに注意してください。

 

社会の激動期では年単位で体験も異なるから、この差は決定的ななにかである(もちろん、岡井がほんの微差で戦争にいかなかったことも、近藤芳美のような戦中派と比して決定的ななにかである)。岡井は直接的戦争体験をもたずにすんだ。が、少年期から思春期にかけて、文学的にみれば砂漠の時代をすごした。それに対して寺山・春日井は少年期に戦争時代と遭遇しながらも、思春期は全的開放に近い文化状況に生きることができた。彼らの初期歌篇のきらめきは、その空気を存分に吸うところに成立した。しかし岡井は文学的禁忌の時期をもち、そのため出発はおくれた。やっと禁忌から解放されたとき、流派、作風の選択のゆとりはほとんどなかった。とりあえば、手のとどくところにあるものなら、どれでもよかったのだ。(p.42)

 

岡井さんの戦時中は、文化的なことがらがほとんど禁止されていました。「歌はおろか、一切、文学的なものとの出会いは、禁じられていたにひとしかった。」と本人は言っています。

 

それが、敗戦後、ようやく文化的なものに触れることができるようになった。その喜びは計り知れないものです。「敗戦がもたらした開放感というのは、上述のような暗うつな小中学生活をして来たものにとっては、たとえようのない〈ざまあみろ〉であった。」「そのころのわたしにとって、歌は、人間の回復のシンボルだった。」という言葉の通り、岡井さんは喜びながら、身近な形式である短歌を書いていきます。その際、歌を作ること自体が喜びですから、表したいことがあったわけではなく、ただただ喜びとして詠んでいきました。文体に関しては、精査する気持ちもなかった。言ってしまえば〈手近な〉アララギの文体でかまわなかった。そういう事情から、こうした文体を選んだと言えるでしょう。

 

ここらへん、戦時下の窮屈な空気の中、呉の軍港で働きながら、その苦しみを紛らわすかのように短歌を求めた塚本邦雄の作歌初期と比べてみるのも面白いかもしれません。

 

karonyomu.hatenablog.com

 

 

しまし夕の光をあみて声あぐる百舌鳥(もず)は尾を強く振りめぐらしぬ  岡井隆

布雲(ぬのぐも)の幾重(いくへ)の中に入りし日は残光あまた噴き上げにけり

 

私はさきに凡庸さに唖然としたと書いたが、それは自分自身が前衛短歌のほうに引かれる駆け出し歌人だったからである。「アララギ」に代表される写実歌はもう旧物だという思いこみもあった。しかしそういう先入観をおさえてこれら一連をみると、とても凡庸どころではない。先行する歌人を模するところ大だったとしても、摂取のすばやさは並ではない。「しまし夕の光をあみて声あぐる」「布雲の幾重の中に入りし日は」こういうことばづかいは、とても十七歳とは思えぬ老成ぶりだ。(p.40)

 

そう考えて岡井さんの初期作品を読むと、たしかに異様に「うまい」のです。そしてこのうまさは、岡井さんが自身の内部の感情に手が届く言葉をいまだ手にしておらず、もっぱら技法の洗練のみにエネルギーを費やしていたからだ、と佐藤さんは言います。

 

もっとも、この年齢の精神的内部は、写実歌、とりわけ自然詠のわくにおさまりきれるものではない。自分の処理能力を超えるまでに、感情も観念も過剰なのだから。そういう内部にとどくことばをいまだ手にしていない。いうなればエネルギーは空転しているのであり、空転の代償行為として技法が練磨されているともいえる。(p.40) 

 

ということは、ことばがかならずしも自己内部を通過していなかったことを意味する。引用したどの作品もうまいにはうまいが、十八の年ごろでこんなに老成していたとは……という感想は、内部とことばの格闘以前の、表層性に起因する。表層をすべるとき、技法の練磨に走るのはどんな時代でも同じことだ。(p.52) 

 

ここらへんの話はよくわかりますね。私、以前、「堂園食堂」という歌人インタビュー番組で、「よけいな才能のない人間は、成長が早い」という漫画『蒼天航路』の曹操のセリフを引用して、同じような話をした記憶があります。

 

だいたい作歌の演習期というのは、先行する歌人の模倣にはじまり、しかも何人もの歌人を〈はしご〉していく。そのなかからなにものかを奪取し、自分自身のものを創るにいたったとき、はじめて一人前といわれる。この演習期の作品は技法として冴えることがしばしばある。本人の才能もあるが、先行する歌人の苦労して築きあげたのを、無傷のまま借用するからだ。(p.47) 

 

そうなんですよね。人はまず模倣から入るから、先達が作った技法をまんまパクることができ、結果、すぐにうまくなる。投稿とか、結社への出詠でも、まず初めはけっこう褒められます。しかし、そこからだんだんと自分の言いたいことや自分の文体を見つけてくると、技法をいちから作らなければいけませんから、一旦「へた」になり、ひとからは批判され、自分でも上手くいかない感触が出てくる。その期間を通り抜け、自分の文体と馴染んできて、ようやく一人前の歌人になるのです。

 

また、一般的に「言いたいこと」があると、歌は「へた」になります。「言いたいこと」がない方が、技法に集中できるからです。

 

なによりも現在私たちが立ち合っている時代がそうで、二十代歌人の歌のうまさを日々みせつけられているといってもいいほどだ。それは思想が主要テーマとして成立しにくくなったことにも関係する。切実な思想をかかえ、それをモチーフにして作品を作ろうとするとき、ことばは難渋せざるをえない。内部とことばはまさに格闘するのであって、共存・調和は容易ではない。だからこういう時代の歌は〈へた〉である。洗練されたところがなく、ごつごつしたこぶがあちこちにみられる。一九六〇年代前後の作品群はそうだった。『土地よ、痛みを負え』も〈へた〉な作品で充満している。しかしこの〈へた〉には熱さと重さがある。文学にとって〈へた〉はかならずしも否定用語ではない。だから〈〉を付けたのである。ところが思想という切実さが薄れていったとき、歌は内部との格闘をやめて技法の練磨へと傾斜していく。そうしなければ渇を癒せないかのごとく、技法へと疾走する。それが現在の若い歌人の歌のうまさの根拠だ。(p.52) 

 

ちなみにこの文章が書かれたのは、1991年です。「現在私たちが立ち合っている時代」「二十代歌人の歌のうまさ」は、今・2017年のことではないことには注意してください。ちなみに、1991年ぐらいの20代の新人賞作家を挙げると、

 

角川短歌賞

第36回 1990年 「キャラメル」田中章義

第37回 1991年  「横断歩道(ゼブラ・ゾーン)」梅内美華子

 

短歌研究新人賞

 第33回 1990年 「ようこそ!猫の星へ」 西田政史

 

ぐらいの時期でしょうか。加藤治郎穂村弘水原紫苑荻原裕幸たちニューウェーブの世代がちょうど30歳になるかならないかぐらいです。

 

ただまあ、大きく見ると、今現在でもこうした傾向は続いていると言えるかもしれません。

 

そんな感じで初めから異様に摂取が上手かった岡井隆は、やはりお父さんの影響で「アララギ」に入会します。1946(昭和21)年 1月、18歳のときです。そして、アララギでも、次から次に、先人たちの歌を模倣していきます。岡井さん自身の言ではこんな感じ。

 

 昭和二十一年というと今から十七年前になるが、わたしは十八歳の若もので、斎藤茂吉→山口茂吉→佐藤佐太郎→柴生田稔→土屋文明吉田正俊→近藤芳美といった大体の順序で、一人につき約三月間位ずつ熱中し模倣し、つぎつぎに愛を移していったのであった。(岡井隆土屋文明とその一派」『戦後アララギ短歌新聞社) 

 

三か月ずつくらいってすごいですね。とにかくこの時期は、岡井さんにとって技法を吸収していく時期だったと。

 

ただ、当然、それだけでは満足できなくなっていきます。

 

初期の段階で自然詠に集中したのは、とにかく作歌するというだけで自己充足できたからだが、やがてはあきたりなくなる。内部を通過することばをこそ欲するようになる。その段階で出会ったのが文明から近藤への路線だった。(p.55) 

 

アララギの文体をどんどん摂取し、その中で自分の言いたいことが芽生えてきた岡井さんが最終的に出会ったのが、土屋文明、そして近藤芳美でした。「『O』はじめに」で自身でも「茂吉への傾斜がなかば崩れつつ、土屋文明とその一派の作品模写へと移行するあたりで、この章は終っている。」と書いています。

 

 内部を通過しないことばに満足できたのは解放感を得た瞬時であって、やがて重い内部とことばの隔絶に気づくようになる。この段階にきて、近藤芳美にはじめて引かれていった。(p.53) 

 

岡井さんが近藤芳美に惹かれたのは、あとで詳しくやりますが、その歌の知的な態度ゆえでした。歌を始めたばかりのころは、戦後の解放感から単に眼前の自然を詠むだけで喜んでいたのですが、次第に、ひとりの青年として時代状況に関わっていこうとしたときに、近藤芳美の文体が岡井さんの目の前に現れたのです。

 

友もいらず導者もいらずただ素直なれよ日向(ひなた)の黄なる土に伏すなり

 しばし黄にてりて読めなくなる活字指ねばねばとよごれてゐたる

 怒りにも悔いにも疲れて記憶力遊戯しぬそして眠れぬ闇ありき

 やすやすと国を説く彼等を考へゐる中(うち)汗落ちて机のニスが匂ふよ

 

『O』の最後らへんの歌は、こんな歌。単純な自然詠から、なにか自分の内部を探っていこうとする傾向が見られるようになってきました。文体も、自然詠の滑らかだった「うまい」文体から、どこかごつごつして「へた」になってますね。

 

自覚的な実作者であればたいてい経験することだが、どんなに歌の技法を模倣し磨いてきても、青年期の過剰な感情や観念のまえにはとても太刀打ちできない。作っても作っても自己の真実とほど遠いことばの群に焦燥し、失意する。その疲労のはてに短歌を断念してべつの表現形式に去るひとも少なくない。もちろん他へ移ったからといって救われるわけではない。が、伝統詩型に残ることは小説や詩とは異なった煩悶を天刑のように負うということなのだ。負うことによってなにを奪取するかこそが歌人の課題だが、その探求は歌論・歌人論の永遠のテーマだろう。『O』はちょうど関門にさしかかったところでおわっている。ここをくぐったら煉獄が待っているという境目である。その意味で『O』は至福の歌集といえる、煉獄の苦しみ以前の蜜月時代なのだから。(p.56) 

 

というように、「煉獄にさしかかった」ところで、初期歌篇『O』は終わります。

 

 

はい、第0歌集の『O』には、アララギ文体を巡り巡って、最終的に近藤芳美にたどり着く、という岡井さんの一番初めの道程が記されていました。

 

そして、続く第一歌集、岡井隆のデビューである『斉唱』は、いかに近藤芳美の影響下から脱却していくか、という歌集となっていきます。燃えますね。

 

『斉唱』には、約十年間、昭和22年、19歳から、昭和31年、28歳までの作品が収録されています。

 

『斉唱』の最初の連作、「冬の花束」ですが、1947年から1952年の5年間の作品です。19歳から24歳。この間、岡井さんの環境はいちじるしく変わりました。1950年に、郷里を離れ慶應医学部に入学し、翌年51年に近藤芳美が「未来」を創刊し、そこに加わっています。

 

休講となりて来てみるこの草地銀色の蟻今日も草のぼれ

音ひとつ玉虫掌(て)より立ちゆきぬ疎まれながら午後もあるべし

 

冬の花束」冒頭の2首。佐藤さんはこう言っています。

 

これらが『O』に膚接し、かつ近藤芳美の影響圏内にあることはすぐみてとれる。(p.65) 

 

たしかに近藤芳美の影響があるのはわかる。しかし、同時期に岡井隆は評論で、

 

因みに言うが、「未来」の僕らは芳美の全歌集を、も一度読み返すとよい。芳美からの影響とその模倣とに苦しむ者は、自分が一体芳美とどんなに異るか思い見るがよい。

 

と書いています。自覚的に近藤の影響下にあるのを認め、そこからなんとか脱しようとしていた、ということでしょう。

 

1952年に岡井さんが書いた近藤芳美論には、こんな言葉もあります。

 

既に単なる感性的なリアリズムを超えて感覚の俊敏よりも知的裁断の鋭利が問われる。実感に即すより、その実感を常に見はりつつ断ち割って行く思考過程が韻律化される。僕らはこの種の作品をやはり戦後の近藤芳美に沢山みてきた。(p.75) 

 

赤彦や茂吉が山川草木を相手に磨いた「感性的リアリズム」の技法の延長に、佐太郎や芳美もある、そしてそのひとつのピークは佐太郎の『歩道』だが、近藤芳美の『歴史』にはそれと違った「知的裁断」がある、と岡井さんは見ていました。

 

これらによるなら、「アララギ」の諸先達を駆け足で巡ったのち、感性的リアリズムではない方向に岡井は歩み寄っていった。「感覚の俊敏よりも知的裁断」が問われるというのは、作品の基盤に思想が、歴史観がなければならぬからだ。それを近藤芳美にみいだし、青年歌人たちは熱く呼応していったのである。(p.75) 

 

ここらへんけっこう難しい話になってるんですけど、平たく言うと、戦前までは自然を見て思ったことを言ってれば歌になってたけど、そんな単純な考えゆえか、戦時中は戦争に加担しちゃったりしてしまった。だから、戦後はもっと思想や歴史観のある歌じゃないとダメだと、そういうことでした。そのときは、日本中がそんな感じだったんですね。有名な「第二芸術論」も、まあ、そういう話です。

 

戦後を青年として生き、かつ表現しようとする岡井の位置を、私たちはこれらによって知ることができる。単なる感性や実感はもはや意味をなさない、歴史を生き、変革するという観点が基盤になってこそ新しい表現は可能になる――この熱気が評論の隅々にはある。(p.75) 

 

そんななかで、岡井さんの歌はこういう感じでした。

 

帰独せぬ亡命作家の一群を歯切れよき言葉重ねつつ責む

忽ちに舗道かがやく夜の雨《魯迅》探してゆく街々に

死にて還りし軍夫の数を争いてとぎれとぎれの軍裁ニュース

捕われし者を英雄視する声さびしく聞きて幾週を過ぐ

 

政治的な熱さが背景にあるのは、すぐにわかると思います。しかし、これには危うさがあって、佐藤さんが指摘しているように、「〈事実〉にあまりにも依拠している」ということ。政治的状況への真摯な問いかけがあるけれども、あまりにもそれに拠っていないか、ということです。

 

ちょっと脇道に逸れますが、現代の若い歌人たちと、この当時の「熱い」作品とを比べた佐藤さんの文章を引用します。

 

現代の青年歌人の作品に対して、歯ごたえがないとか好き勝手すぎるとかいう悪評は折々向けられる。現象としてみればそのとおりなのである。にもかかわらず、時代や世界の輪郭がはっきりしていた条件下の作歌と比してそういうのなら、「待った」をかけざるをえない。輪郭が外部にあり、それに対応することなしに生きえない時代には、ことばもまた相応の輪郭をもつ。しかし逆に世界が遠のき、しかとした手ごたえがなくなれば、ことばの輪郭もまたくずれていく。その分、自分で模索しなければならなくなる。つまり、自分たちの立ち合った時代に応じて新たな課題を負い、抗うのであり、その意味では過去も現在も対等だというべきだ。現在の若い歌人に手ごたえ・歯ごたえのなさを感じるのは、ことばがいままでの〈根〉を失って浮遊せざるをえないからである。〈根〉とはなにかといえば、地上性ということだ。リアリズムにしてもロマンチシズムにしても、短歌は(あるいは文学は)作歌主体が地上にいて、そこから対象を〈みる〉ことによって生まれてきた。ところが現在、そういう視線はすでに古典的になっており、主体をはなれた目はいくらでも可能である。しかもたとえば宇宙衛星をとおしてみた映像のほうが、あるいは電子顕微鏡でとらえたミクロの世界のほうが、肉眼よりはるかに〈真実〉だと感じられている。(略)このような時代に遭遇したことばが従来の〈根〉を失うのは当然である。しかしだからといって、浮遊することばの群がすべてすぐれているわけではない。(略)このことを逆に、世界の輪郭が明確にあれば、そこに向けて放たれる直球(ことば)がすべてすぐれているか否かと問うこともできる。いうまでもなく、否、である。直球が剛速球になればなるほど、欠落させるものも多い。(p.80,81) 

 

「つまり、自分たちの立ち合った時代に応じて新たな課題を負い、抗うのであり、その意味では過去も現在も対等だというべきだ。」このような言葉が、佐藤さんのバランス感覚だと思うんですよね。こういった感じの言葉、佐藤さんの評論にはよく出てきます。両論併記でありながら、元の位置に戻るのではなくて、螺旋階段みたいに考えが先へ進んでいる印象がある。そして、切るべきところは切る。だから、読んでてほとんどいらいらしません。いや、ほんと面白いですよ、佐藤通雅さんの評論。

 

話を戻すと、次に『斉唱』の第二番目の連作、「二つの世界――愛と死を周って」を見ていきたいと思います。岡井隆、24歳から27歳の歌です。冒頭の歌はこれです。

 

灰黄(かいこう)の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ  岡井隆

 

有名な一首。佐藤さんはこの歌を絶賛してます。「私はおどろく、かくまですぐれた一首がいきなり出てくることに。」と。

 

さてそれならば、どういう意味において衝撃的なのか。「アララギ」の系譜と近藤芳美の方法を超脱する糸口が、ここにいたってはっきりとみえてきたのだ。(p.105) 

 

おっ、ついに、「「アララギ」の系譜と近藤芳美の方法を超脱する糸口」! 待ってました。佐藤さんは、連作中のその次の歌と比べています。

 

  果肉まで机の脚を群れのぼる蟻を見ながら告げなずみにき

 

 机のうえに果物がある。甘い汁をもとめて蟻がのぼっていく。その景をみながら、君に愛を告げようとしてどうしても逡巡してしまうという。たぶん岡井自身の経験をしたじきにしているだろう。その点では「アララギ」の手法である〈事実〉にのっとっている。しかし〈事実〉の再現に満足せず、作者主体を立てようとしている点では近藤に親和している。この作品の到達点はそこまでであり、つぎの一歩をどう踏み出すかをなずんでいるのは岡井自身にほかならない。(p.105) 

 

なるほど、なるほど。この歌はアララギの方法とその延長線上である近藤芳美の方法まではたどり着いているが、そこまでだと。そして、それに比べて、

 

  灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ

 になると、「アララギ」からも近藤からもみごとに超脱している。「愛恋」は〈事実〉の尾を断ち切って、ある普遍を獲得している。しかも上句と交響してダイナミックな世界を造形している。(p.106) 

 

ということだそうです。つまり、〈事実〉から出発して(=アララギ的方法)、その〈事実〉に対する主体の知的な態度を示す(=近藤芳美的方法)にとどまらず、その先の、一首を普遍的なところまで届かせている、ということでしょう。前衛短歌の得意とする「象徴的方法」と言ってもいいかもしれません。

 

「灰黄」一首は、跳躍を宣言した最初の記念碑的作品だ。彼は、私的状況すなわち〈事実〉、もっと普遍的にいって〈実体〉から生じたことばを、観念の世界に超脱させる方法を手に入れたのだ。さらにべつのいいかたをすれば、〈事実〉によりかからないで、ことばでたたかう方法をしかととらえはじめた。(p.111) 

 

〈事実〉で終っちゃうと、戦前と一緒なんですよね。それに対して岡井さんたちの世代は、もっと思想を詠いたかった。そのための技法として、「観念の世界」へと行く方法を見つけた、とそんな感じでしょうか。

 

 岡井隆のみならず同時代の青年歌人は、「アララギ」を正統とする作風に批判を向けた。傍観的にまた求心的に時代をとらえる姿は、後退そのものにしかみえなかった。いま自分たちに必要なのは、身をもって新しい思想を生きることだった。批判的リアリズムにイメージしているのはまさにそれであって、作歌主体の存在しない歌は認めるところとはならなかった。必要なのは〈みる〉ことでなく、主体を先立てて〈生きる〉ことだった。(略)

 だが、ここまでならすでに近藤によって達成されている。そして青年歌人たちの先鋭的な部分は、近藤にあきたりなさを覚えていた。そこには当然ながら、大きなジレンマが生じた。なぜなら近藤にあまりにも熱く呼応したにもかかわらず、自分らが先鋭的になればなるほどその限界もまたはやくみえてしまうからだ。(p.116,117)

 

 

近藤芳美は、戦後の青年たちに期待されていましたが、同時に青年たちは、その方法にあきたらなさも感じていました。近藤芳美はぬるいんじゃないか、とそういう話です。

 

 この経緯を、田井安曇の「「アララギ」の系譜と作風」(『現代短歌考』不識書院所収)にみておく。「未来」創刊に集まった一群を、「芳美がいなければ歌など作る気にもなれなかった若者、また芳美がいなければ短歌を捨てていたにちがいない若者」といういい方をしている。私もまた「岡井隆らの前衛歌人がいなければ短歌を捨てていたにちがいない若者」だったから、この事情はよくわかる。田井はこのエッセイで「アララギ」の系譜をたどりながら、近藤の出現の意味を「戦中の体験から政治という概念を付加して独自の思想詠、時事詠の世界を切りひらいた」ところにみている。しかし朝鮮戦争や血のメーデーを経るにつれ、近藤の非革命者的部分が前面に出てきたという。そして、

 

  実は前衛ではない近藤が戦後ずっと先頭に立っていなければならなかったことは近藤には栄光であっても、歌壇には汚名にしかならないことだったのだ。自分は革命能力をもたず、それゆえ近藤を革命者と期待して集まった第一期同人の殆どは足踏みし、やがて歌を離れて行くものも現れた。

 

 という。こういう近藤批判にいたる経緯は、岡井隆にも共通している。

(p.117)

 

近藤芳美の方法は、「戦中の体験から政治という概念を付加して独自の思想詠、時事詠の世界を切りひらいた」点で新しかったが、「非革命者」的なところがあきたらない。要するに、単なる傍観者なんじゃないか、ということです。当時の政治に関心のある若者たちは、もっと直接的な政治への関与を求めていました。

 

それにしても、「芳美がいなければ歌など作る気にもなれなかった若者、また芳美がいなければ短歌を捨てていたにちがいない若者」という言葉。そして、それを評する佐藤さんの「「岡井隆らの前衛歌人がいなければ短歌を捨てていたにちがいない若者」だったから、この事情はよくわかる。」……。きますね、この言葉。

 

近藤芳美を批判するならば、自分たち若者はどうすればいいのか。それには二つの方向がありました。

 

ひとつは政治的主体の確立へとより先鋭化させ、それを表現の上位におこうとする考え方だ。日本のプロレタリア文学の少なからぬ部分は、この方法をとった。(p.118) 

 

ふんふん。つまり、もっと政治に直接的にコミットして、そのコミット具合を詠おう、ということです。共産党に入党したり、実際に政治活動をしていくことも、そこに含まれていることでしょう。文中にあるように、プロレタリア文学を考えれば、よくわかりますね、これが方向のひとつめ。

 

 もうひとつは、先鋭たらんとする姿勢を、ことばとして奪回しようとする方向だ。(p.118)

 

で、もうひとつはもう少し、ことばとして、つまり芸術的表現として昇華させようとする方向。岡井さんは悩んだ末にこちらの方向を選んだのだ、と佐藤さんは言います。

 

もし近藤からの脱出を前者の方向で考えるなら、〈事実〉によりかかった時事詠自体は問題にならない。近藤の政治姿勢の弱さを突けば、事たりた。そのようにしたがる気持ちが岡井になかったとはいえない。だが「近藤からの脱出」をめぐって煩悶したのは、前者の限界を予感し、後者をこそとるべきではないかと考えはじめていたからにほかならない。(p.118)

 

今回のブログの冒頭で、岡井さんがかなり〈事実〉に拠ってる、という話をしましたが、プロレタリア短歌とかは、さらにもっと〈事実〉に拠っているんですよね。で、それらの短歌は、現在ではやっぱりほとんど読めなくなってしまっています。それに対して、前衛短歌は、「ことばとして奪回」を目指したからこそ、時代を超えて残ったところがあった。

 

そして、実際に、岡井さんは政治的にはかなり共産党に接近しながらも、入党することなく政治的活動からは離れていきます。『斉唱』の二つ目の連作、「二つの世界――愛と死を周って」の次、三つ目の連作「斉唱」の頃の話です。

 

 一九五四(昭和29)年、二十六歳。共産党の経営する診療所、峡田(はけた)診療所に手伝いにいくようになる。「この診療所では、末端医療の実態を知ると同時に、共産党員たちの日常活動の一端を知ることができた。」と岡井は書いている。田井(安曇:堂園注)の説明によると、都市問題の集中点荒川区のやや南寄りにあり、「火葬場、汚水処理所、畜犬屠殺所を周辺に持ち、皮革業者と朝鮮人居住区が截然と分れ、小工場、零細工場がはてしない迷路をつくり、貧困はそこを靄のように蔽った。」という。

 翌年、岡井隆は慶大を「奇跡的に」卒業する。共産党にいちばん接近するが、結局入党することなく党からはなれていく。「斉唱」は、この年の産物である。(p.131) 

 

岡井隆26歳。かなり貧しい地域での医療に、医師として携わる日々です。そこで、共産党に接近しますが、結局入党はしなかった。

 

夜半旅立つ前 旅嚢から捨てて居り一管の笛・塩・エロイスム

 

この歌に対して、佐藤さんはこう言っています。

 

 なかなかに難解な作品だ。すでに四十年の時間がたち、時代の空気も剥落しているからいっそう難解になっている。しかしともあれ、いまから旅立とうとするものの、なみなみならぬ決意をのべていると知ることはできる。(略)

 さて、それなら岡井が旅立とうとしたのは、どこへ向かってだったろうか。直接的には貧困の巷にある診療所である。しかしいうまでもなく、診療所はひとつの具象であって、もっと抽象してつぎのように描くことができる。医学生としての何年かは、いわば現実社会を捨象した観念の日々である。そのなかで知るようになった政治思想もまた観念としての壮大さをもっていた。ストレートに突っ走っていけば頭が肥大化して、武力闘争に向かうこともありえた。だが岡井の出会った診療所は、観念への疾走でなく地上での実践、いうなれば両者の結合点なのだ。この場所は不可避的に危うさもはらむ。実践が政治思想のための〈方便〉になることもあるし、逆に実践にかまけているうちに初志を忘れて〈日和見主義〉におちいってしまうこともある。そういう危うさをはらんだ場所なのである。

 しかし角度をかえていえば、観念性にも地上性にも分岐しえない混沌を、〈思想〉として生きる地点でもある。天上と地上、制度と個人、政治と文学……このような二項対立の狭間にあって、一方を選択するをいさぎよしとせず、どら(ママ)にも分岐しない領域を自覚的にかかえこむ、そういう可能性も残している。(p.131,132)

 

 それまで学生だった岡井隆が勤めを始めた、それは、観念のみの世界から地上に降り、両者の混じる地点で格闘することです。また、政治に接近しながらも、そこから離れることは、政治のみでも文学のみでもなく、その結節点を探ることになります。つまり、佐藤さんはこの「斉唱」の連作で、岡井隆がそうした混沌とした地点に立ったと見ているのです。

 

ただ、そうした態度は、マジに政治に関わって活動している者からすると、「日和見主義」と見られてしまったりもします。この「活動家から疎まれる」というのは、わりと初期のころからずっと岡井さんにある特徴だったりします。

 

ナロードを〈われら〉と訳す試みも聞き古りて一つ布団に眠る

甲(よろ)いたる思想の底にたぎるもの個の憎しみに触れて黙しぬ

言いつのる時ぬれぬれと口腔みえ指令といえど服し難きかも

 

「斉唱」にはこんな感じの歌もあります。「〈われら〉」から距離を取り、恋人と一つの布団に眠る、「個の憎しみ」に注目する、党という組織腐敗を肉体性を使って表現し、その「指令」には従いがたいと述べる、いずれも組織に対して個を重視しています。みんな頑張って政治活動をしているこの時代にそういうことを言うのは、実は、かなりの緊張感があったんですね。

 

とりわけ政治の場面においては、権力に果敢にいどむのが正義とみなされるから、そこからの退歩は退嬰、日和見と蔑視される。こういう時代条件を考えるなら、岡井がここで「甲いたる思想」から距離をとって個に立つのは、緊迫度をはらんだ決意だったといわなければならない。(p.139)

 

「みんなで活動しよう」という時代に「ひとりでいたい」というのは、けっこう勇気がいったみたいです。あと、どうやら岡井さんは、思想以上に「群れるのが嫌」という生理的な感覚があるみたいです。「そもそも岡井は、もっとはやくからコミュニズムの集団的熱気への厭悪感を抱いていた。」「しばらく同じところにいると安定感が生じる、それがどうにもがまんならない、壊してつぎのなにかに移りたいという情動が、岡井には現在にいたるまで一貫している。」「それは倫理・思想でなく、情動に由来すると私には思われる。」と、この本の先のほうで、佐藤さんは言っています。

 

岡井は身をよじるようにして政治の論理から距離をとり、組織にゆずりわたすことのできない個を守護しはじめる。そして個の孤塁から組織に対してノンを投げかけていく。(p.138) 

 

そして、『斉唱』中の最後の連作、「Intelmezzo」です。この連作では、塚本邦雄からの影響が顕著になっていきます。 

 

制作年は一九五六年。この年岡井は二十八歳、インターンをおえて四月から北里研究所付属病院医局に勤める。診療所からはなれたわけである。作風のうえでも変化が目にみえてきた。塚本邦雄との交流がはじまり、その影響を強くうけ出したのだ。「自筆年譜」の一九五五年の項には「塚本邦雄と文通をはじめた。作風の変遷が顕著になった。」とある。(p.143)

 

前年から塚本邦雄との交流が始まり、岡井隆はその技法を吸収していきます。具体的には、その前の「斉唱」の時代よりも、さらに象徴的技法が際立つようになったことでしょうか。

 

 

母の内に暗くひろがる原野(げんや)ありてそこ行くときのわれ鉛の兵

立ち上がる一瞬われの手を借りて花売りの背にあふるる国花

 

これらの歌も有名ですが、確かに〈事実〉から離れ、より象徴っぽさが目立ってきています。

 

塚本邦雄に触発された方法意識が急速に前面に出てきたさまを、これらにうかがうことができる。(略)これまでの岡井が、政治的前衛と芸術的前衛の合一をめざしたとするなら、いま彼は前者を撤退して後者に賭けはじめたといえる。(p.144) 

 

「前衛短歌」ならではの方法論が熟し始めた、といったところでしょうか。ただ同時に、岡井隆塚本邦雄はやっぱり違う、ということも佐藤さんは言っています。ここ、ちょっと面白いです。

 

この果敢なこころみも、塚本邦雄に触発されていることは疑いない。ただし、まったく同じではない。塚本がデフォルメの世界を美学として構築する方向にいったのに対し、岡井はついに美学領域に両足をひたすことはできなかった。歴史や時代や現実からの超出をはかろうとしながら、ぎりぎりのところでどうしても切り捨てることができないのだった。この最後のところに残る部分を、甘さととるか人間性ととるかは即断できない。少なくともここでは、弱さであるとともに魅力であるといっておく。(p.145)

 

さらに、この本のもっと先には、こんな言葉もあります。

 

塚本邦雄なら、はじめから〈事実〉を捨象して、作品の自立に賭ける。しかし岡井の場合は、自立を志向しているようで、〈事実〉としばしばニアミスし、その危うさをむしろたのしんでいる傾向さえある。これは現在も継続されている。なぜこういうことになるかといえば、「アララギ」を出自とする歌人らしく、〈事実〉を契機にして発想するからだ。例外はあろうが、大方はそうだといってよい。反面、作品のことばは、〈事実〉から超脱した域へとたえず上昇しようとする。ここに生ずる力動性こそが、岡井短歌の魅力といってよい。(p.261) 

 

あー、これは確かになー、と私は思いました。さっき冒頭で、塚本よりも岡井隆はわかりにくいと書きましたが、やっぱり〈事実〉に拠ってる割合が大きいんですね。で、あくまで私の体感ですが、岡井隆塚本邦雄、どちらも現在の若い歌人への影響は大きいのは確かですが、岡井隆より塚本邦雄のほうが、やはり表面的な影響はより大きいというか、通貨として流通している感触があります。

 

閑話休題。『斉唱』をまとめると、次のようになります。

 

岡井が模索した場所は政治か芸術かではなく、どちらをもふくむ混沌域、換言すれば政治が芸術であり芸術が政治である領域、外部が内部であり内部が外部である領域だった。それはまた政治思想でも芸術思想でもない、〈思想〉という以外ない領域でもあった。『斉唱』の岡井が志向しかつ試行したのは、〈思想〉をいかにしてことばとして奪回できるかという壮大な課題だったと、いまにしていうことができる。(p.146) 

 

もっかいまとめると、初期歌篇『O』のアララギ的世界、つまり感性の世界から知的な判断の世界へと移るために、岡井さんは近藤芳美に共鳴します。しかし、次第に近藤の方法にも満足できなくなります。なぜなら、近藤さんは時代状況をクールに見ているだけで、主体を持って政治に関与しようとしなかったからです。そこを当時の青年たちは批判して、具体的な政治活動こそが重要だ、と主張していきます。岡井さんも一度は政治活動に接近するものの、結局はそこから離れ、言葉の世界を目指し始めます。と、同時に塚本邦雄との交流が始まり、より政治と芸術が混ざり合うような境地に入っていく、とまあ、こんな感じでしょうか。

 

 

はい。ここまででこの本の前半2章です。実は今回、続く第2歌集『土地よ、痛みを負え』、第3歌集『朝狩』と、最後までやろうと思ったんですが、いいかげん疲れてきました。あと、この本は佐藤さんがその迷いも含めて、本当に丁寧に丁寧に記述を進めていますから、まとめていくうちに、なんだかうまくまとめられないというか、まとめてしまってはいけないような気がしてきたので、これくらいでストップしたいと思います。

 

あと、この続きでは、『土地よ、痛みを負え』『朝狩』だけじゃなくて、評論もかなりがっつり俎上に上げられています。岡井さんの初期評論集とか、『現代短歌入門』とか、『短詩型文学論』とか、吉本隆明と岡井さんの定型論争にまで触れていて、ほんとすごいです。『現代短歌入門』と『短詩型文学論』の相関とか目から鱗でしたし、定型論争は、当時の若者がこの論争をどういう距離感を持って見ていたのかがとても良くわかって、単なる短歌史の本読んだだけじゃわからないことが書いてあります。

 

いやほんともうすごい本なんで、ちょっとでも岡井隆に興味ある方は、ぜひ読んでみてください。それでは。