短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第20回 佐藤春夫『晶子曼陀羅』

事実か、真実か、それとも物語か 土岐友浩

晶子曼陀羅 (講談社文芸文庫)

晶子曼陀羅 (講談社文芸文庫)

 

 

与謝野晶子といえば歴史の教科書に「君死にたまふことなかれ」という詩が載っているから、反戦表現者というイメージを抱いていた。

しかし平塚らいてうとの論争や、日本で初めて男女共学を実現した文化学院の創設に加わり、その学部長に就任したことを知ると、日本史的にはむしろ、男女平等を論じ、女性の自立に貢献した人物として記憶されるべきではないか、という気がしてくる。

 

1942年には出征する四男を激励するような歌も詠んでいるのだが、晶子の戦争観をここで論じたいわけではなく、この四男の名前が「アウギュスト」だったことに僕などは思わず目が行ってしまう。

 

アウギュスト。

 

パリで彫刻家のロダンと会ったときに感銘を受け、晶子はそのころ身ごもった子に、この名を授けたそうだ。もちろん鉄幹との間の子どもである。

戦時中に「君死にたまふことなかれ」を発表したことよりも、日本人らしさなどいっさい気にしないストレートな命名センスが晶子のすごさなのだと、僕は思う。

 *

『晶子曼陀羅』は、小説である。

佐藤春夫が本書の冒頭で「これは勿論、晶子伝ではない。また晶子論ではない」と読者にしっかり念を押しているから、それに従わないわけにはいかない。

 

佐藤は中学時代から「明星」に短歌を投稿し、上京後も与謝野鉄幹と晶子の世話になっており、言ってみれば身内の人間だった。

そのため小説の事実関係をめぐる問い合わせが絶えなかったようで、佐藤は「著者から読者へに代えて」という長いあとがきで、こう答えている。

自分は女主人公をはじめ多くの実在の人物を取扱うに就て作者が事実以上の真実を伝えたいためにする虚構をそっくりそのまま事実と思い込むそそっかしい読者にこれは事実談ではなく小説というつくり話ですよと警告して置いたもののつもりでしたが、そそっかしい人たちはどこまでもそそっかしいものと見えてやっぱりあのフィクション(作り話)を事実と考えて拙作を小説ではなくさながらに晶子伝のように読みちがえている向もあるらしく、そういう意味の訂正を要求したのや、事実の詮議にかげ口をまじえた文学史家まがいの講話までもあったとか、(以下略)

 

まだまだ続くのだが、佐藤が書きたかったのは「事実以上の真実」だった、という部分だけ押さえておけば十分だろう。

解説の池内紀の表現を借りれば「小説と銘打った詩的幻想の試み」の向こうに、佐藤は詩人の像という「真実」を描こうとした。

 

事実か、真実か。

 

どちらを追うのも、決して間違っているとは思わない。

 

だが、そうではない読み方もある。

というようなことが言いたくて、今回、この本を取り上げた。

 

『晶子曼陀羅』は講談社文芸文庫でしかも読売文学賞受賞作だというから、ハードルが高そうだけれど、もともとは新聞小説なので意外と読みやすい。

書き出しを見てみよう。

「ほう、どなたかと思えば、これはよくこそ。駿河屋さんのいとはん(令嬢)か。何はともあれ、まあお上り。」

と主人の樋口氏の言葉に、小ざっぱりとした荒い久留米の袷に紫繻子の半幅帯を締めた小娘は、無言で一礼すると、既に勝手を知ったもののように、すたすたと玄関に上りこんで、

 

NHKの朝ドラか大河ドラマの始まりのようではないだろうか。

この「小娘」とは、もちろん晶子のことだ。短い描写で、晶子の気質がさりげなく書かれている。

 

読売新聞紙上で『晶子曼陀羅』の連載が始まったのは、19543月。

幼少期から始まって、晶子が鉄幹と出会い、山川登美子との三角関係など紆余曲折を経て結婚。最後の場面は、ヨーロッパに留学した鉄幹を追って晶子がパリまで会いに行ったところで、だいたい34歳くらいまでの前半生が書かれていることになる。

その後の社会的な活動については、ほとんど触れられていない。

 

言わば佐藤が書いたのは、詩人としての与謝野晶子であり、そして、ちょうどそれは「明星」の栄光と衰退の物語に他ならなかった。

 

「明星」は当時、最高の文芸誌という評判をほしいままにしながら、毎回高利貸からお金を借りて発行しなければならなかったという。

こういう本作りの苦労話には、個人的に涙が止まらないのだが、それはともかく、興味深かったのは、というか読んでいて何度も驚いたのが、佐藤が与謝野夫妻に対して、けっこう辛辣な書き方をしていることだ。 

 

たとえば『みだれ髪』のことを、こう評している。

その節度のないあまりに生々しい実感と、奔放に原始的な表現とを、あっさり情熱的と評価して来ているが、実はホルモンがまだ完全に昇華し切らないで幾分の原形をとどめた詩歌の半獣半神体とも名づくべきヒステリックな風体で、青春の狂乱をそのままなのがこの集に独自な美である「みだれ髪」とはまことにいみじくも名づけた。

  

「明星」を代表する歌集に贈られる言葉として「節度のない」「ヒステリックな風体」とは、なんともきつい。

 

他にも「明星」のメンバーは、晶子は「白萩の君」、登美子は「白百合の君」と、それぞれ花の名前を付けて呼び合い、その中心にいた鉄幹は「星の子」と呼ばれていたのだが、佐藤は「青春の新興宗教にも似たこの新詩歌の集団」云々と、ずいぶん突き放した言い方をしている。

 

このように佐藤は「明星」の歌人たちを美化することなく、きわめて醒めた眼で批評した。

(鉄幹は)一種の選民思想を抱いた理想家であった。彼の理想とする詩歌の革新という天職のためには田舎の豪華の一軒や一族の滅亡ぐらいは意にも介しなかった。

(中略)

そういう選民思想で、鉄幹の求めているのは単純な愛人ではなく、ともに新しい詩歌を創造するに足る素質のある「才たけて顔(みめ)うるはしくなさけある」相手なのであった。

(中略)

いずれは台所の煤のなかに、ばら色の頬の色褪せてゆく少女たちのなかから、せめて一人でもひろい出して、その青春を思う存分に生きさせ、そこから互に新らしい詩歌を生みたい、生ませたい。玉の如き愛児は設けないでも、いばらに埋もれた詩歌の古道をともに新しく拓くべき人がほしい。

(中略)

こういう神がかりは有害だから世俗の悪むところとはなるが、一部の信仰者も出ないではない。

現に帰京後も鉄幹に手紙を競争のように書き送る登美子、晶子がそれである。

  

このくだりに、鉄幹の悪が、絶妙に書き尽くされていると思う。

 

新時代の詩歌を理想に掲げ、それを実現するためには、どんな犠牲もいとわない。

悪という言葉が強すぎるならば、業、あるいは、厄介さ。

 

「いずれは台所の〜」以下の一文は、鉄幹の醜い思い上がりを容赦なく書き立てながら、しかしどこかに詩歌に殉じた人間への同情がにじみ出ている、あまりに悲しい文章ではないだろうか。

 

「明星」の成功によって鉄幹の夢は実現したが、現実の生活は困窮を極めた。

その「明星」もやがて時代の潮流に取り残され、人々は次第に離れていった。

 

晶子は名を成したが、「明星」を失った後、かつての「星の子」だった鉄幹のもとには、何も残らなかった。

仕事もないので、多忙な晶子をよそに、ひとり庭先で蟻を殺して遊んでいたという。

その変わり果てた夫の姿を見て、晶子は考える。 

名声によじのぼってやっと支えられていた蔓草のような夫の自信が名声の失われると一しょに無くなってしまっているのは歎かわしい。あれほどの大才を抱きながら、どうして自分ひとりで自分を信じることができないのであろうか。自ら信じることの篤い晶子は、進んで夫の蔓草のような自信を支える手になろうと思ったが、うっかりそんな事を云い出せば、また晶子が世の名声に心おごって、夫を凌ぐような態度に出ると依怙地になるにきまっている。自分は誤って名声を得たおかげで幸福を失った。自分の欲しいものは幸福であって、決して名声ではない。もし自分に何かの名誉がほしいとすれば夫の唯一の愛されている弟子というだけで沢山なのである。何で夫と名声などを争おうか。こういう事は今に追々と夫に納得してもらうとして、今はもっと具体的に、きょうこのごろの悪い生活から夫も自分も一刻も早く抜け出すのが急務である。

 

この述懐は、すべて佐藤の想像なのかもしれない。

しかし、虚構を恐れず、平明な言葉であざやかに詩人が生きた時代を書いた、やはりこれは小説であり、優れた歌書なのだと思う。

第19回 小池光『街角の事物たち』

永井祐

こんにちは。

 

今日やるのは!

 

 

人は「そとづら」が9割

人は「そとづら」が9割

 

 

ではなく!

 

 

街角の事物たち (五柳叢書)

街角の事物たち (五柳叢書)

 

 

小池光『街角の事物たち』(五柳書院)です。

実は去年はじめて読んだのですが、

これは名著のたぐいですね。

91年刊。小池光の最初のエッセイ・評論集です。

いろんな場所でいろんなテーマで書かれたものを集成してある本で、統一的な

テーマがあるわけではないのですが、

これを読むと、当時の小池さんの問題意識がよくわかる、ユニークな発想と洞察

に満ちた本です。

去年、わたしは『短歌』(KADOKAWA)という雑誌で半年間時評をやっていて、

そのときに冒頭の「団地暮らし、感想」というエッセイについて書いているので、

今回は別のやつをやりたいと思います。

 

二番目に入っている「笑いの位相」。

これは、奥村晃作論になっています。

 

ちょっと前置きで穂村弘『短歌という爆弾』から引用します。

 

不思議なり千の音符のただ一つ弾きちがへてもへんな音がす

次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く

「東京の積雪二十センチ」といふけれど東京のどこが二十センチか

舟虫の無数の足が一斉にうごきて舟虫のからだを運ぶ

 

これらの作品には、奥村晃作の怖さがよくあらわれている。目の前の事象に対する限度を超えた意識の集中が、先入観や常識といった日常的な認識のフレームをばらばらにして、いわば聖なる見境のなさといったものを生み出している。

 

 

穂村さんはこのような心のあり方を「灼熱の心」と呼びます。

作品と合わせて、言ってることよくわかりますよね。わたしも奥村晃作のイメージってこんな感じでした。

が、「笑いの位相」を読むと、ちょっと様子が変わってくる。

 

はつきりとこつちがいいと言ひくれし女店員が決めしボールペン持つ

ヒトゴロシ、窃盗などははつきりと悪なるゆゑにわれは成さざり

気象庁天気予報に従ひて今日も要なき傘持ちありく

 

(略)滑稽だが深刻の翳りがある。

自分自身をつかまえきれない、宙ぶらりんの存在感が正直に、マトモに(あるいはマトモ過ぎる位に)歌われている。傘を持つか否かを決めるのは気象庁であり、二本のボールペンをどっちにするかを決めるのは女店員である。確信を持ってジャッジ出来るのは、せいぜいヒトゴロシやドロボーが悪いということだ―というのだから、わたしたちは頼りない四十男の正直な告白に笑わされるが、それが自分の姿でもあるのに気付くのに大した時間はいらない。わたしたちは、多かれ少なかれ、みんなそういう状態で生きている。(略)

今、走ることが大変流行している。走ることに限らず、色々な肉体鍛錬が先進国で例外なくブームである。

その理由は、おそらく、走ることで自分自身をつかまえられるのではないかという幻想が、彼らを走らせている。自分が自分の支配者となる感覚が欲しい。

奥村晃作のとまどいと不安は、この人々をジョギングに駆りたてる衝動と同じところに根ざしているといってよい。だから、わたしたちは笑うけれども、その笑いはひきつったものにならざるを得ない。

(略)

そして、必死になって走る人が、どこか深い所でおかしく見えるように、奥村晃作の姿もおかしく見える。この歌集のおかしさは、つまるところ、そのおかしさである。わたしたちは笑うが、笑いつつ、同じ袋小路にいる自分を発見させられる。

 

わが専門は短歌にてわれは万葉集をかく通読す七、八、九…回

どの歌がどこにあるかがわかるまで万葉集をわれは読むなり

旧かなの表記で歌を作り過ぎ散文書きつつ「うえ」を「うへ」と書く

 

(略)ここで歌人は「専門」なる概念(?)を持ち出す。短歌が専門であると自己規定することで、自分をつかまえようとするのである。いいかえると、こう自問自答している。「奥村晃作とは何か?」「それは、短歌を専門にする者、である」と。その答で自分を納得させようとする。(略)

それはおそろしく空疎な思い込みといわなければならない。この空疎さは何ものかによって物質的に充填されねばならず、そこで奥村晃作万葉集を読むという行為に出る。(略)充填への欲求はのっぴきならないものであるが、それが、こういう意味での「万葉集」であることが、滑稽であり、馬鹿馬鹿しく、痛ましい。丁度ジョギングにのめり込んだ人が、地球を一周するだけ走らなければ止めないと決意するのとひどく似通った必死さであり、おかしさであり、痛ましさである。

(略)

この歌集のおかしさは、だから、追いつめられた現代人のおかしさである。

 

 

また引用長くなっちゃったんですけど、これ読んでなるほどな、と思うんです。

もちろん引用歌の傾向は(たぶん制作時期も)違うんですが、穂村さんの論を読んでいる限りだと奥村作品は「聖なる」変な人、みたいに見えます。でも、小池さんはそこに、「灼熱の心」の背後に、むしろ不安で追いつめられた者の姿を見出すんですね。そしてとても同情的に、共感的に書かれています。

『街角の事物たち』を読んでいると、当時の中年男性たちのピンチとか焦燥感みたいなものがありありと描出されていて興味深いです。それはなんだろう、終身雇用が前提の仕事をしながら家のローンを何十年も払っていくような人生における焦燥感、消費社会化の進行による価値の変容に取り残されていく危機感とか、そういうものですね。今からすると見えにくいし、同情もそんなにされなさそうなものです。しかし、だからこそ気になる。

 

もう一個、「リズム考」という韻律論をやりましょう。

これはたいへん具体的な論で、必読だと思います。

前半は短歌一首のリズムの解析。くわしくは読んでもらうとして大事なのは、

短歌形式とは、三十一音が等拍でただ並んでいるのではなく、「五句三十一音」

というだけでは表し得ない「短歌のリズム」が存在していること。(本文には

楽譜まで付いています。)そしてその肝心なところは、

 

(1)初句と三句、つまり五音の句をゆっくり読み、二句四句結句の七音を速く読む。

(2)初句と三句の終わりには休止がある。

 

これを踏まえて後半は破調の分析になります。

小池さんにとって短歌の韻律のポイントは、「短歌らしさ」とその「裏切り」とのあいだの緊張関係にあります。なので、明らかな「裏切り」として、破調が分析の対象になるんですね。

各句の増減の破調を、例を引用しながら読んでいくのですが、特に納得したところだけ紹介します。

 

A1・初句増音

(「六七五七七」の例)

(略)

(「七七五七七」に比べて)「六七五七七」は抵抗力が大きい。六音が短歌五小節のどのリズムをもってきてもおさまりにくいからである。あまりにも短歌らしくなく始まったため、二句以下との対比は一層鮮かとなるが、その分だけ下手をすれば異和感分裂感チグハグ感も与えやすく、例歌も少ない。

 

いましがたの雨のなごりは曲線を持つ屋蓋にひかりを引けり 佐藤佐太郎

 

この一首はぼくの知る限りでの数少ない成功例のもっとも見事なひとつで、「いましがたの」という吃音的イントロが、完璧ともいえる二句以下の短歌らしさによって実に小気味よく逆転されてゆく。特に「曲線を持つ屋蓋に」の句またがりに注意したい。またがったことでまこと曲線を感じさせるリズムが生じた。その流麗さが「いましがたの」の舌足らずなリズムと拮抗しあい、不思議な緊張した空間を現出せしめているといえる。「いまほどの」「さきほどの」ではこの一首の美しさは半減する。意味性によってではなく、リズムにおいて半減してしまうのである。定型の有機性ということ、二重の裏切りによる定型のダイナミズムということを強く感じさせる一首であろう。

 

 

A2・三句増音

(「五七六七七」の例)

 

白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり 高野公彦

 

(略)初句、三句は休止符があるため、増音はこの休止をうずめる方向でまず行われ、その結果短歌らしさに対する抵抗体として、強く機能するのである。(略)ここでは、三句六音の強いブレーキが<意味性>という全く別の機能と交錯しあい、微妙にそのどぎつさの角をけずり落としているのに注意したい。つまり「草の園に」の六音のリズムが、「自転車のほそいつばさ」という幻視的光景(つまり意味上における短歌らしくなさ)を呼んでくる伏線として機能しており(略)いいかえれば必然性があるのである。意味上からは「草の園に」の「に」は省略可能である(略)五音におさめるのは簡単にできる。だからと言って、

 

白き霧ながるる夜の草の園自転車はほそきつばさ濡れたり

 

では歌は「死に体」である。「自転車のつばさ」があまりに唐突に出現しすぎる

 

 

A3結句増音

 

(結句増音は)余情に対するブレーキ、と書いたが、これは実際には過度の叙情性に対する「流れどめ」として有効性を発揮する。この型の破調の第一の効力がここにある。例をみよう。

 

亡き姉をこころに持てば虹の脚ほのかに秋の海に幽(かく)れたり

亡き姉をこころに持てば虹の脚ほのかに秋の海に幽(かく)れぬ

 

前者が『汽水の光』より引いた高野氏のオリジナル、後者はそれを筆者が定型化してみたものである。並べて見ればわたしのいわんとするところは明らかになると思う。死んだ姉さんのことをおもっていると虹の脚がほのかに秋の海へ消えて行った、というイメージは魅力的であるがその美しさは繊細にすぎ予定調和気味であり、いわゆる短歌的叙情のワクの内で容易に自己完結してしまいかねない際どさを持っている。韻律の流速の中でやすらかに溺れてしまいそうなイメージである。「海に幽れたり」の八音はこの流れに投じられた垂鉛の役割を果して、一首に有機的な勁さを回復しているのだ。まことに的確な計算であると思う。

 

 

どうでしょう。

ついていけるでしょうか。

極論すると定型感覚って時代によって変わるし、個人によっても違うと思います。

結句が七から八になったから甘過ぎを免れた、と感じられない人もいるような気がします。

わたしも「リズム考」でピンとこなかったところはあるし。

でもこれを読むと、小池さんの中にはおそろしく繊細な意味と音と型の宇宙があるんだな、

ということがなんとなくわかりますよね。マスターの模範演技みたいな感じで。

 

短歌と直接関係ないエッセイもすごくいいんですけど、今日はこのあたりで。 

 

そういえば今週土曜、8/13にシンポジウムのパネルに出ます。

くわしくは下のURLを。

http://9313.teacup.com/tankajin/bbs/463 …

ピーナツの第二回でも取り上げた、森岡貞香についてのものです。

お時間あればぜひ。

見かけたら声かけてもらえるとうれしいです。

第18回 大岡信『一九〇〇年前夜後朝譚』

 「短歌」と「和歌」の違いってなんだ 堂園昌彦

一九〇〇年前夜後朝譚―近代文芸の豊かさの秘密
 

 

 こんにちは。

 この「短歌のピーナツ」を始めてから、詩歌関連の本がずいぶんと目の中に入るようになってきた。以前も目には入っていたのだろうが、なんだかそれらの本は自分にはよそよそしい感じがして、手に取るのが躊躇われたのだ。しかし、今では古本屋で詩歌に関する本を見つけると、とにかく片っ端から購入して、いそいそと持って帰るのが何よりも楽しみになっている。この本もそうして見つけた本のひとつだが、面白かったので紹介したい。

 「後朝(きぬぎぬ)譚」とあるけれども、別に恋愛詩の話ばかりではなく、1900年前後の文化に対する四方山話、というくらいの意味らしい。大岡さんは100年ほど前の時代がいろんな理由で重要だと考えたようだ。それは次のような言葉で説明されている。

私たちはこんなに日々忙しく立ち働いているのに、それにまた長寿社会だそうだのに、それにしてはなぜそれほど精神的に快活じゃないのだろう、という素朴な疑問がこの本の出発点にあります。一世紀前の思想家も文学者も、私たちより短命で病苦にもさいなまれていた人が多かったのに、私たちより本質的に快活で元気がよかったと私は感じています。それは「なぜ」なのか。その疑問を少しでも明らかにしたいと思ったのでした。(p.344)

 「一世紀前の思想家も文学者も、私たちより短命で病苦にもさいなまれていた人が多かったのに、私たちより本質的に快活で元気がよかった」、これは『短歌の友人』などで穂村弘さんがずっと言っていることと同じですね。ほんとに、これはいったいなんでなんだろう、と思う。

 この本の中でも、はっきりとした答えは出ていない。でも、やはり言えるのは、100年前はあらゆるものの転換期であり、次々にシステムが変わっていくこと自体に非常に大きなダイナミズムがあったということだ。で、この本は、そうした文芸ジャンルにおける変化をいろいろな側面から照らし出そうとした本と言える。網羅的な内容ではないけれど、大事なことがいくつもいくつも起きていたことは、うかがえるようになっている。

 タイトルに「一九〇〇年前夜」とあるように、1900年=明治33年くらいに起きたことが語られることの中心だ。日本の「詩」が劇的に変わった島崎藤村の『若菜集』が1897年=明治30年で、正岡子規の「歌よみに与ふる書」が新聞紙上に発表されたのが1898年=明治31年です。要するに、1900年前夜=明治30年前後というのは、明治に入って埋め込まれた変化の種が、じわじわと成長していって、ようやく革命となってあらゆるところで噴出し出した時期なんですね。

 内村鑑三岡倉天心坪内逍遥らの行った仕事についてなどの箇所も興味深かったのだが、やはり私は短詩型に関する箇所が気になる。ずばり、この本で一番面白かったところは、「短歌」と「和歌」の違いに関する箇所だったので、それを紹介したい。

 和歌と短歌と、どう違うのか。

 同じものを単に別の呼称で呼んでいるだけなのか、それとも名前の違いは中身の違いによるものか。

 私は和歌史・短歌史に通暁している人間ではありませんが、日頃それにふれる問題について書くことがあるため、時々右のような質問を受けることがあります。そこであらためて考えてみると、この名称の問題は一見些事のようですが、案外そうでもないことに気づきます。つまりここには、日本の詩歌伝統における前近代と近代の分水嶺がいったいどの辺りにあったかを考える上で大事なポイントになるような問題が隠されていると思われるからです。名称の違いは、単なる呼び名の違いでなく、「うた」の実質の違いに深く関わっているのです。(p.135) 

 近代において57577の形式を持つ和歌文学が刷新され、結果、「短歌」と呼び名が変った、これはある意味では常識とも言えることだけれども、実際にはいったいいつごろ「短歌」という呼び名になったのか、そして、「和歌」と「短歌」は結局なにが違うのか、これにしっかりと答えるのは、意外と難しいのではないだろうか。

 まず、枕として大岡さんは坂本龍馬の和歌を取り上げている。

 とある雑誌の、読者からの質問に答えるコラムで、

大岡信のエッセーを読んでいたところ、坂本龍馬の歌を『短歌』と呼ばず、終始『和歌』と呼んでいた。そこに引用されている龍馬の歌を見るに、現在の短歌となんら変わらないように思われるが、なぜそれを和歌と呼んで短歌と呼ばないのか説明して下さい(p.137)

と、質問を受けた。なるほど、改めて考えると不思議だ。「龍馬の時代には、まだ『短歌』と呼ばれてなかったから」とざっくりと答えてもよいのだが、たぶん、質問者が聴いていることは、もう少し細かいことだろう。大岡さんは回答として、次のような文章を書いている。

 文学史のおさらいをするような回答はあまりしたくないので、まず次の引用文をお読み頂こうと思います。筆者は明治十年生、昭和四十二年没(九十歳)の歌人窪田空穂。「作歌の跡を顧みて」という昭和十二年執筆の文章で、『窪田空穂全集』第八巻にあります。

 おっ、窪田空穂が出てきた。空穂は以前の回で長く取り上げて親しみがあるので、私はなんとなく嬉しい。ちなみに、大岡信の父は歌人であり空穂の弟子で、その縁で大岡さん自身も小さい頃から空穂と親しく付き合っていたらしい。旧制高校に入学するときの保証人になってもらったり、就職のときに相談に行ったり、困ると空穂に会いに行くという、大岡さんにとって頼れるお祖父ちゃんのような存在だったそうだ。

 これはこの本には出てこない、完璧な余談。で、続いて大岡さんは空穂の文章を引いている。先の文章に続く部分。

 まず冒頭に、

 「明治三十年代のはじめ、我々が歌に関心を持ち出したころには、今いふ『短歌』は『和歌』といふ名で呼ばれてゐた。これは漢詩に対しての名で、大和即ち日本の歌の意である」。

 空穂はこのあと、「和歌」が「短歌」に名称変えになってゆく経路を、まことに興味深い観察と体験的回想によって論じていますが、その細かい内容についてはここではとても引用できません。ただ一つ挙げておけば、明治三十年代はじめという時期が、明治二十七・八年の日清戦争における日本の勝利に続く時代だったことを指摘している点です。(p.138)

 空穂が短歌を作り始めたのは、明治三十二年、22歳のとき。地元の小学校の代用教員となり、そこに赴任してきた1歳年上の歌人太田水穂に「短歌おもしれーから、やってみろよ」とかなんとか言われて歌を作り始めた。その後、子規のところに投稿したり、鉄幹のところに投稿したりなんかして、「明星」に入ったりする。そういうスタートだが、それはともかく、この頃はまだ「短歌」という名称はなく、「和歌」とみんな呼んでいた。

 そして、大岡さんも言っているように、「日清戦争の日本の勝利」が出てくるのが興味深い。

 つまり、「和歌」という名称は長い間「漢詩」を意識して用いられてきたのだが、その先進文明の産物「漢詩」の本家本元たる清国に対して勝利をおさめたとき、「にわかに高まってきた国民の自尊心」が、「和歌」という名前の再検討をうながす結果となり、「国歌」「国詩」「短詩」「短歌」といった名前がいろいろ試みられたのである、と空穂は回想しているのです。(p.138)

 これ、ちょっと驚いた。現代短歌を書いている歌人に向かって「和歌やってるんだよね」と言うのは、「ここで一句!」と言われるのと同じくらい歌人を嫌がらせることになる、一種のあるあるネタなのだが、「和歌」が「短歌」になった背景にこうしたナショナリズム的な要素があったとはまったく知らなかったので、びっくりした。

 もちろん、「和歌」が「短歌」になったのは、ナショナリズムだけではなく、もうひとつの強い影響があった。

 意外なところで伝統詩歌の名称の再検討とナショナリズムの結びつきがあったことになりますが、もちろんこれが最終的に「短歌」に落ち着くまでには、なお他の要素もからんでいました。その一つは、当時島崎藤村らの登場によって青年たちの心を一挙につかんでしまった「新体詩」(現在のいわゆる現代詩のご先祖)の出現です。

 新体詩は西洋の詩の影響を全面的に受けて出発しました。かつての先進文明の精華である「漢詩」に代わって、今度は洋風の「ポエトリー」が歌人たちの前に立ちはだかったわけです。「和歌」の名は、ここでもあっというまに影が薄くならざるを得なかった。

 「うた」という言葉は古代からずっと存在し、愛用されてきましたが、この大和言葉ではどうも新時代の詩的表現にしっくり来ない。いろいろな試みや再検討の末に「短歌」という名前が自然に定着していったというわけです。(p.138)

 これはわかる。文芸ジャンルの革新は短歌だけで起きていたわけではないから、やはり、相互に影響を受けている。で、いろいろ読んでいると、当時の和歌革新にはこの「新体詩」が大きく関わっていたようだ。わたしのざっくりした理解だと、

新体詩の登場」(明治十年代)

「それに影響を受けた様々な試み」(明治二十年代)

歌よみに与ふる書」(明治三十一年)

という流れみたいだ(「新体詩」については、またあらためて別の回で取り上げたいと思ってます)。 

 私が幕末の坂本龍馬の「古今調」の歌について書いた時、終始それらを「和歌」と呼んだのは、以上のような歴史的背景に立ってのことです。正岡子規が和歌革新に決定的な一石を投じた有名な「歌よみに与ふる書」をご覧になってもわかることですが、子規はこの中で常に「和歌」の語だけを使っています。この文章が新聞「日本」に連載されたのは明治三十一年早春のことでした。「短歌」の語は、革新家子規にとってもまだ馴染みの薄い名称だったのです。(p.139)

 「歌よみに与ふる書」でも「短歌」ではなく「和歌」だった(読み返してみたらほんとにそうだった)というのは、強力な傍証ですね。なるほど、面白い。

 経緯は以上のような感じだが、「和歌」と「短歌」の中身の違いはなんだろうか。大岡さんは、この雑誌コラムの話に続いて、コラム中では引用する余裕のなかった坂本龍馬の実際の和歌を取り上げている。こんな歌だ。

 

桂小五郎揮毫を需めける時示すとて

ゆく春も心やすげに見ゆるかな花なき里の夕暮の空  坂本龍馬

 

 この歌は晩春のおだやかな夕暮れを詠んだなんてこともない歌なのだけれど、おそらく背景に『古今集』の次の2首を元にしている。

 

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平

久方のひかりのどけき春の日にしづごころなく花のちるらむ   紀友則

 

 どちらの『古今集』の代表的名歌だけれども、龍馬はそれを下敷きとして、「晩春、桜も散りはてた花なき里の穏やかさ、やすらかさを、『これもまたいいではないか、小五郎よ』と言っている」ということだ。

 他に大岡さんが挙げている坂本龍馬の歌も、いずれも古典的知識をもとにして、題詠の基本にのっとり、技巧を凝らしている。しかも、これらの歌は座興か旅行先の即吟であり、ふだんの龍馬の教養がそのまま出ている歌たちだ。

 はたちを過ぎて日も浅い土佐の剣術使いにしては仲々のものじゃないか、などと冷やかしてすますわけにもゆかないほどの古典和歌の嗜みがこの人物にはありました。そういう基礎教育を彼に与えたのは、おそらく彼の姉乙女を中心とする家の伝統だったと思われますが、こんな具合に『古今集』伝統を実践的に身につけていた若者であれば、今日で公卿貴族たちと面談しても、イナカモノの気後れをいだく理由はなかったと思われます。同時代の公卿貴族で、龍馬の和歌程度の歌でも即吟できた人は、たぶんごく少なかっただろうからです。(p.143)

 つまり、龍馬の歌は当時としても教養の高さを示すものであり、それは現実的に他者と交渉する際にも役だっただろう、ということである。

 和歌ができるということは、ただちにそのような実際面での効用を意味していたのです。それが、近代短歌を作る場合との、実に顕著な相違であったことは、いくら強調してもしすぎることはありません。すなわち、普通私たちが考えやすい道筋とは逆に、古典「和歌」というものは、単なる煙霞の癖(へき)、毒にも薬にもならない非現実世界への優遊といったものではなく、時にはまことに生臭い虚々実々の取引き、丁々発止の力競べそのものとして、現実世界で活用されるものだったのです。(p.143)

 「『うた』は単に内部から湧きあがる素朴純真な感動や感傷の表現ではなく、その人物の知的・情操的背景を示す『記号』なのでした。」と大岡さんは述べている。つまり、和歌は「現実的に役に立つもの」なのである。

 そうして考えてみると、明治期の和歌革新はこのことに関わっている。

 正岡子規与謝野鉄幹が成しとげた転回は、この観点からすれば、詩歌というものからそのような意味での、現実的効用(注:原文傍点)の側面をできるだけ骨抜きにすることであり、長期的視野においてこれを見るなら、現代の短歌、俳句、現代詩にまで滔々として浸透している芸術のための芸術(注:原文傍点)という観念を、伝統詩歌のボディーの中へ新たに注入することだった、と言うことができるのです。(p.144)

 和歌を現実に役に立つものから、役に立たないものへ。それが「和歌」から「短歌」へと移り変わった明治時代の実験であった。短歌が「自我の詩」になったということはそういうことだ。実際、現代でも短歌を学んだからといって社会的な地位が上がることはまず考えられない。それは、このころの和歌革新に原因を負っている。余談だが、「歌会始」などの短歌と天皇制の関わりは、この「現実で役に立つ和歌」が奇妙な形で残ったものと言えるかもしれない。

 またこれも脇に逸れるが、現代の短歌において「言葉遊び」や「折句」が、短歌をあまり読まないひとには「すごい」と思われるけれども、短歌プロパーの世界ではそれほど好まれないのも、ここらへんに関係があるような気がする。つまり、これらのものは和歌の世界では、「教養」や「機智」を表す、現世利益、現実的に役立つものだったからだ。近代短歌はその否定から始まっており、今でもそれを引きずりながら続いているから、このようなギャップが生れるのではないだろうか。

  次のところも大事なので引用したい。

 私は旧派和歌に漂う陳腐なるものの繰返しから生じる腐臭、さらには死臭に対して、とても付合いきれぬものを感じます。しかし一方で、自我の叫びを出発点に置き、感情の振幅の大小によって詩の真実を測る重要な目盛りとした近代以降の詩歌の道筋にも、荒寥たる落日を感じます。プロレタリア短歌とか俳句、またプロレタリア詩などと呼ばれた作品群を今読み返してみると、そのような「近代」詩歌の問題点がとりわけ鮮明に浮かびあがってくるのがわかります。感情の激発ののちは、淋しい感傷と傷ついた自我の泣き言が続くしかなかったのが、大方の近代的左翼詩歌の道程でした。(p.146)

 「感情の激発ののちは、淋しい感傷と傷ついた自我の泣き言が続くしかなかったのが、大方の近代的左翼詩歌の道程でした。」というのは、だいぶ厳しい言葉だけれど、まあそうですね。

 じゃあまあどうするかってことになるけれども、それは大きな話になってしまうので、今回はこれくらいにして、短歌はとかく「伝統」を言い、「千二百年続く」とさも特別なもののように言いたがるが、本当は誰もがわかっているように、短歌と和歌は完全に別物である。変に切れ目なく続いているかのように騙るよりも、違う点をはっきりさせておいた方が、はるかに建設的な気がするがどうだろうか。で、和歌が「役に立つもの」だったというのは、当たり前と言えば当たり前だけれどつい忘れてしまうので、覚えておきたいなと思ったのでした。

 あとこの本では、いわゆる俵万智現象はなぜ起きたのか、短歌だけが爆発的人気を得られる理由とは、という章もあったけれど、そこはあんまり面白くなかった。大岡さんの挙げている理由を並べてみると、

  • 現代人は、わけのわからない混沌としたものよりも、短歌・俳句といったあらかじめ形のわかっているものへの好みを強めている(ちょうどTVのチャンネルを合わせるように)
  • 現代詩は、その詩人の個人的性向すべてを読むことになるので、必然的に批評的距離を持ってしまう(=コアな読者しかいない)
  • 俳句は個人の作品よりも、連衆全体で実力を発揮するもの。また個性よりも季語・季題といった共同体的感性が重視される
  • 近代において「作者の人生経験の独自性」に価値を置く方向に舵をきった短歌だけが、素人歌人から爆発的な人気を生む可能性を残している

ということで、まあ、これはそれぞれはその通りだなとおもうけれども、それは消極的理由で、積極的な理由にはなっていないと感じた。私はですけど。

 この本は「へるめす」という岩波書店が発行していた学術誌での1989年から1994年までの連載が元になっていて、『サラダ記念日』が出たのは1987年だから、ちょっと今とは『サラダ記念日』への距離感が違うんだろうなと思った。今はもう歴史になっちゃってますからね。

 あと、最後の章にあった「二重国籍詩人」野口米次郎(=ヨネ・ノグチ)への言及が面白かった。この人は、明治二十六年(1893年)に17歳で単身アメリカに渡り、向こうで浮浪者っぽいことをしながらも、英語で詩を書いてだんだんと有名になっていって、ついには明治三十七年(1904年)に日本に凱旋したという人。彫刻家イサム・ノグチのお父さんです。俳句研究とかでも大きな仕事をしました。あと、石川啄木がこの人に超あこがれて、手紙書いたりしてます。

 この人、恥ずかしながら今まであんまり知らなかったのだけれど、面白かった。ちょっと長くなったので、そろそろ終わりにしたいのだけれど、この章については後で追記で書くかもしれません。

 啓発されるところの多い、面白い本でした。他に、興味深かったところを引用して、今回のブログはおしまいです。

 マラルメのような詩人がもし正徹の歌を読みえたなら、おそらくは驚嘆したであろうような、言葉のいわば斡旋のみごとさが彼の和歌にはありますが、禅僧であった彼は、同時に公式の間に広く信頼され、歌合や歌会に頻繁に出席して多くの弟子を育てた、社交性に富む大歌人でもありました。それは、およそ五百年後に登場したマラルメが、自分の周囲に若き詩人や小説家を集め、音楽家や画家たちとも親交を結び、見世物の類を愛好した詩人であったこととも通じる所があるでしょう。

 正徹の弟子で「冷え枯(か)らびた」境地の創出を理想とする心敬が、連歌師として実に多様な人物たちと同席し、指導力をふるったということも、彼の孤絶的印象を与える歌論の背景として、忘れてはならないでしょう。これらは結局、和歌の伝統というものが、社交性と相容れないものではなく、逆にそういう土壌のまっただ中で磨かれ続けたものだったことを意味しています。(p.223)

  和歌の伝統と社交性。

 というのも、それ以前の明治時代の詩歌作品では、恋愛という情熱が詩的世界のものとして正面切って扱われたことはなかったからで、『若菜集』と『みだれ髪』は、いわば公的要請に奉仕することを当然の任務とする讃美歌や軍歌や唱歌(小学校唱歌、また後年になりますが大和田建樹の名作「鉄道唱歌」のごとき)によって代表される目的・用途のはっきりした(注:原文傍点)詩の世界に、恋愛というすぐれて私的で無償の情熱的なモチーフを持ち、同時にきわめて具体的に両性間の社会的問題をも内包した普遍性のある一つの重要な主題を持ち込んだのでした。(p.6)

 近代詩以前の世界では、詩は「目的・用途のはっきりした」ものだった。

 藤村・晶子がやった仕事は、その意味で重要でした。彼らは様式化された恋愛詩の歴史から、思春期の悶々たる欲情や憧れや思慕をあらためて救い出しました。

 江戸時代の文学・芸術が、全体として青年の思想心情を表現することにおいて驚くほど怠惰であり、全体として実に老けて(注:原文傍点)いたことを、私はここで強調しておきたいと思います。江戸文学に生きのいい青年の思想・感情の所産を見出すのはひどく難しいことで、江戸時代が随筆の黄金時代だったのは、この事実と表裏一体のことだったのです。(p.8)

  江戸時代が老けているの、たしかに。

 しかし、それが一千年近い間人々の物の見方が変らなかったことを意味しているかと言うと、必ずしもそうではありません。物の見方は変わってきている。つまり細かくなってきています。江戸時代の中期以降は、リアリズムの眼差しが、多くのすぐれた人たちによって、はっきり獲得されています。しかしながら、彼らが作った歌の世界には、その変化がすぐそのままには現れてこなかった。「歌」は、それ独自の生命を持っていて、それに仕えるのが個々の詩人の役割だという考え方があったからです。だから、自分自身の裸の目で見ている現前の風景を、わざわざ古くからのスタイルにのっとった歌い方で歌うという屈折した詩人たちもたくさんいたにちがいない。

(中略)リアリズムの目を持ちながら、同時に伝統的様式性を重んじるという、一種の矛盾した感受性と行動様式が生じていました。これが江戸後期歌人たちの、新しい動きでした。(p.153)

 江戸期歌人もそのうち読みたいですねー。

 そこで「童謡」ですが、童謡は、このような形でおかみ(注:原文傍点)が関与・指導している児童教化的な「唱歌」に対抗して生まれた、大正時代独自の(注:原文傍点)産物だったのです。大正という時代は、一代目の明治に対する二代目の特色をさまざま持っていましたが、その重要なものの一つが、「子供の発見」と言うべきものでした。(p.167)

 大正時代を「二代目」と思って見るのも、面白いかもしれません。

日本詩歌における抒情というものの実体を、文字に惑わされて「情緒」や「感情」の側面において考えるのは、まさに考えものです。むしろある種の、他では求め得ない言語的ヴィジョンを、言葉の組合せの秘術によって作り出すこと、これが結果としてわれわれの情緒にも深い影響を与えること――これが「抒情詩」として日本詩歌の高度な達成にとって必須の条件だったと言うべきだろうと思います。(p.214)

  日本の詩歌は「今ここにないものの影」を「今ここに有るもの」を通じて捉える「時空のデペーズマン」をやってきた、と大岡さんは言っています。「デペーズマン」はシュルレアリスムなんかでよく使われる単語で、あるものを文脈を断ち切って別のところに無理やり置くと面白いでしょ? みたいな手法のことです。詳しくはググってください。

 こんなところです。それでは。

第17回 阿木津英『折口信夫の女歌論』

折口信夫の女歌論」を越えて 土岐友浩 

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折口信夫の女歌論 (五柳叢書)

 

折口信夫は、国文学の大学者であり、近代社会を徹底的に批判したアウトサイダーでもあった。

 *

近代短歌は、正岡子規が「写生」を唱えたところから始まった。言い換えれば、「写生」が短歌を近代化させた。

8回の堂園さんの記事でも触れられたように、「写生」という言葉は元々西洋画の用語で、見たものを先入観なく、客観的に描く手法として子規が導入したものだ。

大辻隆弘は、こう要約している。

写生とは「視点としての私」と「遠近法的な外界の秩序」を同時に成立させるような認識論的な枠組みの転換であった。

(大辻隆弘『アララギの脊梁』) *1

 

西洋画の手法を取り入れる、というのは、そのバックグラウンドである西洋的な個人主義、合理主義の思想を取り込むということでもあった。

子規の目論見は、伝統文芸である俳諧・短歌を革新することにあったが、結果的に「写生」はそれを越えて、近代日本の文芸全般に広がる運動となった。

 

もちろん西洋の異質な価値観を取り込んだ「近代化」に、批判がなかったわけではない。 

そのひとつとして、今回は阿木津英の『折口信夫の女歌論』を読んでいきたい。

(ちなみに「女歌」は「じょか」ではなく、「おんなうた」と読むようだ)

 *

折口はアララギの短歌を男のための歌である、と言い切った。

アララギの写生・鍛錬道といふものは、そこから今井邦子さん、杉浦翠子さん、その他の優れたひとが出てゐますけれども、アララギ自身にとつても、どうしても女の為の歌ではなく、根本的に男歌と謂はなければなりません。

必しも島木赤彦が出なくつても、斎藤茂吉さんが出なくつても、正岡子規その人の作風を分解してみても、女歌といふものの存在の余地が殆なかつたといふことが出来る。尤、伊藤左千夫先生、それから古泉千樫なんかの歌風の方は、女の為事にも向くといつた、まあ余裕を持つてをつたとは思ひます。けれど、大体アララギ時代で、ひとまづ日本短歌史の上に長かつた女歌の時代は過ぎ去つた――とかいふことになるのです。 折口信夫「早期の与謝野婦人」) *2

 

「写生」を掲げたアララギの隆盛とともに「女歌」は終わってしまった、と折口は言う。

「写生」は対象を客観的に記述できる手段として人々に広まったが、第8で詳しく解説されているように、短歌の世界で「写生」はむしろ、主観を表現する方法を模索しながら、独自の発展を遂げていった。

そのため話はやや複雑なのだが、いずれにせよその発展は、赤彦や茂吉など、男性歌人が担ったものだったことを折口は指摘する。

彼らの指導下に、「女歌」は抑圧された。

〈写生〉という男女に共通の目標は掲げられながらも、男性歌人の指導によって、女性は女性としての感情や生活をうたい出していった。たとえば、アララギという組織を歌壇の主流とする基礎を築いた島木赤彦は、武士道精神による鍛錬道としての写生道を掲げて、いわば家父長的な面倒見のよさで女性歌人の何人かを育て上げた。つまり、ここでは、社会の管理ピラミッドの末端としての家族、その家族のなかでの性別役割を担った女性の歌、という枠組が作られたのだ。(阿木津英「〈性の政治〉と二〇世紀女性短歌」) *3

 

読み間違えないようにしたいのだが、これは赤彦批判ではない。

子規の弟子たちは「写生」の技法を発展、洗練させ、日常生活やそこから生まれる感情を、短歌にすくい取ることができるようになった。女性は妻や母としての自分の姿を詠うことが可能になったのだ。

ただし、その「妻」や「母」というのは、近代の「家族」という一種の社会構造に組み込まれた「役割」だったことを見逃してはならない。

折口の別の談話を引きながら、阿木津はこう書いている。

「赤ん坊に乳を飲ます歌」「嫁入りの歌」というような、一般にいかにも女らしい歌と思われているものは、じつは女の生活という素材を男の歌の口まねでうたっているにすぎない、もっと根本的に違う女の歌があるはずだ、と(折口は)いうのである。 *4

 

アララギの女性歌人は「写生」の手ほどきを受け、「赤ん坊に乳を飲ます歌」や「嫁入りの歌」を題材に、「女性としての感情や生活」を歌にした。

 

しかし、それは女歌ではなく「男の歌の口まね」なのだ。

 

阿木津は必ずしも「女性の生活」を詠うことそのものを否定しているわけではない。アララギの「写生」を問うことで、「女性の生活」を成り立たしめしている「家族」や「社会」、その構造を決定づけた政治を問うているのである。

短歌や俳句は、家庭における性別役割を分担しながら、つまり言うなら政治や社会のもたらす大きな枠組を不問に付したまま、自己表現欲求も自己達成感も満足させることができる小さな詩型である。日本という国は、良くも悪しくもこのような詩型を持つ国なのであり、ここに数知れないほどの女性がかかわっている。 *5

 

さらに言えば、この構造はアララギだけにとどまる問題ではなかった。

 

折口信夫は「写生」を主義としない女歌として、たとえば与謝野晶子の歌を挙げた。

しかし晶子の背後には「与謝野鉄幹の文学的戦略」があったと折口は言う。

鉄幹は子規に対抗して、自然主義文学とは距離をとりつつ、西欧の浪漫主義に学んだ新しい文学を目指していた。その答えが「恋」の歌であり、「明星」は鉄幹が作り上げた舞台だった。晶子は山川登美子と競い合うようにして、そこに情熱的な歌を送り届けた。

 

つまり「アララギ」の客観を重んじる短歌も、「明星」の主観を詠い上げる短歌も、どちらも男性が主導した、新時代の文学という名の枠組を築くための政治的な運動にすぎなかった。

折口によれば、それは「やまとうた」の女性像から遠く隔たるものである。

古代の貴族の女性は「男性の思ふまゝにはならない、女は女としての歴史的品位を保つ、と言ふ風が出来て来た」「古代の女性は、男の言ふなりになるのを最恥辱とした。思ひあがつた矜持を失ふまい、と努めた。其上に女としての優しみを何処までも保つて行かうと言ふのである」というような、持論を(折口は)述べる。(阿木津英「折口信夫の短歌論I」) *6

 

阿木津は、他にも中城ふみ子をプロデュースした中井英夫の例などを挙げつつ、以上の議論をこうまとめる。

明治以降、短歌は他の文学ジャンルにもまして多くの女性が関わってきたが、そこにはつねに枠組決定者としての男性、あるいはコーディネーターとしての男性が関わっていた。女性の表現がどのような方向をとるかということは、男性次第であった。  *7

 

さて、ここまでとても駆け足で、いわゆるフェミニズム的な視点から本書を紹介してきたが、折口信夫の女歌論』の射程は、そのような地点にとどまるものではない。

まずは阿木津自身の言葉で、阿木津の立場を確認しておこう。

わたしたちはもはや、〈女性〉というカテゴリーにアイデンティティを求めてはならない。あらゆるカテゴリー意識からフリーであること。民族というカテゴリー、国家というカテゴリー、性別のカテゴリー……そのいずれのカテゴリーにもアイデンティティを埋め込まず、逆にそれらをこちらに引き寄せ、まとまりある一つとして統合し、織り合わせる主体としての「個人」。日本語によって自己形成をしてきた、アジアの黄色人種でもあり、女という経験を持つ、それらもろもろの経験の束を持つ、このわたし。 *8

 

阿木津は西洋発祥のフェミニズムの思想に学びつつ、自身の作歌経験を通して、それを乗り越えなければならないことを学んだという。

もっとも、「あらゆるカテゴリー意識からフリーであること」というスローガンは、理解こそできても、実践するのは至難の業である。

現代ではむしろカテゴリーはかぎりなく細分化し、そのことによって個人のカテゴリーへの依存度は、自由になるどころか、かえって高まっているようにさえ見える。

 

だからこそ、1999年に発表されたこの阿木津の宣言は、現代の文脈において読み替えられなければならないだろう。

その考察に代えて、本書で紹介されていた、釈迢空折口信夫の筆名)のある短歌のことを最後に考えてみたい。

 

かたくなに 森鷗外を蔑(サ)みしつゝありしあひだに、おとろへにけり

 

とても不穏な空気のただよう一首だ。

鷗外といえば『舞姫』などの作品で誰でも知っている文豪の中の文豪で、短歌史においても、観潮楼歌会を主催し、文芸誌「スバル」を発行するなど、その貢献は計り知れない。

だが、その鷗外こそが、近代短歌を壊滅させた張本人だと折口は考える。

 

実のところ、折口がほんとうに批判していたのは、「アララギ」でも「明星」でもなかった。

歌が行き詰まると、「思索的に哲学にゆくか、社会的に労働問題・生活問題」に行くかということになって、いつまでも「一つ覚え」を繰り返している、(中略)このままでは歌は滅亡する、"日本の文学" も滅亡するというのが、その考え方でもあったろう。そして、近代短歌がこのように概念的思想的なものを含むようになったその転換点に、「鷗外の指導方針」「鷗外美学」があった、とするのである。 *9 

理論や思想、概念、いでおろぎいを先立て、いわば図面を引いておいて、その図面通りに歌を向かわせていくといった弊が、近代短歌には潜在している――これが、ことに戦後の第二芸術論をくぐったのちの、歌壇一般の歌に対する、折口の批判のポイントであったといっていい。 *10

 

僕なりの理解で言えば、「理論や思想、概念、いでおろぎい」というのは、「理想」のことだ。鷗外と坪内逍遥のあいだで交わされた「没理想論争」の「理想」である。

一般化して言えば、あるべき「理想」の姿というものがあって、そこからの逆算で「いま」を把握するのが、西洋的な時間意識である。

鷗外はまさしく「理想」を唱え、人々を導いた、最も先進的な近代人の一人だった。主要な結社の重要人物を集めて超結社の歌会を主宰し、新詩社を脱退した若き歌人たちを鉄幹と和解させ、「明星」終刊の後にはみずから新しい文芸誌を立ち上げた。

 

しかしその「理想」こそが、折口にとって軽蔑されるべきものだった。

 

なぜなら「理想」は歌を形骸化させるからだ。折口に言わせれば、森鷗外の掲げる理念を変曲点として、新詩社の浪漫主義は象徴主義へと変質し、「写生」は「写生主義」という「或種の概念歌」に陥った。

 

新詩社はまもなく潰え、アララギの「写生主義」は戦後大きな批判に晒され、折口の主張も一定の支持を得た。その流れを受けて「女人短歌会」が興り、折口もそれを大いに応援することになるのだが、阿木津はこう述べる。

問題を単純化すれば、日本近代の女性たちは、西欧近代輸入概念である〈人間〉になろうとする意欲と、民俗学・国文学によって引き出された 日本古来の〈女の特質〉に自己同一化しようとする誇りと、いわば二派の男性の指導によるはざまで右往左往してきたのである。(あとがき)

 

この「二派」とは言うまでもなく、鷗外一派と、折口のことなのだが、この視野の広さは、すごい。

阿木津は「折口信夫の女歌論」をたどりつつ、その外側にある、より大きな枠組を乗り越えようとする。本書にはその思索の道筋が示されている。

そして、だからこそ阿木津には、近代短歌の主流にたった一人で立ち向かい、実作と歌論の両方で大きな仕事を残した折口信夫の、その偉大さを展望することができたに違いない。

*1:「短歌のピーナツ」第8回の引用を再掲

*2:折口信夫の女歌論』p. 44

*3:p. 105

*4:p. 44

*5:p. 124

*6:p. 43

*7:p. 106

*8:p. 126

*9:p. 54

*10:p. 57

第16回 小高賢『老いの歌』

永井祐

 

今日は、『老いの歌』(2011年刊・岩波新書小高賢)をやります。

 

 

 

 

小高さんは2009年に「老いという短歌のフロンティア」という評論を「短歌現代」9月号に発表しました。

翌2010年4月号の「短歌研究」では「老いのうた」特集が組まれたりと、この評論はプチブレイクしていたのですが、震災があったりでなんとなく話が流れてしまっていました。

その「老いという短歌のフロンティア」をふくらませ、小高「老いの歌」論が一冊にまとまっているのが本書です。

 

「老いという短歌のフロンティア」は面白い評論です。

そこで引用される「老いの歌」はたしかにこれまでのものとは違っていた。

 

見えないと無いとの違ひを考へたり極めて薄き考へなれど 小暮政次

 

結び目はほぐさないのが面白いなどと思ひてしばし居りしが  

 

何かがある向う側には何かある見えないものがあると感じる

 

とりあえず小暮政次さんの歌を引いてみました。

どうでしょう。なかなか変な歌ですよね。

具体的なものが出てこないで、ひたすら考えているんですけど、それが深まらずに浅いところをぐるぐる回っている。

小高さんはこんな風に書いたり言ったりしています。

 

 作品の意味は正直よく分からない。しかし、何かを考えているのだ。どこかが気になっている。

 

(二首目について)「結び目とは何だろうか。人間関係のほつれなどと、まず解釈してみる。ほぐしながら物事を前にすすめるのが普通だ。しかし、と小暮は思うのである。「このままにしたらどうだろうか」という気持ちに傾く。やや意地悪な視線かもしれない。こうやって斜交いからものを眺めようとしているのだろう。いろいろ想像している。その時間を楽しんでいる。だから、想像以上に作者の内面は複雑なのではないだろうか。

 

「短歌というのは五七五七七でつじつまが合うように作るのですが、どこか、つじつまが合わない。どこかでずれが出てくる。そういう面白さが小暮さんの歌にあるんです。」(短歌研究「老いのうた」座談会)

 

「老いというのは、(略)、しょっちゅうわけもわからないことを考えているわけよ。見えないと無いのとどう違うんだろうかみたいな。」(同)

 

「ある観念が、つきまとってしまうと、くりかえし言わざるを得なくなって、しょっちゅうそれを考えている。それが一種の老いで、もうろくと言えばもうろくなんだけど。」(同)

 

老いの実体とか、もちろんわたしもよくわからないですが、「観念的なことを浅いところでくるくる繰り返す」というこれらの歌には、迫力というか、一種のガチ感を感じます。

具体的には、下句の付け方ですね。「見えないと無いの違ひを考えたり」も「結び目はほぐさないのが面白い」も「何かある向こう側には何かある」も、下句で視点なり話題なりを切り換えていれば普通にまとまると思うんですけど、

「極めて薄き考えなれど」「見えないものがあると感じる」と特にゴールもないまま同じ話題に執着して繰り返されるところに、ちょっと異様な感じを受けます。

ほかにはこんな歌。

 

ジャンパーのうちポケットにある過去と笑いて部屋の釘にかけたり 岡部桂一郎

 

十五夜を橙と月あらそえり疲れて眠る大きだいだい 岡部桂一郎

 

ゆっくりと塩田(しおだ)さんまでつく杖の風船かずら きいろいざぼん 岡部桂一郎

 

星の御殿見上げゐるうち手も足も星の画鋲にとめられし感 浜田蝶二郎

 

(一首目について)おそらく「笑いて」と「部屋の釘にかけたり」の間には、時間・空間の双方に隙間がかなりあるだろう。「私」は少なくとも二重になって表出されている。

意味ははっきりしないが、ジャンパーのうちポケットにしまってある過去。それを笑う自分。それと釘にかけている自分は、一体化されていない。微妙にずれていないだろうか。

短歌は通常、一首を「私」の観点から統制する。つまり、三十一音すべてを見つめ、「私」の観点から描写するのである。しかし、この作品は、上句と下句が微妙にずれている。しかし、そこがおもしろい。不思議な感覚が立ち上がってくるからだ。

 

(二首目について)おかしな作品だ。月とだいだいが月夜に競い合っている。鮮やかな黄金色を競っているのかもしれない、あるいは競っているのは丸さなのかもしれない。いずれにしろ、だいだいと月を対比している。童画的に美しい。そこまでは鑑賞できる。四句目以下は、難解である。どうして「疲れて眠る大きだいだい」になってしまうのだろうか。深読みすればこういうことである。

「だいだい」は、自分が眺めているかぎりその丸さや鮮やかな色が伝わってくる。しかし、眠ってしまえば、だいだいは認識されない。しかし、月は客観として存在している。生き物としてのだいだいに私が投影されているのではないか。「私」が拡大・肥大してしまう。あるいは逆に短歌的「私」がだいだいのなかに溶解してしまっている・・・。それが幻想的な印象を与えるのだ。つまり「私」の変容として捉えたほうがいいのだろう。

岡部の場合、「私」がくっきりと囲い込まれていない。おかしな言い方かもしれないが、「私」が一首からはみ出している。

 

 

(三首目について)さらに難解である。散歩のおりの嘱目なのだろうが、「塩田さん」という表札のあるあたりまでゆっくりと歩いていった。その途中に風船かずらが実っていたのだろう。そこまではなんとなく見えてくる。一字空いて「きいろいざぼん」という結句は投げ出したようでひどく唐突である。だいだいと月のように相似するものがあればいいが、「風船かずら」と「きいろいざぼん」には関係性がかなり希薄ではないか。色も形もちがう(季節は秋と冬)。

私はこんな風に鑑賞した。風船かずらを発見した。それまでは事実であろう。それをきっかけにして、作者は回想に耽ったのではないか。そのなかで「きいろいざぼん」が惹起された。ここにおいても「私」が時間の隔たった異なった次元に飛翔している。この作品をどう受け取るかもむずかしい。いままでの短歌の尺度でいえば、作品の体をなしていないといってもいい。そういう風に裁断する立場もあるだろう。結句になって意味が朦朧としてしまうように思う。しかし一方で、おもしろい感覚が生れていることも感じる。いずれにしろ、はっきりしない。

 

 

引用長くなってしまいました。小高さんも苦労して書いてる感じですが、彼がこれらの歌に対して非常におどろいているということは伝わってくるのではないかと思います。

わたしもどれも好きだし、新鮮だと思います。(「だいだい」って何だろう?)

 

小高さんはこれらの歌に、近代以来の短歌的なくっきりとした「私」の変容や拡大を見ようとしています。

何だろう、言い方むずかしいんですけど、これらの歌ってその出方が非常にユニークなんですよね。

「私」を越える、なんて言っても、そもそも一人称視点とは違うところに作歌意識があったりとか、一首の構成感がはじめから「私」を越えてるところの短歌で、私の拡大とかが見られても、それはそんなにすごいことじゃないんですよね。

これらの歌の貴重なところは、やはりそのガチ感にあって、あまりこの言葉は使いたくなかったのですが、「ぼけている」のと紙一重に見えるところなのです。そのへんに小高「老いの歌」論の面白さもヤバさもあると思います。老いによって、自我や言葉の統制がむしろゆるんでくるところに「フロンティア」があるんじゃないかということですね。

四首目やってなかった。

これもとても面白い歌ですね。星座からそのままの連想なのでしょうが、「画鋲」の比喩が意表を突きます。手も足も画鋲でとめられて、むしろたいへん気持ちよさそう。「御殿」と締めの「感」(「とめられし感あり」ということだと思います)がおじいさんぽくてチャーミングです。

 

小高さんは「老いの歌」と「高齢歌人の歌」を、けっこう厳しく区別します。

たとえば、

 

長生きは余得ともいふ失策のごとしともいふさびしいかなや 馬場あき子

 

生き方を変へたいつてそれは無理だらうやうやく老いの深くなる淵 岡井隆

 

こういうのは、いわば「老い」の題詠みたいなもので「老いの歌」には入らないそうです。

 

作品に乱れがない。不用意なものいいもない。(略)意志と行動との間にずれが起こることもない。作品のすがたがクリアである。不分明なところが見えない。(略)そこに老い特有の不完全さはない。

「老い」は格好のテーマになっているが、いままで述べてきた「老いの歌」とは根本的に異なっている。「私」は一貫しており、ぶれたり、拡大したりしていないからだ。自己のコントロール下に置かれている。

 

小高さんは、コントロールの効いた高齢歌人の歌の価値を認めつつ、「フロンティア」はむしろ、岡部・小暮・浜田の引用歌のほうにあると言いたげです。

 

「歌においての老いは、近代でも戦後でも、一つの型に強制してきたわけですよ。そういう強制からまだ逃れられていない。」(短歌研究座談会)

 

「老い」の実態は、それほど単純なものでないこともなんとなく想像できる。考えてみればそれも当然である。多くの体験を経てきた存在が、それほど一直線上で、しかも一様に、枯れたり、揃って円熟したり、悟達するわけがない。(略)私たちは誰でも「死」が怖い。そこで、どうしても克服する・克服した「物語」を欲してしまう。その思いが、老いを過剰に装飾してきたのかもしれない。

 

引用でわかるように、小高「老いの歌」論は強烈な価値転倒をはらんでいます。

平均寿命は伸びる一方だし、

当時六十代中盤ぐらいだった小高さんにとって、「現代においてどのような『老い』が可能か」ということが、リアルに切実な問題としてあったんだろうなと思います。それが選歌の目を鋭くし、論のエッジを立てている。

小高さんはしかし、2014年に七十代を待たずに亡くなりました。

人生、そういうものですかね。

第15回 来嶋靖生『大正歌壇史私稿』

 読みやすい大正歌壇史 堂園昌彦

大正歌壇史私稿

大正歌壇史私稿

 

 こんにちは。

 突然だが、皆さんが大正時代の短歌の流れをザッと概観したいと思ったとき、初めに読むべき短歌史の本はなんだろうか。

 大本命の名著、木俣修『大正短歌史』(1971)だろうか、それとも、主要な論争を取り上げることで流れが分かる篠弘『近代短歌論争史 明治・大正編』(1976)だろうか、当事者ならではの短歌史、斎藤茂吉『明治大正短歌史(正・続)』(1955)だろうか。

 私はこう答えたい。2008年にゆまに書房から出ている、来嶋靖生『大正歌壇史私稿』だと。

 理由はかんたんで、この本は抜群に読みやすいからである。先の短歌史の本はどれも函入りの鈍器になりそうな分厚さで、木俣修『大正短歌史』は堂々の1100ページを誇っている。それに対し、この来嶋さんの『大正歌壇史私稿』は本文わずか244ページだ。薄くはないが、常識的なレベルである。

 そして、大正元年、大正2年、大正3年、と年ごとにだいたい20ページずつくらい、5,6項目で構成されている。たとえば、大正3年の目次はこんな感じ。

大正三年 51 

新派和歌の定着と停滞 52 空穂の推敲 53 島木赤彦の状況 62 「水甕」と「国民文学」創刊 66 諸歌人の動向 67

 1項目1~2ページくらいでパッパッパッと進んでいくので、非常に読みやすい。また、年ごとに「諸歌人の動向」とかあっていろんな歌人をまとめているのもポイント高い。

 そしてこれが何よりも重要なのだが、この本は、今まで論じられているところはいちいち詳述せずに、元の本に譲るという姿勢をとっている。要するに、参考文献がいちいち本文に書いてあるのである。たとえばこんな感じだ。

 

「御歌所については片桐顕智『明治短歌史論』(人文書院 昭14)による」

「牧水の動きについては大悟法利雄『歌人牧水』(桜楓社 昭和60)に負うところ多い」

「最近では岡井隆『「赤光」の生誕』(書肆山田 平14)に詳細な言及がある」

「論争の詳細や意義は篠弘の既出『近代短歌論争史』参照」

 

 こーゆーのを読めば、ここに関してはあれを読めばいいんだなとわかる。くどくど述べていないところも読みやすい。大変親切な本なのだ。

 もちろん、「私稿」とあるように、来嶋さんはこれをパブリックな短歌史というよりも、個人の興味に触れたところを並べただけ、と断っている。

 この『大正歌壇史私稿』は、大正短歌の通史ではなく、大正歌壇の歴史でもない。大正十五年間の短歌界の人々や出来事などについて、気儘に、自分の関心のあることどもを書き連ねたものである。(p.7)

 やはりそこは留意したほうがいいだろう。しかし、その点を踏まえていれば大正期の歌壇の流れがザッとつかめるので、大変お得な本でもある。

 先に述べたように、くどくど説明しない本でもあるから、まったく知識がないとピンと来ないところもあるかもしれないが、そこらへんはどんどん飛ばして読んじゃえばいいことだ。読むときは「太田水穂」って何度も出てくるからなんか偉い人なんだな、くらいで別にいいと思う。

 そんな親切かつ読みやすい本なのだが、本で大事なのはやっぱり面白いかどうかだ。で、どうだったかというと、なんだかんだで私には大変面白かった。

 それは来嶋さんの視点がけっこうユニークなためだ。はじめの「序にかえて」を引用してみたい。「以下内容について、私の心がけたことを記したい」と、来嶋さんがこの本を書く際に注目した項目を述べている。

同時性 編年体だから当然のことだが、同じ年にそれぞれの歌人がどのような状態で何をしていたか。できるだけ多くの歌人の動きが鳥瞰できるよう、同時性に配慮した。

 さっきも書いたが、年ごとのまとめと「諸歌人の動向」、これがありがたい。白秋が姦通事件のあと三浦三崎でへこんでいるときに、茂吉は母の危篤に駆けつけたりしていることがわかったり、反アララギ連合・「日光」が創刊された年は、茂吉の青山脳病院が全焼して終わっていたりすることがわかる。それぞれの歌人が、それぞれに波乱万丈で、「みんな人生大変だったんだな」と馬鹿みたいな感想を持つに至った。英雄群像劇みたいだった。

推敲過程の把握 短歌の資料はすべて当時の新聞雑誌であるから、後に歌集に纏められた形とは違う場合が多い。初出と歌集との異同を確かめることは、同時にその作者の推敲過程を把握することに繋がる。しかも歌だけでなく、作品の配列や連作の構成の変化も見ることができる。とくに窪田空穂や北原白秋、釈超空らは歌集編纂に当たって大幅に改変するのが常である。すべてというわけには行かないが、煩雑になるのを承知でいくつかの作品とその作者について検討した。

 この本はもともと、来嶋さんが『編年体 大正文学全集』全15巻別巻1巻の短歌部門の選出に携わっていて、その際に書き記したノートが元になっている。『編年体 大正文学全集』は、年毎に制作された文学作品がまとめられる形式で編集されたものらしく、作品を書籍の刊行年ではなく、新聞雑誌に発表された初出から選出している。

 そのため、短歌作品も歌集に収録された形ではなく、雑誌の初出の状態で掲載されている。来嶋さんはそれを大量に選出した。そのため、初出と歌集収録作品とを比べることができたのだ。

 まあ実は、この点にはそれほど私は興味はないのだが、つぶさに見ていくと、各歌人がどのようなところを気にして歌を作っているかがわかってくる。たとえば、来嶋さんが挙げているところでは、茂吉の『あらたま』と白秋の『雀の卵』の推敲の比較などがある。

技法の成立過程 明治中期から大正初期にかけて、さまざまの華麗な花を咲かせて出発した近代短歌だが、大正中期に至って「アララギ」の勢力が高まり、影響は全国に及んだ。他方、窪田空穂や北原白秋は独自の技法をそれぞれ深化し、変容させてきた。技法的には写生・写実が大きな流れとなるが、その技法の機微を作品や批評の上で例示できないか、一首ごとの批評がどのように行われ、技法として成熟していったか、をいくつか追ってみた。

 大正期は、ほんとにアララギイズムの成立期だ。たとえば、以前も大辻さんの本のときに挙げたが、島木赤彦の「主観語の抑制」などが出てくる。これも同じく挙げたが、斎藤茂吉釈迢空の相互批判もこの時期になる。

ジャーナリズムとの関係 歌集は、一般に商品として市場性をもちにくい。が、大正期には僅かながら短歌に熱意をもつ出版社の存在があった。その存在を不十分ながら辿ってみた。これは大正期に限らず、明治から平成に至るまで追求したいことである。

 この時代、出版社がどんどん生れていた時期であり、いくつかの商業出版社による雑誌やシリーズ企画が、歌壇を彩った。史上初めての短歌総合誌「短歌雑誌」ができたのも、この頃である。また、結社誌も、バンバン出来ている。そして、潰れまくっている。なんか、現在では結社誌は歴史のあるものというイメージが強いが、この頃は30代・40代そこそこの歌人たちが、チャレンジングに作っては、次々に潰していた時期だ。例外は、明治29年以来ずーっと続く「心の花」と、あとやっぱり「アララギ」だろうか。明治で「明星」の天下は終わり、大正期は「アララギ」拡大の時期だ。「アララギ」強い。

 こんなに雑誌を創ろうとしたのは、それぞれの発表の場を作るためでもあったし、経済的に食っていくためも、両方あったのだろう。なんか「短歌ヴァーサス」をちょっと思い出したりした。

事実の周辺 すでに多く論じられている著名な作品や評論についての論議は、それぞれの専門書に委ね、論理をあげつらうよりも作品相互の関係や周辺の事情をなるべく解きたいと努めた。文壇諸雑誌ではゴシップ的な記事が多くなった大正期であるが、文学外のことに触れると通俗に堕ちやすい。その選択には慎重を期した。

 これは単純に面白く、初めて知ることが多かった。ちなみに私の前更新回の『窪田空穂の身の上相談』もこの本で初めて知った。他にも面白かったエピソードをいくつか挙げてみたい。

  まず面白かったのは、大正2年、窪田空穂と高村光太郎上高地で出会ったエピソードだ。

 この頃、スポーツ登山が初めて日本に入って来て、ブームになっていた。空穂も登山に魅力を感じ、歌人として初めて槍ヶ岳に登った。で、高村光太郎も同じ時期に山に行っていた。恋人の長沼智恵子が山に来るとの報せを受けて、光太郎は迎えに行く。たまたま槍ヶ岳を降りて東京に帰るところだった空穂も同行する。空穂は、颯爽と登ってくる智恵子の美しさに目を奪われる。

 帰京後、そのことを誰かに話したら、なんとそれが「山上の恋」として新聞にゴシップとして書き立てられてしまった。光太郎はそれを空穂自身が書いたと思い、以後、空穂に不快感を感じるようになってしまったようだ。悲しいね。

 光太郎と智恵子の恋は、この頃有名なゴシップネタだったらしく、よく雑誌に取り上げられていたようだ。ただ、光太郎も雑誌に智恵子に向けた詩を発表することで、気を引いたりなどしていて、進んでスキャンダルを引き起こしていた節がある。高村光太郎という人はけっこうヤバい人なので、知りたい方は最近出た福井次郎著『映画「高村光太郎」を提案します』(言視舎、2016)を読んでみてください。

映画「高村光太郎」を提案します

映画「高村光太郎」を提案します

 

  また、大正4年の啄木追悼会も面白かった。啄木は明治末年である明治45年に26歳で亡くなっている。その3年後、啄木の親友、土岐哀果(善麿)の実家の浅草松清町等光寺で石川啄木三年忌追想会が行われ、歌壇の人がいろいろ集まった。その時のことを空穂が回想しているのを、来嶋さんが紹介している。

 空穂が会場に来たのはまだ開会前で、畳敷きの書院にすでに二、三十人の人が来ていた。与謝野寛、晶子夫妻の姿を見出だした 空穂は、先輩である与謝野に「よくいらっしゃいましたね」と挨拶した。すると「彼は軽い笑いをうかべて、『啄木、こうなるとえらそうだね』と言った。その笑いと、その語気とから私は、今日の追悼会は、彼啄木にとっては過分な似合わしくないものだということを、言外にこめていると感じとった。」(昭和三十年執筆)

 つまり空穂は啄木の死の前と後とでは啄木の評価に差があること、生前の評価が低かったことを感慨をこめて記しているのだ。(p.78,79)

 あー、なんかこういうことってあるよなあ、と思う。啄木は今でこそ夭折の天才歌人だが、当時は24歳で第一歌集を出してすぐに亡くなった駆け出しの文学者だ。生前もある程度は評価されていたが(じゃないと死後に歌集が出たりしない)、歌壇的にはそこまですごい人ではなかったのだろう。与謝野寛(鉄幹)は師匠格に当るひとだから、こんなもの言いもするだろうなって感じだ。

 私はそのこと自体を良いとも悪いとも思わないが、あー、でもこういうことは今でもあるよな、と思った。

 他に、古泉千樫がアララギの編集を遅らせまくることに赤彦がブチ切れて上京してくる話とか、長崎に赴任する茂吉の送別会で、歌人が送別の歌を作る話とか面白かった。送別の歌はこんな感じ。

霜氷る冬の夜ふかくゐむれつつ君を送ると杯をとる 太田水穂

長崎の鶏の啼く夜は長くとも赤き舌をな出しそ茂吉よ 北原白秋

ゑひどれのむれてどよもすとおもふ、ゑひどれのゑひどれのむれをぬけてゆくか、ながさきへ 若山牧水

ながさきの夜はかなしと酒のみて歌ひありくなゑひはゑふとも 古泉千樫

 牧水は何言ってるのかわからない。来嶋さんは「歌は即興でひどい? ものもあるがのどかなよき時代であったことを思わせる」と書いている。白秋が弟と出版社・阿蘭陀書房を創り、新雑誌「ARS」を出したときにも、各歌人が即興歌を寄せているから、当時はそんな文化がメジャーだったのかもしれない。

 あとは、この本のピークとしては、関東大震災の歌がある。関東大震災は大正12年(1923年)に起きた、日本最大級の震災のひとつだが、歌人たちはその衝撃を詠わずにはいられなかった。面白いのは、当時の「和歌革新」の波をまともにはくぐらなかったいわゆる「旧派」の歌と、「新派」の歌を比べていることだ。

ノアの世もかくやありけむ荒れくるふ火の海のうちに物みなほろびぬ 坪内逍遥

ゆりうごく大地をなほもたのみつつせむすべしらず人のかなしさ 九條武子

千よろづの霊の行方や迷ふらむ暗の世てらせ秋の夜の月 跡見花蹊

 「心の花」に掲載されたこれらの旧派の歌たちは、具体的な災害そのものはわずかしか描かれず、大仰で観念的な詠嘆が目立つ。それに対し、「アララギ」の歌人たちや、空穂、土岐善麿といった歌人たちは具体的な描写を主としている。

地震(なゐ)のなかに眠り居る子を抱き上げ歩むとすれば家はくづれつ 築地藤子

水を見てよろめき寄れる老いし人手のわななきて茶碗の持てぬ 窪田空穂

くろこげのむくろよく見ればよこ顔にいきのみの肉のすこしなほある 土岐善麿

「震災は実に写実を基本とする近代短歌の可能性がはじめて問われる大事件であった。」「短歌は表現形式としてどこまでの可能性をもつか。その大きな課題にはじめて遭遇したのがこの大震災なのであった。」と来嶋さんは述べている。また、「終わりに」でも、

大正末期、最小限のメチエとしての「写生」をアララギの何人かの人は身につけていた。だからこそ関東大震災に際して、高田浪吉、藤沢古実、築地藤子らは迫真的な作品を生み出し得たのだ。同じく自然主義文学の波をかぶり、描写への意識を強く持っていたからこそ、窪田空穂も土岐善麿もあれだけの震災詠を生み出し得た。これはのちの太平洋戦争中の戦場詠や空襲詠についても言い得ることで、写生または写実という方法は、国民的な大変事における人間感情を見事に形象化し得たのである。(p.240)

と述べて、これらの震災詠を来嶋さんは高く評価している。

 私自身はこれを読んだからといって「短歌は写生が絶対だ!」なんて思ったりはしないが、この比較は面白い。そういえば、このブログの第1回で「時局詠のときの茂吉は、写生派歌人ではなかった。」なんていう佐藤通雅さんの言葉を引用したりしたなあ、とか思った。

karonyomu.hatenablog.com

 

 長くなってきたので、そろそろ終わりにしたいが、私がこの本を読んで思ったのは、大正時代も歌人たちはけっこう互いに交流しまくっているし、互いに影響受けまくっているなあ、ということだ。現在の目で見ると、近代歌人はみんな偉い人だ。しかし、当時は生きていて、しかも20代とか30代とか40代なわけで、作風は生きているお互いの影響を受けながらどんどん変わっている。それは、現在の口語短歌が微妙な細かさで互いに影響を受けまくっているのと同じだと思う。なんというか、もうちょっと動きのある生きた人間として、近代歌人たちをとらえたいと思うのが、このブログの私の目的のひとつでもある。

  あと、もういっこ思ったのは、これは来嶋さんがこの本をそういう編集にしているからだが、明治は啄木の死で終わって、大正は赤彦の死で終わっているんだなということだ。「たしかに赤彦とともに一つの時代が過ぎたのである。」と来嶋さんは書いている。そういえば、昭和が終わり平成に入ってすぐ土屋文明が亡くなったんだよな、とかも思った(調べてみたら文明は平成二年没だった)。

 大正時代は近代短歌のおいしいところ、という感じ。読んでみるとよいかもしれません。では、今回はこんなところで。

第14回 枡野浩一『石川くん』

不来方への手紙 土岐友浩 

石川くん (集英社文庫)

石川くん (集英社文庫)

 

 

昔やっていた「トリビアの泉」というTV番組では、なぜか啄木が取り上げられることが多く、「石川啄木はHな日記を妻に読まれては困るため、ローマ字で書いていた」というネタは82へぇを獲得した。

他にもこの番組では、啄木が高校時代にカンニングをしていたとか、借金まみれで、ろくに返済する気もなかったというような話が、面白おかしくネタにされていた記憶がある。

それだけ、短歌からイメージされる人間像と、啄木本人とのギャップにインパクトがある、ということだろう。

 

 *

 

枡野浩一の『石川くん』は、「ほぼ日刊イトイ新聞」の連載をまとめた本である。
https://www.1101.com/ishikawa_kun/index.html

大部分のコンテンツは、上のリンクから読むことができる。

第1回が2001年5月5日。

毎週土曜と日曜に更新で、全26回。13週間、欠かさず更新された。

タイトルの「石川くん」というのは、満26歳で他界した啄木に、当時32歳の枡野が、もし生きていれば歌人としては同世代、というわけで、親しみをこめて呼びかけたものだ。

 

「ほぼ日」の読者、つまり啄木のことや、短歌のことは、ほぼ何も知らない、という読者を主に想定して、本文は書かれている。

その語り口は、ちょうどラジオのディスク・ジョッキーのようだ。

冒頭で啄木の「歌」をひとつ(またはふたつ)読み、続いて枡野のトークが始まる。

最後が「また明日」とか「また来週」という挨拶で締められているあたりも、ラジオっぽい。


まずは冒頭の「歌」を見てみよう。

枡野はまず、啄木の短歌を現代の口語にリライトする。

 

全人類が
俺を愛して泣くような
長い手紙を書きたい夜だ (枡)

 ↑

(たれ)が見ても
われをなつかしくなるごとき
長き手紙を書きたき夕(ゆふべ) (啄)

 

一度でも俺に頭を下げさせた
やつら全員
死にますように (枡)

 ↑

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと (啄)


こんな具合だ。

 

ここで枡野は、とても興味深いことを書いている。

じつは今の言葉(口語)は、
同じボリュームの
昔の言葉(文語)とくらべると、
情報量が格段に減るのです。
つまり、
文語短歌と口語短歌で
単語の一個一個を対応させると、
「歌の核心」が損なわれてしまう……。 (第1回)


口語短歌は、文語短歌に比べて一首あたりの情報量が少ない、ということだ。

僕も口語で短歌をつくるので、これは実感として、とてもよくわかる。


具体例を示そう。

 

ふるさとのなまりはいいな
人ごみにわざわざ行って
耳をすました (枡)

 ↑

ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
そを聴(き)きにゆく (啄)

 

打ち明けて話して
何か損をしたような気持ちでいる
帰りぎわ (枡)

 ↑

打明けて語りて
何か損(そん)をせしごとく思ひて
友とわかれぬ (啄)

 

十五歳
お城の草に寝ころんで
空に吸われてしまった心 (枡)

 ↑

不来方(こずかた)のお城の草にねころびて
空に吸はれし
十五(じふご)の心 (啄)

 

マスノ版では、「停車場」という場面、「友」という相手、「不来方」という地名が、それぞれ欠落している。 

これは、明らかに意図的なものだ。

単に言葉遣いを現代風に改めるだけでは、文語短歌は口語短歌にはならない。

感覚的な言い方になるが、それでは、口語短歌としてのバランスが整わないのだ。

 

「歌の核心」を写しとろうと思ったら、情報量を犠牲にしないと、うまくいかないことが多い。

言い換えれば、文語短歌を読むような気持ちで口語短歌を読むと、「情報が足りない」、印象としては「淡い」、と感じやすいのである。

 

 *

 

本書の内容をひと言で説明するのは、意外と難しい。

 

第1回の時点で、枡野は啄木のことをそれほど知っているわけではなかった。 

私は最近、
石川くんのつくった歌をよく口ずさみます。
(中略)
だけど石川くんの歌のことが
昔から大好きだったというわけではありません。
なのになぜ最近になって急に
彼の歌を口ずさむようになったのか、
それは石川くんの問題というより
私自身の問題なのかもしれません。
(中略)
私は石川くんに最近興味を持ちはじめたばかりだから、
石川くんのことはこれから詳しくなっていく予定です。 (第1回)


では、枡野は啄木のどこに関心を持ったのだろうか。

ところで石川くん、
君がほんとはあんまり働かなかったってこと、
わりと最近じゃ有名だよ。
友達に借りた金を無駄づかいして、
プロの女の人といちゃいちゃしてたとか……。
はたらけど
はたらけどなお
わがくらし
らくにならざり
……っていう調子の良すぎるリズムが、
じつは働いてない君の姿を的確に表現してると思う。
石川くんの短歌を研究する文学者の中には
石川くんのことを弁護する人もいるみたいだけれど、
それってやっぱファン心のせいで
評価が甘くなってるんじゃないかなあ。
私にはわかる。
石川くんはなまけものだ。
だって、
サボってばかりいるくせして
「働いても働いても俺の暮らしは楽になんないなあ」
なんて自分をあわれんでしまう君の甘えん坊ぶりは、
私そっくりだから。 (第3回)

 

冒頭に書いた「トリビアの泉」のように、枡野はこの連載の最初のほうでは、啄木の意外な実像を紹介しつつ、読者に驚いてもらおう、としていたようだ。 

面白いのは、「はたらけど/はたらけど猶…」の歌を、リズムが良すぎて、「じつは働いていない君の姿を的確に表現してる」、という枡野の読み方である。

実際に勤勉な人間であれば、こうは詠めないだろう、というわけだ。

枡野は「なまけもの」なのに「はたらけど…」と詠う啄木のことを「甘えん坊」だと言いつつ、むしろその姿に、深く共感している。

 

石川くんは、
有名な歌人夫妻の与謝野鉄幹(よさのてっかん)与謝野晶子(あきこ)
可愛がられていたくらいだし、
もともと「短歌らしい短歌」をつくってたんだよね。
でも、歌人としてのデビューアルバム『一握の砂』は、
そういう「短歌らしい短歌」をどんどん排除して、
「ええっ、これが短歌?」
って歌人たちに言われそうな、
なにげない歌ばかりをわざと収録したんでしょ?
しかも、
一行で書くのがルールの短歌を三行に分けて書いて、
「短歌」を「詩」に近づけようと試みたり……。
かっこいー!
からかってるわけじゃないよ。
だから石川くんの歌のファンが、
今の時代にもこんなに多いんだなって、
本気で思うよ。 (第4回)

 

枡野は「言葉が通じないこと」、というか「通じない言葉を使うこと」に、とても敏感だ。その裏返しとして、説明がしばしば(知っている人にとっては)過剰である。

鉄幹・晶子に「有名な歌人夫妻の」という肩書をつけたり、第一歌集のことを「デビューアルバム」と言い換えたりと、いかにもマスノ的な文体のせいで見えにくくなっているが、内容を見れば、ごくまっとうな啄木評ではないだろうか。

 

試しにこれを、よくある書評やWikipedia風の文章に書き換えてみよう。

1903年、啄木は与謝野鉄幹主宰の「新詩社」に参加し、当初はその影響を受けて浪漫主義的な作品を「明星」に発表していた。しかし、第一歌集『一握の砂』では、生活に即した自然主義的な歌風に移り、このとき試みた三行分かち書きの形式は、後世に大きな影響を与えた。

 

これでも中身は同じことなのだが、こうは書かないのが、枡野のスタイルなのである。

 

さて、第5回から、枡野はいよいよ啄木の『ローマ字日記』を読み始める。

第一印象は、こうだ。

なんだか毎日のように
会社をサボってる石川くんだ!
貸本屋から借りたえっちな小説を
ノートに書き写すために夜ふかしして、
次の日は会社を休んだりとか!
給料を前借りばかりしてるくせに、
よくもまあそんなにサボれるなあと感心しちゃう!
石川くんはそのころ東京に「単身上京」していて、
函館に妻と子と老いた母を残してきてるわけだけど、
ほとんどまったく仕送りしてないっていうのも豪快!
ふところが少々あったかいと
プロの女の人といちゃいちゃしたり!
ろくに読めもしない洋書をふと買ってみたり!
またまた金がなくなって、
いつものように親友の金田一くんに金を借りたり!
度胸あるよね、石川くんて!
「鬼畜」って言われたことない!? (第5回)

 

ツッコミを入れることも忘れてしまったかのように、枡野は啄木の悪行を片っ端からあげつらい、最後に思わず「鬼畜」という言葉が口をついて出てしまう。

そして数回後には、

石川くんのことを「鬼畜」と言うのは、
なんだか鬼畜さんに申しわけない気がしてきたので、
これからは君みたいな男のことを
「石川くん」と呼ぼうと思う。
読者の皆さんもぜひ、流行らせてくださいね。 (第8回)

 

と「鬼畜」という言葉さえも撤回している。

このあたり、啄木の放埓ぶりを目の当たりにして、枡野が完全に引いているのがわかって、面白い。

 

僕の想像だが、「石川くん」はもともと、DJマスノが要所要所でツッコミを入れたりしながら、読者と一緒に啄木のことを楽しく学んでいこう、というコンセプトだったのではないだろうか。

けれど、なんというか、枡野が思った以上に啄木は強敵だった。

 

しかし、枡野もそれくらいでは引き下がらない。

なぜなら、それでも女性にモテて、歌人としても名を残した啄木のことが「同世代として」許せないからだ。

啄木に驚き、あきれ、しつこいほどに憎まれ口を叩き、勝てそうなところを探しては、ひたむきに張り合う。

 

それは、枡野が急速に、啄木に惹かれていった、ということだ。

 

なんか読者の皆さんの中にも、
この連載の目的を
「石川くんをあの手この手でいじめていくこと」
だとカンチガイしてる人がいるみたいなんですが、
全然ちがいますからね。
この連載の真の目的は、
「石川くんの素敵な歌を人々に紹介していくこと」
です。
ほんとよ。
今まで紹介してきた歌は全部、
私の好きな歌ばかりです。
はっきり言って、
私、
石川くんのことが、
好きなの……。
好きすぎて、つい意地悪しちゃうこともあるけれど、
そんな屈折した男心、文学者だったらわかってね!! (第19回)

 

「連載の真の目的」を説明しようとして、つい、枡野は告白してしまう。

結局、そうなってしまった、のだ。

 

一度「好き」と言ったら、その瞬間にすべてはラブレターになってしまう。

 

最終回で、枡野は『弓町より』を読み、こう感想を綴っている。

若いころは自らを「天才」の「詩人」だと信じ、
美しすぎる言葉で詩を書いていた石川くん。
だけど結婚したり転職を重ねたりして、だんだん、
もっと地に足のついた詩を書かなくちゃ駄目だって
考えるようになるんだよね。
それは、
〈珍味ないしはご馳走ではなく、
我々の日常の食事の香(こう)の物の如(ごと)く、
(しか)く我々に「必要」な詩という事である〉、
〈我々の要求する詩は、
現在の日本に生活し、現在の日本語を用い、
現在の日本を了解しているところの
日本人によって歌われた詩でなければならぬ〉、と。
つまり、
現実逃避みたく昔風の言葉づかいで詩を書く詩人を、
石川くんは否定したくなった。
それは結局、
かつての自分自身の否定だったんでしょう?
そして石川くんは、
さりげない言葉で、さりげない短歌をつくった。
それってすごいことだったんだと、やっぱり思うよ。

 

『弓町より』は、口語詩への批判に答えながら、啄木が「あるべき詩」について考察した名文だが、それが「かつての自分自身の否定」だと言った枡野の指摘は、鋭い。

 

「現在の日本語で、現在の生活を詠う」というのは、ちょうど枡野が『かんたん短歌の作り方』などで唱えたことと同じものだ。

 

思えば啄木も、新詩社に参加し、後にスバル創刊に携わったが、結局メンバーになじめず、どちらも脱退している。

 

二人は、似たもの同士だったのかもしれない。

 

もしも石川くんの歌の悪口をだれかが言いだしたら、
枡野浩一がゆるさない。
石川くんの悪口を言っていいのは、
石川くんのことをだれよりも理解し愛している、
この私だけだもの。 (第26回)

 

啄木の悪口を言えるのは自分だけだというのは、愛以外のなんであろうか。

 

 *

 

この連載はまもなく「ほぼ日ブックス」の一冊として単行本化され、文庫にもなった。朝倉世界一氏の描き下ろしイラストが多数、それから巻末には枡野が編んだ「石川くん年譜」が収録されている。

この年譜が、かなり詳しく、読み物として相当面白い。行く先々で「石川くん」がトラブルを起こしていたことがよくわかる。

「石川くん年譜」だけでも本書を買う価値はある、と言っていいだろう。

 

一方、ウェブには、全26回の記事の他に「番外編」として「単行本には書けなかったあとがき」などが公開されているので、興味がある方はぜひ上にも貼ったリンクもご覧いただきたい。

 

最後に余談。本書はkindle版も出ているが、啄木の「啄」の字を、新字体ではなく、すべてきっちり旧字体(「豕」の真ん中に点があるほう)に統一してある。こういうところも、枡野らしいこだわりで、僕はとても好きだ。

第13回 伊藤一彦『若山牧水 その親和力を読む』

永井祐

若山牧水―その親和力を読む

若山牧水―その親和力を読む

 

 

こんにちは。

今日は、伊藤一彦『若山牧水―その親和力を読む』(短歌研究社)です。

 一年前くらいに出たわりと新しい本です。

なにか若山牧水関係のものを読んでみようと思っていて、目についたので手に取りました。

なぜ牧水か。

以前は牧水とかほぼ興味ありませんでした。有名な「白鳥(しらとり)は―」とか、高校の国語の授業でやりましたが、あまり自分に関係のあるものだと思えなかった。

それは短歌を自分で書きはじめてからもそうで、ずっとスル―していたのですけれど、

数年前からなんとなく気になりだした。

そのきっかけになったのが、玉城徹『近代短歌とその源流』という本に入っている「自然について―牧水におけるその意味」という文章でした。

 

昼の浜思ひほうけしまろび寝にづんとひゞきて白浪あがる  若山牧水『砂丘』

 

そこに引かれていたこの歌に目がとまって。あ、すごいいいなと思って。

旅・恋愛・叙情みたいないわゆる牧水のイメージともちがっていた。

波の歌なんて古今数ありますが、浜辺で考え事しつつうとうとしてたら、「づん」ときたっていうのは、ちょっといいなと思いました。

(「ほうける」は「遊びほうける」などの用法で、「夢中になって…する」、または「知覚がにぶってぼーっとする」、「まろび寝」は「転び寝」と書いて「うたたね・ごろね」)

 

そしてさらにぐっときたのが、玉城さんがこの歌に、

 

見ているうちに、美しさが心に沁みてくるようである。

 

としていて、つまり、この歌に「美しさ」を見出しているということです。

この「美しさ」は奥が深い。

玉城さんは、北原白秋斎藤茂吉の同時期の波の歌を並べます。

 

麗らかや此方(こなた)へ此方(こなた)へかがやき来る沖のさざなみかぎり知られず  北原白秋『雲母集』

 

まかがよふ真昼なぎさに寄る波の遠白波の走るたまゆら  斎藤茂吉『あらたま』

 

注意深く見るなら、白秋、茂吉に共通だが、牧水はそこから遠い、ある「心術」が浮かび出て来よう。つまり、白秋、茂吉はあくまでも、意識的な自己設定をして、そこに捕えられる自然を歌っている。

(略)近代短歌を作る主体としての自己設定を、制作のための「機械」と考えると、事の真相がはっきりしてくるであろう。この機械がキャッチした「自然」には機械の刻印がまざまざと残っている。近代短歌としての「面白さ」と一般に考えられてきたのは、この刻印にほかならない。ところが牧水の場合、この刻印が全く無いとまでは言い切れぬものの、極めて微かである。(略)牧水には「機械」が不足していたようである。

 

 

どうでしょうか。

こういう言い方をされて白秋・茂吉の歌を見てみると、「麗らか」も「此方へ此方へ」も「かぎり知られず」も「まかがよふ真昼なぎさ」も「寄る波の遠白波の」も、ある一点の目的に向かって非常に合理的な動き方をしている、まるで歯車のような言葉に見えてきます。牧水の歌に比べて、すっかり近代性に汚染された歌みたいに現れてきます。

 

まあ、ここには選歌の妙というか評論的トリックがあって、白秋・茂吉には少々意地悪な話の運びかもしれません。

 

でも、わたしは牧水の浜辺の歌に「機械」化されない「美しさ」を見るというビジョンに確かに魅力を感じたのでした。

 

それで、岩波文庫若山牧水歌集』を買ってぱらぱら読んでいたものの、それほどぴんと来ず、では牧水関係の本でも読んでみようかなと思ってこの本を手に取ったのでした。

 

前置きが長くなりましたが、やっと伊藤一彦の本にたどりつきました。

この本は、生まれたところから死ぬところまでやる評伝ではなく、テーマ別の牧水論考が九つ並んでいるという感じのものです。

結論から言うと、(残念ながら、ということになるかもしれませんが)一章「牧水という人品」、人柄エピソード編が一番面白かった。

冒頭、牧水が満43歳で死んだときの挽歌が紹介されています。

 

愛ふかきちひさき瞳円き顔短き髯は君ならで誰  尾上柴舟

 

この歌はけっこう心に残りました。人が亡くなったときに作る挽歌に、わたしはあまり興味を引かれないのですが、

顔の特徴三連打、そしてそれが君でなくて誰だろうというこの歌はありな気がしました。挽歌として。素敵だなと。

師匠にあたる尾上柴舟とはたいへん仲良しだったそうで、以下は柴舟の発言の聞き書きです。

 

若山君が、新らしく沼津に家を建てたと言つて来ましてね。序に新らしい蒲団も作つたと言ふのです。そして、是非最初に、私にその蒲団へ寝て貰ひたいから、沼津へ遊びに来てくれと言つてゐますが、私もどうも忙しくて未だに行けないでゐます。

 

新しく作ったベッドに師匠に一番に寝てほしいと、牧水は思って招待したそうです。

これは美しい話なのか気持ち悪い話なのかよくわかりませんが。

顔の話も蒲団の話もそうですが、牧水まわりのエピソードは妙にフィジカルが強い気がします。

エピソードをまとめると、

 

・顔がよかった。特に笑顔がよかった。

・普段から服がぼろぼろだった。

・オールオアナッシングが信条だった。(大悟法利雄)

・部屋にびっくりするほど物がなかった。

・田舎者ムキ出しだったが、親しみやすい人だった。

・就職したのは生涯に二回。いずれも四カ月、一カ月で辞めているが、人徳によって難しい課題を解決したりした。

・お酒を飲むと朗詠した。自作の短歌も朗詠した。

・親に恋愛を反対されてしょげている友達のため、その親のところに直談判にいった。

 

なんだろう、おおまかに、サラリーマン金太郎みたいな感じの人物が浮かんできます。わたしは短歌を十年以上やっていますが、お酒を飲んで自作を朗詠する人は見たことがないですね。

 

こういうのが心に残ったということは、前半の玉城さんの提起した問題意識は、この本では実はあまり発展しなったということなのですが、日々の読書なんてそんなものですよね。いつか貼られた伏線がいつ回収されるかわからない。

 

ただ、牧水というのは非常にノスタルジーの対象になりやすいというか、失われたものをレペゼンする存在として見られやすいんだな、ということがわかりました。作品も人も。牧水を語ると人は、「もうトム・ソーヤが生きていける時代じゃねえんだよ」みたいな目になりがちです。安易な近代・現代批判にも使われやすい。

けれど、前半の「美しさ」が垣間見える瞬間は、歌を読んでいてたしかにあるような気がします。最後に数首引用しましょう。いずれも好きな歌です。

 

秋晴や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり 『海の声』

 

空の日に浸みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る 『海の声』

 

地震(なゐ)す空はかすかに嵐して一山(いちざん)白きやまざくらばな 『別離』

第12回 臼井和恵『窪田空穂の身の上相談』

 窪田空穂39歳、身の上相談に答える 堂園昌彦

窪田空穂の身の上相談

窪田空穂の身の上相談

 

  窪田空穂。1877年(明治10年)生、1967年(昭和42年)没。言わずと知れた結社「まひる野」創立者にして、近代短歌のビッグネームである。

 私がいちばん好きな窪田空穂の歌はこれです。いい歌だと思う。

 

はらはらと黄の冬ばらの崩れ去るかりそめならぬことの如くに 窪田空穂『老槻の下』

 

 短歌を始めてちょっと経てば、だいたい窪田空穂の名前は聞いたことがあると思う。しかし、彼が39歳のときに読売新聞で身の上相談の記事を書いていたことは知っているだろうか。ちなみに私はぜんぜん知らなかった。

 この本は、その空穂の身の上相談の全容を、家政学の教授である臼井和恵さんが解き明かした、けっこうぶ厚い本である。A4版で500ページくらいあって2006年、角川学芸出版から出ている。

 空穂が身の上相談欄を始めた経緯はこうである。1914年(大正3年)、読売新聞は他の新聞との差別化をはかるために、日本初の新聞婦人欄「よみうり婦人附録」というものを始める。その中で始まったのが「身の上相談」である。

 「身の上相談」というジャンル自体は、それ以前の明治時代から雑誌や新聞等でぽつぽつあったのだが(代表的なのは東京新聞の前身である『都新聞』のもの)、日刊新聞の女性欄の連載記事という形で新聞に登場したのは、これが初めてらしい。当時は、文書で送られてきたものだけではなく、実際に新聞社に来た人の話を記者が書き起こしたりしていたようだ。

  当初、読売新聞の身の上相談欄は女性作家水野仙子田山花袋の弟子で、歌人・服部躬治の妹らしい)が担当していて好評を得ていた。しかし、1916年(大正5年)、水野は結核になってしまい、身の上相談欄を続けられなくなる。で、この「よみうり婦人附録」の編集長が空穂の学生時代からの親友である前田晁だった。困った前田が急遽頼ったのが、女学校を辞職して職のなかった「わけ知り」の親友、窪田空穂なのだ。

 ようするに、窪田空穂は現在まで連綿と続く「身の上相談」という新聞コラムの一ジャンルの黎明期において活躍し、そのフォーマット自体を作り上げた立役者の一人なのである。すごいぞ、空穂。

 で、実際の相談はこんな感じである。いちいち長いと思うけれども、はしょったり現代語に直したりするとこういうのは台無しなので、せっかく字数制限のないブログだ、省略せずに相談と空穂の回答をぜんぶ載せようと思う。面倒な方はがんがん引用とばして読んでください。あと、読みづらいので、適宜赤字強調を入れてみました。そこだけ読めば話はだいたいわかります。

 ちなみに大正5年と言われてもピンと来ない人もいるかもしれない。斎藤茂吉『赤光』と北原白秋『桐の花』の発行が大正2年なので、まあ、だいたいそこらへんの時代をイメージしていただければ大丈夫です。

 まず、大正6年2月18日の相談から。△が相談者、▲が空穂の回答です。ではどうぞ。

私は二年前から或る婦人と相思の仲となつて清い交はりをつゞけて参りました近頃一層お互の愛が確実になつて来ましたので、自然結婚といふ事を考へなくてはならなくなりました。そこで私は自分の意志を両親に打明けますと、お前の配偶者を深切に世話してゐて呉れる人がある、その人に対し申訳がないから許せないといふ事になりました。世話する者のない結婚は大罪悪のやうに見て、甚だしく非難する習慣になつてゐる私の地方の事ですから、両親の反対するのも一応は尤もだと思ひました。併し一歩進めて考へて見ますと、結婚といふものは世間体や義理立てによつて成立たすべきものではないと思ひます。殊に現在我国に行はれつゝある仲介結婚といふものは、夫婦となるべきお互が性格も気質も知る事が出来ず、只両親と仲介人との間で纏めてしまふので、当事者に取つては不安心な結婚法といはねばなりません。私は既に二年間も彼女と交際して、気質もよく知りぬいてゐますので、彼女との結婚は、この点では最も安心で、最も幸福だと思ひます。併しその結婚の為に、年を取つた両親に、世間へ対して肩身の狭い思ひをさせ、自分も亦不品行呼ばはりをされる事を思ふと、迷はずにはゐられません。私は其の婦人とはまだ結婚の約束はしてゐませんから、今のうちならば自分の決心次第で何うにでもする事が出来ますが此の場合親の意見に随つて、即ち親の安心する旧式な結婚法に甘んじてゐるべきでせうか。又は両親を説き伏せて、彼女と結婚すべきでせうか。現在の私として執るべき道をお教へ下さい。(結婚する男)(p.111)

 こまった。自分の決めた恋人と結婚したいのに、両親は紹介した人間と結婚しろと言うのだ。大正時代、自由恋愛はまだまだ珍しく、「ご法度」と捉えられることも多かった。ただ、価値観が移り変わってきてもいて、この質問だけではなく同じような悩みを抱えた相談がたくさん来ている。空穂はこう答える。

▲貴方の云はれる通り、我国の従来の結婚法は、昔の時代には適したのであつたでせうが、現在の時代には適さないものであるといふ事は、識者の殆ど全部が承認してゐる事です。今はそれが問題ではなく、問題は実行方面に移つてゐます。即ち結婚する者の自由意志に基いたもので、同時に若い者に伴ひ易い、一時の感情に駈られた無分別なものでなくするには何ういふ方法を執ればよいかと考案中になつてゐます。今貴方の場合を考へて見ますと、貴方が旧式の結婚法には満足の出来ないといふのは、寧ろ当然な事です。出来る範囲に於いて古い習慣を打破して進むといふ事は御自身に対する義務とお考へになつて然るべきでせう。貴方の地方の習慣がそのやうでしたら、一時の非難ぐらゐは覚悟して正しい先例をひらく為めに、或る程度までの犠牲になるつもりでなさるべきでせう。併し貴方の態度が潔くなく、その結果もよくないやうでしたら、御自身を辱しめる事であると共に、一地方の進歩も阻む事になりますから、その辺は十分の御注意を要します。貴方のやうな境遇に立つた方は人一倍の責任のある事を、呉れ呉れもお覚悟になるべきです。(記者)(p.112)

  空穂は、恋愛結婚を認めている。「従来の結婚法は、昔の時代には適したのであつたでせうが、現在の時代には適さない」とし、「貴方が旧式の結婚法には満足の出来ないといふのは、寧ろ当然な事です。」と励ます。しかし同時に、「先例をひらく為めに、或る程度までの犠牲になるつもりでなさるべきでせう。」とその困難なことも踏まえ、「貴方のやうな境遇に立つた方は人一倍の責任のある事を、呉れ呉れもお覚悟になるべきです。」と相談者の責任をも促す。時代の趨勢と若者の責任に同時に目を配った名回答ではないだろうか。ちなみに、空穂も自分の元生徒と、恋愛の末結婚している。

 このように、空穂は進歩的な視点からアドバイスをすることが多い。と、同時に「自分を恃む」というところが空穂の回答の特徴である。「自分で決めたことは自分で責任を持て」というのが、空穂の基本スタンスなのだ。

 次の職業に関する質問も、空穂の「自分を恃む」という姿勢がよく出ている。

△私は二十二歳になる女でございますが、或る事情の為め独立生活をして行かなければならぬ身でございます。その事情は詳しくは申上げ兼ますが、生来私は非常に演芸を好みますので、女優にならうと決心はしました。保護者である実兄も賛成してくれました。世の中の人は、女優などといふと直ぐに嘲笑いたしますが、それは此れまで女優となつた或人が、世の嘲笑をうけるやうな失態があつたり、且つ女優が自重しなかつた為だと思はれます。私は今後真面目に芸術を研究し、女優として恥しからぬ品性の陶冶と、人格の修養につとめて行つたならば、女優も世間から嘲笑されたり、安価に扱はれるやうなことはあるまじと思ひ、又決して恥づべき職業ではないと思考されますので選択した次第でありますが、しかし私は此道に一人の知人もなく、それに入つて行く手段方法もないので困つてゐるのでございます。記者様、一代の名優と思はれる方に弟子入りするのと、女優学校と申すものに入るのと何方がよいのでせう。将来信頼するべき名優と申せば何人で、又女優学校と申ますのは何所にあるのでせうか。又弟子入りするのと学校に入る方法や損益は如何なものでせう。私は普通教育は受けてゐる者でございます。(きぬ女)(p.362)

 女優になりたいのだけれど、どうすれば、という相談だ。当時、女優は「賤業」と見なされており、ひどいときは、それが理由で家族から絶縁されるなどの事例もあったようだ。そんな風潮の中で女優になろうとする強い決意を感じる相談である。空穂はあたたかくこう答えている。

▲職業に対しての貴方の御考は正しいものと思ひます。自分の天分を発見し、それを重んじて、そちらに向かつて進んで行く事が其人としての進歩の路です。周囲の批評などは、其事に較べると云ふにも足りない程小さいものです。社会としての進歩も、さうした人々の進歩の集積に過ぎません。女優が我が道だと信じられるならば安んじてそちらに向ふべきです。御質問の名優に弟子入りするのと学校に入るのと何方が利益かといふのは、御返事が致しかねます。これは恐く誰にも分らない事でせう。又将来信頼すべき名優の誰であるかも分りかねます。とにかく女優を養成する所としては、芸術倶楽部附属の俳優養成所(牛込区横寺町芸術倶楽部内)があります。又帝國劇場附属の女優部も、或は養成するかも知れません。これらに就いて御照会になれば、大凡の様子は知れませう。(記者)(p.362)

 空穂は言う、「女優が我が道だと信じられるならば安んじてそちらに向ふべきです。」と。同じ読売「身の上相談」欄でも、空穂以前の回答者は同じく「女優になりたい」という十九歳の女性に対して、「先ず先ず普通の処女などはさういふ方面に足を踏みいれないのが安全であらうと思はれます。」と答えているので、空穂の回答は同時代としても、ずいぶんと親身になったものだとわかる。「自分の天分を発見し、それを重んじて、そちらに向かつて進んで行く事が其人としての進歩の路です。」に、空穂の職業に対する基本スタンスが見られる。

 しかし、若い頃から職を転々としてきた苦労人・窪田空穂は、リアリストでもある。次の相談は、画家になりたい18歳からの相談だ。 

 △私は本年三月或る学校の洋画科を出、もう少し勉強したい為に或る洋画家の塾に見習ひに行つてゐますが、塾生の皆さんと一緒に進んで行く事が出来ないので、自身について疑ひを持ち始めました。一体私は家の跡取ですが、絵が好きな所から前後をも考へずにその道に入つて来ました。そしてたとへ無器用でも、精神一到何事か成らざらんと思つて今日まで勉強して来たのです。しかし絵は天性器用でなくては駄目なものではないかと此頃になつて迷ひ出してしまひました。私は本年十八ですから成るべくは今まで通続けて絵を勉強したいのですが、駄目ならば他の事業に移らなければなりません。この事は自分の決心のついた上で親に相談したいのですが、御判断下さるやうに願ひます。(迷える生)(p.74)

 洋画科を出てからさらにある画家の塾に入ったが、周りについていけない、辞めたほうがいいですかねえ、という内容だ。空穂の回答は次のものだ。

▲絵が好だといふ事と、画家になれるか何かといふ事とは別な問題です。絵が好きでなければ画家にはなれないが、好きだからといつて天分が伴つてゐないと画家にはなれません。即ち勉強だけでは駄目です。その人が画家になれるか何うかは、恐く十年くらゐ勉強した上でなければ分らない事でせう。十八歳の貴方がそれを云ひ出すのは早過ぎますが、今から自身が疑はれるやうだと、貴方は絵は好きだが天才に乏しいのかも知れません。天才が乏しいならば絵は趣味に止めて置いて職業とはせず、職業は他の方面で求める方が生涯の幸福だらうと思ひます。貴方と同じやうな疑問を抱いてゐる人が大勢あつて同様な相談をされます。この返事はそれらの方からも見て頂くつもりで申ます。(記者)(p.74)

 先ほどの女優の相談との差異が際立つ。空穂は言う。「自身が疑われるようだと止めておけ」と。リアリストだ。「自分を恃む」ことができない場合は止めておいたほうがいいのだ。

 空穂は、長野県の田舎の次男であり、一度は大きな家に婿養子に入るも、そこを出て行ってしまったりしている。その後、東京に上京した後も、新聞社や出版社や学校教員などを転々としている。ずっと職で苦労している空穂だ。今回の読売新聞婦人欄への就職も、そんな空穂を哀れんだ親友の前田晁が、気を利かせた側面がある。

 このへんで、空穂の、進歩的、リアリスト、自分を恃む、という性質が分かってくる。そして、それはどうやらは、空穂の生い立ちにくわえて、空穂のキリスト教信仰からも来ているらしい。空穂は、28歳の時に明治・大正時代の指導的キリスト教牧師・植村正久に心酔し、洗礼を受けている(ちなみにこの植村正久は日本文学史上重要な人物で、他に、国木田独歩島崎藤村正宗白鳥などにも影響を与えている)。次の回答などは、そうしたキリスト教的な考え方が出ている例だ。

私は四年以前に継子の四人ある所へ縁づきました。頭は十九で昨年死去し、次ぎは此春縁づき唯今家には中学一年の十四の長男と小学三年の九歳の子とがあります。私は継母だからと云はれたくなく余程注意してゐる積りでしたが、それでも旨く行きません。それには夫が非常に子煩悩で、子供を信用し過ぎるといふ点もあります。例へば夫は私が子供を叱るのを厭がり、又私の言葉づかひが邪慳だといつて非難し、子供には足蹴にされても我慢しろと申しますが、私は生来肝癪持ちで、長上の者にならば格別、子供に足蹴にされても黙つてゐる程の雅量はありません。所が子供は我儘で、私に悪口雑言など致しますので、叱らずにはゐられないのです。先日も子供の事に就いて夫と話をしました末、私の年寄つて世話になりたさに子供を育てるのではない、親の義務だから育てると申しますと、夫は、お前は兄弟が多いから子供の世話になどならなくともいゝだらうと申し、それからは一層気色を損じ、今では夫も子供も私を出て行けよがしに致します。私は皆がそれ程に思ふなら出て行つてもやりたいのですが、悲しい事には一昨年の十二月生れた子と今年の七月生れた子が可愛くて、死んだならば仕方もないが生れてゐる中には迚(とて)も別れる事は出来ません。それで若し子供を二人連れて兄弟の世話にならずに暮して行けないものかと思ひ煩悶してをります。私の最善の路は何処にあるのでせう。(辰子)(p.54)

 あるところに後妻として入ったが、義理の子供たちとうまく行かない、と。「子供に足蹴にされても黙つてゐる程の雅量はありません。」に怒りが滲んでいる。雅量って。ぎりぎり怒りに堪えている相談者の歯軋りが聞こえてきそうだ。空穂はこう答える。

▲継母といふものゝ苦しい心持は察しますが、併し継母でも立派にやつてゐられる方もありますから、今後の身の振方などお考へになるよりも、先づ現在の境遇を善くしようと努力しなければなりません。夫は子煩悩に過ぎると云ひますが夫の方になつて見れば、生みの母を失つた子供だと思つて不憫も一層でせう。又子供になつて見ればもう物心が附いてから母に別れたのですから、貴方に対して親しみの薄いのも無理とは云へません。夫の方の云はれるやうに、足蹴にされても辛抱する程の愛を貴方は持つ事が出来ないでせうか。その心になつたらまさか足蹴にもしますまい。又親の義務だから子供を育てるとは思はず貴方が実子に対するやうに可愛くて育てずには居られない心持になりませう。さうなつたら母子の中の感情も融和して行きませう。対等の心持に止らず、進んで此方から与へて行かうとする事が、何よりもお考へになるべき事です。(記者)(p.55)

 空穂は、義理の子供も可哀想だから、実の子に対するように愛を持てないだろうか、と言う。「対等の心持に止らず、進んで此方から与へて行かうとする事」は、とてもキリスト教的だ。相談者のお母さんは納得しただろうか。

 空穂が受洗したのは若い頃だったから、39歳のこの頃は、毎日教会に行ったりはしていない。しかし、空穂の中にキリスト教信仰は、大きなものとしてずっと残っている。

我は神の造ったもの、聖霊の宿る神殿で、限りなく重んずべきものである。(『わが文学体験』) 

と後年空穂は述べている。相談者の側に立つ、という空穂の回答姿勢には、キリスト教の影響が大きくあるようだ。

 また、まだまだ迷信の強かった大正時代、こんな質問も舞い込む。易者から言われたことを気にする夫婦の相談。

△私は八年前に従兄と結婚して睦しく暮して来ましたが、一昨年の夏夫は二月ばかり病気をし、その看護づかれの為か妊娠中であつた子供は生れると間もなく死にました。昨年の秋夫は易者から身の上を見てもらひますと、この縁は合性が悪い故長くは続かぬ、続ければ夫の身体が弱つて行き、子供も満足の者は出来ないといはれたさうです。元来夫は体の弱い上に、血族結婚を気にしてゐた所へこんな事を云はれたのですから、それ以来私たちは何うしたらよいかと気ぬけしたやうに成つてゐます。離別される位ならば私は死んだ方がましだと思ひますが、さりとて一緒に居る為に夫の生涯が駄目になるやうでしたら、自分の体は犠牲にしても夫は幸福にしなければ済まないと思つて、生きる甲斐もない日々を送つてゐます。合性の悪いのは何うする事も出来ないものでせうか。(苦しむ女)(p.287)

 易者から「合性が悪い」と言われ悩んでいる夫婦。易者からの言葉なので、「ちょっと相性が悪いよねー」レベルではなく、たたりがあるとか、運命が悪いほうに行くとか、そのレベルで脅されたのだろう。1916年だなあ、という気もするが、現代でもマジで悩んでいる人はけっこういるだろう。空穂先生どう答えるか。

合性の良し悪しなどといふ事のある筈がありません。いはゆる合性は悪くても仕合せな夫婦もあり、合性は善くても不仕合せな夫婦もあります。合性などゝいふ事のないのはそれだけでも分ります。一体人が生まれた時から運命がきまつてしまつてゐるなんて事があつてたまるものですか。何うでも易者を信じるならば、五人十人と見てお貰ひなさいまし、云ふ事が皆違ひませう。八年も一緒に睦ましく暮してゐる中には、一度位の不仕合せは誰の身の上にもあります。それ位の事で迷ひ出してはいけません。そんな役に立たない心配こそしてはなりません。(記者)(p.288)

 「合性の良し悪しなどといふ事のある筈がありません。」と迷信をビシッと否定している。空穂、ちょっと怒っている。「一体人が生まれた時から運命がきまつてしまつてゐるなんて事があつてたまるものですか。」がかっこいい。うんうん、そうだ、と言いたくなる

 他にも、「転居したいんですが、方角の良し悪しはあるものですかねえ」という質問に対しては、「そんなものない」と答えたあとに、

記者は、この美しい天地の、何方の方角がよく何方は悪るいなどいふ事を考へるのは、大それた事だと思つてゐる一人で、何方の方面も皆いゝ方面だと思つて安心してゐます。(p.290)

と答えていて、にやりとする。かっこいい。

 そんな空穂の読売新聞社内での働きぶりはどんな感じだったかといえば、こんな証言が残っている。

 空穂は、毎日、社へ遅く来る。相談の手紙を見、面白いのを選んで返事を書いて、何枚分か書くと用がない。一、二時間の事務である。まだ日が高いのに「おれや、帰るよ」で、帰つてしまう。そうかと思うと、社会部長の机へやって来て「おいおい土岐君、どうだい」なんて話しかける。社会部には青野季吉などもいたわけで、部下の手前、土岐は少し困った。……中には、紙面に発表せられるのを嫌つて本人が社に来るのもある。空穂はそれにも会つて助言を与えた。

(村崎凡人『評伝窪田空穂』)

 おもしろい。空穂はサッと仕事して、サッと帰っていたようだ。「土岐君」は土岐哀果(善麿)。このころ読売新聞社会部長だった。土岐は、空穂より8歳年下で、もちろんお互い歌壇では見知った顔だ。土岐哀果はずっと読売に勤めているたたき上げの新聞人であり、空穂はそこにひょっと入ってきた形になる。土岐はやりにくかっただろうなあ、と思って笑ってしまう。

社会部長の土岐哀果は窪田さんとは肌合いがちがい、編集室にいるときは新聞記者になり切っていた。窪田さんは、編集室にいても歌人であった。

青野季吉「解説」窪田空穂『わが文学生活Ⅲ』)

 というコメントもあり、なるほど、と思う。

 そして、婦人欄で一番多いのは、家庭に関する相談だ。次は、子供のできない夫婦の相談。 

私は本年三十一歳になる男ですが四年前相思の間柄の或女と親の許しを得て結婚しました。妻はよく親に傅(かしづ)き仕へてゐます。食事の時にも親より先へは膳にも向はない位です。大勢ある小姑にも誰彼れの差別なく一様に親切にしてくれます。又家の内の掃除整頓はもとより嘗て手馴ない仕事をさへいそいそと働いてゐます。これは皆私に対する愛の現れであるとして深く感謝してゐます。然るにこゝに一つの煩悶があります。それは結婚後四年にもなるのに子供が一人もありません。つくづく考へるに人間として子供のない程不幸な事はありません。しかし子供の無かつた人でも妻が変り夫が変つた為に出来た人も沢山あるやうに思ひます。私はそれを理由として離縁してもよいものでせうか。絶えず苦んでゐます。(東北の煩悶生)(p.94)

 妻はよく私に尽くしてくれて感謝しているけれど、子供ができないから離縁してもいいだろうか、という相談だ。とんでもない。とんでもないが、この時代は「良妻賢母」が女性の至上価値とされていた、そういう時代だ。空穂はどう答えるだろうか。

結婚といふ事と、子供といふ事とは別にしてお考へになる方が正しくはないかと思ひます。相思の間であつた只今の細君と結婚しようとされた時、子供を得る方便としてこの婦人と結婚するのだとは御思ひにならなかつたでせう。細君も亦同様だつたらうと思ひます。細君は子供を生ませる為の者、子供を生まなければその資格がないと御思ひになるのは間違つてゐませう。それに又、子供の出来ないのは何方かの体に何かの障りのある為でせう。それだと医学の進んだ今日の事ですから専門家から調べてもらふなど力の尽しやうがあります。子供を欲しかつたならば先ずそれを成さるべきです。何方の体も丈夫であつたらば必ず子供は出来ませう。天の与へる日を心長く待つてゐるべきです。(記者)(p.95)

 結婚と子供は別だ、とはっきり答えている。また、それを「相性」や「慣習」の話ではなく、医学の問題として捉えていることもポイントだ。やはり時代の空気からすると、随分と進歩的だと言える。この「よみうり婦人附録」の「身の上相談」欄が、女性から大きな人気を得たのもうなづける。

 次の質問も印象に残る。

私は結婚後三ヶ月にして全快の見込の附け難い病気に罹りました。夫に離縁を申込みますと、うまい事を云つて喜ばして置き乍ら無断で結婚してしまひました。此事を知人に知らせてやりますと、その人は未婚時代から私を愛してゐて呉れたとの事で、今度の事にもひどく同情して呉れましたので、嬉しく感じました。私は今後も此人と交際をしたく、親戚にも断つて許しを得たいと思ひますが、かうした結婚も出来ない体をしてゐては、仮令精神上で相愛して行くだけでも、何となく不正な行為をしてゐるやうに感じられて身が責られてなりません。さりとて私は今孤独な身ですから交際を止めたら何んなに心細いだらうと思はれてそれも出来難いのです。何ういふ道を執るべきものかお教へ下さい。(たま子)(p.92)

 結婚後、難病が見つかり夫に離縁されてしまった。しかし、そのことに同情し、自分を愛してくれる別の人が出てきて、自分も嬉しいが、結婚もできない身体だとなんとなくその人に悪いことをしている気がする、どうすれば、という相談だ。空穂の回答はあたたかい。

▲結婚を予想しない男女交際は不正な行為のやうに感じると貴方は云ひますが、何故そんな気がするのでせう。それだと男と女とは友達となる事は全然出来ない事になつてしまひます。人類の一半を占め合つてゐる男と女がそんな考を持たなければならないといふ方が不思議な位です。殊に貴方は結婚の出来ない病気を持つてゐるとの事ですから、男女といふやうな性的の心持を離れて、人間同志といふ広い心持で交際をなすつたら宜いでせう。(記者)(p.93)

 空穂は言う。「男女といふやうな性的の心持を離れて、人間同志といふ広い心持で交際をなすつたら宜いでせう。」と。「それだと男と女とは友達となる事は全然出来ない事になつてしまひます。」はとても印象に残る。たぶん、相談者は嬉しかったに違いない。

 次の質問も妻の立場に立っている。

△私は本年六月某私立大学の政治経済を卒業した二十三歳の青年ですが、先月中伯父の媒介で、母一人娘一人の親族に当る田舎の財産家へ婿養子に参りました。その娘とは中学時代から度々逢つたことがあるので性格はよく知つてゐましたが、田舎ながら女学校を卒業してゐるにもかゝはらず所謂虫の好かぬ女でした。しかし実家の両親や親族が私のその結婚を熱望してゐたので、反感を怖れ強制に任せて納得した次第です。結婚後の私は実際に娘の欠点を見出し、彼女の一挙一動が癪を醸す種となつて毎日不快な生活を継続してゐます。彼女の醜貌、音声の悪濁、音楽趣味の皆無な点は殊に私の嫌悪する所で、その為墻璧(せうへき)なき愛情を提供することの不可能なる事を是認しました。この場合如何にせば社会的に満足を得ることが出来るでせうかお伺ひ致します。終りに妻は非常に私を慕つてゐることを附言して置きます。(煩悶生)(p.151)

 エリート大学生が、田舎の財産家へ婿に入って、そこの結婚相手が虫が好かない、とぶちぶち文句を言っている。顔が醜い、声が汚い、果ては音楽の趣味がない、とけちをつけている。このエリートの性格の悪いところがよく出ててすごい。「終りに妻は非常に私を慕つてゐることを附言して置きます。」じゃねえよ! と言いたくなる。空穂の回答は次のとおり。

▲高等教育を受けた事に対して矜りを持つてゐる貴方のやうですが、何よりも大事な品性といふものに対しては何等の修養も持つてゐないのは驚かれるまでゞす。厭な、虫の好かない娘だといふ事は前々から承知してゐたが、両親や親族の手前を憚つて結婚したと、貴方はそれが男子の意気でゞもあるやうに云つてゐますが、結婚といふ如き大事をさういふ態度で扱ふのは、第一は自身を辱しめ、第二は他人を辱しめる事で、道徳の上から観てこれ位ゐ不道徳な恥づべき事はないでせう。さうした貴方だから結婚して一と月もたゝない中からそれに伴ふべき責任を無視して、顔が醜い、声が悪い、音楽の趣味がないから嫌ひだと、遊蕩児が芸妓の批評でもするやうな批評を新妻に加へて、世間体さへ悪くなければ離縁しやうと思つて、それの出来ないのを煩悶と称して相談をするやうな事になるのです。貴方は品性の上では幼稚園の生徒となつて、新しく修養を始めなければなりません。(記者)(p.151)

 甘えたことぬかしてるんじゃない、とこてんぱんだ。「貴方は品性の上では幼稚園の生徒となつて、新しく修養を始めなければなりません。」とはすごい言いようだ。こちらもスカッとする。新聞紙上でこんなに怒られて、相談者は立つ瀬がなかったんじゃないだろうか。

 と、ここまで空穂をべた褒めしてきたが、もちろん、空穂の回答にも問題がないわけではない。たとえば、次の相談を見て欲しい。

△私は本年某高等専門学校を卒業した未婚の者ですが、数年の中に父の業を継いで働かねばならぬので目下結婚を勧められてゐます。そして相手の選択の自由を与へられてゐます。然るに私は一年余り前不図した機会から花柳界の女と知合ひになり、今では互に心を許して婚約までする仲となつてをります。結婚となると私はこの女の事を考へなくてはなりませんが、一旦さうした境遇に陥つた女が、真面目な生活が出来、一生の苦楽を偕にする事が出来るものでせうか。即ち家庭が円満に行き、私が社会から後指をさされて家業に不利を招くといふやうな事は無いものでせうか。又さうした女は一般に子供が出来ないものだと聞きますが如何でせう。今となつて手を切るのは余り酷いと思ふ事情もあるので悶えてをります。(AH生)(p.142)

 花柳界の女性と結婚して果たして円満な家庭を築けるか、という質問だ。空穂はこう答える。

大体から観ますと境遇と婦人とは一致してゐて、悪い境遇にはゐるが悪い感化は受けてゐないといふ婦人は極めて少いやうです。しかしその極めて少数の者は、さうした境遇にも打克つて、普通の境遇にゐる者には得られない修練を受けてゐるといふ事もありませう。要するにその人次第の事でそこは第三者には分りません。貴方の云はれる人がその少数者の一人であつたら家庭は円満には行きませう。しかし周囲から後指をさされて家業に不利を来すといふ事は有る事と思はなければなりません。世間はさういふ境遇にゐる婦人に対しては経緯を持つてゐませんし、それを何うする事も出来ないからです。尚ほ結婚前には一つの欠点もないと思はれる程立派な婦人でも、同棲すると欠点が現はれがちなものです。初めから躊躇されるやうな相手では恐く良い結果はなからうと思はれます。(記者)(p.142)

 空穂は言う。「だいたいにおいて境遇と婦人は一致している」と。「もちろん、その中の少数は、そうした境遇にも関わらず優れた人品の女性もいるが」と一旦留保しながらも、「それは第三者にはわからないし、世間はなおわからないから、後ろ指を指されることはある」と。すなわち、止めておけ、とのことだ。

 世間のことがよくわかっているとも言えるが、これまでの空穂のヒューマンな回答を見ていると、えー、そりゃないよ、という気持ちになってしまう。

 次の質問も同様の意見が見られる。

△私は不図したことにより故郷を後にして旅に出て、困難の結果、口入屋に欺かれて料理屋に奉公いたしました。私はその日稼業はしてをりましたが、心まで堕落してはをりませんでした。一日も早く卑しき稼業はやめて真面目な生活をいたしたいと明け暮れに祈つてをりましたが、僅な金銭の為に束縛されてもそれも出来ずにゐました。ところが二三年前、或富豪に借金を払つていたゞき、今日では真面目な暮しをしてをります。しかし或る一部の人は、私が一旦いやしき稼業をしたところから非常に軽蔑してをります。成程私は卑しい稼業はしましたが、今日では真面目に働いてゐますのに、それでも社会の人は軽蔑するのでせうか。私の考へでは、或有名な人の奥様にも、花柳界にゐた人が随分あります。その事を考へれば然程軽蔑さるゝものではあるまいと思つてゐますが、しかし私如き者は何所までも社会の蔭ものでせうか。記者様、哀れな女がせつかく明るい所で働いてをりますのに、何所までも軽蔑されるものでせうか。知らせて下さい。(哀れなる女)(p.81)

  口入屋は、人材斡旋業者。そこに騙されて料理屋に勤めることになってしまった。文中に「花柳界」とあるので、たぶん「料理屋」はふつうのレストランではなくて、芸者やホステスっぽい仕事なのだろう。ある富豪に借金を払ってもらって自由の身となったが、今でも後ろ指さされてつらい、という内容である。さっきの相談と似ている。

 空穂の答え。

▲貴方の御一身からいふと、暗黒の境を去つて光明の境に出て、そして楽しく働いてゐるのですから、初めて生き甲斐のある生活に入られた訳です。貴方から云へば名誉のある生活です。その貴方に対して軽蔑する者のあるのは、貴方から見れば心外でせう。しかし軽蔑する者の方にも一理ないとは云へません。職業に高下は無いといひますが、婦人がその節操を売り、又はそれに近いと見做される職業をしてゐる者は、この言葉の例外とし、やはり軽蔑されるべきものだと思ひます。貴方は精神は堕落してゐないと云ひますが、形式からばかり人を見て評す多数の者には、それも為方のない事だと思ひます。貴方としては、過去に対しての多少の非難は止むを得ない事とし、徳行を積むことによつてそれを消さうと努力されるべきで、今はその非難を非難されるべき時ではないでせう。(記者)(p.82)

  どうも、花柳界はダメらしい。空穂は「職業に高下は無いといひますが、婦人がその節操を売り、又はそれに近いと見做される職業をしてゐる者は、この言葉の例外とし、やはり軽蔑されるべきものだと思ひます。」とひどいことを言っている。これは身の上相談欄なので、空穂の意見そのままと見るのはナイーブだが、それでも、ひどいなーと思う。

 実は私、この『窪田空穂の身の上相談』を読むちょっと前に、同時代の女性アナキスト伊藤野枝の伝記『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(栗原康著・2016・岩波書店)を読んでいた。ウーマンリブの元祖とも言われる伊藤野枝なら、たぶんこの回答を読んだらブチ切れるだろう。伊藤野枝の言葉を引用してみる。

「賤業」という言葉に無限の侮辱をこめてかのバイブルウーメンが「一人ひとりの事情については可愛そうに思うが――」などと他聞のよさそうな事をいいながらまだその「賤業」という迷信にとらわれて可愛そうな子女を人間から除外しようとしている。それだけでも彼女たちの身のほど知らずな高慢は憎むべきである。まして彼女たちは神の使徒をもって自(みず)から任じてたつ宗教婦人ではないか? 博愛とは何? 同情とは? 友愛とは? 果(はた)してそれらのものを与え得る自信が彼女たちにあるか? 恐らく彼女たちの全智全能の神キリストは彼女らが彼の名を口にしつつかかる偏狭傲慢の態度をもって人の子に尽(つく)すことをかなしんでいるに相違はないと私は思う。

伊藤野枝「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」)(1915)

 これは、伊藤野枝が、婦人矯風会というキリスト教団体を批判したときの文章だ。婦人矯風会は政府の公娼制度を止めさせようとしていて、それはいいのだが、売春している女性を「賤業婦」と呼んでいた。女性が可愛そうだから売春を止めさせよう、ではなく、売春は「賤しいもの」だから止めさせようとしていた。それを伊藤がブチ切れのだ。お前らは世間体のいいことを言っているが、本心は「賤業」とか言って、そうした人々を下に見ているじゃないか、そんなのがキリスト教の精神か、とカンカンである。

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

 

  ちなみに伊藤野枝は大正12年(1923年)の関東大震災のどさくさにまぎれて軍部に、恋人の大杉栄と一緒に虐殺されている。空穂とは完全に同時代人だ。伊藤はなかなか複雑な人なので、詳しくは伝記を読んでほしいのだけれど、ともかく、空穂とはいえ、当時の支配的価値観を内面化しているところは免れていない。伊藤野枝の眼で見るまでもなく、そこに突っ込みを入れることは可能だ。

 実は、空穂の身の上相談回答の限界もここにあって、それは著者の臼井さんも指摘している。空穂の回答には「自分を恃む」という姿勢が強いが、それはつまり個人的解決を重視するということでもある。その反面、問題の背後に社会的・経済的な要因があり、それは女性個人の修養向上のみでは解決ができないという視点が、皆無とは言わないが弱い傾向にある。

 たしかにそれは批判点だろう。だが、窪田空穂の回答が、日本初の新聞女性欄のいちコーナーとして、その時代の女性たちの助けになっていたことは、紛れもない事実だと思う。

 次の相談と回答は、その最も大きなもののひとつとなった例だ。

△二十三日の御紙上の「独身を覚悟した訳」といふ相談を読みました時、私は悲しみもし、驚きもしました。それは余りに私の境遇とよく似通つてゐるからです。私は十四歳の時、知人の家へ手伝ひに参りました。夏休み中手伝つて呉れと達て云はれて止むなく参つたのです。そして毎日変りなく過ごしてをりました。その中御主人と奥様とはちよつとした事から口論をされ、それが元で奥様はお里の方へ三四日お出になり、家には御主人(当時三十七八歳)だけになりました。その時(大正二年八月)私は御主人の為に、清い操を汚されてしまひました。私は何んなに泣いたでせう。その後御主人様は大層私に深切にして呉れましたが、私は何なにその深切がいやだつたでせう。しかし私は二た月ばかりもその家にゐて、帰宅ができると父母の許にたのしく過ごしました。さて其の当時は何事も知らぬ私の事ですから、時々思ひ出しては、自分ながら怖ろしいやうな考へを小さい胸へ浮かべたこともありましたが、自分さへ黙つてゐれば円満におさまる御家庭と思つて、今日まで黙つて過ごしました。今日ではもう恐ろしい考へなど持つてはをりません。私は只今は十八歳になります。そして昨今は看護婦になつて、大勢の患者に接してをります。そして男子の方を思ひ出すと、私は昔の事が思ひ出されてなりません。それと同時に男子を呪はずにはゐられません。又私は至つて快活な性質でしたが、その事のあつた時から非常に陰気になり、寂しい程静かな室を好み、本などを読んでゐるのが楽しみのやうになつてしまひました。そして又、清い月や清い少女などを見ると、たまらなく懐かしい気がし、そして心は如何に清くても、女子に最も大切な操を汚された自分であることを思ひますとたまらないまで悲哀を感じずにはゐられません。右の事情から私は独身と覚悟を定めてをります。そして早く産婆なり薬剤師になり、一人前の者となつて父母に安心をさせたいと思つてゐます。然るにもう二三軒から結婚を申込まれてゐます。その度毎に私は断つてをりますが、何も知らぬ父母は唯不思議にに思つてゐます。親類も頻(しきり)に同じ事を勧めますが、以前の事を思ひ出しますと、私も結婚はおろか男といふ言(ことば)さへいやな位です。記者様、私の心を御察し下され、父母にこの委しい事を話さずに、結婚問題をことわる法を御教へ下さいまし。尚ほ私は、汚された事は一度だけでございました。(埋れし弱者)(p.258)

 どうもこのような、年若いころにレイプされ、それが元で結婚をあきらめたり、あるいは夫に対して後ろめたい気持ちを抱いたりといった、反吐が出るような事件が大正時代にはかなりあったらしく、空穂の回答を読んだ女性から、こういった類の相談がバンバン舞い込んだ。「あの回答を読んで思わず筆を取りました」と。みんな、相談したくてもどこにも相談できなかったのだ。悩み苦しんだ女性たちにとっては、新聞でこうした話題が取り上げられることは、当時の風潮からすると本当に救いのように見えたのであろう。空穂はそんな女性からの相談に、一回一回丁寧に答えていった。この相談に対する空穂の回答は以下のようなものだ。

▲此頃打続いてかうした悲しむべき手紙を手にして、世にはかうした事の如何に多いかを知つて、嘆きと怒りとを交々感じてゐます。かうした事の起つた事情を見ると、婦人が自意識が足りない為とか、又は勇気が足りない為とかいふのではなく、総て皆男子が暴力を以て、抵抗力のない婦人を蹂躙してゐる事が分ります。男子の一時の戯れ心が、如何に婦人の生涯を暗いものとし、如何に内部的に変化を起させてゐるかを思ふと、原因の小さきに較べてその結果の余りにも大きいのを見て、驚かずにはゐられません。婦人に対して男子は、今よりは遙かに責任のある態度を執らなければなりません。男といふ字を見るのさへもいやだといふ貴方の呪も貴方としては尤もの事だと云はなければなりません。さて、貴方の純潔を失はれた悲みに対しては同情します。しかしその動機から見ると貴方は暴力によつて奪はれたので、その中に貴方の意思は含まつてゐません。失つたには相違ないが、いはゆる災難であつて、貞操を破つたといふ事とは違ひます。悲みではあるが、責任の伴はない、悔の伴はない悲みです。即ち他からは十分に同情されるべき不幸といはなければなりません。随つて自分は貞操を破つた、女としての資格がない、結婚は出来ないとまで御考へになるのは、形にばかりつき過ぎた考へ方で、第三者から見るとそれ程までに考へるべき事ではないと思ひます。記者は貴方が良縁があつたら結婚される事を希望します。そして結婚前に、自身の事情を然るべき方法で先方に通じたならば、良縁といふべき縁であつたならば、必ず其事は許さるべき事だらうと思ひます。それより外に方法は無いでせう。(記者)(p.259)

  「あなたには何の責任もありません」とはっきり言っている。この時代として、空穂のこの回答はすごい。「レイプされるのは、女性に隙があるからだ」「誘惑したんじゃないか」「死ぬ気になれば抵抗できるはずだ」などという意見がまだまだ多くを占めていた(もしかしたら、今でもそうかもしれない)。相談者の女性も、それゆえ苦しんでいる。空穂はそれにしっかりとノーといったことになる。

 実際この回答の後に、読売婦人欄は上からの圧力で「女性は自ら気をつけねばなりません」「死ぬ気になれば抵抗できるものです」というサクラの投書を掲載させられている。反響が大きかったために、バランスを取らされたのだ。大正時代はそんな空気だった。そんな中で、空穂の回答は同じ境遇にある女性たちを励ますものだったに違いない。

 もちろん、結婚のみを救いと捉える考え方を批判することもできるが、この空穂の回答はじゅうぶんにあたたかいものだと思われる。

 しかし、こういった回答がトラブルの原因になる。さっきも「上からの圧力」と書いたが、このような女性の側に立った回答は、「風紀を乱す」と上層部から睨まれていたらしい。ある時、読売新聞の社長夫人であり、また愛国婦人会会長でもあった本野久子が、「身の上相談」にいちゃもんをつけた。要するに、男女問題や性に関する問題をあからさまに取り扱っていることが、当時の上流夫人の道徳観に抵触したのだ。

 本野久子は、上司を介して前田に意見書を渡す。曰く、「読むに忍びざる」「賤しむべき」内容であり、こういう記事は「害があつて益がない」と。前田はそれを空穂にそのまま見せた。

 空穂は手紙を見て激怒した。すぐさま返事を書く。内容はまとめると次の通り。

『身の上相談』は、相談を寄せて来た人に対して有益な回答をするものであって、教育者としての私の意見を述べることが目的ではない。もし、私の回答が不適当だとか、文章がまずいということなら直せるが、実際に来ている問題そのものに手を加えることはできない。読者である女性が、記者に訴えてくるような問題は、見知らぬ人であることを幸いとして、他人に語れないような、心のうちの秘密を相談してくる。これを無視して捨て去ることはできない。それでも記者に責任があると言うのならば、私は辞めるしかない。

 いちゃもんをつけられ憤慨し、空穂は身の上相談の回答を書かなくなる。しかし、その間も新聞は毎日発行されるし、空穂の原稿のストックも切れる。仕方なく、別の婦人部記者が回答をしたりしているが、これが空穂とぜんぜん違っている。

△記者様。私は今年十五歳の少女でございます。先日、日曜日にお友だちのおうちへ遊びにまゐりましたら、お友だちのおねえさまが教会へつれて行つてあげると云はれました。私もお友だちも喜んで行きました。牧師さまがいろいろけつこうなお話をして下さいましたので、うれしく思つて、お友だちやお友だちのお姉さまと次ぎの日曜にも行きませうと約束して帰りました。そしておばあ様にこの事をお話しました。するとおばあ様は大層怒つて、家には仏さまがあるのに、そんなヤソ教の家へ行くのはいけないと云つて、お友だちの家へも、教会へもやつて呉れなくなりました。私は牧師さまのお話がけつこうで面白いので、もつと教会へ行きたいと思ひますのに行かれません。それに何より淋しいのは仲のよいお友達と遊ばれなくなつた事です。記者さま、ほんたうに家に仏さまがあつたら教会へ行くのは悪いでせうか。おばあさまの云ふことは無理ではありませんのですか。どうぞお教へ下さい。(みつ子)(p.412)

 教会へ行きたいけれど、おばあ様が怒る、友だちにも会えなくなった、教会に行くのは悪いことなの? という15歳の少女からの相談である。ピンチヒッターで答える婦人部記者の回答は次のようなもの。

▲それはほんたうにお困りでせうね。教会へ行けないのは兎に角、仲のよいお友達とも遊ばれないのは、ほんたうに淋しいでせう。お可哀相にね。けれども、おばあさまの仰有ることを、無闇に無理だなどゝ思つてはいけませんよ。まだあなたはお小さいので、むづかしいことをお話してもよくは分りますまいけれど、昔はさういふ事の為めに、即ち人が違つた信仰を持つたが為めに、大戦争が起つて、沢山の人が死んだり、国が滅びたり、色々な事がありました。それほどの事まであつた位ですから、おばあさまの仰有ることを無理などと言つて、背いたりすると、猶の事叱られるかも知れません。おばあさまの仰有ることも尤もなれば、あなたの困るのも尤もです。それはどちらが悪いことではありませんけれど、あなた位の時には、年取つた方の言ふ事に従ふのが、大抵の場合に悪いことではありませんから、まあ暫くの間は、おばあさまの仰有る通りにしてゐる方がよろしいでせう。そのうちにまた、時節といふものが来て、おばあさまのお心も自然と解けて、また仲のよいお友達の家へも行けるやうになりませう。(記者)(p.413)

 「それはほんたうにお困りでせうね。」って、もう全然違う。空穂なら、「教会へ行けないのは兎に角」と、教会はどうでもいいかのようには言わないだろう。「出来る範囲に於いて古い習慣を打破して進むといふ事は御自身に対する義務とお考へになつて然るべきでせう。」と述べた空穂ならば、きっと「ご自分の責任において、行くべきでせう」くらい述べる。こんなもやもやした慰めているだけのようなことは言わないに違いない。他の回答と比べると、やはり空穂の回答は抜きんでている。

 それはともかく、もう辞めるしかない。実は、空穂はこの身の上相談をやっている期間中に、急な病で愛妻を亡くしている。どうやら臨月だった妻がインフルエンザに罹って、あっという間に亡くなってしまったらしい。それで気落ちして、なんとなく身の上相談を辞めたがっていた。また、前田も上層部にケチをつけられたんなら辞めると言っている。結果、せっかく成果を出していたのに、婦人部は空穂だけではなく、部長以下総辞職となる。

  実はこの身の上相談欄いちゃもん事件にはどうやら裏があって、元々、土岐哀果の率いる社会部と、前田の率いる婦人部との軋轢がその原因にあったらしい。婦人部の記者は、空穂が運営していた雑誌『国民文学』出身の文学者ばかりで、土岐はそれにやりにくさを感じていた。また、社会部も婦人部も新聞の部数を伸ばすために展覧会イベントなどを企画・実行したりしているのだが、婦人部のほうが成功してしまったりしていた。他に、前田は意志は強いが人とぶつかりやすい性格で、しょっちゅう敵を作っていた。そんなこんなで、社会部は婦人部を白眼視していたようだ。

 つまりこれは、土岐と前田の権力争いが前提にあったのである。で、前田のほうが負けた、ということのようだ。うわあ、こわいなあ、それは。ただ、この時は親友前田に殉じたかたちになったが、空穂自身は土岐と仲たがいをしておらず、その後も、土岐の歌集の選を空穂がしたり、空穂の早稲田大学上代文学の講義を、定年後土岐が引き継いだりしていて、晩年まで厚い交流がある。

 空穂の読売新聞勤務の最後は、証言によると、こんな感じだ。

  社内で「身の上相談」には少し男女のことが多すぎるという批判が起こり、上層部からその点少し注意するようにという達しが部長まであった。友人同士である前田部長からそれが窪田さんに取りつがれると、窪田さんは笑って「なるほどね、男女問題が多すぎるか。しかしこの人生に男女問題以外に何があるかね?」と言っておられたが、そのうちにさっさと机の上を片づけて、「じゃあな前田、おれはこれでよすよ。あとはよろしく。」こう言って、すっと帰ってしまわれた。

(中村白葉「窪田空穂の大きさ」『短歌』昭和四十二年七月号)

 というわけで、空穂の大正5年10月から大正6年5月までの八ヶ月間の「身の上相談」欄は幕を閉じた。

 以上、窪田空穂が読売新聞紙上で行っていた「身の上相談」の経緯をたどってきたが、改めて見てみるとこの仕事は、有名な近代歌人では空穂以外はムリなのではないかという気がしてくる。啄木、茂吉、白秋、牧水……、それぞれに魅力的な歌人たちだが、また皆それぞれにうしろぐらい所を持っている。こんなヒューマンな回答は、たとえ仕事としても、他の近代歌人たちにはおそらくできないだろう。別に品行方正であることが文学の価値を決めたりはしないから、言動が清廉であるかどうかはどうでもいいのだが、空穂のヒューマニスティックなところは、私には妙に面白く思われる。

 それはたぶん、空穂がつるりとした聖人君子だからではなく、むしろその逆で、こうしたヒューマンな視点も、辛酸を舐めてきた末に生れてきた、ほの暗く陰影を伴ったものだからだと思う。空穂自身はよく「人生は我慢の連続だ」と述べていた。

  冒頭で、空穂のことを「誰もが知っているビッグネーム」と書いておいて恐縮だが、実は空穂はわかりにくい歌人でもある。茂吉や白秋などの輪郭のはっきりした歌人に比べて、イメージを捉えづらいと思っている人も多いのではないだろうか。「境涯派」「人生派」と呼ばれることの多い空穂だが、「境涯派」「人生派」なんて何にも言っていないに等しい。

 だが、こうした空穂の身の上相談なんかを読んでいると、やっぱり空穂も変ってるよなという気になってくる。そして、空穂の名高い長歌に表れているようなクリアな視点と情の厚さの両立は、こうしたところにも出ているんだな、と思うのである。

 著者の臼井さんは歌人ではないのだが、研究を続けるうちに空穂に魅せられたのだろう。すっかりファンになっている。

この空穂の回答は忘れ難い名回答で、筆者も励まされる(p.69)

 

大正五年十二月十三日の三十一歳男性への回答は、胸がすくほど素晴しい(p.94)

 

空穂のヒューマンな女性観(人間観)が迸り出たような名回答であろう(p.97)

果ては、

大正女性の『真の愛』の一様相と身に覚えある空穂の回答を味わっていただきたい(p.340)

という、ソムリエか、というような言葉まで出てくるのである。「(研究している)この三年間、わたくしは空穂に片恋をしていたように思われる」とまで言っている。そこらへんほほえましい。 

 実はこの本、知った初めは「窪田空穂が人生相談!? なにそれ! おもしろい!」とウキウキで購入したのだが、実際にアマゾンから届いたら、字のびっしりある超まじめな学術書で、読んでいくのに非常に骨が折れた。なにしろこの本、空穂担当期間の八ヶ月間の相談・回答をすべて載せている。全211件、読んでも読んでも身の上相談が出てくる。

 だが、すべての回答を読んでいくうちに、大正時代の人々が悩んでいたこと、そこには欲望がうごめいていたこと、古臭いジェンダー観や家意識、それを空穂がバシバシ切っていったこと、にもかかわらず空穂自身にも保守的な部分があること、それを著者の臼井さんが指摘していること、にもかかわらず臼井さん自身にも保守的な部分があること、そしてそれはたぶん読者である私の中にもあること、それでもやはり人の悩みを読むのは面白く時代の空気が生々しいかたちでこちらに次々手渡されていくこと……、とどんどんぐるぐるしていって、へんなトリップ状態になっていった。他にない読書体験だったと思います。

 読んでみたい方は読んでみるといいと思いますが、超ぶ厚いことはもう一度お伝えしておきます。あと、空穂入門としては、いささか斜めというか、他の本から入ったほうがやはりいいかもしれません。面白かったけど。 

 なお、もっと気軽に当時の身の上相談を楽しみたい方は、山田邦紀『明治時代の人生相談』(2009年・幻冬舎文庫)、カタログハウス編『大正時代の身の上相談』(2002年・ちくま文庫)を読むといいと思います。身の上相談、面白いです。とくに、『大正時代の身の上相談』のほうは、まさに読売新聞の身の上相談欄を元にしているので、ばっちり空穂の回答も入ってます。ただ、単なる匿名記者扱いになっていて、この本の著者は空穂が回答していたことにまったく気づいてないみたいですが。

明治時代の人生相談 (幻冬舎文庫)

明治時代の人生相談 (幻冬舎文庫)

 

 

大正時代の身の上相談 (ちくま文庫)

大正時代の身の上相談 (ちくま文庫)

 

 

 ちなみに、日本および読売新聞における「身の上相談」欄の成立過程は、以下の論文に詳しいので、興味のある人は読んでみてください。

桑原桃音「大正期『讀賣新聞』「よみうり婦人附録」関係者の人物像にみる「身の上相談」欄成立過程」(龍谷大学学術機関リポジトリ

http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/handle/10519/6559

 今回も長くなってすみません。それでは。

 

第11回 『現代の第一歌集―次代の群像』

吉田恭大

現代の第一歌集―次代の群像

現代の第一歌集―次代の群像

 

 

こんにちは、吉田恭大です。ご縁あってゲストに呼んでいただいて、久々に本の山を掘り返しました。

 

土岐さんが『桜前線開架宣言』を取り上げていたので、もう少し前の若手のアンソロジーを読んでみます。『新響十人』(2007年・北溟社)『現代短歌の最前線』(2001年・北溟社)を探していたら、それよりもう少し前のものが出てきました。

 

『現代の第一歌集―次代の群像』(1993年・ながらみ書房) 

昭和61年より平成3年12月までに刊行された戦後生まれの歌人75名による第一歌集のアンソロジー。本書により現代短歌の若い世代の動向が一目瞭然できる。短歌入門書として最適!!


と帯にある通り、アンソロジーとしてはそれなりに網羅的なボリュームがある。

 

各項は刊行順に並んでおり、例えば昭和62年(1987年)には小島ゆかり『水陽炎(みづかげろふ)』、俵万智『サラダ記念日』、大津仁昭『海を見にゆく』、加藤治郎『サニー・サイドアップ』などが出ていることが分かる。『サラダ記念日』前後というと大雑把な認識としてどうしても「ライトバース/ニューウェーブ」の印象が強いが、作者毎に追っていくと、当然ながらみんながみんな口語というわけではない。

 

それぞれの第一歌集から抄録50首、「刊行のころ」という短文、略歴と「ノート」として今井恵子・田島邦彦・藤原龍一郎・古谷智子・武藤雅治による短い解説が付されている。

 

それと巻末に「第一歌集に関するアンケ―ト」があり、これが中々面白い。

①歌集を出されたのは何歳のときで、発行部数は何部でしたか。
②戦後短歌の中から、好きな愛誦歌を二首あげて下さい。
③短歌を作られるようになった動機について記して下さい。

例えば、1988年に『青年霊歌』を刊行した荻原裕幸はこんな感じ。

①二十五歳・五〇〇部
②回答不可能
③十四、五歳の頃、井上陽水に狂つてシンガーソングライターにあこがれてゐた。やがてセンスの悪さから音楽をあきらめ、自由詩を書いてゐた。ある日ふとしたことから寺山修司を体験した。少しあとに塚本邦雄を体験した。十七歳だつた。月並みな言ひ方にしかならないが「これしかない」と思つた。恐いもの知らずの十代は、ジャパネスクなランボーをこころざしたのだつた。これを言ふと必ず笑はれるのだが、本当の話である。

引用終わり。「刊行のころ」もそうなのだけれど、それぞれがエピソードをしっかり披瀝しているところが楽しい。きっかけとして『蛍雪時代』の投稿欄を挙げている人(小池正利、吉野裕之)がいたりするのも、時代を感じる。愛誦歌として上がっているのはやはり寺山と、それから塚本が多い。いま同じアンケートを、ここ5年くらいで第一歌集を出した人々に取ったらどんな回答が集まるだろうか。

 

ながらみ書房からは同様のコンセプトで第一歌集から採録したアンソロジーが計6冊出ている。これについては光森裕樹さんがウェブサイト「GORANNNO-SPONSOR.com」で取り上げられていて、アンケートから集計したデータも公開されている。

『処女歌集の風景 ―戦後派歌人の総展望』(1987年)
『第一歌集の世界 ―青春歌のかがやき』(1989年)
『私の第一歌集(上・下)』(1992年)
『現代の第一歌集 ―次代の群像』(1993年)
『現代短歌の新しい風』(1995年)

『ながらみ書房による第一歌集を中心としたアンソロジー』(2010.3.6)
http://www.goranno-sponsor.com/blog/2010/03/post-2.html

『第一歌集の初版発行部数』(2010.3.6)
http://www.goranno-sponsor.com/blog/2010/03/post.html

『第一歌集の収録歌数』(2010.2.15)
http://www.goranno-sponsor.com/blog/2010/02/post-1.html

 

ちなみに、93年の『現代の第一歌集』収録歌人のうち、先に挙げた2001年刊行の『現代短歌の最前線』上・下巻の計20人の中に収録されているのは、坂井修一、大田美和、川野里子、加藤治郎、大辻隆弘、小島ゆかり辰巳泰子、林和清、穂村弘水原紫苑米川千嘉子、の11人。


この面子と、さらに2005年刊行開始の邑書林『セレクション歌人』シリーズのラインナップを見ていくと、総合誌をぱらぱらめくっていても何となく名前と歌が一致して「こんな人がいるらしい」という印象がでてくる。

 

『現代の第一歌集』75人の中で、第二歌集を出さずに、あるいはそれ以降に短歌から遠ざかっていった人はどのくらいいるだろうか。この本で初めて名前を知った人でも、試しにgoogleにかけてみると、断片的でもそれなりに情報は出てくる。

 

もしかすると平成以降で、検索エンジンに引っかからない作者名は無いのかもしれない。

 

知らない人の知らない歌集も、検索すればその在り処くらいは分かる。歌集そのものにアクセスするのは、相変わらず骨が折れるのだけれども。

 

実験室のむかうの時間と夏樫のかたきひかりを曳きて来るなり/米川千嘉子『夏空の櫂』(1988年)

 

吉田恭大:1989年鳥取生まれ。早稲田短歌会OB、塔短歌会所属。Twitter@nanka_daya