短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第22回 塚本邦雄『夕暮の諧調』

永井祐

こんにちは。

今日は、塚本邦雄『夕暮の諧調』(本阿弥書店)をやります。

 

定本 夕暮の諧調

定本 夕暮の諧調

 

 

もとは1971年刊(人文書院)、わたしが持っているのは88年刊の定本版になります。

塚本邦雄の最初の評論集です。

一発目とあって一編一編が濃くてあつく、「短歌考幻学」や坪野哲久論「われきらめかず」など、代表作も多数収録しています。

対象も和歌や現代俳句のほか、中世歌謡とか、さらにプルーストブラッドベリなどの現代文学論まで入っていて、引き出しはかなり開けてきています。

が。

読み方にコツがあるような気がします。

具体的にはⅡ章の現代短歌論から読むことをおすすめします。

Ⅰ章はね、しょっぱなから、

 

大津よ、わが弟、わが恋ふる若き皇子よ。昔テーバイの王女アンティゴネは、埋葬を禁じられてゐた兄の屍体をみづからの手で敢えて葬り、王の怒りにふれて刑死したといふ。

 

こんな感じで、

古代王朝のドラマを、ギリシャ悲劇や聖書に言い及びながら手記の形で語るという、若干キモオタ風のコンテンツになっているので。

 

今日はⅡ章の「流觴」というエッセイをやりたいと思います。僕はすごく好きなやつです。

 

 

短歌で、初七調というものがあります。

五七五七七を七七五七七に変えてつくる、いわゆる破調の形になるわけですが、

塚本邦雄はこれを多用したことで有名な人です。じっさい、初七は塚本調というイメージは強いのです。

こんな感じ。

 

おおはるかなる沖には雪の降るものを胡椒こぼれしあかときの皿

 

馬は睡りて亡命希ふことなきか夏さりわがたましひ滂沱たり

 

すごく特徴的な韻律なんですけど、現代の短歌作者でも初七はやります。

この短歌のピーナツの執筆者である堂園昌彦さんもやります。

 

あなたは遠い被写体となりざわめきの王子駅へと太陽沈む

 

冷えた畳に心を押し付けているうちに想像力は夕焼けを呼ぶ

 

土岐友浩さんも、多い印象はありませんがやっぱり作っています。

 

夢のなかから目覚めたあなたが体温と体重を計っている朝よ

 

塚本さんはこの「流觴」というエッセイで、初七調の起源とその感受性について語っています。

内容に入りましょう。

 

戦前に活動していた「靑樫」という同人誌グループがあり、塚本さんは後年それを手に取って、本田一楊という作者に魅了されます。

 

私は後年、誌のバック・ナンバーを、西方のとある港市の古書店で発見し、その黄ばんだ頁の中で彼にめぐりあひ、その沈黙と共に別れた。出会ひはわざわひに似て、予測不能の時点で二つの魂を衝突させ、互みに、またそのいづれかに、ふかい痕跡をとどめるものである。

 

砲煙のあれは名もなき草のわたとびちれやちれ雄たけびのごと

 

いのちたとへばちりぬるきはも散る花の綺羅しづもりてあらばさやけみ

 

ひとりしてつむれる夜の青春の音たてて過ぐ神速なりし

 

たれかわれらの胸揺り歌ふいやはてのかなしみの日の若葉の歌を

 

(略)冒頭の「砲煙」の歌は、今日なほ私にとつて新しく、現代短歌にとつても新しいと言ひ得る。凡百の戦争詠、あまたのヴェトナム詠にもまして、私の心を刺し魂をうづかせる。「砲煙の」の「の」の一音の助詞に賭けた作者の心を、いたましいとさへ思ふ。「とびちれやちれ」とたたみかける霧の彼方の遠い絶叫に、私は作者の憤怒と悲傷を察したい。(略)「綺羅」の歌も、およそ日常的な意味や論理をもつてはゐない。だが、このこきざみに縺れあふ言葉のアラベスクには、戦争を目前にひかへた、あるいはすでにその渦中にあつた、当時の青年の不安な心情を、ただ韻律にこめて歌つた冴えとみだれが、たしかにある。

 

 

塚本さんはすごく感情移入して読んでいます。直接そうは言っていないんですけど、たぶんここには、世代的共感みたいなものがあるんだろうなと思います。不安な心を、具象性を持たない言葉と、「こきざみに縺れあふ」震える韻律にこめるという、その文体、超わかるよ! と言っているようにわたしは思えます。

そして本田作品がまたすごい、はかなくて、「冴えとみだれ」というのがよくわかるなと思いました。すこしくわしく見ましょう。

 

一首目、「草のわた」は秋の季語で草の穂の綿毛のこと。ここではやはり、はらわたがかかっているのでしょうか。「名もなき」も人を連想させます。秋の草原の景が、戦争の景にかかっているわけですね。そして「砲煙の」の「の」、これは文法的ななんと言っていいかわからない、微妙ですごく無理させた「の」のだと思います。そして「リズム考」でやったように、初句のあとの休止によって、「砲煙の、、」と少し間が空く。そのあたりがこの「の」に無限のニュアンスを与えていると思うんですよね。「「の」の一音の助詞に賭けた作者の心」というのはそのへんのことを言っているんだと思います。

 

二首目、上句は漢字にすれば「命たとえば散りぬる際も」だから、「死んでいくそのときであっても」くらいの意味でしょうか。「綺羅」は「美しい服、美しい姿」、「しずもる」は「静かに落ち着いていること」、「さやけし」が「明るいこと、清いこと」、「み」が「~なので、~だから」。「散っていく花であっても、その姿が静かに落ち着いていれば、美しいのだから」みたいな感じかな。すっごく観念的な歌ですけど、韻律が落ち着いていない、「こきざみに」震えているというのは、わかる気がします。

 

三首目、これも静かだけど激しい歌ですね。意味は、夜に一人で目をつむっていると青春が音を立てて過ぎ去っていった、神速であった、という感じでしょうか。青春というと、こんな歌を思い出すのですが、

 

青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき  高野公彦

 

この青春とはまるで違っていて、本田の青春ってちょっとすごいですよね。音を立てて神速で過ぎる。それはおおらかなものでものんびりしたものでもないんだけど、青春の本質という気もします。「神」の一字にちびる。

 

それで、ようやく初七の話に。

 

初七調はもとより私の独創でも新発見でもない。思へばその再認識の契機こそ、本田一楊らとの出会ひにあつた。「たれかわれらの」の七音を、こころみに「たれかわが」の五音に改変した時、このゆらめく言葉の環は忽ち断ち切られて、単に感傷的な三十一音の謳ひ文句がのこされるのみである。初七は桂冠にして荊冠、歌の重さと豊かさを、予告すると同時に支へるべき、栄華と処罰を内包してゐるのだ。「綺羅」はその初七のゆゑに完全にうつくしい。

 

「桂冠にして荊冠」というのは桂冠=栄誉あるものであると同時に、「いばらの冠」、みずからを傷つけるものであり、受難と殉教の象徴であるという意味ですね。

 

エッセイはこのあと、「靑樫」のほかの同人作品の文体的工夫をみていきます。

 

塚本さんはここで、初七調というのは、戦前の若者たちの間である程度共有されていた、ヒップホップ風に言えば「流行りのフロウ」だったんだよ、ということを言いたいのかなと思います。もちろん初七だけに限らない、総体としての韻律的アプローチ、つまり文体と言い得るものだと思うんですけど。

そして初七に代表される当時の若者たちの文体っていうのは、迫ってくる戦争と破滅への恐れを背景とした、「冴えとみだれ」の危機の韻律だったんだという話だとわたしは受けとりました。

 

現在でも使われている初七の起源には、こういう感受性があったんですね。もちろん後から振り返ったただの一つの見方ではあるけれど、わたしはけっこう納得してしまった。このエッセイはとてもいいので、機会があればぜひ読んでみてください。

 

はんぱに余りました。

現代俳句論の中村草田男評がちょっと面白かったので、少し引用して終わろうと思います。

 

世界病むを語りつつ林檎裸となる  草田男

 

僕はこの作家の「純潔健康にして頽廃を知らず、稀有な青春の永続を持し、教養によって去勢されざるもの……神田秀夫」といつた風の馬鹿々々しい程晴朗な資質に、他処事ながら尠からず辟易してゐた。この一句にしろまるで俄造りの舞台の上の愛国の士のやうに大袈裟で空々しいではないか。<降る雪や明治は遠くなりにけり>と吟じながら彼の世界はいつまでも明治的、机上にはゲーテニーチェ、音楽はバッハとベートーヴェン、花は菊といつた式の典型的な戦前派を連想するのだ。最近「短歌」十月の対談を見てもその発言一つ一つにこめられた自己肯定の強さは驚くべきであり、晴天の屋上の鯉幟のやうに鮮烈で空しい。

 

草田男が、たとへば<わが詩多産の夏来る>調の健康でなすすべ知らぬ、江木アナウンサーの代りにラジオ体操の指導でも買つて出たい、と言はぬばかりの、日本晴れの真夏の句を書ゐていた時…

 

塚本さんから見ると中村草田男ってこんな感じなんですね。ラジオ体操の指導でも買って出たいと言わぬばかりって。

「晴天の屋上の鯉幟のやうに鮮烈で空しい」もなかなかすごい。

毒舌の一方で強く興味を引かれていることもわかります。

 

では今日はこのあたりで。

第21回 岡井隆・小池光・永田和宏『斎藤茂吉――その迷宮に遊ぶ』

 ドリームチーム、茂吉を語る 堂園昌彦

斎藤茂吉―その迷宮に遊ぶ

斎藤茂吉―その迷宮に遊ぶ

 

こんにちは。

今回の本は、1998年に砂子屋書房から出た、岡井隆・小池光・永田和宏著『斎藤茂吉――その迷宮に遊ぶ』です。

この本はどういう本かというと、

 

岡井隆と小池光と永田和宏という現代短歌を代表する3人が!

 

斎藤茂吉という短歌界最大の巨人をテーマに!

 

1996年9月から1997年7月まで隔月で一年間!

 

京都で固定200人のお客さん相手に!

 

連続して全6回のトークセッションをやった!

 

という、その記録です。

はい、もうこの時点で面白くないはずがありません。ドリームチームというか、アベンジャーズというか、勝利は確約されたも同然、あとは各自読んでください、という感じなのですが、ちょっと内容を紹介してみましょう。

 

まず、第1回目のセッションのテーマは、「茂吉の青春、『赤光』をめぐって」です。ベタっちゃベタなのですが、基本であるがゆえに興味深い内容が出てきそうです。まず、基調発言として、岡井さんが茂吉の中にある風土的なものを指摘します。

岡井 茂吉の中にある風土性というのは『赤光』の中に見事に現れています。いちばん典型的なのは「死にたまふ母」で、これは『赤光』の中に見事に現れています。(中略)

これは何を言っているのか。母というものが、故郷とほとんど同一視されています。母親の死というものを、あれだけロマンチックに詠い上げていて、悲しいような感じもするけれど、悲しさよりも、ふるさと讃歌というのか、お母さんを讃美している。(中略)

山々に取り囲まれた盆地特有のメンタリティーと複雑に絡み合った場所、その場所で今死のうとしている母親というものを詠い上げると同時に、五月の上山盆地のつばくらめであるとか、あるいは蚕であるとか、おきなぐさであるとか、ひなげしとか、いろんなものを総合して彼は詠い上げているんだね。(p.27,28)

確かに、茂吉の『赤光』には、山形の風土的なものが多く出てきます。有名な、

 

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり

 

とか、

 


死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほた)のかはづ天(てん)に聞(きこ)ゆる

 

とかを考えてもらえばいいんじゃないかと思います。

他に、茂吉が一生山形弁を直さなかった話なんかが出てきます。

岡井 有名な話ですが、茂吉はドイツ・オーストリアに留学しますね。ドイツの大使館の人が、回顧談をしているんですが、「私は、勤めている間に何百人という日本人がドイツに来るのをみたけれど、あんなにひどい山形弁を残している日本人は見たことがない。」と言ったらしいですね。(中略)直せないわけないんですよ、彼の書く文章は実に立派ですからね、わざと直さなかったんでしょう。そこには一種の上山盆地出身の農民の反都会性というのか、反都会の志というのか、俺にとっては、俺のところの言葉が日本で一番いいんだよ、いや、世界で一番いいんだから、ドイツへ行ったって別にそれで一向かまわないという感じなんでしょう。(p.26)

これなんかは確かに、茂吉が山形に対して素直な愛郷心を持っていたことの表れと言えると思います。『赤光』の歌たちは、こうした茂吉の中にある風土性とは切り離すことができません。

と、同時に岡井さんは、茂吉の『赤光』の歌には、ある種の浪漫性があるとも述べています。

岡井 それでいながら僕は、どの歌の中にも何かこう浪漫主義的なもの、理性的なものとか分析的なものでなくて、感情的な要素を強く感ずるのです。(p.29)

 風土性の強さと同時に、浪漫的なものの強さが茂吉の特徴です。風土性は、土地に根ざしたものですし、浪漫性はある意味普遍的なものです。その二つは一見矛盾するのですが、茂吉の中では同時に存在しています。確かに『赤光』には「感情的な要素」は満ち満ちていて、我々が読んでまず驚くのは、悲しみや怒りや喜びといった茂吉の強い感情です。

感情的な要素だけですと、具体性が乏しくなってしまいますし、土地に根ざした要素だけですと、その土地以外の人間が楽しむことはできません。『赤光』はこうした相反する要素を備えているからこそ、多くの人間に届く名歌集になったと言えるかもしれません。

そして、岡井さんは茂吉の中にある音楽性も指摘します。

岡井 おそらく、浪漫主義は音楽というものを至高ととるんですね。短歌の場合、音楽というのはリズムと音韻のメロディですか。斎藤茂吉は繰り返し繰り返し声調論を唱えている。短歌の文体でも構造でもない。短歌の中にある音楽性を最高のものとみているわけですね。(p.29)

茂吉は評論の中で短歌の声調論を繰返し語りました。それは、茂吉が短歌の中にある音楽性を、他の文学にはない高いものと見ていた証拠にもなります。

しかし、そうした浪漫的な性質は別の側面から言うと、社会的なものへの無関心にもつながります。 

岡井 トーマス・マンなどがはっきり言っているわけですが、音楽というのは悪魔です。音楽という悪魔は、必ず人間の心をさらっていきます。我を忘れさせるわけです。理性的なものを失わせるための道具なんですね。そういう音楽性に最初から入っていく。些末な現実に対しては割合興味を持っているんですが、大きな現実、例えば社会的なものにはあまり重きを置いていないんですね。(p.29)

茂吉は、「大きな現実、例えば社会的なものにはあまり重きを置いていない」と岡井さんは指摘します。

 

たたかひは上海(しゃんはい)に起り居(ゐ)たりけり鳳仙花紅(あか)く散りゐたりけり  斎藤茂吉

 

この歌に、岡井さんは

岡井 すごく有名な歌ですね。しかし、ここでは別に何も言っていない。この歌で我々が思うのは、上海の戦いが何だったろうなんてことではありません。上の句と下の句が「居たりけり」と「ゐたりけり」で対応しているという何ともいえない音楽的陶酔感が先に来るのであって、別にこの戦いが何かはどうでもいいんですね。しかもこの上海という響きも、遠く、日本とは違うところにあるというだけのことで、別にそれ以上のことは何もないんです。(p.30)

と述べています。

小池 政治的なもの以外にも不思議なのは、例えば、十四歳くらいで東京に出てくるときに、山形にはまだ鉄道は通っていませんから、父親に連れられて山を越えて仙台へきて、そこで列車に乗るわけですよね。そして、東京にいる間に山形まで鉄道が通るんですが、自分の郷里まで鉄道が走って、それと同時に文化もどおっと入っていくと思うんですが、それについても取り立てて書き残したり、歌ったりしていませんね。(p.34)

小池さんもこう言っています。茂吉は鉄道についてもとくに書いたりしていないと。たしかにこの時代でこれは珍しいことです。そして、そこは都市景観を歌い、ふるさとへの複雑な気持ちを詠んだ啄木との大きな違いだと永田さんも言います。

永田 啄木には、東京人になろうとしてなれない時に、ふるさとに否応なしに帰らなければならない、でもふるさとから逃げたいという欲求があって、その中でふるさとを思う、葛藤の中でのふるさとなんだけれど、茂吉の中では、山形弁が一生抜けなかったことからも典型的にわかるように、ふるさとというのは、絶対的に安心できる場所なんでしょう。それが、茂吉が近代人になれなかった部分じゃないでしょうか。(p.36)

啄木の歌にはふるさととの葛藤という視点がありました。それゆえ、近代人としてのひとつの原型になることができた。しかし、茂吉にはふるさとへの複雑な思いは全くありません。茂吉にとってふるさとは、無条件に安心できる場所でした。

しかし、同時に、『赤光』は当時の文学者に圧倒的な影響を及ぼしている。そこが面白いところですね。

また、茂吉の歌には「プロセスがない」というところも面白い指摘です。

小池 茂吉は、いきなり、詠嘆というかたちで、核心をつかまえてしまいますね。普通、我々が生きていくときには、もっと分析的に考えて、原因が何で結果が何で、今どういうプロセスでこうなって、どこで俺が悪かったのかというふうに思います。しかし、茂吉はそれを考えない。もうしょうがないからとプロセスは省略して、結果だけ受け入れてしまって、大詠嘆をするわけです。普通、我々はプロセスを歌にする。それが、茂吉にはない。常にそういう感じが、特に『赤光』には感じられます。因果関係はなにも分からないまま、いきなり詠嘆になるんです。(p.41,42)

要するに、非常に強い感情が結果だけをつかまえてくる。なんかちょっとロックみたいですが、茂吉の歌を読む面白さはこうした強い感情にガツンと殴られるようなところは、確かにあります。

で、これも裏面から、社会的な側面から見ると、時代に対する鳥瞰図がなかったとも言えるわけです。

小池 茂吉という人は、社会的な関心がないという意味では、天皇の歌も本当は儀礼的な感情以上のものはないのではないでしょうか。

 

岡井 そんな感じがしますね。むしろ、山形県の上山地方のおじいさんやおばあさんが死んだとかいうほうが大きな問題で、一国の天皇が亡くなっても、形式的な儀礼は発するけれど、それ以上のものはないようですね。

 

小池 明治の終わりとか、時代が変わるとか、そういう発想は希薄ですね。

 

岡井 この人は、大知識人には違いないんだけれど、その内部にきれいに欠落している部分があって、彼の大好きな森鷗外が持っていたような日本の国をどうするとか、日本の詩歌はどうあらねばならないかとかそういう全体の鳥瞰図がないんですね。(p.55)

他の箇所でも、茂吉は「こと戦争への自分の意識の滑り込ませ方を見てみると、大衆のうちのひとりでしかないですね」という発言もあります。茂吉は知識人なんだけれど、意識的には大衆だったと。

戦争に関しても、大きな視点はなく、あくまでリアクションとしてしか捉えていない。

永田 戦争の歌にしてもそうですよね。なぜ戦争をしなければならないのかとか、戦争をして日本はどういう国をめざすのかとか、そういう発想は全くないですね。つまり、戦争の場面場面がどういう訴え方をしてくるかとか、自分にとってそれがどう見えるかとか、そういう非常に即物的なところでしか彼の発想というのはないですよね。(p.55,56)

こういったところは、茂吉の持っている「悪いところ」と言ってしまってもいいかもしれません。しかし、それだけで終わらないのが、茂吉の面白いところでもあり、恐ろしいところでもあります。つまり、こうした一見欠落した部分に、茂吉の魅力があるということなんですね。

岡井 同じような年齢でも木下杢太郎なんかは、流れてくる情報を自分なりに分析するわけですね。そして、こんなことで勝てるわけがないし、軍部のやることは間違っているということを分析して、それなりに情報部に対して、あれじゃだめじゃないかと進言するわけです。なぜ、木下杢太郎ができたことが茂吉にできなかったのか。それでありながら、木下杢太郎が日本文学に与えた影響よりは、遥かに大きな影響を茂吉の方がなぜ日本の近代に与え得たのか。彼の魅力もこの矛盾の中にある。茂吉の晩年は、一見間違いを起こしたように見えながら面白いんです。その辺はどうなんですか。

 

永田 茂吉の魅力はそういうところにあって、非常に分裂をしていながら、その色々な要素が何の葛藤もなく一人の人間の中にあるという、そこが一番面白いところです。逆に言うとだからこそ人間の文学なんだということでもありますね。(p.58,59)

もうちょっと他に細かいトピックもたくさん出てますが、第1回の流れはだいたいこんな感じですかね。初回からこの濃さです。しかし、おもしろい。第1回の最後に岡井さんが

岡井 茂吉とは矛盾したものをいっぱい抱え込んだ人だったということはおわかりいただけたかと思います。(p.59)

と言っているように、3人が語る濃いエピソードを通して、茂吉の持っている矛盾がびんびん伝わってきます。この「茂吉の持っている矛盾」がこの本の大きなテーマでしょう。「茂吉の矛盾」をひとつひとつ暴いていくことが、むしろ茂吉の魅力を探ることにつながっていくのが、奇妙で面白い茂吉の特徴と言えるかもしれません。

 

どうでしょうか、ちょっと伝わりましたでしょうか。のっけからわりとディープな話に踏みこんでるんですけど、3人それぞれの発言にたっぷりとした裏付けがあって、しかもテンポよく話されるせいか、かなり飲み込みやすいんですよね。で、重要なトピックがガンガン出てくる。さすが岡井・小池・永田のビッグスリー。しかし、これ、現場はおもしろかったろうなあ。

 

続いて行きましょう。第1回目の二ヶ月後に行われた第2回のテーマは「茂吉と笑い」です。「笑い」、いいテーマです。二ヶ月経ってますが、お客さんは固定ですので、必然的に前回を踏まえた話ができるわけです。

2回目の基調発言は永田さんです。まず、こんなことを言います。

永田 茂吉の面白さというのは、僕は、「何とも言えないおかしさ」にあるだろうと思います。茂吉にこんなに魅かれて、読んできている大きな要因に、その変におかしなところ、歌の向こう側に茂吉の性格が透けて見えてしまうようなところに惹かれたということがあり、是非、このジャムセッションで取り上げてみたいテーマの一つでした。(p.72)

永田さんは茂吉の面白さの理由のひとつに、「何とも言えないおかしさ」があると言っています。

そこでいろいろ例を出していくのですが、まず、茂吉はノミ、ダニ、南京虫の歌が多い。そして、その虫たちとマジでバトルをしています。

永田 エッセイと同じくらい面白い歌もあります。そういう例として、ノミやダニ、南京虫と茂吉の対決を詠んだ作品を少し挙げてみたいと思います。

 

家蜹(いへだに)に苦しめられしこと思(も)へば家蜹(いへだに)とわれは戦(たたか)ひをしぬ     『暁紅』

 

 茂吉には、この手の歌がやたらと多い。何が面白いかというと、たかが家ダニのような小さな虫と、真っ向から対決するという姿勢。面白いのは、「戦ひをしぬ」の部分です。つぶしてやろうとか、殺してやろうではなく、この場で一戦を物すという感じで、大見得を切ってやるわけです。そこが非常に面白い。(p.75)

これ、たしかにおかしい。確かにノミ・ダニはいらつく存在ですが、ここまで本気になって闘おうとするのは茂吉ぐらいでしょうか。他の箇所で小池さんも「虫と一対一で戦争をする、というのは三歳児までですよ(笑)」とか言ってます。

とにかく茂吉はどこへ行っても南京虫やノミに食われる人だったらしく、何度も何度もこれらの虫と闘っていて、そのたびに本気でバトルをしています。それは大変だ。おつかれさまです。

また、茂吉は権力に弱いという側面があります。「強いものに弱く、弱いものに強い」のが茂吉です(あらためて書くとひどいな……)。しかし、その権力に対する弱さっぷりも、なんだかおかしい。

 永田 権力に弱いというのは、誰でもそうなんですが、茂吉の面白いところは、権力に弱いことを、何のてらいもなく出してくるという点でしょう。

 

この里(さと)に大山大将住むゆゑにわれの心の嬉しかりけり  『赤光』

 

 今で言うと、同じ町内会ということでしょうか。そこに、大山大将が住んでいるというだけで、嬉しくなってしまう、あるいは誇らしく思う。こういう歌は、茂吉の中にいっぱいあります。(p.84)

なんでしょうかね。ふつう、こうした権力に対する意識は隠してくると思うんですよね。でも、茂吉は、むしろ嬉しそうに報告する。天然なのか、なんなのか。

他にもこんな歌があります。

 

はるばると来て教室の門(もん)を入るわれの心はへりくだるなり   『遠遊』

 

これはドイツに留学したときに、向こうの大学の教室の入り口を通ったときの歌です。「へりくだるなり」とはっきり言っちゃってる。

あと、性に関する意識も、茂吉は変わっています。茂吉はとにかく、性に対する意識が強い。四六時中そんなことばかり考えていたのか、という感じです。

永田 茂吉は、性に対する意識がたいへん強い人ですね。先程、覗き見趣味と言いましたが、覗き見たいという欲求も非常にあるし、自ずから連想がそこへ行ってしまうというのが、歌の中の随所にでてきます。(p.86)

「自ずから連想がそこへ行ってしまう」、はい、やばいですね。歌を見てみましょう。

 

馬に乗りりくぐん将校きたるなり女難の相か然(しか)にあらずか  『赤光』

有島武郎(ありしまたけをし)なども美女(びぢよ)と心中して二つの死體(したい)が腐敗(ふはい)してぶらさがりけり   『石泉』

 

陸軍将校が馬に乗って来ただけで「女難の相」を見てしまう、小説家・有島武郎が死んだときに、「美女と心中しやがって」と毒づく気持ちが「二つの死體が腐敗してぶらさがりけり」まで言ってしまう。やばさが滲み出ています。

 

(とな)り間(ま)に男女(をとこをみな)の語らふをあな嫉(ねた)ましと言ひてはならず   『あらたま』

 

旅館に泊まっているときに、隣の部屋から男女の話し声が聞こえてくるだけで、嫉妬心が湧いてくる。「言ひてはならず」なんていってますが、もろ言ってます。

永田 中野重治が、はっきり言っていますが、茂吉の性に対する興味、女性に対する興味が面白いのは、茂吉がもてない男だという点にあります。女にもてないし、もてないことに慣れることもない男が、茂吉なんです。そういう男だけが、「女に関する恋の歌でない詩が永久に出来る」のだと言っている。もてないんだけれど、そんな自分に慣れることもない、だから、外が気になるんです。(p.87)

要するに、「非モテ」ですよね。現在言うところの。

こういう意識は社会的な成功だったりとか、あと年齢とかでだんだん相対化されていったりするものですし、あるいは相対化されずとも外面的には取り繕ったりしようとしていきますが、茂吉はぜんぜん隠そうともしないし、ずっと悶々としている。し続けています。

いまサブカル的にこの「非モテ」問題はいろんなところで取り沙汰されてますが、斎藤茂吉を「非モテ」的に読んでいくのも、なかなか面白いかもしれません。

こんなふうに一個一個挙げていくと茂吉には可笑しいところがたくさんあります。しかしそれはやっぱり、他の人にはないところなんですよね。

小池 茂吉が、他の歌人とは、ひと味もふた味も違うと思うのは、「笑い」が吹き出してしまうかんじなんです。(中略)短歌で「笑い」をやると、笑えない。それが、茂吉に関しては、笑ってしまうのはなぜなのか。それは、まずもって、茂吉の人柄のおかしさ、やや常軌を逸している面が、こぼれてくるからでしょうね。(p.89)

常軌を逸したところがこぼれるのでおかしい。岡井さんも「茂吉は俳諧性とは無縁です」と言っています。狙って笑いを取ろうとする、ウィットとか、ユーモアとかではない。

しかしここでまた別の問題提起が出てきます。ちょっと前の話と多少ずれるんですが、岡井さんは、正岡子規以後の短歌で「おかしみ」を持っているのは、茂吉の短歌だけですよね、と言います。

岡井 そうなると、俳諧のおもしろさというものが、子規以後の近代俳句に消えていったように、近代短歌の中でも消えていったといえる。島木赤彦なり中村憲吉には、茂吉の持っている「おかしみ」の要素は、ほとんどない。土屋文明にも非常に少ない。このへんのところは、どうなんですか。つまり、同じように、正岡子規あたりから源を汲んできながら、茂吉にだけこの問題が発生して、他の写実系の人たちには発生しないという問題は、ちょっとおもしろいんではないですか。単なる「キャラクター」で片付けていいのか、どうなんでしょう。(p.109)

こっからの話、けっこう面白いです。この岡井さんの発言を受けて、小池さんは茂吉の持つ「おかしさ」を文体・言葉の問題であると言い出します。

小池 それは、私も聞きたいところです。確かに茂吉以外の人は、こんなにおかしくないですね。やはり、茂吉という「キャラクター」の特異性というのは、一つあると思いますが、たぶんそれだけじゃないでしょう。特異性格の人はいくらでもいますからね。やはり文体、言葉の問題として解き明かしていかないと、茂吉のおかしさというのは説明できないような気がします。(p.109)

で、文体・言葉の問題として茂吉のおかしさを考えたときに、やはりその源は「写生」にあるのではないか、と小池さんは捉えます。

小池 やはり写生という方法それ自体が、おかしさに行き着くような気がしますね。森羅万象を、言葉で写し取るという行為は、根本的になんかおかしい局面に突入するんじゃないかな、と思います。(p.112)

 ここには小池さんの考えがかなり出てると思うんですね。つまり、小池さんは短歌の「写生」というものをこのように考えている。

近年の小池さんの若手の歌に対する批判なんかも、こういった考えがあるんじゃないかとちょっと思います。頭の中で構築した世界を再現するために恣意的に言葉を使っていくよりも、現実や人生というある意味ではコントロール不可能なものを言葉で写し取ろうとしたほうが、なにか面白いもの、カオスなものが現れるんじゃないか、という考えが出ているという気がするのです。

永田さんと小池さんは同い年で1947年生まれです。二人が短歌を始めた1960年代は前衛短歌の全盛期でした。この本にも、

永田 僕が歌を始めたのは昭和四十年代の始めで、前衛短歌の真っ最中でした。「前衛短歌の理論が絶対」という環境で大学短歌会などは開催されていました。(p.380)

 という発言があります。

この年代の人たちは、そうした前衛短歌の大きな影響下から短歌を始め、前衛短歌を批判的に検討しながら、「写生」へと還っていったような経緯があります。

 

これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よ   小池光

草つぱらに宮殿のごときが出現しそれがなにかといへばトイレ  小池光

 

小池さんの「面白い歌」は、たとえばすぐこういうのが浮かぶと思うのですが、こうした歌にはその考えが反映されているとも言えるでしょう。

 

しかし、この「写生という方法のおかしさ」という小池さんの意見に対し、続く部分で永田さんが

永田 それは、写生の問題なんですか。茂吉の問題というところも大きいと思うんですが。

と疑問を呈します。それに対する小池さんの返答がすごい。

小池 茂吉だけが、文字通り忠実に写生道を実践したんであって、他の人は写生道といいながら、あくまで間尺に合わせた写生をしているのではないか、というふうにも考えられますよね。 

これはなかなかすごい発言です。つまり、左千夫も赤彦も文明も佐太郎もその他アララギ高弟たちも、誰一人写生ではない、と言っているわけです。このブログの第一回、第八回と合わせて考えてみると面白いかもしれません。

小池さんのこの発言に対して、永田さんは茂吉が「全人格を賭けて写生をしているようなところがおもしろいんじゃないですか」と反論します。しかし、小池さんはこう言い返します。

小池 人格に持っていきたくない。方法に閉じこめておきたい。 

 

永田 でも、方法がおもしろいんであれば、アララギの他の歌人もおもしろいはずでしょう。

 

小池 だから、アララギの他の歌人は、いわば無意識に嘘をついている。方法に徹していないわけです。写生、写実といいながら、どこかで理性的に見据えた形で、あるものは写生の対象にするけれど、あるものはしないというふうに分けている。だから、今のようにお行儀のいい当たり障りのない写生歌が氾濫するんじゃないですかね。(p.113,114)

「人格に持っていきたくない。方法に閉じこめておきたい。」、これも興味深い発言です。私の感じだと、小池さんは非常にロジカルな人という印象があって、基本的には方法論の人だと思います。で、写生というか短歌というかが、その自らのロジカルな部分をどこかで追い抜いていってくれるという期待を持っているのではないか、という気がするんですね。

だからこそ、ここでは茂吉の人格に面白さの原因を求めるよりも、写生という方法自体に面白さの源泉を見たい、というふうになるのではないでしょうか。たぶん、ですけど。

で、第2回の最後はこんな感じで終わっていきます。

小池 それからもう一つは、短歌という文体そのものに内在しているおかしさ、定型に当てはめて言葉をいうということ自体が、そもそもおかしいんだということがあるのではないか。茂吉はそういうところを顕在化させたみたいなところがありまして、過剰な荘重さみたいなことをいいましたが、つきつめていくとほとんど無意味さにつながるんじゃないでしょうか。

 

日本国(にほんこく)の児童諸君(じどうしよくん)はおしなべて辛抱(しんぼう)強くあれよとぞおもふ 

 

 (会場、笑)。おかしいでしょう。こんな無内容な歌はないですよ。それが窮極の笑いだと思います。つまり笑いとは、最終的にこういうナンセンスさに行きつく。意味内容ではなくて、形と内容との巨大な落差みたいなものの中で、生まれてくるというのが、茂吉の示した笑いの一つかな、と思っています。(p.119)

と小池さんは 締めています。「短歌という文体そのものに内在しているおかしさ、定型に当てはめて言葉をいうということ自体が、そもそもおかしいんだ」というところですよね。これはなかなか小池さん自身の歌を考えるときも、大事な視点ではないでしょうか。

永田さんも、この小池発言を受けて、こんな風に言っています。

永田 今の話を、もっと早くしてくれればよかったのに(笑)。今日は、ちょっと話題にならなかったんだけれど、小池氏の歌のおもしろさと、茂吉の歌のおもしろさの違いは何か。小池氏の名言は「我々の生活には凸がない」という言葉です。つまり、近代短歌というのは、自分の精神を高揚させていって、いかに悲劇的に、あるいは悲しい自分を作っていくか、そこにはドラマがなくてはならない、ということで、どんどん凸化していったんですね。しかし、我々の日常の平凡さというのは、そんなところより遙か遠くにあって、そこで無理に凸を志向したから破綻した。凸も凹も作らない、というのが、小池氏のひと頃の作歌スタンスでした。それは、或る意味で言うと、茂吉の無意味さにおもしろさを感じるというところと通じているんだと思います。(p.120) 

 「凸も凹も作らない、というのが、小池氏のひと頃の作歌スタンスでした。」というのは、ほんとそうだな、と思います。小池さんはずっと茂吉にこだわり続けていますが、このようなところで、小池さんと茂吉は響いているのだな、という気がします。

長くなったので、このへんで終わりますが、第3回以降もすげえ面白いです。ちょっとタイトルだけ並べます。

3.茂吉と性

4.茂吉とヒットラー

5.茂吉とわかりにくさ

6.茂吉とレトリック

こんな感じです。「茂吉とヒットラー」てすごいですよね。あと、さっきもちょっと話でましたけど、「茂吉と性」もかなり面白くて、「性的なものを感じさせる歌がたくさん出てくるのと、茂吉の評価が高い時期が一致している」なんていう興味深い指摘があります。

いやしかし、先にも述べましたが、読めば読むほど茂吉は矛盾の塊です。この本の冒頭で小池さんが、

小池 大ざっぱに近代の短歌を見渡して、やはり短歌といえばニアリー・イコール斎藤茂吉になってしまうのではないかという気がしております。(p.17)

と言っていて、私もそう思うのですが、こんな矛盾の塊がニアリー・イコール短歌だとは、あらためて短歌ってなんなんだろうと思いました。つくづく不思議だよなあ、短歌。

 

というあたりでおしまいです。この本、今見たらamazonにも在庫ありましたし、砂子屋書房のサイトからもまだ買えるみたいですよ。座談会形式なので、めっちゃ読みやすいですし。おすすめです。では。

第20回 佐藤春夫『晶子曼陀羅』

事実か、真実か、それとも物語か 土岐友浩

晶子曼陀羅 (講談社文芸文庫)

晶子曼陀羅 (講談社文芸文庫)

 

 

与謝野晶子といえば歴史の教科書に「君死にたまふことなかれ」という詩が載っているから、反戦表現者というイメージを抱いていた。

しかし平塚らいてうとの論争や、日本で初めて男女共学を実現した文化学院の創設に加わり、その学部長に就任したことを知ると、日本史的にはむしろ、男女平等を論じ、女性の自立に貢献した人物として記憶されるべきではないか、という気がしてくる。

 

1942年には出征する四男を激励するような歌も詠んでいるのだが、晶子の戦争観をここで論じたいわけではなく、この四男の名前が「アウギュスト」だったことに僕などは思わず目が行ってしまう。

 

アウギュスト。

 

パリで彫刻家のロダンと会ったときに感銘を受け、晶子はそのころ身ごもった子に、この名を授けたそうだ。もちろん鉄幹との間の子どもである。

戦時中に「君死にたまふことなかれ」を発表したことよりも、日本人らしさなどいっさい気にしないストレートな命名センスが晶子のすごさなのだと、僕は思う。

 *

『晶子曼陀羅』は、小説である。

佐藤春夫が本書の冒頭で「これは勿論、晶子伝ではない。また晶子論ではない」と読者にしっかり念を押しているから、それに従わないわけにはいかない。

 

佐藤は中学時代から「明星」に短歌を投稿し、上京後も与謝野鉄幹と晶子の世話になっており、言ってみれば身内の人間だった。

そのため小説の事実関係をめぐる問い合わせが絶えなかったようで、佐藤は「著者から読者へに代えて」という長いあとがきで、こう答えている。

自分は女主人公をはじめ多くの実在の人物を取扱うに就て作者が事実以上の真実を伝えたいためにする虚構をそっくりそのまま事実と思い込むそそっかしい読者にこれは事実談ではなく小説というつくり話ですよと警告して置いたもののつもりでしたが、そそっかしい人たちはどこまでもそそっかしいものと見えてやっぱりあのフィクション(作り話)を事実と考えて拙作を小説ではなくさながらに晶子伝のように読みちがえている向もあるらしく、そういう意味の訂正を要求したのや、事実の詮議にかげ口をまじえた文学史家まがいの講話までもあったとか、(以下略)

 

まだまだ続くのだが、佐藤が書きたかったのは「事実以上の真実」だった、という部分だけ押さえておけば十分だろう。

解説の池内紀の表現を借りれば「小説と銘打った詩的幻想の試み」の向こうに、佐藤は詩人の像という「真実」を描こうとした。

 

事実か、真実か。

 

どちらを追うのも、決して間違っているとは思わない。

 

だが、そうではない読み方もある。

というようなことが言いたくて、今回、この本を取り上げた。

 

『晶子曼陀羅』は講談社文芸文庫でしかも読売文学賞受賞作だというから、ハードルが高そうだけれど、もともとは新聞小説なので意外と読みやすい。

書き出しを見てみよう。

「ほう、どなたかと思えば、これはよくこそ。駿河屋さんのいとはん(令嬢)か。何はともあれ、まあお上り。」

と主人の樋口氏の言葉に、小ざっぱりとした荒い久留米の袷に紫繻子の半幅帯を締めた小娘は、無言で一礼すると、既に勝手を知ったもののように、すたすたと玄関に上りこんで、

 

NHKの朝ドラか大河ドラマの始まりのようではないだろうか。

この「小娘」とは、もちろん晶子のことだ。短い描写で、晶子の気質がさりげなく書かれている。

 

読売新聞紙上で『晶子曼陀羅』の連載が始まったのは、19543月。

幼少期から始まって、晶子が鉄幹と出会い、山川登美子との三角関係など紆余曲折を経て結婚。最後の場面は、ヨーロッパに留学した鉄幹を追って晶子がパリまで会いに行ったところで、だいたい34歳くらいまでの前半生が書かれていることになる。

その後の社会的な活動については、ほとんど触れられていない。

 

言わば佐藤が書いたのは、詩人としての与謝野晶子であり、そして、ちょうどそれは「明星」の栄光と衰退の物語に他ならなかった。

 

「明星」は当時、最高の文芸誌という評判をほしいままにしながら、毎回高利貸からお金を借りて発行しなければならなかったという。

こういう本作りの苦労話には、個人的に涙が止まらないのだが、それはともかく、興味深かったのは、というか読んでいて何度も驚いたのが、佐藤が与謝野夫妻に対して、けっこう辛辣な書き方をしていることだ。 

 

たとえば『みだれ髪』のことを、こう評している。

その節度のないあまりに生々しい実感と、奔放に原始的な表現とを、あっさり情熱的と評価して来ているが、実はホルモンがまだ完全に昇華し切らないで幾分の原形をとどめた詩歌の半獣半神体とも名づくべきヒステリックな風体で、青春の狂乱をそのままなのがこの集に独自な美である「みだれ髪」とはまことにいみじくも名づけた。

  

「明星」を代表する歌集に贈られる言葉として「節度のない」「ヒステリックな風体」とは、なんともきつい。

 

他にも「明星」のメンバーは、晶子は「白萩の君」、登美子は「白百合の君」と、それぞれ花の名前を付けて呼び合い、その中心にいた鉄幹は「星の子」と呼ばれていたのだが、佐藤は「青春の新興宗教にも似たこの新詩歌の集団」云々と、ずいぶん突き放した言い方をしている。

 

このように佐藤は「明星」の歌人たちを美化することなく、きわめて醒めた眼で批評した。

(鉄幹は)一種の選民思想を抱いた理想家であった。彼の理想とする詩歌の革新という天職のためには田舎の豪華の一軒や一族の滅亡ぐらいは意にも介しなかった。

(中略)

そういう選民思想で、鉄幹の求めているのは単純な愛人ではなく、ともに新しい詩歌を創造するに足る素質のある「才たけて顔(みめ)うるはしくなさけある」相手なのであった。

(中略)

いずれは台所の煤のなかに、ばら色の頬の色褪せてゆく少女たちのなかから、せめて一人でもひろい出して、その青春を思う存分に生きさせ、そこから互に新らしい詩歌を生みたい、生ませたい。玉の如き愛児は設けないでも、いばらに埋もれた詩歌の古道をともに新しく拓くべき人がほしい。

(中略)

こういう神がかりは有害だから世俗の悪むところとはなるが、一部の信仰者も出ないではない。

現に帰京後も鉄幹に手紙を競争のように書き送る登美子、晶子がそれである。

  

このくだりに、鉄幹の悪が、絶妙に書き尽くされていると思う。

 

新時代の詩歌を理想に掲げ、それを実現するためには、どんな犠牲もいとわない。

悪という言葉が強すぎるならば、業、あるいは、厄介さ。

 

「いずれは台所の〜」以下の一文は、鉄幹の醜い思い上がりを容赦なく書き立てながら、しかしどこかに詩歌に殉じた人間への同情がにじみ出ている、あまりに悲しい文章ではないだろうか。

 

「明星」の成功によって鉄幹の夢は実現したが、現実の生活は困窮を極めた。

その「明星」もやがて時代の潮流に取り残され、人々は次第に離れていった。

 

晶子は名を成したが、「明星」を失った後、かつての「星の子」だった鉄幹のもとには、何も残らなかった。

仕事もないので、多忙な晶子をよそに、ひとり庭先で蟻を殺して遊んでいたという。

その変わり果てた夫の姿を見て、晶子は考える。 

名声によじのぼってやっと支えられていた蔓草のような夫の自信が名声の失われると一しょに無くなってしまっているのは歎かわしい。あれほどの大才を抱きながら、どうして自分ひとりで自分を信じることができないのであろうか。自ら信じることの篤い晶子は、進んで夫の蔓草のような自信を支える手になろうと思ったが、うっかりそんな事を云い出せば、また晶子が世の名声に心おごって、夫を凌ぐような態度に出ると依怙地になるにきまっている。自分は誤って名声を得たおかげで幸福を失った。自分の欲しいものは幸福であって、決して名声ではない。もし自分に何かの名誉がほしいとすれば夫の唯一の愛されている弟子というだけで沢山なのである。何で夫と名声などを争おうか。こういう事は今に追々と夫に納得してもらうとして、今はもっと具体的に、きょうこのごろの悪い生活から夫も自分も一刻も早く抜け出すのが急務である。

 

この述懐は、すべて佐藤の想像なのかもしれない。

しかし、虚構を恐れず、平明な言葉であざやかに詩人が生きた時代を書いた、やはりこれは小説であり、優れた歌書なのだと思う。

第19回 小池光『街角の事物たち』

永井祐

こんにちは。

 

今日やるのは!

 

 

人は「そとづら」が9割

人は「そとづら」が9割

 

 

ではなく!

 

 

街角の事物たち (五柳叢書)

街角の事物たち (五柳叢書)

 

 

小池光『街角の事物たち』(五柳書院)です。

実は去年はじめて読んだのですが、

これは名著のたぐいですね。

91年刊。小池光の最初のエッセイ・評論集です。

いろんな場所でいろんなテーマで書かれたものを集成してある本で、統一的な

テーマがあるわけではないのですが、

これを読むと、当時の小池さんの問題意識がよくわかる、ユニークな発想と洞察

に満ちた本です。

去年、わたしは『短歌』(KADOKAWA)という雑誌で半年間時評をやっていて、

そのときに冒頭の「団地暮らし、感想」というエッセイについて書いているので、

今回は別のやつをやりたいと思います。

 

二番目に入っている「笑いの位相」。

これは、奥村晃作論になっています。

 

ちょっと前置きで穂村弘『短歌という爆弾』から引用します。

 

不思議なり千の音符のただ一つ弾きちがへてもへんな音がす

次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く

「東京の積雪二十センチ」といふけれど東京のどこが二十センチか

舟虫の無数の足が一斉にうごきて舟虫のからだを運ぶ

 

これらの作品には、奥村晃作の怖さがよくあらわれている。目の前の事象に対する限度を超えた意識の集中が、先入観や常識といった日常的な認識のフレームをばらばらにして、いわば聖なる見境のなさといったものを生み出している。

 

 

穂村さんはこのような心のあり方を「灼熱の心」と呼びます。

作品と合わせて、言ってることよくわかりますよね。わたしも奥村晃作のイメージってこんな感じでした。

が、「笑いの位相」を読むと、ちょっと様子が変わってくる。

 

はつきりとこつちがいいと言ひくれし女店員が決めしボールペン持つ

ヒトゴロシ、窃盗などははつきりと悪なるゆゑにわれは成さざり

気象庁天気予報に従ひて今日も要なき傘持ちありく

 

(略)滑稽だが深刻の翳りがある。

自分自身をつかまえきれない、宙ぶらりんの存在感が正直に、マトモに(あるいはマトモ過ぎる位に)歌われている。傘を持つか否かを決めるのは気象庁であり、二本のボールペンをどっちにするかを決めるのは女店員である。確信を持ってジャッジ出来るのは、せいぜいヒトゴロシやドロボーが悪いということだ―というのだから、わたしたちは頼りない四十男の正直な告白に笑わされるが、それが自分の姿でもあるのに気付くのに大した時間はいらない。わたしたちは、多かれ少なかれ、みんなそういう状態で生きている。(略)

今、走ることが大変流行している。走ることに限らず、色々な肉体鍛錬が先進国で例外なくブームである。

その理由は、おそらく、走ることで自分自身をつかまえられるのではないかという幻想が、彼らを走らせている。自分が自分の支配者となる感覚が欲しい。

奥村晃作のとまどいと不安は、この人々をジョギングに駆りたてる衝動と同じところに根ざしているといってよい。だから、わたしたちは笑うけれども、その笑いはひきつったものにならざるを得ない。

(略)

そして、必死になって走る人が、どこか深い所でおかしく見えるように、奥村晃作の姿もおかしく見える。この歌集のおかしさは、つまるところ、そのおかしさである。わたしたちは笑うが、笑いつつ、同じ袋小路にいる自分を発見させられる。

 

わが専門は短歌にてわれは万葉集をかく通読す七、八、九…回

どの歌がどこにあるかがわかるまで万葉集をわれは読むなり

旧かなの表記で歌を作り過ぎ散文書きつつ「うえ」を「うへ」と書く

 

(略)ここで歌人は「専門」なる概念(?)を持ち出す。短歌が専門であると自己規定することで、自分をつかまえようとするのである。いいかえると、こう自問自答している。「奥村晃作とは何か?」「それは、短歌を専門にする者、である」と。その答で自分を納得させようとする。(略)

それはおそろしく空疎な思い込みといわなければならない。この空疎さは何ものかによって物質的に充填されねばならず、そこで奥村晃作万葉集を読むという行為に出る。(略)充填への欲求はのっぴきならないものであるが、それが、こういう意味での「万葉集」であることが、滑稽であり、馬鹿馬鹿しく、痛ましい。丁度ジョギングにのめり込んだ人が、地球を一周するだけ走らなければ止めないと決意するのとひどく似通った必死さであり、おかしさであり、痛ましさである。

(略)

この歌集のおかしさは、だから、追いつめられた現代人のおかしさである。

 

 

また引用長くなっちゃったんですけど、これ読んでなるほどな、と思うんです。

もちろん引用歌の傾向は(たぶん制作時期も)違うんですが、穂村さんの論を読んでいる限りだと奥村作品は「聖なる」変な人、みたいに見えます。でも、小池さんはそこに、「灼熱の心」の背後に、むしろ不安で追いつめられた者の姿を見出すんですね。そしてとても同情的に、共感的に書かれています。

『街角の事物たち』を読んでいると、当時の中年男性たちのピンチとか焦燥感みたいなものがありありと描出されていて興味深いです。それはなんだろう、終身雇用が前提の仕事をしながら家のローンを何十年も払っていくような人生における焦燥感、消費社会化の進行による価値の変容に取り残されていく危機感とか、そういうものですね。今からすると見えにくいし、同情もそんなにされなさそうなものです。しかし、だからこそ気になる。

 

もう一個、「リズム考」という韻律論をやりましょう。

これはたいへん具体的な論で、必読だと思います。

前半は短歌一首のリズムの解析。くわしくは読んでもらうとして大事なのは、

短歌形式とは、三十一音が等拍でただ並んでいるのではなく、「五句三十一音」

というだけでは表し得ない「短歌のリズム」が存在していること。(本文には

楽譜まで付いています。)そしてその肝心なところは、

 

(1)初句と三句、つまり五音の句をゆっくり読み、二句四句結句の七音を速く読む。

(2)初句と三句の終わりには休止がある。

 

これを踏まえて後半は破調の分析になります。

小池さんにとって短歌の韻律のポイントは、「短歌らしさ」とその「裏切り」とのあいだの緊張関係にあります。なので、明らかな「裏切り」として、破調が分析の対象になるんですね。

各句の増減の破調を、例を引用しながら読んでいくのですが、特に納得したところだけ紹介します。

 

A1・初句増音

(「六七五七七」の例)

(略)

(「七七五七七」に比べて)「六七五七七」は抵抗力が大きい。六音が短歌五小節のどのリズムをもってきてもおさまりにくいからである。あまりにも短歌らしくなく始まったため、二句以下との対比は一層鮮かとなるが、その分だけ下手をすれば異和感分裂感チグハグ感も与えやすく、例歌も少ない。

 

いましがたの雨のなごりは曲線を持つ屋蓋にひかりを引けり 佐藤佐太郎

 

この一首はぼくの知る限りでの数少ない成功例のもっとも見事なひとつで、「いましがたの」という吃音的イントロが、完璧ともいえる二句以下の短歌らしさによって実に小気味よく逆転されてゆく。特に「曲線を持つ屋蓋に」の句またがりに注意したい。またがったことでまこと曲線を感じさせるリズムが生じた。その流麗さが「いましがたの」の舌足らずなリズムと拮抗しあい、不思議な緊張した空間を現出せしめているといえる。「いまほどの」「さきほどの」ではこの一首の美しさは半減する。意味性によってではなく、リズムにおいて半減してしまうのである。定型の有機性ということ、二重の裏切りによる定型のダイナミズムということを強く感じさせる一首であろう。

 

 

A2・三句増音

(「五七六七七」の例)

 

白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり 高野公彦

 

(略)初句、三句は休止符があるため、増音はこの休止をうずめる方向でまず行われ、その結果短歌らしさに対する抵抗体として、強く機能するのである。(略)ここでは、三句六音の強いブレーキが<意味性>という全く別の機能と交錯しあい、微妙にそのどぎつさの角をけずり落としているのに注意したい。つまり「草の園に」の六音のリズムが、「自転車のほそいつばさ」という幻視的光景(つまり意味上における短歌らしくなさ)を呼んでくる伏線として機能しており(略)いいかえれば必然性があるのである。意味上からは「草の園に」の「に」は省略可能である(略)五音におさめるのは簡単にできる。だからと言って、

 

白き霧ながるる夜の草の園自転車はほそきつばさ濡れたり

 

では歌は「死に体」である。「自転車のつばさ」があまりに唐突に出現しすぎる

 

 

A3結句増音

 

(結句増音は)余情に対するブレーキ、と書いたが、これは実際には過度の叙情性に対する「流れどめ」として有効性を発揮する。この型の破調の第一の効力がここにある。例をみよう。

 

亡き姉をこころに持てば虹の脚ほのかに秋の海に幽(かく)れたり

亡き姉をこころに持てば虹の脚ほのかに秋の海に幽(かく)れぬ

 

前者が『汽水の光』より引いた高野氏のオリジナル、後者はそれを筆者が定型化してみたものである。並べて見ればわたしのいわんとするところは明らかになると思う。死んだ姉さんのことをおもっていると虹の脚がほのかに秋の海へ消えて行った、というイメージは魅力的であるがその美しさは繊細にすぎ予定調和気味であり、いわゆる短歌的叙情のワクの内で容易に自己完結してしまいかねない際どさを持っている。韻律の流速の中でやすらかに溺れてしまいそうなイメージである。「海に幽れたり」の八音はこの流れに投じられた垂鉛の役割を果して、一首に有機的な勁さを回復しているのだ。まことに的確な計算であると思う。

 

 

どうでしょう。

ついていけるでしょうか。

極論すると定型感覚って時代によって変わるし、個人によっても違うと思います。

結句が七から八になったから甘過ぎを免れた、と感じられない人もいるような気がします。

わたしも「リズム考」でピンとこなかったところはあるし。

でもこれを読むと、小池さんの中にはおそろしく繊細な意味と音と型の宇宙があるんだな、

ということがなんとなくわかりますよね。マスターの模範演技みたいな感じで。

 

短歌と直接関係ないエッセイもすごくいいんですけど、今日はこのあたりで。 

 

そういえば今週土曜、8/13にシンポジウムのパネルに出ます。

くわしくは下のURLを。

http://9313.teacup.com/tankajin/bbs/463 …

ピーナツの第二回でも取り上げた、森岡貞香についてのものです。

お時間あればぜひ。

見かけたら声かけてもらえるとうれしいです。

第18回 大岡信『一九〇〇年前夜後朝譚』

 「短歌」と「和歌」の違いってなんだ 堂園昌彦

一九〇〇年前夜後朝譚―近代文芸の豊かさの秘密
 

 

 こんにちは。

 この「短歌のピーナツ」を始めてから、詩歌関連の本がずいぶんと目の中に入るようになってきた。以前も目には入っていたのだろうが、なんだかそれらの本は自分にはよそよそしい感じがして、手に取るのが躊躇われたのだ。しかし、今では古本屋で詩歌に関する本を見つけると、とにかく片っ端から購入して、いそいそと持って帰るのが何よりも楽しみになっている。この本もそうして見つけた本のひとつだが、面白かったので紹介したい。

 「後朝(きぬぎぬ)譚」とあるけれども、別に恋愛詩の話ばかりではなく、1900年前後の文化に対する四方山話、というくらいの意味らしい。大岡さんは100年ほど前の時代がいろんな理由で重要だと考えたようだ。それは次のような言葉で説明されている。

私たちはこんなに日々忙しく立ち働いているのに、それにまた長寿社会だそうだのに、それにしてはなぜそれほど精神的に快活じゃないのだろう、という素朴な疑問がこの本の出発点にあります。一世紀前の思想家も文学者も、私たちより短命で病苦にもさいなまれていた人が多かったのに、私たちより本質的に快活で元気がよかったと私は感じています。それは「なぜ」なのか。その疑問を少しでも明らかにしたいと思ったのでした。(p.344)

 「一世紀前の思想家も文学者も、私たちより短命で病苦にもさいなまれていた人が多かったのに、私たちより本質的に快活で元気がよかった」、これは『短歌の友人』などで穂村弘さんがずっと言っていることと同じですね。ほんとに、これはいったいなんでなんだろう、と思う。

 この本の中でも、はっきりとした答えは出ていない。でも、やはり言えるのは、100年前はあらゆるものの転換期であり、次々にシステムが変わっていくこと自体に非常に大きなダイナミズムがあったということだ。で、この本は、そうした文芸ジャンルにおける変化をいろいろな側面から照らし出そうとした本と言える。網羅的な内容ではないけれど、大事なことがいくつもいくつも起きていたことは、うかがえるようになっている。

 タイトルに「一九〇〇年前夜」とあるように、1900年=明治33年くらいに起きたことが語られることの中心だ。日本の「詩」が劇的に変わった島崎藤村の『若菜集』が1897年=明治30年で、正岡子規の「歌よみに与ふる書」が新聞紙上に発表されたのが1898年=明治31年です。要するに、1900年前夜=明治30年前後というのは、明治に入って埋め込まれた変化の種が、じわじわと成長していって、ようやく革命となってあらゆるところで噴出し出した時期なんですね。

 内村鑑三岡倉天心坪内逍遥らの行った仕事についてなどの箇所も興味深かったのだが、やはり私は短詩型に関する箇所が気になる。ずばり、この本で一番面白かったところは、「短歌」と「和歌」の違いに関する箇所だったので、それを紹介したい。

 和歌と短歌と、どう違うのか。

 同じものを単に別の呼称で呼んでいるだけなのか、それとも名前の違いは中身の違いによるものか。

 私は和歌史・短歌史に通暁している人間ではありませんが、日頃それにふれる問題について書くことがあるため、時々右のような質問を受けることがあります。そこであらためて考えてみると、この名称の問題は一見些事のようですが、案外そうでもないことに気づきます。つまりここには、日本の詩歌伝統における前近代と近代の分水嶺がいったいどの辺りにあったかを考える上で大事なポイントになるような問題が隠されていると思われるからです。名称の違いは、単なる呼び名の違いでなく、「うた」の実質の違いに深く関わっているのです。(p.135) 

 近代において57577の形式を持つ和歌文学が刷新され、結果、「短歌」と呼び名が変った、これはある意味では常識とも言えることだけれども、実際にはいったいいつごろ「短歌」という呼び名になったのか、そして、「和歌」と「短歌」は結局なにが違うのか、これにしっかりと答えるのは、意外と難しいのではないだろうか。

 まず、枕として大岡さんは坂本龍馬の和歌を取り上げている。

 とある雑誌の、読者からの質問に答えるコラムで、

大岡信のエッセーを読んでいたところ、坂本龍馬の歌を『短歌』と呼ばず、終始『和歌』と呼んでいた。そこに引用されている龍馬の歌を見るに、現在の短歌となんら変わらないように思われるが、なぜそれを和歌と呼んで短歌と呼ばないのか説明して下さい(p.137)

と、質問を受けた。なるほど、改めて考えると不思議だ。「龍馬の時代には、まだ『短歌』と呼ばれてなかったから」とざっくりと答えてもよいのだが、たぶん、質問者が聴いていることは、もう少し細かいことだろう。大岡さんは回答として、次のような文章を書いている。

 文学史のおさらいをするような回答はあまりしたくないので、まず次の引用文をお読み頂こうと思います。筆者は明治十年生、昭和四十二年没(九十歳)の歌人窪田空穂。「作歌の跡を顧みて」という昭和十二年執筆の文章で、『窪田空穂全集』第八巻にあります。

 おっ、窪田空穂が出てきた。空穂は以前の回で長く取り上げて親しみがあるので、私はなんとなく嬉しい。ちなみに、大岡信の父は歌人であり空穂の弟子で、その縁で大岡さん自身も小さい頃から空穂と親しく付き合っていたらしい。旧制高校に入学するときの保証人になってもらったり、就職のときに相談に行ったり、困ると空穂に会いに行くという、大岡さんにとって頼れるお祖父ちゃんのような存在だったそうだ。

 これはこの本には出てこない、完璧な余談。で、続いて大岡さんは空穂の文章を引いている。先の文章に続く部分。

 まず冒頭に、

 「明治三十年代のはじめ、我々が歌に関心を持ち出したころには、今いふ『短歌』は『和歌』といふ名で呼ばれてゐた。これは漢詩に対しての名で、大和即ち日本の歌の意である」。

 空穂はこのあと、「和歌」が「短歌」に名称変えになってゆく経路を、まことに興味深い観察と体験的回想によって論じていますが、その細かい内容についてはここではとても引用できません。ただ一つ挙げておけば、明治三十年代はじめという時期が、明治二十七・八年の日清戦争における日本の勝利に続く時代だったことを指摘している点です。(p.138)

 空穂が短歌を作り始めたのは、明治三十二年、22歳のとき。地元の小学校の代用教員となり、そこに赴任してきた1歳年上の歌人太田水穂に「短歌おもしれーから、やってみろよ」とかなんとか言われて歌を作り始めた。その後、子規のところに投稿したり、鉄幹のところに投稿したりなんかして、「明星」に入ったりする。そういうスタートだが、それはともかく、この頃はまだ「短歌」という名称はなく、「和歌」とみんな呼んでいた。

 そして、大岡さんも言っているように、「日清戦争の日本の勝利」が出てくるのが興味深い。

 つまり、「和歌」という名称は長い間「漢詩」を意識して用いられてきたのだが、その先進文明の産物「漢詩」の本家本元たる清国に対して勝利をおさめたとき、「にわかに高まってきた国民の自尊心」が、「和歌」という名前の再検討をうながす結果となり、「国歌」「国詩」「短詩」「短歌」といった名前がいろいろ試みられたのである、と空穂は回想しているのです。(p.138)

 これ、ちょっと驚いた。現代短歌を書いている歌人に向かって「和歌やってるんだよね」と言うのは、「ここで一句!」と言われるのと同じくらい歌人を嫌がらせることになる、一種のあるあるネタなのだが、「和歌」が「短歌」になった背景にこうしたナショナリズム的な要素があったとはまったく知らなかったので、びっくりした。

 もちろん、「和歌」が「短歌」になったのは、ナショナリズムだけではなく、もうひとつの強い影響があった。

 意外なところで伝統詩歌の名称の再検討とナショナリズムの結びつきがあったことになりますが、もちろんこれが最終的に「短歌」に落ち着くまでには、なお他の要素もからんでいました。その一つは、当時島崎藤村らの登場によって青年たちの心を一挙につかんでしまった「新体詩」(現在のいわゆる現代詩のご先祖)の出現です。

 新体詩は西洋の詩の影響を全面的に受けて出発しました。かつての先進文明の精華である「漢詩」に代わって、今度は洋風の「ポエトリー」が歌人たちの前に立ちはだかったわけです。「和歌」の名は、ここでもあっというまに影が薄くならざるを得なかった。

 「うた」という言葉は古代からずっと存在し、愛用されてきましたが、この大和言葉ではどうも新時代の詩的表現にしっくり来ない。いろいろな試みや再検討の末に「短歌」という名前が自然に定着していったというわけです。(p.138)

 これはわかる。文芸ジャンルの革新は短歌だけで起きていたわけではないから、やはり、相互に影響を受けている。で、いろいろ読んでいると、当時の和歌革新にはこの「新体詩」が大きく関わっていたようだ。わたしのざっくりした理解だと、

新体詩の登場」(明治十年代)

「それに影響を受けた様々な試み」(明治二十年代)

歌よみに与ふる書」(明治三十一年)

という流れみたいだ(「新体詩」については、またあらためて別の回で取り上げたいと思ってます)。 

 私が幕末の坂本龍馬の「古今調」の歌について書いた時、終始それらを「和歌」と呼んだのは、以上のような歴史的背景に立ってのことです。正岡子規が和歌革新に決定的な一石を投じた有名な「歌よみに与ふる書」をご覧になってもわかることですが、子規はこの中で常に「和歌」の語だけを使っています。この文章が新聞「日本」に連載されたのは明治三十一年早春のことでした。「短歌」の語は、革新家子規にとってもまだ馴染みの薄い名称だったのです。(p.139)

 「歌よみに与ふる書」でも「短歌」ではなく「和歌」だった(読み返してみたらほんとにそうだった)というのは、強力な傍証ですね。なるほど、面白い。

 経緯は以上のような感じだが、「和歌」と「短歌」の中身の違いはなんだろうか。大岡さんは、この雑誌コラムの話に続いて、コラム中では引用する余裕のなかった坂本龍馬の実際の和歌を取り上げている。こんな歌だ。

 

桂小五郎揮毫を需めける時示すとて

ゆく春も心やすげに見ゆるかな花なき里の夕暮の空  坂本龍馬

 

 この歌は晩春のおだやかな夕暮れを詠んだなんてこともない歌なのだけれど、おそらく背景に『古今集』の次の2首を元にしている。

 

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平

久方のひかりのどけき春の日にしづごころなく花のちるらむ   紀友則

 

 どちらの『古今集』の代表的名歌だけれども、龍馬はそれを下敷きとして、「晩春、桜も散りはてた花なき里の穏やかさ、やすらかさを、『これもまたいいではないか、小五郎よ』と言っている」ということだ。

 他に大岡さんが挙げている坂本龍馬の歌も、いずれも古典的知識をもとにして、題詠の基本にのっとり、技巧を凝らしている。しかも、これらの歌は座興か旅行先の即吟であり、ふだんの龍馬の教養がそのまま出ている歌たちだ。

 はたちを過ぎて日も浅い土佐の剣術使いにしては仲々のものじゃないか、などと冷やかしてすますわけにもゆかないほどの古典和歌の嗜みがこの人物にはありました。そういう基礎教育を彼に与えたのは、おそらく彼の姉乙女を中心とする家の伝統だったと思われますが、こんな具合に『古今集』伝統を実践的に身につけていた若者であれば、今日で公卿貴族たちと面談しても、イナカモノの気後れをいだく理由はなかったと思われます。同時代の公卿貴族で、龍馬の和歌程度の歌でも即吟できた人は、たぶんごく少なかっただろうからです。(p.143)

 つまり、龍馬の歌は当時としても教養の高さを示すものであり、それは現実的に他者と交渉する際にも役だっただろう、ということである。

 和歌ができるということは、ただちにそのような実際面での効用を意味していたのです。それが、近代短歌を作る場合との、実に顕著な相違であったことは、いくら強調してもしすぎることはありません。すなわち、普通私たちが考えやすい道筋とは逆に、古典「和歌」というものは、単なる煙霞の癖(へき)、毒にも薬にもならない非現実世界への優遊といったものではなく、時にはまことに生臭い虚々実々の取引き、丁々発止の力競べそのものとして、現実世界で活用されるものだったのです。(p.143)

 「『うた』は単に内部から湧きあがる素朴純真な感動や感傷の表現ではなく、その人物の知的・情操的背景を示す『記号』なのでした。」と大岡さんは述べている。つまり、和歌は「現実的に役に立つもの」なのである。

 そうして考えてみると、明治期の和歌革新はこのことに関わっている。

 正岡子規与謝野鉄幹が成しとげた転回は、この観点からすれば、詩歌というものからそのような意味での、現実的効用(注:原文傍点)の側面をできるだけ骨抜きにすることであり、長期的視野においてこれを見るなら、現代の短歌、俳句、現代詩にまで滔々として浸透している芸術のための芸術(注:原文傍点)という観念を、伝統詩歌のボディーの中へ新たに注入することだった、と言うことができるのです。(p.144)

 和歌を現実に役に立つものから、役に立たないものへ。それが「和歌」から「短歌」へと移り変わった明治時代の実験であった。短歌が「自我の詩」になったということはそういうことだ。実際、現代でも短歌を学んだからといって社会的な地位が上がることはまず考えられない。それは、このころの和歌革新に原因を負っている。余談だが、「歌会始」などの短歌と天皇制の関わりは、この「現実で役に立つ和歌」が奇妙な形で残ったものと言えるかもしれない。

 またこれも脇に逸れるが、現代の短歌において「言葉遊び」や「折句」が、短歌をあまり読まないひとには「すごい」と思われるけれども、短歌プロパーの世界ではそれほど好まれないのも、ここらへんに関係があるような気がする。つまり、これらのものは和歌の世界では、「教養」や「機智」を表す、現世利益、現実的に役立つものだったからだ。近代短歌はその否定から始まっており、今でもそれを引きずりながら続いているから、このようなギャップが生れるのではないだろうか。

  次のところも大事なので引用したい。

 私は旧派和歌に漂う陳腐なるものの繰返しから生じる腐臭、さらには死臭に対して、とても付合いきれぬものを感じます。しかし一方で、自我の叫びを出発点に置き、感情の振幅の大小によって詩の真実を測る重要な目盛りとした近代以降の詩歌の道筋にも、荒寥たる落日を感じます。プロレタリア短歌とか俳句、またプロレタリア詩などと呼ばれた作品群を今読み返してみると、そのような「近代」詩歌の問題点がとりわけ鮮明に浮かびあがってくるのがわかります。感情の激発ののちは、淋しい感傷と傷ついた自我の泣き言が続くしかなかったのが、大方の近代的左翼詩歌の道程でした。(p.146)

 「感情の激発ののちは、淋しい感傷と傷ついた自我の泣き言が続くしかなかったのが、大方の近代的左翼詩歌の道程でした。」というのは、だいぶ厳しい言葉だけれど、まあそうですね。

 じゃあまあどうするかってことになるけれども、それは大きな話になってしまうので、今回はこれくらいにして、短歌はとかく「伝統」を言い、「千二百年続く」とさも特別なもののように言いたがるが、本当は誰もがわかっているように、短歌と和歌は完全に別物である。変に切れ目なく続いているかのように騙るよりも、違う点をはっきりさせておいた方が、はるかに建設的な気がするがどうだろうか。で、和歌が「役に立つもの」だったというのは、当たり前と言えば当たり前だけれどつい忘れてしまうので、覚えておきたいなと思ったのでした。

 あとこの本では、いわゆる俵万智現象はなぜ起きたのか、短歌だけが爆発的人気を得られる理由とは、という章もあったけれど、そこはあんまり面白くなかった。大岡さんの挙げている理由を並べてみると、

  • 現代人は、わけのわからない混沌としたものよりも、短歌・俳句といったあらかじめ形のわかっているものへの好みを強めている(ちょうどTVのチャンネルを合わせるように)
  • 現代詩は、その詩人の個人的性向すべてを読むことになるので、必然的に批評的距離を持ってしまう(=コアな読者しかいない)
  • 俳句は個人の作品よりも、連衆全体で実力を発揮するもの。また個性よりも季語・季題といった共同体的感性が重視される
  • 近代において「作者の人生経験の独自性」に価値を置く方向に舵をきった短歌だけが、素人歌人から爆発的な人気を生む可能性を残している

ということで、まあ、これはそれぞれはその通りだなとおもうけれども、それは消極的理由で、積極的な理由にはなっていないと感じた。私はですけど。

 この本は「へるめす」という岩波書店が発行していた学術誌での1989年から1994年までの連載が元になっていて、『サラダ記念日』が出たのは1987年だから、ちょっと今とは『サラダ記念日』への距離感が違うんだろうなと思った。今はもう歴史になっちゃってますからね。

 あと、最後の章にあった「二重国籍詩人」野口米次郎(=ヨネ・ノグチ)への言及が面白かった。この人は、明治二十六年(1893年)に17歳で単身アメリカに渡り、向こうで浮浪者っぽいことをしながらも、英語で詩を書いてだんだんと有名になっていって、ついには明治三十七年(1904年)に日本に凱旋したという人。彫刻家イサム・ノグチのお父さんです。俳句研究とかでも大きな仕事をしました。あと、石川啄木がこの人に超あこがれて、手紙書いたりしてます。

 この人、恥ずかしながら今まであんまり知らなかったのだけれど、面白かった。ちょっと長くなったので、そろそろ終わりにしたいのだけれど、この章については後で追記で書くかもしれません。

 啓発されるところの多い、面白い本でした。他に、興味深かったところを引用して、今回のブログはおしまいです。

 マラルメのような詩人がもし正徹の歌を読みえたなら、おそらくは驚嘆したであろうような、言葉のいわば斡旋のみごとさが彼の和歌にはありますが、禅僧であった彼は、同時に公式の間に広く信頼され、歌合や歌会に頻繁に出席して多くの弟子を育てた、社交性に富む大歌人でもありました。それは、およそ五百年後に登場したマラルメが、自分の周囲に若き詩人や小説家を集め、音楽家や画家たちとも親交を結び、見世物の類を愛好した詩人であったこととも通じる所があるでしょう。

 正徹の弟子で「冷え枯(か)らびた」境地の創出を理想とする心敬が、連歌師として実に多様な人物たちと同席し、指導力をふるったということも、彼の孤絶的印象を与える歌論の背景として、忘れてはならないでしょう。これらは結局、和歌の伝統というものが、社交性と相容れないものではなく、逆にそういう土壌のまっただ中で磨かれ続けたものだったことを意味しています。(p.223)

  和歌の伝統と社交性。

 というのも、それ以前の明治時代の詩歌作品では、恋愛という情熱が詩的世界のものとして正面切って扱われたことはなかったからで、『若菜集』と『みだれ髪』は、いわば公的要請に奉仕することを当然の任務とする讃美歌や軍歌や唱歌(小学校唱歌、また後年になりますが大和田建樹の名作「鉄道唱歌」のごとき)によって代表される目的・用途のはっきりした(注:原文傍点)詩の世界に、恋愛というすぐれて私的で無償の情熱的なモチーフを持ち、同時にきわめて具体的に両性間の社会的問題をも内包した普遍性のある一つの重要な主題を持ち込んだのでした。(p.6)

 近代詩以前の世界では、詩は「目的・用途のはっきりした」ものだった。

 藤村・晶子がやった仕事は、その意味で重要でした。彼らは様式化された恋愛詩の歴史から、思春期の悶々たる欲情や憧れや思慕をあらためて救い出しました。

 江戸時代の文学・芸術が、全体として青年の思想心情を表現することにおいて驚くほど怠惰であり、全体として実に老けて(注:原文傍点)いたことを、私はここで強調しておきたいと思います。江戸文学に生きのいい青年の思想・感情の所産を見出すのはひどく難しいことで、江戸時代が随筆の黄金時代だったのは、この事実と表裏一体のことだったのです。(p.8)

  江戸時代が老けているの、たしかに。

 しかし、それが一千年近い間人々の物の見方が変らなかったことを意味しているかと言うと、必ずしもそうではありません。物の見方は変わってきている。つまり細かくなってきています。江戸時代の中期以降は、リアリズムの眼差しが、多くのすぐれた人たちによって、はっきり獲得されています。しかしながら、彼らが作った歌の世界には、その変化がすぐそのままには現れてこなかった。「歌」は、それ独自の生命を持っていて、それに仕えるのが個々の詩人の役割だという考え方があったからです。だから、自分自身の裸の目で見ている現前の風景を、わざわざ古くからのスタイルにのっとった歌い方で歌うという屈折した詩人たちもたくさんいたにちがいない。

(中略)リアリズムの目を持ちながら、同時に伝統的様式性を重んじるという、一種の矛盾した感受性と行動様式が生じていました。これが江戸後期歌人たちの、新しい動きでした。(p.153)

 江戸期歌人もそのうち読みたいですねー。

 そこで「童謡」ですが、童謡は、このような形でおかみ(注:原文傍点)が関与・指導している児童教化的な「唱歌」に対抗して生まれた、大正時代独自の(注:原文傍点)産物だったのです。大正という時代は、一代目の明治に対する二代目の特色をさまざま持っていましたが、その重要なものの一つが、「子供の発見」と言うべきものでした。(p.167)

 大正時代を「二代目」と思って見るのも、面白いかもしれません。

日本詩歌における抒情というものの実体を、文字に惑わされて「情緒」や「感情」の側面において考えるのは、まさに考えものです。むしろある種の、他では求め得ない言語的ヴィジョンを、言葉の組合せの秘術によって作り出すこと、これが結果としてわれわれの情緒にも深い影響を与えること――これが「抒情詩」として日本詩歌の高度な達成にとって必須の条件だったと言うべきだろうと思います。(p.214)

  日本の詩歌は「今ここにないものの影」を「今ここに有るもの」を通じて捉える「時空のデペーズマン」をやってきた、と大岡さんは言っています。「デペーズマン」はシュルレアリスムなんかでよく使われる単語で、あるものを文脈を断ち切って別のところに無理やり置くと面白いでしょ? みたいな手法のことです。詳しくはググってください。

 こんなところです。それでは。

第17回 阿木津英『折口信夫の女歌論』

折口信夫の女歌論」を越えて 土岐友浩 

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折口信夫の女歌論 (五柳叢書)

 

折口信夫は、国文学の大学者であり、近代社会を徹底的に批判したアウトサイダーでもあった。

 *

近代短歌は、正岡子規が「写生」を唱えたところから始まった。言い換えれば、「写生」が短歌を近代化させた。

8回の堂園さんの記事でも触れられたように、「写生」という言葉は元々西洋画の用語で、見たものを先入観なく、客観的に描く手法として子規が導入したものだ。

大辻隆弘は、こう要約している。

写生とは「視点としての私」と「遠近法的な外界の秩序」を同時に成立させるような認識論的な枠組みの転換であった。

(大辻隆弘『アララギの脊梁』) *1

 

西洋画の手法を取り入れる、というのは、そのバックグラウンドである西洋的な個人主義、合理主義の思想を取り込むということでもあった。

子規の目論見は、伝統文芸である俳諧・短歌を革新することにあったが、結果的に「写生」はそれを越えて、近代日本の文芸全般に広がる運動となった。

 

もちろん西洋の異質な価値観を取り込んだ「近代化」に、批判がなかったわけではない。 

そのひとつとして、今回は阿木津英の『折口信夫の女歌論』を読んでいきたい。

(ちなみに「女歌」は「じょか」ではなく、「おんなうた」と読むようだ)

 *

折口はアララギの短歌を男のための歌である、と言い切った。

アララギの写生・鍛錬道といふものは、そこから今井邦子さん、杉浦翠子さん、その他の優れたひとが出てゐますけれども、アララギ自身にとつても、どうしても女の為の歌ではなく、根本的に男歌と謂はなければなりません。

必しも島木赤彦が出なくつても、斎藤茂吉さんが出なくつても、正岡子規その人の作風を分解してみても、女歌といふものの存在の余地が殆なかつたといふことが出来る。尤、伊藤左千夫先生、それから古泉千樫なんかの歌風の方は、女の為事にも向くといつた、まあ余裕を持つてをつたとは思ひます。けれど、大体アララギ時代で、ひとまづ日本短歌史の上に長かつた女歌の時代は過ぎ去つた――とかいふことになるのです。 折口信夫「早期の与謝野婦人」) *2

 

「写生」を掲げたアララギの隆盛とともに「女歌」は終わってしまった、と折口は言う。

「写生」は対象を客観的に記述できる手段として人々に広まったが、第8で詳しく解説されているように、短歌の世界で「写生」はむしろ、主観を表現する方法を模索しながら、独自の発展を遂げていった。

そのため話はやや複雑なのだが、いずれにせよその発展は、赤彦や茂吉など、男性歌人が担ったものだったことを折口は指摘する。

彼らの指導下に、「女歌」は抑圧された。

〈写生〉という男女に共通の目標は掲げられながらも、男性歌人の指導によって、女性は女性としての感情や生活をうたい出していった。たとえば、アララギという組織を歌壇の主流とする基礎を築いた島木赤彦は、武士道精神による鍛錬道としての写生道を掲げて、いわば家父長的な面倒見のよさで女性歌人の何人かを育て上げた。つまり、ここでは、社会の管理ピラミッドの末端としての家族、その家族のなかでの性別役割を担った女性の歌、という枠組が作られたのだ。(阿木津英「〈性の政治〉と二〇世紀女性短歌」) *3

 

読み間違えないようにしたいのだが、これは赤彦批判ではない。

子規の弟子たちは「写生」の技法を発展、洗練させ、日常生活やそこから生まれる感情を、短歌にすくい取ることができるようになった。女性は妻や母としての自分の姿を詠うことが可能になったのだ。

ただし、その「妻」や「母」というのは、近代の「家族」という一種の社会構造に組み込まれた「役割」だったことを見逃してはならない。

折口の別の談話を引きながら、阿木津はこう書いている。

「赤ん坊に乳を飲ます歌」「嫁入りの歌」というような、一般にいかにも女らしい歌と思われているものは、じつは女の生活という素材を男の歌の口まねでうたっているにすぎない、もっと根本的に違う女の歌があるはずだ、と(折口は)いうのである。 *4

 

アララギの女性歌人は「写生」の手ほどきを受け、「赤ん坊に乳を飲ます歌」や「嫁入りの歌」を題材に、「女性としての感情や生活」を歌にした。

 

しかし、それは女歌ではなく「男の歌の口まね」なのだ。

 

阿木津は必ずしも「女性の生活」を詠うことそのものを否定しているわけではない。アララギの「写生」を問うことで、「女性の生活」を成り立たしめしている「家族」や「社会」、その構造を決定づけた政治を問うているのである。

短歌や俳句は、家庭における性別役割を分担しながら、つまり言うなら政治や社会のもたらす大きな枠組を不問に付したまま、自己表現欲求も自己達成感も満足させることができる小さな詩型である。日本という国は、良くも悪しくもこのような詩型を持つ国なのであり、ここに数知れないほどの女性がかかわっている。 *5

 

さらに言えば、この構造はアララギだけにとどまる問題ではなかった。

 

折口信夫は「写生」を主義としない女歌として、たとえば与謝野晶子の歌を挙げた。

しかし晶子の背後には「与謝野鉄幹の文学的戦略」があったと折口は言う。

鉄幹は子規に対抗して、自然主義文学とは距離をとりつつ、西欧の浪漫主義に学んだ新しい文学を目指していた。その答えが「恋」の歌であり、「明星」は鉄幹が作り上げた舞台だった。晶子は山川登美子と競い合うようにして、そこに情熱的な歌を送り届けた。

 

つまり「アララギ」の客観を重んじる短歌も、「明星」の主観を詠い上げる短歌も、どちらも男性が主導した、新時代の文学という名の枠組を築くための政治的な運動にすぎなかった。

折口によれば、それは「やまとうた」の女性像から遠く隔たるものである。

古代の貴族の女性は「男性の思ふまゝにはならない、女は女としての歴史的品位を保つ、と言ふ風が出来て来た」「古代の女性は、男の言ふなりになるのを最恥辱とした。思ひあがつた矜持を失ふまい、と努めた。其上に女としての優しみを何処までも保つて行かうと言ふのである」というような、持論を(折口は)述べる。(阿木津英「折口信夫の短歌論I」) *6

 

阿木津は、他にも中城ふみ子をプロデュースした中井英夫の例などを挙げつつ、以上の議論をこうまとめる。

明治以降、短歌は他の文学ジャンルにもまして多くの女性が関わってきたが、そこにはつねに枠組決定者としての男性、あるいはコーディネーターとしての男性が関わっていた。女性の表現がどのような方向をとるかということは、男性次第であった。  *7

 

さて、ここまでとても駆け足で、いわゆるフェミニズム的な視点から本書を紹介してきたが、折口信夫の女歌論』の射程は、そのような地点にとどまるものではない。

まずは阿木津自身の言葉で、阿木津の立場を確認しておこう。

わたしたちはもはや、〈女性〉というカテゴリーにアイデンティティを求めてはならない。あらゆるカテゴリー意識からフリーであること。民族というカテゴリー、国家というカテゴリー、性別のカテゴリー……そのいずれのカテゴリーにもアイデンティティを埋め込まず、逆にそれらをこちらに引き寄せ、まとまりある一つとして統合し、織り合わせる主体としての「個人」。日本語によって自己形成をしてきた、アジアの黄色人種でもあり、女という経験を持つ、それらもろもろの経験の束を持つ、このわたし。 *8

 

阿木津は西洋発祥のフェミニズムの思想に学びつつ、自身の作歌経験を通して、それを乗り越えなければならないことを学んだという。

もっとも、「あらゆるカテゴリー意識からフリーであること」というスローガンは、理解こそできても、実践するのは至難の業である。

現代ではむしろカテゴリーはかぎりなく細分化し、そのことによって個人のカテゴリーへの依存度は、自由になるどころか、かえって高まっているようにさえ見える。

 

だからこそ、1999年に発表されたこの阿木津の宣言は、現代の文脈において読み替えられなければならないだろう。

その考察に代えて、本書で紹介されていた、釈迢空折口信夫の筆名)のある短歌のことを最後に考えてみたい。

 

かたくなに 森鷗外を蔑(サ)みしつゝありしあひだに、おとろへにけり

 

とても不穏な空気のただよう一首だ。

鷗外といえば『舞姫』などの作品で誰でも知っている文豪の中の文豪で、短歌史においても、観潮楼歌会を主催し、文芸誌「スバル」を発行するなど、その貢献は計り知れない。

だが、その鷗外こそが、近代短歌を壊滅させた張本人だと折口は考える。

 

実のところ、折口がほんとうに批判していたのは、「アララギ」でも「明星」でもなかった。

歌が行き詰まると、「思索的に哲学にゆくか、社会的に労働問題・生活問題」に行くかということになって、いつまでも「一つ覚え」を繰り返している、(中略)このままでは歌は滅亡する、"日本の文学" も滅亡するというのが、その考え方でもあったろう。そして、近代短歌がこのように概念的思想的なものを含むようになったその転換点に、「鷗外の指導方針」「鷗外美学」があった、とするのである。 *9 

理論や思想、概念、いでおろぎいを先立て、いわば図面を引いておいて、その図面通りに歌を向かわせていくといった弊が、近代短歌には潜在している――これが、ことに戦後の第二芸術論をくぐったのちの、歌壇一般の歌に対する、折口の批判のポイントであったといっていい。 *10

 

僕なりの理解で言えば、「理論や思想、概念、いでおろぎい」というのは、「理想」のことだ。鷗外と坪内逍遥のあいだで交わされた「没理想論争」の「理想」である。

一般化して言えば、あるべき「理想」の姿というものがあって、そこからの逆算で「いま」を把握するのが、西洋的な時間意識である。

鷗外はまさしく「理想」を唱え、人々を導いた、最も先進的な近代人の一人だった。主要な結社の重要人物を集めて超結社の歌会を主宰し、新詩社を脱退した若き歌人たちを鉄幹と和解させ、「明星」終刊の後にはみずから新しい文芸誌を立ち上げた。

 

しかしその「理想」こそが、折口にとって軽蔑されるべきものだった。

 

なぜなら「理想」は歌を形骸化させるからだ。折口に言わせれば、森鷗外の掲げる理念を変曲点として、新詩社の浪漫主義は象徴主義へと変質し、「写生」は「写生主義」という「或種の概念歌」に陥った。

 

新詩社はまもなく潰え、アララギの「写生主義」は戦後大きな批判に晒され、折口の主張も一定の支持を得た。その流れを受けて「女人短歌会」が興り、折口もそれを大いに応援することになるのだが、阿木津はこう述べる。

問題を単純化すれば、日本近代の女性たちは、西欧近代輸入概念である〈人間〉になろうとする意欲と、民俗学・国文学によって引き出された 日本古来の〈女の特質〉に自己同一化しようとする誇りと、いわば二派の男性の指導によるはざまで右往左往してきたのである。(あとがき)

 

この「二派」とは言うまでもなく、鷗外一派と、折口のことなのだが、この視野の広さは、すごい。

阿木津は「折口信夫の女歌論」をたどりつつ、その外側にある、より大きな枠組を乗り越えようとする。本書にはその思索の道筋が示されている。

そして、だからこそ阿木津には、近代短歌の主流にたった一人で立ち向かい、実作と歌論の両方で大きな仕事を残した折口信夫の、その偉大さを展望することができたに違いない。

*1:「短歌のピーナツ」第8回の引用を再掲

*2:折口信夫の女歌論』p. 44

*3:p. 105

*4:p. 44

*5:p. 124

*6:p. 43

*7:p. 106

*8:p. 126

*9:p. 54

*10:p. 57

第16回 小高賢『老いの歌』

永井祐

 

今日は、『老いの歌』(2011年刊・岩波新書小高賢)をやります。

 

 

 

 

小高さんは2009年に「老いという短歌のフロンティア」という評論を「短歌現代」9月号に発表しました。

翌2010年4月号の「短歌研究」では「老いのうた」特集が組まれたりと、この評論はプチブレイクしていたのですが、震災があったりでなんとなく話が流れてしまっていました。

その「老いという短歌のフロンティア」をふくらませ、小高「老いの歌」論が一冊にまとまっているのが本書です。

 

「老いという短歌のフロンティア」は面白い評論です。

そこで引用される「老いの歌」はたしかにこれまでのものとは違っていた。

 

見えないと無いとの違ひを考へたり極めて薄き考へなれど 小暮政次

 

結び目はほぐさないのが面白いなどと思ひてしばし居りしが  

 

何かがある向う側には何かある見えないものがあると感じる

 

とりあえず小暮政次さんの歌を引いてみました。

どうでしょう。なかなか変な歌ですよね。

具体的なものが出てこないで、ひたすら考えているんですけど、それが深まらずに浅いところをぐるぐる回っている。

小高さんはこんな風に書いたり言ったりしています。

 

 作品の意味は正直よく分からない。しかし、何かを考えているのだ。どこかが気になっている。

 

(二首目について)「結び目とは何だろうか。人間関係のほつれなどと、まず解釈してみる。ほぐしながら物事を前にすすめるのが普通だ。しかし、と小暮は思うのである。「このままにしたらどうだろうか」という気持ちに傾く。やや意地悪な視線かもしれない。こうやって斜交いからものを眺めようとしているのだろう。いろいろ想像している。その時間を楽しんでいる。だから、想像以上に作者の内面は複雑なのではないだろうか。

 

「短歌というのは五七五七七でつじつまが合うように作るのですが、どこか、つじつまが合わない。どこかでずれが出てくる。そういう面白さが小暮さんの歌にあるんです。」(短歌研究「老いのうた」座談会)

 

「老いというのは、(略)、しょっちゅうわけもわからないことを考えているわけよ。見えないと無いのとどう違うんだろうかみたいな。」(同)

 

「ある観念が、つきまとってしまうと、くりかえし言わざるを得なくなって、しょっちゅうそれを考えている。それが一種の老いで、もうろくと言えばもうろくなんだけど。」(同)

 

老いの実体とか、もちろんわたしもよくわからないですが、「観念的なことを浅いところでくるくる繰り返す」というこれらの歌には、迫力というか、一種のガチ感を感じます。

具体的には、下句の付け方ですね。「見えないと無いの違ひを考えたり」も「結び目はほぐさないのが面白い」も「何かある向こう側には何かある」も、下句で視点なり話題なりを切り換えていれば普通にまとまると思うんですけど、

「極めて薄き考えなれど」「見えないものがあると感じる」と特にゴールもないまま同じ話題に執着して繰り返されるところに、ちょっと異様な感じを受けます。

ほかにはこんな歌。

 

ジャンパーのうちポケットにある過去と笑いて部屋の釘にかけたり 岡部桂一郎

 

十五夜を橙と月あらそえり疲れて眠る大きだいだい 岡部桂一郎

 

ゆっくりと塩田(しおだ)さんまでつく杖の風船かずら きいろいざぼん 岡部桂一郎

 

星の御殿見上げゐるうち手も足も星の画鋲にとめられし感 浜田蝶二郎

 

(一首目について)おそらく「笑いて」と「部屋の釘にかけたり」の間には、時間・空間の双方に隙間がかなりあるだろう。「私」は少なくとも二重になって表出されている。

意味ははっきりしないが、ジャンパーのうちポケットにしまってある過去。それを笑う自分。それと釘にかけている自分は、一体化されていない。微妙にずれていないだろうか。

短歌は通常、一首を「私」の観点から統制する。つまり、三十一音すべてを見つめ、「私」の観点から描写するのである。しかし、この作品は、上句と下句が微妙にずれている。しかし、そこがおもしろい。不思議な感覚が立ち上がってくるからだ。

 

(二首目について)おかしな作品だ。月とだいだいが月夜に競い合っている。鮮やかな黄金色を競っているのかもしれない、あるいは競っているのは丸さなのかもしれない。いずれにしろ、だいだいと月を対比している。童画的に美しい。そこまでは鑑賞できる。四句目以下は、難解である。どうして「疲れて眠る大きだいだい」になってしまうのだろうか。深読みすればこういうことである。

「だいだい」は、自分が眺めているかぎりその丸さや鮮やかな色が伝わってくる。しかし、眠ってしまえば、だいだいは認識されない。しかし、月は客観として存在している。生き物としてのだいだいに私が投影されているのではないか。「私」が拡大・肥大してしまう。あるいは逆に短歌的「私」がだいだいのなかに溶解してしまっている・・・。それが幻想的な印象を与えるのだ。つまり「私」の変容として捉えたほうがいいのだろう。

岡部の場合、「私」がくっきりと囲い込まれていない。おかしな言い方かもしれないが、「私」が一首からはみ出している。

 

 

(三首目について)さらに難解である。散歩のおりの嘱目なのだろうが、「塩田さん」という表札のあるあたりまでゆっくりと歩いていった。その途中に風船かずらが実っていたのだろう。そこまではなんとなく見えてくる。一字空いて「きいろいざぼん」という結句は投げ出したようでひどく唐突である。だいだいと月のように相似するものがあればいいが、「風船かずら」と「きいろいざぼん」には関係性がかなり希薄ではないか。色も形もちがう(季節は秋と冬)。

私はこんな風に鑑賞した。風船かずらを発見した。それまでは事実であろう。それをきっかけにして、作者は回想に耽ったのではないか。そのなかで「きいろいざぼん」が惹起された。ここにおいても「私」が時間の隔たった異なった次元に飛翔している。この作品をどう受け取るかもむずかしい。いままでの短歌の尺度でいえば、作品の体をなしていないといってもいい。そういう風に裁断する立場もあるだろう。結句になって意味が朦朧としてしまうように思う。しかし一方で、おもしろい感覚が生れていることも感じる。いずれにしろ、はっきりしない。

 

 

引用長くなってしまいました。小高さんも苦労して書いてる感じですが、彼がこれらの歌に対して非常におどろいているということは伝わってくるのではないかと思います。

わたしもどれも好きだし、新鮮だと思います。(「だいだい」って何だろう?)

 

小高さんはこれらの歌に、近代以来の短歌的なくっきりとした「私」の変容や拡大を見ようとしています。

何だろう、言い方むずかしいんですけど、これらの歌ってその出方が非常にユニークなんですよね。

「私」を越える、なんて言っても、そもそも一人称視点とは違うところに作歌意識があったりとか、一首の構成感がはじめから「私」を越えてるところの短歌で、私の拡大とかが見られても、それはそんなにすごいことじゃないんですよね。

これらの歌の貴重なところは、やはりそのガチ感にあって、あまりこの言葉は使いたくなかったのですが、「ぼけている」のと紙一重に見えるところなのです。そのへんに小高「老いの歌」論の面白さもヤバさもあると思います。老いによって、自我や言葉の統制がむしろゆるんでくるところに「フロンティア」があるんじゃないかということですね。

四首目やってなかった。

これもとても面白い歌ですね。星座からそのままの連想なのでしょうが、「画鋲」の比喩が意表を突きます。手も足も画鋲でとめられて、むしろたいへん気持ちよさそう。「御殿」と締めの「感」(「とめられし感あり」ということだと思います)がおじいさんぽくてチャーミングです。

 

小高さんは「老いの歌」と「高齢歌人の歌」を、けっこう厳しく区別します。

たとえば、

 

長生きは余得ともいふ失策のごとしともいふさびしいかなや 馬場あき子

 

生き方を変へたいつてそれは無理だらうやうやく老いの深くなる淵 岡井隆

 

こういうのは、いわば「老い」の題詠みたいなもので「老いの歌」には入らないそうです。

 

作品に乱れがない。不用意なものいいもない。(略)意志と行動との間にずれが起こることもない。作品のすがたがクリアである。不分明なところが見えない。(略)そこに老い特有の不完全さはない。

「老い」は格好のテーマになっているが、いままで述べてきた「老いの歌」とは根本的に異なっている。「私」は一貫しており、ぶれたり、拡大したりしていないからだ。自己のコントロール下に置かれている。

 

小高さんは、コントロールの効いた高齢歌人の歌の価値を認めつつ、「フロンティア」はむしろ、岡部・小暮・浜田の引用歌のほうにあると言いたげです。

 

「歌においての老いは、近代でも戦後でも、一つの型に強制してきたわけですよ。そういう強制からまだ逃れられていない。」(短歌研究座談会)

 

「老い」の実態は、それほど単純なものでないこともなんとなく想像できる。考えてみればそれも当然である。多くの体験を経てきた存在が、それほど一直線上で、しかも一様に、枯れたり、揃って円熟したり、悟達するわけがない。(略)私たちは誰でも「死」が怖い。そこで、どうしても克服する・克服した「物語」を欲してしまう。その思いが、老いを過剰に装飾してきたのかもしれない。

 

引用でわかるように、小高「老いの歌」論は強烈な価値転倒をはらんでいます。

平均寿命は伸びる一方だし、

当時六十代中盤ぐらいだった小高さんにとって、「現代においてどのような『老い』が可能か」ということが、リアルに切実な問題としてあったんだろうなと思います。それが選歌の目を鋭くし、論のエッジを立てている。

小高さんはしかし、2014年に七十代を待たずに亡くなりました。

人生、そういうものですかね。

第15回 来嶋靖生『大正歌壇史私稿』

 読みやすい大正歌壇史 堂園昌彦

大正歌壇史私稿

大正歌壇史私稿

 

 こんにちは。

 突然だが、皆さんが大正時代の短歌の流れをザッと概観したいと思ったとき、初めに読むべき短歌史の本はなんだろうか。

 大本命の名著、木俣修『大正短歌史』(1971)だろうか、それとも、主要な論争を取り上げることで流れが分かる篠弘『近代短歌論争史 明治・大正編』(1976)だろうか、当事者ならではの短歌史、斎藤茂吉『明治大正短歌史(正・続)』(1955)だろうか。

 私はこう答えたい。2008年にゆまに書房から出ている、来嶋靖生『大正歌壇史私稿』だと。

 理由はかんたんで、この本は抜群に読みやすいからである。先の短歌史の本はどれも函入りの鈍器になりそうな分厚さで、木俣修『大正短歌史』は堂々の1100ページを誇っている。それに対し、この来嶋さんの『大正歌壇史私稿』は本文わずか244ページだ。薄くはないが、常識的なレベルである。

 そして、大正元年、大正2年、大正3年、と年ごとにだいたい20ページずつくらい、5,6項目で構成されている。たとえば、大正3年の目次はこんな感じ。

大正三年 51 

新派和歌の定着と停滞 52 空穂の推敲 53 島木赤彦の状況 62 「水甕」と「国民文学」創刊 66 諸歌人の動向 67

 1項目1~2ページくらいでパッパッパッと進んでいくので、非常に読みやすい。また、年ごとに「諸歌人の動向」とかあっていろんな歌人をまとめているのもポイント高い。

 そしてこれが何よりも重要なのだが、この本は、今まで論じられているところはいちいち詳述せずに、元の本に譲るという姿勢をとっている。要するに、参考文献がいちいち本文に書いてあるのである。たとえばこんな感じだ。

 

「御歌所については片桐顕智『明治短歌史論』(人文書院 昭14)による」

「牧水の動きについては大悟法利雄『歌人牧水』(桜楓社 昭和60)に負うところ多い」

「最近では岡井隆『「赤光」の生誕』(書肆山田 平14)に詳細な言及がある」

「論争の詳細や意義は篠弘の既出『近代短歌論争史』参照」

 

 こーゆーのを読めば、ここに関してはあれを読めばいいんだなとわかる。くどくど述べていないところも読みやすい。大変親切な本なのだ。

 もちろん、「私稿」とあるように、来嶋さんはこれをパブリックな短歌史というよりも、個人の興味に触れたところを並べただけ、と断っている。

 この『大正歌壇史私稿』は、大正短歌の通史ではなく、大正歌壇の歴史でもない。大正十五年間の短歌界の人々や出来事などについて、気儘に、自分の関心のあることどもを書き連ねたものである。(p.7)

 やはりそこは留意したほうがいいだろう。しかし、その点を踏まえていれば大正期の歌壇の流れがザッとつかめるので、大変お得な本でもある。

 先に述べたように、くどくど説明しない本でもあるから、まったく知識がないとピンと来ないところもあるかもしれないが、そこらへんはどんどん飛ばして読んじゃえばいいことだ。読むときは「太田水穂」って何度も出てくるからなんか偉い人なんだな、くらいで別にいいと思う。

 そんな親切かつ読みやすい本なのだが、本で大事なのはやっぱり面白いかどうかだ。で、どうだったかというと、なんだかんだで私には大変面白かった。

 それは来嶋さんの視点がけっこうユニークなためだ。はじめの「序にかえて」を引用してみたい。「以下内容について、私の心がけたことを記したい」と、来嶋さんがこの本を書く際に注目した項目を述べている。

同時性 編年体だから当然のことだが、同じ年にそれぞれの歌人がどのような状態で何をしていたか。できるだけ多くの歌人の動きが鳥瞰できるよう、同時性に配慮した。

 さっきも書いたが、年ごとのまとめと「諸歌人の動向」、これがありがたい。白秋が姦通事件のあと三浦三崎でへこんでいるときに、茂吉は母の危篤に駆けつけたりしていることがわかったり、反アララギ連合・「日光」が創刊された年は、茂吉の青山脳病院が全焼して終わっていたりすることがわかる。それぞれの歌人が、それぞれに波乱万丈で、「みんな人生大変だったんだな」と馬鹿みたいな感想を持つに至った。英雄群像劇みたいだった。

推敲過程の把握 短歌の資料はすべて当時の新聞雑誌であるから、後に歌集に纏められた形とは違う場合が多い。初出と歌集との異同を確かめることは、同時にその作者の推敲過程を把握することに繋がる。しかも歌だけでなく、作品の配列や連作の構成の変化も見ることができる。とくに窪田空穂や北原白秋、釈超空らは歌集編纂に当たって大幅に改変するのが常である。すべてというわけには行かないが、煩雑になるのを承知でいくつかの作品とその作者について検討した。

 この本はもともと、来嶋さんが『編年体 大正文学全集』全15巻別巻1巻の短歌部門の選出に携わっていて、その際に書き記したノートが元になっている。『編年体 大正文学全集』は、年毎に制作された文学作品がまとめられる形式で編集されたものらしく、作品を書籍の刊行年ではなく、新聞雑誌に発表された初出から選出している。

 そのため、短歌作品も歌集に収録された形ではなく、雑誌の初出の状態で掲載されている。来嶋さんはそれを大量に選出した。そのため、初出と歌集収録作品とを比べることができたのだ。

 まあ実は、この点にはそれほど私は興味はないのだが、つぶさに見ていくと、各歌人がどのようなところを気にして歌を作っているかがわかってくる。たとえば、来嶋さんが挙げているところでは、茂吉の『あらたま』と白秋の『雀の卵』の推敲の比較などがある。

技法の成立過程 明治中期から大正初期にかけて、さまざまの華麗な花を咲かせて出発した近代短歌だが、大正中期に至って「アララギ」の勢力が高まり、影響は全国に及んだ。他方、窪田空穂や北原白秋は独自の技法をそれぞれ深化し、変容させてきた。技法的には写生・写実が大きな流れとなるが、その技法の機微を作品や批評の上で例示できないか、一首ごとの批評がどのように行われ、技法として成熟していったか、をいくつか追ってみた。

 大正期は、ほんとにアララギイズムの成立期だ。たとえば、以前も大辻さんの本のときに挙げたが、島木赤彦の「主観語の抑制」などが出てくる。これも同じく挙げたが、斎藤茂吉釈迢空の相互批判もこの時期になる。

ジャーナリズムとの関係 歌集は、一般に商品として市場性をもちにくい。が、大正期には僅かながら短歌に熱意をもつ出版社の存在があった。その存在を不十分ながら辿ってみた。これは大正期に限らず、明治から平成に至るまで追求したいことである。

 この時代、出版社がどんどん生れていた時期であり、いくつかの商業出版社による雑誌やシリーズ企画が、歌壇を彩った。史上初めての短歌総合誌「短歌雑誌」ができたのも、この頃である。また、結社誌も、バンバン出来ている。そして、潰れまくっている。なんか、現在では結社誌は歴史のあるものというイメージが強いが、この頃は30代・40代そこそこの歌人たちが、チャレンジングに作っては、次々に潰していた時期だ。例外は、明治29年以来ずーっと続く「心の花」と、あとやっぱり「アララギ」だろうか。明治で「明星」の天下は終わり、大正期は「アララギ」拡大の時期だ。「アララギ」強い。

 こんなに雑誌を創ろうとしたのは、それぞれの発表の場を作るためでもあったし、経済的に食っていくためも、両方あったのだろう。なんか「短歌ヴァーサス」をちょっと思い出したりした。

事実の周辺 すでに多く論じられている著名な作品や評論についての論議は、それぞれの専門書に委ね、論理をあげつらうよりも作品相互の関係や周辺の事情をなるべく解きたいと努めた。文壇諸雑誌ではゴシップ的な記事が多くなった大正期であるが、文学外のことに触れると通俗に堕ちやすい。その選択には慎重を期した。

 これは単純に面白く、初めて知ることが多かった。ちなみに私の前更新回の『窪田空穂の身の上相談』もこの本で初めて知った。他にも面白かったエピソードをいくつか挙げてみたい。

  まず面白かったのは、大正2年、窪田空穂と高村光太郎上高地で出会ったエピソードだ。

 この頃、スポーツ登山が初めて日本に入って来て、ブームになっていた。空穂も登山に魅力を感じ、歌人として初めて槍ヶ岳に登った。で、高村光太郎も同じ時期に山に行っていた。恋人の長沼智恵子が山に来るとの報せを受けて、光太郎は迎えに行く。たまたま槍ヶ岳を降りて東京に帰るところだった空穂も同行する。空穂は、颯爽と登ってくる智恵子の美しさに目を奪われる。

 帰京後、そのことを誰かに話したら、なんとそれが「山上の恋」として新聞にゴシップとして書き立てられてしまった。光太郎はそれを空穂自身が書いたと思い、以後、空穂に不快感を感じるようになってしまったようだ。悲しいね。

 光太郎と智恵子の恋は、この頃有名なゴシップネタだったらしく、よく雑誌に取り上げられていたようだ。ただ、光太郎も雑誌に智恵子に向けた詩を発表することで、気を引いたりなどしていて、進んでスキャンダルを引き起こしていた節がある。高村光太郎という人はけっこうヤバい人なので、知りたい方は最近出た福井次郎著『映画「高村光太郎」を提案します』(言視舎、2016)を読んでみてください。

映画「高村光太郎」を提案します

映画「高村光太郎」を提案します

 

  また、大正4年の啄木追悼会も面白かった。啄木は明治末年である明治45年に26歳で亡くなっている。その3年後、啄木の親友、土岐哀果(善麿)の実家の浅草松清町等光寺で石川啄木三年忌追想会が行われ、歌壇の人がいろいろ集まった。その時のことを空穂が回想しているのを、来嶋さんが紹介している。

 空穂が会場に来たのはまだ開会前で、畳敷きの書院にすでに二、三十人の人が来ていた。与謝野寛、晶子夫妻の姿を見出だした 空穂は、先輩である与謝野に「よくいらっしゃいましたね」と挨拶した。すると「彼は軽い笑いをうかべて、『啄木、こうなるとえらそうだね』と言った。その笑いと、その語気とから私は、今日の追悼会は、彼啄木にとっては過分な似合わしくないものだということを、言外にこめていると感じとった。」(昭和三十年執筆)

 つまり空穂は啄木の死の前と後とでは啄木の評価に差があること、生前の評価が低かったことを感慨をこめて記しているのだ。(p.78,79)

 あー、なんかこういうことってあるよなあ、と思う。啄木は今でこそ夭折の天才歌人だが、当時は24歳で第一歌集を出してすぐに亡くなった駆け出しの文学者だ。生前もある程度は評価されていたが(じゃないと死後に歌集が出たりしない)、歌壇的にはそこまですごい人ではなかったのだろう。与謝野寛(鉄幹)は師匠格に当るひとだから、こんなもの言いもするだろうなって感じだ。

 私はそのこと自体を良いとも悪いとも思わないが、あー、でもこういうことは今でもあるよな、と思った。

 他に、古泉千樫がアララギの編集を遅らせまくることに赤彦がブチ切れて上京してくる話とか、長崎に赴任する茂吉の送別会で、歌人が送別の歌を作る話とか面白かった。送別の歌はこんな感じ。

霜氷る冬の夜ふかくゐむれつつ君を送ると杯をとる 太田水穂

長崎の鶏の啼く夜は長くとも赤き舌をな出しそ茂吉よ 北原白秋

ゑひどれのむれてどよもすとおもふ、ゑひどれのゑひどれのむれをぬけてゆくか、ながさきへ 若山牧水

ながさきの夜はかなしと酒のみて歌ひありくなゑひはゑふとも 古泉千樫

 牧水は何言ってるのかわからない。来嶋さんは「歌は即興でひどい? ものもあるがのどかなよき時代であったことを思わせる」と書いている。白秋が弟と出版社・阿蘭陀書房を創り、新雑誌「ARS」を出したときにも、各歌人が即興歌を寄せているから、当時はそんな文化がメジャーだったのかもしれない。

 あとは、この本のピークとしては、関東大震災の歌がある。関東大震災は大正12年(1923年)に起きた、日本最大級の震災のひとつだが、歌人たちはその衝撃を詠わずにはいられなかった。面白いのは、当時の「和歌革新」の波をまともにはくぐらなかったいわゆる「旧派」の歌と、「新派」の歌を比べていることだ。

ノアの世もかくやありけむ荒れくるふ火の海のうちに物みなほろびぬ 坪内逍遥

ゆりうごく大地をなほもたのみつつせむすべしらず人のかなしさ 九條武子

千よろづの霊の行方や迷ふらむ暗の世てらせ秋の夜の月 跡見花蹊

 「心の花」に掲載されたこれらの旧派の歌たちは、具体的な災害そのものはわずかしか描かれず、大仰で観念的な詠嘆が目立つ。それに対し、「アララギ」の歌人たちや、空穂、土岐善麿といった歌人たちは具体的な描写を主としている。

地震(なゐ)のなかに眠り居る子を抱き上げ歩むとすれば家はくづれつ 築地藤子

水を見てよろめき寄れる老いし人手のわななきて茶碗の持てぬ 窪田空穂

くろこげのむくろよく見ればよこ顔にいきのみの肉のすこしなほある 土岐善麿

「震災は実に写実を基本とする近代短歌の可能性がはじめて問われる大事件であった。」「短歌は表現形式としてどこまでの可能性をもつか。その大きな課題にはじめて遭遇したのがこの大震災なのであった。」と来嶋さんは述べている。また、「終わりに」でも、

大正末期、最小限のメチエとしての「写生」をアララギの何人かの人は身につけていた。だからこそ関東大震災に際して、高田浪吉、藤沢古実、築地藤子らは迫真的な作品を生み出し得たのだ。同じく自然主義文学の波をかぶり、描写への意識を強く持っていたからこそ、窪田空穂も土岐善麿もあれだけの震災詠を生み出し得た。これはのちの太平洋戦争中の戦場詠や空襲詠についても言い得ることで、写生または写実という方法は、国民的な大変事における人間感情を見事に形象化し得たのである。(p.240)

と述べて、これらの震災詠を来嶋さんは高く評価している。

 私自身はこれを読んだからといって「短歌は写生が絶対だ!」なんて思ったりはしないが、この比較は面白い。そういえば、このブログの第1回で「時局詠のときの茂吉は、写生派歌人ではなかった。」なんていう佐藤通雅さんの言葉を引用したりしたなあ、とか思った。

karonyomu.hatenablog.com

 

 長くなってきたので、そろそろ終わりにしたいが、私がこの本を読んで思ったのは、大正時代も歌人たちはけっこう互いに交流しまくっているし、互いに影響受けまくっているなあ、ということだ。現在の目で見ると、近代歌人はみんな偉い人だ。しかし、当時は生きていて、しかも20代とか30代とか40代なわけで、作風は生きているお互いの影響を受けながらどんどん変わっている。それは、現在の口語短歌が微妙な細かさで互いに影響を受けまくっているのと同じだと思う。なんというか、もうちょっと動きのある生きた人間として、近代歌人たちをとらえたいと思うのが、このブログの私の目的のひとつでもある。

  あと、もういっこ思ったのは、これは来嶋さんがこの本をそういう編集にしているからだが、明治は啄木の死で終わって、大正は赤彦の死で終わっているんだなということだ。「たしかに赤彦とともに一つの時代が過ぎたのである。」と来嶋さんは書いている。そういえば、昭和が終わり平成に入ってすぐ土屋文明が亡くなったんだよな、とかも思った(調べてみたら文明は平成二年没だった)。

 大正時代は近代短歌のおいしいところ、という感じ。読んでみるとよいかもしれません。では、今回はこんなところで。

第14回 枡野浩一『石川くん』

不来方への手紙 土岐友浩 

石川くん (集英社文庫)

石川くん (集英社文庫)

 

 

昔やっていた「トリビアの泉」というTV番組では、なぜか啄木が取り上げられることが多く、「石川啄木はHな日記を妻に読まれては困るため、ローマ字で書いていた」というネタは82へぇを獲得した。

他にもこの番組では、啄木が高校時代にカンニングをしていたとか、借金まみれで、ろくに返済する気もなかったというような話が、面白おかしくネタにされていた記憶がある。

それだけ、短歌からイメージされる人間像と、啄木本人とのギャップにインパクトがある、ということだろう。

 

 *

 

枡野浩一の『石川くん』は、「ほぼ日刊イトイ新聞」の連載をまとめた本である。
https://www.1101.com/ishikawa_kun/index.html

大部分のコンテンツは、上のリンクから読むことができる。

第1回が2001年5月5日。

毎週土曜と日曜に更新で、全26回。13週間、欠かさず更新された。

タイトルの「石川くん」というのは、満26歳で他界した啄木に、当時32歳の枡野が、もし生きていれば歌人としては同世代、というわけで、親しみをこめて呼びかけたものだ。

 

「ほぼ日」の読者、つまり啄木のことや、短歌のことは、ほぼ何も知らない、という読者を主に想定して、本文は書かれている。

その語り口は、ちょうどラジオのディスク・ジョッキーのようだ。

冒頭で啄木の「歌」をひとつ(またはふたつ)読み、続いて枡野のトークが始まる。

最後が「また明日」とか「また来週」という挨拶で締められているあたりも、ラジオっぽい。


まずは冒頭の「歌」を見てみよう。

枡野はまず、啄木の短歌を現代の口語にリライトする。

 

全人類が
俺を愛して泣くような
長い手紙を書きたい夜だ (枡)

 ↑

(たれ)が見ても
われをなつかしくなるごとき
長き手紙を書きたき夕(ゆふべ) (啄)

 

一度でも俺に頭を下げさせた
やつら全員
死にますように (枡)

 ↑

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと (啄)


こんな具合だ。

 

ここで枡野は、とても興味深いことを書いている。

じつは今の言葉(口語)は、
同じボリュームの
昔の言葉(文語)とくらべると、
情報量が格段に減るのです。
つまり、
文語短歌と口語短歌で
単語の一個一個を対応させると、
「歌の核心」が損なわれてしまう……。 (第1回)


口語短歌は、文語短歌に比べて一首あたりの情報量が少ない、ということだ。

僕も口語で短歌をつくるので、これは実感として、とてもよくわかる。


具体例を示そう。

 

ふるさとのなまりはいいな
人ごみにわざわざ行って
耳をすました (枡)

 ↑

ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
そを聴(き)きにゆく (啄)

 

打ち明けて話して
何か損をしたような気持ちでいる
帰りぎわ (枡)

 ↑

打明けて語りて
何か損(そん)をせしごとく思ひて
友とわかれぬ (啄)

 

十五歳
お城の草に寝ころんで
空に吸われてしまった心 (枡)

 ↑

不来方(こずかた)のお城の草にねころびて
空に吸はれし
十五(じふご)の心 (啄)

 

マスノ版では、「停車場」という場面、「友」という相手、「不来方」という地名が、それぞれ欠落している。 

これは、明らかに意図的なものだ。

単に言葉遣いを現代風に改めるだけでは、文語短歌は口語短歌にはならない。

感覚的な言い方になるが、それでは、口語短歌としてのバランスが整わないのだ。

 

「歌の核心」を写しとろうと思ったら、情報量を犠牲にしないと、うまくいかないことが多い。

言い換えれば、文語短歌を読むような気持ちで口語短歌を読むと、「情報が足りない」、印象としては「淡い」、と感じやすいのである。

 

 *

 

本書の内容をひと言で説明するのは、意外と難しい。

 

第1回の時点で、枡野は啄木のことをそれほど知っているわけではなかった。 

私は最近、
石川くんのつくった歌をよく口ずさみます。
(中略)
だけど石川くんの歌のことが
昔から大好きだったというわけではありません。
なのになぜ最近になって急に
彼の歌を口ずさむようになったのか、
それは石川くんの問題というより
私自身の問題なのかもしれません。
(中略)
私は石川くんに最近興味を持ちはじめたばかりだから、
石川くんのことはこれから詳しくなっていく予定です。 (第1回)


では、枡野は啄木のどこに関心を持ったのだろうか。

ところで石川くん、
君がほんとはあんまり働かなかったってこと、
わりと最近じゃ有名だよ。
友達に借りた金を無駄づかいして、
プロの女の人といちゃいちゃしてたとか……。
はたらけど
はたらけどなお
わがくらし
らくにならざり
……っていう調子の良すぎるリズムが、
じつは働いてない君の姿を的確に表現してると思う。
石川くんの短歌を研究する文学者の中には
石川くんのことを弁護する人もいるみたいだけれど、
それってやっぱファン心のせいで
評価が甘くなってるんじゃないかなあ。
私にはわかる。
石川くんはなまけものだ。
だって、
サボってばかりいるくせして
「働いても働いても俺の暮らしは楽になんないなあ」
なんて自分をあわれんでしまう君の甘えん坊ぶりは、
私そっくりだから。 (第3回)

 

冒頭に書いた「トリビアの泉」のように、枡野はこの連載の最初のほうでは、啄木の意外な実像を紹介しつつ、読者に驚いてもらおう、としていたようだ。 

面白いのは、「はたらけど/はたらけど猶…」の歌を、リズムが良すぎて、「じつは働いていない君の姿を的確に表現してる」、という枡野の読み方である。

実際に勤勉な人間であれば、こうは詠めないだろう、というわけだ。

枡野は「なまけもの」なのに「はたらけど…」と詠う啄木のことを「甘えん坊」だと言いつつ、むしろその姿に、深く共感している。

 

石川くんは、
有名な歌人夫妻の与謝野鉄幹(よさのてっかん)与謝野晶子(あきこ)
可愛がられていたくらいだし、
もともと「短歌らしい短歌」をつくってたんだよね。
でも、歌人としてのデビューアルバム『一握の砂』は、
そういう「短歌らしい短歌」をどんどん排除して、
「ええっ、これが短歌?」
って歌人たちに言われそうな、
なにげない歌ばかりをわざと収録したんでしょ?
しかも、
一行で書くのがルールの短歌を三行に分けて書いて、
「短歌」を「詩」に近づけようと試みたり……。
かっこいー!
からかってるわけじゃないよ。
だから石川くんの歌のファンが、
今の時代にもこんなに多いんだなって、
本気で思うよ。 (第4回)

 

枡野は「言葉が通じないこと」、というか「通じない言葉を使うこと」に、とても敏感だ。その裏返しとして、説明がしばしば(知っている人にとっては)過剰である。

鉄幹・晶子に「有名な歌人夫妻の」という肩書をつけたり、第一歌集のことを「デビューアルバム」と言い換えたりと、いかにもマスノ的な文体のせいで見えにくくなっているが、内容を見れば、ごくまっとうな啄木評ではないだろうか。

 

試しにこれを、よくある書評やWikipedia風の文章に書き換えてみよう。

1903年、啄木は与謝野鉄幹主宰の「新詩社」に参加し、当初はその影響を受けて浪漫主義的な作品を「明星」に発表していた。しかし、第一歌集『一握の砂』では、生活に即した自然主義的な歌風に移り、このとき試みた三行分かち書きの形式は、後世に大きな影響を与えた。

 

これでも中身は同じことなのだが、こうは書かないのが、枡野のスタイルなのである。

 

さて、第5回から、枡野はいよいよ啄木の『ローマ字日記』を読み始める。

第一印象は、こうだ。

なんだか毎日のように
会社をサボってる石川くんだ!
貸本屋から借りたえっちな小説を
ノートに書き写すために夜ふかしして、
次の日は会社を休んだりとか!
給料を前借りばかりしてるくせに、
よくもまあそんなにサボれるなあと感心しちゃう!
石川くんはそのころ東京に「単身上京」していて、
函館に妻と子と老いた母を残してきてるわけだけど、
ほとんどまったく仕送りしてないっていうのも豪快!
ふところが少々あったかいと
プロの女の人といちゃいちゃしたり!
ろくに読めもしない洋書をふと買ってみたり!
またまた金がなくなって、
いつものように親友の金田一くんに金を借りたり!
度胸あるよね、石川くんて!
「鬼畜」って言われたことない!? (第5回)

 

ツッコミを入れることも忘れてしまったかのように、枡野は啄木の悪行を片っ端からあげつらい、最後に思わず「鬼畜」という言葉が口をついて出てしまう。

そして数回後には、

石川くんのことを「鬼畜」と言うのは、
なんだか鬼畜さんに申しわけない気がしてきたので、
これからは君みたいな男のことを
「石川くん」と呼ぼうと思う。
読者の皆さんもぜひ、流行らせてくださいね。 (第8回)

 

と「鬼畜」という言葉さえも撤回している。

このあたり、啄木の放埓ぶりを目の当たりにして、枡野が完全に引いているのがわかって、面白い。

 

僕の想像だが、「石川くん」はもともと、DJマスノが要所要所でツッコミを入れたりしながら、読者と一緒に啄木のことを楽しく学んでいこう、というコンセプトだったのではないだろうか。

けれど、なんというか、枡野が思った以上に啄木は強敵だった。

 

しかし、枡野もそれくらいでは引き下がらない。

なぜなら、それでも女性にモテて、歌人としても名を残した啄木のことが「同世代として」許せないからだ。

啄木に驚き、あきれ、しつこいほどに憎まれ口を叩き、勝てそうなところを探しては、ひたむきに張り合う。

 

それは、枡野が急速に、啄木に惹かれていった、ということだ。

 

なんか読者の皆さんの中にも、
この連載の目的を
「石川くんをあの手この手でいじめていくこと」
だとカンチガイしてる人がいるみたいなんですが、
全然ちがいますからね。
この連載の真の目的は、
「石川くんの素敵な歌を人々に紹介していくこと」
です。
ほんとよ。
今まで紹介してきた歌は全部、
私の好きな歌ばかりです。
はっきり言って、
私、
石川くんのことが、
好きなの……。
好きすぎて、つい意地悪しちゃうこともあるけれど、
そんな屈折した男心、文学者だったらわかってね!! (第19回)

 

「連載の真の目的」を説明しようとして、つい、枡野は告白してしまう。

結局、そうなってしまった、のだ。

 

一度「好き」と言ったら、その瞬間にすべてはラブレターになってしまう。

 

最終回で、枡野は『弓町より』を読み、こう感想を綴っている。

若いころは自らを「天才」の「詩人」だと信じ、
美しすぎる言葉で詩を書いていた石川くん。
だけど結婚したり転職を重ねたりして、だんだん、
もっと地に足のついた詩を書かなくちゃ駄目だって
考えるようになるんだよね。
それは、
〈珍味ないしはご馳走ではなく、
我々の日常の食事の香(こう)の物の如(ごと)く、
(しか)く我々に「必要」な詩という事である〉、
〈我々の要求する詩は、
現在の日本に生活し、現在の日本語を用い、
現在の日本を了解しているところの
日本人によって歌われた詩でなければならぬ〉、と。
つまり、
現実逃避みたく昔風の言葉づかいで詩を書く詩人を、
石川くんは否定したくなった。
それは結局、
かつての自分自身の否定だったんでしょう?
そして石川くんは、
さりげない言葉で、さりげない短歌をつくった。
それってすごいことだったんだと、やっぱり思うよ。

 

『弓町より』は、口語詩への批判に答えながら、啄木が「あるべき詩」について考察した名文だが、それが「かつての自分自身の否定」だと言った枡野の指摘は、鋭い。

 

「現在の日本語で、現在の生活を詠う」というのは、ちょうど枡野が『かんたん短歌の作り方』などで唱えたことと同じものだ。

 

思えば啄木も、新詩社に参加し、後にスバル創刊に携わったが、結局メンバーになじめず、どちらも脱退している。

 

二人は、似たもの同士だったのかもしれない。

 

もしも石川くんの歌の悪口をだれかが言いだしたら、
枡野浩一がゆるさない。
石川くんの悪口を言っていいのは、
石川くんのことをだれよりも理解し愛している、
この私だけだもの。 (第26回)

 

啄木の悪口を言えるのは自分だけだというのは、愛以外のなんであろうか。

 

 *

 

この連載はまもなく「ほぼ日ブックス」の一冊として単行本化され、文庫にもなった。朝倉世界一氏の描き下ろしイラストが多数、それから巻末には枡野が編んだ「石川くん年譜」が収録されている。

この年譜が、かなり詳しく、読み物として相当面白い。行く先々で「石川くん」がトラブルを起こしていたことがよくわかる。

「石川くん年譜」だけでも本書を買う価値はある、と言っていいだろう。

 

一方、ウェブには、全26回の記事の他に「番外編」として「単行本には書けなかったあとがき」などが公開されているので、興味がある方はぜひ上にも貼ったリンクもご覧いただきたい。

 

最後に余談。本書はkindle版も出ているが、啄木の「啄」の字を、新字体ではなく、すべてきっちり旧字体(「豕」の真ん中に点があるほう)に統一してある。こういうところも、枡野らしいこだわりで、僕はとても好きだ。

第13回 伊藤一彦『若山牧水 その親和力を読む』

永井祐

若山牧水―その親和力を読む

若山牧水―その親和力を読む

 

 

こんにちは。

今日は、伊藤一彦『若山牧水―その親和力を読む』(短歌研究社)です。

 一年前くらいに出たわりと新しい本です。

なにか若山牧水関係のものを読んでみようと思っていて、目についたので手に取りました。

なぜ牧水か。

以前は牧水とかほぼ興味ありませんでした。有名な「白鳥(しらとり)は―」とか、高校の国語の授業でやりましたが、あまり自分に関係のあるものだと思えなかった。

それは短歌を自分で書きはじめてからもそうで、ずっとスル―していたのですけれど、

数年前からなんとなく気になりだした。

そのきっかけになったのが、玉城徹『近代短歌とその源流』という本に入っている「自然について―牧水におけるその意味」という文章でした。

 

昼の浜思ひほうけしまろび寝にづんとひゞきて白浪あがる  若山牧水『砂丘』

 

そこに引かれていたこの歌に目がとまって。あ、すごいいいなと思って。

旅・恋愛・叙情みたいないわゆる牧水のイメージともちがっていた。

波の歌なんて古今数ありますが、浜辺で考え事しつつうとうとしてたら、「づん」ときたっていうのは、ちょっといいなと思いました。

(「ほうける」は「遊びほうける」などの用法で、「夢中になって…する」、または「知覚がにぶってぼーっとする」、「まろび寝」は「転び寝」と書いて「うたたね・ごろね」)

 

そしてさらにぐっときたのが、玉城さんがこの歌に、

 

見ているうちに、美しさが心に沁みてくるようである。

 

としていて、つまり、この歌に「美しさ」を見出しているということです。

この「美しさ」は奥が深い。

玉城さんは、北原白秋斎藤茂吉の同時期の波の歌を並べます。

 

麗らかや此方(こなた)へ此方(こなた)へかがやき来る沖のさざなみかぎり知られず  北原白秋『雲母集』

 

まかがよふ真昼なぎさに寄る波の遠白波の走るたまゆら  斎藤茂吉『あらたま』

 

注意深く見るなら、白秋、茂吉に共通だが、牧水はそこから遠い、ある「心術」が浮かび出て来よう。つまり、白秋、茂吉はあくまでも、意識的な自己設定をして、そこに捕えられる自然を歌っている。

(略)近代短歌を作る主体としての自己設定を、制作のための「機械」と考えると、事の真相がはっきりしてくるであろう。この機械がキャッチした「自然」には機械の刻印がまざまざと残っている。近代短歌としての「面白さ」と一般に考えられてきたのは、この刻印にほかならない。ところが牧水の場合、この刻印が全く無いとまでは言い切れぬものの、極めて微かである。(略)牧水には「機械」が不足していたようである。

 

 

どうでしょうか。

こういう言い方をされて白秋・茂吉の歌を見てみると、「麗らか」も「此方へ此方へ」も「かぎり知られず」も「まかがよふ真昼なぎさ」も「寄る波の遠白波の」も、ある一点の目的に向かって非常に合理的な動き方をしている、まるで歯車のような言葉に見えてきます。牧水の歌に比べて、すっかり近代性に汚染された歌みたいに現れてきます。

 

まあ、ここには選歌の妙というか評論的トリックがあって、白秋・茂吉には少々意地悪な話の運びかもしれません。

 

でも、わたしは牧水の浜辺の歌に「機械」化されない「美しさ」を見るというビジョンに確かに魅力を感じたのでした。

 

それで、岩波文庫若山牧水歌集』を買ってぱらぱら読んでいたものの、それほどぴんと来ず、では牧水関係の本でも読んでみようかなと思ってこの本を手に取ったのでした。

 

前置きが長くなりましたが、やっと伊藤一彦の本にたどりつきました。

この本は、生まれたところから死ぬところまでやる評伝ではなく、テーマ別の牧水論考が九つ並んでいるという感じのものです。

結論から言うと、(残念ながら、ということになるかもしれませんが)一章「牧水という人品」、人柄エピソード編が一番面白かった。

冒頭、牧水が満43歳で死んだときの挽歌が紹介されています。

 

愛ふかきちひさき瞳円き顔短き髯は君ならで誰  尾上柴舟

 

この歌はけっこう心に残りました。人が亡くなったときに作る挽歌に、わたしはあまり興味を引かれないのですが、

顔の特徴三連打、そしてそれが君でなくて誰だろうというこの歌はありな気がしました。挽歌として。素敵だなと。

師匠にあたる尾上柴舟とはたいへん仲良しだったそうで、以下は柴舟の発言の聞き書きです。

 

若山君が、新らしく沼津に家を建てたと言つて来ましてね。序に新らしい蒲団も作つたと言ふのです。そして、是非最初に、私にその蒲団へ寝て貰ひたいから、沼津へ遊びに来てくれと言つてゐますが、私もどうも忙しくて未だに行けないでゐます。

 

新しく作ったベッドに師匠に一番に寝てほしいと、牧水は思って招待したそうです。

これは美しい話なのか気持ち悪い話なのかよくわかりませんが。

顔の話も蒲団の話もそうですが、牧水まわりのエピソードは妙にフィジカルが強い気がします。

エピソードをまとめると、

 

・顔がよかった。特に笑顔がよかった。

・普段から服がぼろぼろだった。

・オールオアナッシングが信条だった。(大悟法利雄)

・部屋にびっくりするほど物がなかった。

・田舎者ムキ出しだったが、親しみやすい人だった。

・就職したのは生涯に二回。いずれも四カ月、一カ月で辞めているが、人徳によって難しい課題を解決したりした。

・お酒を飲むと朗詠した。自作の短歌も朗詠した。

・親に恋愛を反対されてしょげている友達のため、その親のところに直談判にいった。

 

なんだろう、おおまかに、サラリーマン金太郎みたいな感じの人物が浮かんできます。わたしは短歌を十年以上やっていますが、お酒を飲んで自作を朗詠する人は見たことがないですね。

 

こういうのが心に残ったということは、前半の玉城さんの提起した問題意識は、この本では実はあまり発展しなったということなのですが、日々の読書なんてそんなものですよね。いつか貼られた伏線がいつ回収されるかわからない。

 

ただ、牧水というのは非常にノスタルジーの対象になりやすいというか、失われたものをレペゼンする存在として見られやすいんだな、ということがわかりました。作品も人も。牧水を語ると人は、「もうトム・ソーヤが生きていける時代じゃねえんだよ」みたいな目になりがちです。安易な近代・現代批判にも使われやすい。

けれど、前半の「美しさ」が垣間見える瞬間は、歌を読んでいてたしかにあるような気がします。最後に数首引用しましょう。いずれも好きな歌です。

 

秋晴や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり 『海の声』

 

空の日に浸みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る 『海の声』

 

地震(なゐ)す空はかすかに嵐して一山(いちざん)白きやまざくらばな 『別離』