第32回 関川夏央『子規、最後の八年』
にぎやかに、時に静かに 土岐友浩
子規たちも、かつて闇鍋をしていた。
闇汁会を発案したのは子規であった。群議一決、子規を残してみな買出しに出掛けたところに内藤鳴雪がやってきた。材料持寄りと聞いた子規より二十歳年長の鳴雪は、買物のために玄関を出るとき、「下駄の歯が出て来ても善いのですか」と笑いながらいった。
煮こまれた鍋からは、カボチャ、サトイモ、レンコン、カブ、チクワ、ユズが出た。麩と豚肉と魚とハマグリが出た。何を入れたか各自申告する必要はなかったが、大福餅をすくいとった碧梧桐は「誰だ誰だ」と叫んだ。虚子が入れたのである。
味は思いのほかよかった。「飯を食うてきて残念しました」と嘆いた鳴雪も二椀食べ、子規ほか残る全員が三椀食べた。虚子の細君がマツタケ飯を炊いたので、それも心ゆくまで味わった。 (関川夏央『子規、最後の八年』)
明治32年10月、ホトトギスの俳人10人ほどが高浜虚子の家に集まった。秋田に帰ってしまう石井露月の送別の意味合いもあったようだ。
虚子や碧梧桐といった近代俳句の創始者たちが、闇鍋に大騒ぎしている様子を思い浮かべると、なんとも言えない気持ちになる。
個人的には、虚子がこっそりと大福餅を投入するキャラだったというのが、衝撃だ。
子規はこのときの記録を「闇汁図解」というタイトルで「ホトトギス」に発表している。原文は青空文庫で読むことができるが、上に引用した関川の文章とはまた違った味わいがある。
一、鳴雪翁曰く、うまい。碧梧桐曰く、うまい。四方太曰く、うまい。繞石曰く、うまい。我曰く、うまい。虚子曰く、うまい。露月独り言はず、立どころに三椀を尽す。
一、下戸も喰ひ、上戸も喰ひ、すこやかなる者も喰ひ、病める者も喰ひ、飯喰ふた者も喰ひ、飯喰はぬ者も喰ふ。喰ひ喰ひて鍋の底現るゝ時、第二の鍋は来りぬ。衆皆腹を撫でゝ未だ手を出さゞるに、露月黙々として既に四椀目を盛りつゝあり。
「うまい」の連呼もおかしいけれど、送別される側の露月だけが、黙って食べ続けているというのもいい。
僕はすぐに田口綾子さんの「闇鍋記」という連作を思い出した。 *1
詞書によれば、2008年10月のある日、歌会のあと突発的に闇鍋をしようという流れになり、OBの五島さんを含めた早稲田短歌会のメンバー7人が参加した。
何首か抜粋してみよう。
何となく見送っている夜のバスここに全員いるはずなのに
「一人あたり七〇〇円」と決めしのち閉店間際の店内に散る
鍋のふた開ければ日付が変わる頃にんじんじゃがいも火が通りたり
「これでもっともっとおいしくなりますよ!」
服部さんの魔法使いのような笑みあさりの水煮一缶(ひとかん)を手に
隼人くんの深い頷き 長森の「いや、普通っす」という感想に
「おいしいなら、僕も食べたい」 五島さんがたばこを消して近寄りて来つ
「これも絶対においしいですよ!」
魔法使いが鍋に再びやってきてためらいもなくきなこを投ず
本当の悲劇は、ここからだった。
ごほごほと喉につかえるきなこ味ひとり残らずむせこんでおり
「……中ボスの段階でやられちゃった感じですね。」
缶詰のトマトは未開封のまま部屋の隅にて朝を迎える
闇鍋に、きなこをぶち込む服部さん。
遠巻きに見ながらおもむろに近寄ってくる五島さんの、OB感。
笑いどころが満載の楽しい作品だけれど、たとえば最初のバスの歌からは、一抹のさびしさも読み取ることができる。
100年以上の時間を隔てつつ、僕たちがやっていることは全然変わらないのだ、と思うと、なんだか勇気づけられるような気がする。
*
『子規、最後の八年』は、「短歌研究」に2007年から2010年まで連載され、2011年、単行本にまとめられた。去年、講談社文庫になったばかりである。解説は岡井隆。
関川夏央には明治の文豪に関する著作が多く、漫画原作者として『「坊っちゃん」の時代』という作品も発表している。作画は『孤独のグルメ』の谷口ジローだ。
この時代の人々は、みな魅力的だが、人間関係を整理するのはややこしい。子規の周辺にかぎっても、親友の夏目漱石、ライヴァルの与謝野鉄幹、門弟として根岸短歌会の伊藤左千夫や長塚節、日本派俳人の高浜虚子や河東碧梧桐など、挙げ始めればきりがない。文学者以外にも秋山真之や中村不折、家族の八重と律の存在も重要だ。
『坂の上の雲』を読めばいいのかもしれないが、なにしろ長い。
本書はその書名が示す通り、明治28年に結核を悪化させてから、明治35年に病没するまでの八年間に絞って、子規とその周囲の人々を描いた評伝である。
たった八年だけれど、その時間は本当に濃密だった。
特に短歌に関しては、伊藤左千夫と初めて会ったのが明治33年の新年だったというから、そこからわずか三年足らずで、アララギの基礎が築かれ、近代以降の短歌史が決定づけられたことになる。
子規といえば、そのすさまじい闘病の姿に誰しも圧倒される。脊椎カリエス、現在でいう結核性脊椎炎の激痛に耐え、ほぼ寝たきりとなりながらも、驚くほどよく食べ、膨大な量の作品を書き残した。
本書でも多くの引用を交えつつ、その生き様が克明に描かれているのだが、一方で、随想風に書かれたさりげないエピソードのひとつひとつも、胸に残る。
たとえば、長塚節が初めて子規を訪ねる場面。
節が鶯横町の角を曲がると、子規庵の前に人力車が一台とまっているのが見えた。車夫がしゃがみこんで、客の帰りを気長に待つ構えだ。通りすぎしな、あいたままの玄関に客の下駄が二、三足並べてあるのが見えた。節は何度か行きつ戻りつしたが、その日は引き返した。今日こそはと覚悟して出てきたつもりなのに、気おくれしたのである。
三月二十八日は別の来客に先んじられぬよう、午前中に出掛けた。勇をふるって玄関に立ち、半紙を切った名刺を母親にさし出した。子規の咳音が聞こえた。
通された六畳の病間で、子規は蒲団の上に置いた名刺をじっと見ていた。子規は節に、寝たまま「失敬」といい、俳句の方でお目にかかったことがあったですか、歌の方でお目にかかりましたか、とつづけた。
節は、自分は歌について教えを受けたいのです、といった。
しばしの沈黙のあと、子規はいった。
いくらでもつくるがいいのです。
また沈黙があった。
つくっているうちに悪い方へ向かっていると、それがいつかイヤになってくるのです。
節はもっと多弁な人を想像していた。意外であった。昨日もきてみたが、来客があったようなので帰った、と節がいうと、子規は、それは惜しいことをした、歌の人が二、三人きていたのです、と答えた。
入門を許されたと思った節は、前日むなしく持参した短冊を出し、揮毫をもとめた。短冊は二十枚もある。人を気づかう節には、そんなところもあった。
淡々とした描写だが、来客が絶えなかった子規庵の雰囲気や、節の性格が十分に伝わってくる。言うまでもなく、多くの資料の裏付けがあることも、おのずとわかる。
このあと子規と節との関係は、他の門人たちがうらやむほど深いものにまで発展するのだが、あまりに仲が良すぎたために、二人と左千夫との間には、微妙な距離感があったというのも、本書を読んではじめて知った。
岡井隆は解説で、子規庵で育まれた「座」の場が、現在の短歌結社につながっていることを読者に説明する。
子規の短歌の弟子の一人、伊藤左千夫の系列が、「アララギ」という結社で、この結社の中でわたし自身、歌の道に入ったのだから、よく分かるのだが、子規庵に集まった歌人や俳人の歌会や句会が、実は、現代にまで続いている結社の原型なのである。
(中略)
「歌にも俳句の『座』を持ちこむ。会した面々が相互批評のうちに刺激を受けあい、その結果、歌のあらたなおもしろさが引出される、それが子規のもくろみであった。人好きな子規は、どんな文学ジャンルであれ、他者との関係を重んじずにはすまなかった」と関川氏が説いている通りである。「座」の文芸として、人との直接の関わりを通じて、俳句も短歌も、近代化を遂げた。その淵源のところに、死病と闘う病子規がいた。
子規は、短歌・俳句の他に新体詩(西欧の影響をうけた自由詩)も漢詩も作り、小説も試作した。しかし究極において、俳句と短歌の近代化にだけ成功した。それは「座」の文芸に一番ふさわしいのが歌・俳という、短い定型詩だったからだ。
これを読むと、やはり子規は「座」の人であり、交遊の人だったのだろうと思う。子規は短歌や俳句を革新したが、その運動は、子規庵に集った人々に受け継がれることによって、空前の成功を収めたのだ。
子規の晩年の八年間に起こったことは、もちろんこれだけではない。漱石との交流や、「ホトトギス」発行をめぐる虚子や碧梧桐の奮闘と確執などの興味深いテーマが、本書には余すところなく、かつ、すっきりとまとめられている。
すべてを紹介すると煩雑になってしまうので、それは別の機会に譲って、僕が一番好きな場面、子規が世を去った夜のくだりを引用することにしたい。静かな描写に、それぞれの万感の思いが込められている。
八重の、「のぼさん、のぼさん」と呼びかける声に虚子は起こされた。鷹見夫人も唱和するその声には切迫感がある。律も病間隣りの四畳半から起き出してきた。
時々うなっていた子規が、ふと静かになった。鷹見夫人と昔話をしていた八重が手をとってみると、冷たい。呼びかけにも反応しない。顔をやや左に向け、両手を腹にのせて熟睡しているかに見えるが、額は微温をとどめるのみであった。子規の息は、母親が目を離した隙に絶えていた。
旧暦ではまだ八月十七日、新暦では明治三十五年九月十九日になったばかりの午前十二時五十分頃であった。子規の生涯は満三十四年と十一ヵ月余りであった。
律は陸家に走った。家人を起こし、電話を借りて宮本医師に報じた。
虚子は、住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。戸を叩くと碧梧桐自身が出てきた。それから鼠骨宅へまわった。寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月が、ものすごいほどに明るい。
「子規逝くや十七日の月明に」
虚子の口をついて出たのは、この一句であった。
*
僕が持っている講談社文庫版の帯の背には、いみじくも子規を評して「日本の文学表現を確立した巨人」と書かれている。
短歌や俳句にとどまらず、いままさに僕がこうして書いているような日本語の文章、その根幹をつくり、広めたのが、子規だった、という意味だ。
一体それは、どういうことなのか。
日本語の近代化に意識的だった作家は、もちろん子規だけではない。二葉亭四迷、山田美妙らの苦闘を踏まえた上に子規の達成があるのは、間違いない。
だが、先人の果たせなかったことが、なぜ子規にはできたのだろうか。
ここでは「座」をキーワードとして子規庵に集まった人々に注目したが、子規は「ホトトギス」の誌上で、一般の人々から「日記」を募集して掲載するなど、「座」を越えた、より遠くの「場」へと「写生」を広めようとしていた。
子規のアイデアとエネルギー、それから「ホトトギス」というメディアの力。
分析すれば、そういうことなのだが、では、それらすべてを賭して、子規が目指し、成し遂げた「写生」や「言文一致」とは何だったのか。
機会を改めて、引き続き考えていきたい。
*1:「早稲田短歌38号」に収録
第31回 吉本隆明『吉本隆明全著作集5』
永井祐
こんにちは。
最近いそがしくて。10月くらいとか、何かとあるんですよね。
そういうわけで、いつもより準備できてないんですが、
定期更新が大事であるブログなので、今回もやっていこうと思います。
吉本隆明とはだれか。ぐぐってください。
戦後最大の思想家、とか呼ばれる人で、たいへんな影響力があった人。
わたしが本を読むようになるころには、文学部の学生でも、みんな読んでるわけ
ではなかったけれど、名前はみんな知ってた、ぐらいの感じでした。
それで、なぜこの本かというと、全集だとこの巻に吉本さんの初期の現代短歌論が
入ってるからですね。
おおむね同じ内容がのちに「言語とって美とはなにか」という本にまとめられる
んですが、ここにはその初出版というか、雑誌「短歌研究」に載ったバージョンのやつが入っています。
さらに、この全集では、岡井隆との有名な論争(「定型論争」と呼ばれる)が読めます。
吉本さん側の文章だけですが、わりとすごい内容です。論旨はやりはじめると長いので、
ショッキングなところだけ引用すると。
「まだ発表されないわたしの評論にけちをつけて、同時に発表したヒステリイがいたのには驚いた。岡井隆という歌人である。」
「おさとのしれた俗物歌人め!」
「去月、わたしは番犬の飼い主である『短歌研究』の編集部にたいし、お宅の玄関には「狂犬に注意」というハリ紙もなかったようだが、訪問したわたしにいきなり噛みついた番犬がいたようだ」
「岡井という歌人は、わたしが予言した通り、まったく手のつけられない自惚れ野郎である。相手は、はじめから無学低脳で、はったりだけを身上とした奴だとおもうから、噛んで含めるように教えてやれば・・・」
「間抜め。」
この本はほかにも吉本さんの論争の文章が入ってるんですが、けっこう口汚くてびびります。
昔の論争ってこんな感じだったのか。
争いになると、いきなり声のトーンや口調が変わる人って嫌ですよね。
文学ってすごく、切った張ったの世界だったんだなというのがわかるんですけど。
まあ、それはともかく本題に。
吉本さんの短歌論は、わたしは短歌をはじめてそれほどしない学生のころに読みました。
いわゆる「現代短歌」っていうものがよくわからないという状態だったので、
すごく参考になったし、ちょっと読み方を教わったみたいなところがあります。
現代短歌をこれほど理論的に、原理的に考える文章って、ちょっとほかには見当たらなかった。
吉本さんの考え方って、とにかくゼロから、一番はじめから考えるという感じがわたしは好きです。
○
現代の短歌の原型として、次の二首が引用されます。
国境追はれしカール・マルクスは妻におくれて死ににけるかな 大塚金之助
隠沼の夕さざなみやこの岡も向ひの岡も松風の音 藤沢古実
この作品は、国境を追われたカール・マルクスは妻より後に死んだとか、隠沼に夕さざなみがたち、こちらの岡も向いの岡も松風の音がしているというだけの意味で、それがどうしたとか、だからどうなのだとかいう作者の主体的な意志をのべる表現は存在していない。(略)なぜ、ただ、何々がどうであるというような客観的表現だけで、作者の主体をあらわす叙述がない表現が、詩の作品として一定の自立感をあたえうるのであろうか。それは、一見、ただ客観的な叙述にすぎないとみえるこれらの短歌的な原型も、よく分析してゆくと、かなり複雑な主客の転換をいいあらわしているからである。
国境追はれしカール・マルクスは
ここまでの表現で、作者の主体は、じつは観念的にカール・マルクスに移行して国境を追われているのである。
妻におくれて
この表現で、マルクスになりすました作者が、「妻にさきだたれてしまったな」と述懐しているのである。(略)
死ににけるかな
のところへきて、作者は自分の主体的な立場にかえってマルクスの死の意味を考えている。一見すると単に歴史的な事実を客観的に表現しているにすぎないとかんがえられるこの作品も、高速度写真的に分解してみると、作者の主体が、一旦、観念的にマルクスになりすましたかとおもうと、マルクスのせりふをつぶやき、また、作者の固有の立場にかえってその死を主体的に意味づけるというような、複雑な転換を言語表現の特質に即してやっていることがわかる。
隠沼の夕さざなみや
この表現で、作者の主体は、夕方の隠沼の水面にたっているさざなみを視覚的にみて、ある感情をよびさましている。
この岡も向ひの岡も
ここで、さざなみを視ている作者の視線は近景の岡に移り、つぎに遠景の岡にうつる。
松風の音
で、作者の主体は岡の松に吹く風の音を聴いている。
句の時間的な構成としては、一瞬にすぎない短歌型式のなかで、作者が視聴覚を移動させている実際の時間と転換の度合は、かなり複雑であり、これがこの作品に芸術性をあたえている本質的な表現上の理由である。
ええと、どうでしょうか。ちょっと読みにくいし、細かいところでは異論もいろいろ出ると思うんですが、
吉本さん的には、短歌の表現の原型というのは、「客観的表現」がただあるだけなんだけど、それは「高速度写真的に分解して」読まなくてはいけなくて、
そうしてみると、
主体が「カール・マルクス」の位置に移動してから、もとにもどってきてまた考えるとか、沼の水面を見てからこっちの岡を見てあっちの岡を見てさらに聴覚にうつる、とか、主体・主観が裏で活発かつ複雑に動いている。それによって、芸術的な価値が生まれているという話です。
これは、わりと現在の短歌を読む場合でも使えるメソッドな気がします。
短歌を読み慣れている人は、たぶん、無意識にやってることだと思うんですが、
「だからどうなの」的な叙述を、スピードを落として読んで、背後にある主観・主体の動きを読み取ってこうよ、ということ。
さらに、吉本さんは当時の新傾向として、短歌に独特の比喩表現に注目します。
すこし調べてゆくとわたしたちは、短歌に固有ないわば短歌喩ともいうべきものを、どうしても想定せざるをえなくなってくるのである。これは、西欧近代詩の喩法概念からは、けっして律しえられないが、言語表現のうえからどうしても喩法の機能をもち、しかも短歌にしかあらわれないものをさしている。
それは、次のような作品に典型的に表われているとされます。
たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき 近藤芳美
ジョセフイヌ・バケル唄へり てのひらの火傷に泡をふくオキシフル 塚本邦雄
灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ 岡井隆
ここで、上句と下句とは、まったくちがった(無関係な)意味と対象を表現していながら、全体として表現の統一性をたもっている。さらに、詳細にみてゆくと、(近藤作品では)上句が固有の意味表現であるにもかかわらず、下句の感覚喩となっているし、(塚本作品では)上句は下句の意味喩となっていることがわかる。
(近藤作品について)たちまちのうちに霧にとざされてしまった「君」のすがたの視覚的なイメージが、「或る楽章」の聴覚的なイメージを喚起し連合している。
(塚本作品について)上句と下句とは、ほとんど、絶対的といっていいほど何の必然的な関係もないのである。それにもかかわらず、短歌として自立しえているのは、この表現が、掌の火傷をオキシフルで手当しながら、ラジオのジョセフィヌ・バケルの唄をきいている作者の像を全体として喚起し、そこにとらえにくい日常の一瞬をとらえている独特の視覚を感じさせることができているからである。もちろん、このばあい、上句を下句の意味喩と解することもできれば、下句を上句の意味喩と解することもできる。
(岡井作品について)ここでは、上句と下句とはまったくべつのことを云いながら短歌的な統一をもっている。このばあい、灰黄の枝をひろげている林を前のほうにみたとき、じぶんの失われようとしている愛恋をおもいだした、ということだろうか。それとも、失われようとしている愛恋をおもいだしていたとき、その愛恋が、あたかも灰黄の枝をひろげている林の視覚的イメージのようだと作者がかんがえたとき、この作品は成立したのだろうか。おそらく、いずれでもなく、また、いずれでもよいのだ。そういう機能のなかに短歌的喩の独特な問題がよこたわっている。上句は、下句の感覚的な喩をなし、下句は上句の意味的な喩をなしていればよい。もちろん、この反対のばあいもあるし、また、ふたつとも感覚的喩ばかりであることも、意味的喩ばかりであることもある
こういう、上句と下句との独特な関係は、複数のセンテンスをもって一首を構成できる程度の長さをもった、音数律の表現にのみあらわれるということができる。いいかえれば、音数律が、意識場面の構成的な対比や連合のハンイとして強力な機能をもっているため、かりに、上句と下句がまったくちがった対象についての意味表現であっても、これを統一的に連合することができるのだと解されるのだ。しかし、この場合、上句と下句との対象の相異性には一定の限界があり、この限界をこえて上句と下句とが対象の意味や感覚をことにすれば、短歌表現として成立しえなくなる。
どうでしょうか。
抽象的な話ですけど、
引用の三首みたいなパターン、上句と下句で別のことを言ってて、それがお互いに響き合ったり、撃ち合ったりするという歌は、
現在の短歌だとパターンといっていいぐらいに定式化されていますが、当時は新傾向として出てきていたんですね。
(のちの短歌だと、たとえば、こういう歌が同じ形でしょうか。
クリーニング屋の上に火星は燃ゆるなり彼方に母の眠りが見えし 正岡豊
子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」 穂村弘)
吉本さんは、こういう歌を、上句と下句がお互いを比喩し合うような関係であると解釈しました。
ここでいう「比喩」というのは、普通の意味での比喩ではなくて、短歌形式の構造上、上句は下句に、下句は上句に、独特の強い影響を与えてしまう。その響き合いのことを、比喩っていう言い方をしているという感じだと思います。
だから短歌にしか出てこない。ゆえにこれを「短歌的喩」と吉本さんは呼びました。
上下が真っ二つに分かれるこれらの歌に典型的に見られる「短歌的喩」の問題を、短歌にとって、また当時のリアルタイムの現代短歌にとって、最重要の問題であると見なしたのでした。
(上句と下句に分かれる場合以外のことも「展開」として考察されます。)
短歌をやっていると、やたら「ゆ」「ゆ」って言ってる人に出会うことがあります。
比喩のことを「喩」と呼ぶのって、あまり普通の日本語じゃない気がするんですが、
このときの吉本さんの言い方の影響が大きいようです。
そういう人の言う「喩」って、普通の意味の比喩じゃなくて、ここで言われる短歌的喩のことなんだなっていうのも、わたしはこれを読んではじめて理解しました。
駆け足かつ、だいぶ簡略化してやりました。
読みにも実作にも現在まで続く甚大な影響を与えた重要歌論だと思います。
興味があれば、ぜひ原典を。
第30回 田中登、松村雄二編『戦後和歌研究者列伝―うたに魅せられた人びと』
研究者でたどる和歌史 堂園昌彦
こんにちは、堂園です。
最近、いろんな人から「堂園さんの記事だけ毎回毎回長すぎる、他の人は簡潔なのにどうなってんの、いいかげんにして」と言われました。
うう、たしかに。なので、今回は短めにしたいと思います。がんばろうと思います。がんばります。
はい。で、今回やるのは、『戦後和歌研究者列伝―うたに魅せられた人びと』です。2006年に笠間書院から出版されています。
この本、どういう本かと言うと、戦後の和歌研究史を、研究者の列伝形式で振り返っていく本です。列伝形式って馴染みのない方もいるかもしれませんが、つまり、和歌の研究者をひとりひとりピックアップしていって、その人について語る、というやつです。『70年代日本のロック100』、『知っておきたい21世紀の映画監督100』みたいな感じですね。
まあ、もっと簡単に言えば、『現代短歌の鑑賞101』や『現代の短歌』の和歌研究者ヴァージョンをイメージしてもらえればいいんじゃないかと思います。
和歌の研究そのものをたどっていくのではなく、研究者をたどる。はい、かなりマニアックですね。「あー、今回俺には関係ないや」と思った読者の方も多いかもしれません。
しかし、これがおもしろいんです。和歌は要するに外国語ですから、この解釈史をたどることが、すなわち現在私たちがイメージする「和歌」が成り立つ経緯そのものになってきます。
この研究者史を体感的にでも理解することが、どんなジャンルでも研究者の第一歩なのですが、さすがに素人としてはめんどくさいので、仏文でも露文でも独文でも、こういう本があったらいいのにな、と思いました。
正直、私も和歌に関する知識がほとんどないので(永井さん的に言えば、私も「『ながめ』が『長雨』にかかっていると言われても『はあ』という感じ」です)、わからない部分もとても多かったのですが、それでも、重要な研究者の名前だとか、研究書の名前だとかがバンバン出てくるので、和歌の世界へ分け入っていくための地図を拾ったような、そんな気がしています。
*
この本で取り上げられてる研究者の人たちを何人か紹介します。
まず、萩谷朴(はぎたに・ぼく)。『平安朝歌合大成』を書いた国文学者です。
平安期の歌合は、この人によって全貌をあばかれたと言っても過言ではありません。
和歌の伝承は、家集や勅撰集といった和歌作品が沢山載っている作品集が基本です。しかし、現在の私たちが知っているように、和歌というのはそうした文字にしたためられて流通するだけではなく、歌会や歌合といったイベント事でも盛んに取り扱われていました。「座の文芸」ってやつです。
平安時代もしょっちゅう歌会やってたらしいのです。しかし、そんな沢山開催されていた歌会ですが、古典和歌の時代の歌会の記録ってほとんど残っていないらしいんですね。少しだけは見つかっているみたいなんですが、ほとんどは長い間に散逸してしまっていて、歌会の伝存率は0.1%にも満たないそうです。
ひるがえって、歌合の記録は大変良く残っているそうです。それは、それまでにあったほとんどの歌合の伝本を収集して、叢書とする国家プロジェクト的な企画が平安時代に二度あったおかげなんだそうです。それは「十巻本類聚歌合」と、そのヴァージョンアップ版である「二十巻本類聚歌合」にまとめられています。
で、長い間知られていなかった、この「二十巻本類聚歌合」を発見したのが、萩谷朴さんなんですね。
この発見のエピソードがかなりドラマチックです。
昭和13年(1938年)、当時、東京帝国大学国文科2年だった萩谷は、授業で歌合に興味を覚え、夏休みに実家の大阪に帰省した際に関西のいろんな文庫(国文学資料がたくさん収集されてる施設)で歌合の資料を調査してみることにしました。
で、京都大学の未整理の文庫でとある巻物を読んでいると、これまで全く記録に残っていない歌合が次から次に出てきます。しかも全部平安時代の墨跡です。なんだこれは、と萩谷さん、目を白黒させます。たまたま見つけてしまったんですね、いままで発見されていなかった「二十巻本類聚歌合」を。
かなりヤバい発見です。これ、恐竜学者がイグアノドンの歯を掘り出したとか、天文学者が冥王星を観測したとか、ビートルズの未発表のアルバムが見つかったとか、そんな感じのインパクトですよね。たぶん。
萩谷はテンションが上がりまくり、急いで東京に戻ると、指導教官の池田亀鑑(きかん)に報告します。即座にその意味を理解した池田は萩谷とふたりで手を取り合って、狂喜します。
で、ふたりはめっちゃ喜んで、萩谷は世間にこの大発見を発表するべく、せっせと準備をしていたのですが、そこに驚くようなことが起こります。なんと、萩谷の話を聞いた、当時注目株の京大の若手研究者堀部正二(ほりべ・せいじ)26歳が、「新資料発見」と先に発表してしまったのです。
堀部はまず岩波書店の雑誌『文学』の昭和14年1月号に、次号に論文を載せると予告します。萩谷と池田はそれを見てあおざめます。先を越されまいと急ピッチで論文を完成させ、堀部の論文が載った雑誌が出るよりも前に、両者連名で『短歌研究』昭和14年2月号に発表しました。
おお、われらが『短歌研究』が意外なところで出てきました。この論文は萩谷と池田の連名で出されましたが、実質萩谷が1人で書いていて、急ピッチで書いたにも関わらず独力で「二十巻本類聚歌合」を歴史に位置づける、実に精緻なものだったようです。しかもこのとき萩谷は大学2年生・22歳ですからね。国文学勉強し始めてわずか2年、おそろしい……。「もちろん当時の帝大生の学力・集中力を現在の大学生と比べるのは馬鹿げているのであるが……」とこの萩谷の項を書いている浅田徹さんも言っていますが。この萩谷の論文のおかげで、この号の『短歌研究』は2倍近い厚さになったそうです。
今度は堀部のほうがあおざめます。堀部は堀部で、『文学』2月号で前ふりをしてから、京都帝大の雑誌『国語・国文』で全貌をゆっくり丁寧に発表する心づもりだったのですが、その計画がめちゃくちゃです。怒りつつも、堀部は発表を遅らせ、萩谷よりもさらに精緻な論文を書き『国語・国文』に掲載し、萩谷の考証を批判します。
さっきも書いたように、知識と経験がものを言う国文学の世界で、ふたりは弱冠22歳と26歳です。この天才ふたりのバトルが、平安時代の歌合の研究を一気に成熟させます。
ただ、軍配は一日の長がある堀部のほうに上がります。それとは別に、この事件は関係者の辞職をうながすトラブルに発展し、萩谷は苦汁を嘗めさせられます。後年、萩谷は「つくづく成人の醜い世界が嫌になり、一時は、大陸へでも渡ってしまおうかとさえ思った」とコメントしています。
堀部はその後「二十巻本類聚歌合」を含む京大寄託の近衛家蔵書の調査責任者となり、さらに研究を進め『簒輯類聚歌合(さんしゅうるいじゅううたあわせ)とその研究』という本を完成させました。昭和18年のことです。
しかし、ここで時代が2人の運命を変えてしまいます。太平洋戦争が激化し、2人は戦地に召集されてしまうのです。
堀部は『簒輯類聚歌合とその研究』の出版を知人に託して出征。同書は昭和20年2月に刊行されましたが、なんと、堀部はその刊行を目にする前に、中国にて戦死を遂げてしまいます。今でも、この天才堀部が戦争で死ななかったら、その後どれほど素晴しい研究をしていただろうか、という声が多いようです。
対して、萩谷は二度にわたり徴兵され、スマトラで病を得ますが、なんとか生きて帰ってきます。復員後、萩谷は師の池田の斡旋で『土佐日記』の注釈などをし、その高水準の仕事でふたたび学界の注目を集め、ついに昭和32年にこれまでの「十巻本類聚歌合」「二十巻本類聚歌合」への研究をまとめた、『平安朝歌合大成』を刊行します。
こうして、奇妙なめぐり合わせで、萩谷は若いころの自らの発見を結実させることができました。
『平安朝歌合大成』はかなりすごい本で、さっきも書いたように、平安時代の歌合のほとんどが掲載されてますから、ほとんどの歌人が載っているということでもあります。今でも、研究者は、知らない歌人の名前が出てくると、まずはこの『平安朝歌合大成』に当たるそうです。
もっと言えば、歌合は平安期に隆盛し、鎌倉期初期まで行われていたのですが、その後は衰退し、江戸後期になるまで復活しないんですね。だから、この『平安朝歌合大成』は歌合史の主要な部分をほぼ網羅しているのです。あと、「この題詠の題はこの頃に流行ったから、推定年代はこのくらい」みたいな、「題詠史」という画期的な観点を発明したのも、この『平安朝歌合大成』です。
と、この萩谷朴さんのエピソードはかなり面白かったです。萩谷さんだけではなく和歌研究者って、めちゃめちゃ頭いい人たちが、非常に地味な研究を、時代に翻弄されながら(主に戦争など)、血反吐を吐いてこつこつ地道に続けるというパターンが多く、なんかすげえなあというか、頭が下がることが多かったです。
*
げ、もう長くなってきた。あとひとりだけ紹介します。中世和歌史研究の藤平春男(ふじひら・はるお)です。
この人は、「歌論」に対する考え方が興味深かったですねー。
藤平さん曰く、歌論を書いた歌人は、それまでの和歌を継承できずに、定型の伝統と格闘した者である、ということです。
古典和歌時代の「歌論」は、一般的には歌をうまく詠むための技法を書いたもの、いわゆるハウツー的なものとみなされます。私なんかもそう思ってたんですが、まあ、保守的なものとみなされがちなんですね。もちろんそういった側面もあるんですが、藤平さんは、むしろ伝統をそのまま継承できない歌人が自らの原点を探ろうとして書いたものが「歌論」である、という見方をしているのです。
つまり、アヴァンギャルドな歌人ほど歌論を書いた、ということですね。
これ、かなり面白いです。ということは、歌論を書いた歌人を追っていけば、その時々に和歌のイデオロギーが変わった瞬間を追いかけることができるということになります。もちろん、全員が全員そうではないのだろうけれど、歌人のプロフィールを見て「歌論」とあったら、ここで和歌のイデオロギーがちょっと変わったんだな、と捉えることができる。つまり、その変遷がわかれば自分なりの「和歌史」が理解できる、ということです。
まあ、この本ではそこまでは言ってないのですが、「歌論」というとっつきにくいものに新しいアプローチを示してもらったようで、私は、ほう、と思いました。
*
他にも色々面白い研究者がいるのですが、今回はこのくらいにしておきます。
実績のあるえらい先生の業績を後進の研究者が紹介するという体裁上、なんかお世辞っぽい文章がずらずら続いたりして(いちおう、直接の弟子筋は避けられてるみたいですが)、そういうのはうんざりしなくもなかったんですけど、それでも、あー、和歌研究の世界には、こんなに知識と情熱と頭の良さと根気強さを持った人々が、山脈のようにいるんだなあと感じることは、なかなかおもしろかったです。
ただ、まあ、私も和歌に関する知識は皆無ですし、かなりコアな記述が多いので、全部興味を持てたかといわれれば、そんなことないですが。個人的には塚本邦雄経由じゃない和歌の読みかたを知りたいと思ってまして、そのためのブックガイドとして活かしていきたいな、とかそんなことを思いました。こっから本を探っていけばいいのかな、と。
マニアな本なのは確かですが、静かにアツい本でした。
しかし、久曾神昇(きゅうそじん・ひたく)とか、犬養廉(いぬかい・きよし)とか、樋口芳麻呂(ひぐち・よしまろ)とか、かっこいい名前が多かったな。和歌研究者は。
それでは。
第29回 坂野信彦『七五調の謎をとく』
七と五のまわり 土岐友浩
昨日、こんなツイートが回ってきた。
@Perfect_Insider
「ヘリコプター」の切れ目が「ヘリコ・プター」であることを知った。「キリマ・ンジャロ」の衝撃は超えないが、「カ・メハメハ」「クアラ・ルンプール」「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」には並びそう。日本語だと「清・少納言」「言語道・断」「間・髪を入れず」「登・竜門」あたりが難しい。
日本語は二音でリズムをとるので、「ヘリ・コプ・ター」、「キリ・マン・ジャロ」、「カメ・ハメ・ハ」と無意識に読んでしまう。
つまりこれらの外来語は、日本語のリズムで理解され、使われているということで、元の意味やリズムは考慮されていない、と言っていい。
語源に従い「ヘリコ・プター」と切って読んだときの響きは、かなり新鮮だ。僕が知っている「ヘリコプター」という言葉とは、ほとんど別の何かのようにさえ感じられる。
このツイートは、僕のところに回ってきた時点で15,000RTを超えていた。
ヘリコプターが「ヘリコ・プター」に解体されたとき、日本語の向こう側に、その言葉が持っていた本来の姿が立ち現れる。
その驚きのことを、考えてみたい。
*
そもそも、本に書いてある一行の短歌(啄木の場合は三行だけれど)は、一体どうやって読んだらいいのだろうか。
短歌というのは、57577だ。
それは、誰でも知っているとして、では、それだけで短歌を読めるのか、どうか。
教科書に載っている有名な歌や、どこかで聞いたことがある歌ならいざ知らず、初めて見た歌を、57577に区切って読むというのは、決して簡単ではない。
たとえば今回取り上げる『七五調の謎をとく』に、面白い例文がある。
なぜ、七五調が日本語韻文の基本となっているのでしょうか。
一見、ただの評論文の一節のようだけれど、この文章は、短歌形式の57577で読むことができる。
なぜ、七五/調が日本語/韻文の/基本となって/いるのでしょうか。
とは言え、すんなりとこう区切れるのは、それなりに短歌に通じた人の話で、はじめは指を折らないとわからないはずだ。
短歌は、読者が自分で57577を数え、うまく区切って読まないといけない。
この「自分で」というのが、実はハードルなのだと思う。
カレンダーには、今日が何日なのかという肝心のことがどこにも書かれておらず、自分でそれを知っていなければ意味がない。
同じように、活字をいくら眺めても、読者のなかに57577のリズムがないと、短歌を短歌として読むことはできないのだ。
だから、僕が思うに、短歌を読むというのは、なによりもまず、短歌のリズムを身につけることだ。
すべての短歌が、57577というわけではない。
初句が七音になったり、結句が六音になったり、例外はいくらでもある。
そしてそのわずか一音や二音の違いで、歌の印象がガラッと変わったりする。このあたりのことは、永井さんの第19回の「リズム考」のくだりを適宜参照していただきたい。
その違いは、どこから来るのか。短歌が57577とは限らないのなら、短歌の定義とは何か、どこまでが短歌なのか。
短歌のピーナツが始まってちょうど半年、もうすぐ第30回になろうというのに、いきなり話が原点に戻ってしまうようけれど、こういう問題を整理したくなったときに、本書を勧めたい。
著者の坂野信彦氏は1947年生まれ。
和歌・短歌の韻律が専門の国文学者だが、短歌の実作者でもあり、歌集『銀河系』で現代歌人集会賞を受賞している。
書き出しを見てみよう。
街に緑を 窓辺に花を
古池や蛙飛びこむ水の音
いずれも七音ないし七音と五音の組み合わせからなっています。これらがたいへん調子のよいものであることは、だれもが感じることです。ではなぜ、これらの文句は調子がよいのでしょう。――ほとんどのひとは答えられません。まして、なぜ七音・五音という音数なのか、という問題にいたっては、だれにも答えられません。(はじめに)
というように、本文はですます調で書かれ、例も豊富で親しみやすく、全体的にとても読みやすい。
本書は三章構成。最初の章では、日本語の音の特徴から、七音・五音という「句」の意味を考え、第二章ではその七音・五音の「句」の組み合わせとして短歌や俳句等の「形式」を考察し、最後の章で、こうした「形式」が成立するまでの歴史を見ていく。
ここでは、短歌の話を中心に、そのさわりだけを紹介することにしたい。
まず、問題を
・短歌を構成する「句」は、なぜ七音や五音なのか。
・短歌形式は、なぜ57577なのか。
このふたつに分けて考えよう。
冒頭で書いたように、日本語は「たっ・きゅー・びん」など、二音を一単位としている。
その二音の繰り返しで、四音と八音のまとまりが生まれる。
本書では、図や記号を使ってわかりやすく説明されているのだが、残念ながらブログ上では再現が難しい。僕なりのイメージで代用すれば、こんな感じだろうか。
◯◯/◯◯//◯◯/◯◯
◯のひとつが、一音に相当し、全部で八音のまとまりになっている。
この構成に従えば、たとえば「ちんぷんかんぷん」と「わけがわからない」とでは、同じ八音の言葉でも、語感がまったく異なる理由が説明できる。
前者は「ちん / ぷん // かん / ぷん」という二音→四音→八音のリズムにぴったり乗っているが、後者はうまく乗らない。
無理矢理「わけ / がわ // から / ない」と当てはめても、意味の切れ目と音の切れ目が一致せず、リズムはむしろ、ガタガタになる。
一致させようとすれば、「わけ / が、// わか / らな い。」となるが、八音一句のフレームから一文字、はみだしてしまう。
いま、一拍の休符を示すために読点「、」を入れてみたが、八音の「句」には休符も含まれ、これによってリズムの緩急が生まれる。
◯◯/◯◯//◯●/●●
◯◯/◯◯//◯◯/◯●
前者が五音、後者が七音の句をあらわす。もっとも、僕自身は、歌をつくるときに初句は五音で黒丸が三つ、と数えているわけではない。実作上は、五音は大きな休符、七音は小さな休符くらいに考えておけば十分だろう。
七音の句は、さらに休符を前半に置くか後半に置くかで、「三・四型」と「四・三型」に分けられる。
◯◯/◯●//◯◯/◯◯ 「三・四型」
◯◯/◯◯//◯◯/◯● 「四・三型」
特に結句では、この違いが大きい。「三・四型」はきっちり歌が終わる感じ、「四・三型」だと余韻を残す終わり方になる。
具体例を挙げれば、啄木の「われ泣きぬれて蟹とたはむる」「楽にならざりぢつと手を見る」は結句三・四型、寺山修司の「身捨つるほどの祖国はありや」「モカ珈琲はかくまでにがし」は四・三型だ。
こうしてみると、七音・五音は、たしかに八音・六音よりも歯切れのよいリズムを生みだす、と言ってよいようです。しかも、一音分の休止は日本語の音の特性に由来するものなのです。してみれば、七音と五音こそ日本語の律文にもっともふさわしい音数ということになりそうです。
ことわざ、標語、キャッチフレーズなど非定型律文の多くが七音・五音を好んで用いているのは、それらの歯切れのよさのゆえにちがいありません。短歌や都々逸などの定型が七音・五音を採用しているのも、やはりそれらの歯切れのよさを大きな理由としているのでしょう。
では、はたしてそれだけの理由で、日本全土のすべての定型が七音・五音を採用しているのでしょうか。
ことはそう単純ではありません。歯切れがよいということは、一面では、軽々しいということでもあります。流麗さや重々しさに欠けるということでもあります。明治時代の新体詩がさまざまな音律の詩句の創成に試行錯誤を繰り返したのは、七五調にはない壮麗さや沈静さを求めてのことでした。 (坂野信彦『七五調の謎をとく』)
「新体詩」というキーワードが出てきた。前々回の堂園さんの記事で詳しく論じられているように、新体詩は明治十年代、外山正一らによって興った文芸運動である。
これを韻律という視点で見れば、新体詩は七五調から離れ、八六調や、八七調、八五調など、時代にふさわしい韻律を模索し、実作を試みた。『七五調の謎をとく』にも、それらの例がひとつひとつ紹介されている。
しかし、新しい韻律を目指した新体詩は、結局、七五調に収束していったという。
本格的な七五調の新体詩といえば、やはり藤村の『若菜集』ということになるでしょう。有名な「初恋」は、七五調の四行を一連とする四連で構成されています。
まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
七五調は、この藤村をはじめとして、新体詩人がこぞって採用するところとなりました。もちろん、"新体" を自称する詩人たちは、これまでにもみてきたように、七五調以外のさまざまな音律を試みてはいました。
(中略)
こうした努力にもかかわらず、けっきょくのところ、新体詩は終始七五調を中心として展開されることになりました。七五調を主とし、五七調を従とし、それにその他もろもろの形態をとりまぜた、という展開に終わったのです。 (同上)
それだけ、七五調は強力だった、ということだろう。
短歌は千年以上の歴史を受け継いでいるとよく言われるけれど、それは伝統というより、他の形式が淘汰され、生き残ったのが七五調なのだという進化論的な見方をしても、それほど間違いではない気がする。
一方で、上の引用から、七五調は決して万能なものではない、ということもわかってくる。七五調よりも、もっと重いものを表現しようとすれば、それに見合った別の韻律が、必要になる。
新体詩が七五調に回帰したからといって、これから新しい韻律が生まれる可能性がなくなったわけではない。
ここまで特に文語と口語を区別せずに話を進めてきたけれど、たとえば現代口語短歌には、口語固有のリズムがあり、それを活かした作品や批評が、すでにいくつもある。
第二章、第三章は形式と歴史の話だが、こちらは手短に、短歌形式成立の経緯だけをまとめておこう。
記紀の時代に、「五七・七七」という片歌形式や、「五七・五七・七七」という短歌形式の原型ができあがった。「歌」の起源は、大きな休符と小さな休符をワンセットにした五七のリズムを繰り返したもので、「五七・五七・五七・五七…」とこれをひたすら続けていくと、長歌になる。いずれも最後だけは五七ではなく七七で終わるのだが、この結びの七七のところは、まったく同じ句が繰り返されることも多かったらしい。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を (その八重垣を)
というように。
こうして記紀から万葉の時代にかけて「五七・五七・七(七)」という形式が成立したのだが、やがて読まれ方そのものが変化し、「五七」よりも「七五」の結びつきのほうが強くなったり、最後の「(七)」が脱落したりして、「五・七五・七七」の形式が定着し、今に至った。
ただ、このあたりは、五とか七という数字だけを並べてもピンと来ないと思うので、機会があれば牧水の万葉調の歌などを例に挙げながら、もう少し詳しく書いてみたい。
本書は、短歌の他にも、俳句の「切れ」の分析や、現在ではマイナーとなった、七七七五の都々逸や七五七五七五七五の今様、そして破調についての考察など、七五調をめぐる話題がほぼ網羅されている。
僕自身は短歌しかつくらないが、自分の定型感覚を見直したくなったとき、よくこの本を読み返す。
今のところ、57577はできるだけ守りつつ、外来語はあまり厳密に音数を気にしても仕方がない、というあたりを自分の指針にしているのだが、最近は、僕のなかで初句だけ六音であとは定型という67577がブームで、実作を試したり、当てはまる歌がないか歌集を読んで探したりしている。
細かいと言えばほんとうに細かい話なのだけれど、七と五のまわりには、意外といろいろなものが転がっていることに気づくと、やっぱり面白い。
57577の定型には、それなりの理由があるのだが、それを文字通り定められた型と考えてしまっては、つまらない。
短歌のリズムは、育てていくものだ。
たくさんの歌を読んだりつくったりするなかで、自分なりの歌というものが少しずつ見えてくる。
そこに短歌を読む楽しさがあるのだと、僕は思う。
第28回 斎藤茂吉『斎藤茂吉随筆集』
永井祐
先日、とある会合の帰りの電車で、
同じ会に出ていた人と二人きりになった。
23時を過ぎた、それほど混んでいない中で並んで吊革につかまっていると、
その人が「永井さんは旅行、しないの?」と言ってきた。
「しない」という返事をはっきりと予想した感じだった。
その人によると、旅行というものは、自分の置かれた環境をあらためて突き放して
みることができる、よいものだということだった。
そういう体験はほしいと思いつつ、けっきょく旅行に出かける気はしないのだけれど、今日やる『斎藤茂吉随筆集』は、わたしからすると、その人のいう「旅行」にあたるものという感じがする。
要するに時間旅行で、今どき空間旅行だと、日本の東京とまったくかけ離れた体験をするのは、ある程度選んでいかないとむずかしいかもしれない。
しかし、過去に飛んでいくと、よく知らないものめずらしいものはたくさんある。
私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。寝てしまった後でも起き起きして物干台から瓦を伝わり其処の屋根瓦にかじりついて、冬の夜などにはぶるぶる震えながら見ていたものである。東京の火事は毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるからであった。(三筋町界隈)
昔の東京では、「毎晩のように」火事があって、斎藤茂吉さんは屋根に上がってそれを見るのが好きだったそうです。ほかの人が飽きて屋根から下りてしまっても、いつも一番最後まで見てたらしいです。
その時から殆ど四十年を過ぎようとしている今日でも、紅い火焔と、天を焦がして一方へ靡いて行く煙とを目前におもい浮べることが出来るほどである。時には書生や代診や女中なども交って見ている。「あ、今度はあっちへ移った」などというと、物のくずれる時のような音響が伝わってくる。同時に人の叫びごえが何か重苦しいもののように聞こえてくる。
「火事と喧嘩は江戸の華」とか言いますから、火事を見物するという習慣はわりとふつうの範疇だったんでしょうが、人の叫び声を「重苦しいもののように」聞きながら見入ってしまうという体験は、なんだかやばいですね。毎晩そんなことしてたのか。
○
本の紹介を。
有名なところだと、「接吻」とか「ドナウ源流行」とかが入っています。
随筆とエッセイって、厳密に言うと違うのかもしれませんが、
感触としては今で言うエッセイに近いと思います。
評論調の堅苦しい感じはなく、かなり読みやすいです。引用したみたいな、「昔、火事を見るのが好きで・・・」とかそういう感じの文章がならんでいます。
岩波文庫から出てるくらいですから、茂吉の散文はとても評価高いみたいです。
でもなんだろう、僕の中での話ですが、わりと「コアなもの」っていう感じがします。
音楽にたとえれば、
宇多田ヒカル「Utada Hikaru SINGLE COLLECTION」よりは、
エイフェックス・ツイン「Selected Ambient Works Volume Ⅱ」
に近いというか。
ただ、つまんなかったり、浅かったり、文章のセンスが感じられなかったりするのは一つもなくて、やっぱすごいな・・というのはひしひしと感じます。
汽車が下関を出てから、山が低くていかにも美しい。緑も濃く、その間に真紅になった紅葉が見え見えしている。稲刈が終わって、田にそれを乾かすために農夫が働いている。車窓から見える蜜柑の木に蜜柑が熟して沢山になっている。ある処では田一めんに午前の日が当って、踏切の処に尼と少女と媼が立っている。(手帳の記)
こういう感じです。
ふと思ったのですが、今まで評論主体でやってきたので、随筆ってどう紹介すればいいのかよくわからないですね。
評論だと内容を要約することにいちおう意味があると思うのですが、随筆って要約してしまうと終わりというか、もっとこう、流れとか文体とかに意味があるものですから。
まあ、めげずにもう一個やってみたいと思います。
変に気になったのは、
「巌流島」。
友達に『宮本武蔵』(当然ながら吉川英治ではない)という本をもらった斎藤茂吉さんは、旅行のついでに巌流島に行ってみようと思います。
巌流島には日清戦争のころに病院が建ったりしたのですが、いつしかそれもなくなって、そこに住むと魔物につかれるといって一時期、誰も住む人がいなかったという話を、島に渡る船で船頭のおじいさんから聞きます。
慶長十七年の昔、佐々木小次郎巌流という剣客が宮本武蔵のために打たれてこの島で死んだ。巌流島という名もそれに本づくのであるが、「死骸はそのとき小倉の方に持っていんだものじゃろうと思います」などと船頭の爺が話をしながら船を漕いだ。この島に住むと魔に憑かれるというのは、巌流への同情に本づく心理なのである。
実際に巌流島にいくと人は武蔵より小次郎に同情的になるものなのか、斎藤茂吉さんはそこに行って急激に武蔵が憎くなったそうです。
しかし私は巌流島に訪ねて来て、むしろ巌流に同情したのであった。いろいろ智術をやっている武蔵をむしろ私は憎悪した。幾ら智術だなどといっても三時間も故意に敵をいらいらせるなどは如何にも卑怯者であり、また一方が剣で闘うなら一方も剣で闘わなければ、剣客の勝負としては、私は面白くない。断りなく通知なくして木刀を使ったなども、卑怯者の所作である。武蔵は六十度も真剣勝負をしたというから、余りその勝負の骨(こつ)を呑込み過ぎていて私には面白くない。私はそんなことがいろいろ胸に往来し、(略)武蔵の所作をひどく悪(にく)みながらこの島を去った。
その夜、彼は
万歳楼で河豚(ふぐ)をむさぼり食った。
そして、短歌を作りました。
わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ 斎藤茂吉
この「人」とはもちろん佐々木小次郎のことですね。よくわからないですが、完全な小次郎派になって、その死をいたく悲しみました。
後で友達からもらった『宮本武蔵』を読んでも、
武蔵がこの鍛錬で巌流の頭蓋を打ちくだいたのだと思うと、私の心はひとりでに武蔵の兵法を憎悪したのであった。特に教室における私の為事(しごと)がはかどらず、論文がなかなか出来ないときに、この書物などを読むと、益々私は武蔵のペテン術鍛練法を憎悪したのであった。
机に本を投げつけたりしていたらしいです。
エッセイのラストまでしつこくこう書いています。
私はこの短文を書きつつも、巌流島の仕合の後、天下無敵新免武蔵として名を轟かし、六十四歳の天命を完(まっと)うした彼を、私はなお卑怯ものとするの念を脱却することが出来ない。
変なエッセイです。コアというのはそういう意味です。
が、斎藤茂吉さんは武蔵が嫌いで小次郎派だということは伝わってきました。
武蔵はNG。
よくわからないきっかけで、よくわからない執着が生まれ、そして人は心に地雷を抱えるようになるのでしょうか。
帰りの電車で人と二人きりになるときは、地雷のありかはあらかじめ知っておきたいなと思いました。
今日はこのあたりで。
第27回 尼ヶ崎彬『近代詩の誕生―軍歌と恋歌』
日本最初の「詩」は軍歌だった!? 堂園昌彦
こんにちは。
今回は尼ヶ崎彬『近代詩の誕生―軍歌と恋歌』(大修館書店、2011)をやります。近代における詩の始まり、「新体詩」の話です。
以前、このブログで「新体詩はそのうちやりたいと思います」とか言ってましたが、今回がそれです。新体詩、って初めて聞くひともいるかと思いますが、まあざっくり、明治時代にできた、現代詩のご先祖みたいに思ってもらえればいいんじゃないかと思います。
そもそも何で私が新体詩に興味を持ったのか、話はそっからですね。
ひと言で言えば、よく語られる正岡子規とか『明星』とかの前には何があったのかなー、という興味からです。
第18回にも書きましたが、短歌の革命は明治30年前後に起きました。子規が明治31年に「歌よみに与ふる書」を書き、与謝野鉄幹は明治33年に「明星」を創刊しています。与謝野晶子の『みだれ髪』は明治34年です。だいたいこの辺からが「近代短歌」と見なされていて、人々の間で語られることも増えていきます。短歌史でもめちゃめちゃ記述が増えます。
ただ、その前はどんな感じだったの? ということが気になりました。もちろん知ってる人は知っているんでしょうけれど、明治30年以降に比べてそれ以前は、語られることが少ない印象があります。
以前にも書きましたが、いろんな本を読んでみて、現在の私の把握をすごく大雑把に述べると、
①新体詩の登場(明治10年代)
↓
②新体詩に影響を受けた様々な試み 落合直文・与謝野鉄幹など(明治20年代)
↓
③「歌よみに与ふる書」(明治31年)、『明星』創刊(明治33年)
という感じです。
この前の「0.明治ひと桁代」には人々は政治と経済の改革で忙しく、極端なことを言えば、文学の改革まで回らなかったのです。
今回参考資料にした、岩波現代文庫の『座談会 明治・大正文学史(1)』に
中村(光夫) 明治の大体十年前後までは、西洋に興味がある人というのは文学に興味がない。それで文学に興味のある人は西洋に興味がない。
という言葉がありました。まあ、そういうことだったのでしょう。
もちろん、何にも起きてなかったわけではなく、勤王志士の和歌とか、次の時代を準備するものはあったみたいですが、今回はとりあえず置いておきたいと思います。
※
「新体詩」の始まりは、明治15年『新体詩抄』の出版がスタートです。
「新体詩」は自然発生的ではなく、かなり人為的に作られました。これは西洋の「ポエトリー」を日本に持ってこようとしてついた名前です。
西洋には「ポエトリー」というものがあるらしい。それは、俳諧でも和歌でもなく、また、漢詩でも戯作でもなく、俗謡でも浪曲でもない、また別種のもののようだ、ならいっちょそれを日本にも作ってやろう、とまあこんな感じの動機です。
『新体詩抄』は外山正一・井上哲次郎・矢田部良吉の3人の東京帝国大学教授が作りました。外山は社会学者、井上は哲学者、矢田部は植物学者であり、3人ともいわゆる文学の専門家ではありませんでした。
こういう新しいものには序文が大事です。序文はそれぞれ、漢文・漢文訓読文・戯作調の3つで書かれました。
程子曰……
というのと、
人常ニ善悪是非ノ差別ヲナスト雖モ……
というのと、
唯々人に異なるは、人の鳴らんとする時は、しゃれた雅言や唐国の……
みたいなのの、3つをわざわざ書きました。
なんで3つも書いたのか。それは、当時はまだ考えたことを適切に伝えるための文体自体が存在していないからです。言文一致体の開発はもう少し先の話です。なので、なんとかありあわせの漢文や訓読文や戯作の文体で伝えようとしているのです。
これ、なんか燃えませんか。伝えたい内容はあるのだけれどそもそも言葉がない、というときの苦し紛れの工夫が胸を打つというか。
なんというか、地球外生物に向かってなんとかメッセージを伝えようとするために、ボイジャー探査機にゴールデンレコードを載せたみたいな。ぜんぜん違うかもしれませんけど。
で、3つも書いたのですが、内容はほとんど一緒です。かいつまんで説明すると、
これまでの日本の詩は、日常の言葉を使ったものではない。新時代には誰にでも理解できるような、新しい詩の形式が必要だ。
また、内容面から言っても、和歌や川柳は短すぎて新しい時代の思想を表すことができないし、漢詩は元々外国語なので日本人には心地よい音調を作ることができない。
それで、西洋の詩を真似て、新しい形式の詩(新体詩)を作ってみた。これは自分たちではけっこういいんじゃないかと思う。
卑俗な言葉を使っているし、自分たちは文学の専門家ではないので、批判も受けると思うが、将来は評価されるかもしれないので発表してみる。
と、まあ、こんな感じでした。詩の言葉を、和語漢語西洋語ぜんぶごちゃまぜにして、今まで禁じられていた卑俗な言葉も取り入れて、さらには形式の縛りもとっぱらっちゃう、ということですね。
ただ、『新体詩抄』自体は、ほとんどの詩が七五調で書かれています。これもさっきの序文のときの話と一緒で、まだ七五調以外の読みやすい文体が開発されていないので、仕方なく七五調で書いているのです。
それで、『新体詩抄』に載っていた代表的な新体詩はこんなものです。
我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
之に従ふ兵(つわもの)は 共に慓悍(ひょうかん)決死の士
鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆(はんぎゃく)を
起しし者は昔より 栄えし例(ためし)あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄(それまで)は 進めや進め諸共(もろとも)に
玉ちる剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし
外山正一「抜刀隊」
はい、読んでいただければわかるように、これは「軍歌」です。「抜刀隊」というタイトルで、日本で一番初めに作られた新体詩であり、かつ、当時、最も有名な新体詩でした。「軍歌」は新体詩の代表ジャンルだったのです。いま私たちが考える「詩」とはだいぶ隔たりがありますね。
「詩」っぽくないと言えば、『新体詩抄』には、論文まで新体詩で載っています。
そも社会とは何ものぞ 其発達は如何なるぞ
(中略) 種々な政府の違ひやら
違ひの起る源因や 僧侶社会のある故や
其変遷の源因や 儀式工業国言葉
智識美術や道徳の 時と場所との異同にて
遷り変りて化醇(かじゅん)する 其有様を詳細に
論述なして三巻の (中略)
これは、ダーウィンの進化論を社会現象に適用した、当時最新のスペンサーの社会進化論を七五調で説明したものです。これ、今の基準からすると、「詩」ではないし、「文学」でもないですよね。でも、堂々と『新体詩抄』には載っていました。
そもそも今ある論文の形式自体が日本にはなかったわけなんですが、なんだかすごいことになっています。
で、こうした論文みたいな「連続した思想」は、従来の和歌や俳諧では語ることができない、ということを外山は言います。
日本人が愛してきた短歌は恋の感想や季節の印象などを述べるものであり、劇的な物語や思考の軌跡などを語るものではなかった。(中略)そして『新体詩抄』の出現がもたらした影響は、おそらくこの点が最も大きい。(中略)青年たちの思考内容をそのまま表現するためには、従来の短歌や俳句はあまりにも短く、窮屈であったのだ。たとえば社会風刺なら狂歌や川柳などの短い形式でもかまわない。誰もが感じていることを一言で皮肉ればいいのだから。しかし連続した思想でなければ語れないことはあり、明治という時代はそのような表現欲求を青年たちに生み出したのである。(p.44,45)
そもそも、当時、「芸術」というものはありませんでした。「詩」は思想を伝えるための道具だったのです。
3人は元からそれを意識していました。『新体詩抄』に載る作品が初めに載った明治14年の『東洋学芸雑誌』には、こんなことが書いてあります。
まず前提として「我邦人の理学の思想に乏しきは識者の常に憂ふるところなり」と、日本人が科学的知識や思考の乏しいという状況認識を語り、「故に」科学の「性質及び効能」を世間に知らせるという雑誌発刊の目的を明らかにする。次に予想される問題として、世間の人が「この雑誌の読み難き」にうんざりするという反応を想定し、「因(よ)りて」領域を広げて「文芸上にわたれる平易なる文章をもその間にまじえ、甘苦相半ば」するようにした、というのである。(p.20)
要するに、科学思想を啓蒙するための、飴として、文芸作品を載せようということですね。当時はそれが「飴」になったのです。「まんが日本の歴史」みたいな発想ですね。
当時の知識人には焦りがありました。早く日本が変わり、西洋諸国と対等にならなければ、日本が滅ぶという焦りです。物品や制度は輸入できますが、精神と文化は容易には変わりません。そのため、『東洋学芸雑誌』は日本人の一般の人々の精神を変えるための土台をなんとか築こうとしていたのです。
ここら辺は、第21回の茂吉の話なんかを思い出してもらえればいいかもしれません。茂吉には、このような焦りはありませんでした。ある意味、第二世代である大正っ子らしいと言えるかもしれません。
さらに言えば、専門家にしか分からない雅語や漢語を廃止し、誰にでもわかるような文体を開発するということの先には、戦争があります。
ここには近代的な人間観や国民観が背後にある。それは学制や徴兵制とも無関係ではない。なぜ江戸時代にはそれなりにうまくいっていた寺子屋や私塾ではなく全国一律の学校制度が必要だったのか、なぜ強力な武士たちの軍隊ではなく全国から一律に徴兵された兵士でなければならなかったのか。ここで深く立ち入る余裕はないが、ここには国民のひとりひとりを平均した一律のものとみなし(そうでなければ学年制という教育システムは成り立たない)、その全員参加のゲームとして国家を運営しようという発想がある。そのためには文章は平明でなければならなかった。(p.27,28)
雅語と俗語の区別は、要するに身分制社会なんですね。専門家がわかればいいという。で、明治の時代はそうした身分を撤廃しようとしたんだけれど、その先には「国民国家」を形成して、徴兵制を敷くためであったと。
このあたりは、まあ歴史の教科書の話になるので、あんまりここでは立ち入りませんけれど。
ともかく、ある意味ではかなり功利的な、こうした目的が『新体詩抄』にはあったのですが、「新体詩」はやはり革命的でした。もう一度その特徴を箇条書きにすると、
・言葉を、雅俗、中国日本西洋に関わらず混ぜる
・誰でも読めるようにする
・七五調にこだわらない
・行わけをした
ということです。
最後の「行わけをした」というところですが、外山の「抜刀隊」は日本で初めて行わけを行った詩です。これは西洋の詩が「句(ウペルス)」と「節(スタンザー)」で区切られているのを参考にしたようです。
古典を原文で読んだことのある方はよく知っていると思うのですが、昔のものは行わけがされていません。源氏物語も、徒然草も、ずらずらと全部つながって書かれています。しかし、『新体詩抄』から「詩」に行わけが発生し、そうすると、途端に「詩」っぽくなるんですね。ある意味では、「詩」とは行わけのこと、とも言えるのです。
で、『新体詩抄』が出版された後のリアクションですが、なんと、たった二ヶ月ですぐに新体詩の投稿が始まります。また、『新体詩歌』や山田美妙の『新体詞選』など、新体詩の類書がどんどん出ます。
難しい決まりごとはないし、和歌とか漢詩とかと違って勉強しなくてもできるし、しかも、創始者は素人だ、じゃあ、自分もいっちょやってやろう、ということです。また、内容的にも「連続した思想」を表現したい人が、明治時代にはいっぱいいました。
ここ、かなり大事ですね。外山たちも、「自分たちは拙劣だが」という自覚はありましたし、それゆえ、文学側からは下手くそだとか、言葉がなってないとか、けちょんけちょんに言われるんですが、だからこそ、誰もが書いてみようと思った。この感覚が新しいジャンル成立時には重要です。
国木田独歩は明治30年に「独歩吟」という文章で、この頃のことを振り返って、こんな内容のことを言っています。
新日本を建設するに当たって全く欠乏していたものは詩歌だった。
(中略)まさにこの時、井上・外山両博士が主唱し編集した『新体詩抄』が出現した。嘲笑は四方から起こった。けれどもこの頼りない小冊子が、草の間をくぐって流れる水のように、いつの間にか山村の校舎にまで普及し、「われは官軍わが敵は」という没趣味の軍歌さえ各地の小学校生徒が足並み揃えて高唱するようになった。
文学界の長老たちが想像もしなかった感化をこの小冊子が全国の少年に及ぼしたのだが、その現象は当時一少年だった私のような者でないと知らないだろう。現実の影響力にもかかわらず、文学界は新体詩というものを決して歓迎してこなかった。
しかし時代は変わった。西南戦争を寝物語に聞いていた小児も今は堂々たる男児となり、新体詩はいつしか世人の眼に慣れて、その新しい詩形も奇異なものとは見えなくなった。(p.150,151)
明治15年に『新体詩抄』が出て、この文章は明治30年ですから、明治4年生まれの国木田独歩は11歳のときに「抜刀隊」を読み、26歳のときにそれを振り返っているわけです。感覚的には、いま、宇多田ヒカルのデビュー当時を思い出すとか、それくらいの時間の隔たりですかね。
そんなこんなで、新体詩はどんどん増えていきます。
※
で、外山たちは「自分たちは拙劣で」と言っていたんですが、文学側からは、実際めっちゃ批判が来ます。でかいところでは2つです。
まず一つ目が、伝統派の歌人からの批判。ここは「短歌のピーナツ」ですから、今回ここをメインに取り上げましょう。
代表的なところでは池袋清風(いけぶくろきよかぜ)のもの。この人は桂園派の歌人で、桂園派はざっくり説明すると、明治時代の宮中の御歌所をつかさどっていた一派です。まあ、伝統派の代表格といった感じですね。
池袋清風が明治22年に『国民之友』に発表した批判をまとめると、
新体詩は誰もがわかる詩が必要だ、と古語を使う和歌を批判するけれども、逆に新体詩の使う漢語も大衆には難しすぎるじゃないか。また、俗語や日常語を使うのは、そんなものはやっぱり詩歌として良くない。
というものです。やはり、歌人は雅俗の区別にこだわるわけです。
池袋清風は、「言葉遣いがあまりにも下手で品がなく読むに堪えない。草も木もない墓石だらけの野原のようで、死を感じて頭痛がしてきたほどだ」みたいなこと言ってます。なかなか飛ばしてますね。
しかし、清風は単なる保守派ではありません。同志社英学校で学んだ清風は、英詩を読むこともできましたし、知り合いに欧米の文学事情に詳しい外国人もいました。キリスト教神学さえ学んでいます。
なので、西洋の詩を訳すことにも、短歌でない詩を作ることにも、清風は反対ではありませんでした。しかし、それは「雅味」を持つ言葉で行うべきで、野卑な俗語や日常口語は採用するべきではない、という意見でした。
池袋清風が雅俗の区別をすること、日常語を否定し、歌語・古語を使うことにこだわるのは、ある意味では当然です。なぜならそれは、自らのアイデンティティーに関わることなのです。
先にも触れたように、この時代は「国民全員に伝わる言葉」の開発が急がれていました。「国語」の構築です。それは、身分制社会から、国民が平等である国民国家へと移り変わるためには必須だったのですが、歌人たちはその「国語」を和語を基準として作っていくべきだと考えていました。
つまり知識人は漢文や古語という共通語を持っていたが、下層階級は生活圏の人々と意思疎通できればよいので、狭い集団でしか通じない言葉で不自由がなかった。しかし国民国家としてはそれでは困る。徴兵した兵士に上官の命令が理解されないようでは戦争ができない。そこで文部省は標準的な「国語」というものを構築し、教科書を作成し、学校で普及させようとしていた。その「国語」の語彙として漢語を減らし日本古来の和語をもっと取り入れれば、日本人なのに昔の和歌がわからないなどということもなくなるだろうと清風は考えていたのだ。(p.173)
それゆえ、清風は、『新体詩抄』の中にあるイギリス詩人のトマス・グレイの翻訳詩を雅語の価値観に合うように「添削」してみせます。
元の『新体詩抄』の詩は、
山々かすみいりあひの 鐘はなりつつ野の牛は
徐(しづか)に歩み帰り行く 耕(たが)へす人もうちつかれ
やうやく去りて余(われ)ひとり たそがれ時に残りけり
四方(よも)を望めば夕暮れの 景色はいとど物寂し
唯この時に聞こゆるは 飛び来る虫の羽の音
遠き牧場(まきば)のねやにつく 羊の鈴の鳴る響き
といったものだったのですが、清風は、
さて清風はこの訳の措辞を細かに吟味してゆくのだが、まず初句の「かすみ」について以下のように論ずる。「山々かすみ」というのは「野山もかすみ」のほうがよい。そもそも日本の歌には四季の感情について規則があり、春はのどかなもの、秋は寂しいものと決まっている。「かすみ」は古来春ののどかな風景に使うのが慣用だから、これでは春の日がのどかに暮れて朧月夜(おぼろづきよ)にでもなりそうで、少しも寂寥の情が生じない、と。(p.175)
というようにコメントします。
簡単に言えば、和歌の伝統に「山々かすみ」という夕暮れ時に山が暗くシルエットになっている風景は出てこないから、和歌の伝統にある「野山もかすみ」という言葉に変えた方がいい、ということです。
当時の歌語は千年近い和歌の歴史の蓄積によって連想されるイメージや感覚が決まっており、歌人たちはそれを豊かな文化遺産として利用した。だからわずか三十一文字の短歌に多くの含蓄をこめ、複雑な思いを絡めることができたのである。しかしこれを逆に見れば、ありふれた語法ではちょっとした風景を詠んでも一つ一つの歌語に歴史的なイメージや思いがべたべたと絡みつき、結局伝統的な季節感の枠の外に出られないということである。「野山もかすみ」と言ったとたんにそれは伝統的な和歌の世界の野山になり、春ののどかな野辺や遠山桜にかすむ山になってしまう。だが「山々かすみ」という和歌らしくない語法はその連想を断ち切ることができる。夕暮れの山々のシルエットのイメージは伝統的な和歌にはないものであり、その手前に広がる草原を歩む牛の群れもまた和歌に詠まれたことはない。それは題材として新しいというだけでなく、歌語の連想を断ち切って自己完結する叙景であったという点で新しいのである。(p.176)
新体詩が新しい点はやはりここでした。「歌語の連想」を断ち切ることで、伝統の外に出ることが出来たのです。そして、明治30年代の正岡子規の革命は、このことの延長線上にあります。
和歌を学ぶとは、このような歌語の機能を学び、それを駆使できるようになるということだった。だから『新体詩抄』を見た歌人たちは矢田部らが文化資産としての歌語についてまったく無知だということに呆れ、青少年たちは和歌の世界にまったく囚(とら)われない詩歌の作り方があるということに清新な感銘を受けたのだ。子規が短歌の方法として「写生」を唱えて人々を驚かすのは少しあとの話である。「写生」とか「ありのまま」という情景叙述法が新鮮だったのは、個々の言葉が歴史的連想を求めるという和歌の約束を破棄し、それぞれの言葉がただ表面の意味だけで完結するという単純な語法だったからだ。(p.177)
清風の話に戻れば、清風も新しい時代の思想に合った「新体詩」が書かれるべき、ということには同意していました。しかし、もし新時代にふさわしい長い内容のものが書きたければ、和歌の延長としての長歌形式で行うべきだ、と考えていたのです。そして、先ほどのトマス・グレイの詩をこんな風に長歌に添削してみせます。
あし曳(ひき)の、遠山寺の、入相の、鐘のひびきは、かへりこぬ、けふの別れを、告げにけり、野末はるかに、うちむれて、野がひの牛の、帰り行く、声もあはれに、聞こえつつ、畑をたがへす、賤の男も、つかれはてけん、とりどりに、広き野中を、しづしづと、家路さしてぞ、帰りける、
こうなると見事に和歌の伝統の中に取り込まれるのですね。
その後、歌壇は西洋の長い詩に対抗する日本の詩歌形式は、長歌なのでは、という作戦を取っていきます。
まず西洋の高尚な芸術と日本の「風雅の道」とがほぼ対応しているという前提にたつ。次に、雅の文学である『古今集』などの和歌が、「芸術」としての日本文学の古典であると定める。そして芸術という観点からは、明治においてもこの雅の文学の系譜をひくものだけが正統な日本の詩歌であるということになる。こうなると新体詩さえも、時代のニーズに対応するために昔の長歌形式をリサイクル(復古)したものとか、和歌の題材や語彙や詩形などを「改良」したものであった、いわば和歌の変種にすぎないとみなすことができる。(p.181)
これ、なかなかすごいですね。「新体詩も和歌の変種にすぎない」! いちど奪われた詩歌形式を、再び自分たちの内側に取り戻そうというか、そういう壮絶さがあります。
こうした考えの元で作られた代表的なものに、明治21年に発表された落合直文の「孝女白菊の歌」があります。52行の長編詩で、ストーリーとしては少女が行方不明の父をたずねて冒険の旅に出て、ハッピーエンドに終わる詩で、当時、広く愛唱されました。
阿蘇の山里秋ふけて
ながめさびしき夕まぐれ
いづこの寺の鐘ならむ
諸行無常とつげわたる
をりしもひとり門(かど)に出で
父を待つなる少女(をとめ)あり
袖に涙をおさへつつ
憂にしづむそのさまは
色まだあさき海棠(かいどう)の
雨になやむにことならず
という感じです。
平明な言葉を軽快な七五調で綴る長編の詩。『新体詩抄』のなかに置いても違和感はない。(中略)
ただ、外山のような俗語はここにはない。語彙に難解な古語はないが優雅を損なわないように選択されており、「海棠の雨に悩むに異ならず」といった伝統的な比喩も採用され、全体的に古典の気分を残している。つまり朗誦しやすい七五調にわかりやすい語彙で構築された現代風長歌である。(p.184)
このように明治20年代の時点では、まだ歌人たちは伝統的な雅語を手放していません。しかし、新体詩が示した新しい時代の気分は、確実に歌人たちに影響を与えていきます。簡単なところでは、語彙が増えたり、価値観が広がったり。
落合直文も後の明治26年に「あさ香社」という短歌結社の前身のようなグループを作り、そこから与謝野鉄幹らが出てきます。また、落合直文・与謝野鉄幹・正岡子規・佐佐木信綱ら、明治の短歌の革新者たちは皆、新体詩の制作またはそれに近い、軍歌・唱歌の制作の経験がありました。
そして、この流れが、明治30年代の短歌の革命につながってきます。まあ、今回はこの話はこれくらいにして、明治20年代の話はまた今度にしましょう。
※
はい、話を戻しますと、『新体詩抄』にはもうひとつの強力な批判者が現れました。それは、同じように西洋の価値観に影響を受けながらも、外山らとはまったく違うかたちで「ポエトリー」を日本に導入しようとした「西洋派」です。その代表的な一人が、森鷗外になります。
西洋派はいらだっていました。 本来、自分たちがやるはずだった「ポエトリー」の紹介を先にやられてしまい、しかもそれはなんだか変なものになってしまっています。そりゃそうです。論文や軍歌まで「新体詩」に含めた外山らは、「ポエトリー」をかなり拡大解釈していると言えるでしょう。
では、『新体詩抄』の人々と、西洋派が捉えた「ポエトリー」の違いはどういったものだったのか。それは、西洋派は「ポエトリー」を近代西洋が作り出した「芸術」という概念の元で考えた、ということです。
西洋派の指導者たちはたいがい英語、ドイツ語などの西洋語をよくし、西洋の詩や文学論を読み、訳し、紹介する中で自分の詩についての考えを固めていった。そのとき何が起こるだろうか。近代西洋の詩論は、近代西洋の文学・芸術の制度に従って詩について語っている。つまり、西欧一八世紀に確立した「芸術」の制度を前提としている。その制度の下では「芸術」の一部として「文学」があり、さらにその一部(ないし代表)として「詩」というジャンルがあるとされる。(p.198)
西洋派が重んじた「芸術」の基本概念、それは「芸術のための芸術」という考え方でした。
鷗外に先だって芸術の独立性を訴えたのが、坪内逍遥の『小説神髄』です。
衆知のとおり、逍遥は小説の存在理由を社会的有用性(勧善懲悪とか政治思想の啓蒙とか)ではないとし、ただ市井の人々の人情や生活ぶりを描写すればよいとした。これ以降、日本の小説の書き方は一変したと言ってよい。(p.203)
小説の存在理由は社会的有用性ではない。これは、科学的思想を啓蒙しようとした『新体詩抄』とは、まったく違う考えだと言えるでしょう。
そして、さらにその考えを引き継いで発展させたのが、森鷗外です。
この西洋の芸術論にもとづいて日本の新体詩を論じた代表が森鷗外であった。彼は明治二一年に留学から帰ると、同志を集めて新声社を旗揚げし、文学活動を開始する。そして翌二二年五月、『国民之友』誌上に「『文学ト自然』ヲ読ム」と題した評論を発表した。この論説こそ、西欧の芸術論に依拠して芸術を倫理から切り離すべきことを説く、日本で最初の宣言であった。(p.203,204)
鷗外は、芸術は倫理に関わらない、と宣言しました。善と美を分け、芸術が美を追求するときには、時として不道徳を伴うことができる、ということです。これは、現在ではかなり一般的な考え方でしょう。まあ実際はほんとに道徳的とはなにか、とか、ポリティカルコレクトネスの問題とか考え出すと、なかなか難しいですが、一般的には、芸術表現上では、通常の社会では不道徳とされることも表現することができます。じゃないとギャング映画とか成り立ちません。
そして、鷗外はこうした考えを元に、外山に論争を仕掛けます。その際の主なフィールドは絵画論だったのですが、そのおおもとには、外山の「芸術は思想を伝える道具」という考えと、鷗外の「芸術は審美的な目的以外あってはならない」という考えの対立がありました。
結果、この論争は鷗外が勝ちます。実際には鷗外は外山との論争では、外山が言おうとした内容に対する批判ではなく、細かい用語の妥当性について、「ドイツ美学ではそう言わない」のように、ねちねちと重箱の隅をつつくことでイニシアチブを取っていくという作戦を取り、それに外山が沈黙したことで勝利宣言をした、という側面があるのですが、論客として有名だった外山を黙らせたとして、この論争は鷗外の名を非常に高めることになります。
そして、文学者たちの間では、この「芸術のための芸術」という考えがその後主流になっていきます。鷗外は明治22年に新声社の仲間たちと翻訳詩集『於母影(おもかげ)』を出版するのですが、文学史上では、言葉が拙く通俗的な外山らの『新体詩抄』ではなく、この非政治的で非社会的で、かつ優美な日本語で書かれた『於母影』こそが近代詩のルーツだとされることも多いようです。
※
その後は島崎藤村、与謝野晶子らの活躍。そして、象徴詩がでてきますが、いいかげん長くなったのでその辺は省きます。本を実際に読んでみてください。
この本のあとがきには
本書は日本の近代詩が先の見えない暗闇の中を歩き出し、やがて薄明の中で進むべき道を確定し、全力で走り始めるまでの記録である。それは順調な経過ではなかった。先頭集団は後続の集団に突き飛ばされ、踏みつけられた。試行錯誤が繰り返され、確信をもって別の道を進む者もいた。メンバーたちは互いにののしりあい、あるいは徒党を組み、公衆の面前で争った。だからこれは戦いの記録である。明治十五年から四十年まで、およそ二十五年間の出来事である。(p.296)
とあります。盛りだくさんの内容なのですが、それがたった25年間で起きているのです。
しかし、25年、本当に短いですね。今から25年前と言うと、穂村弘『シンジケート』が1990年ですから、2016年の今年はだいたい25年後ですね。
先にも触れましたように、語られる詩の歴史上では、「西洋派」が提唱した「芸術のための芸術」という概念が定着し、その後はそのラインのみ芸術は語られることになります。いま、私たちを支配している芸術に対する価値観も、基本的にはこの「芸術のための芸術」の上に成り立っているでしょう。
通常ならば、それで、めでたしめでたしです。しかし、この本がユニークなのは、歴史の中で葬り去られてしまった外山の価値観を評価しているところです。
今回触れられなかったこの本の第九章では、外山が行った数々の詩の実験に触れています。それは朗読だったり、自由律だったり、感動を基準とした詩の評価だったりするのですが、そのどれもが、「芸術のための芸術」という芸術界の決まりごとを覆す可能性がありました。
今日の美学者たちの間では、何が「芸術」であるかを決めてきたのは芸術家や評論家などの芸術関係者の言説、アメリカの美学者ダントーの言葉を借りれば「アートワールド」であるとの認識が一般化している。マスメディアはこのアートワールドの決めた「芸術」の定義に従って芸術報道を行う。このとき大衆と感動を重視する外山の見解は、一種のエリート集団であるアートワールドにとって「芸術」と「非芸術」の境界を危うくする通俗的芸術観でしかない。外山の敗北は、彼の理論の欠陥のためというより、「芸術」の領域の決定権が大衆ではなくアートワールドにあるという近代芸術のルールのためだと言える。(p.291,292)
現在でも、「芸術」は「芸術」と枠を設けた時点で、ゆっくりと死んでいきます。現代の詩歌の行き詰まりは、この「芸術のための芸術」という考えにあらかじめ織り込まれていたとも言えるでしょう。そうすると、「芸術」という名のもとに排除してしまった外山の試みのほうに、活路があったかもしれないのです。
ただ同時に、やっぱり日本の詩の始まりが「軍歌」ということは、覚えておいたほうがいいんじゃないか、という気もしています。
このブログでも何度か触れている、近代詩史をテーマにした漫画『月に吠えらんねえ』の第26話「純正詩論」では、今回触れた近代詩の流れを振り返る箇所が出てきます。私はこの回、かなり興味深かったです。
(清家雪子『月に吠えらんねえ 5巻』p.230より)、
このコマの後ろに引用されているのが、外山正一の「抜刀隊」です。近代詩の始まりはこの詩に求められます。
「おれたちの詩は西洋詩の模倣から始まった」
というのが、今回のブログで触れたところです。
(『同』p.231より)
同じく、明治22年・森鷗外『於母影』、明治30年・島崎藤村『若菜集』、明治41年・蒲原有明『有明集』と続きます。 「20年程度で『詩』として形作られていった」とありますが、この短さには、何度も立ち止まりますね、私は。
そして、話は太平洋戦争中の戦意高揚詩に及びます。戦争中の詩人・歌人・俳人たちの行動は、この漫画のメインテーマのひとつです。
「詩」はずっと役に立たないものでした。詩人は社会から役立たずと罵られ、金になる小説を至上とする文壇からも軽視されます。それが、太平洋戦争では、詩が「戦意高揚」として、社会から熱烈に求められます。詩人たちはそれに応え、戦争詩をたくさん書きます。それは、「詩」が初めて社会から必要とされた時代でした。具体的には、高村光太郎や斎藤茂吉の戦争詩・戦争歌などを考えてもらえばいいと思います。
この漫画では、
「社会が最上と認めるものが芸術の価値ならば」
「日本近代詩の頂点は」
「あの無残な」
「響きも実験精神も何もない」
「雰囲気に追い立てられ無理に生み出された出来損ないの」
「戦争の詩なんだよ」
というセリフのあと、次のコマがあります。
(『同』p.243より)
このコマでは、近代詩の始まりである外山正一の「抜刀隊」と、太平洋戦争の戦意高揚詩が結び付けられています。終わりが始めに戻ってくる。日本近代詩が始まりに持った「軍歌」という出自が、太平洋戦争に復活してきます。
その時、外山らのやったことは、はたしてどういう意味を持つのでしょうか。
さて、私には手に余る問題ですし、特に結論はありません。しかし、この辺のことは何度も考えてもいいんじゃないかと思います。
では、今回はそろそろお終いです。お疲れさまでした。
あ、いっこ文句を言い忘れていました。この『近代詩の誕生―軍歌と恋歌』、私にはかなり面白い本だったのですが、ひとつだけ気になるところがあって、それは、「引用する古文のうち、詩歌以外の文章は原則として現代文に訳す。訳文は〈 〉に入れて掲出する。」とかいうわけのわからないルールがある点です。これは本当に最悪だと思いました。たぶん、国文学の専門家ではない私みたいな一般の読者に配慮をした、ということなんだと思いますが、単純に原文と現代語訳を並置してくれればいいことなのに、こんなことをやられてしまうと、著者の「現代語訳」が本当に正しいのか判断がつかず、論自体の信憑性が疑わしく見えてきます。なので、このブログでも、なんだかもやもやとした引用しかできなかったので、今回、このブログからの孫引きはやめていただければ幸いです。国木田独歩くらい元の文章を載せてくれよ、と思いましたよ、私は。
それでは。
第26回 永田和宏『解析短歌論』
「ない」を見る眼 土岐友浩
「短歌のピーナツ」第10回で、塚本邦雄の『新撰小倉百人一首』を取り上げた。その名の通り、百人一首を丸ごと選び直そうという壮大なコンセプトの本だが、塚本は藤原定家の「焼くや藻塩の身もこがれつつ」に替えて、次の一首を採っている。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮
定家25歳のときの作。新古今和歌集の「三夕」のひとつとしても有名な歌だ。
「苫屋(とまや)」は、粗末な家のこと。海辺の荒涼とした風景を目の前にして、定家は、王朝和歌の絢爛とした花や紅葉の世界にはない「美」を見出した。
塚本は特に上句の「見渡せば花も紅葉もなかりけり」を絶賛している。
春の桜花、秋の紅葉とは王朝人の心を尽す自然美の代表であつた。夏の時鳥と冬の雪を加へれば、四季の眺めは揃ふことにならう。(中略)抽象の抽象、心象風景とは言つても、もはや、五弁の桜や、血紅の楓のその形など、源氏物語の明石の巻にちなんで、須磨明石あたりの、当時の実景に即した作品などと言ふ、素樸で強引な論議のあったことが、むしろ不思議なくらゐだ。「浦の苫屋」もまた、心の中の透明な屏風絵の、薄墨色の幻であつた。「なかりけり」、この否定が、そのまま「無」と呼ぶ唯美主義の呪文になることは自明であらう。何もないことの安らぎと充足感、と言ふより、花と紅葉の存在を打消すことによつて生れた「虚(ヴァカンス)」の、存在を越えた豊かさが、この一首の命だ。(塚本邦雄『新撰小倉百人一首』)
と引用してみたものの、塚本の思い入れが強すぎるのか、鑑賞文としては何を言っているのかわかりにくいかもしれない。
ポイントは初句の「見渡せば」だろう。
よく考えるとこの「見渡せば」は不思議で、ふつうの散文的な感覚だったら「見渡せど花も紅葉もなかりけり」と、逆接で言うのが自然なはずだ。
「見渡せば」と、あたかも定家は花や紅葉がそこに「ある」かのように詠いつつ、その幻は第三句目で「なかりけり」と打ち消される。
「ない」は不思議だ。
「ない」と言われることによって、かえって心のなかにその存在が際立つ。
そのことに僕が気づいたのは、俵万智の『あなたと読む恋の歌百首』を読んだときだった。
二十年前のタキシイドわれは取り出でぬ恋の晩餐に行くにもあらず 前川佐美雄
この歌を取り上げ、俵はこう書いている。
日本語は、その文末にくるまで、全体が肯定なのか否定なのか、わからない。「明日わたしは学校に行き」まででは、行くのか行かないのかは、はっきりしない。掲出歌では、その特徴が巧みに生かされている。
初めてこの歌を読んだとき、結句にいたる寸前まで、私の頭のなかには「二十年前のタキシイドを取り出し、恋の晩餐にいそいそと向かおうとする男」の図が描かれていた。それが「行く」までいって、その後「にもあらず」と否定されてしまう。ここにきて、描かれた図は、すべて空しく消え去ることになる。その落差。
「だったらなんで、タキシイドなんか取り出すのよお」と、心のなかで口をとがらせた。そこでハッとする。行くためではなく、行かないのに取り出すところが、◯しいのだ。
――いま、◯の中に入れる言葉をさがして大いに迷った。「悲しい」とも言えるし「楽しい」とも言えるし、また「寂しい」ようにも思われる。(俵万智『あなたと読む恋の歌百首』)
当時僕はまだ高校生で、前川佐美雄のことは何も知らなかったが、この鑑賞文にはとても心ひかれた。「恋の晩餐」に行くためにタキシードを取り出すよりも、行かないのに取り出すほうが、なるほど、ずっと深い。それを「あらず」の一語で表現できる、短歌のすごさ。
記憶を遡れば、このとき僕は、「ない」の不思議さを知ったのだと思う。
*
『解析短歌論―喩と読者』は、1986年発行。永田和宏の二冊目となる評論集である。高安国世の後を継ぎ、塔の主宰に就いて間もない時期の著書だ。
永田和宏の歌論と言えば「問と答の合わせ鏡」が有名だが、それは最初の評論集『表現の吃水』のほうに収録されている。
本書は全四章構成。
第一章では「序にかえて」として、「認識の方程式」と「自己否定の回路」の二編が収められている。
タイトルの「解析短歌論」といい、「方程式」「回路」といい、いきなり理系っぽい用語がたたみ掛けてくるけれど、数式や図が出てくるような類の本ではない。
第二章が比喩論で、第三章が読者論。サブタイトルに「喩と読者」とある通り、この二章が本書のひとつのテーマとなっている。
永田は、短歌における「喩」を、物事をわかりやすく説明するための「たとえ」というよりも、もっと積極的で、能動的な表現として注目した。
読者はそのような参加によって、全く新しい認識の一つの型を経験することになるのだ。作者の意図へ、読者(もちろん第一番目の読者である作者も含めて)の思惑が激しくスパークする、その尖端に、作品以前には決して経験し得なかった世界への新しい認識が開かれること、それを私は短歌における喩の本質として期待したいと考えているのである。
「自己の『いのちのあらはれ』なる短歌はこの意味に於ていとほしいのである」と茂吉はいう。だが私は「いとほしい」歌よりは、その一首が自らに何らかの爪痕を残すような、世界の亀裂をその深淵を垣間見せてくれるような、怖ろしい歌を読みたいと思うし、また作りたいと思う。
詳しい内容はひとまず措いて、「喩」の表現可能性に賭ける永田の熱意が、よく伝わってくると思う。
今回は、最後の第四章、とは言うものの分量にして本書の半分、120ページを占める「虚像論ノート」を中心に読んでいきたい。
「虚像論ノート」のテーマはひとつ、〈見えないものそれ自体を、いかに表現するか〉である。
永田は最初に、透明人間が頭から包帯を取って〈無〉になっていく場面をたとえに引きながら、こう述べる。
リンゴの皮のように剝ぎ取られてゆく包帯あるいは「表皮」の内部は、何も存在しない空間、いわば虚の空間であろう。それを逆にいえば、〈何も存在しないこと〉を表現するためには、〈何も存在しないこと〉がそこに存在することを相手に納得させるための仕掛けなり、工夫が必要だということだ。
存在するものを書くことは簡単だが、「何も存在しないこと」を書くには、どうしたらいいのか、と永田は読者に問いかける。
本書でその「仕掛け」や「工夫」の手がかりとなるのが、高安国世の歌集『虚像の鳩』である。
表題になったのは次の一首。
羽ばたきの去りしおどろきの空間よただに虚像の鳩らちりばめ 高安国世
『虚像の鳩』が発表されたのは1968年で、このとき高安は、歌集名が端的に表している通り、「虚像」の表現に腐心していた。
私の歌の多くは、何か現実には欠けているものを現実を通じて求めようとしているかとも思われる。そこにないもの、なくなったものをうたうことによって、あるべきものをさし示し、空虚を通じて充実を希求すると言ってもよいかもしれない。ないことをうたうより、あるものをうたえ、と批評されたこともあるが、あるものがなくなった、あるいは、あるはずのものがないおどろきをうたうことも、私のうたわなければならない衝動のひとつである。 (高安国世『虚像の鳩』あとがき)
永田が高安の短歌に出会ったのが、ちょうどこの時期だった。高安自身はまもなくこのテーマから離れてしまうのだが、「虚像」の問題は永田の心に長く残った。
私(永田)は、歌との出合い頭に、「ないものを歌う」という難題と、交通事故のように出くわしたことにもなる。(中略)にもかかわらず高安国世の方は、どうやらそのような危険地帯からはあっさり撤退してしまったようなのだ。置いてきぼりをくらった恨みつらみは別にあるとしても、それでは「虚像」なる概念に対して、実際にはどれだけの仕事を残して立ち去ったのか、そのあたりのことを自分なりに確認してみたい、というのが、このノートのテーマである。
というわけで、永田は『虚像の鳩』を読みながら、高安が残した「ないものを歌う」という研究課題を追求していくことになる。
まず永田は、
広場すべて速度と変る一瞬をゆらゆらと錯覚の如く自転車 高安国世
のような独特の直喩表現に着目する。
「錯覚の如く」というのは、散文ではあまり見ない不思議な比喩だ。この他にも『虚像の鳩』には、「幻の如く」「けぶりのごとく」「まなうらのごと」という直喩が頻出する。
永田の解説を見てみよう。
実際には車窓から見た、発車する瞬間の駅前広場かなにかの情景であろうが、それを「広場すべて速度と変わる一瞬」と表現したとき、物象定かならず絵の具の溶けるように流れ出した世界のその一瞬が、映画の一カットのように作品の時間の流れの中に甦る。(永田和宏『表現の吃水』*1)
列車が進み出す一瞬、目の前の風景が揺らぎ、そのなかで、たまたまそこに停まっていた自転車に作者の意識が向かう。
「錯覚のように」とは、「錯覚ではない」ということで、逆説的にこの自転車の現実感が浮き彫りになっている。
次のような歌はどうだろう。
ふりむけばたちまち暗き黄の色に大公孫樹立つ日陰の深さ 高安国世
永田は高安国世の「影」の表現に注目し、例歌を10首ほど挙げている。この歌はそのひとつだが、単に「日陰」と言うのではなく、その深さを見つめることで、公孫樹の存在感が強調されている。
これは公孫樹という実体を伴う影の表現の例だが、永田はこれ以外にも、「実体不在の影」や、「実体よりも確かに知覚される影」の歌など、様々に描かれた影を見ていく。
黒き鳥影の如くに枝移る樹の内部(うちら)ひろくほの暗くして 高安国世
「影の如くに」とは、シンプルだが、厄介な比喩だ。作者は「黒き鳥」という「実体」を見ているはずが、「影のようだ」と言うのだ。先の議論を持ち出せば、「影のようだ」という比喩は、「影ではない」ということで、この鳥の存在感を際立せるはずだけれど、はたしてこの「鳥」に実体はあるのか、ないとしたらその「影」は、どこに行ってしまったのか……。
ややこしくなってきたので、角度を変えて、本文で永田が引用している佐藤信夫の『レトリック感覚』の一節を読んでみよう。
ピエールがいない(*2)……という否定表現は、ピエールの存在を消し去るどころか、いないピエールの姿をありありとえがき出すのである。ピエールを言語によって消去する方策は、否定することではない。何も言わないことであろう。(略)しかし、いったん「ピエールがいない」といってみた途端、ピエールはその否定によって、満たされぬ期待のように、裏切られたまなざしの先の欠如として、虚の姿をあらわすだろう。否定表現はレーザー光線のように、虚の像をえがき出す。 (佐藤信夫『レトリック感覚』)
「否定表現はレーザー光線のように、虚の像をえがき出す」というたとえが面白い。僕は堂園昌彦さんのこんな歌を思い出す。
僕もあなたもそこにはいない海沿いの町にやわらかな雪が降る 『やがて秋茄子へと到る』
「僕もあなたもそこにはいない」が謎めいている。「そこにはいない」なら、二人はいったい、どこにいるのか。あるいは、どこにもいないのか。それとも「虚の像」としてそこにいるのか。
考えているうちに、海に降る雪は消えてしまうが、町に降る雪は積もるだろう、とか、そんなところにも想像が及ぶ。
下句の字足らずも、一首全体の「いない」感につながっているようだ。
さらに「ない」の表現のヴァリエーションとして、永田は「影」の他に、高安の「風」や「空気」の表現を取り上げる。
髪になびく風見えているそれのみに命の奥処(が)吹かれいたりき 高安国世
郭公の声わたるとき潤いてこまかに満てる空気を知れり
「風」や「空気」は目に見えないものだ。しかし、髪の動きや、郭公の声から、高安はそれをつかまえようとしているという。
僕は、永井祐さんのこのあたりの歌を連想した。
風が、くるくると回るバス停のポールに映画みたいな人生 『日本の中でたのしく暮らす』
くちばしを開けてチョコボールを食べる 机をすべってゆく日のひかり
まさしくこれらは、風や光という、見えないものが見えてくるのが眼目の歌だ。見えないものの動きを描くことによって、風景がいきいきと立ち上がってくる。
さりげないようだけれど、こういう表現は、実際にやってみるとよくわかるが、とても難しい。
永田も自分の試行錯誤の経験をノートに書いている。たとえば『不思議の国のアリス』に出てくる「笑い猫」のモチーフを短歌に表現しようとして、二首ほど作ったいうエピソード。
少し私(永田)自身のことを書けば、なんとかこのイメージを作品化したいと、いくつか試みてきた。近いところでは、
朝々を塀の上より見下ろして笑うこともなきこの猫よ
は、当然この猫を思い浮かべていただかなければアホかということになるだろうし、先日の歌会で残念ながらわかっていただけなかった拙作、
鬼灯ほどの灯をともしたる暗室に呼びもどされて微笑ゆがむ
も、写真現像という場面で、人間の顔かたちが現われ出る以前に、笑いだけが現われて、現像液の揺れの中にゆがんで見える、と歌いたかったのである。
さて、本書は他にも「序詞」の研究や、「ないということ」を「もともとないもの」と「なくなったもの」の二つに分けた分析などが展開されるのだが、そろそろここで一区切りとしよう。
「虚像論ノート」の最後に永田は「これまであまり考察の対象とならなかった、この、ほとんど不可能とも思える問題に対して、さまざまの試行を重ねたものである。結論ではなく、問題提起として、思考実験として読んでいただきたい」と述べている。
この「思考実験」という言葉に、注意を払っておきたい。
永田は本文でも、
もう一度断っておくが、これはあくまで作品を一つのテクストとしてそこからどのような問題をひき出せるかという思考実験にほかならないのであり、作品批評や作品鑑賞とは、おのずからその領域を異にしている。
と言い、この「虚像論ノート」で繰り広げられた一連の「読み」は、必ずしも作品に対する批評や鑑賞ではない、と読者に断っている。
そのことを踏まえつつ、僕は思考実験の続きとして、
青と黒切れた三色ボールペン スーツのポケットに入ってる 永井祐
たとえばこのような歌を、「ない」のひとつとして読んでみたくなる。
この三色ボールペン、おそらく赤いインクが残っているのだろうが、読者の脳裡に浮かんでくるのは、青や黒のインクをたくさん使ってきた作者の仕事ぶりや、ボールペン一本分の時間、まずはそういうものだろう。
「赤だけ残った三色ボールペン」と「青と黒切れた三色ボールペン」とでは、物としては同じでも、それが意味するものはまったく違うのだ。
「ない」を意識すれば、「青」と「黒」という色やその意味を読んでいきたくなるけれど、ふと、もしかしたら、この歌の本当の眼目は、やはり最後に残った「赤」なのではないか……、という気がしてくる。
仕事で消費された「青」や「黒」ではない時間。
歌のどこにも書かれていない「赤」という色に、だからこそ作者が何かを託している、というのは僕の読みすぎだろうか。
書きながら、なんだか僕自身がだまし絵の世界に迷い込んでいるような気もするけれど、ともあれ、こんな風に「ない」という視点から短歌を読んでみるのも、面白い。
「ない」とは、なんだろう。
第25回 安田純生『現代短歌のことば』
永井祐
こんにちは。
今日は、安田純生『現代短歌のことば』(邑書林)です。
1993年刊。
これは、文語に関するお話です。
近・現代の短歌で使われている文語が、そのベースとなっている平安時代の文語と
どのようにちがうのかっていうのを、こと細かに検証していく本です。
最初に言っておきますが、僕は文語文法とかに特にくわしくありません。
大学の入学試験で古典をやりましたが、それ以上専門にやったことはない。
だから活用とかも覚えてるわけじゃないです。
そんな人が読むわけだから、ハードルは低く構えてもらえるとうれしいです。
この本には、へえと思うことがたくさん書いてあります。
はじめの項からさっそく、
秋風の吹きにし日よりおとは山峰のこずゑもいろづきにけり 紀貫之
(略)
貫之の生きていた時代では、書きことばと話しことばとの間に、まったく同じとまではいえないにしても、それほど大きな違いはなかった。貫之は、人と話すときにも「吹きにし日」とか、「いろづきにけり」とかいっていたはずで、日常生活のなかでのことばが、おおよそそのまま歌のことばとなっていたのである。
あ、そうなんだ、と思って。
わたしが無知なだけなのかもしれないんですけど、和歌とか読むときに、貫之がじっさいに普段「にけり」とか発語しているという想定を、あまりしていなかったんですよね。
紀貫之がそんなガチガチの口語野郎だとは思っていなかったというか。
詩歌というのはなんだかんだ日常生活の一段上にあるもので、普段はもうちょっと俗語っぽいものをがちゃがちゃ話してるような先入観を持っていたんですけど。
和歌の言葉っていうのは、わりと当時の口語と近いものだったんですね。
しかし時代は下って、現代の短歌の文語というのは↓
日常生活のなかの言語体系とは異質なものだといえる。そして(現代の短歌の)文語は、古い時代の言語体系にもとづいて表現しようとしたものであり、その古い時代とは、貫之が生きていた平安時代ころを指す。(略)
そのように文語を捉えると、文語には二つの種類があることになる。一つは、貫之の生きていた時代すなわち平安時代の言語体系を意味する文語であり、もう一つは、その言語体系を志向した言語を意味する文語である。二種とも文語と呼んでいたのでは、どうもややこしい。前者の文語と区別して後者を文語体と呼んでもいいが、さしあたり、後者をヤマカッコ付きの<文語>とし、前者を単に文語として、以下を述べていきたい。
<文語>が成立したのは、日常生活のなかの言語がどんどん変化して文語の体系が崩れていくにもかかわらず、和歌を詠んだり文章を書くときには、古い時代の言語体系にのっとっていこうとしたためである。<文語>は、本来、文語に一致しているのが理想であった。しかし、文語と日常語との差が大きくなればなるほど、文語と一致した<文語>を書くのは困難になる。文語と日常語との差が大きくなれば、文語についての正しい知識を得るのが難しいうえ、文語を使っているつもりでも、日常語が折々に顔を出して似て非なることばになりがちである。(略)現代短歌の<文語>が、文語とかなり違っているのは、しばしば指摘されるとおりである。
これが、この本のとりあえずの前提です。
それで、具体例を引用しながら、現代の短歌の文語のあり方を見て行きます。
たとえば、「べし」に関して。
こぎいでぬと人に告ぐべきたよりだに八十島とほきあまの釣舟 藤原家隆
歌意は置いておいて、「告ぐべき」のとこを見てください。
これは、動詞「告ぐ」の終止形+助動詞「べし」の連体形です。(「たより」につながるから連体形です)
助動詞「べし」は、このように「告ぐべき」とか、「越ゆべし」とか、活用語の終止形に接続するのが本来の形になります。(ラ変型の活用をする語には連体形に接続する)
なのですが、
現代短歌では、(略)活用語の連体形に「べし」を続けた例が非常に多い。
雫のごとき銀杏もみじの中の窓 許さん許してなお飢うるべく 永田和宏
遠からず蝶形花冠むらさきに反りひらくごと春はくるべし 小中英之
赤き樹液いきづき垂らすふるさとの大楓(おほかへるで)のおもはるるべし 小池光
「飢うる」「くる」「おもはるる」はいずれも連体形であり、本来の文語文法ならば、
終止形に接続して、「飢うべく」「くべし」「おもはるべし」となるはずのものです。
だからわりとまあ、ストレートに間違ってるわけなんですけど、
「現代短歌の用法として、すでに定着しているごとき観がある。」くらい、
よく使われている形です。
なんでこんなことになるのか、安田さんによると、たぶん口語、というか日常的に
使っている現代語に影響を受けているのではないかと。
要するに、「飢うる」の裏側には口語の「飢える」があって、「おもはるる」の裏側には口語の「思われる」がある。「くる」に到っては文語動詞「く」じゃなくて、ほぼそのまま口語の「くる」なんじゃないかと。
このような例が、この本にはたくさん紹介されています。
次は「かたみに」をやりましょう。
ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末(すゑ)の松山なみ越さじとは 清原元輔
百人一首の歌ですね。「かたみに」は「互いに」にの意味の副詞、
「かたみに袖をしぼりつつ」で「びっしょりと涙に濡れた袖を、お互いに何度もしぼりながら」という意味になります。
でも、「かたみに」は現代でも使われている「たがいに」の古い形というわけでは
ないそうです。
「たがひに」は実は古代から存在し、主に漢文訓読調の文章で使われていたという住み分けがありました。
けれどここで、「たがひに」と「かたみに」の意味が近いからといって、「たがひ」=「かたみ」じゃなかったんですね。
「たがひ」は、現代でも「互いの意見」とか「お互いが注意する」とか言うのと
同じように、本来は名詞だった。
しかし「かたみ」はそうではなかった。「かたみに」があるだけで、「かたみ」だけ
取り出して「かたみの」「かたみを」「かたみが」という表現を作ることはできなかったみたいです。
降り出づるけはひ言ひつつ別れ来ぬ互(かたみ)の傘を確かめあひて 大西民子
外に出ず互(かた)みを友として遊ぶ二人子(ふたりご)をわが危ぶみ目守る 高野公彦
しかし、現代の短歌ではこのように「互の」「互みを」と作っている。
これも誤用になります。パターンはさっきと同じ、
「かたみ」の背後に口語の「たがい」が隠れていて、表現の際にそっちの使い方が
出てきちゃったということになるかと思います。
ほかに「かたみなる」という元来はなかった表現が使われていることを受けて安田さん
はこう言います。
「かたみに」は、現代の日常語ではない。そのためかえって、作者のこころのなかで現代語からの類推が働きかけ、さまざまなかたちに変容していくのである。
ちなみに、一応引用しておきますが、
(略)現代短歌の<文語>が、どのように文語と相違しているかを知るのも、実作者として決して無駄なことではあるまい。本書をまとめた目的も、そこにある。文語文法(これは、平安時代の言語体系を基本にして、奈良時代以前の要素を加味したものである)を剣となし、現代短歌の<文語>を切り捨てることを意図しているのではなく、そもそもそんな蛮勇を、私は持ち合わせていない。そのあたりを誤解しないでいただきたい。
とのことです。
ともかく、
短歌の文語体について考えるにはとても有益な本だと思います。
特に、文語体が現代語・口語からの影響を奥深く受けているものなんだなというのは、
この本を読んでいてたびたび思わされます。現代的な名詞が文語体に詠み込まれたりというのはよくあることですが、それ以上に深いものがある。
個人的には、
どうして近代以降の短歌だと、それほど文語とか勉強していない自分でもけっこう読めて、和歌だととたんに読めなくなるのか、ずっと不思議だったんですけど、その理由がちょっとわかった気がしました。
それについては、近代に「近代的自我」が生れて、短歌が我の歌になっただとか、和歌を支えていた文化的共同体が失われたとか、そういう説明がよくなされていて、わたしはそのどれにもなんとなく納得してなかったんですけど、
この本を読んで、すごく単純に言葉が違うからなのかなと思いました。
文語と<文語>って、やっぱりかなり違うもので、
<文語>のほうは、つまり近代以降の文語は、実は相当「口語」なんだなと思って。
つまり、「飢うる」はかなり「飢える」であり、「かたみに」はかなり「たがいに」なのであって、だから読めるのかな、と、ちょっとそんなことを考えました。
第24回 小高賢『宮柊二とその時代』
宮柊二と戦後社会 堂園昌彦
こんにちは。堂園です。
今日やる本は、小高賢さんが1998年に五柳書院から出した『宮柊二とその時代』です。
この本は、戦後を代表する歌人・宮柊二の生涯を主にその作品を丁寧にたどりながら振り返っていく評伝です。「その時代」とあるように、宮柊二の生きた時代背景も浮かび上がらせようという作品ですね。
この本、読みやすく分かりやすい良書です。宮柊二は特にその前半生は波瀾に富んだ人生なのですが、この本はだいたい260ページでスッと読める。たしか、世評も高かった気がします。作品を多くひきながら、その人生や思想を考察していく、バランスの取れた筆致です。
そんなわけで良い本なのは確かなのですが、一方で、実際読んでみるとわりと変わった本というか、なかなか難しい問題を含んでいるところもあるなあと、私は思いました。
まあ、その「難しい問題」はとりあえずおいといて、内容を見ていきましょう。
小高さん自身ははっきりとそういう風な線引きをしているわけではないのですが、この本を通読していくと、従来語られることの多い、いわゆるアララギ―近藤芳美―前衛短歌といったラインの短歌史とは別のものとして、宮柊二を捉えていたことがわかります。
それは、次のような言葉によく表れています。
宮柊二の新しさは、このような大衆社会のなかの個人の考察に満ちているところにある。インテリ(前衛)でもなく、しかし庶民(労働者)というわけではない。そのどちらでもある。いわゆる都会生活者のもつこのような問題が、作品のなかに透き通ってみえてくるところにある。
「アララギ」は土屋文明、紫生田稔、近藤芳美、高安国世といった、社会の上層に属する指導者たちと、労働現場に携わるものたちとの共同組織であった。指導し、指導されることに疑いは持たれなかった。ところが戦後の時間がたつにつれ、そのような二極対立構造の捉え方では社会全体が見えなくなってしまう。
「中間小説」「中間文化」という言葉に象徴されるような事態が訪れていたのである。
宮の作品は、この中間者の苦しみやかなしみであり、そして悩みなのである。(p.200)
つまり、宮柊二を戦後の社会でマスを占めた層の代表として捉えているんですね。
アララギ―近藤芳美―前衛短歌というのは、少数派のインテリがリードした短歌の歴史です。『短歌という爆弾』や『短歌の友人』などに表れている穂村弘さんの史観も、基本的にはこのラインに乗っていると言っていいでしょう。
(もっと言えば、少数派でインテリで、かつ男性歌人が作った歴史ですね。以前の土岐さんの記事にもありましたが、アララギから引かれる短歌の歴史には女性の歌人は出てきません。この本にはそういったテーマは出てきませんが)
しかし、戦後の短歌には、そういったインテリ層の短歌だけではなく、膨大な大衆層がいました。文学的に意識の高い少数派から、新聞歌壇に代表されるような一般層まで短歌が広がっていったのが、戦後の短歌の流れです。
小高さんは、そのような戦後の短歌のありかたの象徴として宮柊二を規定しているのです。この把握はすごく変わった把握というわけではないですが、はっきりと語られるのは意外と珍しい気がします。
※
この本はこんな言葉で始まります。
ひとりの歌人の肖像は、誰であれ、その第一歌集のタイトルによってイメージされる。(p.8)
なるほど、名言です。確かに、茂吉は『赤光』、白秋は『桐の花』という感じがします。他に考えてみても、あーたしかに『海やまのあひだ』で、『歩道』で、『水葬物語』で、『わがからんどりえ』で、『シンジケート』で、『汽水の光』だわ、という感じがしますね、それぞれ。
で、宮柊二の第一歌集は『群鶏』です。ぐんけい。軍鶏ではありません。群れてるにわとり。
ここに小高さんは意味を読み取ります。こんな感じです。
鶏はごくありふれた小動物である。他の動物にも殺される。特別な意味を持たない。それをあえて自分の歌集のタイトルに選ぶ。ここに宮柊二の主張を強く感じとっていいのではないだろうか。つまり、私は今後「群鶏」で行く、「軍鶏」で生きてゆくのではありません――という控え目であるが、ゆずらない強固な申立ての存在を感じる。(p.9)
ふむ、なるほど。小高さんは、歌集の代表的な連作「悲歌」からタイトルをとらずに、『群鶏』としたところに、宮柊二の主張を読み取っています。
他に宮を評する言葉で有名なのは、師の白秋が宮柊二に言った「君は暗い」「君は何故孤独なのだ」「君の歌は瘤の樹をさするやうだ」というものです。これ、超有名なセリフなんですが、なんかこう、師弟の関係性がわかる言葉ですよね。宮柊二、というとついついみんな引用しちゃう言葉です。
ここからは、あんまり声高には主張したりはしないんだけれど、自分の譲らないところは譲らない、という姿勢を読み取ってもらえればいいのではないかと思います。
アララギ、近藤芳美、前衛短歌に共通している特徴は、論争的であり、とにかく弁のたつ人々でした。宮柊二とは、そのあたりに明確な差異があります。
宮柊二の前半生で大事なトピックは、乱暴にまとめると、3つです。
①実家の没落
↓
②白秋に弟子入り
↓
③戦争で中国・山西省へ
まず、①実家の没落ですが、宮柊二は新潟県北魚沼郡堀之内の出身で、父は書店経営をしていました。宮柊二が小さい頃はうまくいっていたようなのですが、上越線の開通とともに商圏が移り、だんだんと没落していったそうです。で、宮柊二も旧制中学に通っていたんですが、その上の上級学校には行っていません。
当時、旧制中学に通えるということは、かなりのハイクラスに属していて、そのまま上に進んで、エリートの道を歩むのが普通でした。それが、進学をあきらめて家業を手伝っています。
要するに、エリートコースからのドロップアウトということが、宮柊二の始まりにあるわけです。
で、そのまま実家にいてもつらいですから、宮柊二は東京に上京します。20歳の頃です。そこで、職を転々とします。新聞配達とか、額縁屋とかやり、いろいろあって、1935年(昭和9年)、23歳のときに白秋の秘書になります。②のところですね。
このころ白秋は晩年で、糖尿病でだんだんと目が見えなくなってきていました。宮柊二はその秘書として、口述筆記をしたりしていたそうです。
白秋は宮柊二を買っていて、目をかけていたのですが、宮柊二は不安です。本当に筆で食べていけるのかと。さらに、長子であり、一家を支えなければいけないプレッシャーもあります。あと、白秋はけっこう気性の激しいひとで、住み込みの弟子はかなり大変だったと、他の本で読んだこともあります。まあ、いろいろあったのでしょう。小高さんは、文学的には白秋的な文学のあり方から脱出を計ったのだろう、と読んでいます。
そんなこんなで、1939年(昭和14年)、27歳のときに、白秋のもとを辞去し、富士製鉄の前身である富士製鋼所に就職します。白秋は説得するのですが、宮は聞き入れません。
当然、白秋はめっちゃ不機嫌になるのですが、その直後に、まさに入社して三カ月しか経ってないところに、日中戦争に召集されます。宮の友人の野村清は
この出征という事態は偶然にも、宮の頑なに対する白秋の苦い思いを一気に払拭してしまう。いうならばタイミングのいい出征だったのである。
と述べています。結果的に白秋との関係は修復され、文学的にも自立できたというわけです(その後、白秋は宮柊二が従軍中に亡くなってしまうのですが)。
というわけで③、27歳の宮柊二は、中国の奥地、山西省で激しい戦闘を経験します。その経験が、名高い歌集『山西省』になります。
ちなみに余談ですが、戦後活躍する歌人たちで、従軍経験があるひとは、意外と少なかったりします。この小高さんの本では、
宮柊二と近い世代でいえば、前川佐美雄、木俣修、佐藤佐太郎、中野菊夫、高安国世などは戦争にいっていない。近藤芳美は病気のため早く除隊になっている。一方、山本友一はシベリヤに長く抑留。前田透は、中国から南洋に転進させられる。やや下の世代の塚本邦雄は、病気のために徴兵されていない。しかし、岡野弘彦ははげしい戦闘体験を持っている。(p.48)
と書かれています。へえ、とちょっと思いました。
で、『山西省』なんですが、戦争の現場をリアルに描いた名歌集です。こんな歌が有名です。
ねむりをる体の上を夜の獣(けもの)穢(けが)れてとほれり通らしめつつ
自爆せし敵のむくろの若(わか)かるを哀れみつつは振り返り見ず
ただ、『山西省』の歌って、実は戦争文学として変わっているんですよね。そこを小高さんが指摘しています。
『山西省』には戦争に対する批判が作品の先に、また外側にないことだ。それは思想的な観点が少ないといってもいいかもしれない。庶民の位置にかぎりなく近い。歌集の刊行時期を考えれば、戦後に獲得した思想としての戦争批判を、忍び込ませることも十分可能だっただろう。しかし、宮はそのようなことをしていない。(p.79)
言われてみるとたしかに、『山西省』には戦争への批判といったものがありません。この本で他に挙げられている戦争文学は、たとえば野間宏『真空地帯』、大岡昇平『レイテ戦記』などですが、たしかに小説の場合は、戦争への批判や戦争というものの位置づけといった、外部的な視線が少なからず入ってきます。
小説はどこかに、短歌よりも神の視線が入り込んでいる。それに対して短歌の場合、私性に固執せざるをえない。限定がはじめから存在する。その差異が、『山西省』のリアリティを保証しているのではなかろうか。(p.79)
「もちろん行き過ぎると、真実より事実を重んじるという悪しき結果をもたらす」と留保しながらも、小高さんはこう述べています。戦争全体を俯瞰する視線を導入しなかったからこそ、逆に体感レベルでの緊密なリアリティを作品の中に込めることができた、ということだと思います。
また、もうひとつの特徴は、『山西省』には、いわゆる「軍隊生活のイヤさ」みたいなものがまったく出てこないことです。
「軍隊生活のイヤさ」とは、軍隊の中での細々とした決まりごとや、ルーチンワークに象徴されます。小高さんはその一例として、安岡章太郎の『遁走』という小説の中の描写を挙げています。
起床、点呼、間稽古(まげいこ)、飯上げ、朝食、演習整列、と朝起きてからせいぜい二時間ばかりのうちにも、これだけの日課がつまっている。しかもこれは単なる日課だ。兵営生活の骨組みであるにすぎない。細い骨のまわりには筋肉やら血液などがタップリついている。たとえば朝食がおわって演習整列まで十五分ないし二十分の余裕があるとすれば、その間に食器を洗って片づけ、班内と班長室と事務室とを掃除し、背嚢(はいのう)には天幕や中旗や円匙(まるさじ)などといっしょにグニャグニャした毛織地の外套を箱のように四角をピンで折ってキチンと巻きつけなくてはならない。……
軍隊生活は、激しい戦闘行為よりも、こうした細々とした面倒くさいルーチンワークが圧倒的に多くの時間を占めていました。戦争文学を読むと、厳しい規律と特殊な人間関係の中で繰り返されるこうした生活が、本当に大変なもので、やだなあという感想を読者に抱かせます。これは、田中小実昌とか古山高麗雄とかを読んでもそうですし、また、外国の戦争文学を読んでもだいたい出てきます。
宮柊二が赴任した山西省は、最も戦闘が激しい地域だったので、もたもたした日々の仕事を気にする余裕がなかったのも事実でしょうが、それでも、こうしたルーチンワークと軍隊生活は切り離すことはできません。
戦後、「青春と老い・宮柊二氏に聞く」(「短歌」1973年1月号)というインタビューのなかで、高野公彦が宮に「貴重な時期を兵隊にとられたということに対して、被害者意識みたいなものが、歌の上にあまり出てないですね。自分の意志でないのに戦争に行ったという悔しさみたいなものはなかったわけですか」と聞いています。
で、宮さんの答えはこんな感じなんですね。
若いだけに、自分が犠牲につくということで、体や心のつらさとか何かを、慰籍してしまうというか、忘れてしまうんですかね。ところが、それ以外に、もう一つ知るといったらいいか、もう一人の自分を認識するというか、そうするとダメですね。たとえば、二度目の召集のときは、ぼくは結婚して、独身じゃなくなったわけですよ。そうするとダメなんですね。将来になすべき仕事がある、あるいは考えてみたいことがある。しかし最初はそういうことは考えなかった。兵隊にとられるということは至上命令だったし、ぼくらが戦争で戦うことによって女子とか子供が生きていけるという、一つの使命感があったですからね。
「ぼくらが戦争で戦うことによって女子とか子供が生きていけるという、一つの使命感があった」と宮さんは述べています。小高さんは「戦後大分たっているということを、差し引いてもかなりの戦争へのコミットである」と言っています。これが、戦争批判とか、軍隊への嫌悪という発想に繋がらない理由なのでしょう。
急いで付け加えなくてはならないのは、宮柊二は別に戦争賛美者というわけではないです。晩年の歌になりますが、
中国に兵なりし日の五ケ年をしみじみと思ふ戦争は悪だ 『純黄』
という歌も残しています。ただ、この『山西省』の歌を作ったときは、ある使命感を持って戦場にいたということでしょう。それはもしかしたら、文学的なものも含まれていたかもしれません。
で、こうした戦争に対する態度は、もちろん、戦後における宮柊二の立ち位置にもつながっていくんですよね。
戦争へのコミットの深さゆえか、1945年の敗戦後、宮さんは戦後の社会にうまく馴染んでいくことができません。生き残ってしまった恥ずかしさや不安のようなものに、ずっと付きまとわれていくことになります。
かすかなる即興言ひて笑ひたる落語家(はなしか)のこゑわれは羞ぢらふ
戦後の歌集『小紺珠』の一首です。同歌集の
諦めと悲哀ひびかすまぼろしの声きこえつつわれは生きつぐ
という一首と合わせて小高さんはこう鑑賞しています。
なぜ「落語家のこゑ」に、作者は羞じらいをもってしまうのだろうか。戦いに死んでいった者たちの顔が浮かんでくる。「まぼろしの声」が、つねに宮の耳元にとどいている。笑いをとる落語家がおもしろければおもしろいほど、余計身のうちから羞恥心がたちのぼってくるのである。(p.97)
羞恥心、恥ずかしい、恥の感覚。このあたりが戦後の宮柊二を捉える上で大事になってきます。
この感覚は、もうひとりの戦後短歌のリーダー、近藤芳美と比べてみるとよくわかるのではないかと思います。この本には出てこないですが、さっきの落語家の歌を読んで、私は近藤さんの次の歌を思い出しました。
生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも 近藤芳美『埃吹く街』
戦後、近藤さんがミュージカルを観たときの歌です。ラストシーンで「生きていくのは楽しい」と歌って幕が降りた後、涙が流れた、とそういう歌ですが、戦争中はこういったミュージカルは上演出来なかったわけです。そこで、生き残った喜びと、死んでいった人々への悲しみが相まって、涙が流れたんですね。
どうでしょうか。どちらも死んでいった人々への思いがあると思うのですが、この差はふたりの立ち位置の差をよく表している気がします。
はやくから、いわゆる短歌の古さ、保守性を批判していた近藤芳美は、新しい短歌を標榜することで、みずからの文学を語ることができた。ところが、宮柊二の場合、そこに踏ん切りがつかない。むしろ過去をひきずりつつ、そのなかでしか自分を表現できない。(p.121)
という小高さんの言葉もあります。次の宮さんの言葉も象徴的でしょう。
ぼくはね、辛棒気もありますけれど、しょっちゅう逃げ出したい気もするんです。これまでだって、ぼくはがまんして生きながら、いつも青春から逃げ出したいという気分で生きてきたようなおもいがする。戦争の歌も、ぼくは戦争の体験者だから戦争の歌をうたっていいのかな、という気がする。生き延びて、戦争をその自分の尺度で考えていいのか、そういった疑いもあったりして、うたえなくなるんですよ。そういうことがいつも一種の負い目になって、逃げ出したくなるんですよ。歌いたくなっても発想を途中で止めてしまう。そういうことになるんですよ。(p.106)
これも戦後だいぶたって1970年代ですが、近藤芳美との対談(二人の唯一の対談です)で、当時を振り返って、こんなことを宮さんは言っています。
蛇足ですが、
くらやみに燠は見えつつまぼろしの「もつと苦しめ」と言ふ声ぞする 『小紺珠』
なんていう歌はかなりストレートにこの苦しみが出ている気がしますね。
それゆえ、宮柊二は戦後の民主主義の動きにも能天気に乗っかることができません。むしろ、戦争が終わると国全体が掌を返したように民主主義を賛美し始めるのに懐疑的です。
秘かに案ずるに、作家達は抵抗とのたたかひの中に自分の世界を創つていつたのではなく、たゞ易々と変化に身をゆだねたに過ぎないのではあるまいか。架けられた橋を易々と渡つてしまつてゐるのではあるまいか。
という「孤独派宣言」(「短歌雑誌」1949年6月)というエッセイの中の言葉は、そうした宮の態度がよく出ていると言えるでしょう。
(余談ですが、宮柊二が第二芸術論にあまり反応した形跡が見えないというのも、興味深いところです。もちろん、個人的に考えていたところはあるのでしょうが、公的に発表された文章はほとんどないそうです)
『小紺珠』、『晩夏』、『日本挽歌』という宮柊二の戦後の3歌集は、こうした「恥」の感覚に貫かれていました。と、同時にそのような傷を負った個人の、庶民生活・家族生活が多く描かれるのも、宮柊二の歌集の特徴です。
群(むらが)れる蝌蚪(くわと)の卵に春日さす生れたければ生れてみよ
おとうさまと書き添へて肖像画貼られあり何といふ吾が鼻のひらたさ
などの歌ですね。
小高さんは、
読者は、このような作品にふれることによって、作者をとりかこむ場を、聖家族として位置づける認識を成立させる。家庭の理想像として見る読み方である。おそらく白秋には考えられなかった作り手――読み手の関係である。いままでも家族の作品はあった。しかし、家族詠として認識していなかった。ここに戦後短歌における宮柊二の新しさがある。(p.131)
と述べています。
家族詠はいまでは当たり前ですが、当時は新しかった。しかも、宮柊二の場合は、単なる家族を詠んだ歌ではなくて、ある種の戦後社会のシンボルとして家族詠が読まれていく。時代の理想のモデルとして、歌の中の関係性が象徴になっていく。
戦後に対する「恥」の感覚は、戦争体験者の心情に合致していたでしょうし、こうした家族詠は、家族の理想像として、多くの読者に受け入れられました。つまり、こういった要因が、宮柊二を戦後短歌のリーダーにしていったというわけです。
ふー、長くなってきましたが、ここまでが宮柊二・第1章というところでしょうか。斎藤茂吉も、塚本邦雄も、あるいは穂村弘もそうだと思うのですが、時代を代表する歌人は、その時代の空気を体現しているようなところがあります。で、宮柊二の場合は、こんな感じだったと。『宮柊二とその時代』というタイトル通り、そのあたりが小高さんの筆でよくわかります。
このへんで一回区切って、第2章はまた次回、としたいですが、残念ながらこのピーナツはそういうシステムを取っていません。なので、続きを書きたいと思います。読者の方は、一旦休みを取って、また後日読んでいただいてもいいです。
※
はい。そして、その宮柊二が戦争の記憶が薄れていく社会、高度成長期の中でどのように生きていくのか。宮柊二・第2章となります。
この本、実はここから筆致が微妙に変わっていきます。端的に言えば、現代につながる問題が多く出てきて、それゆえか、小高さんも批判的な書き方が増えていきます。
後半のポイントは3つ。①新聞歌壇、②結社、③老いの歌、ですね。
まず、1955年(昭和30年)、宮柊二42歳、「もはや戦後ではない」という言葉が流行語になったこの年に、宮は朝日新聞読者歌壇の選者になります。近藤芳美、五島美代子との三者共選です。
もちろん今までも新聞歌壇はありましたが、共選は初めてでした。しかも、今まで新聞の隅のほうだった歌壇欄が、いっきに目立つところに進出します。一般社会にも注目されるようになり、ガンガン投稿者が増えます。
話題になっているのは、歌人という特殊な人々ではない。普通の人である。新聞のなかに、自分のささやかな表現手段を見つけようという種類の文学のことなのである。現在の短歌をめぐる現実が、はじめて姿をあらわしたのである。
それまではちがっていた。大げさにいえば、生き方のひとつとして、他の文学ではなく短歌という詩型を選んでいた。そこには強固な意志があった。ところが、いまや短歌をつくることは大げさなものでなうなった。選んでもらえるなら、だれにでも選んでもらいたい。近藤芳美、宮柊二、五島美代子は、歌の系譜も、傾向もちがう。しかし、そんなことは気にしなくなっている。島田(注:修二)がいうコンクールなのである。
ちょっとした腕だめしという要素が生まれる。つまり、そういう暴力にもなりかねないマスとしての庶民が、新聞という巨大なメディアをとおして現出したのである。これをどのようにとらえるか。宮柊二も、当然のこととして、これを是として真剣にとりくんだ。(p.150)
このときから初めて、短歌を専門的に取り組むのではない人々が短歌の世界に現れました。「短歌の大衆化」ってやつですね。宮柊二はそれを肯定的にとらえ、新聞歌壇をはじめとした各種マスコミの歌壇選者に、精力的に取り組みます。それは、先にも書きましたように、時代の気分に合致する庶民性を持った歌人の代表が宮柊二だったという、マスコミ側の要請がありました。しかしそれ以上に、宮柊二自身も大衆の短歌に今までの短歌にはないものを求めていたようです。
もう一度、本文の意をくりかえせば、今日の時代こそ庶民の歌、無名者の歌、それなるが故にかえって自由に時代の深いところでわいている歌が必要だ。歌人が啓もう者に変身することなく、いわゆる無名者の一人一人として人間の生き方を充てんし追求しているところから出る自由な歌が欲しいということです。(「朝日新聞」1954年3月7日)
選者に決まる前に朝日新聞によせている文章です。他の歌人たちは「専門歌人」と「投稿者」という区別を前提として、「投稿者」の短歌から無名者の生活が見えてくるから面白い、と捉えていたのに対し、宮柊二は選者と無名者を区別せずに、無名者の短歌の抒情こそが短歌の世界に必要だと捉えていたようです。
で、宮柊二は、自身の作品でも市井の人々を盛んに描写しています。
井戸の辺に忍びて笑ふ婢女の若きこころをおもはざらめや 『群鶏』
乗りてきて眼鏡の雨を拭ひゐつ後姿(うしろ)の肩の太き夜学生 『多く夜の歌』
自転車に囮籠載せ少年は人混み縫ひて冬山へ行く 『獨石馬』
第一歌集から晩年の歌集まで、こうした生活のさまざまな場面で出会った無名の人々に関する歌が、ずっと存在しています。つまり、宮柊二のなかには、ずっとこうした人々への関心があったのですね。それゆえ、選者という仕事もある期待を持って取り組むことになります。
ちょっと話が脇に逸れますが、この「短歌の大衆化」は実は、前衛短歌の運動とパラレルなんですね。小高さんが指摘しています。
一方で忘れてならないことは、前衛短歌が、この頃盛んに議論されていたことだ。
つまり、塚本邦雄、岡井隆といった旗手たちの行動は、新聞歌壇のような大衆化の動きとセットで考えなくてはいけない。新聞歌壇に代表される短歌の大衆化があれば、より文学に執する動きが出てきて当然だからである。コインの表と裏のように、新聞歌壇と前衛短歌を、同時に見る視点が本当は必要なのである。(p.156)
アララギから前衛短歌へと引かれる短歌史とパラレルに、新聞歌壇といった短歌の大衆化の流れがあったというのは、押さえていていい事実ではないかと思います。ちょっと違う話ですが、別の箇所でも、岡井隆が
「歌らしい歌」の好きな玄人に受け、短歌的抒情へのノスタルジヤを満足させてくれる作家として、宮の存在は貴重である。(中略)だから、朝日歌壇をはじめ、沢山の大衆短歌の選者の座を占め、「コスモス」という大結社に「魅せられた魂」を集めているのも、ごく自然なことといっていい。(中略)わたしは、宮を讃えるためにこの一文を書いたのではなく、宮のなかにどのような敵を見ているか、を明らかにするために書いたのである。敵の所在と本質を知らぬ進歩派が、この世界にはまだまだ多すぎるのだ。(「短歌」1961年10月号)
と宮柊二を敵認定する文章を書いてるのを、小高さんが引用してたりします。しかし、岡井さん皮肉たっぷりですね。やっぱり前衛短歌のメンバーは「論争的」な気がしますね。
で、話を戻すと、そんなわけで、宮柊二は新聞歌壇の選者をがんばりまくり、それとともに、世間的にも短歌的にもえらくなっていく……、というストーリーなのですが、ひと言で言ってしまえば、著者の小高さんはこのことに批判的です。
もちろん、宮柊二内部にある必然性やその仕事への誠実さは紛れもないもので、それは小高さんも認めています。しかし、この「選者制」というシステムそのものが問題をはらんでいると小高さんは言っているのですね。
振り返って見て、白秋との決別の意味はなんだったのだろうか。企業に入ることによって、生活という地点から、文学をやり直そうとした柊二の行為と、選者という仕事は乖離していないか。文学の自立という方向ではなく、マスコミの仕事分担というかたちで、選者が職業化することへの疑問はなかったのだろうか。どこまで宮柊二は自覚的だったのだろうか。大げさにいうと、現代短歌のむずかしさは、このあたりから始まっていると、私は思う。(p.154)
「現代短歌のむずかしさは、このあたりから始まっている」と言っています。「本当はどこかがゆがんでいると思ってもよかったのである」と、選者制のゆがみを指摘しています。
しかし、こっからがちょっと難しいのですが、選者制がダメな理由が、文章中では、実はそれほどはっきりしません。ただ、中でも明確なところを抜き出してみましょう。
繰り返すが選者制度は、この時代になってはじめて、マスメディアが成立させた不可思議な構造なのである。文学者として優れているというだけでなく、いやむしろ選歌に携わっているか、いないかによって、文学者の評価が決まってくるような錯覚をつくりだしてしまったのである。
自分の作品を、直接読者にむけることが、文学の第一歩のはずである。そこで作品の優劣がうまれ、うまい・下手、すぐれた・だめといったレベルができあがる。読者という存在が、文学の優劣を結果として決めていく。しかもそれは原則的にいえば、一回ごとの勝負なのである。ところが短詩型はちがう。一度評価され、選者にでもなれば、その権威はかなりのところまで保証されてしまうのである。(p.155)
これは確かにそうですね。文学者の権威が、その作品によってではなく、「選者をしてるからえらいんだろう」になってしまう。
で、次の問題が、選者を誠実にやればやるほど、それに熱心になってしまい、自分の作品制作よりも優先されてしまうことです。
いつの間にかおのれの文学的行為を犠牲にしてまでも、熱心になってしまう。つまり、作品制作とは別の仕事が生まれてしまうのだ。労働といってもいいくらいの仕事にもかかわらずである。そういう行為が、自分の作品とどのように関係するか、という疑問を持った瞬間にその行為は瓦解する。だから、逆に盲信的に励まざるをえないかもしれない。(p.155,156)
優れた作品を作る人間だからこそ、周りの人々はその人に選者を頼む。しかし、その選者という仕事を誠実に行えば行うほど、自身の文学的活動はおろそかになってしまう。従属していたはずの活動が、大元を乗っ取ってしまうんですね。ここに矛盾が存在しています。しかも、歌の選をすることが、自分の文学とどう関係するかを考えだすと、うまく選ができなくなってしまう。こうしたゆがんだ構造がある、と小高さんは言っています。
さらにもうひとつ、小高さんは新聞歌壇に投稿する人々にも、どこかマイナスのイメージを抱いているようです。
この章の冒頭に戻れば、宮は新聞に投稿する人々に、そのような庶民(理想化されたものであるが)の姿を求めたのではあるまいか。(中略)それがはたして、宮柊二の想像していた通りのものであったかどうか。かなりの疑問がある。
しかし、人はなにかしらに託してゆく以外生きてはいけない。宮が希望を託した無名者は、次第に肥大化して、怪物のような相貌をみせてくるのである。(p.168)
無名者の人々ひとりひとりというよりも、「次第に肥大化して、怪物のような相貌をみせてくるのである」とあるように、沢山集まったとき、多くなりすぎたときに、小高さんは問題を見ているようです。マスメディアと言ってもいいかもしれませんが。
んー、ここらへんはどうなんでしょうね。いっこいっこの問題はその通りだなー、と思うんですが、全体としては、なんかもやっとしますね、わたしは。
それは、なんというか、さっきの岡井さんじゃないですけど、敵の所在がはっきりしないというか、批判対象が明確に定められていないところにあるんじゃないかと思います。小高さんも、そしてその後の世代であるところのわたしも、この「戦後歌壇」というシステムに乗っかっているわけですよね、多かれ少なかれ。その上での批判をどうすればいいかが、よくわかんなくなるというか、そんな感じです。
もちろん、小高さんはそんなことは当然わかっている上で文章を書いているに決まっているのですが。簡単に割り切れないことでもありますしね。
話を戻しましょう。宮柊二は戦後、新聞歌壇の選者としてえらくなっていく。そして、②結社の話です。
1935年(昭和10年)に白秋が作った結社「多磨」が、いろいろあって1952年(昭和27年)に解散します。宮柊二もそこで選者をしていました。で、翌年の1953年に「コスモス」が結成されます。現在でも続く、宮柊二創刊の結社です。
宮柊二は「主宰」と呼ばれるのを嫌い、「宮柊二編集」という表記をしていました。また、創刊直後の「コスモス」は選者も含め、すべてアイウエオ順に作者を並べていたそうです。外部からも常に人を読んで座談会をやったり評論を載せたり。開かれた結社を意識していたようです。
しかし、結論から述べると、小高さんはこの結社というものにも否定的です。
当たり前の話だが、歌人としての宮柊二の全体像を考える際、「コスモス」という結社を抜きにして語るわけにはいかない。とりわけ中期以降はそうである。なによりも、現代短歌に大きな影響を与えた『多く夜の歌』という歌集にも如実に関係してくる。
選歌に始まる結社運営は、一歌人を疲労させるにちがいない。いらぬゴタゴタも余人には想像できないほどに存在する。一方で、孤独な作業を強いられる歌人の営爲に対して、多様な世代、全国各地との交流は、その作歌活動に大きな刺激になることも、また忘れてはならないだろう。
しかし、次第に結社は肥大して、バランスは崩れる。開かれた場所から閉ざされた空間に変化してしまう。(p.177)
もちろん、単純に断罪しているわけではありません。宮柊二と「コスモス」は切り離すことができませんし、その作歌活動にも大きな影響がありました。しかし、小高さんは「次第に結社は肥大して、バランスは崩れる。開かれた場所から閉ざされた空間に変化してしまう」と書いています。
ただ、これも「閉ざされた空間」というのがどんなものなのか、いまいち書いてないんですよね。「『コスモス』は創刊号から一五年ぐらいまでは、現代からみても斬新な編集だったといえる」(p.177)とありますから、それ以後になにか問題を見ているのは確かだと思いますが。「コスモス」は現在も続く結社ですし、言いにくかったのでしょうか。
他の箇所にこんな言葉もあります。
主宰ということばを、宮は嫌ったという。しかし、結社が大きくなればなるほど、その中心人物は神格化されざるをえない。それを厭うことは不可能になる。そこにも選歌という問題が入ってくる。「コスモス」の会員に聞くと、選者団の選歌を、いまいちど宮柊二が見直すこともあったという。インタビューにもあるように、潔い覚悟のもとに、結社の仕事にも誠実に対応する。結社はますます大きくなる。ますます宮柊二の仕事がふえてゆく。そのプロセスは身体をいためることに結果するのだ。(p.234)
小高さんは言っています。「結社の仕事は、身体をいためることになる」と。
しかし、同時にこうした苦労の中で作られた49歳の歌集『多く夜の歌』(1961年)は、ホワイトカラー的生活をはじめて作品化した、名歌集となります。
病む父にきよく音鳴るくろがねの風鈴ひとつ購(あがな)ひにけり
はうらつにたのしく酔へば帰りきて長く坐れり夜(よ)の雛(ひな)の前(まへ)
馬跳びの子らの遊びを見おろすに馬として待つ子の背の孤独
こういった歌が『多く夜の歌』の歌です。小高さんはこう評しています。
病気の両親と夫婦、子供三人の生活。そこに結社誌の経営がのしかかってくる。まさに多難の四十歳代ということが出来るだろう。『多く夜の歌』が、読者に勇気や感動を与えてくれるのは、だれでもが持つ家族や家庭の苦しさやかなしさを、作品としてあざやかに造形しているからである。いまさら確認するまでもない。それは現代においても同じ感動をもたらす。みごとな典型がある。(p.190)
「みごとな典型」。ここでも宮柊二の作品を、ある種の生活の典型、その先駆者として見ようとする視線がありますね。『多く夜の歌』、タイトルがいいですよね。
ちなみに、この歌集が出る前年に宮柊二は長年勤めていた富士製鉄を48歳で退職し、歌人一本の生活になります。そしてますます新聞歌壇の選歌や結社の仕事に精を出すことになります。そして、このことが③老いの歌、につながります。
選者の仕事などで長年無理をしたのがたたったのか、宮柊二は1968年、56歳のときに糖尿病が悪化してしまいます。56歳、微妙な年齢です。
その後の歌は晩年の歌となっていくのですが、しかし宮柊二自身にはまだ晩年という意識はありません。
多分宮柊二には、いまだ人生の円環を閉じるような状況にはなかったのではないか。「病いにぞかく入りにたる人生の自(し)が過程をばおもひくやしむ」(『緑金の森』)という作品もあるが、生への濃厚な意欲は存在している。(中略)
老いとは何か。現在、私自身まだ五〇歳代のはじめである。老いを実感するのはなかなかむずかしい。しかし当然老いはいつの間にかやって来ている。もちろん病いにも徐々に親しむようになって来ている。回りにも同世代の死者が生まれている。しかし、まだ老いという気分になれ親しんでいるわけではない。おそらく宮柊二の場合もそうだったのではないか。そのような時、突然病いが襲ってきた。(p.246)
まだ、「老い」と意識する前に、病のほうが先にやってきたのですね。小高さんは、宮柊二晩年の歌は、「老いの歌」というより、「病いの歌」ではないかと述べています。
すたれたる体横たへ枇杷の木の古き落葉のごときかなしみ 『忘瓦亭の歌』
寝つかれず夜のベッドに口きけぬたつた一人のわが黙(もだ)しゐる 『緑金の森』
頭(づ)を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄りは宮柊二なり 『同』
晩年の作品はこのようなものです。たとえばこれらの歌を、近代歌人の歌と比べると、違いが際立ちます。
若き日は病の器(うつは)とあきらめぬ老ゆればさみし脆き器か 窪田空穂『木草と共に』
暁(あかつき)の薄明(はくめい)に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの 斎藤茂吉『つきかげ』
空穂や茂吉の作品には、老いからくる人生の静かな終末意識があります。ゆっくりと老いが進行していく中で、だんだんとみずからの晩年を意識していく。しかし、宮柊二の場合は、老いよりも病が先に来てしまった。
宮柊二の最後の一五年間の仕事は、いわゆる悟りとか、澄みきった心境といった感情とは隔たっている。もちろん自己の運命を受け入れようという考えが生まれてきている。しかし、本質的には自分がなぜこのような目に会うのか、という疑問は最後まで残っていたのではないだろうか。(p.244)
茂吉や空穂たちの時代と、宮柊二の時代では、老いに対する感覚が違います。また、病をめぐる環境も、現代では変わってきています。極端なことを言えば、現代の私たちには、近代短歌的な「老いの歌」はもう無理なのかもしれません。
茂吉や空穂的老いを望むことは、いまの時代かなりむずかしいことだろう。円熟から老いといったコースは、ほとんどありえないのではないか。つまり、突然、壮年から病いに入ることになる。宮柊二は、そこにおいても典型として浮かんでくる。(p.256)
ここでも、宮柊二をある種の人生モデルとして捉えようとしています。
たぶん、1998年に書かれたこの本の問題意識の延長線上に、第16回で永井さんが取り上げていた2011年の岩波新書の『老いの歌』があるんじゃないでしょうか。
この『宮柊二とその時代』には、小高さんの「私自身、現在五三歳である」「私自身まだ五〇歳代のはじめである」みたいな言葉が何度も出てきます。小高さん自身、老年期のことを考え始める時期であり、生き方のモデルを宮柊二に求めていたのでしょう。
宮柊二は闘病生活の末、1986年(昭和61年)に、74歳で亡くなります。
※
そんなこんなでこの本は終わりですが、初めに書いたこの本の「難しい部分」をまだ言ってませんでした。
いまさら言うのも野暮なんですが、それは、小高さんがあまりにも歌人的人生のモデルとして宮柊二を捉えようとしているところです。
宮柊二を軸に、自分の日常を位置づける。宮との距離を計ることで、自分のこれからを考える。それほどはっきり意識しなかったが、生き方のテキスト、定点として読んでいたのかもしれない。文学の読み方として邪道だといわれれば、それほど強く否定しない。その通りかもしれない。
本書を読み返してみて、そういった私自身の持つバイアスが、もろに出でいることは確かである。このようなものを評論といっていいのか、自信はない。まさにこんな風に、私は宮柊二を読んで来た、という痕跡のような一冊だからである。(p.259)
と「あとがき」で書いているように、もちろん小高さんは自覚的です。そして、こういった小高さんの思い入れがあるからこそ、宮柊二の内部まで分け入るような、丁寧な本になったのは間違いないでしょう。なので、ここを批判するのはお門違いなんですが、それでも、人生ストーリー、それも「歌人的人生ストーリー」のモデルとしてある歌人を捉えるのは、どうなんだろうと私は思ったりします。これ、やっぱりある作家の作品や人生を、個人の指針にすることとは、微妙に違うと思うんですよね。「歌人」が「歌人的生き方」の参考にするということですから。で、さらに突っ込んで言えば、新聞歌壇や結社に問題があることを認識していながらも、その対象が明確にならないことや、今回あえて書きませんでしたが、この本の最後になるにつれて、つまり問題が現代に近づくにつれて、「私たちは~するべきではないか」と最初のほうにはなかった「私たち」「べき」という言葉が文中に現れてくることとも、このことは関連していると思います。
宮柊二を、戦後社会の中間階級の人生モデル、それも男性の社会モデルとして捉えるということは、宮柊二をある特定の社会層のみの芸術家として限定してしまうということでもあります。
そして、小高さん自身も属していたと思われる戦後社会の中間層は、おそらく現代の社会では、もう以前と同じようには存在できなくなってきています。
突然ですが、穂村弘が書いたすべての言葉の中で、私が一番好きなのは次の一節です。
世界の不気味さにはすべて意味があるのではないか。どんな意味があるのか、具体的なことはまったくつかめず、世界は依然として気味が悪いままだった。だが、私は気がついたのだ。この不気味さには確かに何か意味がある。
他人の歌を読むようになった。大昔の誰かの歌。会ったことのない誰かの歌。無数の呪文を分析することで、世界の不気味さの意味が見えてこないだろうか。人々が残した熱い言葉を、蛇のように冷たく論理的に読み解くのだ。
(『短歌という爆弾』(2000年))
「人々が残した熱い言葉を、蛇のように冷たく論理的に読み解くのだ」。蛇のように冷たく論理的に。それはつまり、客観的であり論理的であり、特定の社会層によらず、地域差によらず、男性か女性かにも、スクールカーストにも、外向的か内向的かにも、マイノリティかマジョリティかにもよらず、誰にでも読める、ということです。
何度も繰り返しますが、この小高さんの『宮柊二とその時代』は名著です。小高さんは宮柊二に同情的であり、暖かさを感じさせる文章になっています。また、同時に、個人の心情と社会状況をバランスよく記述し、批判するときも、相反する要素への目配りを欠かすことはありません。変な思い込みなどは皆無のプレーンな文章です。
しかし、穂村さんの文章が、短歌の世界の外の人々や、特定の社会層に限定されない若い人々に読まれるのは、この「蛇のように冷たく論理的に」があるからだと、私は思います。
冷たさが大事なんだと思います。
まあ、このことは言いがかりかもしれないですけどね。
それでは。
第23回 高島裕『廃墟からの祈り』
光を待つ 土岐友浩
2007年12月、京都で「いま、社会詠は」というシンポジウムが開催された。
小高賢が結社誌「かりん」の誌上で、イラク戦争などを背景として、現代における社会詠の難しさを論じ、青磁社の時評を担当していた大辻隆弘、吉川宏志の両氏がそれに反論をした。ウェブ上の論争が発展したのがこのシンポジウムで、詳しい内容は同題の本にまとめられているのだが、当事者の熱気がよく伝わってくる。
この会場で、レポーターの一人として高島裕は、次のような発言をした。
目に見える政治だとか社会的行動だとか、そういうものだけが、社会の実質、人間が生きていることの実質ではないと思います。文化の厚みだとか、人々の精神だとか、モラリティーだとか、そういった目に見えないものの広がりが国をつくっていると思うし、人が生きていることの実質だと思います。だから派手派手しい政治的な事象だとか、社会的な事象だとかに、いちいち目を取られすぎることはないと考えます。
(中略)
ここ数年起きているような危機的な事態は、いま初めて日本に訪れたわけではなくて、千年以上前に例えば大伴家持が生きていた時代も、たぶん似たような状態だったのではないかと思います。
(中略)
家持の周囲にいた人々、佐伯とか大伴の人々が橘奈良麻呂を中心として藤原仲麻呂を排除しようと、決起を計画して事前に漏れて全部つかまって、殺されたという事件がありました。「橘奈良麻呂の乱」と言いますけれども、橘奈良麻呂たちが実際に政治的行動を起こしたことと、それには参加しなかった大伴家持が、その後、私たちに『万葉集』という遺産を残し、『古今集』以降の部立ての意識とか四季の意識だとかの基礎を作った、そういう、文学に対してなした仕事というものを比較して見た場合に、どちらが千年後の私たちから見て輝いているでしょうか。そういうところを考えた場合に、詩歌というものが歴史的に占めるべき位相というものは、よくわかるのではないかなと思っています。
僕はシンポジウムには参加せず、書籍でこの発言を読んだのだが、当時、会場にいた300人の参加者たちは、どう受け取っただろうか。
現代の社会詠を論じ合う場で、大伴家持を持ち出し、政治や社会にとらわれることはないと、おそれげなく語る。
その迫力というか、肝の太さ。
「社会詠について考えよう」という熱気に包まれた会場の中で、高島が一人、異質な空気を放っていたことは、想像に難くない。
それは、語源どおりの意味での「アパシー」、すなわちパトスの否定である。
*
『廃墟からの祈り』は、2010年に北冬舎から刊行。個人誌「文机」などに発表された文章をまとめたもので、高島自身の言葉を使えば「散文集」である。
高島の青年時代を回想した「わが過ち」「高円寺の思ひ出」などの随筆も魅力的だが、ここでは書名にもなった「廃墟からの祈り」という文章を中心に、本書を読んでいこう。
高島は故郷の富山を「廃墟」として描く。
私が高校生の頃、休日にときどき友達と遊びに行つた富山の総曲輪通り、中央通りは、街路いつぱいに人が行き交つてゐたやうに記憶してゐるが、今は、日曜日に訪れても、まるでゴーストタウンのやうだ。県都ばかりではない。私の少年時代にはいきいきと賑はつてゐたふるさとの街々は、どこもみな人通りがまばらで活気を失ひ、一見してさびれてゐるのがわかる。そしてその原因も明らかだ。郊外の幹線道路沿ひに、各種大型店舗が次々と出店したからだ。(「廃墟からの祈り」)
すべては、驚くほど便利になり、快適になつた。それは、政治経済のみならず、思想や文化においてもアメリカに追従し、限りない欲望を限りなく追求して、ひたすら機能主義的に生活環境を改造してきたことの、めざましい成果である。
だがその結果、わたしたちは歴史を失つた。固有の歴史に包まれて暮らす安心を失つた。古くからの商店街も、農村の共同体も失つて、そのかはりに、田んぼの真ん中に立つ巨大ショッピングセンターを得た。
田んぼの真ん中に立つ、巨大ショッピングセンター。これほど無残な景観が、ほかにあるだらうか。歴史の連続性を無造作に切断し、父祖たちが育んできた固有の風土を無頓着に蹂躙して、均質で無色透明な消費社会がふるさとを覆ひつくす。(同上)
郊外に建つショッピングセンターは、「機能主義」という言葉に集約されるようなアメリカ的な消費欲の象徴であり、言うまでもなく、伝統を捨てた日本人の荒廃した精神の象徴でもある。
西洋人は、世界から神や精霊を放逐し、人間こそが世界の主人公であると宣言した。近代の始まりである。そして、神も精霊もゐなくなつた平明な世界を、人間の頭脳が生む科学技術によつて、人間の欲望のままに支配し、改造しうると考へたのである。彼らは躊躇なく、それを実行していつた。そしてその果てに、はるか極東のわが列島にまで、巨大な黒船を連ねて押し寄せた。そのとき、日本の文化を担った先人たちは、この未曾有の危機を受けて立たねばならなかつた。(同上)
焼き尽くされ、再建された街並もまだ新しいままに、賑はひを奪われた県都。この事態が、六十年前に街を焼いた、その同じ国の都合によるものであることを思ふとき、憤りに似た気持ちを抑へることができない。(同上)
高島にとって、西洋合理主義とは、歴史を否定し、風土を破壊する思想である。その到来によって、近代以降「ふるさと」は絶え間なく、徹底的に破壊されていった。
短歌もまた、その例外ではなかった。
「短歌のピーナツ」でも、たびたび正岡子規の短歌革新運動を取り上げてきたが、短歌の革新とは、見方を変えれば、西洋による「歴史の連続性の切断」に他ならない。
西洋合理主義をバックボーンに持つ「写生」とは、認識の枠組を解体するという意味で、そもそも破壊的な運動だったのだ。
そこで高島は、日本語の廃墟と化した現代短歌へ向けて、「伝統」を思い出そうと説く。
だとすれば、わたしたちはいま、近代日本の出発点において正岡子規が否定し去つた、古典和歌の美的概念性、その空虚な約束事の宇宙が、どんな必然のもとに生み出され、守られてきたのか、もう一度見直してみるべきではないか。それによつて、近代の散文化した世界の中で忘れ去られた伝統を、未来への可能性として立ち上げ直すべきではないか。(「かなしみの伽藍」)
短歌定型の力は、民族の歴史的連続性によつて支へられてゐる。だから、短歌定型によつて救済されることの意味は、民族の歴史的連続性に抱き取られることによつて、その安らぎとなつかしさのなかで、日本人としての自分を感じ、日本人としての輪郭を獲得することなのだ。(「廃墟からの祈り」)
「抱き取られる」とか「安らぎとなつかしさ」というような言葉で、あまりにも屈託なく語られる、「民族」や「日本」。
高島自身は、この言葉こそ使ってはいないが、「愛国心(パトリオティズム)」への回帰を呼びかけていると言っていいだろう。
短歌とは、失われた日本の伝統を思い出すよすがであり、現代に短歌が存在する理由も、それ以外にない。
しかし、高島の言う「伝統」や「日本人」とは、いかなるものなのか。
その疑問に対する答えは、用意されていない。
それに代えて高島は、日本の伝統を知ることで「ふはりと包み込まれるやうな安心感に満たされる」と、「ふはり」とした感覚だけを繰り返し述べている。
おそらく高島にとっての「伝統」は、ロゴスによって指し示し、たどり着けるようなものではない。
本書に収録されている「真言(まこと)の輝き」「日本語の山河」の二編の文章は、テーマは異なるものの、高島の言語観がよく表れている。
それぞれの要旨をごく簡単に言えば、ディベートの否定であり、翻訳の否定である。高島は、言葉を論争の道具として用いる言語感覚や、短歌は翻訳によって普遍的に親しまれるものだという詩歌観を否定する。
詩歌に携はるといふことは、言葉をこのやうには扱はないといふことだ。言葉を、「思ひ」の発露としての、真言の輝きのままにとどめおくといふことだ。言霊を信頼し、論(あげつら)ひを捨てるといふことだ。(「真言の輝き」 )
私が短歌に携つてゐるのは、国際化に背を向けたいからであり、外国人に理解されたくないからである。歌詠みとしての私はいつも、日本人だけが理解できる何かを確かめたいといふ思ひのなかにゐる。(「日本語の山河」)
「日本人だけが理解できる何かを確かめたい」という高島の言葉をナショナリズムの表明と理解するのは、適切ではない。
高島が安らぎの感覚とともに唱える「愛国心」は、たしかに復古主義と言っても間違いではないのだが、ここで重要なのは、言葉が、意味や情報を伝えるものとして捉えられてはいないということだ。
危機の時代の熱狂などというものからは対極の地平に、高島は立っている。
理解してくれない人に自分の「思ひ」を伝へようとして、人はすぐに、論理的な説明の言葉を組織する。だが、言葉の力とは、もつと広大なものである。説明することなく、ましてや相手を攻撃することなく、ただ、すなほな「思ひ」のままに溢れ出す言葉は、必ずや、心ある人の胸に届くのである。すぐには届かなくとも、いつかは届くのである。人に届かなくとも、天に届くのである。(「真言の輝き」)
対話や議論によって生産的な何かが生まれるという弁証法的な価値観は、詩歌にとって、まったく無縁なものなのだ。
最初にこの本は「散文集」だと説明したが、高島がこれを「評論集」と言わなかった理由は、とてもよくわかる。上の引用から明らかなように、高島は「論」というもの、それ自体を否定しているからだ。
わたしたちは、伝統から隔てられ、陰翳を失つたフラットな世界を、日々生きてゐる。だが、わたしたちには短歌がある。古典の知識や古文の読解力が心許なくても、短歌定型は、遠い過去からの無量の光を、わたしたちに届けてくれる。今を生きるわたしたちのいのちは、過去からの光に照らし出されることで、くつきりとした輪郭を獲得する。(「過去からの光」 )
高島にとって過去とは、廃墟を照らす「光」である。
古典の知識や古文の読解力が心許なくても構わないというのは、先ほど見た、議論や翻訳の否定と同じことだ。
意味などはじめから成り立たず、従って意味の伝達も、それによる理解も成立しようがない。
すなわち、高島の考える「伝統」は、何の内容も持たない。
だが、なにひとつ中身を持たないからこそ、同時にそれは、かぎりなく純粋でありうるのだ。
その存在は、まさに「光」のようなものだとしか、呼びようがない。
「廃墟からの祈り」の最後で、大伴家持の〈新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)〉という歌を引きながら、高島はこう述べる。
わたしたちを導く、目に見えぬ大きな力とは、子々孫々末永く幸あれといふ、父祖たちの願ひであり、祈りであつた。親から子へと、果てしなく続く愛の連鎖は、大いなる〈願ひ〉の力となつて、わたしたちを生かし、導いてゐるのだ。詩歌は、この大いなる〈願ひ〉を、民族の歴史的連続性としてかたちづくるのである。詩歌は民族の魂であり、いのちである。この大いなるいのちが、日本語の韻きを通じて、わたしたち日本人ひとりびとりに生気を吹き込むのだ。
僕たちは、言葉によって発信したり、伝達したりするのではなく、ただ過去からの光が届くのを信じ、待ち望むことしかできない。
その空虚こそが豊穣なのだという逆説が、静かに横たわっている。
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「光」つながりで、最後に与太話をひとつ。
本書は評論集ではないと言いつつ、評論らしい評論も一編収められている。
「小池光における〈日常〉」というのがそれだ。
初出は角川「短歌」。
いわゆる「日常詠」をめぐって、高島は「日常」という概念が近代社会の成立とともに誕生したことを明らかにしながら、小池光の一見ベタな「日常詠」にひそむ批評性を、丹念に読み解いている。
とても優れた小池光論なので、ぜひお読みいただきたいのだが、それはそれとして、
強靭な批評性を保ち続けるこの歌人が、現在的〈日常〉の空虚をくぐつて、やがてゆつたりと、伝統の陰影を身に帯びてゆく道行きは、いま、わたしたちがこのやうに生き、歌つてゐることの精神史的必然を、くつきりと照らし出してくれるのだ。
「くつきりと照らし出してくれる」と、ここではまるで小池光が「光」そのものになってしまったかのように書かれている。
これを読んでから、小池光が仏像か特撮変身ヒーローか何かのようにピカピカ光っているイメージが、頭の中から離れなくて僕はとても困っている。