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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第55回 三山喬『ホームレス歌人のいた冬』

足で読む 土岐友浩

ホームレス歌人のいた冬 (文春文庫)

ホームレス歌人のいた冬 (文春文庫)

 

 

 公田作品の魅力は、透明感だった。極限状況に置かれても、それをストレートに嘆くわけではない。あくまで淡々と情景を描写する抑制的な姿勢に、公田の凛とした人格がうかがわれた。

 短歌という三十一文字の世界は、平等な共和国のようなものだ。井村はそう感じた。そこには強者も弱者もない。実生活において、リストラをする側にいる者も、される側にいる人間も、作品は等しく扱われる。それどころか、路上生活者という社会の最底辺にいる者が、空前の反響を巻き起こしたのである。

 しかし、あの寒い冬以来、共和国の最有名人となった公田は、二度目の冬を迎える前に共和国を去った。 (三山喬『ホームレス歌人のいた冬』)


2008年12月8日の朝日歌壇の紙上に、後に「ホームレス歌人」と呼ばれることになる公田耕一の作品がはじめて掲載された。

 

 (柔らかい時計)をもちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ  公田耕一

 

サルバドール・ダリの「柔らかい時計」をモチーフにして時間感覚の歪みを巧みに表現した秀歌だけれど、より衝撃的なのは、住所欄に記された「ホームレス」の文字だった。

朝日歌壇選者の佐佐木幸綱は、選歌会でそのハガキを目にしたとき、思わず「ホームレスから来てるぞ」と声を上げたという。 

 

 鍵持たぬ生活に慣れ年を越す今さら何を脱ぎ棄てたのか

その二週間後、ふたたび公田の作品が入選した。毎週三千首もの作品が寄せられる競争率の高い朝日歌壇では、それだけでもかなりの快挙である。

 

翌年2月16日、朝日新聞の河合真帆記者は社会面で「ホームレス歌人さん 連絡求ム」という異例の呼びかけを行う。その記事で「ホームレス歌人」公田は、ハガキの消印などから横浜にいる可能性が高いことも明かされた。

 

同じ日の朝日歌壇に、公田はこのような歌を投稿している。

 哀しきは寿町といふ地名長者町さへ隣りにはあり

寿町は、横浜のいわゆる「ドヤ街」である。

終戦のあと、横浜港界隈での仕事を求める日雇い労働者が集まって成立した街だ。

 

呼びかけに応じる代わり、公田はいつもの投稿ハガキに「皆様の御厚意本当に、ありがたく思います。が、連絡をとる勇気は、今の私には、ありません。誠に、すみません」と添え書きをした。

そして、

 ホームレス歌人の記事を他人事(ひとごと)のやうに読めども涙零(こぼ)しぬ

 胸を病み医療保護受けドヤ街の柩(ひつぎ)のやうな一室に居る

という挨拶歌とも読める作品で、現在の境遇を語った。

 

それからも毎週二首、欠かさず公田からの投稿は続けられ、40週で計28首が入選。

朝日歌壇には公田の身を案じ、応援する歌が続々と寄せられ、「ホームレス歌人」は新聞歌壇の枠を越えて、広く世間に知られる存在となった。

 

しかし2009年9月7日、次の一首を最後に、公田の名前は紙面から消える。

 瓢箪(へうたん)の鉢植ゑを売る店先に軽風立てば瓢箪揺れる

 

消息を知る者は誰もなく、入選謝礼品の「はがき十枚」も、朝日新聞宛に送られた「第二回貧困ジャーナリズム特別賞」の賞状も、ついに受け取られることはなかった。

公田からのハガキは例外的にすべて、破棄されることなく、朝日新聞に保管されているという。没となった作品は選者以外には公開されていないため、公田の歌は、その半分以上が、いまだ日の目を見ないまま眠っていることになる。

 

 *

 

『ホームレス歌人のいた冬』は、東海教育研究所が発行する雑誌『望星』に連載されたノンフィクションである。2011年、単行本にまとめられ、2013年には文春文庫になった。

著者の三山喬は、元朝日新聞記者のフリーのジャーナリストである。長く南米に生活し、『日本から一番遠いニッポン』などの著書を発表した。

 

南米から帰国したとき、三山は日本の深刻な貧困問題を目の当たりにし、その切り口として一連の「ホームレス歌人」現象を書こうと思い立つ。

本書は、その取材の記録である。

 

三山はまず、朝日歌壇の選者として永田和宏のもとへ話を聞きに行く。

 

そもそも「ホームレス歌人」は実在の人物だったのか、どうか。

 

永田もはじめは半信半疑だったものの、「温かき缶コーヒーを抱きて寝て覚めれば冷えしコーヒー啜る」などの歌を読むうちに、考えを改めたという。

(永田)「でも、いくつか作品を読むうちに、これはもう間違いない、と確信するようになりました。短歌というものは、ぼやっとしていたら見逃してしまう細部に目を留めて、実感をもってその細部に接する、そういうところで活きてくるものですから、なかなかウソをつけるものじゃないんです」

 

公田は自分と同世代で、幅広い知識と教養をもった人物であり、おそらくホームレスという境遇になってから、自己を表現する手段として短歌を思い出したのではないか、と永田は推測する。

ただし「短歌の評価はあくまで、表現がすべて」であり、内容のインパクトだけで歌が評価されることはありえない、とも永田は付け加えた。

そこに三山は、率直な意見をぶつける。

 歌に詠まれた状況、ましてや、詠み手の立場や肩書は、作品の評価とまるでかかわりのないことだという。私はしかし、現実問題として、公田作品の人気はそうとばかりは言えないと思っていた。少なくとも、一般読者の間では、彼が「ホームレス歌人」だったからこそ、その作品に引きつけられた人が少なからずいたのではないか。

(朝日)歌壇の四十首に選ばれる、そこまでのプロセスでは、作品の質だけが純粋に問われる。それは、永田の言うとおりなのだろう。ただ、いったん紙面に掲載されてしまえば、そこからはまた別の次元の話になる。公田の実力を疑って言うのではない。その「人気」の桁外れの大きさを見るとき、そう思えてならないのである。

 

三山は短歌の「素人」だというから、現代短歌史でときどき繰り返される虚構論争を踏まえたわけではないだろうけれど、かえってそのフラットな視点が、短歌にとって虚構とは何かを問い直しているようなところがある。

 

いよいよ公田の姿を追って、三山は寿町に足を踏み入れる。

本書も、ここからがとても面白い。

 

公田耕一とは、何者なのか。

 

なぜホームレスになったのか。歌を詠み、投稿しようと思ったのか。

その問いを胸に抱き、三山は寿町に通い、思いつくかぎりの人間に取材を求め、歩き続ける。

 

すでに公田の投稿も絶えて一年が過ぎた、2010年の夏のことだった。

 東西約三百メートル、南北約二百メートルの範囲に、百二十軒あまりのドヤがひしめいている。

(中略)

 横切る電線の低さがやけに目立つこの通りには、往来でたむろする高齢者の姿がそこかしこに見られる。路上駐車はしていても、車の通行はほとんどない。その代わり、各ドヤの玄関口には十台、二十台と自転車が並んでいる。
 通り沿いに何軒かある酒屋では、昼間から立ち飲みを楽しむ酔客が路上まではみ出していた。総じてみな、高齢者である。

 

先に寿町は「ドヤ街」だと書いたけれど、現在ここに住んでいるのは日雇い労働者ではなく、多くが生活保護を受給する身寄りのない高齢者である。

時代の移り変わりとともに、寿町もまた、少しずつその姿を変えていった。

そして生活保護さえ受けず、様々な理由でホームレス生活を送る人々もいる。

公田も、そのなかの一人だったはずだ。

 

その一人に、いったいどうしたら、たどり着くことができるのか。

 

公田の名を知る者は、なかなか見つからない。

あるホームレスは「この人は見つからないよ」と断言した。

それもそのはず、著者によれば、「ドヤ街の住人や周辺のホームレスは、顔見知りの間柄でも、本名はまず明かさない。青森出身者なら青森さん、秋田なら秋田さんなどと呼び合っている」のだという。

「ここではみんな、名前を知らずにつき合ってる。下手に教えたら、どこかで借金されちゃったり、ろくなことはないからね。俺なんか、ここにだいたい毎日来てるけど、桜井さん以外、名前がわかる人はいないよ。」

 

誰も身の上を明かさず、通称で呼び合う。公田はそういう世界で生活していた。

 

名前から探すことができなければ、手がかりになるのは短歌だけだった。

 

三山はそこからヒントになりそうなキーワードを抜き出す。

「炊き出しのカレーの列」「親不孝通り」「コイン・シャワー」「説教と引換えに配るパン」「リサイクル文庫」「図書館の地下」「有隣堂(書店)」「ひかり湯」「野毛山とドン・キホーテ」「マクドナルドの無料コーヒー」というように。

 

少しでも公田につながる情報を引き出せないかと、三田はその場所のひとつひとつを探してまわる。

ホームレスの生活に取材しながら、三山は公田の姿を、そこに重ねた。

 体調を崩しこのまま寝込みたき日でも六時に起きねばならぬ

 界隈のどこで野宿するにせよ、朝早く起きなければならないのは同じらしく、スタジアムや関内駅の周辺、大通り公園など、比較的ホームレスが多いポイントでは、一般人の通行が始まる明け方には、野宿者は "寝床" を撤去する。ガードマンからそれを求められることもあるという。段ボールや毛布を植え込みの陰などに納めたあと、日中をどこで過ごすかは人それぞれ。厳冬期や真夏は、冷暖房のある場所にたいていは移動する。公田は、図書館で過ごす時間が長かったようだ。

 

三山は総合労働福祉会館の図書室に行き、公田の歌を見せて回ったが、返ってきた反応は、無言の拒絶、煩わしそうな身振り、そうしたものばかりだった。

公田が読んだと思われる歌集をあたっても、残念ながら収穫はなかった。

 私は図書館で、塚本の『水葬物語』をひもといてみたが、描かれているのは、河口で「ながれくるもの」を待ち受ける「偽ハムレット」だったり、港での「溺死見物人につづく」マダムや僧だったりして、公田の境遇とどう重なるのか、いまひとつピンとこない。ヨーロッパ的な風景を思い起こさせる幻想的な歌集である。

 

誰に聞いても、それらしい人物さえ出て来ず、その足取りをつかむことが、なかなかできない。

ホームレスが食費を削ってハガキや新聞を買うことなどありえないとも言われ、三山は漠然と思い描いていた「公田」のイメージが次第に揺らぐのを感じる。

 もしかしたら、私が、その一連の作品から想像している公田の誠実な人柄も、生身の公田とはズレがあるのかもしれない。そんなふうにも思わざるを得なかった。

 時代という不可抗力のなかで、なすすべもなく底辺へと落ち込んでしまった "純粋な被害者"。当初は何となく、そんな人物像を思い浮かべたものだったが、この街にいると、そんなホームレス像が限りなくリアリティのないものに思えてくる。

 そもそも、公田の短歌に関心を示す人が、この街ではほとんど見当たらないのである。朝日歌壇読者の熱烈な思いとは対照的に、寿の人々は無関心だった。心の奥底を見せようとしない人も多かった。

(中略)

「これだけ暑いと、ドヤから出たくないんだよ。それに、取材なんて煩わしいでしょ。誰だって普通、そう思うさ。だって、ここは寿町なんだよ」

 

しかし、三山は諦めない。

寿町の高齢者が集まるデイケアに行き、三山は、参加者の前で公田の短歌を読み上げるという作戦に出た。

 室内には三十人ほどもいただろうか。結論から言えば、この試みもまた、失敗に終わった。何部かのコピーを卓上に置いても、読もうとしてくれる人はいない。こちらが読み上げる形に切り替えると、最初こそ、何事かと耳を傾けた高齢者たちも、私が二、三首も読むと、能面のように無表情になってしまった。公田の作品には難しい言葉遣いも少なくない。一首ずつ解説を挟むようにしたが、反応は同じだった。カレーづくりに集まった高齢者たちにとって、私は明らかに招かれざる闖入者だった。

「というわけで、こんな歌人を探していますので、何か噂でも耳にしたら教えてください」

 朗読を打ち切って、私はすごすごと退散した。

 

乾いた視線に耐えながら、朗読し、解説までつけて公田の短歌を伝えようとする著者の姿には、胸を打たれる。

 

多くは徒労に終わった捜索の日々の果てに、三山はとうとう「公田」を名乗る人間から電話を受けたという寿日雇労働者組合の職員にたどり着いた。

その職員は「ホームレス歌人」が話題になっていた当時、自発的に呼びかけのビラをつくって掲示していたのだという。

 

そこで三山は驚くべき証言を得る。

公田は「コウダ」でも「キミタ」でもなく、「クデン」だと言うのだ。

 

朝日歌壇の関係者のあいだでは「コウダさん」と呼ばれていたのだが、ハガキに読み方が書いてあったわけではない。

調べると、たしかに横浜には「公田町(くでんちょう)」という町名が存在した。ちなみに「コウダ」や「キミタ」と読ませる地名は、見つからなかった。

 

その電話が本人からのものとすれば、公田は最初から、自分が横浜に生活するホームレスであることを、それとなく明かしていたのだと考えられる。

 

このエピソードから「公田」の正体に一歩迫ることができたのか、それとも謎が増えただけなのか。

 

結論を言えば、それ以上のことはわからなかった。

 

「ホームレス歌人」こと公田耕一との対面は、ついにかなわなかったのだ。

 

 *

 

公田耕一はいま、生きているかのどうか。

それさえも定かではない。

 

投稿がある日いきなり途絶えたため、朝日歌壇で公田を追っていた人々は、最悪の事態も含めて、様々な理由を想像した。

 

本書の最終章で、一連の取材を終えた三山は、ある仮説を立てる。

公田はなんらかの理由でホームレス生活を余儀なくされたものの、おそらくそれは短期間のことで、まもなく寿町で生活保護を受け、ドヤに暮らすようになった。

つまり途中から、文字通りの「ホームレス」ではなくなったのではないか、というものだ。

 

「ホームレス歌人」という先入観を捨て、公田の歌を読むと、明らかに路上生活を詠んだとわかる歌は初期に限られ、それ以降は路上生活とも、ドヤ住まいとも解釈できる作品が多い。

というより、どちらとも読めるようにしか、公田は詠えなかったのではないか、と三山は推理する。

 公田耕一は、やはり真面目な人なのだろう。

 作品でウソをつくことはできなかった。ただ、住居表示だけはいまさら、変えるに変えられずにいた。

 そんな "良心の呵責" が、最後には「公田耕一をやめる」という決断になったのではないだろうか。

 

説得力のある仮説だと僕は思う。

 

 ホームレス歌人の記事を他人事(ひとごと)のやうに読めども涙零(こぼ)しぬ

 胸を病み医療保護受けドヤ街の柩(ひつぎ)のやうな一室に居る

 

そう考えると、先に引用したこの二首の解釈も少し変わってくる。

現在の自分は「ドヤ街の一室」に住むところを得て、もう、読者の方々がイメージするような「ホームレス歌人」は、どこにもいないのです。

ひょっとしたら公田は、そう告白したかったのではないだろうか。

 

どこまでいっても想像の域を出ることはないけれど、僕は公田の歌を読んでから、彼の消息とは無関係に、ずっと気になっていたことがある。

それは、二首目の「医療保護」という一語だ。

 

この言葉、医療や福祉の関係者であれば、なじみがなく、違和感を覚えるのではないだろうか。

 私(三山)は当初、この「医療保護」という言葉を、「生活保護」と同じ意味で受け止めていた。

 宿泊費や生活費と同じように、生活保護の内訳として、医療費もある。公田は短歌の表現上、医者にかかっていることをより明確に示すために、「医療保護」という言葉を使ったのだろう。私はそう思っていた。

 

「医療」を強調したくて「生活保護」の意味で「医療保護」と書くのは、わからないでもないのだけれど、どこか不自然だ。

 

実は、そうではなかったことを三山は突きとめた。

「医療保護」は、生活保護受給が決定される前に医療的な扶助を受けるための制度として存在していた。この言葉も実際に、書類などに用いられていたという。

ここから、公田は路上生活で「胸を病んで」健康を損ない、福祉の相談窓口かどこかで「医療保護」という言葉を知ったと想像できる。

 

ここで重要なのは、ただ一点、「医療保護」が公田の創作ではなかったという事実である。

細かいようだけれど、僕のこの歌への評価は、これで大きく変わった。

 また、私(三山)が短歌の評価に関しては、まったく知識のない素人であることも、読者には違和感を抱かせるかもしれない。
 だが、遅れてではあれ、公田耕一の読者となった素人の感想としてあえて言えば、私自身は、三十六首のなかに、とてつもないインパクトをもって心を揺さぶられた一首、あるいは何首かを見つけたわけではなかった。
 私はただ、感情を抑えて淡々と描写される底辺の日常。その作品の連なりのなかに静かに日々を生き、歌を詠み続ける公田の姿を思い浮かべ、その全体像に、心惹かれるのである。

 

「歌そのものに心を揺さぶれたわけではない」という三山の言葉は、歌人にとって、あまり愉快なものではないだろう。

しかし「静かに日々を生きる姿」を思い、「その全体像に心惹かれた」とは、深く読んだからこそ出てくる感動で、やはり、シンプルな意味で、三山は公田の短歌に心を揺さぶられたのではないか、と思ってしまう。

三山は「素人」だと言うものの、「感情を抑えて淡々と日常を描写している」という批評も、的を射たものだ。

 少なくとも、あの作歌活動中、公田はじっと自分を見つめていた。見つめなければ、歌は詠めない。その一方で、底辺の暮らしから這い上がろうと努力はしたのか。歯を食いしばり、気持ちを奮い立たせることができたのか。その部分に関しては、何とも言いようがない。老いという冷酷な現実も、周囲で考えるほど簡単に打ち破れるものではないだろう。それでも公田は、思考停止や現実逃避という方向に流されはしなかった。
 もしかしたら、だからこそ私は公田に惹かれるのだろうか。
 追い詰められた極限状況から、物理的には抜け出せないとしても、まずは精神的に脱却しようとする。公田の足跡に、そんなものを見出したいと考えていた。

 

「ホームレス歌人」を追いかけながら、三山は自分の姿を重ね合わせていたことに、いつしか気づく。

実はこの時期、三山自身もジャーナリストをやめるかどうかの瀬戸際にいた。

三山は無意識に、逆境にも負けない精神的な強さを備えた人間として「公田耕一」を思い描き、心の支えにしようとしていたのだ。

 

とはいえ、三山は幻の「ホームレス歌人」に、自分の願望をただ仮託しただけではない。

 

三山が公田耕一の正体にもっとも迫った人間なのは、本書を読めば明らかである。

 

寿町を歩き、思いがけない様々な出会いを経て、自分の内面を見つめなおした。

 

三山はジャーナリストの足で、公田の短歌を読んだのだ。

 

第54回 塚本邦雄『茂吉秀歌「あらたま」百首』

永井祐

こんにちは。

今日は塚本邦雄・著『茂吉秀歌『あらたま』百首』(講談社学術文庫)をやります。

 

 

『茂吉秀歌』は、塚本邦雄による斎藤茂吉の秀歌鑑賞のシリーズで、全5巻。(初版は1977年~1987年刊、文藝春秋から)

これはその2巻目にあたるものです。

茂吉の全17歌集を5巻にわたって読んでいく、けっこう長大なシリーズなのですが、

一首ごとに3ページで区切ってあって、まずは読みやすいものだと思います。

どの巻から読んでもいいし、気になる歌のとこだけ読むのもありです。

歌書としての魅力は、なんといっても「一首一首ごりごり読む」ところですね。

この歌のここがすごい、いい、好き、凡庸、わからない、つまらない、とか、そういう具体的な話がメインになります。

あと秀歌鑑賞といっても、塚本さんのウンチクとか雑学とかエッセイ的な要素とか、短歌語りとかいろいろ出てくるので、そういう面白さもある。

 

読んでいると思うんですが、「邦雄×茂吉」って個性の組合せとしてすごく合うんでしょうね。だからこそ鑑賞だけで5巻もある人気シリーズができるわけで。

平たくいうと、斎藤茂吉がボケで塚本邦雄がツッコミのコンビのような感じです。

茂吉はずっと意外性のあるボケをかまし続け、塚本邦雄はそれに一個一個つまずいてつっこんでいきます。

 

わたしはこの本はずっと前、大学生のころに読みました。古本屋の店先の文庫コーナーにさしてあった。多くは絶版なのですが、少し前の講談社学術文庫って、歌書がけっこう入ってたんですよね。だから、それなりに大きな本屋だと『茂吉秀歌』もたぶんふつうに並んでいたのかな。

今は本屋にはないけど、そのかわり僕らにはネットがあります。検索してポチっと押せば100円しないやつが自宅に配送されてくる。

 

では、読んでいきましょう。

『あらたま』は大正十年刊の斎藤茂吉の第二歌集。

なぜ今回『あらたま』にしたか。特に意味はありません。なんとなく。

いろんな評価はありますがとりあえず置いておいて。塚本邦雄は全5巻のうちの1冊を丸ごと『あらたま』にあてているわけで、重要歌集とみなしています。

歌を引きます。

 

ふゆ原に繪をかく男ひとり來て動くけむりをかきはじめたり

 

気になる歌ですよね。「動くけむりを」描く男。茂吉の中ではたぶんちょっとした異色作。塚本さんはこう言います。

 

『あらたま』随一の風変りな、心にくい歌である。もつとも第一印象はさほど鮮烈ではない。

 

何もなささうで何かがある。平凡退屈な一風景でありながら、それ以外の世界と不気味に関る。矛盾だらけの構成で素朴不器用な修辞に見えるが、さて突(つつ)きやうも改めやうもなく、相当したたかな工夫を凝らしてゐることに後で気づく。要するにポーカー・フェイス、もしくは童顔の曲者といつた感じの別格的秀歌と言はう。

 

素朴な歌に見えるが、微妙な均衡の上に成り立っていて、どこかを変えるとそのよさが霧散してしまう。

 

たとへば場所が草いきれのする夏野だつたらもうぶち毀しだ。第一、「動くけむり」は疾風で吹き飛ばされるか、曇天に圧されて地面を這ふかだ。絵を描く「女」でも困る。若ければ歌そのものが軽薄になるか腥(なまぐさ)くなるかだし、老女だとすればあはれが纏(まつは)り、不必要にロマネスクになるだろう。一人でなくて画家が二人以上だとすると、彼らは素人でその辺が騒騒しい。

 

なるほど。このへん、見方がいろいろあると思うんですけど、「動くけむり」を中心にして、「ふゆ」も「男」も「ひとり」も効いている、動かせないというのは僕も同意です。

ところで、

 

「絵をかく男ひとり来て」と言ふが、「かきはじめ」る前から「絵をかく男」すなはち職業としての画家とどうして判つたのだらう。「画家らしき男」の方がより「写生」の義に迫つたらうに。(略)まるで紙芝居の口上や、活動写真の弁士の説明を思はせ、そこにも作者の意図したフモールが漂ふ。

 

この歌の話法は、作中主体の視点にカメラアイを固定するという意味での「写生」の範囲を越えていて、芝居の口上のようだという指摘です。そこに面白味があると言っている。

そして「動くけむり」のよさを力説!

 

「動くけむりを」に落ちつくまでの作者の心中の凄じい推敲は想像に剰(あま)る。「たなびく煙」「上る煙を」「空の煙を」どれを置いても平凡陳腐、見るに耐へぬ。

ところが「動くけむりを」と、中でも更に当然で目立たぬ句にすると、歌は俄然微妙に色めく。戦後のイオネスコやベケットの前衛劇のある幕に現れても決して異質ではない味のある一場面だ。前衛劇とは不用意な例だが、決して並の新劇乃至(ないし)南画風空間には似合わない。洋画そのものからもやや逸(そ)れる。「動くけむり」を描くその一事に哲学的、人生論的に深遠な意味を持たせるのは愚の骨頂だ。

 

 

「動くけむりを」は最高である。わかんないやつは帰れ、みたいなことになっている。

後半はわかりにくいけれど、東洋画とか新劇の空間じゃない、「前衛劇」のセンスなんだ、と言っている。

わたしは「前衛劇」あまり知ってるわけじゃないんですけど、言いたいことはわかると思います。「動くけむりをか」く、といって「哲学的、人生論的に深遠な意味」が一瞬見えそうになるが、しかしそこには何もない、「何もない」ことこそが大事、みたいな感じですかね。

 

どうでしょうか。

一首やっただけだけど、この本の調子、塚本邦雄の読みのトーンはちょっと引用するだけでけっこう出ていると思います。

もう一首いきましょう。

 

草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ

 

斎藤茂吉の代表歌のうちの一首としてあがることも多い高名な歌ですね。

 

確かに『あらたま』のみならず茂吉一代の代表作の一たるを失はぬ。同時に最高作とするには大いに躊躇(ちゅうちょ)する。二句の「よ」なる感歎助詞、結句の命令形祈願、共にやや意外の感がある。咎(とが)める意はさらさらない。むしろ驚きつつ溜息を漏らす。

 

さて何を言いたいのか。

この歌はそもそも読み方に謎があるんですね。たぶん色んな人が言ってきたと思うのですが、草を伝っている「朝の蛍」に、わたしの命を死なしめないでくれ、と呼びかけているのかそうではないのか、が曖昧なのです。

 

「朝の蛍よ」と「みじかかるわれのいのち」の間には一、二字の空白、誦する時は一、二拍の休止を要しよう。「よ」は決して呼びかけではない。従つて当然のことながら、「死なしむな」とはアニミズムの使徒茂吉の心中にある造物主への祈願にほかならぬ。だからこれまた勿論(もちろん)のこと、構成はさらさら倒置法ではないはずだ。

 

倒置法だとすると、「夢夢死なせてくれるな、蛍よ」という意味になって、

 

それではあまりにも感傷に淫する。第一蛍が、お門違(かどちが)いだと鼻白む。

 

塚本さんはこのように「蛍への呼びかけ」説を否定する。たしかに、蛍は短命なはかないものなわけだから、それに「わたしの命を死なしめないで」と呼びかけるのは素朴に考えてちょっと「ん?」となるわけです。

ではこの初句二句はなんなのか。

 

「単に蛍に呼びかけてゐるのではない、自己を含む絶対者に縋る気持だ」との解もあるやうだが、これは更に朦朧化させるだけことではあるまいか。

 

とも言われるのですが、

でも、塚本さんの出す解、「アニミズムの使徒茂吉の心中にある造物主への祈願」もまあ、曖昧さでは五十歩百歩なのかなと思います。

そこで、斎藤茂吉の自歌自注が参照されます。

 

「朝草のうへに、首の赤い蛍が歩いてゐる。夜光る蛍とは別様にやはりあはれなものである。ああ朝の蛍よ。汝とても短い運命の持主であらうが、私もまた所詮(しょせん)短命者の列から免(まぬか)れがたいものである。されば汝とて相見るこの私の命をさしあたつて死なしめてはならぬ(活かしてほしい)、といふぐらゐの歌である。単純に『死なしむなゆめ』とだけ云つたために、これも常識的意味に明瞭を欠き、いろいろ論議の余地もあるわけであるが、ここは直観的に字面に即して味はつてもらへばいいやうである」

 

この自注もなかなかすごいですね。

曖昧ではあるだろう、ここは一つ「直観的に字面に即して」読んでおいてほしい、と。

塚本さんは「私は理解に苦しむ」と言っています。

けっきょく、誰もよくわからない。蛍に「わたしの命を死なせないでくれ」と言っているような、でもそれでいいのか・・・というところで関係者全員がさまよっている。しかしながらその状態のまま、この歌が傑作であるというところでは同意が取れている。

 

作者は必ずしも、自作の良き読者でも鑑賞者でも、まして批評家でもない。時によつては自分の傑作の、その核心のありかにさへつひに気づかぬ天才はゐるものだ。それでよい。

 

と最後にしめられます。最初の「咎める意はさらさらない。むしろ驚きつつ溜息をもらす。」というところに帰ってきた感じです。

 

この自歌自注はよく参照され、「こんなにいい歌を作っておきながら、作為はありませんみたいな顔ですっとぼけやがって。くっそおおお」みたいなやり取りが、シリーズを通してしょっちゅう出てきます。歌が弱い場合は、塚本さんの口調はもっと辛辣になる。

斎藤茂吉の不可思議さっていうのも、この本を読むとやっぱりすごく浮かび上がってきますね。

 

私は『赤光』以上に、殊更に辛辣な舌鋒を弄した。それがこの作家への畏敬の念の、私流の発露である。

 

濃い世界です。入れる人にはかなり楽しいシリーズだと思います。

ぜひ。

 

第53回 佐藤通雅『岡井隆ノート 『O』から『朝狩』まで』

 岡井隆の初期とその時代について  堂園昌彦

 

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こんにちは。堂園です。

 

今回で「短歌のピーナツ」開始1周年。にも関わらず、更新遅くなって本当にすみませんでした。

 

さて、今回取り上げたい本は、佐藤通雅さんの『岡井隆ノート』です。佐藤さんは「短歌のピーナツ」第1回で取り上げた『茂吉覚書 評論を読む』と同じ著者の方ですね。開始して1年で、第1回と同じ人に戻ってきたわけです。この本は2001年に、佐藤さんご自身の「路上発行所」から自主出版されています。

 

通常の流通に乗っていないせいか、今回amazonのリンクがありません。ただ、本は佐藤通雅さんご自身のホームぺージから購入できるようです。お読みになりたい方は、そちらからぜひ。

 

rojyo.net

 

で、今回の本なんですけど、テーマはタイトル読んでわかるように「岡井隆」です。ご存じ、現代の最メジャー歌人。その第0歌集~第3歌集までを扱っています。岡井さんは賛否両論・毀誉褒貶あるのはたしかですが、いずれにせよ戦後の現代短歌を代表する歌人なのは、間違いないと思います。

 

ただ、岡井隆が「すごい歌人」なのはある意味常識なのですが、恥ずかしながら、私自身は岡井隆がどう「すごい」のか、いまいちピンと来ていませんでした。いや、わかるんですよ、重要さは。でもなんというか、肌感覚ではわかっていないというか。

 

しかし、こういう感想の方、実は意外と多いんじゃないかと思っています。

 

前衛短歌の三人衆といえば、塚本邦雄寺山修司岡井隆ですが、このなかで岡井さんが一番わかりにくいです。なんというか、「岡井隆」というイメージの核を捉えにくいんですね。こう、人に説明しにくいというか……。

 

それには理由が二つあります。まずひとつめは、岡井さんが、作風をどんどん変えまくってきたからです。

 

アララギっぽかったかと思えば、前衛短歌の象徴的な文体を確立したり、かと思えば、また「私」に還ったり、記号を試したり、口語になったり、和語を取り入れたり。現在に至るまで、短歌のあらゆる文体・技法を次から次に試行している印象があります。当然、そのイメージはころころ変わりますから、「これが岡井隆だ」と言いにくい。と、ともに実人生上でも、いったん全てを捨てて九州に行ったり、批判をしていたはずの歌会始の選者になったり、表面的な思想信条もまるで変節しているかのように見えますから、昔からのファンもどんどん振り落とされていきます。

 

この本の著者の佐藤通雅さんは、そんな岡井さんの性質を「緑騒の歌人」というフレーズで説明しています。大きな樹が風に吹かれて自らの幹を揺らすように、岡井さんは留まっていると、いつか我慢ができなくなり、周囲と自分を大きく揺さぶるのです。そして、次の「岡井隆」へと移って行く。それが、岡井さんの特徴だ、と佐藤さんは言います。

 

 そういえば岡井隆自選歌集『蒼穹の蜜』(沖積舎)の冒頭歌は、

 

  薄明の空に青葉を吹き上ぐる栗一本(ひともと)が見えて久しき

 

だ。夜明けの空に栗の木が立っている。その青葉が風にあおられて、速度はゆっくりながら内部からつき動かされるような様態をみせている。まだある。

 

  一本の杉の怒りを見て立てば緑揉まれて生きたきものを

  そよかぜとたたかふ遠きふかみどりああ枝になれ高く裂かれて

 

 それぞれの歌における位置はちがっても、「緑揉まれて」「たたかふ遠きふかみどり」は形象としては同じだ。つまり、内部から湧く力によって大きくうねり、かつ振幅する緑がイメージされる。これを仮に「緑騒(りょくそう)」ということにしよう。岡井隆が緑騒のイメージを好んで使ったのは、ほかならぬ〈表現者〉としの(ママ)内部の喩たりえたからだ。(p.13,14)

 

なので、追っていくのは面白いけれど、統一したイメージをつくるのは大変。それが、岡井隆なのです。

 

そして、ふたつめは、岡井さんの初期である「政治の季節」が今では見えにくくなっていることです。

 

前衛短歌が活躍した1960年代は、安保闘争に代表されるように、日本が政治的に揺れた時代でした。岡井さんの当時の作品は、こうした政治状況に文脈を大きく依存しています。

 

具体的にはたとえば、

 

海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ  『朝狩』

 

などは、当時の日米安保条約のことを詠っていて、日本とアメリカが条約を結ぶことを男女の結婚に喩えていますが、そういうことが今ではピンと来づらくなっています。

 

同時代の塚本邦雄寺山修司は、同じように政治状況が背後にあっても、その作風に多分に抽象的なところがありますから、現在でも内容を感受しやすい。しかし、岡井隆の作風は、時代時代の状況に文脈を依存している割合がかなり大きくて、元の〈事実〉がわからなくなると、理解がしづらくなるのです。

 

そういった感じで、私はちょっと苦手だった岡井隆の初期作品ですが、今回の本読んで、かなりピンと来ました。めっちゃ面白かった。なんでピンと来たかと言えば、それは、著者の佐藤通雅さん自身の体験として、「岡井隆がどうすごかったか」を熱く、かつ丁寧に、語ってくれるからです。

 

佐藤さん自身の岡井体験を引用しましょう。

 

  〈あゆみ寄る余地〉眼前にみえながら蒼白の馬そこに充ち来(こ)よ

  肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は

  真夏の死ちかき胃の腑の平(たいら)にはするどき水が群れて注ぎき

 

(略)

 

  これを出だしに全篇を、くり返しくり返し、ほとんど暗唱するぐらいよんだ。いきおい、駆け出し歌人の自分はもろに影響をうけて、いまみれば気恥ずかしいばかりの模倣を重ねている。

 当時の私がもとめる短歌とは、まず思想詩でなければならなかった。芸とか趣味の範疇から毅然と立ち上がり、文学として、思想詩として存在しうるもの。しかし、形式美を犠牲にしたプロレタリア系の作品には引かれるところがなかったから、思想があればいいというわけでもない。短歌としての美質もそなえることは、必要な条件だった。これら両者を兼ね備えることは、はたして可能か。私のみとおしは明るくなかったが、もしこれが不可能ならもはや短歌をやる理由が、少なくとも私にはなかった。

 こういう問題意識にこたえてくれた数少ない歌人が岡井であり、『朝狩』である。(p.395,396) 

 

佐藤通雅さんは、六〇年安保闘争の終焉した翌年の1961年に大学に入りました。ひとりの政治青年であった佐藤さんは、大学3年生のときに出版されたばかりの岡井隆第3歌集『朝狩』を読んで衝撃を受けます。短歌でこんなふうに思想を詠うことができるのか、と。それから、遡るように第2歌集『土地よ、痛みを負え』、第1歌集『斉唱』と読み、それ以来、ずっと岡井隆が気になり続けている、といった感じだそうです。

 

佐藤さんは、「政治の季節」に没入したひとりの青年として「短歌は思想詩でなくてはならない」という思いを抱え、その思いがあまりに強すぎたため、数年の間、短歌を断念してしまうほどだったのですが、そんな時代と個人の状況の中で岡井隆は、佐藤さんの中で、ずっと重要な位置を占め続けていたようです。

 

要するに、当時、岡井さんがどのようにヒーローだったのかがよくわかる。しかも、当時の政治的な状況や文学的な文脈も、丁寧に記述してくれ、かつ現在から冷静な分析も忘れない。このブログの第一回『茂吉覚書 評論を読む』でも見せていた、複数の要素に目配りを利かせる佐藤さんの公平さはほんとすごいです。結果、個人史と時代が切り結ぶ点において岡井隆がどう輝いていたのか、読者は深く納得できる。そう、この本、めちゃくちゃ熱いです。

 

佐藤通雅さんの「考えながら書く」というスタイルは、基本なんですけどかなり独特でもあって、啓発されるというのかな、読んでいくうちに自分の中にも〈問い〉がどんどん生まれていきます。

 
さらに言えばこの本、書かれるのに約10年間かかっています。冷静かつ丁寧な分析を、こつこつと粘り強く、真摯に続けた結果がこの本なのです。

 

なので、今回はいつもにもまして、ぜひ元の本を読んでいただきたいですね。要約しちゃうと、この感触がいまいちお伝えできないんで。どうぞよろしくお願いします。

 

 

はい、というわけで、岡井隆の短歌のスタートからたどっていきましょう。まずは初期歌篇の『O』(オー)から。

 

この歌集は出た事情が少々特殊で、独立して出版されたものではなく、元々、1970年に編集を終えていて、1972年に思潮社から『岡井隆歌集』が刊行されたときに、そこに収録されたものです。

 

1970年というのは、岡井さんにとってどういう時期だったかというと、全てを捨てて九州に逃げたときですね。有名な事件で、ウィキペディアの記述をそのまま書くと「北里研究所付属病院の医師として勤務していたが、1970年の夏に辞職して20歳ほど年下の愛人女性と九州に隠遁、あらゆる文学活動を停止した」年です。要するに、短歌やめちゃった年。その5年後まで岡井さんは歌壇から離れていました。だから、1972年に出たこの本にも、もう総決算のつもりで初期の歌まで載せたみたいです。なので、「初期歌篇」とはいえ、もう「岡井隆」という名が知れ渡っている頃に読者が目にしたもの、ということになります。

 

まず、岡井さんが短歌を始めたきっかけから。それは、名古屋アララギ歌会の中心人物である父・岡井弘の影響が大きかったみたいです。敗戦後、昭和20年のときです。

 

 昭和20年10月、疎開して鈴鹿山脈の麓の村、高角(たかつの)は字西野在に居た。湯の山線の途中の村である。遠縁の親類の農家の離れに、父母弟妹と五人暮しであった。部屋には父の蔵書の歌集・歌書の類が山積みされていた。

 旧制高校は敗戦のショックで臨時休校していて、開講通知が来るまで自宅待機をしていたのだった。ひまをもてあましていたのと、眼前の歌書の山が結びついて歌を作らせた、といえば、動機の一番素直な説明になるだろう。

 

『O』の前書きで、岡井さん自身はこう言っています。そして作られたのが次のような歌。岡井隆の最初期、気になりますね。

 

暁の月の寒きに黒き松の諸葉(もろは)は白きひかりを含む  岡井隆

西の辺の山脈(やまなみ)の前に雲しづみ高嶺(たかね)むらむらと立てる見ゆ夕べは

 

はい、どうでしょうか。やっぱりアララギっぽいですね。これらの歌を読んだ、岡井隆の大ファンである佐藤さんの感想はこちら。

 

私は唖然とした。なにに唖然としたのかといえば、あまりの凡庸さにである。(p.33)

 

あまりの凡庸さに唖然とした! わお! 

 

でも、確かに……。あの、ひと言でいえば「地味」ですよね。十七歳なのに。

 

一九四五(昭和20)年、十七歳の日の作品だ。一言でいえば、まるで若さがない。(p.34)

 

ちなみに、前衛短歌の雄、寺山修司と春日井建は、同じくらいの年齢で、こんな歌を作っています。

 

とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を   寺山修司

わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり  春日井建

われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり

火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり

 

 

わー、名歌! この二人、短歌作り出していきなりこの完成度ですからね。確かに、それに比べれば、岡井さんの十七歳の歌は、「地味」です。

 

当時の岡井は、短歌の前線に身をおく文字どおりの旗手だった。そして私をふくめた若い連中を鼓舞する第一人者でもあった。だから、彼の文学的出発にも、寺山や春日井に比肩しうるものがあったろうと、いつかしら勝手に想像していた。この思いこみが転倒されたので、唖然としたのである。(p.33,34)

 

佐藤さんもこう言っています。私たちは、寺山や春日井にあったような輝かしさが、岡井隆の始まりにもあったのだろうと期待してしまいます。それが覆されるのが、この初期歌篇『O』です。

 

しかし、続く記述で、この寺山・春日井と岡井の違いには理由がある、と佐藤さんは言います。

 

岡井が寺山や春日井のように天才的に出発できなかったのには、時代条件のちがいがあるのではないか。それは解き明かしておくべきことだろう。第二に、「アララギ」からの出発がまったくの偶然によるとはいえ、そこを〈故郷〉にしてしまったことの意味は小さくない。(p.36)

 

寺山・春日井と岡井隆では、時代条件が違う。3人の生年と敗戦時の年齢を比べてみましょう。

 

岡井隆 1928(昭和3)年1月生 敗戦時17歳

寺山修司 1935(昭和10)年12月生 敗戦時10歳

春日井建 1938(昭和13)年12月生 敗戦時7歳

 

つまり、先ほどの歌を作ったのは、岡井さんは戦後すぐ、寺山・春日井は戦後だいたい10年くらい経ってからです。ここの違いに注意してください。

 

社会の激動期では年単位で体験も異なるから、この差は決定的ななにかである(もちろん、岡井がほんの微差で戦争にいかなかったことも、近藤芳美のような戦中派と比して決定的ななにかである)。岡井は直接的戦争体験をもたずにすんだ。が、少年期から思春期にかけて、文学的にみれば砂漠の時代をすごした。それに対して寺山・春日井は少年期に戦争時代と遭遇しながらも、思春期は全的開放に近い文化状況に生きることができた。彼らの初期歌篇のきらめきは、その空気を存分に吸うところに成立した。しかし岡井は文学的禁忌の時期をもち、そのため出発はおくれた。やっと禁忌から解放されたとき、流派、作風の選択のゆとりはほとんどなかった。とりあえば、手のとどくところにあるものなら、どれでもよかったのだ。(p.42)

 

岡井さんの戦時中は、文化的なことがらがほとんど禁止されていました。「歌はおろか、一切、文学的なものとの出会いは、禁じられていたにひとしかった。」と本人は言っています。

 

それが、敗戦後、ようやく文化的なものに触れることができるようになった。その喜びは計り知れないものです。「敗戦がもたらした開放感というのは、上述のような暗うつな小中学生活をして来たものにとっては、たとえようのない〈ざまあみろ〉であった。」「そのころのわたしにとって、歌は、人間の回復のシンボルだった。」という言葉の通り、岡井さんは喜びながら、身近な形式である短歌を書いていきます。その際、歌を作ること自体が喜びですから、表したいことがあったわけではなく、ただただ喜びとして詠んでいきました。文体に関しては、精査する気持ちもなかった。言ってしまえば〈手近な〉アララギの文体でかまわなかった。そういう事情から、こうした文体を選んだと言えるでしょう。

 

ここらへん、戦時下の窮屈な空気の中、呉の軍港で働きながら、その苦しみを紛らわすかのように短歌を求めた塚本邦雄の作歌初期と比べてみるのも面白いかもしれません。

 

karonyomu.hatenablog.com

 

 

しまし夕の光をあみて声あぐる百舌鳥(もず)は尾を強く振りめぐらしぬ  岡井隆

布雲(ぬのぐも)の幾重(いくへ)の中に入りし日は残光あまた噴き上げにけり

 

私はさきに凡庸さに唖然としたと書いたが、それは自分自身が前衛短歌のほうに引かれる駆け出し歌人だったからである。「アララギ」に代表される写実歌はもう旧物だという思いこみもあった。しかしそういう先入観をおさえてこれら一連をみると、とても凡庸どころではない。先行する歌人を模するところ大だったとしても、摂取のすばやさは並ではない。「しまし夕の光をあみて声あぐる」「布雲の幾重の中に入りし日は」こういうことばづかいは、とても十七歳とは思えぬ老成ぶりだ。(p.40)

 

そう考えて岡井さんの初期作品を読むと、たしかに異様に「うまい」のです。そしてこのうまさは、岡井さんが自身の内部の感情に手が届く言葉をいまだ手にしておらず、もっぱら技法の洗練のみにエネルギーを費やしていたからだ、と佐藤さんは言います。

 

もっとも、この年齢の精神的内部は、写実歌、とりわけ自然詠のわくにおさまりきれるものではない。自分の処理能力を超えるまでに、感情も観念も過剰なのだから。そういう内部にとどくことばをいまだ手にしていない。いうなればエネルギーは空転しているのであり、空転の代償行為として技法が練磨されているともいえる。(p.40) 

 

ということは、ことばがかならずしも自己内部を通過していなかったことを意味する。引用したどの作品もうまいにはうまいが、十八の年ごろでこんなに老成していたとは……という感想は、内部とことばの格闘以前の、表層性に起因する。表層をすべるとき、技法の練磨に走るのはどんな時代でも同じことだ。(p.52) 

 

ここらへんの話はよくわかりますね。私、以前、「堂園食堂」という歌人インタビュー番組で、「よけいな才能のない人間は、成長が早い」という漫画『蒼天航路』の曹操のセリフを引用して、同じような話をした記憶があります。

 

だいたい作歌の演習期というのは、先行する歌人の模倣にはじまり、しかも何人もの歌人を〈はしご〉していく。そのなかからなにものかを奪取し、自分自身のものを創るにいたったとき、はじめて一人前といわれる。この演習期の作品は技法として冴えることがしばしばある。本人の才能もあるが、先行する歌人の苦労して築きあげたのを、無傷のまま借用するからだ。(p.47) 

 

そうなんですよね。人はまず模倣から入るから、先達が作った技法をまんまパクることができ、結果、すぐにうまくなる。投稿とか、結社への出詠でも、まず初めはけっこう褒められます。しかし、そこからだんだんと自分の言いたいことや自分の文体を見つけてくると、技法をいちから作らなければいけませんから、一旦「へた」になり、ひとからは批判され、自分でも上手くいかない感触が出てくる。その期間を通り抜け、自分の文体と馴染んできて、ようやく一人前の歌人になるのです。

 

また、一般的に「言いたいこと」があると、歌は「へた」になります。「言いたいこと」がない方が、技法に集中できるからです。

 

なによりも現在私たちが立ち合っている時代がそうで、二十代歌人の歌のうまさを日々みせつけられているといってもいいほどだ。それは思想が主要テーマとして成立しにくくなったことにも関係する。切実な思想をかかえ、それをモチーフにして作品を作ろうとするとき、ことばは難渋せざるをえない。内部とことばはまさに格闘するのであって、共存・調和は容易ではない。だからこういう時代の歌は〈へた〉である。洗練されたところがなく、ごつごつしたこぶがあちこちにみられる。一九六〇年代前後の作品群はそうだった。『土地よ、痛みを負え』も〈へた〉な作品で充満している。しかしこの〈へた〉には熱さと重さがある。文学にとって〈へた〉はかならずしも否定用語ではない。だから〈〉を付けたのである。ところが思想という切実さが薄れていったとき、歌は内部との格闘をやめて技法の練磨へと傾斜していく。そうしなければ渇を癒せないかのごとく、技法へと疾走する。それが現在の若い歌人の歌のうまさの根拠だ。(p.52) 

 

ちなみにこの文章が書かれたのは、1991年です。「現在私たちが立ち合っている時代」「二十代歌人の歌のうまさ」は、今・2017年のことではないことには注意してください。ちなみに、1991年ぐらいの20代の新人賞作家を挙げると、

 

角川短歌賞

第36回 1990年 「キャラメル」田中章義

第37回 1991年  「横断歩道(ゼブラ・ゾーン)」梅内美華子

 

短歌研究新人賞

 第33回 1990年 「ようこそ!猫の星へ」 西田政史

 

ぐらいの時期でしょうか。加藤治郎穂村弘水原紫苑荻原裕幸たちニューウェーブの世代がちょうど30歳になるかならないかぐらいです。

 

ただまあ、大きく見ると、今現在でもこうした傾向は続いていると言えるかもしれません。

 

そんな感じで初めから異様に摂取が上手かった岡井隆は、やはりお父さんの影響で「アララギ」に入会します。1946(昭和21)年 1月、18歳のときです。そして、アララギでも、次から次に、先人たちの歌を模倣していきます。岡井さん自身の言ではこんな感じ。

 

 昭和二十一年というと今から十七年前になるが、わたしは十八歳の若もので、斎藤茂吉→山口茂吉→佐藤佐太郎→柴生田稔→土屋文明吉田正俊→近藤芳美といった大体の順序で、一人につき約三月間位ずつ熱中し模倣し、つぎつぎに愛を移していったのであった。(岡井隆土屋文明とその一派」『戦後アララギ短歌新聞社) 

 

三か月ずつくらいってすごいですね。とにかくこの時期は、岡井さんにとって技法を吸収していく時期だったと。

 

ただ、当然、それだけでは満足できなくなっていきます。

 

初期の段階で自然詠に集中したのは、とにかく作歌するというだけで自己充足できたからだが、やがてはあきたりなくなる。内部を通過することばをこそ欲するようになる。その段階で出会ったのが文明から近藤への路線だった。(p.55) 

 

アララギの文体をどんどん摂取し、その中で自分の言いたいことが芽生えてきた岡井さんが最終的に出会ったのが、土屋文明、そして近藤芳美でした。「『O』はじめに」で自身でも「茂吉への傾斜がなかば崩れつつ、土屋文明とその一派の作品模写へと移行するあたりで、この章は終っている。」と書いています。

 

 内部を通過しないことばに満足できたのは解放感を得た瞬時であって、やがて重い内部とことばの隔絶に気づくようになる。この段階にきて、近藤芳美にはじめて引かれていった。(p.53) 

 

岡井さんが近藤芳美に惹かれたのは、あとで詳しくやりますが、その歌の知的な態度ゆえでした。歌を始めたばかりのころは、戦後の解放感から単に眼前の自然を詠むだけで喜んでいたのですが、次第に、ひとりの青年として時代状況に関わっていこうとしたときに、近藤芳美の文体が岡井さんの目の前に現れたのです。

 

友もいらず導者もいらずただ素直なれよ日向(ひなた)の黄なる土に伏すなり

 しばし黄にてりて読めなくなる活字指ねばねばとよごれてゐたる

 怒りにも悔いにも疲れて記憶力遊戯しぬそして眠れぬ闇ありき

 やすやすと国を説く彼等を考へゐる中(うち)汗落ちて机のニスが匂ふよ

 

『O』の最後らへんの歌は、こんな歌。単純な自然詠から、なにか自分の内部を探っていこうとする傾向が見られるようになってきました。文体も、自然詠の滑らかだった「うまい」文体から、どこかごつごつして「へた」になってますね。

 

自覚的な実作者であればたいてい経験することだが、どんなに歌の技法を模倣し磨いてきても、青年期の過剰な感情や観念のまえにはとても太刀打ちできない。作っても作っても自己の真実とほど遠いことばの群に焦燥し、失意する。その疲労のはてに短歌を断念してべつの表現形式に去るひとも少なくない。もちろん他へ移ったからといって救われるわけではない。が、伝統詩型に残ることは小説や詩とは異なった煩悶を天刑のように負うということなのだ。負うことによってなにを奪取するかこそが歌人の課題だが、その探求は歌論・歌人論の永遠のテーマだろう。『O』はちょうど関門にさしかかったところでおわっている。ここをくぐったら煉獄が待っているという境目である。その意味で『O』は至福の歌集といえる、煉獄の苦しみ以前の蜜月時代なのだから。(p.56) 

 

というように、「煉獄にさしかかった」ところで、初期歌篇『O』は終わります。

 

 

はい、第0歌集の『O』には、アララギ文体を巡り巡って、最終的に近藤芳美にたどり着く、という岡井さんの一番初めの道程が記されていました。

 

そして、続く第一歌集、岡井隆のデビューである『斉唱』は、いかに近藤芳美の影響下から脱却していくか、という歌集となっていきます。燃えますね。

 

『斉唱』には、約十年間、昭和22年、19歳から、昭和31年、28歳までの作品が収録されています。

 

『斉唱』の最初の連作、「冬の花束」ですが、1947年から1952年の5年間の作品です。19歳から24歳。この間、岡井さんの環境はいちじるしく変わりました。1950年に、郷里を離れ慶應医学部に入学し、翌年51年に近藤芳美が「未来」を創刊し、そこに加わっています。

 

休講となりて来てみるこの草地銀色の蟻今日も草のぼれ

音ひとつ玉虫掌(て)より立ちゆきぬ疎まれながら午後もあるべし

 

冬の花束」冒頭の2首。佐藤さんはこう言っています。

 

これらが『O』に膚接し、かつ近藤芳美の影響圏内にあることはすぐみてとれる。(p.65) 

 

たしかに近藤芳美の影響があるのはわかる。しかし、同時期に岡井隆は評論で、

 

因みに言うが、「未来」の僕らは芳美の全歌集を、も一度読み返すとよい。芳美からの影響とその模倣とに苦しむ者は、自分が一体芳美とどんなに異るか思い見るがよい。

 

と書いています。自覚的に近藤の影響下にあるのを認め、そこからなんとか脱しようとしていた、ということでしょう。

 

1952年に岡井さんが書いた近藤芳美論には、こんな言葉もあります。

 

既に単なる感性的なリアリズムを超えて感覚の俊敏よりも知的裁断の鋭利が問われる。実感に即すより、その実感を常に見はりつつ断ち割って行く思考過程が韻律化される。僕らはこの種の作品をやはり戦後の近藤芳美に沢山みてきた。(p.75) 

 

赤彦や茂吉が山川草木を相手に磨いた「感性的リアリズム」の技法の延長に、佐太郎や芳美もある、そしてそのひとつのピークは佐太郎の『歩道』だが、近藤芳美の『歴史』にはそれと違った「知的裁断」がある、と岡井さんは見ていました。

 

これらによるなら、「アララギ」の諸先達を駆け足で巡ったのち、感性的リアリズムではない方向に岡井は歩み寄っていった。「感覚の俊敏よりも知的裁断」が問われるというのは、作品の基盤に思想が、歴史観がなければならぬからだ。それを近藤芳美にみいだし、青年歌人たちは熱く呼応していったのである。(p.75) 

 

ここらへんけっこう難しい話になってるんですけど、平たく言うと、戦前までは自然を見て思ったことを言ってれば歌になってたけど、そんな単純な考えゆえか、戦時中は戦争に加担しちゃったりしてしまった。だから、戦後はもっと思想や歴史観のある歌じゃないとダメだと、そういうことでした。そのときは、日本中がそんな感じだったんですね。有名な「第二芸術論」も、まあ、そういう話です。

 

戦後を青年として生き、かつ表現しようとする岡井の位置を、私たちはこれらによって知ることができる。単なる感性や実感はもはや意味をなさない、歴史を生き、変革するという観点が基盤になってこそ新しい表現は可能になる――この熱気が評論の隅々にはある。(p.75) 

 

そんななかで、岡井さんの歌はこういう感じでした。

 

帰独せぬ亡命作家の一群を歯切れよき言葉重ねつつ責む

忽ちに舗道かがやく夜の雨《魯迅》探してゆく街々に

死にて還りし軍夫の数を争いてとぎれとぎれの軍裁ニュース

捕われし者を英雄視する声さびしく聞きて幾週を過ぐ

 

政治的な熱さが背景にあるのは、すぐにわかると思います。しかし、これには危うさがあって、佐藤さんが指摘しているように、「〈事実〉にあまりにも依拠している」ということ。政治的状況への真摯な問いかけがあるけれども、あまりにもそれに拠っていないか、ということです。

 

ちょっと脇道に逸れますが、現代の若い歌人たちと、この当時の「熱い」作品とを比べた佐藤さんの文章を引用します。

 

現代の青年歌人の作品に対して、歯ごたえがないとか好き勝手すぎるとかいう悪評は折々向けられる。現象としてみればそのとおりなのである。にもかかわらず、時代や世界の輪郭がはっきりしていた条件下の作歌と比してそういうのなら、「待った」をかけざるをえない。輪郭が外部にあり、それに対応することなしに生きえない時代には、ことばもまた相応の輪郭をもつ。しかし逆に世界が遠のき、しかとした手ごたえがなくなれば、ことばの輪郭もまたくずれていく。その分、自分で模索しなければならなくなる。つまり、自分たちの立ち合った時代に応じて新たな課題を負い、抗うのであり、その意味では過去も現在も対等だというべきだ。現在の若い歌人に手ごたえ・歯ごたえのなさを感じるのは、ことばがいままでの〈根〉を失って浮遊せざるをえないからである。〈根〉とはなにかといえば、地上性ということだ。リアリズムにしてもロマンチシズムにしても、短歌は(あるいは文学は)作歌主体が地上にいて、そこから対象を〈みる〉ことによって生まれてきた。ところが現在、そういう視線はすでに古典的になっており、主体をはなれた目はいくらでも可能である。しかもたとえば宇宙衛星をとおしてみた映像のほうが、あるいは電子顕微鏡でとらえたミクロの世界のほうが、肉眼よりはるかに〈真実〉だと感じられている。(略)このような時代に遭遇したことばが従来の〈根〉を失うのは当然である。しかしだからといって、浮遊することばの群がすべてすぐれているわけではない。(略)このことを逆に、世界の輪郭が明確にあれば、そこに向けて放たれる直球(ことば)がすべてすぐれているか否かと問うこともできる。いうまでもなく、否、である。直球が剛速球になればなるほど、欠落させるものも多い。(p.80,81) 

 

「つまり、自分たちの立ち合った時代に応じて新たな課題を負い、抗うのであり、その意味では過去も現在も対等だというべきだ。」このような言葉が、佐藤さんのバランス感覚だと思うんですよね。こういった感じの言葉、佐藤さんの評論にはよく出てきます。両論併記でありながら、元の位置に戻るのではなくて、螺旋階段みたいに考えが先へ進んでいる印象がある。そして、切るべきところは切る。だから、読んでてほとんどいらいらしません。いや、ほんと面白いですよ、佐藤通雅さんの評論。

 

話を戻すと、次に『斉唱』の第二番目の連作、「二つの世界――愛と死を周って」を見ていきたいと思います。岡井隆、24歳から27歳の歌です。冒頭の歌はこれです。

 

灰黄(かいこう)の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ  岡井隆

 

有名な一首。佐藤さんはこの歌を絶賛してます。「私はおどろく、かくまですぐれた一首がいきなり出てくることに。」と。

 

さてそれならば、どういう意味において衝撃的なのか。「アララギ」の系譜と近藤芳美の方法を超脱する糸口が、ここにいたってはっきりとみえてきたのだ。(p.105) 

 

おっ、ついに、「「アララギ」の系譜と近藤芳美の方法を超脱する糸口」! 待ってました。佐藤さんは、連作中のその次の歌と比べています。

 

  果肉まで机の脚を群れのぼる蟻を見ながら告げなずみにき

 

 机のうえに果物がある。甘い汁をもとめて蟻がのぼっていく。その景をみながら、君に愛を告げようとしてどうしても逡巡してしまうという。たぶん岡井自身の経験をしたじきにしているだろう。その点では「アララギ」の手法である〈事実〉にのっとっている。しかし〈事実〉の再現に満足せず、作者主体を立てようとしている点では近藤に親和している。この作品の到達点はそこまでであり、つぎの一歩をどう踏み出すかをなずんでいるのは岡井自身にほかならない。(p.105) 

 

なるほど、なるほど。この歌はアララギの方法とその延長線上である近藤芳美の方法まではたどり着いているが、そこまでだと。そして、それに比べて、

 

  灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ

 になると、「アララギ」からも近藤からもみごとに超脱している。「愛恋」は〈事実〉の尾を断ち切って、ある普遍を獲得している。しかも上句と交響してダイナミックな世界を造形している。(p.106) 

 

ということだそうです。つまり、〈事実〉から出発して(=アララギ的方法)、その〈事実〉に対する主体の知的な態度を示す(=近藤芳美的方法)にとどまらず、その先の、一首を普遍的なところまで届かせている、ということでしょう。前衛短歌の得意とする「象徴的方法」と言ってもいいかもしれません。

 

「灰黄」一首は、跳躍を宣言した最初の記念碑的作品だ。彼は、私的状況すなわち〈事実〉、もっと普遍的にいって〈実体〉から生じたことばを、観念の世界に超脱させる方法を手に入れたのだ。さらにべつのいいかたをすれば、〈事実〉によりかからないで、ことばでたたかう方法をしかととらえはじめた。(p.111) 

 

〈事実〉で終っちゃうと、戦前と一緒なんですよね。それに対して岡井さんたちの世代は、もっと思想を詠いたかった。そのための技法として、「観念の世界」へと行く方法を見つけた、とそんな感じでしょうか。

 

 岡井隆のみならず同時代の青年歌人は、「アララギ」を正統とする作風に批判を向けた。傍観的にまた求心的に時代をとらえる姿は、後退そのものにしかみえなかった。いま自分たちに必要なのは、身をもって新しい思想を生きることだった。批判的リアリズムにイメージしているのはまさにそれであって、作歌主体の存在しない歌は認めるところとはならなかった。必要なのは〈みる〉ことでなく、主体を先立てて〈生きる〉ことだった。(略)

 だが、ここまでならすでに近藤によって達成されている。そして青年歌人たちの先鋭的な部分は、近藤にあきたりなさを覚えていた。そこには当然ながら、大きなジレンマが生じた。なぜなら近藤にあまりにも熱く呼応したにもかかわらず、自分らが先鋭的になればなるほどその限界もまたはやくみえてしまうからだ。(p.116,117)

 

 

近藤芳美は、戦後の青年たちに期待されていましたが、同時に青年たちは、その方法にあきたらなさも感じていました。近藤芳美はぬるいんじゃないか、とそういう話です。

 

 この経緯を、田井安曇の「「アララギ」の系譜と作風」(『現代短歌考』不識書院所収)にみておく。「未来」創刊に集まった一群を、「芳美がいなければ歌など作る気にもなれなかった若者、また芳美がいなければ短歌を捨てていたにちがいない若者」といういい方をしている。私もまた「岡井隆らの前衛歌人がいなければ短歌を捨てていたにちがいない若者」だったから、この事情はよくわかる。田井はこのエッセイで「アララギ」の系譜をたどりながら、近藤の出現の意味を「戦中の体験から政治という概念を付加して独自の思想詠、時事詠の世界を切りひらいた」ところにみている。しかし朝鮮戦争や血のメーデーを経るにつれ、近藤の非革命者的部分が前面に出てきたという。そして、

 

  実は前衛ではない近藤が戦後ずっと先頭に立っていなければならなかったことは近藤には栄光であっても、歌壇には汚名にしかならないことだったのだ。自分は革命能力をもたず、それゆえ近藤を革命者と期待して集まった第一期同人の殆どは足踏みし、やがて歌を離れて行くものも現れた。

 

 という。こういう近藤批判にいたる経緯は、岡井隆にも共通している。

(p.117)

 

近藤芳美の方法は、「戦中の体験から政治という概念を付加して独自の思想詠、時事詠の世界を切りひらいた」点で新しかったが、「非革命者」的なところがあきたらない。要するに、単なる傍観者なんじゃないか、ということです。当時の政治に関心のある若者たちは、もっと直接的な政治への関与を求めていました。

 

それにしても、「芳美がいなければ歌など作る気にもなれなかった若者、また芳美がいなければ短歌を捨てていたにちがいない若者」という言葉。そして、それを評する佐藤さんの「「岡井隆らの前衛歌人がいなければ短歌を捨てていたにちがいない若者」だったから、この事情はよくわかる。」……。きますね、この言葉。

 

近藤芳美を批判するならば、自分たち若者はどうすればいいのか。それには二つの方向がありました。

 

ひとつは政治的主体の確立へとより先鋭化させ、それを表現の上位におこうとする考え方だ。日本のプロレタリア文学の少なからぬ部分は、この方法をとった。(p.118) 

 

ふんふん。つまり、もっと政治に直接的にコミットして、そのコミット具合を詠おう、ということです。共産党に入党したり、実際に政治活動をしていくことも、そこに含まれていることでしょう。文中にあるように、プロレタリア文学を考えれば、よくわかりますね、これが方向のひとつめ。

 

 もうひとつは、先鋭たらんとする姿勢を、ことばとして奪回しようとする方向だ。(p.118)

 

で、もうひとつはもう少し、ことばとして、つまり芸術的表現として昇華させようとする方向。岡井さんは悩んだ末にこちらの方向を選んだのだ、と佐藤さんは言います。

 

もし近藤からの脱出を前者の方向で考えるなら、〈事実〉によりかかった時事詠自体は問題にならない。近藤の政治姿勢の弱さを突けば、事たりた。そのようにしたがる気持ちが岡井になかったとはいえない。だが「近藤からの脱出」をめぐって煩悶したのは、前者の限界を予感し、後者をこそとるべきではないかと考えはじめていたからにほかならない。(p.118)

 

今回のブログの冒頭で、岡井さんがかなり〈事実〉に拠ってる、という話をしましたが、プロレタリア短歌とかは、さらにもっと〈事実〉に拠っているんですよね。で、それらの短歌は、現在ではやっぱりほとんど読めなくなってしまっています。それに対して、前衛短歌は、「ことばとして奪回」を目指したからこそ、時代を超えて残ったところがあった。

 

そして、実際に、岡井さんは政治的にはかなり共産党に接近しながらも、入党することなく政治的活動からは離れていきます。『斉唱』の二つ目の連作、「二つの世界――愛と死を周って」の次、三つ目の連作「斉唱」の頃の話です。

 

 一九五四(昭和29)年、二十六歳。共産党の経営する診療所、峡田(はけた)診療所に手伝いにいくようになる。「この診療所では、末端医療の実態を知ると同時に、共産党員たちの日常活動の一端を知ることができた。」と岡井は書いている。田井(安曇:堂園注)の説明によると、都市問題の集中点荒川区のやや南寄りにあり、「火葬場、汚水処理所、畜犬屠殺所を周辺に持ち、皮革業者と朝鮮人居住区が截然と分れ、小工場、零細工場がはてしない迷路をつくり、貧困はそこを靄のように蔽った。」という。

 翌年、岡井隆は慶大を「奇跡的に」卒業する。共産党にいちばん接近するが、結局入党することなく党からはなれていく。「斉唱」は、この年の産物である。(p.131) 

 

岡井隆26歳。かなり貧しい地域での医療に、医師として携わる日々です。そこで、共産党に接近しますが、結局入党はしなかった。

 

夜半旅立つ前 旅嚢から捨てて居り一管の笛・塩・エロイスム

 

この歌に対して、佐藤さんはこう言っています。

 

 なかなかに難解な作品だ。すでに四十年の時間がたち、時代の空気も剥落しているからいっそう難解になっている。しかしともあれ、いまから旅立とうとするものの、なみなみならぬ決意をのべていると知ることはできる。(略)

 さて、それなら岡井が旅立とうとしたのは、どこへ向かってだったろうか。直接的には貧困の巷にある診療所である。しかしいうまでもなく、診療所はひとつの具象であって、もっと抽象してつぎのように描くことができる。医学生としての何年かは、いわば現実社会を捨象した観念の日々である。そのなかで知るようになった政治思想もまた観念としての壮大さをもっていた。ストレートに突っ走っていけば頭が肥大化して、武力闘争に向かうこともありえた。だが岡井の出会った診療所は、観念への疾走でなく地上での実践、いうなれば両者の結合点なのだ。この場所は不可避的に危うさもはらむ。実践が政治思想のための〈方便〉になることもあるし、逆に実践にかまけているうちに初志を忘れて〈日和見主義〉におちいってしまうこともある。そういう危うさをはらんだ場所なのである。

 しかし角度をかえていえば、観念性にも地上性にも分岐しえない混沌を、〈思想〉として生きる地点でもある。天上と地上、制度と個人、政治と文学……このような二項対立の狭間にあって、一方を選択するをいさぎよしとせず、どら(ママ)にも分岐しない領域を自覚的にかかえこむ、そういう可能性も残している。(p.131,132)

 

 それまで学生だった岡井隆が勤めを始めた、それは、観念のみの世界から地上に降り、両者の混じる地点で格闘することです。また、政治に接近しながらも、そこから離れることは、政治のみでも文学のみでもなく、その結節点を探ることになります。つまり、佐藤さんはこの「斉唱」の連作で、岡井隆がそうした混沌とした地点に立ったと見ているのです。

 

ただ、そうした態度は、マジに政治に関わって活動している者からすると、「日和見主義」と見られてしまったりもします。この「活動家から疎まれる」というのは、わりと初期のころからずっと岡井さんにある特徴だったりします。

 

ナロードを〈われら〉と訳す試みも聞き古りて一つ布団に眠る

甲(よろ)いたる思想の底にたぎるもの個の憎しみに触れて黙しぬ

言いつのる時ぬれぬれと口腔みえ指令といえど服し難きかも

 

「斉唱」にはこんな感じの歌もあります。「〈われら〉」から距離を取り、恋人と一つの布団に眠る、「個の憎しみ」に注目する、党という組織腐敗を肉体性を使って表現し、その「指令」には従いがたいと述べる、いずれも組織に対して個を重視しています。みんな頑張って政治活動をしているこの時代にそういうことを言うのは、実は、かなりの緊張感があったんですね。

 

とりわけ政治の場面においては、権力に果敢にいどむのが正義とみなされるから、そこからの退歩は退嬰、日和見と蔑視される。こういう時代条件を考えるなら、岡井がここで「甲いたる思想」から距離をとって個に立つのは、緊迫度をはらんだ決意だったといわなければならない。(p.139)

 

「みんなで活動しよう」という時代に「ひとりでいたい」というのは、けっこう勇気がいったみたいです。あと、どうやら岡井さんは、思想以上に「群れるのが嫌」という生理的な感覚があるみたいです。「そもそも岡井は、もっとはやくからコミュニズムの集団的熱気への厭悪感を抱いていた。」「しばらく同じところにいると安定感が生じる、それがどうにもがまんならない、壊してつぎのなにかに移りたいという情動が、岡井には現在にいたるまで一貫している。」「それは倫理・思想でなく、情動に由来すると私には思われる。」と、この本の先のほうで、佐藤さんは言っています。

 

岡井は身をよじるようにして政治の論理から距離をとり、組織にゆずりわたすことのできない個を守護しはじめる。そして個の孤塁から組織に対してノンを投げかけていく。(p.138) 

 

そして、『斉唱』中の最後の連作、「Intelmezzo」です。この連作では、塚本邦雄からの影響が顕著になっていきます。 

 

制作年は一九五六年。この年岡井は二十八歳、インターンをおえて四月から北里研究所付属病院医局に勤める。診療所からはなれたわけである。作風のうえでも変化が目にみえてきた。塚本邦雄との交流がはじまり、その影響を強くうけ出したのだ。「自筆年譜」の一九五五年の項には「塚本邦雄と文通をはじめた。作風の変遷が顕著になった。」とある。(p.143)

 

前年から塚本邦雄との交流が始まり、岡井隆はその技法を吸収していきます。具体的には、その前の「斉唱」の時代よりも、さらに象徴的技法が際立つようになったことでしょうか。

 

 

母の内に暗くひろがる原野(げんや)ありてそこ行くときのわれ鉛の兵

立ち上がる一瞬われの手を借りて花売りの背にあふるる国花

 

これらの歌も有名ですが、確かに〈事実〉から離れ、より象徴っぽさが目立ってきています。

 

塚本邦雄に触発された方法意識が急速に前面に出てきたさまを、これらにうかがうことができる。(略)これまでの岡井が、政治的前衛と芸術的前衛の合一をめざしたとするなら、いま彼は前者を撤退して後者に賭けはじめたといえる。(p.144) 

 

「前衛短歌」ならではの方法論が熟し始めた、といったところでしょうか。ただ同時に、岡井隆塚本邦雄はやっぱり違う、ということも佐藤さんは言っています。ここ、ちょっと面白いです。

 

この果敢なこころみも、塚本邦雄に触発されていることは疑いない。ただし、まったく同じではない。塚本がデフォルメの世界を美学として構築する方向にいったのに対し、岡井はついに美学領域に両足をひたすことはできなかった。歴史や時代や現実からの超出をはかろうとしながら、ぎりぎりのところでどうしても切り捨てることができないのだった。この最後のところに残る部分を、甘さととるか人間性ととるかは即断できない。少なくともここでは、弱さであるとともに魅力であるといっておく。(p.145)

 

さらに、この本のもっと先には、こんな言葉もあります。

 

塚本邦雄なら、はじめから〈事実〉を捨象して、作品の自立に賭ける。しかし岡井の場合は、自立を志向しているようで、〈事実〉としばしばニアミスし、その危うさをむしろたのしんでいる傾向さえある。これは現在も継続されている。なぜこういうことになるかといえば、「アララギ」を出自とする歌人らしく、〈事実〉を契機にして発想するからだ。例外はあろうが、大方はそうだといってよい。反面、作品のことばは、〈事実〉から超脱した域へとたえず上昇しようとする。ここに生ずる力動性こそが、岡井短歌の魅力といってよい。(p.261) 

 

あー、これは確かになー、と私は思いました。さっき冒頭で、塚本よりも岡井隆はわかりにくいと書きましたが、やっぱり〈事実〉に拠ってる割合が大きいんですね。で、あくまで私の体感ですが、岡井隆塚本邦雄、どちらも現在の若い歌人への影響は大きいのは確かですが、岡井隆より塚本邦雄のほうが、やはり表面的な影響はより大きいというか、通貨として流通している感触があります。

 

閑話休題。『斉唱』をまとめると、次のようになります。

 

岡井が模索した場所は政治か芸術かではなく、どちらをもふくむ混沌域、換言すれば政治が芸術であり芸術が政治である領域、外部が内部であり内部が外部である領域だった。それはまた政治思想でも芸術思想でもない、〈思想〉という以外ない領域でもあった。『斉唱』の岡井が志向しかつ試行したのは、〈思想〉をいかにしてことばとして奪回できるかという壮大な課題だったと、いまにしていうことができる。(p.146) 

 

もっかいまとめると、初期歌篇『O』のアララギ的世界、つまり感性の世界から知的な判断の世界へと移るために、岡井さんは近藤芳美に共鳴します。しかし、次第に近藤の方法にも満足できなくなります。なぜなら、近藤さんは時代状況をクールに見ているだけで、主体を持って政治に関与しようとしなかったからです。そこを当時の青年たちは批判して、具体的な政治活動こそが重要だ、と主張していきます。岡井さんも一度は政治活動に接近するものの、結局はそこから離れ、言葉の世界を目指し始めます。と、同時に塚本邦雄との交流が始まり、より政治と芸術が混ざり合うような境地に入っていく、とまあ、こんな感じでしょうか。

 

 

はい。ここまででこの本の前半2章です。実は今回、続く第2歌集『土地よ、痛みを負え』、第3歌集『朝狩』と、最後までやろうと思ったんですが、いいかげん疲れてきました。あと、この本は佐藤さんがその迷いも含めて、本当に丁寧に丁寧に記述を進めていますから、まとめていくうちに、なんだかうまくまとめられないというか、まとめてしまってはいけないような気がしてきたので、これくらいでストップしたいと思います。

 

あと、この続きでは、『土地よ、痛みを負え』『朝狩』だけじゃなくて、評論もかなりがっつり俎上に上げられています。岡井さんの初期評論集とか、『現代短歌入門』とか、『短詩型文学論』とか、吉本隆明と岡井さんの定型論争にまで触れていて、ほんとすごいです。『現代短歌入門』と『短詩型文学論』の相関とか目から鱗でしたし、定型論争は、当時の若者がこの論争をどういう距離感を持って見ていたのかがとても良くわかって、単なる短歌史の本読んだだけじゃわからないことが書いてあります。

 

いやほんともうすごい本なんで、ちょっとでも岡井隆に興味ある方は、ぜひ読んでみてください。それでは。

第52回 前登志夫『吉野鳥雲抄』

桜とともに 土岐友浩 

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吉野鳥雲抄

 

 いつしか四月が来ている。

 四月が来るのではなく、わたしのいのちという時間が確実にあらたな季節へ移っているのである。

 

 うちなびく春来るらし山のまの遠き木末(こぬれ)の咲きゆくみれば (『万葉集』巻八)

 

 尾張(おわりのむらじ)のこの歌を口誦みながら、青い山並みの斜面に白い灯のように咲いている花を眺める。辛夷であろう。

 各地の花だよりはしきりであるが、山の桜はこずえをぼうと紅にけぶらせているだけである。そんなに早く桜が咲いてくれては困る。毎年そういう戸惑いをおぼえる。新年度を迎えるべき心の準備もできていない。 「桜咲く日に」

 

今年の桜は、すこし遅い。

京都府立植物園の桜エリアでは、二本ある河津桜の木だけが濃い花をさびしく咲かせて、人々はそこに集まり、写真を撮っていた。

 

もうすぐ、歩き慣れた道が桜で彩られる。

その非現実感は、まるでボーナスステージのようだ。

 

 *

 

桜が、いまでも特別扱いなのは間違いない。

地図に引かれた線を見て、咲くのが遅いとかもうすぐとか、そんなことを気にするような花は、他にないからだ。

 

だから桜を詠むときだけは、他の草花を詠うのとは、気分というか、心構えがちょっと違う。

 

けれど、あるいは、だからこそ、短歌は脈々と、さまざまに桜を詠み継いできた。

 

堂園さんや永井さんの歌集にも、桜の歌がある。

 

 君はしゃがんで胸にひとつの生きて死ぬ桜の存在をほのめかす  堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

 それは誰かが照らした桜 何回も死んだあと2人で見上げたい  永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

 

「力強さ」と「はかなさ」という堂園さんの文体の美質が結晶した、桜の歌。

永井さんにしてはとても珍しく、自分の「死んだあと」が詠まれた、桜の歌。

 

そして桜のなかの桜といえば、いわゆる名所としても、歌枕としても、奈良にある吉野の桜、ということになる。

明治のころにできた新品種の染井吉野は、山桜よりももう少し早く開花する。今日の都市の桜はこの白っぽい造花のような染井吉野が大半を占めるのではないかとおもう。少しおくれて厚ぼったく咲く八重桜のこってりした風情にくらべれば、染井吉野の一重は格段にすぐれているが、その花の気品の深さや清けさからすれば、山桜にとうてい及ぶものではない。 「桜咲く日に」

 

京都駅の切符売り場に立って路線図を仰ぎ見ると、奈良駅の、さらに遠くに、吉野はあった。

 

たとえ特急券を使っても、日帰りで行くにはかなり遠い。

そういう物理的な距離以上に、一度行ったら帰って来られないのではないか、という気持ちにさせられるのが、僕にとっての吉野だ。

 

そこに咲くという、山桜。

 

前登志夫は1926年、吉野に生まれた。

同志社大学に在籍していたが、1945年に応召され中退。

戦後になって吉野へ戻り、第5回で取り上げた前川佐美雄を短歌の師として、結社「ヤママユ」の前身である「山繭の会」を立ち上げた。

 

『吉野鳥雲抄』は読売新聞の連載をまとめたエッセイ集で、本書は『樹下三界』『吉野遊行抄』に続く三冊めとなる。

あとがきによれば、「とりくも抄」ではなく「ちょううん抄」と読ませるらしい。

 家族が寝しずまってから、わたしはもう一度外に出て、夜の雪の山が白く輝くのを眺めた。もう月は高く昇り、山の雪が照り返すひかりは落ち着いていた。
 山の暮らしは日常のすべてを遥かなものにする。家族すら遠くに存在するように思える。日常からへだたる結界の境を、わたしたちはいつも往き来しながら、その境すら見失うことがある。 「雪夜の寒満月」

 

山を眺め、山に暮らす。

それは、文字通りの意味で自然と一体になるということだ。

 

登志夫は西行の「春になるさくらの枝はなにとなく花なけれどもなつかしきかな」という歌を引きながら、こう述べる。

 この歌は『風雅集』に入集していたと思う。春先の吉野山で、ふとため息のようにつぶやき出た一首のように感じられる。

(中略)

 桜の枝に花はないけれども、なんとなくなつかしいと詠むのは、春先の桜のこずえであるからなのだ。無心とはこうしたものか。この歌に悟りのようなものを思い入れたりすると、たちまちいや味なものとなってしまう。無心なればこそ、花とこころはひとつになっている。 「花なけれども」

 

西行の平明な歌の姿に、吉野の桜とひとつになった境地を読み取っている。

 

春になれば、登志夫は家族と蓬を摘みに出かけ、お稲荷さまに草餅を供えた。

村人以外の来客は郵便配達人くらいで、郵便物を新聞と一緒に持ってきて、登志夫の家で弁当を食べてから、山を下りていったという。

 

もっとも、登志夫自身、ずっと山にこもっていたわけではなく、大阪の短大やカルチャーセンターに講座を持ってからは、よく山を下りて、電車を乗り継ぎ、街に出ていた。

 娯楽や刺激に乏しい山暮らしを長く続けていると、風のそよぎや雲の流れに敏感になってしまう。むろん、現代文明のもたらしてくれる一般的な娯楽や刺激を知らないのではない。それらがあまり面白くないのである。なんとなく日々のむなしさや焦燥感を痺れさせたり、一時的にごまかすだけのものが多い。そのあとには、だぶだぶに脹れあがった自我が置き去りにされるような感覚だけがのこる。

(中略)

 なべてがいそがしく、浅く、つめたく鋭い。ふかぶかと息をすることが許されないものである。貨幣と科学技術の支配する今の世の機能的な原理に、すべてのたのしみがぎっしりと取り囲まれている。固く平板なものの圧迫が、すべての快いものの背後に透けて見えている。 「春寒く」

 

こうした現代文明批判は、高島裕も書いているけれど、登志夫は「だぶだぶに脹れあがった自我」という表現に見られるように、身体感覚を通してそれを捉えているのが興味深い。

 若者のあまりにも純粋で傷つきやすいのをおもうと胸をしめつけられる。満開の桜の上に雹が降るようないたましさである。

(中略)

 今では気象の異変として片付けてしまうが、雹が降るのは天空を竜が過ぎるせいだという大昔からの言いつたえには、もっと深い認識と比喩がある。 「桜咲く日に」

 

たとえばこのような文章に、僕は強く惹かれる。

「もっと深い認識と比喩」の意味を、僕が理解できているとはとても言えないけれど、少なくとも「天空を竜が過ぎる」という言葉を、登志夫は非科学的な空想ではなく、ある感覚として共有し、受けとめていることがわかる。

 

世間を離れ、もの思いに耽りつつ、自然や読書に親しむというと、ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』のようなものを連想するけれど、登志夫の文章が異質なのは、自然を必ずしも美しく、安らげるようなものとして書いてはいないところだ。

 

一言でいえば、登志夫は自然をおそれつつ、自然とともに暮らした。

もう今日はこの石地蔵を裏の石垣に戻さねばならぬ。座敷で泊まっていただくのは一夜きりにきまっているが、今年は二晩も室内ですごしてもらった。石垣に彫りこんだ石龕も、毎日の雷雨で湿っているので、なんとなくそこへ戻しそこねてしまった。 「石地蔵のかたわらで」

 

地蔵盆の日を迎え、登志夫は石の地蔵を座敷に置き、「たどたどしく」お経を唱える。

外にあった地蔵を移動させたりしていいものなのかどうか、僕にはよくわからないけれど、それはともかく、座敷で地蔵と向かい合いながら、登志夫は考える。

 わたしも今朝の石地蔵のようにすっかり湿っぽく坐っている。お前はいったい誰なのかと、稚く問うてみる。この石地蔵には、ほのかに目鼻が彫られているので無気味なものではない。仮に何も彫られていないただの石だったらどうだろう。おそらくその石は無限にふくらみ、あるいはあらゆるものに変容する神秘なものとして、わたしを圧倒しつづけるに違いない。

 世界は解釈や意味づけによってなんとか危うさを克服し、張り持ちしている。だが、すべての解釈や意味づけを拒絶して、万有は自足している。そこから這い出すよりほかない。そこに還るよりほかあるまい。 (同)

 

顔の彫られた地蔵よりも、むしろ何の変哲もない石を、登志夫はおそれる。

登志夫がその石に見た「無限にふくらみ、あるいはあらゆるものに変容する神秘なもの」とは、一体なんだろう。

 

強いて言葉にすれば、自然の本来の姿、カオスそのもの、ということになるだろう。

それは人智の及ぶべくもなく、ただ、そこにあるからこそ、抗いようがない。

 

登志夫にとって、自然はそういうものだった。 

 ーーもう山を下るのはやめようか。

 ーー街へ出て身すぎ世すぎにくたびれるのをよそうか。

 まことしやかに講義をしたり、講演をしたり、放送したりする。その浅薄さにいつまで耐えられるか。

 それじゃ書くのをやめられるかと言えば、どうしてもやめられないだろう。書くことは本来ひどく恥ずかしいつらさを含んでいるにちがいないのだが、それがしだいに麻痺してしまい、格別な美徳であるかのように錯覚してしまう。書くことによって、これからも自己という存在を問う苦しいいとなみを続けねばならない。書きつづけることによって、自分の愚かしさや空しさや醜さを、しっかりと凝視しなければならない。この貧しいわたしを生かせてくれているなべてのものに、お詫びの挨拶を捧げなければならぬ。 「含羞の時」

 

登志夫を苦しめていたのは、都市の喧騒やしがらみなどでは、決してない。

言葉とは、自然という大いなる混沌に、秩序の幻想をもたらすものでしかなく、それを知りつつ、なお言葉を紡がずにはいられないという耐えがたい矛盾が、登志夫を引き裂いたのだ。

 

前登志夫は自然を生きる苦しさを詠み続け、2008年4月5日に世を去った。

ちょうど今日が、命日である。

 

第51回 内野光子『現代短歌と天皇制』

牛尾今日子

 

こんにちは、わたしは牛尾今日子と申します。ゲストです。

 

去年の、いわゆる天皇陛下のお気持ち会見、そして平成が終わるという話は、みなさんの記憶に新しいことと思います。今回とりあげたいのは、天皇制と短歌の話です。

 

天皇制の話は、宗教的(あるいは宗教そのもの?)で、根深いものがあって難しそうだなあと思っていましたし、今もそうです。これまでは遠くのことのような気持ちで棚に上げていたのですが、天皇制や戦争の話に正面からぶちあたっている演劇 *1を見て、その作品をめちゃくちゃ好きになったので、いま天皇の話にとても関心を持っています。

短歌においても、むしろ短歌の場合はさらに、「(歴史的背景を踏まえながら短歌をやっていこうとすると天皇制に関する問題は無視できない)という感覚」(瀬戸夏子「東京2020にも君が代ならば君のかかとの桃色がいいさ」『率』幕間)という風な立場があります。これは昔から存在した議論だと思うのですが、まじめに受け取ろうとしたときに、わたしはこの立場をさっぱり理解できていないことに気が付きました。

 

例えば、短歌をやっていくうえで社会や政治とは無関係でいられない、という立場だったら分かります。というか私自身その立場をとっているつもりでいます。

なぜなら、私という個人が生活していくうえで、その生活は社会や政治に影響されるので、これらを無視することはできない、さらに、私が歌を作ったり読んだりすることと私の生活とは切り離せないからです。

 

天皇制の場合はどうでしょうか? 

確かに短歌は、過去から現在にいたるまで、天皇家と関わりの深い芸術です。しかしそのことと、わたしたち個人が短歌をすることとの間には、どういう意味で関係があるのか。天皇制がどういうものなのか、短歌や歴史のなかでどういう意味を持ってくるのか、等々、わたしには分かっていないことが多くあります。

歴史的背景を踏まえながら短歌(あるいは芸術)をやっていこうとすると天皇制に関する問題は無視できない、というのがどういう意味で主張されるのかを分かりたいです。それができないと、同意することも反対することもできません。

 

というわけで、短歌と天皇制というのがどのような関係にあるのかというのを考えていくために、いろいろ知識や議論を仕入れていきたいです。

 

  *

 

前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。

今回取り上げるのは、内野光子『現代短歌と天皇制』(風媒社、2001)です。序章から第二章までが戦後や天皇制などに注目した文章を、第三章四章は時評などの短い文章を集めた評論集です。まだ読めていないのですが、内野は『短歌と天皇制』(風媒社、1988)という評論集も出していて、天皇制や権力の問題にずっと注目し続けている人だと言えるでしょう。

 

現代短歌と天皇制

現代短歌と天皇制

 

 

内野が前提にしている短歌と天皇制についての問題意識が共有されていないことや、ばらばらの文章だったものをまとめた評論集という形態などから、あまりすっきりしない読後感でした。というか正直に言えば、納得いかないところや、詳細や論理が分かりづらいところもありました。この本は80、90年代の評論が中心で、著者は1940年生まれ、私は1994年生まれです。知識量の問題はもちろん、戦争や安保闘争はもとより、89年の昭和天皇崩御や93年の岡井隆歌会始選者就任、皇太子ご成婚など、経験してきたことからくる世界観も大きくちがうのでしょう。

 

読み終わっても前置きした疑問は解決してないし、知らないことが多すぎるテーマを扱うのはどうかとも思ったのですが、こういうのはやっていくしかないと思うのでやります。考える材料になりそうだと思った第二章「歌会始と現代短歌」を中心に紹介していきます。よろしくお願いします。

 

  *

 

 1993年、岡井隆歌会始の選者に就任しました。

文学であるならば、天皇制と結びついた国家権力に守られたくない。民衆の下からのエネルギーで守られてこそ、その資格があるのではないか。これまでそうだったから、このままでいいとは言えない。いや、現代短歌のためには、このままでおくべきではないのだ

(「歌会始は誰のものか?《特別記事》」『短歌研究』1959.3)

 

本来これは宮中の一儀式でしかない行事であり、民衆の生活とのつながりから言えば、新聞が特に報じなければならぬほどの行事とは思えぬ。それがそうなっておらぬ所に新聞ジャーナリズムの皇室関係をとりあつかう手つきの異常さ、いやらしさがあるのではないか。

(「非情の魅力について」『現代歌人』1960.5)

 

過去の岡井は、歌会始について上のように述べていました。しかし歌会始の選者に就任した彼は、次のようにインタビューに答えています。

 

昭和から平成にかわって、天皇家の象徴性は昔ほどでなくなっていると思います。同時代に反権力を歌ってきた歌人らが選者になる日も遠くないでしょう。わたしとしてはそれを望んでいます。

(1992年9月4日『朝日新聞(夕)』〈大阪本社版〉)

 

内野は、かつて岡井が述べた歌会始の権力性は現在にもそのまま当てはまるものだとして、彼の変節を批判します。岡井の転向について、本人の文章や起こった論争をいろいろ確認していくのはとても面白そうなのですが、今回引用した岡井の文章は孫引きです、すみません。

 

ここで問題にされている、歌会始を取りまく権力とは、いったいどういうものなのでしょうか。

説明するまでもないことと思われたのか、断片的にしか触れられていません。その前提に少しでも接近したいというのが私の目的なので、もう少し読みながら推測してみます。

 

つねに時流に乗り、ジャーナリズムで脚光を浴びながら仕事をするということは、なしくずし的に自説を変えて行くことにほかならない。そして、過去のある時点の考え方とまったく正反対の立場をとるに至ったとき、その説明責任を放棄するならば、もはや開き直るしかない。その彼(引用者注:岡井隆)の心中には、かつてもっとも嫌った権威主義と、あらたな自己顕示欲が渦巻いているのだろうか。

内野は上のように岡井を非難します。

わたしは、岡井の「天皇家の象徴性は昔ほどでなくなっている」あたりをもっと掘ってほしかったのですが、それは「国家や皇室との関連をなるべく軽視したい口吻」と流されてしまいました。

 

いま取り扱っているのは、第二章第一節の「「選者」になりたい歌人たち」なんですが、なぜか終盤で歌壇において、有名歌人に各賞の選者が集中していること、有名歌人間で賞の授受がなされていることへ議論が移ります。国家から与えられる文化勲章芸術院賞、芸術選奨紫綬褒章についても、これらの賞を「抵抗なく祝福」する歌人たちへ次のように疑義が呈されています *2

この無抵抗こそが、ご都合主義を、事大主義を容認し、第二、第三の岡井隆を送り出すことになるのではないか。

 事大主義っていうのは長いものに巻かれることみたいですね。

例えばわたしたちが新人賞に応募するのも、あるいはうたらばに応募するのでも、選ばれることに価値があると認めているからです。

選ぶ―選ばれるということは権力の構造として考えられます。本書を通して、内野は「馴れ合い」、「みんな仲良く、お互いに褒め合うばかりで、さまざまな短歌賞の授受に終始する」、「事大主義や権威主義の充満している」と、選ぶ―選ばれるの権力構造に沿っておもねりが発生していると糾弾します *3

 

先ほど引用した、ジャーナリズムで脚光を浴びるために自説を変えて行く、という批判も、おもねりを忌避するという同じ視点から行われているのでしょう。

 

まとめてみるなら、歌会始の選者に選ばれるということの背景には、選ぶ―選ばれるという権力構造、そしてジャーナリズムで注目されるための権力への迎合やおもねりにつながる、ということでしょうか。

 

  *

 

歌会始には、そして、天皇が作った短歌が発表されるということには、今まで見てきたこととは別の問題系があります。

天皇の作った短歌が天皇のお言葉として解釈され影響力を持ってしまう、ということです。

 

その前に歌会始について少し確認しておきましょう。

そもそも歌会始とは、これも当たり前って感じなのかあんまり説明されていないのですが、宮内庁のホームページによれば、こういうことです。

天皇がお催しになる歌会を「歌御会(うたごかい)」といいます。宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会としてお催しになる歌御会を「歌御会始(うたごかいはじめ)」といいました。

 

今年の短歌研究の1月号2月号では、今井恵子さんが歌会始がどんなものなのかという話をされていましたね。

 

内野の記述では、『入江相政日記』(全六巻)が重要な役割を果たします。入江相政(すけまさ)は、1934年から85年まで、侍従、侍従次長、侍従長職を務めていた人です。歌を作ったり随筆とかも書いていたみたいです。

冷泉家の分家として入江家という家があり、旧華族の中でも昇殿が許されている家柄なんだとか。侍従というのは、天皇などの側近ということみたいです。

〇〇家とか、華族とか、侍従とかってほんとにあるんですねという気持ち。

だから『入江相政日記』というのも、

(入江日記の)取捨の基準は、「凡例」によれば、歴史的重要事項、昭和天皇公私の行動・発言、皇室行事・日常生活、天皇一家・皇族の動静、宮内庁(省)・職員の動静、入江自身の思想・信条・人物像、をよく表している記述があるか否かに拠ったという。

という風な記述が重要視される、昭和のことを考える資料みたいな感じなんですかね。

 

ともかくも戦後、宮内省 *4の機構は段階的に縮小されて、歌会始の改革も行われます。

そのとき相政は歌詠課の課長に就任し、日記には、「新派の歌人を四、五選者として御命いたゞいては如何と思召をうかゞつた処、至極よいからそのやうにせよとの仰せ」(1946.5.30)とあります。

実質的には川田順、佐々木信綱と相談しながら、翌年(引用者注:47年)の”新生”歌会初めの選者は、千葉胤明、鳥野幸次の旧寄人と、信綱、斎藤茂吉、窪田空穂に決定したことがわかる。

 

そして1950年には、斎藤茂吉、窪田空穂、吉井勇、尾上柴舟、釈迢空と、歌会始の選者が「すべて民間の現代歌人という画期的な年」を迎えます。

民間の現代歌人でないっていうのは、宮内庁の職員であったり、旧派和歌の歌人ではないってことなのでしょうかね。千葉や鳥野の名前を簡単に検索してみてそうなのかなって判断しただけですが。

 

入江相政日記』によれば、 天皇は「鳥野さんを止めることによつて旧派の方が果たしてどう思ふだらうか、それさへ問題がなければ差し支えないとの仰せだつた」(1949.9.28) ということです。

 

49年の歌会始からは、カメラマンが会場に入り、歌が入選した人も会場に行くこと(陪聴)ができるようになりました。 翌年の題も、秋ではなく、その年の歌会始当日に発表するなど、応募者を拡大しようとされています。

開かれた歌会始が目指されているということでしょう。

 

 話を天皇の短歌の発表/読解へと戻します。読んで一番おもしろかったのはここのあたりでした。

すっごく当然のことなんですが、御製(ぎょせい=天皇が作った短歌)は、わたしたちが短歌を作るような場合とまったく違った取り扱いをされます。 相政の日記に記述があります *5

御召で御文庫(引用者注:第二次大戦のとき作られた防空施設)に出たら御製を沢山お下げ遊ばす。時局に関するもの、自由と責任といふことについてのもの、それに大日向の開拓団等について詠ませられたものである (1947.12.26)

 

昨日御下げの御製を拝見した結果を申し上げ、鳥野に御下げ願度(引用者注:ねがいたく)申上げる。

鳥野さんが御製を拝見されたのでその結果を浄書して、御研究所へ出てお許しを得、侍従長にも拝見してもらつて総務課へ下げる (12.27)

 

御製について又思召されたことについての話がある(中略)。やはり原作のまゝ願はうと思ふ(中略)。予の考を申し上げ御諒承いたゞく (12.28)

 

役所において、新人の起案文書が、管理職に回付され、修正や意見が付され、書き直される過程にも似ている。

 と内野が書くように、御製は、天皇の公の文章のようにして扱われています。

 

従来、御製の公開は歌会始のものに限られていたそうですが、天皇の短歌は「あきらかに情報としての操作」がされていたといいます。

1948年には、明治天皇の誕生日として祝日だった11月3日が、文化の日となります。その前日に宮内庁は御製を五首発表しました。入江は各新聞社の御製の扱いについて次のように述べています。

昨日御五首が発表されたが、我々の予想通り朝日が文化に関するもの御二首を載せた。時事には五首全部謹載したが、他は全く何もかいてゐない。これは今時OPENで発表すればかうなるに決つてゐるのであり、殊に文化の日を当て込んで積極的に宮内府から発表するやうになることは全く面白くないといふ我々大金、鈴木一、入江の主張は不幸にして正しかつたと思ふ。やはり我々の思つた通り、文化の日は見送つて後の何でもない時に朝日なり毎日なりに特種として漏らすべきものであり、今後はそのやうにすべきものと思ふ。

折にふれて

海の外とむつみふかめて我国の文の林をしけらしめなむ

悲しくもたゝかひのためきられつる文の林をしけらしめはや

陶器について

たふとしと見てこそ思へ美しきすゑものつくりいそしむ人を

益子焼

さえのなき嫗のゑかくすゑものを人のめつるもおもしろきかな

コスモス

秋ふけてさひしき庭に美しくいろとりとりのあきさくらさく

(1948.11.3)

せっかく発表するなら、もっと大々的に扱ってもらえるタイミングにするのがよかったというわけですね。

 

翌年、『改造』1950年1月号に天皇の歌七首が発表されます。

『改造』歌が発表される前、49年の11月26日の『朝日新聞』には「天皇の御歌が雑誌に」の記事が出ています。

側近によって天皇の近作がリークされるという図式を作ることで、相政たちの反省はいかされたことになります。

 

側近たちが御製により注目を集めようとしたり、宮内庁が積極的にマスコミへ対応していくことについて、内野は懐疑的な書きぶりです。御製や皇室がより注目されるように発信されていくのはなんのためなのでしょうか。

 

発表された天皇の短歌がどのように読まれるのか、ということを見てみましょう。

昭和天皇崩御の時に、短歌が登場した報道には

(A)天皇の短歌作品を中心に追悼及び昭和を回顧する記事

(B)天皇の短歌作品を中心にした、歌人などの追悼文

(C)著名歌人による追悼短歌作品

(D)TVにおける天皇の短歌作品関連番組

があります。体験したわけでも他と比較したわけでもなくこんなこというのもどうかと思いますが、なるほど短歌は他の芸術よりの天皇制と近い感じがしますね。

 

制度として、公たる天皇の言動の責任が、一首の短歌で免責さえするような論法が散見された

と内野は書きます。A・B合わせて20ほどの記事の書誌情報や、Cの著名歌人による追悼作品が付されていて調べ物に便利です。

 

Aについて見てみましょう。

次の二首は昭和天皇の歌です。

あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波だたぬ世を (一九三三年歌会始「朝海」)

峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり (一九四二年歌会始「連峰雲」)

このような天皇の歌に対して、次のような報道が行われました。内野の引用を孫引きします。

平和への願い、戦時下での苦悩、復興の喜び、国民の生活を思うお気持ち、そして自然への愛情…と、堅苦しい「お言葉」では表しつくせない卒直な感情を、おおらかに、そして生き生きを、ときどきの歌に託されてきた。そうしたお歌の数々は、陛下の内面生活の歴史を如実に物語っているように見える。(「ご感懐おおらかに お歌」(七八首)『朝日新聞』1989.1.8)とあるが「戦前、停戦たたえた1首 側近が秘密に 天皇陛下のお歌」の第一段落の途中から

「御製」「大御歌」といわれるお歌は、陛下のお気持ちを推し量るうえで重い意味を持つ。世の静けさを願う心。追憶、喜び、悲哀――いくつかの折々の陛下のお歌にふれる時、その時々の胸中が伝わってくる。(「和歌に託されたお気持・昭和天皇」(三十四首)『毎日新聞(夕)』1989.1.9)

暗い戦争中も新年の歌会始は続けられた。「国民の士気のうえからも風流は面白くない」という軍部の批判は強かったが「なんとか伝統の文化の薫りを残しておきたい」という昭和天皇のお考えからだった。天皇が願われたのは、歌道を通じて皇室と国民の結びつきを緊密にすることだった。(「お歌にしのぶ昭和天皇 皇室と国民とを結ぶ三十一文字 卒直に表現」(二七首)『千葉日報』1989.1.8)

 

これらの文章からは

・歌において天皇の本心が示される

・歌から天皇は平和や国民の生活を思っていたことが分かる

・歌によって、皇室と国民とが交流できる

という主張が読み取れるといってもいいでしょう。

ある立場の人間がどのようなメッセージを発するのかという側面のみが注目されて、短歌の文体や修辞、文学性などが無視されています。

歌会始の作に、ことば以上の状況や背景、心情を付与することには、種々の危険性が伴うことに注意しなければならない。歌会始は、本来、天皇に近い人々の、私的な行事であった。現在は、その伝統に固執する部分を擁しながら、その時の国家権力や国民に対するスタンスの確保やメッセージ発信の場にしようとする意図が顕著である。天皇家と国民が、「うた」を通じて、のどかに、なごやかに交歓する光景は、まだ、しばらくは役に立つと思う人々がいる。

 

朝日新聞』の編集委員薮下彰治郎が、本多勝一との対談で述べた以下のコメントも興味深いです。

天皇の戦争責任の免責の第一の手法として(孫引用者注:内野の補足))一般国民が当時知るよしもなかった『秘話』の類や非公式の日記、いわば内輪ばなしやウラばなしを大々的にもち出す方法ですね。(中略)そういう非公式な、しかも担保の極めて薄いものを対置して、公的に明らかになっていたものを否定・免責してゆく。たとえば、詔勅で明白に天皇が宣戦しているのにもかかわらず、実はやりたくなかったんだとか、思い入れたっぷりの短歌を披露した、といった内輪ばなしこそ”真意”なんだとするやりかた

(孫引き:本多勝一「貧困なる精神41」『朝日ジャーナル』1989.1.20 p.90)

 

この本は、いろいろな話題がでてくる *6のですが、話の収拾がつかなくなるので、ここまで紹介した部分をまとめてみます。

評論集という性質上、主張のまとめみたいなことはされていないので、内野が以下のように主張していた、というより、この本を読んで私が注目した主張はこんな感じ、という感じです。

 

天皇や、国家あるいは団体が人を選んだり賞を与えたりすることは、権力の構造を作り出してそこに迎合する流れや馴れ合い生んでしまう

天皇の歌を公表するということが、皇室の広報的な意識や情報操作と結びつく

天皇の歌の解釈が、そのまま天皇の”本心”をはかることにつながる

 

スタートしたところから、短歌と天皇制についてすこし引き出しが増えたかなと思います。

もっとごりごり議論するには、天皇が「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるというのはどういうことなのか、あたりの短歌史というより一般的な話もおさえていきたいですね。

この記事はけっこう迷いながら書いたんですけど、わたしがつまずいていることについて、こういうのを読め!と思われた方はご教授いただければうれしいです。

 

  *

 

書いた人:牛尾今日子(ushio.kyoko@gmail.com

1994年生まれ。京大短歌会を最近追い出されました。同人誌「羽根と根」、「かんざし」に所属。

*1:『CHITENの近現代語』http://chiten.org/archive/archives/79

*2:歌会始の権力性・岡井隆の変節の話と、歌壇の賞の話とは論理的につながるのかどうかはやや疑問です

*3:歌壇や結社が馴れ合いばかりで正当な議論が行われない、という内野の主張は、あまりに人の批評性を信頼していないんではないかと思うのですが、この記事の要点ではないのでおいておきます。

*4:宮内省は宮内府を経て49年に宮内庁になっていますね。

*5:内野は、この相政の日記の引用の直前に、〈うらうらとかすむ春べになりぬれど山には雪ののこりてさむし〉という1948年の歌会始「春山」の御製を示しています。

内野の記述をそのまま読めば、この春山の歌が、以下で相政が扱った歌のひとつであり、これらの処理の結果として歌会始で発表されたという解釈をしたくなるのですが、実際にその前後の『入江相政日記』を読んだだけでは、相政や鳥野が確認しているのが歌会始のための歌なのかどうかは確認できませんでした。

こういう感じの引用とその表記とがあるとなんか全体的に不安になってきますね。

*6:雅子さまが受けたいわゆる「お妃教育」は、日本歴史や皇室等々について計五十時間あって、そのうち十時間は岡野弘彦による「和歌」だったんですって、びっくり

第50回 続 品田悦一『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』 

永井祐

こんにちは。

 

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

 

 

今回はもう一回、品田悦一『万葉集の発明』をやります。

一回でおわるのがもったいない気がしたからです。

と思ったら、前回では堂園さんも品田悦一さんの本を取り上げていました。

ブログは「春の品田まつり」のようになっていますが、まあいいでしょう。

 

この本は三章立てになっていて、

第一章 天皇から庶民まで―『万葉集』の国民歌集化をめぐる問題系

第二章 千年と百年―和歌の詩歌化と国民化

第三章 民族の原郷―国民歌集の刷新と普及

となっています。

第47回でやったのはこの第一章。今回は第三章の後半の島木赤彦の万葉観についての

ところをやろうと思います。

この本において島木赤彦はある種とくべつな位置にあります。

それは彼が、「国民歌集・万葉集」というコンセプトを最も熱く生きた人間だからです。

 

複雑なので上手くいくかわかりませんが、やっていきましょう。

 

前回やったのは明治の話。時代は下って今度は大正です。

学制が発布されてから約半世紀、中等教育機関への進学率は徐々に上向き、読書人口は増大していた。

万葉集』のテキストもいろいろ種類が出てきて、文庫的なものも出回っていた。

明治時代のエリートたちによって構築された国民歌集としての万葉集は、学校教育をもとにしながら、その外へとどんどん読む人を増やしていった。

 

明治ナショナリズムの構築物は、こうして観念としての本質を表面上消し去りながら、その実、人々の感性や美意識の領分にまで食い込んでいったのである。この、国民歌集の大衆化/内面化の過程の中心に位置していたのが、赤彦率いるところのアララギ派であった。

 

アララギの万葉尊重は短歌史的にも有名な話ですが、それは日本人の万葉観が出来ていく過程の中でも外せないような大きなものだったんですね。

この本では、折口信夫、伊藤左千夫、斎藤茂吉の果たした役割がそれぞれ解説されますが、

団体としてのアララギの中心にいたのが島木赤彦でした。

 

大正期におけるアララギ派の急成長は、文学上の流派の興亡という次元では決して捉えきれない。事態は一個の社会現象として解明されなくてはならないが、従来そうした見地からの接近はほとんど試みられていない。万葉尊重の方針が広汎な支持を得たことまでは誰もが認めるところなのだが、十数年間の沈滞がなぜこの時期に克服されたのかという点についてさえ、説得力のある説明はまだなされていないと思う。

 

少数精鋭時代のアララギの話はピーナツでもやりましたが、この時期にどんと規模が大きくなった。

品田さんの仮説では、前回やったような、「国民歌集としての万葉集」を学校で教えられた人の数が、この頃すでに五十万人にはのぼっていたという事実が大きいのではないかとのことです。明治にまいた種によって土壌ができていたということですね。

が、それを検証する準備はないとのことで、典型例として中心人物の赤彦の分析が行われます。

 

島木赤彦は1876年(明治9年)生まれ。父親は長野県の小学校教員でした。

自身も学校を出てからは地元の小学校の教員をやりながら詩歌の創作をしていた。

はじめは新体詩の投稿とかをしていたのですが、だんだん短歌にはまってきて伊藤左千夫と緊密な交流を持つようになる。そして創刊時に「アララギ」に参加。

1913年(大正2年)に伊藤左千夫が死ぬと妻子も仕事も置いて単身上京。「アララギ」の編集に心血をそそぐ。

赤彦は結社の経営、門弟の獲得ということかけては抜群の才能を発揮した。

そして万葉集を崇拝した。

 

万葉集ヲ勉強シタマヘ歌ノ聖典コノ以外二ナシト深ク信ジテ只々一途二万葉集二没頭シタマヘコレカラ出発セネバ有難キ歌出来申スマジ(1915年・門弟宛ての書簡)

 

ちょっと宗教っぽいですが、

 

愚直とも見える彼の言説は、ある種の人々を辟易させた反面、別の人々にはかえって説得力を発揮して、周囲に集う人の輪がみるみる拡がっていった。

説得されたのはどのような人々か。むろんさまざまのタイプがあったわけだが、特に注目されるのは、教職に就いていた人が相当の割合を占めるという点だ。

 

 

さっきも出ましたが、赤彦は小学校教員だったし、校長もやってるし、諏訪郡視学(旧制度の地方教育行政官)もやってます。教育界との縁は終生切れることはなかったそうです。

その教育関係の人脈からどんどんアララギに入れていた。

 

上京してからは「アララギ」に心血をそそいだと言いましたが、

実は上京後も教壇に立っているし、信濃教育会の機関誌『信濃教育』の編輯主任までやって、教育関係の論説をそこに発表したりしていた。

 

赤彦はこのように、生涯を通じて教育者の顔をもちつづけた。というよりも、歌人/文学者の顔と教育者の顔とを使い分けようとしなかった。彼の教育論にはしばしば『万葉集』や、子規や、鷗外が引き合いに出される。かと思うと、歌論や万葉論がいつの間にか『論語』の話へ流れ、教育論にすり替わってしまう。二つの分野の区別など、本人はなんら意に介していなかったらしい。

 

それはわりとやばい感じがするのですが、ともあれ、赤彦が本質的に教育者だったことが一番大事なポイントになります。

 

赤彦が短歌について語るときに出てくる語彙、「鍛錬」「感銘の集中」「主観の統率」などなどは、当時の教育学書、英米系の心理学説に依拠した書物から仕入れられたものだろうと品田さんは言います。

赤彦の歌論では「鍛錬道」という言葉が有名で、わたしは名前にびびってちゃんと読んでいないのですが、すごくおおざっぱに言うと、

鍛錬された心が物事に一心集中して向かい合う。その力がいい歌を生む、みたいな話です。

従来の赤彦研究者だとこの「鍛錬」を儒教思想の影響と説明して済ますことが多いそうですが(本人も似たようなことを言っている)、それでは解くことができない。

 

教育学の分野で「鍛錬」といえば、このように、児童の自制心や品性を高めるための訓練、つまり英語でいうdisciplineのことだった。

 

ほかにも、「日本人は元来体慾の旺盛な人種であった。従つて官能の働きが熾烈であつた」とか、「肉や感覚機を統率する所の強大なる主観」の働きを追求すべきとか、独特の言い回しをするのですが、これらはみな教育学系の心理学の述語に根をもっていた。

 

鍛錬説を編み出した赤彦の思考は、東洋思想どころか、実は英語系の翻訳語群に支えられていたのだ。”作歌という行為を成立させるサブジェクトが自身に適切なディシプリンを加え、旺盛なアペタイトとセンスの作用を一点にコンセントレートすることに成功したとき、至高の歌境がひらける”というのが、その思考の筋道だった。

 

「鍛錬」はこの本にそって考えると、短歌をつくる主体(サブジェクト)を作り上げる訓練というニュアンスになります。そして彼の中では教育と短歌が一つのことですから、

 

小学校ワ国民養成場デアル。即チ、国民トシテ最、完全ナル人物オ養成スル所デアル。(「玉川村村勢調査」)

 

このような教育観、「ちゃんとした国民を作り上げる」という教育の目標と、作歌の主体の心を鍛錬するっていう話が同じこととして彼の中にあったということになります。こういう教育観は1890年代のナショナリズム昂揚を背景に普及した考えで、当時の教育者たちに広く共有されたものだったそうです。今では人に引かれると思いますが。

品田さんはこんな風にまとめます。

 

(略)「写生」「全心の集中」「直接表現」を実践する主観(サブジェクト)、つまり作歌の主体(サブジェクト)をどう確保するかを問題にした点に、赤彦の教育者らしい着眼があった。その答えが「鍛錬(ディシプリン)」だったのだ。そこには、短歌の国民化を<国民の歌人化>によって果たそうする構想が含まれていたと見られる(略)

 

ちなみに斎藤茂吉などは作歌をもっと個人的な営為として考えていて、赤彦のこういうノリに違和感を覚えているふしがあったそうです。

 

そして万葉集について。

赤彦は素朴な万葉崇拝者ではありませんでした。

赤彦が三十代のころの伊藤左千夫との対立においてはこの点が争点になります。

左千夫と赤彦は、「原始的な、情緒的な感情の生活」とか「古代日本人の赤裸々な肉体や心の生活」とかいった万葉観においてはおおむね一致していましたが、

その万葉的な直情の表現が現代に通用するかどうかという点で真っ向から対立しました。

 

左千夫の万葉尊崇には一点の曇りもない。歌は「叫び」を目指すべきである。『万葉集』は「叫び」の歌の宝庫である。ゆえにわれわれは万葉を手本とせねばならぬ、というのだ。一方、赤彦に言わせると、万葉時代の感情生活は現代人にとってはすでに「失われたもの」であり、われわれはそれを「追憶して尊く思ふ」しかないということになる。これは事実上の万葉離れの主張にほかならないし、左千夫の目にもそう映ったに違いない。

 

のちには万葉集聖典視するようになるものの、現代歌人としての赤彦は万葉集の歌そのままでいけると考えていたわけではなかった。

 

子どもらのたはれ言(ごと)こそうれしけれ寂しき時に我は笑ふも 島木赤彦

 

わが家の池の底ひに冬久し沈める魚の動くことなし 同

 

これらの歌に品田さんはこうコメントします。

 

万葉語を織り混ぜるとはいえ、これら生活詠・自然詠に表現されたものは本質的に近代的な境地であり、外界の事物を凝視する視線に融かし込まれた自意識や、その自意識が感傷に向かおうとしながらも流路を堰かれて内攻した姿であって(略)。『万葉集』にこんな歌はない。

 

このように赤彦の中では万葉集聖典視する部分と、現代の実作者として自分の歌を作っていく上での構えが一見矛盾して存在していました。

そしてこれを解くためのロジックもやはり、彼の教育者として思想から得られます。

次は左千夫との論争の過程で出された文章の一節。万葉集一点張りの左千夫に対して、「それはもう失われたものなんだよ」と言っている。

 

我々は子供の時に力限り泣き、力限り笑つた。今ではあのやうな泣き方や、笑ひ方は出来ない。(略)あのやうな純一な泣き方や、笑ひ方が我々の一生に通じて失はれなかつたならば、我々はいつも原始的な神の生活が送られるのであらう。しかし我々は実際に於て、何時迄も左様な単純一途な感情に住してゐる訳に行かない。せち辛い人情の流れに住して、そこに境遇の変転を見、そこに世故の悲惨を嘗めて、単純なる感情は幾多の曲折と幾多の研練を歴ねばならない。[・・・/]その代わりに神は我々に別趣なものを与へた。強みのある単情の代りに深みのある情趣を与へた。発作的な感激の代りに瞑想的な感傷を与へた。叫び呼んだ泣き方が涙を呑む泣き方に変わつたのである。[・・・]心理学者が情緒と情操とを区分して考へるのも是である。情緒は動的に激しいものである。情操はそれに比べて静的にしみじみしたものである。[・・・]失はれたものは尊いものであつた。併し、与へられたものは更に深く有難いものであると云へる。[・・・/・・・]我々は決して新しいもののみを認めて、旧いものを認めぬといふのではない。夫れは我々が原始的な、情緒的な感情の生活を追想して尊く思ふのと同じである。只夫れと共に近く発生した生き生きした新しい運動を更に愉快に有難く思ふのである。離れて味ふ歌。叫ばずして沈吟する歌。騒がずして沁み入る微動の響き。眼を閉ぢて瞑想さるる動き。強みよりも深みのある情趣。斯様な色調を帯びて生れ出て居る新しい芽ざしが今後どのやうな発育を遂げるのであろうか。

 

ここから赤彦が教育学系の心理学説から摂取した論点が洗い出されます。

まず、感情の発育/発達過程に「情緒」と「情操」という二段階を設ける点。

赤彦も在学していた師範学校(教員を養成する学校)の教科書には、イギリスの心理学者の書に依拠した、そういう記述があるそうです。

 

「情操」は、このように、もともと<真善美にわたる高尚な感情>を意味する総合的な概念で、そこには芸術的な感受性ばかりでなく、知的好奇心や正義感のようなものまでが包摂されていた。現在でも時おり耳にする「情操教育」の「情操」なのだ。

 

わたしは教育学はかじったこともありませんが、その「情操」に聞き覚えはあります。

さらに、個人の発育史と人類の発達史とを類比的に捉える点。

つまり、「子供から大人へ」と「万葉びとから現代人へ」をパラレルに捉える視点のことですね。

こういう考え方は欧米の教育思想には古くからあり、一九世紀の教育学者たちのあいだで広く支持されていたそうです。これが日本に輸入されていて、教育界ではけっこうメジャーな考え方だったみたいです。

こういう風に、さっきの赤彦の文章のベースの部分は、どれも明治後期の教育学界の概念系に出自をもっていた。

 

そしてそこに、赤彦独自の考え方が付加されている。

赤彦は師範学校を出てから十年目の春に、児童の粗暴な行動にどう対処すべきかを論じた、「動物性と人間性」という教育論を発表しています。

 

「感情を情緒と情操とに分てば、情緒は大体に於て動物性にして、情操は人間性であると云ひ得る」

「特に児童期に属する小学校時代の被教育者にありては、自然の発達上動物性感情の高潮なる時代である」

「教育の目的は勿論真善美の高尚なる感情を養成するにある。併し真善美の情は根底なくして忽焉として養成されるものではない」

「動物性感情の旺盛なるはやがて人間性感情の旺盛を来すべき階段である。此の間に立つて教育者の執るべき用意は只指導である。抑圧ではない。矯正である。刈除ではない。思慮ある助長である。角を矯めぬ修正である。」

 

 

赤彦はこのように、感情発達史の初期段階を格別重視する立場を打ち出し、その立場から「動物性感情」つまり情緒の尊重を主張していた。

 

赤彦の見るところ、情緒はそれ自体としては低級な感情であるものの、同時に、情操という高次の感情を根底で支えるものであって、この土台がしっかりしていなければ立派な建物など建ちようがないのだった。子供のころ思うさま笑ったり泣いたりしたことのない者が、成長してからどうしてあくなき探究心や、堅固な正義感や、優れた芸術的趣味や、その他もろもろの豊かな心の持ち主となれよう。情緒こそあらゆる精神活動の源泉であり、人間性の原典でなければならぬ―この思想は、しかも、個々人の発育と人類の発達の双方に、同時に妥当するはずなのだった。

 

そして彼は教育論と歌論の区別がない人だから、

 

国民歌集『万葉集』は、まさにこの脈絡において、どこまでも歌の聖典でなくてはならなかった。万葉以来の伝統とは、万葉めいた歌が詠まれつづけるということではない。むしろ逆に、歌が新しくなればなるほど、ますます『万葉集』の存在が重みを増してくるのだ。歌ばかりではない。社会が進歩し、人々の感情生活が複雑化すればするほど「万葉びと」の素朴な感情生活に触れることが重要な意味を帯びてくるのである。

 

ここでさっきの個人の発達史と人類の発達を類比的に見る視点にもとづいて、さらに「教育」と「短歌」の区別がない思考回路によって、赤彦の万葉尊重が成立する。

人間の発達の土台になる「動物性感情」の重視が、短歌における古代の万葉集の尊重につながる。それを大切にしなければ、立派な人間/作歌主体にはなれない。

まとめです。

 

改めて鍛錬説について言おう。赤彦がそれを提唱した最大の意図は、万葉尊重と万葉離れとをつなぐ点にあったと考えてよいだろう。情緒的感情を情操/情趣の水準に引き上げるには鍛錬(ディシプリン)が必要だ、とこの教育者は考えた。万葉時代の人々は単純一途な原始的感情に生きていたので、詠み出でた歌々におのずと緊張した響きが備わったが、複雑化した現代社会に生きるわれわれにとうていその真似はできない。意識的に自己の精神を鍛えるのでなければ、散漫になりがちな感銘を一点に集中することは難しいし、まして成熟した歌境の開拓はおぼつかない―「鍛錬」説は、このように、作歌上の方法論として提出されながらも、本質的には修身の論であり、同時代の国民の精神をいかにして高めるかという議論であって、ありていに言えば、生温い気分を叩き出せという議論であった。

 

実はまだ続きがあるのですが、このへんで一段落にしたいと思います。

この赤彦論(作家論ではないと品田さんは書いていますが)はすごく鮮やかだし、

なんだろう、一人の人間のなかで「短歌」とか「教育」とか「国民」がここまで絡み合うのか、と思ってわたしにはとても印象深かったです。

あと、今は品田説自体を検証することはできないので、もうちょっと自分で赤彦のものを読んだら、それと付け合わせてみたいですね。

 

それにしても、「動物性感情」の重視のところは赤彦独自のもので、「一般的な考え方ではなかった」となってるのですが、小学校の先生でこんなこと考えてそうな人はわりといた気がします。わたしはけっこう落ち着いた子供でしたから、「こんなにテンションが低くては立派な人間にはなれない」とか思われてたのかもしれません。ほんとうに大きなお世話ですね(言われてないけど)。

赤彦は高校とかじゃなくて小学校の先生だったのも大きいんでしょうね。

 

わりとディープな話になりましたが、なにかの参考になれば。

 

ではまた。

 

第49回 品田悦一『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』

超ロジカル茂吉評伝 堂園昌彦 

斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり (ミネルヴァ日本評伝選)

斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり (ミネルヴァ日本評伝選)

 

 

 

こんにちは。

 

今日やるのは、品田悦一(しなだよしかず)著『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』です。2010年にミネルヴァ書房から出ています。前々回の47回の永井祐さんのやった『万葉集の発明』と同じ著者の方ですね。

 

短歌のピーナツ、去年の4月から始めたのでそろそろ開始から一年経ちます。だいたい一年やってきて、面白い歌書も、面白くない歌書も、そこそこの数読んできました。で、ようやく最近、面白い歌書とそうでないやつの差がどういうところにあるのか、なんとなくわかってきたような気がします。

 

それは、取り扱ってる対象をあらかじめ「素晴らしい」と決めてから書き始めてる本はほぼ面白くなく、「これは良いのかなんなのかわからないけど、なんか妙だから考えてみよう」という本は、だいたい面白いということです。

 

言い換えると、「素晴らしい」に至るまでのプロセスをちゃんと書いてくれてると面白くなるのですが、「素晴らしい」から出発しちゃうと、どうも著者だけが了解していることが多すぎて読者は入り込めないことが多い。まあ、当たり前っちゃ当たり前なのですが、短歌の本は概して後者のことが多いのです。

 

もちろん、そうした評論にも示唆的なところは多々あるんですが、あんまり情緒的な誉め言葉ばかりを読んでいると、「澄み切った精神によるあらたな歌境に入った」とか、「この時期、〇〇は自己の寂しさを徹底的に見つめることとなったのである」とか書いてない本を読みたくなります。

 

で、今回取り上げる品田悦一さんの『斎藤茂吉』は、そういうのがないほうの本ですね。非常にロジカル、かつ分かりやすくてお勧めです。

 

どういう本かというと、大枠は斎藤茂吉の評伝なんですけど、具体的な内容としては、『万葉集』を軸として、いままでわりと曖昧にされてきた「国民歌人」としての茂吉の立ち位置をロジカルに切ってみせ、返す刀で茂吉の表現上の特徴もあぶり出す、という本です。評伝としてはわりと異色というか、2010年の出版当時も、賛否両論出てけっこう話題になってた記憶があります。

 

本書は旧著『万葉集の発明』をふまえて書かれるわけだが、その関係は、正編に対する続編というよりも、むしろ概論に対する各論に近い。(p.8) 

 

と、著者が言っているように、概ね、第47回で永井さんが取り上げてた『万葉集の発明』で論じられたことのラインにあります。でも、別に『万葉集の発明』を読んでいなくても大丈夫です。基本はしっかり説明してくれます。いままで歌人たちの評論がぼんやり記述してきたことを、明確な論拠を示しながら考察していて、はっきりいってかなり気持ちいいです。

 

品田さんは、序章で茂吉の文章の特徴をこう述べています。

 

 肝心な点を韜晦する反面、韜晦の身振りがやけに大袈裟で、それだけに何かが隠されていることだけははっきり伝わってくる――根が正直なのか、それともよほどの食わせ者なのか、おそらく両方なのだろうと思われるが、とにかく、茂吉の文章と付き合うには前もってこの呼吸を飲み込んでおくことが肝要だろう。(p.11)

 

「肝心な点を韜晦する反面、韜晦の身振りがやけに大袈裟で、それだけに何かが隠されていることだけははっきり伝わってくる」……、うわあ、ここらへんまじ茂吉だわ。実際、研究対象として斎藤茂吉は非常に取り扱いにくいところがあります。その辺の苦闘は、このブログの第一回で取り上げた佐藤通雅さんの『茂吉覚書 評論を読む』でばっちり出ていました。品田さんは茂吉の曲者っぷりをちゃんとわかって取り扱おうとしている。期待が高まるじゃないですか。

 

 行間が不透明でありながら同時に雄弁でもあること、それは茂吉の短歌にも通ずる性格だろう。私はなけなしの想像力と洞察力とを傾注して解読に努めたつもりだが、見極めを誤った場合がないとは言いきれない。ただし、事実と判断とをないまぜにするような記述だけはしなかったはずだから、読者諸賢はそこを的確に読み分け、各自の判断につなげてくだされば幸いである。(p.12) 

 

「事実と判断とをないまぜにするような記述だけはしなかったはずだから、読者諸賢はそこを的確に読み分け、各自の判断につなげてくだされば幸いである。」、いいですね。ヨッ! と声をかけたくなるようなロジカルな宣言です。この本はやっぱりこれまでの茂吉本からすると異色の部分が多いのですが、筆致は非常にクリアーなので、読まれて判断されるのもいいんじゃないかと思います。

 

品田さんは『斎藤茂吉 異形の短歌』という、今回の本のさらに各論を2014年に出していて、私はそっちは未読なんですが、そちらもぜひ読んでみたくなりました。

 

 

ほんとおもしろかったんでいろいろ書きたいんですが、どっから喋ろうかな。

 

じゃあ、まず、茂吉の短歌のスタートから。 斎藤茂吉は明治15年(1882年)山形県生まれ。生家はそこそこ大きい中農でした。茂吉は勉強がめっちゃできる子供で、よくあるパターンですが「神童」とか呼ばれてました。

 

で、同郷の出身で東京浅草で開業していた医師の斎藤紀一が、「男の子に恵まれないので、故郷に優秀な少年がいたら引き取って育て、ゆくゆくは養子にしたい」と漏らしていたのが、茂吉の父親に伝わり、茂吉は明治29年(1896年)に15歳で上京し、紀一のもとで寄宿生活に入ることになります。将来的には、紀一の跡を継ぎ、精神科医になることを期待されていました。

 

本格的に短歌を始めたのは、一高三年の冬、23歳のとき。正岡子規の歌を読んで魅了されたのがきっかけです。子規はそのとき、2年ほど前にすでに亡くなっていましたが、遺歌集『竹の里歌』が出ていました。茂吉はそれを神田の貸本屋で借りて読んだそうです。それ以前にも開成中学3年生のときに周りの文学少年たちが回覧雑誌を出していたのに影響されて、ちょろっと作ったりはしていたみたいですが、のめり込むようになったのは、子規の歌を読んでからのようです。

 

当時、茂吉は友人への手紙にこう書いています。

 

「小生は鉄幹が詩も分らぬながら敬服して見、信綱直文諸氏の歌も一読いたし候へしもドーモ竹の里歌が気に入り申候これも意味なき事にて、何か前世からの宿縁とでも申すべきことならむと考ひ〔ママ〕居り候」(p.53) 

 

与謝野鉄幹佐佐木信綱落合直文正岡子規……、ここらへんが明治37年あたりにはメジャーだった歌人たちなんですね。で茂吉はそのなかで子規に惹かれた、と。

 

茂吉が子規に惹かれた理由は、その「万葉調」ゆえとこれまでは言われてきました。しかし、品田さんはそれに否を唱えます。

 

子規の歌が「万葉調を混じて居る」と「断定」できた、という茂吉の回想は、まったくの作り事ではなかったかもしれない。けれども、その「断定」は、たとえば、終助詞「かも」が使用されているから万葉調だという程度の、ごく表面的な判断でしかなかったに違いない。しかも、特に印象に残ったらしい上記「柿の実の」以下六首には、その「かも」はおろか、万葉特有の語詞や語法はまったく使用されていないのだ。彼の感動は「万葉調」とは無関係だったと見ておかなくてはならない。(p.56,57)

 

「彼の感動は『万葉調』とは無関係だった」。では、茂吉が子規に惹かれたのはなんなのか。品田さんは、子規の持っていた「分かりやすさ」が理由ではないか、と分析しています。

 

では何が感動の原因だったか。私は、本人が「かういふ種類の歌ならば、僕にも出来ないことはないと思はせた」(⑥)、「従来の歌のやうにむづかしくなく、これならば私にも出来るやうにおもはれた」(⑦)と繰返し回想している点を重視したい。(p.57)

 

「従来の歌のやうにむづかしくなく、これならば私にも出来るやうにおもはれた」。あの大歌人斎藤茂吉がスタート時にはこう思っていたことは、面白いですね。もちろん、いかなる大歌人といえど、始める前は素人ですから、この感想は当たり前といえば当たり前なんですが、それでもやはり注目してもいいと思います。

 

子規の歌は何よりもその平明さ、分かりやすさによって茂吉を魅了したのではなかったか。というのも、そのとき彼の念頭にあった「従来の歌」とは、子規以前の新派和歌ではなく、中学時代に読みかじった『歌のしをり』や『山家集』に載っていた古典和歌、具体的には次のような歌々だったはずだからである。(略)

 

いつしかと明けゆく空のかすめるは天の戸よりや春はたつらん 顕仲

あかてゆく春の別にいにしへの人やうづきといひはじめけん 実清

 

 

(略)これら古典和歌の典雅艶麗な歌境が、明治三十年代の中学生の精神世界からおよそ縁遠いものだったことは想像に難くない。(略)茂吉少年の脳裏には〈歌は難しくて歯が立たない〉との悪印象ばかりが刻みつけられたに相違ない。

 その印象を『竹の里歌』が一蹴してしまったのだと思う。難しいとばかり思い込んでいた歌がすらすら分かる。そして同感できる。世の中にこういう歌もあったかと思うと「僕は嬉しくて溜らない」「僕は溜らなくなつて、帳面に写しはじめた」(略)

(p.57~59)

 

本格的にのめり込む前、茂吉の頭にあった「短歌」のイメージは、古典和歌の〈難しい〉イメージでした。それが、子規の歌を読んだらすらすらわかり、気持に同感できる。そのことが「嬉しくて堪らない」と茂吉は言います。これ、まんま現代で、穂村弘枡野浩一、あるいは俵万智の歌を読んだ読者の感想とおんなじですよね。そのことに私はちょっと感動します。

 

で、そもそもなんで子規の歌はわかりやすいのか。その背後には、「国詩/国民的詩歌(ナショナル・ポエトリー)の創出」という目的がありました。

 

出た! 「国民的詩歌(ナショナル・ポエトリー)」!! このブログで第27回新体詩の話とか、第33回落合直文の話とかでさんざん出てきましたよね。明治になって「日本」が出来たため、これまでバラバラだった各地の言語や意識を「国民」の名のもとに統一しようとする動きです。ひらたく言うと、「みんなに通じる詩歌を作ろう」というやつですね。

 

以前の話の繰返しになりますが、明治15年に外山正一らが『新体詩抄』を出版し、「国民的詩歌」を作ろうとする運動を始めます。その中には、伝統的な和歌を批判する部分がありました。

 

外山正一・井上哲次郎・矢田部良吉の三名が『新体詩抄』(初版一八八二年、丸屋善七)を刊行して以来、「国詩」創出の指針として繰り返し唱えられたのは次の四点だった。新時代にふさわしい複雑雄大な内容を盛り込むために、

 一、詩形の長大化

 二、用語の範囲の拡張

を図ること、そして国民的普及を可能にするために、

 三、表現の平明化

 四、過剰な修辞や擬古的措辞の排除

を推進することである。(p.61)

 

要するにまとめると、「和歌は短すぎ」「和語しか使わないなんて言葉限られすぎ」「むずかしすぎ」「よくわかんない凝った修辞使いすぎ」ということです。そんなのもう時代遅れっすよ、と外山らは言ったわけですね。

 

それに反応して、国文学者の萩野由之(よしゆき)・池辺義象(よしかた)・落合直文らは「いやいや、確かに平安時代以降の和歌にはそういうところもあるけど、万葉集は違うよ?」と反論します。曰く、万葉集には長歌もあるし、漢語もちょっと使ってるし、万葉のことばは当時の普通語でわかりやすいし、あと、表現も率直だよ、と言い、万葉集こそ、むしろ「国詩」の古代における先例なのだ、と持ち上げます。

 

明治の詩歌は明治のことばで創作されなくてはならない。さもないと国民的普及は期しがたい。ところでここに『万葉集』という由緒正しい手本があって、天皇から庶民までの歌があまねく収められている。奈良時代には和歌という同一の文化を国民全員が享受していたのだ。なぜそういうことが可能だったか。何よりも、小難しいことばづかいを避けたからである。今でこそ耳遠い古語となってしまったものの、当時はあれが現代語であり、日常会話に使用されるのとそう隔たりのないことばであって、万葉の歌人たちは、自身の内面を流れるそのことばを使用して、思ったり感じたりしたことを偽らずありのままに表現した。枕詞やら序詞やらはこのさい無視しよう。過剰な装飾も末梢の技巧も介在しない自然な表現こそ万葉の持ち味であり、尊いゆえんでもある――啓蒙主義的言語観に導かれて、およそこのような見方が通り相場となっていった。(p.65)

 

実際には、万葉集のことばが「当時の日常語」だったりとか、「天皇から庶民まで」あらゆる階層のひとの歌が収められている、というのは言い過ぎというか嘘なのですが、「国詩」の要請の前に、なんとか和歌を守ろうと、こういう主張をするのです。第47回『万葉集の発明』で永井さんも説明してましたよね。

 

で、子規はこれに乗っかったわけです。子規の万葉尊重は、あくまでも「国詩」、つまり、わかりやすく伝わりやすい詩歌を創り出すための手段でした。なので、子規は万葉調を奉じ、万葉集の言葉を歌に取り入れようとする一方で、現代の読者にはあまりに耳遠くわかりづらい万葉の言葉は避けていた節があります。

 

そんな感じの子規の歌の「わかりやすさ」に、23歳の茂吉は感動し、それ以後、一時期学校の成績を悪くするまで短歌にのめり込んで行きます。それで、子規の直接の弟子であった伊藤左千夫が、子規亡きあとに運営していた『馬酔木』を購読し始めます。

 

ただ、『馬酔木』の歌は、茂吉にはよくわからなかったそうで、それも面白いところです。実は、伊藤左千夫は、子規の万葉尊重の理念を誤解して、万葉集は「雅」だから良い、と子規とは真逆のことを言ってました。

 

子規は、『日本』紙上で初めて左千夫と接触したころ、和歌・俳句が国民の文学として発展すべきことを強調して、当時「春園」と号した彼を牽制したことがある(「人々に答ふ 十一」一八九八年四月、全集7)。その左千夫は、子規に没書とされた投稿の中で、人類の性質に天賦の賢愚利鈍がある以上は社会に階級が生ずるのは必然で、社会現象としての文学も階級による分裂を免れることはできない、と論じていた(「日本新聞に寄せて歌の定義を論ず」同年三月筆、全集5)。彼の発想には「国民」という観念が欠落していたのである。現に、別の投稿で「和歌は貴族の如し」などと口走って(「小隠子にこたふ」同年二月、全集5)、子規に厳しくたしなめられたこともある。

 左千夫の信ずるところ、和歌は本質的に「雅」なものであり、その「雅」の極致は『万葉集』にある。万葉時代の歌聖たちが完全無欠の歌境を達成してしまった以上、後世の自分たちはそこに少しでも近づこうと努力するまでで、凌駕したいなどと望むのは不遜も甚だしい。まして万葉の歌を「自然の調」「有のまゝの言葉」などと称するのは、歌の分からぬ愚か者の言いぐさでしかない(「歌の定義を論ず」前掲)。詩歌の史的発展を否認するこの議論は、子規の考えから見ても、当時広まりつつあった万葉像から見ても、さらには進化論全盛の当時の思潮全般から見ても、およそ反動的なものにほかならなかった。(p.70,71)

 

そんな考えなので、子規はシンプルさを狙って万葉を取り入れたのに、左千夫は逆に雅っぽさを狙って万葉集の古語を導入しようとします。『馬酔木』はまるっきり時代を逆行することになってしまいます。

 

散りばめられた古語にどういう効果があるかといえば、せいぜい厳かな印象を与えるくらいのことで、なかにはそういう印象が逆効果となっているものさえある。(略)

 要するに、最晩年の子規が憂慮していた傾向を左千夫たちが推進した結果、万葉調は仲間内だけで通じ合う一種の符牒と化して、その符牒への精通ぶりを互いに競い合うような、マニアックな空気が結社に蔓延していったのである。(p.74)

 

なので、当然、根岸派は『明星』の新詩社などに比べて、歌壇的には箸にも棒にもかかりません。

 

そういう根岸派が世間から時代錯誤の擬古派と目されたこと、そのためもあって明治期を通じたかだか数十人の弱小集団でしかなかったことは、ある意味では当然のなりゆきだったろう。(p.74)

 

ここら辺の左千夫の迷走と奮闘は、第41回・藤沢周平『白き瓶 小説長塚節』の回を読んでいただきたいのですが、それでも、茂吉は子規の影を求めて、なんとか『馬酔木』を読もうとします。

 

再三触れたように、『竹の里歌』が機縁となって作歌に熱中していった茂吉は、やがて『馬酔木』の購読者ともなったが、掲載されていた歌にはむしろ違和感が先立ったらしい。このときの印象を彼は、《この雑誌の歌は、「竹の里歌」の歌よりも、古調といふのであつて、なかなかむづかしいものであった。単にむづかしいといふよりも、私の実力では読めないのが幾つもあつたし、「竹の里歌」を読んだ時のやうな感奮をも得ることが出来なかつた》(「文学の師・医学の師」前掲⑦)、《古語をしきりに使つて、難解なものであつた。私は勝手がちがふといふ気持もした》(「短歌への入門」前掲⑧)などと繰り返し語っている。それでいて「アシビ所収の歌は皆優秀なものに相違あるまいと、堅い盲目的な尊敬をはらつて」、辞書を引き引き苦心して読んだともいう(「思出す事ども」前掲)(p.78)

 

「『馬酔木』の歌はなんか難しいし、子規の歌と違うなー」「でもたぶんこーゆーのがいい歌なんだろうなー」と思ってる茂吉がいじらしいというか、泣かせます。でもまあ、後の茂吉と左千夫との確執は、すでにこういったところに埋め込まれてたのかもしれません。

 

で、茂吉は特に『馬酔木』に入会しようとは思ってなかったのですが、ある時、自分の作った歌を同級生に馬鹿にされます。なんか、文法が間違ってたらしいんですね。当時から負けず嫌いな茂吉は、反論したくていろんな本を調べまくるのですが、それでもやっぱりそういう語法は載ってない。茂吉はやり込められた形になります。悔しくて仕方がない茂吉です。

 

でも実は、その語法は元々、『馬酔木』で見かけた使い方を真似てみたものだったんですね。諦めきれない茂吉は迷った末、左千夫にその語法の根拠を手紙で質問してみます。そしたら、なんと左千夫からすぐに返事が来ました。その説明は、左千夫らしく支離滅裂なものだったみたいですが、茂吉はすっかり感激してしまい、文法のことはどうでもよくなったとか。

 

感謝の手紙を左千夫に送り、そこに自作の短歌を十首くらい書き添えたところ、「面白かったから、5首を馬酔木に載せる」と返事が来ます。その後、遊びに来いと言われ左千夫の家を訪れて、茂吉は左千夫の弟子になることになりました。25歳の時でした。

 

 *

 

はい。ここまでが茂吉のスタート。しかし茂吉は『馬酔木』入会後、第一歌集『赤光』を32歳で出版するまで、長く低迷することになります。

 

惰性で作歌していたのかといえば、決してそうではない。大学時代の茂吉は、学業がおろそかになるほど歌に熱中し、「こんなに歌が好きであつたかと自ら思ふこともあつた」というし(「短歌への入門」前掲⑧)、そのころはもう『万葉集』も読めば『金槐集』も読み、根岸派の雑誌のほか『心の花』『明星』などにも広く目を配って、吸収できるものを吸収するよう努めていた。渡辺幸造宛の書簡には急所を突いた批評がいくつもあるから、歌を見る目もかなり肥えてきたらしい(柴生田七九)。それでいて実作がさっぱり振るわなかったのは、つまり努力が空回りしていたのだと見るほかはない。(p.91,92)

 

茂吉の習作期は努力が空回りしていた。理由はいろいろあるんですが、まずは『馬酔木』全体の擬古的な雰囲気に、違和感を覚えながらも無自覚に追随してしまったこと。そして、歌の細部に変にこだわって、全体をないがしろにしてしまったことがあります。

 

老いらくの母がはろはろ寒かろと女文字せす健やか吾は

をこ人はむなぎがぬめら握らまく習へるほどに年をへにけり

 

当時の茂吉の歌を挙げると、こういうものになります。左千夫から「君は言葉に興味を持ちすぎるね」と指摘されたとおり、言葉の響きばかりに淫して、全体の整合性をないがしろにしている作品が多いです。一首目は、「はろはろ(遙々)」という万葉語と「寒かろ」という俗語を響き合わせていますが、文体の統一感は壊されてしまってますし、二首目は「むなぎ(鰻)」という万葉語の響きの面白さに、茂吉が夢中になっている様はわかるものの、「馬鹿者は鰻のぬめらを握ろうと練習しているうちに年を経てしまった」とかいう内容は、何なのかさっぱりわかりません。「ぬめら」って何よ。鰻のぬめぬめのこと?

 

というふうに、たしかに低迷期だなあ、という作品なのですが、品田さんはここに『赤光』の文体を準備したものを見ます。これらの歌に見られるように、茂吉は万葉の言葉を、左千夫のように擬古的に「雅」なものとして捉えたのでもなく、かといって子規のように平明さを追及する上での語の拡張とも捉えていません。そういった思想的な背景はなく、単に見慣れない言葉、珍奇な言葉として面白がっています。そして、それらの言葉をまるで玩具を扱うように、撫でまわしたり、感触を確かめたりして、ひたすら味わおうとしているのです。

 

そして、こうした奇妙な言葉たちは、後に茂吉が「生きてこの世にあること自体への戦き」という根源的なテーマに出会ったときに、歌の中で異質なものとして、存在感を放ち始めます。それこそが、『赤光』の文体を作り上げたものだと、品田さんは言っているのです。

 

では、具体的に『赤光』の歌を見ていきましょう。

 

めん鶏(どり)ら砂あび居(ゐ)たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり

 

有名な、『赤光』中の一首です。真夏の白昼、鶏小屋では雌鶏らが焼けた砂を浴びている音が聞こえてくる、そこに剃刀研ぎが過ぎて行った、という内容の歌ですが、一読、異様な迫力を感じることができます。

 

まず、「剃刀研人(かみそりとぎ)」という言葉がすごい。めっちゃ異様に響きますね。

 

恥を記せば、私はある時期まで、明治大正ごろの東京には剃刀ばかりを専門に研いで回る職人がいたものと思っていた。が、どうもそうではなく、同じ人が鋏も研げば包丁も研いだものらしい。その、ふつう「研ぎ屋」と呼ばれていた職人を「剃刀研人(かみそりとぎ)」としたのは、たぶん一種の造語で、もっとも鋭利な刃物に焦点を当てたのだろう。(p.111)

 

剃刀砥人は、造語だったんですね。げー、全然気づかなかった。品田さんは塚本邦雄の言葉を引きながら、「この語が一首に『禍々しい気配』を呼び込んでいる。」と言っています。

 

また、「砂あび居たれ」という語法も異様です。これは文末が已然形になっていますが、上に「こそ」はないし、係り結びでもないのに已然形になるのは、実はヘンなんですね。

 

意味的にも、もしこの語が〈砂を浴びていたら〉という意味の条件句だったら、「砂あび居れば」が自然です。あるいは〈砂を浴びている〉といったんここで切れる終止句ならば、「砂あび居たり」とするでしょう。「砂あび居たれ」だと条件句なのか終止句なのか、わかりません。

 

万葉集には、似た用法はないでもないのですが、用例は極端に少なく、しかもその時は順接の確定条件句となって下へ続くのが通例だそうです。「砂あび居たれ」みたいな使い方は、茂吉が万葉の語法をデフォルメして、勝手に作っちゃったみたいなんです。

 

要するに、こんな言い方はないし、よくわからない言い方なので、歌意をきちんと取りづらいんですね。だが、茂吉はそれをあえて使っていて、その耳慣れない語法はかえって違和感を掻き立て、万葉っぽさを読者に印象づけます。結果、この砂浴びの異様さが強調されるのです。

 

また、「ひつそりと」の語も重要です。これは現代語で、全体の万葉っぽさの中で異分子のように働きます。万葉の言葉には促音(ッ)がありませんから、音韻的にも全体の調和を乱しています。試しにこれを「ひそやかに」とか「ひそかにも」等の古典和歌にありそうな言葉にすると、全体的に雰囲気は統一されますが、かえって張りつめていた空気が弛緩して、印象は平板になってしまいます。

 

使用語彙に沿って言えば、かつての根岸派がそうしたように、あらゆる事象をことごとく万葉語でまかなうのでは、図と地が反転するようにして、万葉語自体が見慣れたことばに転落しかねない。非万葉語の大胆な取り込みは、万葉語の異化作用を維持するための手法と解釈できるし、万葉語の側から見れば非万葉語自体が異化作用をもつともいえる。作者はおそらく手探りでこの手法にたどり着いたのだろうが、それを可能にしたのは、前章までに述べておいたような、特異な言語感覚だったはずである。(p.114,115)

 

他の根岸派(子規の追随者たち)がやったように、一首全体を万葉語とか古典和歌っぽい言葉で統一してしまうと、かえって万葉語自体が見慣れたことばになってしまい、言葉の異様さは際立ちません。茂吉は、万葉っぽい言葉と現代語を大胆に混ぜたからこそ、その「万葉調」が活きた。そして、それは言葉にやたら執着するという茂吉独特の性質が手繰り寄せた、という品田さんの分析は鮮やかだと思います。

 

しかし、なんですかねー。茂吉のすごさはよくわかったんですが、たぶん皆さんもちょっと思ったんじゃないかと思うんですが、そうすると、よく言う「文語」と「口語」の差ってなんなんだ、とか思いますよね。このブログの第25回・安田純生『現代短歌のことば』の回で、永井さんが紹介してくれたように、今の短歌の「文語」はかなり「口語」だということがわかっているのですが、この茂吉の例なんか見てても、「短歌に文語が適しているのは、1400年ずっと文語で作ってきたのだから明白だ」という言説は、どうなんだろうと思います。思いっきり明治の時代に新しく語法まで発明しちゃってますからね。

 

まあいいや、ここでは深入りしません。話をもとに戻すと、こうした、万葉語と非万葉語を衝突させ、一首のテンションを上げる、みたいな技法は、『赤光』の随所に見られます。たとえば、

 

ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終(つひ)にかへり見ずけり

くれなゐの百日紅は咲きぬれど此(この)きやうじんはもの云はずけり

にんげんの赤子(あかご)を負へる子守(こもり)居りこの子守はも笑はざりけり

 

とかいった歌では、「ダアリヤ」や「狂人」、「百日紅」(ひゃくじつこう)や「きやうじん」、「にんげん」といった言葉は、全体の万葉調の中で、音韻的にも異様に響きます(さっきも言いましたが、万葉語には、「ッ」とか「ン」とか「キャ、キュ、キョ」とか、あと「ダアリヤ」みたいに語頭に濁音がくる言葉はありません)。

 

こうした技法上のインパクトが読者にも刺さったのか、第一歌集『赤光』で茂吉は、ドカン! と有名になります。書評にも「びっくりした」「すげえ」「新しい世界だ」みたいな言葉がガンガン出ます。茂吉は『赤光』一発で、歌壇の第一人者です。

 

低迷していた茂吉がどうして『赤光』の文体を手にすることができたのか。いろいろあるみたいですが、基本は、当時森鷗外のやっていた観潮楼歌会に出て様々な作風から刺激を受けたこと、そして、学校を卒業し精神科医として働きだしたことがあるみたいです。つまり、「狂人」たちの世界に入り、「にんげん」におののいたことで、世界への違和感をするどく感受することになったのでしょう。品田さんは、『赤光』の特徴をこう評しています。

 

『赤光』とは、生きてこの世にあることを大いなる奇蹟と観じた男が、まのあたりに生起するあらゆる事象に目を見張り、戦(おのの)き、万物の生滅を時々刻々に愛惜しつづけた心の軌跡なのだと思う。そこには自明なことがらは何一つない。ことばを覚えはじめた幼児にとってそうであるように、世界は真新しく、謎に満ちている。(p.119,120)

 

 

はい、大正2年に32歳で第一歌集『赤光』が出て、茂吉は一躍スターに。しかしなんと、第二歌集『あらたま』で、また茂吉は低迷してしまいます。

 

茂吉の『赤光』の影響もあり、大正時代をかけて『万葉集』は人々の認識に「国詩」としての位置を占め始めます。と、同時に「万葉調」を標榜していた『アララギ』は、会員がどんどん増えます。弱小集団だったのは過去のこと。『明星』の時代だった明治に代わり、大正は『アララギ』の時代です。

 

アララギ』内部でも、万葉集の位置は微妙に変わっていきます。伊藤左千夫亡きあとに『アララギ』の編集を取り仕切っていた島木赤彦は、万葉集に道徳的な観点を見て、人格の陶冶と短歌の上達を一致させる「鍛錬道」を唱えていきます。要するに、『アララギ』の中で『万葉集』は、どんどん聖典化していったということです。

 

茂吉は『万葉集』に言葉の面白さの側面だけを見ていて、こうした啓蒙的・政治的な見方はぜんぜんありませんでした。茂吉は基本ことばにしか興味のない人で、たぶん本質的には政治とかに関心の持てないタイプの人間です(このへんの話は、第21回 岡井隆・小池光・永田和宏『斎藤茂吉――その迷宮に遊ぶ』でも出てきました)。だからこそ、万葉集の言葉をある意味自分勝手に拝借したりすることができ、それゆえ、現代においても古語のポテンシャルを活かすことができました。しかし、アララギ内部のこうした変化や、「万葉調の茂吉」みたいに人々から言われたことをきっかけに、茂吉自身も「やっぱり万葉集の言葉には忠実にならなければならない」と、伝統主義的な価値観に陥ってしまいます。

 

あと、さっき説明した、『赤光』にあった文法的には意味がつながらないというか、無理しているところは批判も受けて、茂吉自身もそこをけっこう気にし出しちゃうんですね。『あらたま』を出したのと同じ年に、茂吉は気になるところを直しちゃった『改選 赤光』を出版したりします。

 

こうして、『あらたま』後期からそれ以後にかけて、茂吉の文体は急速に枯れていきます。そして、どんどん歌が作れなくなります。それもそのはずで、「幼児のように世界を異様なものとして見る」という茂吉本来の性質から外れたことをやろうとしているのですから、モチベーションはどんどん下がっていきます。

 

汗(あせ)いでてなお目(め)ざめゐる夜(よ)は暗(くら)しうつつは深(ふか)し蠅(はへ)の飛(と)ぶおと

 

いささかの為事(しごと)を終(を)へてこころよし夕餉(ゆふげ)の蕎麦(そば)をあつらへにけり

 

 

『あらたま』後半の歌は、こんな歌です。『赤光』とは明らかに違うのがわかります。こうした作風は、当時もアララギの有力同人には「円熟味が出た」と高い評価を得られ、現在でも同様の見方は多いです。

 

しかし、茂吉本人としては、これ以後作歌が不振になってしまい、ついには、第二歌集『あらたま』の編集さえ諦めかけてしまうのです。

 

僕の第一歌集「赤光」を編んだ時、自分の歌の不満足なのをひどく悲しんで、どうしようかと思つた。それでも「赤光」を発行してしまふと、「赤光」以後の歌は僕の本物のやうな気がして、第二歌集には今度こそいい歌を載せられるといふ一種の希望が僕の心にあつたのである。そこで未だ発行もしない第二歌集に「あらたま」などと名を付けて、ひとり秘かに嬉しがつてゐた。〔……〕

 さういふことをいろいろ思い出してくると、「あらたま」の編輯にまだ手を著けない前は、「あらたま」の発行に就てなかなか気乗がしてゐたことが分かる。優れた歌集になるやうなつもりで居たのである。然るにいよいよ編輯をはじめてからは、刻々にその希望が破壊されて行つて、編輯の了つた今では、希望のかはりに只深い深い寂しさが心を領してゐる。その間に人知れぬ煩悶もあつたのであるが、今ではそんな心の張りも無くなつてゐる。編輯の長引いたのは、途中で自分の歌を見るのが厭になつたからで、思出したやうに雑誌の切抜などをひろげて纏めかかると、数首読んでゆくうちにもう厭になる。厭で溜まらぬから改作しようとすると到底思ふやうに行かない。そこで放擲してしまふ。手を著けては中止し中止ししてゐたのが、このたび病になつて山中に転地したために、一週間ばかり毎日少しづつ為事をして、どうにか纏めてしまつた。   〔「あらたま編輯手記」前掲〕

 

こうして、なんとか大正10年(1921年)に40歳で「どうにか纏めて」出したのが、第二歌集『あらたま』でした。

 

万葉集』は、単に見慣れないことばに富むだけでなく、真の意味の技巧の宝庫でもある――マンネリ打開の道を求めていた茂吉は、この“発見”にも励まされて、『万葉集』に全面的に帰順することを決意したのだろう。以来、修練の第一義を先人の技巧の体得に置く反面、大胆なことばの実験にはあえて挑まなくなっていったのだと思われる。

 創作者としての内発的要求と、同時代の思潮とが合致するかに見えたこと――茂吉が名実ともに万葉調歌人となろうとした理由はそこに求められるだろう。陥穽は、自らの資質を裏切るこの転向を本人が「自己本来の道」(柴生田七九)と信じ込んだ点にあった。(p.176,177)

 

実際、36歳~40歳の長崎時代、40歳~43歳のドイツ留学時代には、茂吉はほとんど歌を作っていません。本人的には、短歌はもう余技として時々やるくらいで、本分は医師として学究生活に入ろうとしていたみたいです。

 

あの「短歌の権化」の茂吉が三十代後半から四十代半ばにかけて、いったん短歌を諦めかけてたのは、けっこうびっくりしますよね。例の「実相観入」などを唱えだしたのも実はこのころで、品田さんは、作品の不振の代償行為として、評論を充実させたのではないか、と分析しています。

 

短歌を完全に止めたわけではないのですが、茂吉の歌集はこの後長く出版されず、次に出た『寒雲』は昭和15年(1940年)と、『あらたま』の発行から実に19年も経っています。

 

 

さて、こっからもまた面白いのですが、全部書いちゃってもあれなので、このへんにしときましょうか。これでこの本の前半はんぶんくらいです。後半も、ドイツ留学から帰って来るちょうどその瞬間に青山脳病院が焼けてしまうことで目指していた医学生活が閉ざされ、結果的に短歌にカムバックしていくこととか、島木赤彦が亡くなることで、『アララギ』を茂吉1人が担うことになった結果、元々そんなに詳しくなかった『万葉集』を説き、「国民歌人」としてのアイデンティティーを担わざるを得なくなった過程とか、茂吉と赤彦の写生論の違いとか、非常に興味深いです。

 

あと、茂吉と戦争に関する記述も、茂吉が戦争詠を「未開の地」と捉えて、創作上の好奇心から積極的に詠おうとしていた、とか非常によくわかりますし、「文学的良心」が戦争協力と矛盾しなかった話とか、戦後、戦争責任に対する非難をまったく理解できず、ただただ不条理なものとしてしか受け止められなかったことなど、「非政治的人間」茂吉の、ある意味での一貫性を見ることができます。

 

この本、かなり驚きがあるのですが、その分析はきめ細かくて、すごく説得力がありました。ぜひ、原文で読んでみてください。それでは。

 

 

第48回 林和清『京都千年うた紀行』

そうだ、京都を詠もう。 土岐友浩 

京都千年うた紀行

京都千年うた紀行

 

 

旅のガイドブックと言えば、絶版だけれどガリマール社の「旅する21世紀」シリーズがとても好きだ。フィレンツェイスタンブール、タイ、ロンドンなど、その土地の歴史や文化が豊富な図版とともに紹介されていて、ぱらぱらと眺めているだけで、旅をしているような気分になれる。

 

残念ながら、京都のガイドブックで、このシリーズに匹敵するようなレベルのものは、たぶんない。仮に「これ一冊で京都がわかる」というような決定版の本があったとしても、どう考えても、ものすごく分厚くなってしまうだろう。

 

だから、京都を書くために必要なのは、おそらく「切り口」だ。

 

京都のガイドブックは、お寺や神社、カフェ、古本屋、あるいは「大人の修学旅行」や「京都散歩」など、旅のコンセプトやスタイルで京都を切り取ってみた、というものが多い。

いわゆるガイドブックにかぎらなくても、京都を知ろうと思えば、たとえば鷲田清一が京都を哲学した『京都の平熱』や、永江朗が京都にセカンドハウスを構えるまでを書いた『そうだ、京都に住もう。』などのエッセイも、独自の視点と新鮮な発見があって、とても面白い。

 

では、短歌を切り口にしたら「京都」のなにが見えてくるだろうか。という疑問に答えてくれるのが、本書『京都千年うた紀行』である。

 

雑誌「NHK短歌」の四年分の連載をまとめた本で、王朝和歌の時代を中心に書かれた京都のガイドブックとして読むことができる。

著者の林和清は京都生まれの京都育ち。塚本邦雄に師事し、現在は結社「玲瓏」の選者をつとめている。

 

本を開くと、まず口絵に、朱色の灯篭の上に満開の桜がかぶさった、平野神社の写真が一枚。

京都の桜の名所といえば、円山公園のしだれ桜を代表にたくさんあるけれど、どうして林は、最初に平野神社をもってきたのか。

その理由は、本書を半分くらい読むとわかる。

 

ここには四百本以上の桜があるが、珍種がそろっていることでしられる。三月下旬、「魁桜」がひらき、いち早く京の花見シーズンを告げる。つづいて、葉と花が同時に出て目がさめたような「寝覚め桜」、淡紅の大輪で蝶が飛んでいるような「胡蝶桜」が咲く。

(中略)

このように平野神社では、一か月以上もつぎつぎとちがった桜が堪能できる。現在、四月十日に行われている「桜祭神幸祭」は、この地に桜を植えた花山天皇にちなむ。作庭の才を謳われた帝だけに、品種や植え方にも工夫されたのだろう。御製では、夕桜の美を詠まれている。

 

 足引の山にいり日の時ぞしもあまたの花は照りまさりける  花山院
(夕日が西の山に入るときこそ、すべての花がいっそう輝きをます) *1


平野神社は、いわば「花の神社」なのだ。

そして実は、塚本邦雄が慶子夫人と結婚式を挙げたのも、ここ平野神社だったという。

それは1948年5月10日のことで、林は二人がお互いを詠んだ歌を引きつつ、「もしかすると、塚本が好んだ御衣黄桜が数輪、咲きのこっていたのかもしれない」と、この日の様子を想像している。

 

平野神社の他にも、ページをめくれば下賀茂神社の糺(ただす)の森、野宮神社の紅葉、雪の寂光院などが載っていて、京都の四季折々の姿を楽しませてくれる。巻末には京都MAPもある。

 

本文は全五章構成。

第一章は「京都十二か月うためぐり」と題して、桜の咲く四月から始まり、その月にちなんだ京都の風物を、短歌や和歌とともに紹介している。

ためしに三月の部を読んでみよう。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」

 

 この有名な言葉ではじまる『平家物語』をしらない人はいないだろうが、本物の沙羅双樹をしっている人はすくないのではないか。(中略)それに近い花を見ようと思えば、三十三間堂に行くとよい。

 

 「仏は常にいませども現ならぬぞ哀れなる。人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ」

 

 わたしは、三十三間堂に入るといつも、ひしめきあう千一体の観音像から、この今様が、かすかに聞こえてくるような気がする。当時の流行歌である今様を集大成したものが『梁塵秘抄』、編者は後白河院である。源頼朝をして、「日本一の大天狗」といわしめるほどの策略に長けた政治家であった後白河院だが、夜ともなれば、来る日も来る日も狂ったように今様をうたいつづける道楽者でもあった。のどが腫れて水さえ通らなくなっても、まだうたいつづけたという。

 その後白河院が発願し、平清盛が造営したのが蓮華王院、柱間から通称を三十三間堂と呼ばれる。(中略)全長七メートルをこえる本尊を中心に、千一体の千手観音像が金色に輝いている。その前には二十八部衆という仏教の守護神がならび、左右には風神雷神がにらみをきかせる。これだけのものを私財で建立し、院に寄進した平清盛もそうとうな大人物であったことがわかる。

 

いちおう僕も三十三間堂には行ったことがあって、金色にずらりと並んだ観音像のインパクトだけはよく覚えているものの、後白河院の名前などはすっかり記憶から抜け落ちていた。恥ずかしながら、あの観音像は全部、平清盛が集めたものだということさえ知らなかった。

平清盛と、後白河院、二人の情熱があって、あの三十三間堂ができたのだ。

 

平家は都を追われたため、その史跡は六波羅蜜寺周辺を除いて、ほとんど残っていないという。

六波羅蜜寺は東山五条を北に少し越えたあたりにある。「六波羅」というのは、東山のふもとを意味する「麓原」が転じたものだそうだ。

六波羅は)平安時代には、使者を葬る鳥辺山へ行く道すじの不気味な場所だった。六波羅蜜寺の地名は轆轤町(ろくろちょう)というが、そのむかしは髑髏町とよばれたらしい。きっと骸骨が無数に転がっていたのだろう。そんなところに拠点をつくったのが平家一門なのである。骨の転がる野をいとわず屋敷を建てたというのは、どんなに貴族化していたとはいえ、血なまぐさい戦をなりわいとする武士の一門だったからか。 

六波羅蜜寺には、清盛の木像が安置されている。出家した五十歳以降の姿で、静かな経典を手にするたたずまいは、傲岸不遜なところはなく、高徳の僧のようだといわれる。しかし、実物と相対してみると、表情などがあまりにリアルで、どこかおそろしい。時代を動かした男の強烈な自我が、まだ内側に燃えているようにも見える。

 

 かひこぞよ帰りはてなば飛びかけりはぐくみたてよ大鳥の神  平清盛
(わたしは卵ですが、かえったら飛びますので、大鳥の神よご加護を)

 

林は聞こえないはずの今様を聞き、見えないはずのドクロを足元に見る。

その語り口は、土地の記憶を呼び起こし、歌にこめられた魂を現代によみがえらせるようだ。

 

最後に、清盛の鎮守社である西大路若一神社を訪ねて、「京都十二か月うためぐり」の三月は終わる。

境内には清盛ゆかりの神水がいまもわいており、お手植えの楠の木もそびえたっている。しかし、いかにも小さい神社である。『平家物語』ゆかりの地をたずねる観光客も、あの平家の栄華の跡がこんなものか、としみじみ感慨されるだろう。清盛が好きだったのは、はなやかな桜や紅葉ではなく、地にしげる蓬だったというのも、またあわれ深い話である。

 

沙羅双樹の話から始まって、ここまで、本文にしてたった4ページなのだが、なんと濃密な旅だろう。

もう一度、三十三間堂に行って、六波羅蜜寺と、機会があったら若一神社もぜひ訪ねてみたい、というモチベーションが湧いてくる。

 

第二章は祇王祇女から始まって、式子内親王まで、平安の女性たちの悲しい運命をたどった「京都女人の面影」。

以下、第三章「花と地名のものがたり」、第四章「歴史と異界への扉をひらく」、第五章「世界遺産京都御所」と続く。

清水寺平等院鳳凰堂といった定番もしっかり押さえつつ、「天使突抜」「太秦和泉式部町」「歌ノ中山町」など、塚本が見出した現代歌枕というべきマイナーな地名まで、話題がほんとうに幅広い。

 

きっと、京都を見る目が変わるのではないかと思う。

 

 *

 

在日ファンクに「京都」という曲がある。
公式PVはこちら


在日ファンク - 京都

 

この曲、はっきり言って、京都感はゼロだ。

 

PVの冒頭から、眼と額がピカピカ光るあやしい大仏が大写しになる。

明らかに「どこが京都やねん!」という突っ込み待ちだ。

 

ゆるい小芝居があってから、軽快なギターのイントロ、ハマケンのステップ。

歌詞はなんというか、あってないようなもので、意中の相手に「京都に行こうぜ!」とひたすら呼びかける、ただそれだけだ。

なぜ、京都なのか。京都に何があるのか、そこに何をしに行くのか、そんな話はいっさい出てこない。

 

でも、たしかにこの曲は京都に行きたいという感情に、強く訴える。

言い換えると、京都について何かを語るのではなく、「京都に行きたい」という気持ちそのものが、テーマになっている曲なのだと思う。

 

京都に行きたい。

僕自身、そのわけのわからない、止みがたい衝動に駆られて京都に引き寄せられ、そして短歌に出会ったようなものだ。


 淡雪にいたくしづもるわが家近く御所といふふかきふかき闇あり  林和清

 

京都の桜から始まった『京都千年うた紀行』は、最後に御所で終わる。

第五章の「世界遺産京都御所」というタイトルからも、ここが林にとって特別な場所なのだということがわかる。

林和清の代表歌としてよく引用される一首だけれど、この歌、そもそも御所という地に「闇」を認めるかどうかで、読者の受け取るものがまったく変わってくるのではないだろうか。

 

京都に生まれ育った博覧強記の著者をもってしても、見ることができない「闇」がある。

いや、それはむしろ知れば知るほど、強く深く感じられるものなのだ。

 

その「闇」を想像することしかできない僕は、きっとこの歌を、あるいは京都を、短歌を、まだまだわかっていないのだろう、と思わずにはいられない。

*1:p.92「京の桜めぐり」

第47回 品田悦一『万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典』

永井祐

 

こんにちは。

今日は、品田悦一(よしかず)『万葉集の発明』(新曜社・2001)をやります。

 

 

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

 

 

 

みんなが知ってる万葉集、国民歌集としての万葉集は自然にその位置についたのではなく、1890年(明治23年)前後十数年間のあいだに明治人たちの手によって「発明」されたのだという主旨の本です。

 

そのことは「うすうす知ってた」という気もしながら、読んでいったのですが、

お腹いっぱいになりました。とてもよい本でした。

万葉集のとらえ方にまつわる欺瞞とかお上の戦略とかをつっこんでいくスタイルはあるのですが、国民歌集としての万葉集なんて近代の発明にすぎないといってドヤ顔をする本ではありません。

読み終えると、「人は自分の見たいものを見るんだな」とか、「何かを信じたいと思う気持ちとはなんだろう」とか、そういう感慨に打たれます。

 

そのころある出版社から、日本の古典を少年少女向きにリライトしたシリーズが出ていた。私はそれを学校の図書館から借り出しては、次々に読んでいた。

 

こういう少年でそののちに研究者になった品田さんにとって、自らの足元を切り崩すような作業でもあるわけで、その筆致にはある切実さがあります。

 

万葉の歌々を読むこと、一般に古典を読むということは、そもそも何を読むことなのだろうか。この、一見なんでもないことがらが、私にはある時期から根本的に分からなくなってしまった。今もよく分かってはいない。本書につながるテーマに取り組みだしたのは、こんな状態のまま研究を続けることにとても耐えられなくなったからである。

 

ところでわたしは、万葉集は解説がついてる選集みたいなのを読んだことがあるくらいです。万葉仮名ももちろん読めません。

今現在自分が短歌を作っている人にとっても、万葉集っていまいちどう付き合えばいいのかわからないものであると思います。「関係ない」でもぜんぜんいけるものでもありつつ、人麿のソウルに震えてみたいという好奇心もないわけじゃない、みたいなところです。

 

情報量多いので、とても全部はできませんが、とりあえず全体の総論である一部から。

 

 

現代まで残っている万葉集を言い表す定番の表現が二つあります。

 

・作者層が「天皇から庶民まで」あらゆる階層にわたっている

・素朴な感動を力強い調べで真率に表現している

 

これらの常套句は明治後期の文学史書が定着させたもので、以来百年余りにわたって使い続けられ、現行の教科書でもよく使われているものです。

要するに日本人の万葉集のイメージのコアになるものなのですが、これがたとえば、幕末から日本に滞在していたイギリス人の外交官、W・G・アストンが帰国後にロンドンで出版した『日本文学の歴史』では万葉集についてこう書かれているそうです。

 

この世紀は実に詩歌の黄金時代であった。日本は今や、前章に述べた(記紀の歌謡を特徴づける)素朴に吐露したことばの域を脱して、現在までまだ凌駕されていないほどの、卓越した韻文の一群をこの時代に生み出した。読者はことによると、未開の文化段階から浮上したばかりの国民の詩歌を、粗野で雄渾の気に満ちたものと予想されるかもしれない。ところが驚くまいことか、実際は正反対で、活力より精錬ぶりが目立つのである。情操は繊細で言語も洗練されているし、連なる詩句は精妙巧緻、しかも固有の作詩法に備わった一定の規範を周到に守っている。この時代と次の(平安)時代に詩歌を書いたり読んだりしていたのは、日本の国民のごく一部分であった。

 

さきほどの二点のほぼ真逆を言っています。

品田さんは「アストンの記述が正しいと言うつもりはない」と留保を置きつつ、

 

事と次第によってはこのような『万葉集』像もありえたのであった。裏返せば、私たちに馴染みのの万葉像もまた、実は事と次第によって成り立ったはずなのだ。ところが私たちは、その「事と次第」をすっかり忘れてしまっていて、忘れたことを覚えてさえいない。

 

とまとめます。その「馴染みの万葉像」が成立する「事と次第」が一冊かけて説明されます。

 

そして正岡子規について。

正岡子規を近代における万葉集の「発見者」とする見方がこの本では否定されています。

短歌史でもよくそんな言い方がなされることがあるのですが、子規の万葉集の読み方や極めて高い評価は、同時代の言説空間の中で既に作り上げられていた「万葉集を国詩(国民的詩歌)として見よう」という考え方に沿ったものであるみたいです。

「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」というのは子規の有名な一文ですが、「歌よみに与ふる書」が書かれる二年前に外山正一という人が「万葉の歌を以て。古今集の歌よりは。優れたものとする事は。見識のある者の間には。既に決定したる。輿論であると思はれます」と言い切っているそうです。

 

古今集の歌は。巧に出来ては居りますが。作者が。何う謂はうか。斯う謂はうかと。凝て詠だものであると云ふ事は。歴然として。其表に顕はれて居ります。然るに。万葉の歌に至りましては。想ふ所。感ずる所を。少しも憚る所なく。少しも飾る所なしに。述べた様に出来て居ります。(外山正一「新体詩及び朗読法」『帝国文学』)

 

これは大筋として子規の主張と同じであり、二年前にそれを「輿論である」と言っているのですね。さっきの常套句、万葉集に「真率」な表現をみようという方向がはっきり出ています。これっていうのは、明治の意識の高い知識人たちが共有しているラインだったみたいです。

 

万葉集』の近代を切り開いたのは、子規の「発見」でもなければ他の誰かの「発見」でもなく、「国詩」つまり国民の詩歌という、知識人たちの共同の想像だったとしなくてはならない。

 

それでこの「国詩待望」というやつが、我々にはそれほどピンと来ないところなのですが、非常に大きなことだった。

当時の日本は維新から二十年、憲法を発布したり議会を招集したり制度的には近代国家らしくなってきたけれど、福沢諭吉とかは「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と言ったりしていて、国民としての意識をみんなに持ってもらうこと、ナショナルアイデンティティーの形成が課題としてありました。

 

こうして、日本人を日本人たらしめている根拠がさまざまの角度から探求・称揚され、もろもろの文化的「伝統」が国を挙げて喧伝されることなった。

 

1890年、『日本文学史』『国文学』『国文学読本』『中等教育 日本文典』など、近代国文学の成立を予告する基礎的著作が相次いで出版され、中等教育機関の教材とされていきました。

これは「古典復興」と呼ばれますが、このときに「国民の教養」とされるものとされないのが分けられ、かつて尊重されていた漢籍などはざっくりはぶかれたそうです。日本国民の古典だから、和文ないし和漢混淆文で書かれているのが条件だった。「東海道中膝栗毛」とかは逆にここでノミネートされて、古代の貴族の作品と近世の町人文化の消耗品だったものが、国民の古典として同一平面に並びます。さらっと言えてしまいますが、時空を歪ませるような力技であるわけです。「国語」をがっつり確定させていく必要があった。

 

「古典復興」と同時に「国詩革新」の動きが起こります。

「古典復興」は過去の『文学』をリストアップし、それらに国民の共有財産としての共通の価値を付与し、その価値を称揚して人々の国民的自覚を促すこと。「国詩革新」のほうは、国民の詩歌を新たに作っていこうという動きです。この二つは同じことの両面で、つまりは国民の文学/詩歌があらねばならないという動機から出てきています。

 

国民の詩歌になんでそんなにこだわるのか、というのは、やっぱり西欧並みを目指せ、というのが大きいみたいです。

 

明治の知識人たちが、ドイツの国民詩人とされたゲーテやシラー、またイギリスのシェークスピアに対し、どれほど深刻な憧憬と羨望を抱いていたかを思うべきだろう。当時の文芸誌・総合誌のページを繰るとき、それらは随所から伝わってくることがらでもある。彼らがこれら西欧文学史上のビッグネームを羅列しながら、「偉大なる国民詩人よ出でよ」とか「何故に劇詩は出でざるか」などとたびたび叫んでいたありさまには、悲壮とも滑稽ともつかない一種独特の熱気が漂う。

 

そして単純に優れた詩歌があれば/出ればいいのかというとそういうわけでもなく、そこには独特のアングルがあります。

次は官費留学生としてドイツに派遣された芳賀矢一さんがベルリンから東京の友人に宛てた手紙の一節。

 

すべて当地に入りて感ずる事は上王候より下百姓にいたる迄同一の文学、同一の音楽を楽む事が出来ることに御座候。

 

「羨望は文学や音楽の芸術的水準の高さにではなく、それらがドイツ国民を堅く結びつけている(かに見える)点に向けられている。」と品田さんは見ます。

 

この本では、ここのところを「国民の全一性の表象」という風に言います。

それを求める心を満たすのが、「天皇から庶民まで」のはば広い作者層を擁する万葉集だった。

 

国民の全一性を具体的に喚起するこのフレーズは、国民の統合に寄与すべき将来の詩歌に適用される一方で、その心理的等価物としての『万葉集』にも当てはめられたのだった。

 

天皇から庶民まで」というフレーズは、ある意味天皇を国民化する表現であったため、人間宣言があった後、戦後の象徴天皇制のもとでも延命できたのではないか、と品田さんは言います。

 

さて、では、その万葉集に入っている「庶民」の歌の内実はというと、

 

二百三十首を越える東歌や、九十首あまりの防人歌が載せられている。藤原宮の造営に従事した役民の歌と称するものもあるし、豊前・豊後の国の漁民の歌だの、能登の国の歌だの、越中の国の歌だのもあって、さらには、乞食者(ほかいびと)の詠という、大道芸人の口上を思わせる歌までがある。

 

しかしながら、作者層が庶民にまで及ぶという事実が注目を集めたのは、近代以降、それも1890年以降のことだそうです。江戸時代の国学者とかはそんなことには関心がなかったらしい。

 

それで、ここは謎も多いみたいなのですが、その「庶民の歌」も三首を除くとほぼ定型の短歌・旋頭歌・長歌であって、当時の貴族たちが作っていたのと同一の形式のものになります。

読み書きを知らない人たちが口頭で謡ったり、唱えたりしたものとは明らかに違っているらしい。

 

問題の歌々は、古代の「庶民」の生活からおのずと生み出されたわけではない。定型短歌を標準的歌体として保持していた貴族たちとの、なんらかの接点がそこには存在したと見なくてはならない。

 

接点というのは、兵役その他の徴発だったり、東歌の場合は、現地の郡司層とそこに赴任した官人たちとの合作による、擬似的な「東国の歌」であり、王権による在地文化掌握の志向の産物だったと考えられるそうです。

 

短歌の広汎な流通という状況を現出させたのは、古代律令国家の運営に付随する物的・人的・精神的交通であって、「庶民」はそこに巻き込まれこそすれ、進んで参入したのではなかった。だから九世紀以降、列島社会内部の交通が必ずしも国家主導のものではなくなっていったときには、短歌の流通範囲自体がふたたび局限されてしまった。防人たちの子孫は防人制度が廃止されればもう短歌を詠もうとはしなかったし、東歌の命脈も基本的には八世紀で尽きた。短歌が「庶民」の生活に十分根を下ろしていたなら、一世紀に満たない期間でたちまち廃れたりはしなかったはずではないか。

 

それで、じゃあなんで東歌とか、内容もことばも風変わりな歌を万葉集はのせているのか。

 

日本の律令国家は、理念上は中華帝国と並ぶもう一つの帝国ということになっていて、帝国というものは、「-近代国民国家が統治空間の均質性を擬制するのとは対極的に-統治領域が天下の全域に及び、多種多様な民族(エトノス)を包摂することを建前としていたのだった。」

 

 万葉集はそういう小帝国の文化財として編まれた。編纂者の意図は、自分たちの支える王権が世界中の人々の心と生活を掌握しているということを歌によって示す点にあったのではないかと品田さんは言います。辺境の民、異人たちの歌として、むしろ風変わりな歌をのせることに意味があった。

 

このへん、この本のメインテーマではないのですが、面白いですね。このあたりは石母田正の古代国家論がベースになっているそうです。

海外ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」を見ている人だったら、ナイツウォッチが<壁>の北に住むの野人たちの文化に取材し、七王国定型詩の形にしてアンソロジーに載せたというところでしょうか。

 

で、そういう万葉集を明治の人たちが見つけて、作者の層の幅広さを国民の均一性の表象として読み替えて、というかそうゆう願望をたくして、「国民歌集」として作り上げ、来るべき「国詩」の源流とした。

 

 

今回、ちょっと勉強っぽくなりすぎて疲れました。これでもまだ前半三分の一くらいです。わたしは明るい分野ではないので誤読してたらすみません。

後半も、島木赤彦のところとかやばくて面白いです。赤彦に関するもので今までで一番よくわかったかもしれない。

この本は最後まで読むと、万葉集とどうやって付き合っていこう、別れるという選択肢も含めてどうやって付き合っていこう、と考えさせられます。

よい本で、何気に熱い本だと思います。

気が向いたらぜひ。

 

ではまた。

第46回 阿木津英『短歌のジェンダー』

そして、なぜ、短歌なのか? 寺井龍哉

短歌のジェンダー

短歌のジェンダー

 

 

本郷短歌会の寺井龍哉です。
東京では寒い日が続いています。
少し歩くだけで寒さに身がちぢみ、喉がかわきますね。
外出先で喉がかわいて、でも喫茶店に入るような余裕はないとき、あなたならどうしますか?

 

自動販売機やコンビニを探して、とりあえず一番近いところにあるものを目指すでしょう。
遠くの方にコンビニの看板が見えるけれど、目の前に自動販売機がある。
この場合、ほとんど選択の余地はありません。
自動販売機が商品の詰め替え中でない限り、遠くのコンビニには行かないでしょう。
なぜ来てくれなかったんですか、とあとでコンビニの店主に聞かれても、自動販売機の方が近かったから、で十分な答えです。

 

では、いまあなたの机の上に置いてあるペン、これはどうでしょう。
なぜこのペンをお使いですか、と聞かれたら、どう答えますか。
奥村晃作さんなら、こう答えるでしょう。
「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」。
十分な答えです。
メーカーにこだわる方も多いと思います。
私も、消しゴムはAir-inと決めています。

 

でも、なかには明確な答えを出せない方もいるのではないでしょうか。
「何となく、前のが切れたときに買ったから」
「日光のお土産でもらって」
「落とし物を拝借してしまって」
何かのはずみで使いはじめてしまって、格別の不都合もないから、そのまま、ということでしょう。
奥村さんは他社のペンと比較したうえで他ならぬミツビシを選択されたのでしょう。
が、いま使っているペンと他のペンの書き味の違いを知っている人ばかりではないのです。

 

違う例を考えてみましょう。
このサイトをご覧になる方は、短歌を日頃から読んだり作ったりすることのある方が多いと思います。
そういう方々に聞いてみたいと思います。
なぜ短歌という形式をお使いなんですか?
やれやれ、またその質問か、というお気持ち、お察しします。

 

私も、短歌を作っていることを打ち明けると、よくこう聞かれました。
でもそれは、遠くのコンビニじゃなくて近くの自販機を使うようなものですよ。
机の上のペンをいきなり指されて、なぜこれをお使いで、と言われても困ります。
中学の授業で『万葉集』読むことがあって、茂吉の『万葉秀歌』という入門書のようなものを読んで、それから寺山修司俵万智を知って……、
と語ってはみるのです。
でも、どこかそらぞらしい。
私が他ならぬ短歌を作りはじめたきっかけは、もっと単純なものだったろうと思うのです。
つまり、ただ、面白そうだったから。
かっこよかったから。楽しそうだったから。
自分でも作れそうだ、と思ったから。

 

今回、私がとりあげるのは、阿木津英・編著『短歌のジェンダー』(本阿弥書店、2003年)です。
本書は二つの章から成っていて、第一章は「ナショナリズム・短歌・女性性」と題する二〇〇一年のシンポジウムの記録です。
第二章は阿木津さんと池田忍さんの対談「短歌と日本美術の交差地点」です。

 

第一章もさらに二部にわかれ、まず阿木津さん、千野香織さん、上野千鶴子さんの「提言」があります。
その後、さらに木下長宏さん、岡井隆さん、島田修三さんをくわえた六名のディスカッションの記録が収載されています。

 

第一章第一部で俎上にあがるのは、折口信夫の「女歌」についての議論です。
このブログでも折口さんの論・作にはくり返し言及がありましたね。
言わずと知れた文学史上、短歌史上の巨人です。
彼の「女歌」論は、当時の大結社「アララギ」の男性中心的な傾向に疑義を呈しました。
まず、阿木津さんのまとめを読んでみましょう。

 

まず、折口の女歌論が歌壇で大きな衝撃を与え、問題になったのは、戦後『短歌研究』に「女流の歌を閉塞したもの」という評論が出たときでした。これは、戦後に女性歌人の意識が盛り上がりまして、昭和二四年女人短歌会が結成され、翌年秋、女人短歌叢書として十数冊、続々と女性の歌集が刊行されるわけなんですが、その側面援護のようなかたちでなされた講演を、昭和二六年一月一月号の『短歌研究』に掲載したものです。
その中の、「女の方の歌は現実にかまけて、女性文学の特性をなくしてしまひ、本領を棄てたやうに見える」「アララギの第一のしくじり(﹅﹅﹅﹅)は女の歌を殺して了つた」「女歌の伝統を放逐してしまつたやうに見える」「ですから特殊な人でない限り、女性がアララギ風を賛美するといふのは、これだけは大きな間違ひでせう」というような発言が、反アララギ、反現実主義の主張として、その後の歌壇に大きな衝撃と影響を及ぼしていくわけです。
 ところが、じつは、アララギが女歌を振るわなくさせたというような意見は、戦前、昭和初期のころからの迢空=折口信夫の持論でした。敗戦直後、昭和二一年にも、『婦人文庫』にいち早く「女流短歌史」を連載していますが、そこでも述べられている意見で、このようなメッセージを受け取った女性歌人たちの何人かが、結果的には女人短歌会の中心になった。折口信夫は、女人短歌会を起こすに当たっての影の援助者でありました。(p.17~18)

 

斎藤茂吉や島木赤彦らが活躍していた「アララギ」は、大正の初年に「歌壇制覇」と称されるまでになり、その後は多少の曲折はありましたが、現実主義、写生を重視する考え方は非常に大きな影響力を持っていたようです。
そのアララギが、「女歌」を無視し抑圧してしまったというのが、折口の意見でした。
阿木津さんはこうも書いています。

 

 昭和八年、『短歌研究』では、当時指折りの有名な女性歌人、今井邦子、阿部静枝、岡本かの子、若山貴志子、杉浦翠子、そういった数人を一堂に集めまして、女性だけで座談会をやらせ、そのあと、折口信夫が短い談話をします。女性ばかりを集めて座談会をさせるという企画も、当時の短歌雑誌では、おそらく初めてのことではなかったかと思いますが、これは出版元の改造社社長山本実彦の関心が働いていたように思われます。折口信夫の女歌論を女性歌人にぶつけるとどうなるか、というような関心があったのではないかと思われますが、そこで折口は、万葉集などには男と違う女の歌というものをはっきりとたどることができる、それは古代の歌垣という生活文化の中から出てきたものだ、というようなことをあらまし論じます。そして、眼前の女性歌人たちに向かって、あなたたちが今、女の歌だと思っている子供に乳をやる歌とか、嫁入りの歌、子育ての歌、家事の歌なんていうのは、それはじつは男の歌なんですよ、そういった現実的な素材によるのではない、男とは違う女の歌といったものが歴史上にはあったのだから、男の歌に追従するばかりではなく、どううたったら女の歌になるのか、それをあなたがた、お考えなさい、といわば挑発したわけです。(p.19)

 

なるほど、こうした「女の歌だなあ」と思ってしまうような歌というのは、男の側から見た「女の歌」にすぎない、というのですね。
女であることを対象として要請するような視線から脱出せよ、という折口の考えのようです。
こうした折口の女歌論を、阿木津さんは「家族的国家観のもと、近代的家父長制下に押さえ込まれていた女性たちにとっては、大きな励ましでした」(p.26)と考え、ひとまず好意的に受けとめています。

 

〈人間〉とは近代の価値概念ですが、折口信夫は、男とは別の〈女の特質〉といったものを対置して考えていました。『青鞜』の新しい女たちは、女も人間だ、と声をあげたのですが、折口は、そんな西欧の女のプライドではなく、日本には昔から誇り高い女の伝統があるのだと、女性を励まします。(p.34)

 

青鞜』とは、平塚らいてう伊藤野枝が中心となって発行した月刊誌で、一九一〇年代に女性の権利拡張をひろく訴えました。
「原始、女性は太陽であった」という創刊号の文章が有名ですね。

 

一方で、社会学者の上野千鶴子さんは折口の女歌論に否定的です。
「提言」のなかで、次のように話しています。

 

男歌・女歌というとき、いつも典拠とされる折口信夫の「女流の歌を閉塞したものは何か」という問いは、じつに女にとって魅惑的な罠であり、男からの悪魔のささやきだったと思います。ここで何が女歌を定義するか、ということを考えて見ましょう。(p.65)

 

なぜなら、女歌を定義するのは、主題でも、情緒でも、文体でもなく、「作者の性別が女か男かは、とりあえずは関係がない」(p.66)から、と上野さんはつづけます。
たしかに女性歌人の歌がすべて「女歌」と言われるわけではなく、男性歌人が「女歌」をものすることもできそうです。

 

何が女歌を定義するのかの次に、誰が女歌を定義するのか、を考えて見ましょう。この中には、評価も入っています。これは女歌だ、これは女歌ではない、という判定の特権を行使しているのは、折口信夫本人にほかなりません。(中略)個々の作品について、これは女歌だ、これは女歌ではないと判定し、評価するのは、何を隠そう、折口のような評者であり、またさまざまな結社の領袖の方たち、主には男性の方たちでいらっしゃいます。そのときに、女性の歌人にはどのような生き延び方があるでしょうか。女には、女歌をうたってみせる、という生存戦略があります。「女歌」は「たをやめぶり」すなわち芸でありますから、いくらでも芸をやればよろしいんです。が、ひとりひとりの女には、女歌をうたって見せることもできれば、うたわない戦略をすることもできます。
女が女歌をうたって見せれば、よくやった、と力のある男から頭を撫でていただけることでしょう。そうすればひき立ててもらえ、活躍の場が広がり、知名度も上がるでしょう。他方で、女が女歌をうたわないという選択をすれば、男のようだといわれ、ペナルティを受けることすらあるでしょう。「女歌とは何か」を決めるのは男ですから、女が女歌からはみ出したときには、女はバッシングの対象になります。「女の(﹅)(つくる)歌」と「女歌」とは違います。(p.66-67)

 

折口信夫本人の意図はともかく、彼の女歌論が単に「励まし」であったのみではなく、「罠」でもあったという指摘はたしかなものでしょう。
折口信夫本人は、自分の歌について、「女歌」である、だの、そうでない、だのと言われることはありません。
彼の歌そのものは、「女歌」云々の議論に巻き込まれることはないのです。

 

彼の「女歌」についての議論の枠組は、そのような歌人の立場から設定されたものにすぎません。
だから、折口に唱導されている時点で、「女人短歌」などの試みも、結局は男の側から見られた「女歌」だ、ということになってしまうのですね。
ちなみに、「云々」は「うんぬん」と読みます。

 

 女歌をうたうという選択も、女歌をうたわないという選択も、女にとってはどちらも罠、というダブルバインドな状況が女を待ち受けています。あれかこれかの息苦しい選択肢の間で、そのどちらでもない隘路をたどるしかない、というところに追い詰められたのが、阿木津英さんという歌人でいらっしゃいます。(笑)(p.67―68)

 

上野さんはこのようにも言っています。
女歌か、そうでない歌か、という区分を意識してしまった以上、いや、その区分を知ってしまった以上、「ジェンダー二元制」からは逃れられない、ということでしょう。
阿木津さんの状況をそのように見たうえで、次の言葉は、かなり手きびしい。

 

私は外から、阿木津さんのご尽力や孤軍奮闘ぶりを、本当に尊敬して見ておりますけれど、このような奮闘をなさる方が―女歌をうたうことからも、うたわないことからも、そのいずれの罠からも逃れようともがいているこの自由を求める魂が―定型の世界にとどまりつづけている理由がわかりません。(p.70)

 

「隘路」にいながら、そしてそこを脱出したいと願うなら、なぜこの短歌という詩型を捨てて、離れてしまわないのか。
上野さんの問いはそのようなことでしょう。
短歌を作ったり読んだりしている身には、ずいぶんと残酷な問いに聞こえてしまいます。

 

短歌を作らなくなることを「歌のわかれ」と表現することがあります。
中野重治の小説の題名で知られています。
歌人でも、春日井建や寺山修司が、これを経験しました。
しかし、寺山も春日井ものちに歌をふたたび作るようになりました。
このことは、完全に「歌のわかれ」をすることの難しさを示しているようにも思えます。

 

さて、阿木津さんは、上野さんにどうこたえるのでしょうか。

 

戦後に生まれ育った私は、戦後的な価値観による戦後教育で教えられたわけで、もともと短歌なんか古臭い趣味、くらいの認識だったわけですね。それが、仕方なく短歌でもやってみるかと、やっているうちに、歌の言葉っていうものが私を遂行していくわけですよ。そして、歌というものを知ってしまうわけです。それは散文とも、詩の言葉とも違う、俳句の言葉とも違う――。
 いちばん顕著な例を申しますと、歌は、漢熟語を拒否するというか、歌の詩形が拒否するんですね。詩形が拒否するという感覚を身につけてしまう――そこが非常に面白い。そこに調べの問題、韻律の問題があるでしょうし、ナショナルなものの引きずり出され方、産出の仕方というものがあるでしょう。それを私がおこなってしまう。そして、そのことを決して後悔しない。まあ、喜びとするわけですよね。はじめて日本語というものの美しさが理解できたという気持ちになる。そして、現在世に行われている言葉というものがどうしても無意識のままでは受け入れられなくなる。小説の言葉も詩の言葉も吟味してしまう――、というような感覚が身についてしまう。
 ということは、私が、歌を言語行為として遂行、パフォーマティヴしていくうちに、そういう媒体、行為体(エージェンシー)になってしまったということなんですね。(p.88‐89)

 

この感覚、わかるような気がします。
短歌を推敲するとき、いくつも改変の例を出して検討してゆく。
助詞を「に」から「へ」に変えてみたり、下の句と上の句を入れ換えようとしてみたりしますね。

 

やがて、あ、これだ、これしかない、という気分になる。
このときの気分を「日本語というものの美しさが理解できたという気持ち」と言ってしまいたくなる、ということはよくわかります。
翌朝になってみると気の迷いに気づくこともありますが、いっときの陶酔感はたしかにある。

 

また、こうも書かれています。

 

ジェンダーの枠組は、ぜんぜん変わっていない。このことに、私は息苦しさを感じるわけなんです。そのジェンダーの枠組は何かというと、女らしさ・女性性を、〈男性〉の支配力に抗するに利用価値のあるものとして考えるまさに日本的な、このような形ですね。この形はぜんぜん変わっていない。(中略)
 「日本」という枠組と結びつきやすい短歌定型の美ということと、短歌の言葉、というか、短歌という形式の中で伝えられて来た言葉の使われ方というのは、区別すべきだというふうに思うんですね。折口信夫はしばしば短歌滅亡論を説いていて、新しい詩形へ移っていくことをつねに期待していました。私自身も、短歌形式というものに対しては、ほんとにぎこちないというか、居心地が悪いというか、自分との間にどこかで隙間があるような、そういう感じを感じ続けています。
 しかしながら、この短歌によって担われてきた私たちの言葉、その使い方あり方というのは、一人一人、自らの身を通して「遂行」すべきだと思うんですね。これ(私たちの行為としての言語遂行)がなくなっちゃったら、たんに日本語は道具にしか過ぎない、「メシ、フロ、ネル」くらいの意思疎通のためのたんなる道具にしか過ぎない。言語というものは、私たちの半ば肉に張り付いている仮面ですから、自己形成をそれでしていくわけですから。私は長い時間の中で、数え切れないほどの人々が「遂行」してきた言葉というものを、今、私たちも「遂行」すべきだと、すべきだというといけないかもしれないけど、していきたいなと。これまでも一方ならぬ力を傾けて「遂行」してきた人々の言葉の織物を読み解きたい、そこに参加したいと、いうふうに私は思うんですね。(p.97-98)

 

「遂行」という言葉がすこし独特の意味で用いられていますが、これは上野さんの「提言」の次の部分を受けています。
固有名詞がいくらか出てきますが、難しくありません。
島田修三さんは上野さんの発言を聞いて、「思想ってのは笑いながら理解できるんだというのは変な収穫で、ジュディス・バトラーが一瞬にしてわかってしまいました」(p.83)と言っています。
言葉が発されるとき、本人の意図や気持ちとは関係なく何らかの行為として、言葉を発すること自体が意味を持ってしまう、ということでしょう。

 

バトラーには、ジェンダーの「パフォーマティビティ」という概念がございます。たんにパフォーマンスといわずに、パフォーマティビティというのは、「行為遂行性」と訳すのですが、これはもともとオースティンという言語学者の言語行為論から来ております。言語というものは、行為の手段や道具ではなく、それが発されたときに、そのこと自体によって、すでに言語のなかでひとつの行為を行ってしまっている、という考え方です。言語は、それ自体が行為だっていうのが、言語行為論の核心ですが、言語行為のもっとも端的な例は、「君が代は千代に八千代に細石の・・・」という歌でございます。この「君が代」という歌に、私がもし唱和をいたしますと、この中でひとつの言語行為が行われることになります。そこでは第一に、「君」と呼ばれている存在、この国では天皇と申す方をさすようですが――「君」というのは、ボクたちやキミたち、つまり国民のことだと解釈する向きもあるようですが、たんに牽強付会というだけでしょう――その人に対する私の従属の表明と同時に、その歌をともに唱和する人々の集団、日本という国家および国民への同一化を、私は行うことになります。(p.54-55)

 

この発言をふまえて、阿木津さんは、「長い時間の中で、数え切れないほどの人々が「遂行」してきた言葉というものを、今、私たちも「遂行」すべきだと、すべきだというといけないかもしれないけど、していきたいなと。これまでも一方ならぬ力を傾けて「遂行」してきた人々の言葉の織物を読み解きたい、そこに参加したいと、いうふうに私は思う」と言っています。
お気持ちとしては、私も理解できるつもりです。

 

でも、上野さんは納得しません。

 

ただ、やはり、なぜ短歌なのか、という問いは残ります。短歌が延命してきたと言っても栄枯盛衰の波がある、少なくとも江戸時代はそうじゃなかった、近代初期もそうじゃなかった、戦時下がかなめじゃないかとか、いろいろなご発言がでました。先ほども申しましたように、短歌の延命というものは、自動的に起きるわけではなく、その時々の担い手の自発的な関与や努力、仕掛けがうまくいったり、外れたりしてようやくなしとげられるものですから、今もまた、それを担っていこうとしていらっしゃる方々がここにいらっしゃるわけです。
 そのなかで、たとえば戦時下の庶民の経験の集積が『昭和万葉集』のような形で整理されますと、痛ましさを覚えないわけにはいきません。ましてや『台湾万葉集』というようなものを見ますと、その痛ましさはもっと強くなります。庶民の経験が、国民的定型のなかに型式化されていくことを通じて、ベネディクト・アンダーソンの言う「想像の共同体」は生まれます。経験や感情をどのような形で様式化していくかという作法が、母語の中には埋め込まれています。それを生き続けさせよう、語彙や様式を更新しながら再生させようと思う人々がここにいらっしゃるのだと思いますが、その中で若い才能が育ってきているということも私は否定いたしません。しかしながら、私たちが注意して見なければいけないのは、短歌定型という言語的な遂行を通じて、この時代の文脈の中で何が成し遂げられようとしているのかという問いです。
 それは、私たちがこれまで背負ってきた歴史の重荷や桎梏を違う姿で再生産しようとしているのか、それとも古い様式を壊して超えようとしているのか、ということは、にわかには言えないと思います。私はその点では、やはり実作者の方の責任ということを考えます。阿木津さんはこの場で、短歌の世界に踏みとどまって言語遂行すべきだ、とまでおっしゃっていました。この方が、短歌という歌の様式にここまで殉じて運命をともにされようとする、短歌に責任を背負われる理由が、私にはよくわからないのですけれども、そのことの栄光と悲惨とを共に担われるであろう阿木津さんには、いずれ自分の作品で答を出していただけるであろうと期待しております。(p.125-127)

 

短歌は、ナショナリズムに結びつきやすいものであり、旧弊なジェンダー観に縛られやすいものであり、他者を傷つけ、抑圧しやすいものである。
そういうことを考えてから、私は短歌を作りはじめたでしょうか。

 

決してそんなことはないでしょう。
近くに自動販売機があったから、何となく使っているボールペン、たぶん、そんな気分ではじめました。
軽い気持ちではじめた、ということを、偽ることはできません。
短歌は、私にとってそういうものだったと思います。

 

軽い気持ちではじめて、いつのまにか本気になっている。
「まるで恋だね」とPerfumeがささやきます。
でも、そんな罠みたいなものだと、はじめる前に誰が予想できたでしょうか。
無視できない議論があり、無視することが罪になる議論がありうるのだと、身につまされる一冊でした。

 

ディスカッションでは劣勢に立たされているような岡井隆島田修三両氏の発言にも、もちろん傾聴すべき点が多くあります。
歴史的な動きと現場の実感をつなぐ思考という部分では、両名の発言に着実さを感じたのでした。
おふたりとも、サングラスをおかけになっているイメージがあります。
「色眼鏡」という言い方は、今でもするんでしょうか。

 

池田忍さんと阿木津さんの対談も、重要な論点を含んでいます。
詳細はぜひ、お手にとってお確かめください。

 

長くなってしまいました。
お読みいただき有難うございました。
寺井龍哉でした。

 

 

寺井龍哉(てらい・たつや)
1992年東京都生まれ。本郷短歌会所属。2013年短歌研究新人賞候補。2014年、評論「うたと震災と私」で現代短歌評論賞。2016年、月刊「短歌研究」にて「短歌時評」を担当(6月~8月)。剣道三段。@