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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第51回 内野光子『現代短歌と天皇制』

ゲスト 牛尾今日子 評論

牛尾今日子

 

こんにちは、わたしは牛尾今日子と申します。ゲストです。

 

去年の、いわゆる天皇陛下のお気持ち会見、そして平成が終わるという話は、みなさんの記憶に新しいことと思います。今回とりあげたいのは、天皇制と短歌の話です。

 

天皇制の話は、宗教的(あるいは宗教そのもの?)で、根深いものがあって難しそうだなあと思っていましたし、今もそうです。これまでは遠くのことのような気持ちで棚に上げていたのですが、天皇制や戦争の話に正面からぶちあたっている演劇 *1を見て、その作品をめちゃくちゃ好きになったので、いま天皇の話にとても関心を持っています。

短歌においても、むしろ短歌の場合はさらに、「(歴史的背景を踏まえながら短歌をやっていこうとすると天皇制に関する問題は無視できない)という感覚」(瀬戸夏子「東京2020にも君が代ならば君のかかとの桃色がいいさ」『率』幕間)という風な立場があります。これは昔から存在した議論だと思うのですが、まじめに受け取ろうとしたときに、わたしはこの立場をさっぱり理解できていないことに気が付きました。

 

例えば、短歌をやっていくうえで社会や政治とは無関係でいられない、という立場だったら分かります。というか私自身その立場をとっているつもりでいます。

なぜなら、私という個人が生活していくうえで、その生活は社会や政治に影響されるので、これらを無視することはできない、さらに、私が歌を作ったり読んだりすることと私の生活とは切り離せないからです。

 

天皇制の場合はどうでしょうか? 

確かに短歌は、過去から現在にいたるまで、天皇家と関わりの深い芸術です。しかしそのことと、わたしたち個人が短歌をすることとの間には、どういう意味で関係があるのか。天皇制がどういうものなのか、短歌や歴史のなかでどういう意味を持ってくるのか、等々、わたしには分かっていないことが多くあります。

歴史的背景を踏まえながら短歌(あるいは芸術)をやっていこうとすると天皇制に関する問題は無視できない、というのがどういう意味で主張されるのかを分かりたいです。それができないと、同意することも反対することもできません。

 

というわけで、短歌と天皇制というのがどのような関係にあるのかというのを考えていくために、いろいろ知識や議論を仕入れていきたいです。

 

  *

 

前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。

今回取り上げるのは、内野光子『現代短歌と天皇制』(風媒社、2001)です。序章から第二章までが戦後や天皇制などに注目した文章を、第三章四章は時評などの短い文章を集めた評論集です。まだ読めていないのですが、内野は『短歌と天皇制』(風媒社、1988)という評論集も出していて、天皇制や権力の問題にずっと注目し続けている人だと言えるでしょう。

 

現代短歌と天皇制

現代短歌と天皇制

 

 

内野が前提にしている短歌と天皇制についての問題意識が共有されていないことや、ばらばらの文章だったものをまとめた評論集という形態などから、あまりすっきりしない読後感でした。というか正直に言えば、納得いかないところや、詳細や論理が分かりづらいところもありました。この本は80、90年代の評論が中心で、著者は1940年生まれ、私は1994年生まれです。知識量の問題はもちろん、戦争や安保闘争はもとより、89年の昭和天皇崩御や93年の岡井隆歌会始選者就任、皇太子ご成婚など、経験してきたことからくる世界観も大きくちがうのでしょう。

 

読み終わっても前置きした疑問は解決してないし、知らないことが多すぎるテーマを扱うのはどうかとも思ったのですが、こういうのはやっていくしかないと思うのでやります。考える材料になりそうだと思った第二章「歌会始と現代短歌」を中心に紹介していきます。よろしくお願いします。

 

  *

 

 1993年、岡井隆歌会始の選者に就任しました。

文学であるならば、天皇制と結びついた国家権力に守られたくない。民衆の下からのエネルギーで守られてこそ、その資格があるのではないか。これまでそうだったから、このままでいいとは言えない。いや、現代短歌のためには、このままでおくべきではないのだ

(「歌会始は誰のものか?《特別記事》」『短歌研究』1959.3)

 

本来これは宮中の一儀式でしかない行事であり、民衆の生活とのつながりから言えば、新聞が特に報じなければならぬほどの行事とは思えぬ。それがそうなっておらぬ所に新聞ジャーナリズムの皇室関係をとりあつかう手つきの異常さ、いやらしさがあるのではないか。

(「非情の魅力について」『現代歌人』1960.5)

 

過去の岡井は、歌会始について上のように述べていました。しかし歌会始の選者に就任した彼は、次のようにインタビューに答えています。

 

昭和から平成にかわって、天皇家の象徴性は昔ほどでなくなっていると思います。同時代に反権力を歌ってきた歌人らが選者になる日も遠くないでしょう。わたしとしてはそれを望んでいます。

(1992年9月4日『朝日新聞(夕)』〈大阪本社版〉)

 

内野は、かつて岡井が述べた歌会始の権力性は現在にもそのまま当てはまるものだとして、彼の変節を批判します。岡井の転向について、本人の文章や起こった論争をいろいろ確認していくのはとても面白そうなのですが、今回引用した岡井の文章は孫引きです、すみません。

 

ここで問題にされている、歌会始を取りまく権力とは、いったいどういうものなのでしょうか。

説明するまでもないことと思われたのか、断片的にしか触れられていません。その前提に少しでも接近したいというのが私の目的なので、もう少し読みながら推測してみます。

 

つねに時流に乗り、ジャーナリズムで脚光を浴びながら仕事をするということは、なしくずし的に自説を変えて行くことにほかならない。そして、過去のある時点の考え方とまったく正反対の立場をとるに至ったとき、その説明責任を放棄するならば、もはや開き直るしかない。その彼(引用者注:岡井隆)の心中には、かつてもっとも嫌った権威主義と、あらたな自己顕示欲が渦巻いているのだろうか。

内野は上のように岡井を非難します。

わたしは、岡井の「天皇家の象徴性は昔ほどでなくなっている」あたりをもっと掘ってほしかったのですが、それは「国家や皇室との関連をなるべく軽視したい口吻」と流されてしまいました。

 

いま取り扱っているのは、第二章第一節の「「選者」になりたい歌人たち」なんですが、なぜか終盤で歌壇において、有名歌人に各賞の選者が集中していること、有名歌人間で賞の授受がなされていることへ議論が移ります。国家から与えられる文化勲章芸術院賞、芸術選奨紫綬褒章についても、これらの賞を「抵抗なく祝福」する歌人たちへ次のように疑義が呈されています *2

この無抵抗こそが、ご都合主義を、事大主義を容認し、第二、第三の岡井隆を送り出すことになるのではないか。

 事大主義っていうのは長いものに巻かれることみたいですね。

例えばわたしたちが新人賞に応募するのも、あるいはうたらばに応募するのでも、選ばれることに価値があると認めているからです。

選ぶ―選ばれるということは権力の構造として考えられます。本書を通して、内野は「馴れ合い」、「みんな仲良く、お互いに褒め合うばかりで、さまざまな短歌賞の授受に終始する」、「事大主義や権威主義の充満している」と、選ぶ―選ばれるの権力構造に沿っておもねりが発生していると糾弾します *3

 

先ほど引用した、ジャーナリズムで脚光を浴びるために自説を変えて行く、という批判も、おもねりを忌避するという同じ視点から行われているのでしょう。

 

まとめてみるなら、歌会始の選者に選ばれるということの背景には、選ぶ―選ばれるという権力構造、そしてジャーナリズムで注目されるための権力への迎合やおもねりにつながる、ということでしょうか。

 

  *

 

歌会始には、そして、天皇が作った短歌が発表されるということには、今まで見てきたこととは別の問題系があります。

天皇の作った短歌が天皇のお言葉として解釈され影響力を持ってしまう、ということです。

 

その前に歌会始について少し確認しておきましょう。

そもそも歌会始とは、これも当たり前って感じなのかあんまり説明されていないのですが、宮内庁のホームページによれば、こういうことです。

天皇がお催しになる歌会を「歌御会(うたごかい)」といいます。宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会としてお催しになる歌御会を「歌御会始(うたごかいはじめ)」といいました。

 

今年の短歌研究の1月号2月号では、今井恵子さんが歌会始がどんなものなのかという話をされていましたね。

 

内野の記述では、『入江相政日記』(全六巻)が重要な役割を果たします。入江相政(すけまさ)は、1934年から85年まで、侍従、侍従次長、侍従長職を務めていた人です。歌を作ったり随筆とかも書いていたみたいです。

冷泉家の分家として入江家という家があり、旧華族の中でも昇殿が許されている家柄なんだとか。侍従というのは、天皇などの側近ということみたいです。

〇〇家とか、華族とか、侍従とかってほんとにあるんですねという気持ち。

だから『入江相政日記』というのも、

(入江日記の)取捨の基準は、「凡例」によれば、歴史的重要事項、昭和天皇公私の行動・発言、皇室行事・日常生活、天皇一家・皇族の動静、宮内庁(省)・職員の動静、入江自身の思想・信条・人物像、をよく表している記述があるか否かに拠ったという。

という風な記述が重要視される、昭和のことを考える資料みたいな感じなんですかね。

 

ともかくも戦後、宮内省 *4の機構は段階的に縮小されて、歌会始の改革も行われます。

そのとき相政は歌詠課の課長に就任し、日記には、「新派の歌人を四、五選者として御命いたゞいては如何と思召をうかゞつた処、至極よいからそのやうにせよとの仰せ」(1946.5.30)とあります。

実質的には川田順、佐々木信綱と相談しながら、翌年(引用者注:47年)の”新生”歌会初めの選者は、千葉胤明、鳥野幸次の旧寄人と、信綱、斎藤茂吉、窪田空穂に決定したことがわかる。

 

そして1950年には、斎藤茂吉、窪田空穂、吉井勇、尾上柴舟、釈迢空と、歌会始の選者が「すべて民間の現代歌人という画期的な年」を迎えます。

民間の現代歌人でないっていうのは、宮内庁の職員であったり、旧派和歌の歌人ではないってことなのでしょうかね。千葉や鳥野の名前を簡単に検索してみてそうなのかなって判断しただけですが。

 

入江相政日記』によれば、 天皇は「鳥野さんを止めることによつて旧派の方が果たしてどう思ふだらうか、それさへ問題がなければ差し支えないとの仰せだつた」(1949.9.28) ということです。

 

49年の歌会始からは、カメラマンが会場に入り、歌が入選した人も会場に行くこと(陪聴)ができるようになりました。 翌年の題も、秋ではなく、その年の歌会始当日に発表するなど、応募者を拡大しようとされています。

開かれた歌会始が目指されているということでしょう。

 

 話を天皇の短歌の発表/読解へと戻します。読んで一番おもしろかったのはここのあたりでした。

すっごく当然のことなんですが、御製(ぎょせい=天皇が作った短歌)は、わたしたちが短歌を作るような場合とまったく違った取り扱いをされます。 相政の日記に記述があります *5

御召で御文庫(引用者注:第二次大戦のとき作られた防空施設)に出たら御製を沢山お下げ遊ばす。時局に関するもの、自由と責任といふことについてのもの、それに大日向の開拓団等について詠ませられたものである (1947.12.26)

 

昨日御下げの御製を拝見した結果を申し上げ、鳥野に御下げ願度(引用者注:ねがいたく)申上げる。

鳥野さんが御製を拝見されたのでその結果を浄書して、御研究所へ出てお許しを得、侍従長にも拝見してもらつて総務課へ下げる (12.27)

 

御製について又思召されたことについての話がある(中略)。やはり原作のまゝ願はうと思ふ(中略)。予の考を申し上げ御諒承いたゞく (12.28)

 

役所において、新人の起案文書が、管理職に回付され、修正や意見が付され、書き直される過程にも似ている。

 と内野が書くように、御製は、天皇の公の文章のようにして扱われています。

 

従来、御製の公開は歌会始のものに限られていたそうですが、天皇の短歌は「あきらかに情報としての操作」がされていたといいます。

1948年には、明治天皇の誕生日として祝日だった11月3日が、文化の日となります。その前日に宮内庁は御製を五首発表しました。入江は各新聞社の御製の扱いについて次のように述べています。

昨日御五首が発表されたが、我々の予想通り朝日が文化に関するもの御二首を載せた。時事には五首全部謹載したが、他は全く何もかいてゐない。これは今時OPENで発表すればかうなるに決つてゐるのであり、殊に文化の日を当て込んで積極的に宮内府から発表するやうになることは全く面白くないといふ我々大金、鈴木一、入江の主張は不幸にして正しかつたと思ふ。やはり我々の思つた通り、文化の日は見送つて後の何でもない時に朝日なり毎日なりに特種として漏らすべきものであり、今後はそのやうにすべきものと思ふ。

折にふれて

海の外とむつみふかめて我国の文の林をしけらしめなむ

悲しくもたゝかひのためきられつる文の林をしけらしめはや

陶器について

たふとしと見てこそ思へ美しきすゑものつくりいそしむ人を

益子焼

さえのなき嫗のゑかくすゑものを人のめつるもおもしろきかな

コスモス

秋ふけてさひしき庭に美しくいろとりとりのあきさくらさく

(1948.11.3)

せっかく発表するなら、もっと大々的に扱ってもらえるタイミングにするのがよかったというわけですね。

 

翌年、『改造』1950年1月号に天皇の歌七首が発表されます。

『改造』歌が発表される前、49年の11月26日の『朝日新聞』には「天皇の御歌が雑誌に」の記事が出ています。

側近によって天皇の近作がリークされるという図式を作ることで、相政たちの反省はいかされたことになります。

 

側近たちが御製により注目を集めようとしたり、宮内庁が積極的にマスコミへ対応していくことについて、内野は懐疑的な書きぶりです。御製や皇室がより注目されるように発信されていくのはなんのためなのでしょうか。

 

発表された天皇の短歌がどのように読まれるのか、ということを見てみましょう。

昭和天皇崩御の時に、短歌が登場した報道には

(A)天皇の短歌作品を中心に追悼及び昭和を回顧する記事

(B)天皇の短歌作品を中心にした、歌人などの追悼文

(C)著名歌人による追悼短歌作品

(D)TVにおける天皇の短歌作品関連番組

があります。体験したわけでも他と比較したわけでもなくこんなこというのもどうかと思いますが、なるほど短歌は他の芸術よりの天皇制と近い感じがしますね。

 

制度として、公たる天皇の言動の責任が、一首の短歌で免責さえするような論法が散見された

と内野は書きます。A・B合わせて20ほどの記事の書誌情報や、Cの著名歌人による追悼作品が付されていて調べ物に便利です。

 

Aについて見てみましょう。

次の二首は昭和天皇の歌です。

あめつちの神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波だたぬ世を (一九三三年歌会始「朝海」)

峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり (一九四二年歌会始「連峰雲」)

このような天皇の歌に対して、次のような報道が行われました。内野の引用を孫引きします。

平和への願い、戦時下での苦悩、復興の喜び、国民の生活を思うお気持ち、そして自然への愛情…と、堅苦しい「お言葉」では表しつくせない卒直な感情を、おおらかに、そして生き生きを、ときどきの歌に託されてきた。そうしたお歌の数々は、陛下の内面生活の歴史を如実に物語っているように見える。(「ご感懐おおらかに お歌」(七八首)『朝日新聞』1989.1.8)とあるが「戦前、停戦たたえた1首 側近が秘密に 天皇陛下のお歌」の第一段落の途中から

「御製」「大御歌」といわれるお歌は、陛下のお気持ちを推し量るうえで重い意味を持つ。世の静けさを願う心。追憶、喜び、悲哀――いくつかの折々の陛下のお歌にふれる時、その時々の胸中が伝わってくる。(「和歌に託されたお気持・昭和天皇」(三十四首)『毎日新聞(夕)』1989.1.9)

暗い戦争中も新年の歌会始は続けられた。「国民の士気のうえからも風流は面白くない」という軍部の批判は強かったが「なんとか伝統の文化の薫りを残しておきたい」という昭和天皇のお考えからだった。天皇が願われたのは、歌道を通じて皇室と国民の結びつきを緊密にすることだった。(「お歌にしのぶ昭和天皇 皇室と国民とを結ぶ三十一文字 卒直に表現」(二七首)『千葉日報』1989.1.8)

 

これらの文章からは

・歌において天皇の本心が示される

・歌から天皇は平和や国民の生活を思っていたことが分かる

・歌によって、皇室と国民とが交流できる

という主張が読み取れるといってもいいでしょう。

ある立場の人間がどのようなメッセージを発するのかという側面のみが注目されて、短歌の文体や修辞、文学性などが無視されています。

歌会始の作に、ことば以上の状況や背景、心情を付与することには、種々の危険性が伴うことに注意しなければならない。歌会始は、本来、天皇に近い人々の、私的な行事であった。現在は、その伝統に固執する部分を擁しながら、その時の国家権力や国民に対するスタンスの確保やメッセージ発信の場にしようとする意図が顕著である。天皇家と国民が、「うた」を通じて、のどかに、なごやかに交歓する光景は、まだ、しばらくは役に立つと思う人々がいる。

 

朝日新聞』の編集委員薮下彰治郎が、本多勝一との対談で述べた以下のコメントも興味深いです。

天皇の戦争責任の免責の第一の手法として(孫引用者注:内野の補足))一般国民が当時知るよしもなかった『秘話』の類や非公式の日記、いわば内輪ばなしやウラばなしを大々的にもち出す方法ですね。(中略)そういう非公式な、しかも担保の極めて薄いものを対置して、公的に明らかになっていたものを否定・免責してゆく。たとえば、詔勅で明白に天皇が宣戦しているのにもかかわらず、実はやりたくなかったんだとか、思い入れたっぷりの短歌を披露した、といった内輪ばなしこそ”真意”なんだとするやりかた

(孫引き:本多勝一「貧困なる精神41」『朝日ジャーナル』1989.1.20 p.90)

 

この本は、いろいろな話題がでてくる *6のですが、話の収拾がつかなくなるので、ここまで紹介した部分をまとめてみます。

評論集という性質上、主張のまとめみたいなことはされていないので、内野が以下のように主張していた、というより、この本を読んで私が注目した主張はこんな感じ、という感じです。

 

天皇や、国家あるいは団体が人を選んだり賞を与えたりすることは、権力の構造を作り出してそこに迎合する流れや馴れ合い生んでしまう

天皇の歌を公表するということが、皇室の広報的な意識や情報操作と結びつく

天皇の歌の解釈が、そのまま天皇の”本心”をはかることにつながる

 

スタートしたところから、短歌と天皇制についてすこし引き出しが増えたかなと思います。

もっとごりごり議論するには、天皇が「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるというのはどういうことなのか、あたりの短歌史というより一般的な話もおさえていきたいですね。

この記事はけっこう迷いながら書いたんですけど、わたしがつまずいていることについて、こういうのを読め!と思われた方はご教授いただければうれしいです。

 

  *

 

書いた人:牛尾今日子(ushio.kyoko@gmail.com

1994年生まれ。京大短歌会を最近追い出されました。同人誌「羽根と根」、「かんざし」に所属。

*1:『CHITENの近現代語』http://chiten.org/archive/archives/79

*2:歌会始の権力性・岡井隆の変節の話と、歌壇の賞の話とは論理的につながるのかどうかはやや疑問です

*3:歌壇や結社が馴れ合いばかりで正当な議論が行われない、という内野の主張は、あまりに人の批評性を信頼していないんではないかと思うのですが、この記事の要点ではないのでおいておきます。

*4:宮内省は宮内府を経て49年に宮内庁になっていますね。

*5:内野は、この相政の日記の引用の直前に、〈うらうらとかすむ春べになりぬれど山には雪ののこりてさむし〉という1948年の歌会始「春山」の御製を示しています。

内野の記述をそのまま読めば、この春山の歌が、以下で相政が扱った歌のひとつであり、これらの処理の結果として歌会始で発表されたという解釈をしたくなるのですが、実際にその前後の『入江相政日記』を読んだだけでは、相政や鳥野が確認しているのが歌会始のための歌なのかどうかは確認できませんでした。

こういう感じの引用とその表記とがあるとなんか全体的に不安になってきますね。

*6:雅子さまが受けたいわゆる「お妃教育」は、日本歴史や皇室等々について計五十時間あって、そのうち十時間は岡野弘彦による「和歌」だったんですって、びっくり

第50回 続 品田悦一『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』 

永井祐

こんにちは。

 

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

 

 

今回はもう一回、品田悦一『万葉集の発明』をやります。

一回でおわるのがもったいない気がしたからです。

と思ったら、前回では堂園さんも品田悦一さんの本を取り上げていました。

ブログは「春の品田まつり」のようになっていますが、まあいいでしょう。

 

この本は三章立てになっていて、

第一章 天皇から庶民まで―『万葉集』の国民歌集化をめぐる問題系

第二章 千年と百年―和歌の詩歌化と国民化

第三章 民族の原郷―国民歌集の刷新と普及

となっています。

第47回でやったのはこの第一章。今回は第三章の後半の島木赤彦の万葉観についての

ところをやろうと思います。

この本において島木赤彦はある種とくべつな位置にあります。

それは彼が、「国民歌集・万葉集」というコンセプトを最も熱く生きた人間だからです。

 

複雑なので上手くいくかわかりませんが、やっていきましょう。

 

前回やったのは明治の話。時代は下って今度は大正です。

学制が発布されてから約半世紀、中等教育機関への進学率は徐々に上向き、読書人口は増大していた。

万葉集』のテキストもいろいろ種類が出てきて、文庫的なものも出回っていた。

明治時代のエリートたちによって構築された国民歌集としての万葉集は、学校教育をもとにしながら、その外へとどんどん読む人を増やしていった。

 

明治ナショナリズムの構築物は、こうして観念としての本質を表面上消し去りながら、その実、人々の感性や美意識の領分にまで食い込んでいったのである。この、国民歌集の大衆化/内面化の過程の中心に位置していたのが、赤彦率いるところのアララギ派であった。

 

アララギの万葉尊重は短歌史的にも有名な話ですが、それは日本人の万葉観が出来ていく過程の中でも外せないような大きなものだったんですね。

この本では、折口信夫、伊藤左千夫、斎藤茂吉の果たした役割がそれぞれ解説されますが、

団体としてのアララギの中心にいたのが島木赤彦でした。

 

大正期におけるアララギ派の急成長は、文学上の流派の興亡という次元では決して捉えきれない。事態は一個の社会現象として解明されなくてはならないが、従来そうした見地からの接近はほとんど試みられていない。万葉尊重の方針が広汎な支持を得たことまでは誰もが認めるところなのだが、十数年間の沈滞がなぜこの時期に克服されたのかという点についてさえ、説得力のある説明はまだなされていないと思う。

 

少数精鋭時代のアララギの話はピーナツでもやりましたが、この時期にどんと規模が大きくなった。

品田さんの仮説では、前回やったような、「国民歌集としての万葉集」を学校で教えられた人の数が、この頃すでに五十万人にはのぼっていたという事実が大きいのではないかとのことです。明治にまいた種によって土壌ができていたということですね。

が、それを検証する準備はないとのことで、典型例として中心人物の赤彦の分析が行われます。

 

島木赤彦は1876年(明治9年)生まれ。父親は長野県の小学校教員でした。

自身も学校を出てからは地元の小学校の教員をやりながら詩歌の創作をしていた。

はじめは新体詩の投稿とかをしていたのですが、だんだん短歌にはまってきて伊藤左千夫と緊密な交流を持つようになる。そして創刊時に「アララギ」に参加。

1913年(大正2年)に伊藤左千夫が死ぬと妻子も仕事も置いて単身上京。「アララギ」の編集に心血をそそぐ。

赤彦は結社の経営、門弟の獲得ということかけては抜群の才能を発揮した。

そして万葉集を崇拝した。

 

万葉集ヲ勉強シタマヘ歌ノ聖典コノ以外二ナシト深ク信ジテ只々一途二万葉集二没頭シタマヘコレカラ出発セネバ有難キ歌出来申スマジ(1915年・門弟宛ての書簡)

 

ちょっと宗教っぽいですが、

 

愚直とも見える彼の言説は、ある種の人々を辟易させた反面、別の人々にはかえって説得力を発揮して、周囲に集う人の輪がみるみる拡がっていった。

説得されたのはどのような人々か。むろんさまざまのタイプがあったわけだが、特に注目されるのは、教職に就いていた人が相当の割合を占めるという点だ。

 

 

さっきも出ましたが、赤彦は小学校教員だったし、校長もやってるし、諏訪郡視学(旧制度の地方教育行政官)もやってます。教育界との縁は終生切れることはなかったそうです。

その教育関係の人脈からどんどんアララギに入れていた。

 

上京してからは「アララギ」に心血をそそいだと言いましたが、

実は上京後も教壇に立っているし、信濃教育会の機関誌『信濃教育』の編輯主任までやって、教育関係の論説をそこに発表したりしていた。

 

赤彦はこのように、生涯を通じて教育者の顔をもちつづけた。というよりも、歌人/文学者の顔と教育者の顔とを使い分けようとしなかった。彼の教育論にはしばしば『万葉集』や、子規や、鷗外が引き合いに出される。かと思うと、歌論や万葉論がいつの間にか『論語』の話へ流れ、教育論にすり替わってしまう。二つの分野の区別など、本人はなんら意に介していなかったらしい。

 

それはわりとやばい感じがするのですが、ともあれ、赤彦が本質的に教育者だったことが一番大事なポイントになります。

 

赤彦が短歌について語るときに出てくる語彙、「鍛錬」「感銘の集中」「主観の統率」などなどは、当時の教育学書、英米系の心理学説に依拠した書物から仕入れられたものだろうと品田さんは言います。

赤彦の歌論では「鍛錬道」という言葉が有名で、わたしは名前にびびってちゃんと読んでいないのですが、すごくおおざっぱに言うと、

鍛錬された心が物事に一心集中して向かい合う。その力がいい歌を生む、みたいな話です。

従来の赤彦研究者だとこの「鍛錬」を儒教思想の影響と説明して済ますことが多いそうですが(本人も似たようなことを言っている)、それでは解くことができない。

 

教育学の分野で「鍛錬」といえば、このように、児童の自制心や品性を高めるための訓練、つまり英語でいうdisciplineのことだった。

 

ほかにも、「日本人は元来体慾の旺盛な人種であった。従つて官能の働きが熾烈であつた」とか、「肉や感覚機を統率する所の強大なる主観」の働きを追求すべきとか、独特の言い回しをするのですが、これらはみな教育学系の心理学の述語に根をもっていた。

 

鍛錬説を編み出した赤彦の思考は、東洋思想どころか、実は英語系の翻訳語群に支えられていたのだ。”作歌という行為を成立させるサブジェクトが自身に適切なディシプリンを加え、旺盛なアペタイトとセンスの作用を一点にコンセントレートすることに成功したとき、至高の歌境がひらける”というのが、その思考の筋道だった。

 

「鍛錬」はこの本にそって考えると、短歌をつくる主体(サブジェクト)を作り上げる訓練というニュアンスになります。そして彼の中では教育と短歌が一つのことですから、

 

小学校ワ国民養成場デアル。即チ、国民トシテ最、完全ナル人物オ養成スル所デアル。(「玉川村村勢調査」)

 

このような教育観、「ちゃんとした国民を作り上げる」という教育の目標と、作歌の主体の心を鍛錬するっていう話が同じこととして彼の中にあったということになります。こういう教育観は1890年代のナショナリズム昂揚を背景に普及した考えで、当時の教育者たちに広く共有されたものだったそうです。今では人に引かれると思いますが。

品田さんはこんな風にまとめます。

 

(略)「写生」「全心の集中」「直接表現」を実践する主観(サブジェクト)、つまり作歌の主体(サブジェクト)をどう確保するかを問題にした点に、赤彦の教育者らしい着眼があった。その答えが「鍛錬(ディシプリン)」だったのだ。そこには、短歌の国民化を<国民の歌人化>によって果たそうする構想が含まれていたと見られる(略)

 

ちなみに斎藤茂吉などは作歌をもっと個人的な営為として考えていて、赤彦のこういうノリに違和感を覚えているふしがあったそうです。

 

そして万葉集について。

赤彦は素朴な万葉崇拝者ではありませんでした。

赤彦が三十代のころの伊藤左千夫との対立においてはこの点が争点になります。

左千夫と赤彦は、「原始的な、情緒的な感情の生活」とか「古代日本人の赤裸々な肉体や心の生活」とかいった万葉観においてはおおむね一致していましたが、

その万葉的な直情の表現が現代に通用するかどうかという点で真っ向から対立しました。

 

左千夫の万葉尊崇には一点の曇りもない。歌は「叫び」を目指すべきである。『万葉集』は「叫び」の歌の宝庫である。ゆえにわれわれは万葉を手本とせねばならぬ、というのだ。一方、赤彦に言わせると、万葉時代の感情生活は現代人にとってはすでに「失われたもの」であり、われわれはそれを「追憶して尊く思ふ」しかないということになる。これは事実上の万葉離れの主張にほかならないし、左千夫の目にもそう映ったに違いない。

 

のちには万葉集聖典視するようになるものの、現代歌人としての赤彦は万葉集の歌そのままでいけると考えていたわけではなかった。

 

子どもらのたはれ言(ごと)こそうれしけれ寂しき時に我は笑ふも 島木赤彦

 

わが家の池の底ひに冬久し沈める魚の動くことなし 同

 

これらの歌に品田さんはこうコメントします。

 

万葉語を織り混ぜるとはいえ、これら生活詠・自然詠に表現されたものは本質的に近代的な境地であり、外界の事物を凝視する視線に融かし込まれた自意識や、その自意識が感傷に向かおうとしながらも流路を堰かれて内攻した姿であって(略)。『万葉集』にこんな歌はない。

 

このように赤彦の中では万葉集聖典視する部分と、現代の実作者として自分の歌を作っていく上での構えが一見矛盾して存在していました。

そしてこれを解くためのロジックもやはり、彼の教育者として思想から得られます。

次は左千夫との論争の過程で出された文章の一節。万葉集一点張りの左千夫に対して、「それはもう失われたものなんだよ」と言っている。

 

我々は子供の時に力限り泣き、力限り笑つた。今ではあのやうな泣き方や、笑ひ方は出来ない。(略)あのやうな純一な泣き方や、笑ひ方が我々の一生に通じて失はれなかつたならば、我々はいつも原始的な神の生活が送られるのであらう。しかし我々は実際に於て、何時迄も左様な単純一途な感情に住してゐる訳に行かない。せち辛い人情の流れに住して、そこに境遇の変転を見、そこに世故の悲惨を嘗めて、単純なる感情は幾多の曲折と幾多の研練を歴ねばならない。[・・・/]その代わりに神は我々に別趣なものを与へた。強みのある単情の代りに深みのある情趣を与へた。発作的な感激の代りに瞑想的な感傷を与へた。叫び呼んだ泣き方が涙を呑む泣き方に変わつたのである。[・・・]心理学者が情緒と情操とを区分して考へるのも是である。情緒は動的に激しいものである。情操はそれに比べて静的にしみじみしたものである。[・・・]失はれたものは尊いものであつた。併し、与へられたものは更に深く有難いものであると云へる。[・・・/・・・]我々は決して新しいもののみを認めて、旧いものを認めぬといふのではない。夫れは我々が原始的な、情緒的な感情の生活を追想して尊く思ふのと同じである。只夫れと共に近く発生した生き生きした新しい運動を更に愉快に有難く思ふのである。離れて味ふ歌。叫ばずして沈吟する歌。騒がずして沁み入る微動の響き。眼を閉ぢて瞑想さるる動き。強みよりも深みのある情趣。斯様な色調を帯びて生れ出て居る新しい芽ざしが今後どのやうな発育を遂げるのであろうか。

 

ここから赤彦が教育学系の心理学説から摂取した論点が洗い出されます。

まず、感情の発育/発達過程に「情緒」と「情操」という二段階を設ける点。

赤彦も在学していた師範学校(教員を養成する学校)の教科書には、イギリスの心理学者の書に依拠した、そういう記述があるそうです。

 

「情操」は、このように、もともと<真善美にわたる高尚な感情>を意味する総合的な概念で、そこには芸術的な感受性ばかりでなく、知的好奇心や正義感のようなものまでが包摂されていた。現在でも時おり耳にする「情操教育」の「情操」なのだ。

 

わたしは教育学はかじったこともありませんが、その「情操」に聞き覚えはあります。

さらに、個人の発育史と人類の発達史とを類比的に捉える点。

つまり、「子供から大人へ」と「万葉びとから現代人へ」をパラレルに捉える視点のことですね。

こういう考え方は欧米の教育思想には古くからあり、一九世紀の教育学者たちのあいだで広く支持されていたそうです。これが日本に輸入されていて、教育界ではけっこうメジャーな考え方だったみたいです。

こういう風に、さっきの赤彦の文章のベースの部分は、どれも明治後期の教育学界の概念系に出自をもっていた。

 

そしてそこに、赤彦独自の考え方が付加されている。

赤彦は師範学校を出てから十年目の春に、児童の粗暴な行動にどう対処すべきかを論じた、「動物性と人間性」という教育論を発表しています。

 

「感情を情緒と情操とに分てば、情緒は大体に於て動物性にして、情操は人間性であると云ひ得る」

「特に児童期に属する小学校時代の被教育者にありては、自然の発達上動物性感情の高潮なる時代である」

「教育の目的は勿論真善美の高尚なる感情を養成するにある。併し真善美の情は根底なくして忽焉として養成されるものではない」

「動物性感情の旺盛なるはやがて人間性感情の旺盛を来すべき階段である。此の間に立つて教育者の執るべき用意は只指導である。抑圧ではない。矯正である。刈除ではない。思慮ある助長である。角を矯めぬ修正である。」

 

 

赤彦はこのように、感情発達史の初期段階を格別重視する立場を打ち出し、その立場から「動物性感情」つまり情緒の尊重を主張していた。

 

赤彦の見るところ、情緒はそれ自体としては低級な感情であるものの、同時に、情操という高次の感情を根底で支えるものであって、この土台がしっかりしていなければ立派な建物など建ちようがないのだった。子供のころ思うさま笑ったり泣いたりしたことのない者が、成長してからどうしてあくなき探究心や、堅固な正義感や、優れた芸術的趣味や、その他もろもろの豊かな心の持ち主となれよう。情緒こそあらゆる精神活動の源泉であり、人間性の原典でなければならぬ―この思想は、しかも、個々人の発育と人類の発達の双方に、同時に妥当するはずなのだった。

 

そして彼は教育論と歌論の区別がない人だから、

 

国民歌集『万葉集』は、まさにこの脈絡において、どこまでも歌の聖典でなくてはならなかった。万葉以来の伝統とは、万葉めいた歌が詠まれつづけるということではない。むしろ逆に、歌が新しくなればなるほど、ますます『万葉集』の存在が重みを増してくるのだ。歌ばかりではない。社会が進歩し、人々の感情生活が複雑化すればするほど「万葉びと」の素朴な感情生活に触れることが重要な意味を帯びてくるのである。

 

ここでさっきの個人の発達史と人類の発達を類比的に見る視点にもとづいて、さらに「教育」と「短歌」の区別がない思考回路によって、赤彦の万葉尊重が成立する。

人間の発達の土台になる「動物性感情」の重視が、短歌における古代の万葉集の尊重につながる。それを大切にしなければ、立派な人間/作歌主体にはなれない。

まとめです。

 

改めて鍛錬説について言おう。赤彦がそれを提唱した最大の意図は、万葉尊重と万葉離れとをつなぐ点にあったと考えてよいだろう。情緒的感情を情操/情趣の水準に引き上げるには鍛錬(ディシプリン)が必要だ、とこの教育者は考えた。万葉時代の人々は単純一途な原始的感情に生きていたので、詠み出でた歌々におのずと緊張した響きが備わったが、複雑化した現代社会に生きるわれわれにとうていその真似はできない。意識的に自己の精神を鍛えるのでなければ、散漫になりがちな感銘を一点に集中することは難しいし、まして成熟した歌境の開拓はおぼつかない―「鍛錬」説は、このように、作歌上の方法論として提出されながらも、本質的には修身の論であり、同時代の国民の精神をいかにして高めるかという議論であって、ありていに言えば、生温い気分を叩き出せという議論であった。

 

実はまだ続きがあるのですが、このへんで一段落にしたいと思います。

この赤彦論(作家論ではないと品田さんは書いていますが)はすごく鮮やかだし、

なんだろう、一人の人間のなかで「短歌」とか「教育」とか「国民」がここまで絡み合うのか、と思ってわたしにはとても印象深かったです。

あと、今は品田説自体を検証することはできないので、もうちょっと自分で赤彦のものを読んだら、それと付け合わせてみたいですね。

 

それにしても、「動物性感情」の重視のところは赤彦独自のもので、「一般的な考え方ではなかった」となってるのですが、小学校の先生でこんなこと考えてそうな人はわりといた気がします。わたしはけっこう落ち着いた子供でしたから、「こんなにテンションが低くては立派な人間にはなれない」とか思われてたのかもしれません。ほんとうに大きなお世話ですね(言われてないけど)。

赤彦は高校とかじゃなくて小学校の先生だったのも大きいんでしょうね。

 

わりとディープな話になりましたが、なにかの参考になれば。

 

ではまた。

 

第49回 品田悦一『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』

堂園 評伝

超ロジカル茂吉評伝 堂園昌彦 

斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり (ミネルヴァ日本評伝選)

斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり (ミネルヴァ日本評伝選)

 

 

 

こんにちは。

 

今日やるのは、品田悦一(しなだよしかず)著『斎藤茂吉―あかあかと一本の道とほりたり』です。2010年にミネルヴァ書房から出ています。前々回の47回の永井祐さんのやった『万葉集の発明』と同じ著者の方ですね。

 

短歌のピーナツ、去年の4月から始めたのでそろそろ開始から一年経ちます。だいたい一年やってきて、面白い歌書も、面白くない歌書も、そこそこの数読んできました。で、ようやく最近、面白い歌書とそうでないやつの差がどういうところにあるのか、なんとなくわかってきたような気がします。

 

それは、取り扱ってる対象をあらかじめ「素晴らしい」と決めてから書き始めてる本はほぼ面白くなく、「これは良いのかなんなのかわからないけど、なんか妙だから考えてみよう」という本は、だいたい面白いということです。

 

言い換えると、「素晴らしい」に至るまでのプロセスをちゃんと書いてくれてると面白くなるのですが、「素晴らしい」から出発しちゃうと、どうも著者だけが了解していることが多すぎて読者は入り込めないことが多い。まあ、当たり前っちゃ当たり前なのですが、短歌の本は概して後者のことが多いのです。

 

もちろん、そうした評論にも示唆的なところは多々あるんですが、あんまり情緒的な誉め言葉ばかりを読んでいると、「澄み切った精神によるあらたな歌境に入った」とか、「この時期、〇〇は自己の寂しさを徹底的に見つめることとなったのである」とか書いてない本を読みたくなります。

 

で、今回取り上げる品田悦一さんの『斎藤茂吉』は、そういうのがないほうの本ですね。非常にロジカル、かつ分かりやすくてお勧めです。

 

どういう本かというと、大枠は斎藤茂吉の評伝なんですけど、具体的な内容としては、『万葉集』を軸として、いままでわりと曖昧にされてきた「国民歌人」としての茂吉の立ち位置をロジカルに切ってみせ、返す刀で茂吉の表現上の特徴もあぶり出す、という本です。評伝としてはわりと異色というか、2010年の出版当時も、賛否両論出てけっこう話題になってた記憶があります。

 

本書は旧著『万葉集の発明』をふまえて書かれるわけだが、その関係は、正編に対する続編というよりも、むしろ概論に対する各論に近い。(p.8) 

 

と、著者が言っているように、概ね、第47回で永井さんが取り上げてた『万葉集の発明』で論じられたことのラインにあります。でも、別に『万葉集の発明』を読んでいなくても大丈夫です。基本はしっかり説明してくれます。いままで歌人たちの評論がぼんやり記述してきたことを、明確な論拠を示しながら考察していて、はっきりいってかなり気持ちいいです。

 

品田さんは、序章で茂吉の文章の特徴をこう述べています。

 

 肝心な点を韜晦する反面、韜晦の身振りがやけに大袈裟で、それだけに何かが隠されていることだけははっきり伝わってくる――根が正直なのか、それともよほどの食わせ者なのか、おそらく両方なのだろうと思われるが、とにかく、茂吉の文章と付き合うには前もってこの呼吸を飲み込んでおくことが肝要だろう。(p.11)

 

「肝心な点を韜晦する反面、韜晦の身振りがやけに大袈裟で、それだけに何かが隠されていることだけははっきり伝わってくる」……、うわあ、ここらへんまじ茂吉だわ。実際、研究対象として斎藤茂吉は非常に取り扱いにくいところがあります。その辺の苦闘は、このブログの第一回で取り上げた佐藤通雅さんの『茂吉覚書 評論を読む』でばっちり出ていました。品田さんは茂吉の曲者っぷりをちゃんとわかって取り扱おうとしている。期待が高まるじゃないですか。

 

 行間が不透明でありながら同時に雄弁でもあること、それは茂吉の短歌にも通ずる性格だろう。私はなけなしの想像力と洞察力とを傾注して解読に努めたつもりだが、見極めを誤った場合がないとは言いきれない。ただし、事実と判断とをないまぜにするような記述だけはしなかったはずだから、読者諸賢はそこを的確に読み分け、各自の判断につなげてくだされば幸いである。(p.12) 

 

「事実と判断とをないまぜにするような記述だけはしなかったはずだから、読者諸賢はそこを的確に読み分け、各自の判断につなげてくだされば幸いである。」、いいですね。ヨッ! と声をかけたくなるようなロジカルな宣言です。この本はやっぱりこれまでの茂吉本からすると異色の部分が多いのですが、筆致は非常にクリアーなので、読まれて判断されるのもいいんじゃないかと思います。

 

品田さんは『斎藤茂吉 異形の短歌』という、今回の本のさらに各論を2014年に出していて、私はそっちは未読なんですが、そちらもぜひ読んでみたくなりました。

 

 

ほんとおもしろかったんでいろいろ書きたいんですが、どっから喋ろうかな。

 

じゃあ、まず、茂吉の短歌のスタートから。 斎藤茂吉は明治15年(1882年)山形県生まれ。生家はそこそこ大きい中農でした。茂吉は勉強がめっちゃできる子供で、よくあるパターンですが「神童」とか呼ばれてました。

 

で、同郷の出身で東京浅草で開業していた医師の斎藤紀一が、「男の子に恵まれないので、故郷に優秀な少年がいたら引き取って育て、ゆくゆくは養子にしたい」と漏らしていたのが、茂吉の父親に伝わり、茂吉は明治29年(1896年)に15歳で上京し、紀一のもとで寄宿生活に入ることになります。将来的には、紀一の跡を継ぎ、精神科医になることを期待されていました。

 

本格的に短歌を始めたのは、一高三年の冬、23歳のとき。正岡子規の歌を読んで魅了されたのがきっかけです。子規はそのとき、2年ほど前にすでに亡くなっていましたが、遺歌集『竹の里歌』が出ていました。茂吉はそれを神田の貸本屋で借りて読んだそうです。それ以前にも開成中学3年生のときに周りの文学少年たちが回覧雑誌を出していたのに影響されて、ちょろっと作ったりはしていたみたいですが、のめり込むようになったのは、子規の歌を読んでからのようです。

 

当時、茂吉は友人への手紙にこう書いています。

 

「小生は鉄幹が詩も分らぬながら敬服して見、信綱直文諸氏の歌も一読いたし候へしもドーモ竹の里歌が気に入り申候これも意味なき事にて、何か前世からの宿縁とでも申すべきことならむと考ひ〔ママ〕居り候」(p.53) 

 

与謝野鉄幹佐佐木信綱落合直文正岡子規……、ここらへんが明治37年あたりにはメジャーだった歌人たちなんですね。で茂吉はそのなかで子規に惹かれた、と。

 

茂吉が子規に惹かれた理由は、その「万葉調」ゆえとこれまでは言われてきました。しかし、品田さんはそれに否を唱えます。

 

子規の歌が「万葉調を混じて居る」と「断定」できた、という茂吉の回想は、まったくの作り事ではなかったかもしれない。けれども、その「断定」は、たとえば、終助詞「かも」が使用されているから万葉調だという程度の、ごく表面的な判断でしかなかったに違いない。しかも、特に印象に残ったらしい上記「柿の実の」以下六首には、その「かも」はおろか、万葉特有の語詞や語法はまったく使用されていないのだ。彼の感動は「万葉調」とは無関係だったと見ておかなくてはならない。(p.56,57)

 

「彼の感動は『万葉調』とは無関係だった」。では、茂吉が子規に惹かれたのはなんなのか。品田さんは、子規の持っていた「分かりやすさ」が理由ではないか、と分析しています。

 

では何が感動の原因だったか。私は、本人が「かういふ種類の歌ならば、僕にも出来ないことはないと思はせた」(⑥)、「従来の歌のやうにむづかしくなく、これならば私にも出来るやうにおもはれた」(⑦)と繰返し回想している点を重視したい。(p.57)

 

「従来の歌のやうにむづかしくなく、これならば私にも出来るやうにおもはれた」。あの大歌人斎藤茂吉がスタート時にはこう思っていたことは、面白いですね。もちろん、いかなる大歌人といえど、始める前は素人ですから、この感想は当たり前といえば当たり前なんですが、それでもやはり注目してもいいと思います。

 

子規の歌は何よりもその平明さ、分かりやすさによって茂吉を魅了したのではなかったか。というのも、そのとき彼の念頭にあった「従来の歌」とは、子規以前の新派和歌ではなく、中学時代に読みかじった『歌のしをり』や『山家集』に載っていた古典和歌、具体的には次のような歌々だったはずだからである。(略)

 

いつしかと明けゆく空のかすめるは天の戸よりや春はたつらん 顕仲

あかてゆく春の別にいにしへの人やうづきといひはじめけん 実清

 

 

(略)これら古典和歌の典雅艶麗な歌境が、明治三十年代の中学生の精神世界からおよそ縁遠いものだったことは想像に難くない。(略)茂吉少年の脳裏には〈歌は難しくて歯が立たない〉との悪印象ばかりが刻みつけられたに相違ない。

 その印象を『竹の里歌』が一蹴してしまったのだと思う。難しいとばかり思い込んでいた歌がすらすら分かる。そして同感できる。世の中にこういう歌もあったかと思うと「僕は嬉しくて溜らない」「僕は溜らなくなつて、帳面に写しはじめた」(略)

(p.57~59)

 

本格的にのめり込む前、茂吉の頭にあった「短歌」のイメージは、古典和歌の〈難しい〉イメージでした。それが、子規の歌を読んだらすらすらわかり、気持に同感できる。そのことが「嬉しくて堪らない」と茂吉は言います。これ、まんま現代で、穂村弘枡野浩一、あるいは俵万智の歌を読んだ読者の感想とおんなじですよね。そのことに私はちょっと感動します。

 

で、そもそもなんで子規の歌はわかりやすいのか。その背後には、「国詩/国民的詩歌(ナショナル・ポエトリー)の創出」という目的がありました。

 

出た! 「国民的詩歌(ナショナル・ポエトリー)」!! このブログで第27回新体詩の話とか、第33回落合直文の話とかでさんざん出てきましたよね。明治になって「日本」が出来たため、これまでバラバラだった各地の言語や意識を「国民」の名のもとに統一しようとする動きです。ひらたく言うと、「みんなに通じる詩歌を作ろう」というやつですね。

 

以前の話の繰返しになりますが、明治15年に外山正一らが『新体詩抄』を出版し、「国民的詩歌」を作ろうとする運動を始めます。その中には、伝統的な和歌を批判する部分がありました。

 

外山正一・井上哲次郎・矢田部良吉の三名が『新体詩抄』(初版一八八二年、丸屋善七)を刊行して以来、「国詩」創出の指針として繰り返し唱えられたのは次の四点だった。新時代にふさわしい複雑雄大な内容を盛り込むために、

 一、詩形の長大化

 二、用語の範囲の拡張

を図ること、そして国民的普及を可能にするために、

 三、表現の平明化

 四、過剰な修辞や擬古的措辞の排除

を推進することである。(p.61)

 

要するにまとめると、「和歌は短すぎ」「和語しか使わないなんて言葉限られすぎ」「むずかしすぎ」「よくわかんない凝った修辞使いすぎ」ということです。そんなのもう時代遅れっすよ、と外山らは言ったわけですね。

 

それに反応して、国文学者の萩野由之(よしゆき)・池辺義象(よしかた)・落合直文らは「いやいや、確かに平安時代以降の和歌にはそういうところもあるけど、万葉集は違うよ?」と反論します。曰く、万葉集には長歌もあるし、漢語もちょっと使ってるし、万葉のことばは当時の普通語でわかりやすいし、あと、表現も率直だよ、と言い、万葉集こそ、むしろ「国詩」の古代における先例なのだ、と持ち上げます。

 

明治の詩歌は明治のことばで創作されなくてはならない。さもないと国民的普及は期しがたい。ところでここに『万葉集』という由緒正しい手本があって、天皇から庶民までの歌があまねく収められている。奈良時代には和歌という同一の文化を国民全員が享受していたのだ。なぜそういうことが可能だったか。何よりも、小難しいことばづかいを避けたからである。今でこそ耳遠い古語となってしまったものの、当時はあれが現代語であり、日常会話に使用されるのとそう隔たりのないことばであって、万葉の歌人たちは、自身の内面を流れるそのことばを使用して、思ったり感じたりしたことを偽らずありのままに表現した。枕詞やら序詞やらはこのさい無視しよう。過剰な装飾も末梢の技巧も介在しない自然な表現こそ万葉の持ち味であり、尊いゆえんでもある――啓蒙主義的言語観に導かれて、およそこのような見方が通り相場となっていった。(p.65)

 

実際には、万葉集のことばが「当時の日常語」だったりとか、「天皇から庶民まで」あらゆる階層のひとの歌が収められている、というのは言い過ぎというか嘘なのですが、「国詩」の要請の前に、なんとか和歌を守ろうと、こういう主張をするのです。第47回『万葉集の発明』で永井さんも説明してましたよね。

 

で、子規はこれに乗っかったわけです。子規の万葉尊重は、あくまでも「国詩」、つまり、わかりやすく伝わりやすい詩歌を創り出すための手段でした。なので、子規は万葉調を奉じ、万葉集の言葉を歌に取り入れようとする一方で、現代の読者にはあまりに耳遠くわかりづらい万葉の言葉は避けていた節があります。

 

そんな感じの子規の歌の「わかりやすさ」に、23歳の茂吉は感動し、それ以後、一時期学校の成績を悪くするまで短歌にのめり込んで行きます。それで、子規の直接の弟子であった伊藤左千夫が、子規亡きあとに運営していた『馬酔木』を購読し始めます。

 

ただ、『馬酔木』の歌は、茂吉にはよくわからなかったそうで、それも面白いところです。実は、伊藤左千夫は、子規の万葉尊重の理念を誤解して、万葉集は「雅」だから良い、と子規とは真逆のことを言ってました。

 

子規は、『日本』紙上で初めて左千夫と接触したころ、和歌・俳句が国民の文学として発展すべきことを強調して、当時「春園」と号した彼を牽制したことがある(「人々に答ふ 十一」一八九八年四月、全集7)。その左千夫は、子規に没書とされた投稿の中で、人類の性質に天賦の賢愚利鈍がある以上は社会に階級が生ずるのは必然で、社会現象としての文学も階級による分裂を免れることはできない、と論じていた(「日本新聞に寄せて歌の定義を論ず」同年三月筆、全集5)。彼の発想には「国民」という観念が欠落していたのである。現に、別の投稿で「和歌は貴族の如し」などと口走って(「小隠子にこたふ」同年二月、全集5)、子規に厳しくたしなめられたこともある。

 左千夫の信ずるところ、和歌は本質的に「雅」なものであり、その「雅」の極致は『万葉集』にある。万葉時代の歌聖たちが完全無欠の歌境を達成してしまった以上、後世の自分たちはそこに少しでも近づこうと努力するまでで、凌駕したいなどと望むのは不遜も甚だしい。まして万葉の歌を「自然の調」「有のまゝの言葉」などと称するのは、歌の分からぬ愚か者の言いぐさでしかない(「歌の定義を論ず」前掲)。詩歌の史的発展を否認するこの議論は、子規の考えから見ても、当時広まりつつあった万葉像から見ても、さらには進化論全盛の当時の思潮全般から見ても、およそ反動的なものにほかならなかった。(p.70,71)

 

そんな考えなので、子規はシンプルさを狙って万葉を取り入れたのに、左千夫は逆に雅っぽさを狙って万葉集の古語を導入しようとします。『馬酔木』はまるっきり時代を逆行することになってしまいます。

 

散りばめられた古語にどういう効果があるかといえば、せいぜい厳かな印象を与えるくらいのことで、なかにはそういう印象が逆効果となっているものさえある。(略)

 要するに、最晩年の子規が憂慮していた傾向を左千夫たちが推進した結果、万葉調は仲間内だけで通じ合う一種の符牒と化して、その符牒への精通ぶりを互いに競い合うような、マニアックな空気が結社に蔓延していったのである。(p.74)

 

なので、当然、根岸派は『明星』の新詩社などに比べて、歌壇的には箸にも棒にもかかりません。

 

そういう根岸派が世間から時代錯誤の擬古派と目されたこと、そのためもあって明治期を通じたかだか数十人の弱小集団でしかなかったことは、ある意味では当然のなりゆきだったろう。(p.74)

 

ここら辺の左千夫の迷走と奮闘は、第41回・藤沢周平『白き瓶 小説長塚節』の回を読んでいただきたいのですが、それでも、茂吉は子規の影を求めて、なんとか『馬酔木』を読もうとします。

 

再三触れたように、『竹の里歌』が機縁となって作歌に熱中していった茂吉は、やがて『馬酔木』の購読者ともなったが、掲載されていた歌にはむしろ違和感が先立ったらしい。このときの印象を彼は、《この雑誌の歌は、「竹の里歌」の歌よりも、古調といふのであつて、なかなかむづかしいものであった。単にむづかしいといふよりも、私の実力では読めないのが幾つもあつたし、「竹の里歌」を読んだ時のやうな感奮をも得ることが出来なかつた》(「文学の師・医学の師」前掲⑦)、《古語をしきりに使つて、難解なものであつた。私は勝手がちがふといふ気持もした》(「短歌への入門」前掲⑧)などと繰り返し語っている。それでいて「アシビ所収の歌は皆優秀なものに相違あるまいと、堅い盲目的な尊敬をはらつて」、辞書を引き引き苦心して読んだともいう(「思出す事ども」前掲)(p.78)

 

「『馬酔木』の歌はなんか難しいし、子規の歌と違うなー」「でもたぶんこーゆーのがいい歌なんだろうなー」と思ってる茂吉がいじらしいというか、泣かせます。でもまあ、後の茂吉と左千夫との確執は、すでにこういったところに埋め込まれてたのかもしれません。

 

で、茂吉は特に『馬酔木』に入会しようとは思ってなかったのですが、ある時、自分の作った歌を同級生に馬鹿にされます。なんか、文法が間違ってたらしいんですね。当時から負けず嫌いな茂吉は、反論したくていろんな本を調べまくるのですが、それでもやっぱりそういう語法は載ってない。茂吉はやり込められた形になります。悔しくて仕方がない茂吉です。

 

でも実は、その語法は元々、『馬酔木』で見かけた使い方を真似てみたものだったんですね。諦めきれない茂吉は迷った末、左千夫にその語法の根拠を手紙で質問してみます。そしたら、なんと左千夫からすぐに返事が来ました。その説明は、左千夫らしく支離滅裂なものだったみたいですが、茂吉はすっかり感激してしまい、文法のことはどうでもよくなったとか。

 

感謝の手紙を左千夫に送り、そこに自作の短歌を十首くらい書き添えたところ、「面白かったから、5首を馬酔木に載せる」と返事が来ます。その後、遊びに来いと言われ左千夫の家を訪れて、茂吉は左千夫の弟子になることになりました。25歳の時でした。

 

 *

 

はい。ここまでが茂吉のスタート。しかし茂吉は『馬酔木』入会後、第一歌集『赤光』を32歳で出版するまで、長く低迷することになります。

 

惰性で作歌していたのかといえば、決してそうではない。大学時代の茂吉は、学業がおろそかになるほど歌に熱中し、「こんなに歌が好きであつたかと自ら思ふこともあつた」というし(「短歌への入門」前掲⑧)、そのころはもう『万葉集』も読めば『金槐集』も読み、根岸派の雑誌のほか『心の花』『明星』などにも広く目を配って、吸収できるものを吸収するよう努めていた。渡辺幸造宛の書簡には急所を突いた批評がいくつもあるから、歌を見る目もかなり肥えてきたらしい(柴生田七九)。それでいて実作がさっぱり振るわなかったのは、つまり努力が空回りしていたのだと見るほかはない。(p.91,92)

 

茂吉の習作期は努力が空回りしていた。理由はいろいろあるんですが、まずは『馬酔木』全体の擬古的な雰囲気に、違和感を覚えながらも無自覚に追随してしまったこと。そして、歌の細部に変にこだわって、全体をないがしろにしてしまったことがあります。

 

老いらくの母がはろはろ寒かろと女文字せす健やか吾は

をこ人はむなぎがぬめら握らまく習へるほどに年をへにけり

 

当時の茂吉の歌を挙げると、こういうものになります。左千夫から「君は言葉に興味を持ちすぎるね」と指摘されたとおり、言葉の響きばかりに淫して、全体の整合性をないがしろにしている作品が多いです。一首目は、「はろはろ(遙々)」という万葉語と「寒かろ」という俗語を響き合わせていますが、文体の統一感は壊されてしまってますし、二首目は「むなぎ(鰻)」という万葉語の響きの面白さに、茂吉が夢中になっている様はわかるものの、「馬鹿者は鰻のぬめらを握ろうと練習しているうちに年を経てしまった」とかいう内容は、何なのかさっぱりわかりません。「ぬめら」って何よ。鰻のぬめぬめのこと?

 

というふうに、たしかに低迷期だなあ、という作品なのですが、品田さんはここに『赤光』の文体を準備したものを見ます。これらの歌に見られるように、茂吉は万葉の言葉を、左千夫のように擬古的に「雅」なものとして捉えたのでもなく、かといって子規のように平明さを追及する上での語の拡張とも捉えていません。そういった思想的な背景はなく、単に見慣れない言葉、珍奇な言葉として面白がっています。そして、それらの言葉をまるで玩具を扱うように、撫でまわしたり、感触を確かめたりして、ひたすら味わおうとしているのです。

 

そして、こうした奇妙な言葉たちは、後に茂吉が「生きてこの世にあること自体への戦き」という根源的なテーマに出会ったときに、歌の中で異質なものとして、存在感を放ち始めます。それこそが、『赤光』の文体を作り上げたものだと、品田さんは言っているのです。

 

では、具体的に『赤光』の歌を見ていきましょう。

 

めん鶏(どり)ら砂あび居(ゐ)たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり

 

有名な、『赤光』中の一首です。真夏の白昼、鶏小屋では雌鶏らが焼けた砂を浴びている音が聞こえてくる、そこに剃刀研ぎが過ぎて行った、という内容の歌ですが、一読、異様な迫力を感じることができます。

 

まず、「剃刀研人(かみそりとぎ)」という言葉がすごい。めっちゃ異様に響きますね。

 

恥を記せば、私はある時期まで、明治大正ごろの東京には剃刀ばかりを専門に研いで回る職人がいたものと思っていた。が、どうもそうではなく、同じ人が鋏も研げば包丁も研いだものらしい。その、ふつう「研ぎ屋」と呼ばれていた職人を「剃刀研人(かみそりとぎ)」としたのは、たぶん一種の造語で、もっとも鋭利な刃物に焦点を当てたのだろう。(p.111)

 

剃刀砥人は、造語だったんですね。げー、全然気づかなかった。品田さんは塚本邦雄の言葉を引きながら、「この語が一首に『禍々しい気配』を呼び込んでいる。」と言っています。

 

また、「砂あび居たれ」という語法も異様です。これは文末が已然形になっていますが、上に「こそ」はないし、係り結びでもないのに已然形になるのは、実はヘンなんですね。

 

意味的にも、もしこの語が〈砂を浴びていたら〉という意味の条件句だったら、「砂あび居れば」が自然です。あるいは〈砂を浴びている〉といったんここで切れる終止句ならば、「砂あび居たり」とするでしょう。「砂あび居たれ」だと条件句なのか終止句なのか、わかりません。

 

万葉集には、似た用法はないでもないのですが、用例は極端に少なく、しかもその時は順接の確定条件句となって下へ続くのが通例だそうです。「砂あび居たれ」みたいな使い方は、茂吉が万葉の語法をデフォルメして、勝手に作っちゃったみたいなんです。

 

要するに、こんな言い方はないし、よくわからない言い方なので、歌意をきちんと取りづらいんですね。だが、茂吉はそれをあえて使っていて、その耳慣れない語法はかえって違和感を掻き立て、万葉っぽさを読者に印象づけます。結果、この砂浴びの異様さが強調されるのです。

 

また、「ひつそりと」の語も重要です。これは現代語で、全体の万葉っぽさの中で異分子のように働きます。万葉の言葉には促音(ッ)がありませんから、音韻的にも全体の調和を乱しています。試しにこれを「ひそやかに」とか「ひそかにも」等の古典和歌にありそうな言葉にすると、全体的に雰囲気は統一されますが、かえって張りつめていた空気が弛緩して、印象は平板になってしまいます。

 

使用語彙に沿って言えば、かつての根岸派がそうしたように、あらゆる事象をことごとく万葉語でまかなうのでは、図と地が反転するようにして、万葉語自体が見慣れたことばに転落しかねない。非万葉語の大胆な取り込みは、万葉語の異化作用を維持するための手法と解釈できるし、万葉語の側から見れば非万葉語自体が異化作用をもつともいえる。作者はおそらく手探りでこの手法にたどり着いたのだろうが、それを可能にしたのは、前章までに述べておいたような、特異な言語感覚だったはずである。(p.114,115)

 

他の根岸派(子規の追随者たち)がやったように、一首全体を万葉語とか古典和歌っぽい言葉で統一してしまうと、かえって万葉語自体が見慣れたことばになってしまい、言葉の異様さは際立ちません。茂吉は、万葉っぽい言葉と現代語を大胆に混ぜたからこそ、その「万葉調」が活きた。そして、それは言葉にやたら執着するという茂吉独特の性質が手繰り寄せた、という品田さんの分析は鮮やかだと思います。

 

しかし、なんですかねー。茂吉のすごさはよくわかったんですが、たぶん皆さんもちょっと思ったんじゃないかと思うんですが、そうすると、よく言う「文語」と「口語」の差ってなんなんだ、とか思いますよね。このブログの第25回・安田純生『現代短歌のことば』の回で、永井さんが紹介してくれたように、今の短歌の「文語」はかなり「口語」だということがわかっているのですが、この茂吉の例なんか見てても、「短歌に文語が適しているのは、1400年ずっと文語で作ってきたのだから明白だ」という言説は、どうなんだろうと思います。思いっきり明治の時代に新しく語法まで発明しちゃってますからね。

 

まあいいや、ここでは深入りしません。話をもとに戻すと、こうした、万葉語と非万葉語を衝突させ、一首のテンションを上げる、みたいな技法は、『赤光』の随所に見られます。たとえば、

 

ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終(つひ)にかへり見ずけり

くれなゐの百日紅は咲きぬれど此(この)きやうじんはもの云はずけり

にんげんの赤子(あかご)を負へる子守(こもり)居りこの子守はも笑はざりけり

 

とかいった歌では、「ダアリヤ」や「狂人」、「百日紅」(ひゃくじつこう)や「きやうじん」、「にんげん」といった言葉は、全体の万葉調の中で、音韻的にも異様に響きます(さっきも言いましたが、万葉語には、「ッ」とか「ン」とか「キャ、キュ、キョ」とか、あと「ダアリヤ」みたいに語頭に濁音がくる言葉はありません)。

 

こうした技法上のインパクトが読者にも刺さったのか、第一歌集『赤光』で茂吉は、ドカン! と有名になります。書評にも「びっくりした」「すげえ」「新しい世界だ」みたいな言葉がガンガン出ます。茂吉は『赤光』一発で、歌壇の第一人者です。

 

低迷していた茂吉がどうして『赤光』の文体を手にすることができたのか。いろいろあるみたいですが、基本は、当時森鷗外のやっていた観潮楼歌会に出て様々な作風から刺激を受けたこと、そして、学校を卒業し精神科医として働きだしたことがあるみたいです。つまり、「狂人」たちの世界に入り、「にんげん」におののいたことで、世界への違和感をするどく感受することになったのでしょう。品田さんは、『赤光』の特徴をこう評しています。

 

『赤光』とは、生きてこの世にあることを大いなる奇蹟と観じた男が、まのあたりに生起するあらゆる事象に目を見張り、戦(おのの)き、万物の生滅を時々刻々に愛惜しつづけた心の軌跡なのだと思う。そこには自明なことがらは何一つない。ことばを覚えはじめた幼児にとってそうであるように、世界は真新しく、謎に満ちている。(p.119,120)

 

 

はい、大正2年に32歳で第一歌集『赤光』が出て、茂吉は一躍スターに。しかしなんと、第二歌集『あらたま』で、また茂吉は低迷してしまいます。

 

茂吉の『赤光』の影響もあり、大正時代をかけて『万葉集』は人々の認識に「国詩」としての位置を占め始めます。と、同時に「万葉調」を標榜していた『アララギ』は、会員がどんどん増えます。弱小集団だったのは過去のこと。『明星』の時代だった明治に代わり、大正は『アララギ』の時代です。

 

アララギ』内部でも、万葉集の位置は微妙に変わっていきます。伊藤左千夫亡きあとに『アララギ』の編集を取り仕切っていた島木赤彦は、万葉集に道徳的な観点を見て、人格の陶冶と短歌の上達を一致させる「鍛錬道」を唱えていきます。要するに、『アララギ』の中で『万葉集』は、どんどん聖典化していったということです。

 

茂吉は『万葉集』に言葉の面白さの側面だけを見ていて、こうした啓蒙的・政治的な見方はぜんぜんありませんでした。茂吉は基本ことばにしか興味のない人で、たぶん本質的には政治とかに関心の持てないタイプの人間です(このへんの話は、第21回 岡井隆・小池光・永田和宏『斎藤茂吉――その迷宮に遊ぶ』でも出てきました)。だからこそ、万葉集の言葉をある意味自分勝手に拝借したりすることができ、それゆえ、現代においても古語のポテンシャルを活かすことができました。しかし、アララギ内部のこうした変化や、「万葉調の茂吉」みたいに人々から言われたことをきっかけに、茂吉自身も「やっぱり万葉集の言葉には忠実にならなければならない」と、伝統主義的な価値観に陥ってしまいます。

 

あと、さっき説明した、『赤光』にあった文法的には意味がつながらないというか、無理しているところは批判も受けて、茂吉自身もそこをけっこう気にし出しちゃうんですね。『あらたま』を出したのと同じ年に、茂吉は気になるところを直しちゃった『改選 赤光』を出版したりします。

 

こうして、『あらたま』後期からそれ以後にかけて、茂吉の文体は急速に枯れていきます。そして、どんどん歌が作れなくなります。それもそのはずで、「幼児のように世界を異様なものとして見る」という茂吉本来の性質から外れたことをやろうとしているのですから、モチベーションはどんどん下がっていきます。

 

汗(あせ)いでてなお目(め)ざめゐる夜(よ)は暗(くら)しうつつは深(ふか)し蠅(はへ)の飛(と)ぶおと

 

いささかの為事(しごと)を終(を)へてこころよし夕餉(ゆふげ)の蕎麦(そば)をあつらへにけり

 

 

『あらたま』後半の歌は、こんな歌です。『赤光』とは明らかに違うのがわかります。こうした作風は、当時もアララギの有力同人には「円熟味が出た」と高い評価を得られ、現在でも同様の見方は多いです。

 

しかし、茂吉本人としては、これ以後作歌が不振になってしまい、ついには、第二歌集『あらたま』の編集さえ諦めかけてしまうのです。

 

僕の第一歌集「赤光」を編んだ時、自分の歌の不満足なのをひどく悲しんで、どうしようかと思つた。それでも「赤光」を発行してしまふと、「赤光」以後の歌は僕の本物のやうな気がして、第二歌集には今度こそいい歌を載せられるといふ一種の希望が僕の心にあつたのである。そこで未だ発行もしない第二歌集に「あらたま」などと名を付けて、ひとり秘かに嬉しがつてゐた。〔……〕

 さういふことをいろいろ思い出してくると、「あらたま」の編輯にまだ手を著けない前は、「あらたま」の発行に就てなかなか気乗がしてゐたことが分かる。優れた歌集になるやうなつもりで居たのである。然るにいよいよ編輯をはじめてからは、刻々にその希望が破壊されて行つて、編輯の了つた今では、希望のかはりに只深い深い寂しさが心を領してゐる。その間に人知れぬ煩悶もあつたのであるが、今ではそんな心の張りも無くなつてゐる。編輯の長引いたのは、途中で自分の歌を見るのが厭になつたからで、思出したやうに雑誌の切抜などをひろげて纏めかかると、数首読んでゆくうちにもう厭になる。厭で溜まらぬから改作しようとすると到底思ふやうに行かない。そこで放擲してしまふ。手を著けては中止し中止ししてゐたのが、このたび病になつて山中に転地したために、一週間ばかり毎日少しづつ為事をして、どうにか纏めてしまつた。   〔「あらたま編輯手記」前掲〕

 

こうして、なんとか大正10年(1921年)に40歳で「どうにか纏めて」出したのが、第二歌集『あらたま』でした。

 

万葉集』は、単に見慣れないことばに富むだけでなく、真の意味の技巧の宝庫でもある――マンネリ打開の道を求めていた茂吉は、この“発見”にも励まされて、『万葉集』に全面的に帰順することを決意したのだろう。以来、修練の第一義を先人の技巧の体得に置く反面、大胆なことばの実験にはあえて挑まなくなっていったのだと思われる。

 創作者としての内発的要求と、同時代の思潮とが合致するかに見えたこと――茂吉が名実ともに万葉調歌人となろうとした理由はそこに求められるだろう。陥穽は、自らの資質を裏切るこの転向を本人が「自己本来の道」(柴生田七九)と信じ込んだ点にあった。(p.176,177)

 

実際、36歳~40歳の長崎時代、40歳~43歳のドイツ留学時代には、茂吉はほとんど歌を作っていません。本人的には、短歌はもう余技として時々やるくらいで、本分は医師として学究生活に入ろうとしていたみたいです。

 

あの「短歌の権化」の茂吉が三十代後半から四十代半ばにかけて、いったん短歌を諦めかけてたのは、けっこうびっくりしますよね。例の「実相観入」などを唱えだしたのも実はこのころで、品田さんは、作品の不振の代償行為として、評論を充実させたのではないか、と分析しています。

 

短歌を完全に止めたわけではないのですが、茂吉の歌集はこの後長く出版されず、次に出た『寒雲』は昭和15年(1940年)と、『あらたま』の発行から実に19年も経っています。

 

 

さて、こっからもまた面白いのですが、全部書いちゃってもあれなので、このへんにしときましょうか。これでこの本の前半はんぶんくらいです。後半も、ドイツ留学から帰って来るちょうどその瞬間に青山脳病院が焼けてしまうことで目指していた医学生活が閉ざされ、結果的に短歌にカムバックしていくこととか、島木赤彦が亡くなることで、『アララギ』を茂吉1人が担うことになった結果、元々そんなに詳しくなかった『万葉集』を説き、「国民歌人」としてのアイデンティティーを担わざるを得なくなった過程とか、茂吉と赤彦の写生論の違いとか、非常に興味深いです。

 

あと、茂吉と戦争に関する記述も、茂吉が戦争詠を「未開の地」と捉えて、創作上の好奇心から積極的に詠おうとしていた、とか非常によくわかりますし、「文学的良心」が戦争協力と矛盾しなかった話とか、戦後、戦争責任に対する非難をまったく理解できず、ただただ不条理なものとしてしか受け止められなかったことなど、「非政治的人間」茂吉の、ある意味での一貫性を見ることができます。

 

この本、かなり驚きがあるのですが、その分析はきめ細かくて、すごく説得力がありました。ぜひ、原文で読んでみてください。それでは。

 

 

第48回 林和清『京都千年うた紀行』

土岐 エッセイ

そうだ、京都を詠もう。 土岐友浩

 

京都千年うた紀行

京都千年うた紀行

 

 

旅のガイドブックと言えば、絶版だけれどガリマール社の「旅する21世紀」シリーズがとても好きだ。フィレンツェイスタンブール、タイ、ロンドンなど、その土地の歴史や文化が豊富な図版とともに紹介されていて、ぱらぱらと眺めているだけで、旅をしているような気分になれる。

 

残念ながら、京都のガイドブックで、このシリーズに匹敵するようなレベルのものは、たぶんない。仮に「これ一冊で京都がわかる」というような決定版の本があったとしても、どう考えても、ものすごく分厚くなってしまうだろう。

 

だから、京都を書くために必要なのは、おそらく「切り口」だ。

 

京都のガイドブックは、お寺や神社、カフェ、古本屋、あるいは「大人の修学旅行」や「京都散歩」など、旅のコンセプトやスタイルで京都を切り取ってみた、というものが多い。

いわゆるガイドブックにかぎらなくても、京都を知ろうと思えば、たとえば鷲田清一が京都を哲学した『京都の平熱』や、永江朗が京都にセカンドハウスを構えるまでを書いた『そうだ、京都に住もう。』などのエッセイも、独自の視点と新鮮な発見があって、とても面白い。

 

では、短歌を切り口にしたら「京都」のなにが見えてくるだろうか。という疑問に答えてくれるのが、本書『京都千年うた紀行』である。

 

雑誌「NHK短歌」の四年分の連載をまとめた本で、王朝和歌の時代を中心に書かれた京都のガイドブックとして読むことができる。

著者の林和清は京都生まれの京都育ち。塚本邦雄に師事し、現在は結社「玲瓏」の選者をつとめている。

 

本を開くと、まず口絵に、朱色の灯篭の上に満開の桜がかぶさった、平野神社の写真が一枚。

京都の桜の名所といえば、円山公園のしだれ桜を代表にたくさんあるけれど、どうして林は、最初に平野神社をもってきたのか。

その理由は、本書を半分くらい読むとわかる。

 

ここには四百本以上の桜があるが、珍種がそろっていることでしられる。三月下旬、「魁桜」がひらき、いち早く京の花見シーズンを告げる。つづいて、葉と花が同時に出て目がさめたような「寝覚め桜」、淡紅の大輪で蝶が飛んでいるような「胡蝶桜」が咲く。

(中略)

このように平野神社では、一か月以上もつぎつぎとちがった桜が堪能できる。現在、四月十日に行われている「桜祭神幸祭」は、この地に桜を植えた花山天皇にちなむ。作庭の才を謳われた帝だけに、品種や植え方にも工夫されたのだろう。御製では、夕桜の美を詠まれている。

 

 足引の山にいり日の時ぞしもあまたの花は照りまさりける  花山院
(夕日が西の山に入るときこそ、すべての花がいっそう輝きをます) *1


平野神社は、いわば「花の神社」なのだ。

そして実は、塚本邦雄が慶子夫人と結婚式を挙げたのも、ここ平野神社だったという。

それは1948年5月10日のことで、林は二人がお互いを詠んだ歌を引きつつ、「もしかすると、塚本が好んだ御衣黄桜が数輪、咲きのこっていたのかもしれない」と、この日の様子を想像している。

 

平野神社の他にも、ページをめくれば下賀茂神社の糺(ただす)の森、野宮神社の紅葉、雪の寂光院などが載っていて、京都の四季折々の姿を楽しませてくれる。巻末には京都MAPもある。

 

本文は全五章構成。

第一章は「京都十二か月うためぐり」と題して、桜の咲く四月から始まり、その月にちなんだ京都の風物を、短歌や和歌とともに紹介している。

ためしに三月の部を読んでみよう。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」

 

 この有名な言葉ではじまる『平家物語』をしらない人はいないだろうが、本物の沙羅双樹をしっている人はすくないのではないか。(中略)それに近い花を見ようと思えば、三十三間堂に行くとよい。

 

 「仏は常にいませども現ならぬぞ哀れなる。人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ」

 

 わたしは、三十三間堂に入るといつも、ひしめきあう千一体の観音像から、この今様が、かすかに聞こえてくるような気がする。当時の流行歌である今様を集大成したものが『梁塵秘抄』、編者は後白河院である。源頼朝をして、「日本一の大天狗」といわしめるほどの策略に長けた政治家であった後白河院だが、夜ともなれば、来る日も来る日も狂ったように今様をうたいつづける道楽者でもあった。のどが腫れて水さえ通らなくなっても、まだうたいつづけたという。

 その後白河院が発願し、平清盛が造営したのが蓮華王院、柱間から通称を三十三間堂と呼ばれる。(中略)全長七メートルをこえる本尊を中心に、千一体の千手観音像が金色に輝いている。その前には二十八部衆という仏教の守護神がならび、左右には風神雷神がにらみをきかせる。これだけのものを私財で建立し、院に寄進した平清盛もそうとうな大人物であったことがわかる。

 

いちおう僕も三十三間堂には行ったことがあって、金色にずらりと並んだ観音像のインパクトだけはよく覚えているものの、後白河院の名前などはすっかり記憶から抜け落ちていた。恥ずかしながら、あの観音像は全部、平清盛が集めたものだということさえ知らなかった。

平清盛と、後白河院、二人の情熱があって、あの三十三間堂ができたのだ。

 

平家は都を追われたため、その史跡は六波羅蜜寺周辺を除いて、ほとんど残っていないという。

六波羅蜜寺は東山五条を北に少し越えたあたりにある。「六波羅」というのは、東山のふもとを意味する「麓原」が転じたものだそうだ。

六波羅は)平安時代には、使者を葬る鳥辺山へ行く道すじの不気味な場所だった。六波羅蜜寺の地名は轆轤町(ろくろちょう)というが、そのむかしは髑髏町とよばれたらしい。きっと骸骨が無数に転がっていたのだろう。そんなところに拠点をつくったのが平家一門なのである。骨の転がる野をいとわず屋敷を建てたというのは、どんなに貴族化していたとはいえ、血なまぐさい戦をなりわいとする武士の一門だったからか。 

六波羅蜜寺には、清盛の木像が安置されている。出家した五十歳以降の姿で、静かな経典を手にするたたずまいは、傲岸不遜なところはなく、高徳の僧のようだといわれる。しかし、実物と相対してみると、表情などがあまりにリアルで、どこかおそろしい。時代を動かした男の強烈な自我が、まだ内側に燃えているようにも見える。

 

 かひこぞよ帰りはてなば飛びかけりはぐくみたてよ大鳥の神  平清盛
(わたしは卵ですが、かえったら飛びますので、大鳥の神よご加護を)

 

林は聞こえないはずの今様を聞き、見えないはずのドクロを足元に見る。

その語り口は、土地の記憶を呼び起こし、歌にこめられた魂を現代によみがえらせるようだ。

 

最後に、清盛の鎮守社である西大路若一神社を訪ねて、「京都十二か月うためぐり」の三月は終わる。

境内には清盛ゆかりの神水がいまもわいており、お手植えの楠の木もそびえたっている。しかし、いかにも小さい神社である。『平家物語』ゆかりの地をたずねる観光客も、あの平家の栄華の跡がこんなものか、としみじみ感慨されるだろう。清盛が好きだったのは、はなやかな桜や紅葉ではなく、地にしげる蓬だったというのも、またあわれ深い話である。

 

沙羅双樹の話から始まって、ここまで、本文にしてたった4ページなのだが、なんと濃密な旅だろう。

もう一度、三十三間堂に行って、六波羅蜜寺と、機会があったら若一神社もぜひ訪ねてみたい、というモチベーションが湧いてくる。

 

第二章は祇王祇女から始まって、式子内親王まで、平安の女性たちの悲しい運命をたどった「京都女人の面影」。

以下、第三章「花と地名のものがたり」、第四章「歴史と異界への扉をひらく」、第五章「世界遺産京都御所」と続く。

清水寺平等院鳳凰堂といった定番もしっかり押さえつつ、「天使突抜」「太秦和泉式部町」「歌ノ中山町」など、塚本が見出した現代歌枕というべきマイナーな地名まで、話題がほんとうに幅広い。

 

きっと、京都を見る目が変わるのではないかと思う。

 

 *

 

在日ファンクに「京都」という曲がある。
公式PVはこちら


在日ファンク - 京都

 

この曲、はっきり言って、京都感はゼロだ。

 

PVの冒頭から、眼と額がピカピカ光るあやしい大仏が大写しになる。

明らかに「どこが京都やねん!」という突っ込み待ちだ。

 

ゆるい小芝居があってから、軽快なギターのイントロ、ハマケンのステップ。

歌詞はなんというか、あってないようなもので、意中の相手に「京都に行こうぜ!」とひたすら呼びかける、ただそれだけだ。

なぜ、京都なのか。京都に何があるのか、そこに何をしに行くのか、そんな話はいっさい出てこない。

 

でも、たしかにこの曲は京都に行きたいという感情に、強く訴える。

言い換えると、京都について何かを語るのではなく、「京都に行きたい」という気持ちそのものが、テーマになっている曲なのだと思う。

 

京都に行きたい。

僕自身、そのわけのわからない、止みがたい衝動に駆られて京都に引き寄せられ、そして短歌に出会ったようなものだ。


 淡雪にいたくしづもるわが家近く御所といふふかきふかき闇あり  林和清

 

京都の桜から始まった『京都千年うた紀行』は、最後に御所で終わる。

第五章の「世界遺産京都御所」というタイトルからも、ここが林にとって特別な場所なのだということがわかる。

林和清の代表歌としてよく引用される一首だけれど、この歌、そもそも御所という地に「闇」を認めるかどうかで、読者の受け取るものがまったく変わってくるのではないだろうか。

 

京都に生まれ育った博覧強記の著者をもってしても、見ることができない「闇」がある。

いや、それはむしろ知れば知るほど、強く深く感じられるものなのだ。

 

その「闇」を想像することしかできない僕は、きっとこの歌を、あるいは京都を、短歌を、まだまだわかっていないのだろう、と思わずにはいられない。

*1:p.92「京の桜めぐり」

第47回 品田悦一『万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典』

永井 評論

永井祐

 

こんにちは。

今日は、品田悦一(よしかず)『万葉集の発明』(新曜社・2001)をやります。

 

 

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

 

 

 

みんなが知ってる万葉集、国民歌集としての万葉集は自然にその位置についたのではなく、1890年(明治23年)前後十数年間のあいだに明治人たちの手によって「発明」されたのだという主旨の本です。

 

そのことは「うすうす知ってた」という気もしながら、読んでいったのですが、

お腹いっぱいになりました。とてもよい本でした。

万葉集のとらえ方にまつわる欺瞞とかお上の戦略とかをつっこんでいくスタイルはあるのですが、国民歌集としての万葉集なんて近代の発明にすぎないといってドヤ顔をする本ではありません。

読み終えると、「人は自分の見たいものを見るんだな」とか、「何かを信じたいと思う気持ちとはなんだろう」とか、そういう感慨に打たれます。

 

そのころある出版社から、日本の古典を少年少女向きにリライトしたシリーズが出ていた。私はそれを学校の図書館から借り出しては、次々に読んでいた。

 

こういう少年でそののちに研究者になった品田さんにとって、自らの足元を切り崩すような作業でもあるわけで、その筆致にはある切実さがあります。

 

万葉の歌々を読むこと、一般に古典を読むということは、そもそも何を読むことなのだろうか。この、一見なんでもないことがらが、私にはある時期から根本的に分からなくなってしまった。今もよく分かってはいない。本書につながるテーマに取り組みだしたのは、こんな状態のまま研究を続けることにとても耐えられなくなったからである。

 

ところでわたしは、万葉集は解説がついてる選集みたいなのを読んだことがあるくらいです。万葉仮名ももちろん読めません。

今現在自分が短歌を作っている人にとっても、万葉集っていまいちどう付き合えばいいのかわからないものであると思います。「関係ない」でもぜんぜんいけるものでもありつつ、人麿のソウルに震えてみたいという好奇心もないわけじゃない、みたいなところです。

 

情報量多いので、とても全部はできませんが、とりあえず全体の総論である一部から。

 

 

現代まで残っている万葉集を言い表す定番の表現が二つあります。

 

・作者層が「天皇から庶民まで」あらゆる階層にわたっている

・素朴な感動を力強い調べで真率に表現している

 

これらの常套句は明治後期の文学史書が定着させたもので、以来百年余りにわたって使い続けられ、現行の教科書でもよく使われているものです。

要するに日本人の万葉集のイメージのコアになるものなのですが、これがたとえば、幕末から日本に滞在していたイギリス人の外交官、W・G・アストンが帰国後にロンドンで出版した『日本文学の歴史』では万葉集についてこう書かれているそうです。

 

この世紀は実に詩歌の黄金時代であった。日本は今や、前章に述べた(記紀の歌謡を特徴づける)素朴に吐露したことばの域を脱して、現在までまだ凌駕されていないほどの、卓越した韻文の一群をこの時代に生み出した。読者はことによると、未開の文化段階から浮上したばかりの国民の詩歌を、粗野で雄渾の気に満ちたものと予想されるかもしれない。ところが驚くまいことか、実際は正反対で、活力より精錬ぶりが目立つのである。情操は繊細で言語も洗練されているし、連なる詩句は精妙巧緻、しかも固有の作詩法に備わった一定の規範を周到に守っている。この時代と次の(平安)時代に詩歌を書いたり読んだりしていたのは、日本の国民のごく一部分であった。

 

さきほどの二点のほぼ真逆を言っています。

品田さんは「アストンの記述が正しいと言うつもりはない」と留保を置きつつ、

 

事と次第によってはこのような『万葉集』像もありえたのであった。裏返せば、私たちに馴染みのの万葉像もまた、実は事と次第によって成り立ったはずなのだ。ところが私たちは、その「事と次第」をすっかり忘れてしまっていて、忘れたことを覚えてさえいない。

 

とまとめます。その「馴染みの万葉像」が成立する「事と次第」が一冊かけて説明されます。

 

そして正岡子規について。

正岡子規を近代における万葉集の「発見者」とする見方がこの本では否定されています。

短歌史でもよくそんな言い方がなされることがあるのですが、子規の万葉集の読み方や極めて高い評価は、同時代の言説空間の中で既に作り上げられていた「万葉集を国詩(国民的詩歌)として見よう」という考え方に沿ったものであるみたいです。

「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」というのは子規の有名な一文ですが、「歌よみに与ふる書」が書かれる二年前に外山正一という人が「万葉の歌を以て。古今集の歌よりは。優れたものとする事は。見識のある者の間には。既に決定したる。輿論であると思はれます」と言い切っているそうです。

 

古今集の歌は。巧に出来ては居りますが。作者が。何う謂はうか。斯う謂はうかと。凝て詠だものであると云ふ事は。歴然として。其表に顕はれて居ります。然るに。万葉の歌に至りましては。想ふ所。感ずる所を。少しも憚る所なく。少しも飾る所なしに。述べた様に出来て居ります。(外山正一「新体詩及び朗読法」『帝国文学』)

 

これは大筋として子規の主張と同じであり、二年前にそれを「輿論である」と言っているのですね。さっきの常套句、万葉集に「真率」な表現をみようという方向がはっきり出ています。これっていうのは、明治の意識の高い知識人たちが共有しているラインだったみたいです。

 

万葉集』の近代を切り開いたのは、子規の「発見」でもなければ他の誰かの「発見」でもなく、「国詩」つまり国民の詩歌という、知識人たちの共同の想像だったとしなくてはならない。

 

それでこの「国詩待望」というやつが、我々にはそれほどピンと来ないところなのですが、非常に大きなことだった。

当時の日本は維新から二十年、憲法を発布したり議会を招集したり制度的には近代国家らしくなってきたけれど、福沢諭吉とかは「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」と言ったりしていて、国民としての意識をみんなに持ってもらうこと、ナショナルアイデンティティーの形成が課題としてありました。

 

こうして、日本人を日本人たらしめている根拠がさまざまの角度から探求・称揚され、もろもろの文化的「伝統」が国を挙げて喧伝されることなった。

 

1890年、『日本文学史』『国文学』『国文学読本』『中等教育 日本文典』など、近代国文学の成立を予告する基礎的著作が相次いで出版され、中等教育機関の教材とされていきました。

これは「古典復興」と呼ばれますが、このときに「国民の教養」とされるものとされないのが分けられ、かつて尊重されていた漢籍などはざっくりはぶかれたそうです。日本国民の古典だから、和文ないし和漢混淆文で書かれているのが条件だった。「東海道中膝栗毛」とかは逆にここでノミネートされて、古代の貴族の作品と近世の町人文化の消耗品だったものが、国民の古典として同一平面に並びます。さらっと言えてしまいますが、時空を歪ませるような力技であるわけです。「国語」をがっつり確定させていく必要があった。

 

「古典復興」と同時に「国詩革新」の動きが起こります。

「古典復興」は過去の『文学』をリストアップし、それらに国民の共有財産としての共通の価値を付与し、その価値を称揚して人々の国民的自覚を促すこと。「国詩革新」のほうは、国民の詩歌を新たに作っていこうという動きです。この二つは同じことの両面で、つまりは国民の文学/詩歌があらねばならないという動機から出てきています。

 

国民の詩歌になんでそんなにこだわるのか、というのは、やっぱり西欧並みを目指せ、というのが大きいみたいです。

 

明治の知識人たちが、ドイツの国民詩人とされたゲーテやシラー、またイギリスのシェークスピアに対し、どれほど深刻な憧憬と羨望を抱いていたかを思うべきだろう。当時の文芸誌・総合誌のページを繰るとき、それらは随所から伝わってくることがらでもある。彼らがこれら西欧文学史上のビッグネームを羅列しながら、「偉大なる国民詩人よ出でよ」とか「何故に劇詩は出でざるか」などとたびたび叫んでいたありさまには、悲壮とも滑稽ともつかない一種独特の熱気が漂う。

 

そして単純に優れた詩歌があれば/出ればいいのかというとそういうわけでもなく、そこには独特のアングルがあります。

次は官費留学生としてドイツに派遣された芳賀矢一さんがベルリンから東京の友人に宛てた手紙の一節。

 

すべて当地に入りて感ずる事は上王候より下百姓にいたる迄同一の文学、同一の音楽を楽む事が出来ることに御座候。

 

「羨望は文学や音楽の芸術的水準の高さにではなく、それらがドイツ国民を堅く結びつけている(かに見える)点に向けられている。」と品田さんは見ます。

 

この本では、ここのところを「国民の全一性の表象」という風に言います。

それを求める心を満たすのが、「天皇から庶民まで」のはば広い作者層を擁する万葉集だった。

 

国民の全一性を具体的に喚起するこのフレーズは、国民の統合に寄与すべき将来の詩歌に適用される一方で、その心理的等価物としての『万葉集』にも当てはめられたのだった。

 

天皇から庶民まで」というフレーズは、ある意味天皇を国民化する表現であったため、人間宣言があった後、戦後の象徴天皇制のもとでも延命できたのではないか、と品田さんは言います。

 

さて、では、その万葉集に入っている「庶民」の歌の内実はというと、

 

二百三十首を越える東歌や、九十首あまりの防人歌が載せられている。藤原宮の造営に従事した役民の歌と称するものもあるし、豊前・豊後の国の漁民の歌だの、能登の国の歌だの、越中の国の歌だのもあって、さらには、乞食者(ほかいびと)の詠という、大道芸人の口上を思わせる歌までがある。

 

しかしながら、作者層が庶民にまで及ぶという事実が注目を集めたのは、近代以降、それも1890年以降のことだそうです。江戸時代の国学者とかはそんなことには関心がなかったらしい。

 

それで、ここは謎も多いみたいなのですが、その「庶民の歌」も三首を除くとほぼ定型の短歌・旋頭歌・長歌であって、当時の貴族たちが作っていたのと同一の形式のものになります。

読み書きを知らない人たちが口頭で謡ったり、唱えたりしたものとは明らかに違っているらしい。

 

問題の歌々は、古代の「庶民」の生活からおのずと生み出されたわけではない。定型短歌を標準的歌体として保持していた貴族たちとの、なんらかの接点がそこには存在したと見なくてはならない。

 

接点というのは、兵役その他の徴発だったり、東歌の場合は、現地の郡司層とそこに赴任した官人たちとの合作による、擬似的な「東国の歌」であり、王権による在地文化掌握の志向の産物だったと考えられるそうです。

 

短歌の広汎な流通という状況を現出させたのは、古代律令国家の運営に付随する物的・人的・精神的交通であって、「庶民」はそこに巻き込まれこそすれ、進んで参入したのではなかった。だから九世紀以降、列島社会内部の交通が必ずしも国家主導のものではなくなっていったときには、短歌の流通範囲自体がふたたび局限されてしまった。防人たちの子孫は防人制度が廃止されればもう短歌を詠もうとはしなかったし、東歌の命脈も基本的には八世紀で尽きた。短歌が「庶民」の生活に十分根を下ろしていたなら、一世紀に満たない期間でたちまち廃れたりはしなかったはずではないか。

 

それで、じゃあなんで東歌とか、内容もことばも風変わりな歌を万葉集はのせているのか。

 

日本の律令国家は、理念上は中華帝国と並ぶもう一つの帝国ということになっていて、帝国というものは、「-近代国民国家が統治空間の均質性を擬制するのとは対極的に-統治領域が天下の全域に及び、多種多様な民族(エトノス)を包摂することを建前としていたのだった。」

 

 万葉集はそういう小帝国の文化財として編まれた。編纂者の意図は、自分たちの支える王権が世界中の人々の心と生活を掌握しているということを歌によって示す点にあったのではないかと品田さんは言います。辺境の民、異人たちの歌として、むしろ風変わりな歌をのせることに意味があった。

 

このへん、この本のメインテーマではないのですが、面白いですね。このあたりは石母田正の古代国家論がベースになっているそうです。

海外ドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」を見ている人だったら、ナイツウォッチが<壁>の北に住むの野人たちの文化に取材し、七王国定型詩の形にしてアンソロジーに載せたというところでしょうか。

 

で、そういう万葉集を明治の人たちが見つけて、作者の層の幅広さを国民の均一性の表象として読み替えて、というかそうゆう願望をたくして、「国民歌集」として作り上げ、来るべき「国詩」の源流とした。

 

 

今回、ちょっと勉強っぽくなりすぎて疲れました。これでもまだ前半三分の一くらいです。わたしは明るい分野ではないので誤読してたらすみません。

後半も、島木赤彦のところとかやばくて面白いです。赤彦に関するもので今までで一番よくわかったかもしれない。

この本は最後まで読むと、万葉集とどうやって付き合っていこう、別れるという選択肢も含めてどうやって付き合っていこう、と考えさせられます。

よい本で、何気に熱い本だと思います。

気が向いたらぜひ。

 

ではまた。

第46回 阿木津英『短歌のジェンダー』

寺井龍哉 ゲスト 評論

そして、なぜ、短歌なのか? 寺井龍哉

短歌のジェンダー

短歌のジェンダー

 

 

本郷短歌会の寺井龍哉です。
東京では寒い日が続いています。
少し歩くだけで寒さに身がちぢみ、喉がかわきますね。
外出先で喉がかわいて、でも喫茶店に入るような余裕はないとき、あなたならどうしますか?

 

自動販売機やコンビニを探して、とりあえず一番近いところにあるものを目指すでしょう。
遠くの方にコンビニの看板が見えるけれど、目の前に自動販売機がある。
この場合、ほとんど選択の余地はありません。
自動販売機が商品の詰め替え中でない限り、遠くのコンビニには行かないでしょう。
なぜ来てくれなかったんですか、とあとでコンビニの店主に聞かれても、自動販売機の方が近かったから、で十分な答えです。

 

では、いまあなたの机の上に置いてあるペン、これはどうでしょう。
なぜこのペンをお使いですか、と聞かれたら、どう答えますか。
奥村晃作さんなら、こう答えるでしょう。
「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」。
十分な答えです。
メーカーにこだわる方も多いと思います。
私も、消しゴムはAir-inと決めています。

 

でも、なかには明確な答えを出せない方もいるのではないでしょうか。
「何となく、前のが切れたときに買ったから」
「日光のお土産でもらって」
「落とし物を拝借してしまって」
何かのはずみで使いはじめてしまって、格別の不都合もないから、そのまま、ということでしょう。
奥村さんは他社のペンと比較したうえで他ならぬミツビシを選択されたのでしょう。
が、いま使っているペンと他のペンの書き味の違いを知っている人ばかりではないのです。

 

違う例を考えてみましょう。
このサイトをご覧になる方は、短歌を日頃から読んだり作ったりすることのある方が多いと思います。
そういう方々に聞いてみたいと思います。
なぜ短歌という形式をお使いなんですか?
やれやれ、またその質問か、というお気持ち、お察しします。

 

私も、短歌を作っていることを打ち明けると、よくこう聞かれました。
でもそれは、遠くのコンビニじゃなくて近くの自販機を使うようなものですよ。
机の上のペンをいきなり指されて、なぜこれをお使いで、と言われても困ります。
中学の授業で『万葉集』読むことがあって、茂吉の『万葉秀歌』という入門書のようなものを読んで、それから寺山修司俵万智を知って……、
と語ってはみるのです。
でも、どこかそらぞらしい。
私が他ならぬ短歌を作りはじめたきっかけは、もっと単純なものだったろうと思うのです。
つまり、ただ、面白そうだったから。
かっこよかったから。楽しそうだったから。
自分でも作れそうだ、と思ったから。

 

今回、私がとりあげるのは、阿木津英・編著『短歌のジェンダー』(本阿弥書店、2003年)です。
本書は二つの章から成っていて、第一章は「ナショナリズム・短歌・女性性」と題する二〇〇一年のシンポジウムの記録です。
第二章は阿木津さんと池田忍さんの対談「短歌と日本美術の交差地点」です。

 

第一章もさらに二部にわかれ、まず阿木津さん、千野香織さん、上野千鶴子さんの「提言」があります。
その後、さらに木下長宏さん、岡井隆さん、島田修三さんをくわえた六名のディスカッションの記録が収載されています。

 

第一章第一部で俎上にあがるのは、折口信夫の「女歌」についての議論です。
このブログでも折口さんの論・作にはくり返し言及がありましたね。
言わずと知れた文学史上、短歌史上の巨人です。
彼の「女歌」論は、当時の大結社「アララギ」の男性中心的な傾向に疑義を呈しました。
まず、阿木津さんのまとめを読んでみましょう。

 

まず、折口の女歌論が歌壇で大きな衝撃を与え、問題になったのは、戦後『短歌研究』に「女流の歌を閉塞したもの」という評論が出たときでした。これは、戦後に女性歌人の意識が盛り上がりまして、昭和二四年女人短歌会が結成され、翌年秋、女人短歌叢書として十数冊、続々と女性の歌集が刊行されるわけなんですが、その側面援護のようなかたちでなされた講演を、昭和二六年一月一月号の『短歌研究』に掲載したものです。
その中の、「女の方の歌は現実にかまけて、女性文学の特性をなくしてしまひ、本領を棄てたやうに見える」「アララギの第一のしくじり(﹅﹅﹅﹅)は女の歌を殺して了つた」「女歌の伝統を放逐してしまつたやうに見える」「ですから特殊な人でない限り、女性がアララギ風を賛美するといふのは、これだけは大きな間違ひでせう」というような発言が、反アララギ、反現実主義の主張として、その後の歌壇に大きな衝撃と影響を及ぼしていくわけです。
 ところが、じつは、アララギが女歌を振るわなくさせたというような意見は、戦前、昭和初期のころからの迢空=折口信夫の持論でした。敗戦直後、昭和二一年にも、『婦人文庫』にいち早く「女流短歌史」を連載していますが、そこでも述べられている意見で、このようなメッセージを受け取った女性歌人たちの何人かが、結果的には女人短歌会の中心になった。折口信夫は、女人短歌会を起こすに当たっての影の援助者でありました。(p.17~18)

 

斎藤茂吉や島木赤彦らが活躍していた「アララギ」は、大正の初年に「歌壇制覇」と称されるまでになり、その後は多少の曲折はありましたが、現実主義、写生を重視する考え方は非常に大きな影響力を持っていたようです。
そのアララギが、「女歌」を無視し抑圧してしまったというのが、折口の意見でした。
阿木津さんはこうも書いています。

 

 昭和八年、『短歌研究』では、当時指折りの有名な女性歌人、今井邦子、阿部静枝、岡本かの子、若山貴志子、杉浦翠子、そういった数人を一堂に集めまして、女性だけで座談会をやらせ、そのあと、折口信夫が短い談話をします。女性ばかりを集めて座談会をさせるという企画も、当時の短歌雑誌では、おそらく初めてのことではなかったかと思いますが、これは出版元の改造社社長山本実彦の関心が働いていたように思われます。折口信夫の女歌論を女性歌人にぶつけるとどうなるか、というような関心があったのではないかと思われますが、そこで折口は、万葉集などには男と違う女の歌というものをはっきりとたどることができる、それは古代の歌垣という生活文化の中から出てきたものだ、というようなことをあらまし論じます。そして、眼前の女性歌人たちに向かって、あなたたちが今、女の歌だと思っている子供に乳をやる歌とか、嫁入りの歌、子育ての歌、家事の歌なんていうのは、それはじつは男の歌なんですよ、そういった現実的な素材によるのではない、男とは違う女の歌といったものが歴史上にはあったのだから、男の歌に追従するばかりではなく、どううたったら女の歌になるのか、それをあなたがた、お考えなさい、といわば挑発したわけです。(p.19)

 

なるほど、こうした「女の歌だなあ」と思ってしまうような歌というのは、男の側から見た「女の歌」にすぎない、というのですね。
女であることを対象として要請するような視線から脱出せよ、という折口の考えのようです。
こうした折口の女歌論を、阿木津さんは「家族的国家観のもと、近代的家父長制下に押さえ込まれていた女性たちにとっては、大きな励ましでした」(p.26)と考え、ひとまず好意的に受けとめています。

 

〈人間〉とは近代の価値概念ですが、折口信夫は、男とは別の〈女の特質〉といったものを対置して考えていました。『青鞜』の新しい女たちは、女も人間だ、と声をあげたのですが、折口は、そんな西欧の女のプライドではなく、日本には昔から誇り高い女の伝統があるのだと、女性を励まします。(p.34)

 

青鞜』とは、平塚らいてう伊藤野枝が中心となって発行した月刊誌で、一九一〇年代に女性の権利拡張をひろく訴えました。
「原始、女性は太陽であった」という創刊号の文章が有名ですね。

 

一方で、社会学者の上野千鶴子さんは折口の女歌論に否定的です。
「提言」のなかで、次のように話しています。

 

男歌・女歌というとき、いつも典拠とされる折口信夫の「女流の歌を閉塞したものは何か」という問いは、じつに女にとって魅惑的な罠であり、男からの悪魔のささやきだったと思います。ここで何が女歌を定義するか、ということを考えて見ましょう。(p.65)

 

なぜなら、女歌を定義するのは、主題でも、情緒でも、文体でもなく、「作者の性別が女か男かは、とりあえずは関係がない」(p.66)から、と上野さんはつづけます。
たしかに女性歌人の歌がすべて「女歌」と言われるわけではなく、男性歌人が「女歌」をものすることもできそうです。

 

何が女歌を定義するのかの次に、誰が女歌を定義するのか、を考えて見ましょう。この中には、評価も入っています。これは女歌だ、これは女歌ではない、という判定の特権を行使しているのは、折口信夫本人にほかなりません。(中略)個々の作品について、これは女歌だ、これは女歌ではないと判定し、評価するのは、何を隠そう、折口のような評者であり、またさまざまな結社の領袖の方たち、主には男性の方たちでいらっしゃいます。そのときに、女性の歌人にはどのような生き延び方があるでしょうか。女には、女歌をうたってみせる、という生存戦略があります。「女歌」は「たをやめぶり」すなわち芸でありますから、いくらでも芸をやればよろしいんです。が、ひとりひとりの女には、女歌をうたって見せることもできれば、うたわない戦略をすることもできます。
女が女歌をうたって見せれば、よくやった、と力のある男から頭を撫でていただけることでしょう。そうすればひき立ててもらえ、活躍の場が広がり、知名度も上がるでしょう。他方で、女が女歌をうたわないという選択をすれば、男のようだといわれ、ペナルティを受けることすらあるでしょう。「女歌とは何か」を決めるのは男ですから、女が女歌からはみ出したときには、女はバッシングの対象になります。「女の(﹅)(つくる)歌」と「女歌」とは違います。(p.66-67)

 

折口信夫本人の意図はともかく、彼の女歌論が単に「励まし」であったのみではなく、「罠」でもあったという指摘はたしかなものでしょう。
折口信夫本人は、自分の歌について、「女歌」である、だの、そうでない、だのと言われることはありません。
彼の歌そのものは、「女歌」云々の議論に巻き込まれることはないのです。

 

彼の「女歌」についての議論の枠組は、そのような歌人の立場から設定されたものにすぎません。
だから、折口に唱導されている時点で、「女人短歌」などの試みも、結局は男の側から見られた「女歌」だ、ということになってしまうのですね。
ちなみに、「云々」は「うんぬん」と読みます。

 

 女歌をうたうという選択も、女歌をうたわないという選択も、女にとってはどちらも罠、というダブルバインドな状況が女を待ち受けています。あれかこれかの息苦しい選択肢の間で、そのどちらでもない隘路をたどるしかない、というところに追い詰められたのが、阿木津英さんという歌人でいらっしゃいます。(笑)(p.67―68)

 

上野さんはこのようにも言っています。
女歌か、そうでない歌か、という区分を意識してしまった以上、いや、その区分を知ってしまった以上、「ジェンダー二元制」からは逃れられない、ということでしょう。
阿木津さんの状況をそのように見たうえで、次の言葉は、かなり手きびしい。

 

私は外から、阿木津さんのご尽力や孤軍奮闘ぶりを、本当に尊敬して見ておりますけれど、このような奮闘をなさる方が―女歌をうたうことからも、うたわないことからも、そのいずれの罠からも逃れようともがいているこの自由を求める魂が―定型の世界にとどまりつづけている理由がわかりません。(p.70)

 

「隘路」にいながら、そしてそこを脱出したいと願うなら、なぜこの短歌という詩型を捨てて、離れてしまわないのか。
上野さんの問いはそのようなことでしょう。
短歌を作ったり読んだりしている身には、ずいぶんと残酷な問いに聞こえてしまいます。

 

短歌を作らなくなることを「歌のわかれ」と表現することがあります。
中野重治の小説の題名で知られています。
歌人でも、春日井建や寺山修司が、これを経験しました。
しかし、寺山も春日井ものちに歌をふたたび作るようになりました。
このことは、完全に「歌のわかれ」をすることの難しさを示しているようにも思えます。

 

さて、阿木津さんは、上野さんにどうこたえるのでしょうか。

 

戦後に生まれ育った私は、戦後的な価値観による戦後教育で教えられたわけで、もともと短歌なんか古臭い趣味、くらいの認識だったわけですね。それが、仕方なく短歌でもやってみるかと、やっているうちに、歌の言葉っていうものが私を遂行していくわけですよ。そして、歌というものを知ってしまうわけです。それは散文とも、詩の言葉とも違う、俳句の言葉とも違う――。
 いちばん顕著な例を申しますと、歌は、漢熟語を拒否するというか、歌の詩形が拒否するんですね。詩形が拒否するという感覚を身につけてしまう――そこが非常に面白い。そこに調べの問題、韻律の問題があるでしょうし、ナショナルなものの引きずり出され方、産出の仕方というものがあるでしょう。それを私がおこなってしまう。そして、そのことを決して後悔しない。まあ、喜びとするわけですよね。はじめて日本語というものの美しさが理解できたという気持ちになる。そして、現在世に行われている言葉というものがどうしても無意識のままでは受け入れられなくなる。小説の言葉も詩の言葉も吟味してしまう――、というような感覚が身についてしまう。
 ということは、私が、歌を言語行為として遂行、パフォーマティヴしていくうちに、そういう媒体、行為体(エージェンシー)になってしまったということなんですね。(p.88‐89)

 

この感覚、わかるような気がします。
短歌を推敲するとき、いくつも改変の例を出して検討してゆく。
助詞を「に」から「へ」に変えてみたり、下の句と上の句を入れ換えようとしてみたりしますね。

 

やがて、あ、これだ、これしかない、という気分になる。
このときの気分を「日本語というものの美しさが理解できたという気持ち」と言ってしまいたくなる、ということはよくわかります。
翌朝になってみると気の迷いに気づくこともありますが、いっときの陶酔感はたしかにある。

 

また、こうも書かれています。

 

ジェンダーの枠組は、ぜんぜん変わっていない。このことに、私は息苦しさを感じるわけなんです。そのジェンダーの枠組は何かというと、女らしさ・女性性を、〈男性〉の支配力に抗するに利用価値のあるものとして考えるまさに日本的な、このような形ですね。この形はぜんぜん変わっていない。(中略)
 「日本」という枠組と結びつきやすい短歌定型の美ということと、短歌の言葉、というか、短歌という形式の中で伝えられて来た言葉の使われ方というのは、区別すべきだというふうに思うんですね。折口信夫はしばしば短歌滅亡論を説いていて、新しい詩形へ移っていくことをつねに期待していました。私自身も、短歌形式というものに対しては、ほんとにぎこちないというか、居心地が悪いというか、自分との間にどこかで隙間があるような、そういう感じを感じ続けています。
 しかしながら、この短歌によって担われてきた私たちの言葉、その使い方あり方というのは、一人一人、自らの身を通して「遂行」すべきだと思うんですね。これ(私たちの行為としての言語遂行)がなくなっちゃったら、たんに日本語は道具にしか過ぎない、「メシ、フロ、ネル」くらいの意思疎通のためのたんなる道具にしか過ぎない。言語というものは、私たちの半ば肉に張り付いている仮面ですから、自己形成をそれでしていくわけですから。私は長い時間の中で、数え切れないほどの人々が「遂行」してきた言葉というものを、今、私たちも「遂行」すべきだと、すべきだというといけないかもしれないけど、していきたいなと。これまでも一方ならぬ力を傾けて「遂行」してきた人々の言葉の織物を読み解きたい、そこに参加したいと、いうふうに私は思うんですね。(p.97-98)

 

「遂行」という言葉がすこし独特の意味で用いられていますが、これは上野さんの「提言」の次の部分を受けています。
固有名詞がいくらか出てきますが、難しくありません。
島田修三さんは上野さんの発言を聞いて、「思想ってのは笑いながら理解できるんだというのは変な収穫で、ジュディス・バトラーが一瞬にしてわかってしまいました」(p.83)と言っています。
言葉が発されるとき、本人の意図や気持ちとは関係なく何らかの行為として、言葉を発すること自体が意味を持ってしまう、ということでしょう。

 

バトラーには、ジェンダーの「パフォーマティビティ」という概念がございます。たんにパフォーマンスといわずに、パフォーマティビティというのは、「行為遂行性」と訳すのですが、これはもともとオースティンという言語学者の言語行為論から来ております。言語というものは、行為の手段や道具ではなく、それが発されたときに、そのこと自体によって、すでに言語のなかでひとつの行為を行ってしまっている、という考え方です。言語は、それ自体が行為だっていうのが、言語行為論の核心ですが、言語行為のもっとも端的な例は、「君が代は千代に八千代に細石の・・・」という歌でございます。この「君が代」という歌に、私がもし唱和をいたしますと、この中でひとつの言語行為が行われることになります。そこでは第一に、「君」と呼ばれている存在、この国では天皇と申す方をさすようですが――「君」というのは、ボクたちやキミたち、つまり国民のことだと解釈する向きもあるようですが、たんに牽強付会というだけでしょう――その人に対する私の従属の表明と同時に、その歌をともに唱和する人々の集団、日本という国家および国民への同一化を、私は行うことになります。(p.54-55)

 

この発言をふまえて、阿木津さんは、「長い時間の中で、数え切れないほどの人々が「遂行」してきた言葉というものを、今、私たちも「遂行」すべきだと、すべきだというといけないかもしれないけど、していきたいなと。これまでも一方ならぬ力を傾けて「遂行」してきた人々の言葉の織物を読み解きたい、そこに参加したいと、いうふうに私は思う」と言っています。
お気持ちとしては、私も理解できるつもりです。

 

でも、上野さんは納得しません。

 

ただ、やはり、なぜ短歌なのか、という問いは残ります。短歌が延命してきたと言っても栄枯盛衰の波がある、少なくとも江戸時代はそうじゃなかった、近代初期もそうじゃなかった、戦時下がかなめじゃないかとか、いろいろなご発言がでました。先ほども申しましたように、短歌の延命というものは、自動的に起きるわけではなく、その時々の担い手の自発的な関与や努力、仕掛けがうまくいったり、外れたりしてようやくなしとげられるものですから、今もまた、それを担っていこうとしていらっしゃる方々がここにいらっしゃるわけです。
 そのなかで、たとえば戦時下の庶民の経験の集積が『昭和万葉集』のような形で整理されますと、痛ましさを覚えないわけにはいきません。ましてや『台湾万葉集』というようなものを見ますと、その痛ましさはもっと強くなります。庶民の経験が、国民的定型のなかに型式化されていくことを通じて、ベネディクト・アンダーソンの言う「想像の共同体」は生まれます。経験や感情をどのような形で様式化していくかという作法が、母語の中には埋め込まれています。それを生き続けさせよう、語彙や様式を更新しながら再生させようと思う人々がここにいらっしゃるのだと思いますが、その中で若い才能が育ってきているということも私は否定いたしません。しかしながら、私たちが注意して見なければいけないのは、短歌定型という言語的な遂行を通じて、この時代の文脈の中で何が成し遂げられようとしているのかという問いです。
 それは、私たちがこれまで背負ってきた歴史の重荷や桎梏を違う姿で再生産しようとしているのか、それとも古い様式を壊して超えようとしているのか、ということは、にわかには言えないと思います。私はその点では、やはり実作者の方の責任ということを考えます。阿木津さんはこの場で、短歌の世界に踏みとどまって言語遂行すべきだ、とまでおっしゃっていました。この方が、短歌という歌の様式にここまで殉じて運命をともにされようとする、短歌に責任を背負われる理由が、私にはよくわからないのですけれども、そのことの栄光と悲惨とを共に担われるであろう阿木津さんには、いずれ自分の作品で答を出していただけるであろうと期待しております。(p.125-127)

 

短歌は、ナショナリズムに結びつきやすいものであり、旧弊なジェンダー観に縛られやすいものであり、他者を傷つけ、抑圧しやすいものである。
そういうことを考えてから、私は短歌を作りはじめたでしょうか。

 

決してそんなことはないでしょう。
近くに自動販売機があったから、何となく使っているボールペン、たぶん、そんな気分ではじめました。
軽い気持ちではじめた、ということを、偽ることはできません。
短歌は、私にとってそういうものだったと思います。

 

軽い気持ちではじめて、いつのまにか本気になっている。
「まるで恋だね」とPerfumeがささやきます。
でも、そんな罠みたいなものだと、はじめる前に誰が予想できたでしょうか。
無視できない議論があり、無視することが罪になる議論がありうるのだと、身につまされる一冊でした。

 

ディスカッションでは劣勢に立たされているような岡井隆島田修三両氏の発言にも、もちろん傾聴すべき点が多くあります。
歴史的な動きと現場の実感をつなぐ思考という部分では、両名の発言に着実さを感じたのでした。
おふたりとも、サングラスをおかけになっているイメージがあります。
「色眼鏡」という言い方は、今でもするんでしょうか。

 

池田忍さんと阿木津さんの対談も、重要な論点を含んでいます。
詳細はぜひ、お手にとってお確かめください。

 

長くなってしまいました。
お読みいただき有難うございました。
寺井龍哉でした。

 

 

寺井龍哉(てらい・たつや)
1992年東京都生まれ。本郷短歌会所属。2013年短歌研究新人賞候補。2014年、評論「うたと震災と私」で現代短歌評論賞。2016年、月刊「短歌研究」にて「短歌時評」を担当(6月~8月)。剣道三段。@

第45回 穂村弘『短歌という爆弾』

宇都宮敦 評論 ゲスト

宇都宮敦

 

こんにちは、宇都宮敦です。ゲストです。とりあげるのは、穂村弘『短歌という爆弾』。いわゆる、ボムを投下、ってやつです(ちがう)。

 

『短歌という爆弾』は、小学館から2000年4月に刊行された穂村弘の商業出版デビュー作である短歌入門書です。2013年11月に小学館文庫で文庫化もされました。


 全体の構成は全5章(0〜3章+終章)+あとがきになっていて、各章には「爆弾」に見立てた章題がついています。「0.導火線」は、くすぶった初期衝動をかかえた人間を煽りまくる導入。「1.製造法」は、初心者の作品の批評・添削。「2.設置法」は、作品発表の場の紹介。「3.構造図」は、秀歌・名歌解説。「終章」は、まとめ、でいいのかな、0章に呼応した自身の短歌的出自を描いたエッセイ。「あとがき」は、あとがき。文庫版ではこれに、ロングインタビューと枡野浩一による解説がつきます。こうコンテンツを書き下すと、わりと穏当な入門書にみえますが、作歌法指南的な「1.製造法」の形式は、座談会とメールの往復書簡とちょっと変わったものになっています。しかも、このもっとも入門書っぽい章はメインコンテンツではなく、「3.構造図」の秀歌・名歌解説のほうにボリュームが割かれているという変さ。ついでに上の章題、もう一回見てみて下さい。「終章」、爆弾の見立てはどこにいったの(いや、いいけど、それだったら「0.導火線」じゃなくて「序章」じゃないの)? また、この「終章」、わりとあとがきっぽい感じなので、「終章」を読み終わった後に「あとがき」がはじまると、天丼感はんぱなかったりするんですよね。こんな感じで、実際読んでみると、入門書として、本として、だいぶ変わった物を読まされたなあという印象を受けると思います。

 

と、本書のアウトライン的なことを書いてきましたが、このブログを読むような人には、いまさら感漂うというか、紹介の必要がないくらい読まれている本かもしれません。とくに、「3.構造図」のいわば評論部は、単行本発刊直後からよく言及され、議論されてきました。ただ、今となっては、その言及や議論の印象に本書の本来の内容が覆われてしまっているのではないかという疑義もあったりします。というわけで、純粋な紹介というよりは、1回読んだことのある方々へ再読してみるのもいいっすよみたいな感じの文章を書きたいと思います。

 

『短歌という爆弾』「3.構造図」(以下、「3章」)は、全16節で構成されています。各節は、だいたい、名歌・秀歌があげられ、それらを名歌・秀歌たらしめている要素の抽出がキーワードの提示によってなされるという構造をもっています。既出のキーワードを受ける節もなくはないですが、原則的には各節は独立です。つまり、「3章」はほぼ各論で構成され、少なくとも目に見える形で総論は示されません。「3章」のキーワードは、そのキャッチーさゆえに数多く引用されてきました。しかし、引用される際、このような構造込みで引用されることはまれです。それらはあくまで各論のなかで名指されたものでしかなく、穂村弘の短歌観の「総論的まとめ」ではないことに注意を払うべきでしょう。とくに、最初の節「麦わら帽子のへこみ」で提示される「共感と驚異」は、砂時計のクビレの喩えとともに最も引用されたもののひとつですが、「3章」全体に戻してみると他のキーワードと較べかなり異質です。重要部を引用しながら論旨をまとめます。

 

まず、「共感と驚異」とはなんでしょうか(以下、引用末尾に記すページ番号は文庫版のものである)。

 

短歌が人を感動させるために必要な要素のうちで、大きなものが二つあると思う。それは共感と驚異である。共感とはシンパシーの感覚。「そういうことってある」「その気持ちわかる」と読者に思わせる力である。(「麦わら帽子のへこみ」p.140)
共感=シンパシーの感覚に対して、驚異=ワンダーの感覚とは、「いままでみたこともない」「なんて不思議なんだ」という驚きを読者に与えるものである。(同上p.142)

 

ここで共感と驚異と呼ばれているものが相反する価値として提示されていることがわかります。本節では、共感的秀歌の代表として俵万智石川啄木の歌があげられ、その共感がどこからくるのか分析がなされます。

 

砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね 俵 万智

 

例えばこの歌の場合、ポイントは「飛行機の折れた翼」にある。…(中略)…
 仮にこの歌のここの部分をブランクにして埋める問題を出したらどうだろう。…(中略)…多くの人は例えば「貝殻」などを選択するのではないか。

 

砂浜に二人で埋めた桜色のちいさな貝を忘れないでね 改作例

 

 体験に即しているという点では原作よりもむしろこの方が自然である。つまり多くの読者の体験と一致しているはずである。それにもかかわらず、感動の度合いでは明らかに原作のほうが強い力を持っている。「桜色のちいさな貝」では、心の深いところには刺さらないのである。読者の多くは、自分では「飛行機の折れた翼」を砂浜に埋めたことがないにもかかわらず、その思い出に対してより強い感情移入をすることができる。なぜだろう。
「翼」と「桜貝」の違いはそのまま、言葉が驚異の感覚を通過しているかどうかの違いである。おかしなたとえになるが、「桜貝」の歌がコップのように上から下までズンドウの円筒形をしているとすれば、原作の方は砂時計のようにクビレを持ったかたちをしている。この「クビレ」に当るのが「飛行機の折れた翼」の部分である。この歌を上から読んできた読者の意識はここに至って、「えっ? 飛行機の翼?」という、自分自身の体験とはかけ離れた一瞬の衝撃を通過することによって、より普遍的な共感の次元へ運ばれることになる。(同上pp.142-4)

 

長くなってしまいましたが、共感には相反するはずの驚異が必要であると砂時計の喩えを用いて説かれています。「驚異なくして共感なし」、「no 驚異, no 共感」、です。


 さらに本節では、「驚異志向」の例として啄木の歌集未収録作品や「驚異と共感の共振」した例として若山牧水の歌があげられます。しかし、このとき「砂時計のクビレ」ほどのキレのある説明はされていないため、驚異がより前景化したとき、共感との関係がどうなるのかいまいち不明瞭です。


 なぜそのようなことが起きているのか。端的に言って、本書は「驚異についての書」だからです(他の節で驚異という言葉は使われませんが)。そもそも本書のタイトルは『短歌という爆弾』です。共感と驚異、それぞれに同じ体重をかけようとする人間がつけるタイトルではないでしょう。冒頭のアウトライン紹介でちょっとちゃかし気味に書いた本としての体裁の不自然さ(もっと言えば不格好さ)は、驚異を引き込むためにとられたものだというのは言い過ぎかしら。ただ、「終章」についた副題は「世界を覆す呪文を求めて」で、いくらでも爆弾喩えできそうなのに敢えてしてない印象があるんですよね。ともかく、「共感と驚異」といわれるとそれらが並列の関係にあるようにみえる、もしくは、この節だけだと前景化している共感がより上の目的(共感を得るために驚異を使う)のように勘違いしてしまいますが、むしろ、穂村弘のなかでは圧倒的に驚異が上、共感ですら驚異の感覚がなくては成り立たないものとなっています。


 ただし、他節で扱われる驚異は、本節で「砂時計のクビレ」として扱われている驚異とは別物です。

 

その際一首のなかで「飛行機の折れた翼」はあくまでも共感へ向かうためのクビレとして機能しており、多くの俵作品同様に、ここに含まれる驚異の感覚は、それ自体の純度を追求されてはいないという点にも注意したい。(同上p.144)

 

「砂時計のクビレ」としてあらわれる驚異は、いわばスポイルされた驚異です。本来の驚異はクビレのみしかない砂時計=砂時計の比喩が通用しないようなものであり、なので、それぞれの驚異に対してつどつど対峙し、その痕跡がこの「3章」となったと言っていいでしょう。ただ、驚異のなかで示されるキーワードにも重みのちがいがあることが、筆ののりかた、テンションの違いでわかります。ずばり、もっとも価値のあるものとされるのが「愛の希求の絶対性」です。というか、明言もされていますね。

 

愛の希求の絶対性は、すべての表現を通じて最も大切な要素だと信じるが、
(「どんな雪でもあなたはこわい」p.247)

 

愛の希求の絶対性については、直接抜き書きしやすいところがないのですが、「キーワードは宙(そら)の知恵の輪、すなわち愛の希求の絶対性である。」とあって、「宙(そら)の知恵の輪」はこんな感じでまとめられています。

 

宙(そら)の知恵の輪は、現実の物語の顛末や、愛の成就をすら越えて、一首の中にあり続ける。その美しさはひとえに、知恵の輪の強度、つまりそれが永遠に解けないことに因っている。
(同上p.246)

 

また、『短歌という爆弾』刊行後の「早稲田短歌32号」(たぶん2001年)に穂村弘のがっつりとしたインタビューが載っていて、web版があるのでそれを貼っておきます。記名のないインタビュアー(ズ)は、たしか永井祐さんの代(原本もってないので、「たぶん」「たしか」ばっかりで申し訳ないですが)。

 

http://wasetan.fc2web.com/32/homura.html

 

結局、『短歌という爆弾』について語ること=「愛の希求の絶対性」について語ることになっています。それにしても、ジャンプ脳なので『スラムダンク』「vs陵南戦」の例え話がわかりやすすぎて困る。ここでの話や

 

愛の希求の絶対性は、恋愛というモチーフの限定性に直結するものではなく、その希求感覚は、次章で採り上げる葛原妙子などに典型的にみられるように、狭義の相聞の枠を越えて作品世界の全体を統べる力として強烈に作用する。
(同上p.249)

 

といったところを読むと、60年前の詩人のこんな言葉を思わずにはいられません。

 

そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在(ザイン)しないものへの憧憬である。

 

引用元は、萩原朔太郎『詩の原理』。青空文庫にもあります。

 

萩原朔太郎 詩の原理

 

永井さんが何回か前のここで取り上げていた吉本隆明は朔太郎のこの言葉に対して

 

朔太郎の原論で、「そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在しないものへの憧憬である」という個処は、あきらかにわたしの詩の動機と接触する。「現在しないものへの憧憬」を「現在しえないものへの憧憬」とでも言い直せば、一致するさえようにみえる。(吉本隆明「詩とはなにか」(思潮社詩の森文庫))

 

なんてことを言っています。ほかに、吉本には「世界を凍らせる言葉」っていう有名な言葉もありますね。

 

詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。(同上)

 

このあたりのある種の詩人たちの詩の定義との共鳴から、驚異とは「詩」の別名であり、「3章」は短歌における「詩」のありかについて延々と考えていると言ってもいいかもしれません。

 

 しかし、言葉というのは現在する世界に属するものです。言葉で「現在しえないもの」、「ほんとのこと」を目指せば、コミュニケーション的な「わかりやすさ」からは離れざるをえません。ただ、伝達をあきらめているわけではない。

 

ひとつの歌と出逢うことはひとつの魂との出逢いであり、言葉の生成も変化も、すべては魂の明滅、色や温度の変化に連動しているように感じる。魂を研ぎ澄ますための定まったシステムなどこの世になく、その継承は時空間を超えた飛び火のようなかたちでしかあり得ない。ひとりの夢や絶望は真空を伝わって万人の心に届く。(「しんしんとひとりひとりで歩く」p.280)

 

砂時計の寸胴部のような共感とは、別の共感が夢見られているのです。

 

 最初に各論が並んでいると書きましたが、その各論が「スポイルされた驚異によるスポイルされた共感」から「ほんとうの共感を夢見るほんとうの驚異」に到るように配されているというのが僕が読んだ「第3章」です。

 

「再読」を勧めると言っていたわりには、「ネタバレ」しすぎに見えるかもしれませんが問題ありません。読んでほしいのは要点ではないので。評論って、大きく2つに分けられると思うんですね。ひとつは結論が検証可能な(あるいは可能性を残す)もの。もうひとつは、短歌とは何か? みたいな大きな問題を扱っていて、検証不能なもの。地道に資料に当たることや取材が必要な前者のような評論がきちんと評価されるようになってきたというのが近年の流れで、それはすごくよいことだと思うのですが、後者は後者で大事だと思うんです。検証不能だからって放言でいいってわけじゃなくて、論理で届かないものだからこそ、最後の最後に飛ぶ手前までは論理でつめなくてはいけない。検証不能な大きな話の結論って、要約したら1桁種類くらい(もしかしたら2種類?)しかなくて、『短歌という爆弾』で言っていることも、朔太郎や吉本が既に言っていることとほぼ同じだというのは上でみたとおりです。でも、そのほぼ同じことにたどり着くまでにたどる論理はそれぞれに違い、読むべきはそこにあります。キーワードの創出という名付けによって追いつめていくのが穂村弘のスタイルで、同じ大きな問題を扱うでも、若手はもっとうだうだと書きながら考えるようなスタイルを好むのかなと思うのですが(僕もそういうのも好きだし、自分が書く物はそちらに近い)、穂村弘はたんにキーワードを振り回しているわけではないことが読めばわかると思います。『短歌という爆弾』は、その「ほとんど妄想に近い」考えをたんなるオカルトにしないために、一首一首に表出されているものを愚直に読んでいった軌跡が記録されていて、まだまだ読んでおもしろい、血液の温度があがる本だと思います。

 

 一応結論までいきましたが、ちょっと長めの余談。(前景化した)共感と驚異が横並びじゃなくて、上下(驚異が上、共感が下)の関係だと書いたけど、これは『短歌という爆弾』ではそうなっているというだけで(そうなっているというか、僕がそう読んだ)、逆の価値体系もぜんぜんあると思います。「愛の希求の絶対性」基準でみれば、「スポイルされた驚異によるスポイルされた共感」と「ほんとの共感を夢見るほんとの驚異」となるものも、現在する世界でなんとか他人に「詩」を届けることを考える人にとっては「まっとうな格闘」と「ひきょうな逃避」以外のなにものでもないでしょう。何年かに1回くらいある「わかる/わからない」問題って、この立場の違いってのが多分にあると思っています(さらに短歌に「詩」なんか必要ないって立場もある)。だから「わかる/わからない」問題って、根本的には「好き/嫌い」問題なのであって、好きじゃないけど評価するってことはできるはず。啄木や俵万智に対する『短歌という爆弾』での態度はこれで、そのような共感を自分が求めるわけではないが、求めるとしたら最上のものはこれって感じで挙げられているのだと思います。これが、挙げた上でディスだったら(まさに「スポイル」とかって言葉を使ってね)、最後のほうの「愛の希求の絶対性」とか「わがまま」が分かりやすくなるんだろうけどそうはしていない。

 

 余談の余談になりそうなので戻すと、好き嫌いとか短歌に対する態度で上下はいれかわることはあるだろうけど、どっちにしてもここでの共感と驚異は横の関係にはなりません。これは、共感と驚異がもつ本質的な問題なのでしょうか。僕はそうではなくてナナメなんじゃないかと思うんですね。つまり、比べている物が違うから上下になっているだけで、それぞれに対応して横にくるべき驚異、共感は別にあると考えられると。下の図のような感じ。

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まず、クビレがないと寸胴部が認識できないなら、クビレだって寸胴部がないと認識できないはずです。「驚異なくして共感なし」なら、「共感なくして驚異なし」って話。たとえば機知をみせたい歌なんかは、共通認識がなければそれが機知だとわからないはずです。また、本来、私のものではなく世界のものである言葉によって、わたし固有のひとつの「ほんとのこと」を希求するという不可能性とは別に、ある言葉がわたしとあなたで同じものを指しているか証明できない状況で、あなたの「ほんとのこと」に触れることを希求するという不可能性もありうるはずです。図にすると下のような感じ。

 

 

f:id:karonyomu:20170212015708j:plain

 

相対的/絶対的は、現実的/イデア的でも、スカラー的/ベクトル的でもいいかもですが。これだけだと態度の話で、その態度がどう表出されるかを述べるべきかもしれませんが、それは別の機会にゆずりましょう。ではでは。

 

 

宇都宮敦(うつのみや・あつし)
プロフィールはここを参照→ http://air.ap.teacup.com/utsuno/45.html

第44回 本多正一『プラネタリウムにて 中井英夫に』

堂園 その他

 最晩年の中井英夫とその助手について 堂園昌彦

プラネタリウムにて―中井英夫に

プラネタリウムにて―中井英夫に

 

 こんにちは、堂園です。

 

今回やるのは、2000年に葉文館出版から刊行されている、本多正一著『プラネタリウムにて 中井英夫に』です。

 

この本はどういう本かというと、稀代の作家・編集者であった中井英夫の晩年の日々を、最晩年の助手でありその死に立ち会った本多正一さんが、写真と文章でつづったものです。中身はいろんなところに発表した追悼文集みたいな感じです。現在、本多正一さんは中井英夫著作権管理者になっており、創元文庫版の中井英夫全集の編集者でもありました。

 

中井英夫は、戦後ミステリの金字塔『虚無への供物』を書いた幻想・推理作家。また、短歌でいえば、短歌雑誌の編集者として塚本邦雄寺山修司や春日井建や中城ふみ子らをプロデュースし、前衛短歌運動をけん引したことで有名です。このブログでも、第4回・浜田到のときに出てきましたよね。

 

まあググっていただければいいんですけど、中井英夫のことをご存じない読者の方に説明すると、知らないひとは全然知らないけれど、知ってるひとは、

 

中井英夫!!!!!

 

とかなるタイプの作家ですね、中井英夫は。

 

で、ご多分にもれず、私も高校生のころ『黒衣の短歌史』を読んで、なんだこれ短歌超おもしれえ!! と思い、続いて『虚無への供物』を読んで、なんだこれミステリ超おもしれえええ!!! と思いました。いやほんとどっちもまじで面白かった。しかし恥ずかしながら、その後中井英夫の他の著作へはそれほど深入りはしていないという、ものすごく浅薄な読者が私です。

 

だから、実は今回、この本を紹介するのがふさわしいのかどうか、正直ためらいがあります。浅薄な中井英夫読者である私には、その資格がないのではないかと思うからです。

 

ちょっと話が脇にそれますが、このブログの第36回で『塚本邦雄の青春』と映画「この世界の片隅に」を取り上げたときに、ありがたいことに様々な反響をいただけました。

 

 

 

なかでも歌人黒瀬珂瀾さんのこのツイートが私にはとても嬉しく、また深く感じ入るところがありました。でも同時に、私にはこの黒瀬さんと同じような気持ちになるのは難しいな、とも思いました。それはもちろん、生前の塚本さんとお会いしたことがないから当たり前なのですが、それ以上に、私は塚本邦雄という存在に対して、この黒瀬さんのツイートに込められているほどの深い精神的な親しみを、まだ抱けていないからです。

 

孤高の作家、特にその幻視の力によって非現実の王国を築いたような作家の、生前の姿や思い出を語る言葉や文章には、その「虚」と「実」の合間にあった「生身」にいくらかなりとも触れることができた者だけが持つ、独特の甘やかさのようなものがあります。

 

いや、もっと一般的に言ってしまえば、死者と立ち会えた人間だけが持つ侵しがたさ、のようなものがあり、それに私は圧倒されてしまうのかもしれません。

 

そして、今回紹介するこの『プラネタリウムにて 中井英夫に』という本は、その精髄のようなもののひとつになります。

 

 

著者の本多正一さんが、中井英夫の家で助手として働くきっかけとなったのは、1989年のことでした。

 

本多さんが中井英夫の名前を知ったのは、14歳のとき。『虚無への供物』を文庫本で読み、その世界に激しく魅了され、そのときはむしろ「自分にはこの作家に会う資格がない」とまで思いつめたようです。

 

それが大学卒業後の24歳のとき、本多さんは、中井英夫が当時住んでいた東京都世田谷区の羽根木の家から引っ越すつもりであるということを、雑誌のエッセイから知ります。それで、引っ越しの前に敬愛する作家の家をひとめ見ておこう、できたら写真に収めようと中井英夫の家に向かい、門の前にたたずんだのでした。

 

 一瞬、目と目があった。ファンの子が来たな、とでも思ったのだろうか、縁側からサンダル履きでやってきて「もしよかったら上がりなさい」と声をかけてくださった、会う資格がない、とまで思いつめ尊敬していた作家が目の前にいた。動いていた(原文傍点)。(p.84)

 

なんと、家を見るだけだったはずの本多青年は、どうしたわけか中井英夫に家の中に招かれます。そして、中井英夫と直接話をする幸運に恵まれます。

 

居間に通され話をし、夕方になると「君、悪いんだけど台所にいってグラスと氷をもってきてくれない」とソファの下からウイスキーのボトルをごそごそと取り出した。写真を撮りに行ったはずだったが中井英夫にカメラを向けることなど思い及ばなかった。ひとりグラスを傾けながらふと気付いたように「君も飲む?」と言った。とんでもない、と首をふった。中井さんが六十六歳、健康と体調が急速に衰え始めたころだったのだろう、随分とお痩せになって家の中でも杖をついていらっしゃった。(p.84)

 

思いがけない幸運に恵まれた本多さんは、後日、お礼の手紙を出します。

 

 拝啓 急いで御礼の手紙を、と考えながらも筆不精のため遅くなりました。お許し下さい。六月二十五日日曜の午後に突然お邪魔をさせて頂いた者です。

 見ず知らずの者を歓迎して下さったこと、永年の愛読者として至上の喜びでありました。いずれ改めて御挨拶をさせて頂きたいと思っています。

 とりあえずの御礼まで。御健康をお祈りしております。

                         敬具

                        本多正一

 中井英夫様(p.81)

 

そして、ふたたびお礼を言いに行きます。そしたらなんと中井英夫から驚きの提案をされるのです。

 

この一枚の葉書を出してふたたびお目にかかったとき、「よかったら住み込みで助手になってくれない」と持ち掛けられた。……(p.84)

 

まさか憧れの作家の助手になるとは思ってもみなかった本多さん。すごい運命の転回です。しかし、彼を待っていたのは、なかなか大変な日々でした。

 

実は当時の中井英夫は、同棲までしていた最愛の人・田中貞夫に先立たれ、失意の中、アル中になっており、小説もまったく書けない状態でした。

 

この本の解説に、文筆家の田中幸一さんが初めて中井英夫邸を訪れたときの文章が載っています。

 

 小金井の家は広さこそ十分過ぎるものの、室内は雑然としており、はっきり言えば小汚いという印象だった。少なくとも「流薔園園丁」をかつて名乗った人の住む家だとは思えなかった。……また中井英夫その人も、衰えを知りつつ会いに行ったにもかかわらず、やはり痩せ衰えた見すぼらしい老人だった。べらんめえ調の話しぶりだけは妙に元気であった。初めて電話をもらった時、すでに中井は酔っていた。当時、中井はアル中であったから、それは不思議でもなんでもないのだけれど、その電話は、中井が酔っているという事実を差し引いても「かなりの変わり者だな、この人は」という印象を私に与えるに充分なものだった。私は実物を前にして、その感を更に強くしたのである。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.158)

 

あの、これ、けっこうまじでびっくりします。まさかあの中井英夫が、晩年たったひとりきりで、こんな生活をしていたのか、と。はっきり言ってしまえば、ものすごく貧乏なみすぼらしい生活です。しかも中井英夫は、この本からうかがえるに、生活能力もまったくなさそう。それで、身の回りの世話をしてもらおうと、たまたま自宅を訪れたファンである本多さんを、助手に誘ったのでしょう。中井英夫は基本、いつも酒ばっか飲んでる、気難しい爺さんです。

 

 ここでインタビュー(九〇年十二月)以降の私の生活の主な変化は、出歩かないせいか軀は十キロ痩せた代わりに、六月以降、酒をまったく口にしなくなった。それまでは夕方になるといそいそとウイスキーを取り出し、それも必ずボトル半分ほどあけてしまう。当然のようにひっくり返って頭を打ち、そこらじゅうを血だらけにしてベッドに辿りつくのが毎晩のことだった。(中井英夫「冷たい炎~近況報告~」『現代歌人文庫 中井英夫短歌論集』国文社)

 

自ら記しているところはこんな感じです。血だらけて。しかも、『プラネタリウムにて』から察するに、この記述の後も、実際には酒を止めた形跡はありません。こまったもんだ。

 

それでも本多さんは、中井英夫に酒を止めさせ、なんとか書けない小説を書かせようと奮闘します。

 

ここにある「インタビュー」は、歌人福島泰樹とのインタビューです。次のような会話がありました。

 

福島 それで、菱川さん(堂園注:菱川善夫)がお礼にって言って酒を送って来まして、この酒を一杯だけでも中井先生に飲んで頂こうと思って来たんです。(笑)

中井 (笑)ほかの人ならともかく、君に先生なんて呼ばれるとくすぐったくってね。まあ中井にしておいて下さい。あのねえ、あれが(助手の本多正一)うるせえの何のってね、というのはね、僕こっちに来てから酔っぱらっちゃ引っくり返って、玄関の土間に頭から落っこっちゃったりして。それで彼が許さんと。おとといひょっと見たら、酒瓶はもう全部隠しているんだけど、酒屋の電話番号まで消してあるんですよ。(笑)でも一杯だけ頂くぞや。(略)

中井 ああ、こりゃ旨いや。こりゃいいなあ。(笑)

福島 日本酒がお好きでしたよねえ。

中井 でもねえ、この頃駄目になっちゃってウイスキー、それも四分の一位が限度なのに、ついつい三分の一とか半分とか飲んじゃうんです。それだからもう。

福島 ボトルをですか。今でも。

中井 ええ。だから、この間も頭から凄く血を出してね。今でも瘡蓋が頭ん中にある。床屋にも行けない。この隅っこにね…

         〈絨毯の隅にある血痕を示して〉

福島 あら、凄いな、それは。大出血じゃないですか。
(「黒鳥の歌」『現代歌人文庫 中井英夫短歌論集』国文社)

 

血痕て。大出血て。こりゃ、本多青年、たいへんです。

 

印税収入もほとんどなく、また、原稿も書いていないので当然原稿収入もなく、たまにエッセイを書くくらい。注意しておきたいのは、本多さんは作家志望ではなく、中井英夫の弟子というわけではありません。もとは単なるいちファン。本多青年は、そこに実質無給(むしろ、中井英夫のために実家に借金したりしてます)で働いていました。

 

……そうした話からだっただろうか、本多の話題はやがて中井英夫の経済生活へと移っていった。

 「ああいう人でしょ、仕事もしてないのに生活できてるって思ってるんですよ。『働かなきゃ、お金入んないよ。お金が無きゃ御飯も食べられないでしょ』って言うんですけど、『それをどうにかするのがお前の役目だ』なんて言うんですから……」

 いかにも中井の言いそうなことであった。中井にとってそうしたことは理屈ではなく、そうしたものだ、ということなのだろう。中井の生活実感とはそういうものだったのである。

 「去年の中井の年間収入いったいいくらだと思います」と本多が問いかけてくる。私はかなり少ないだろうとは思っても、具体的な数字は失礼でとても口にはできない。さあ、とトボけてみせると、本多は私の予想よりも更に少ない驚くような金額を口にした。そして、今は羽根木の家を地上げで追い立てをくった、その保証金を食いつぶして生活している、しかしそれもそう長くは続けられないので早急に家賃の安い所へ引っ越さねばならないのだが、中井がマンションやアパートなんて人間の住む所じゃないと駄々をこねて困っている、この際、騙し討ちにしてでも引っ越さなきゃならないだろう。そう、ため息まじりに語った。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.161,162)

 

そんななので、本多さんと中井英夫は毎日喧嘩ばかりしています。

 

 「でも、びっくりしたでしょう、あの中井英夫がこんなじいさんだなんて」

 「とんでもない」と私が答えるところへ、中井が「お前はそんなことばっかり言っていつも俺をバカにする。飯の用意もろくにしていかないし、俺を飢え死にさせるつもりか」と文句を言いはじめる。すると助手は「だって、それは中井さんが……」云々と反論し、客を放っておいて軽い口喧嘩をはじめる。だが両者の話を聞き合わせると、どうも道理は助手の方にあって先生の方にはない。どう考えてみても先生は自分の都合ばかり主張しているだけなのだ。

 ……それにしても二人の口喧嘩は見事に対等の立場で行われていた。とても「先生と助手」の関係には見えない。どちらも本気で腹を立てている様子ではなく、お互い話の分からない奴を相手にしていると悟った上での口喧嘩という感じなのだ。

 「そんな勝手なことばかり言ってて、どうなっても知らないよ」と本多が言うと、「とにかくお前は俺の言う通りにしていれば良いのだ」

 ……威張っているというよりは、むしろ少し滑稽な感じで、中井は取り澄ましてそう結論づけた。

 どこか妙に微笑ましい口喧嘩であった。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.160)

 

こういうめっちゃめいわくな爺さんなので、次第に本多青年は中井英夫のことを「きちがいじいさん」と呼ぶようになります。あの、姿を見るには自分は値しない、とまで思いつめ、世界で一番尊敬していた中井英夫に対してです。しかしそこには、二人の間の何とも言えない関係性が出ているのです。

 

 本多正一中井英夫のことを語る時、しばしば中井を「きちがいじいさん」と呼んだ。実際、中井英夫は世間の道理の通らない人、自分の思い込みのままに言いたいことを言い、他人に要求する、世間の常識で言えばまさに「きちがいじいさん」だった。だが、本多の「きちがいじいさん」という言葉には、そうした反語でしか語れぬ愛情が籠っていた。「どうしようもないきちがいじいさんでしょ。でもねえ、僕は、中井を思う気持ちでは誰にも負けないつもりですよ」と彼は私に、そう率直に語った。そこに照れはなく、むしろ胸を張るような誇らしげな断言であった。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.168)

 

そして、中井英夫のほうも悪態をつきまくりながらも、本多青年に完全に何から何まで頼り切るようになります。

 

  「本多さん、来てませんね」と私が言うと、「正一の奴、何してやがんだ。悪いけど正一んとこ電話してすぐ来るように言ってくれませんか」と言う。電話はしたが留守のようだった。病院のベッドで退屈している中井の話し相手をしていると、通りがかった看護婦が「あら中井さん、本多さん来てくれたの。良かったわね」と笑いながら声を掛けてきた。あわてて私が見舞いの者だと説明すると、その看護婦は「先生は本多さんが来ないと、正一が来ない、正一が来ないって、とってもうるさいんですよ」笑いながら言った。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.165)

 

こうして不思議なめぐり合わせの結果、「ひどく現実ばなれした日々」「奇妙なワンダランド」と感じるような中井英夫との生活を、本多さんは送るようになりました。その時期は1989年から1993年まで。年齢で言えば中井英夫は66歳から亡くなる71歳までで、本多さんは24歳から28歳までの間です。

 

 書店の棚に中井英夫の本を見つけては、あの(原文傍点)中井英夫と一緒にいるんだなあ、と幾度嘆息を洩らしたことだろう。中井も「私自身、作家に会うたび、作品から受けるものとのあまりなイメージの違いにおどろくことが多かった」(「少年とカメレオンの話」)と記しているが、あるときふと「中井さんてホントはニセモノなんでしょ。ホンモノの中井英夫は本の中にいるんだよね」といったことがある。「バレてしまったか」と笑うばかりだったが、でもやはりあれが中井英夫だった。

 無茶苦茶なワガママじいさんだったし、仕事のことも酒のことも全然いうこと聞いてくれなかったし、病院に入ってからも「全部お前が悪い」としかいわなかったけれど、でもあれが中井英夫だった。中井英夫のどんな小説よりも、美しく、やさしい、忘れられない日々だった。(p.90)

 
第4回で取り上げた浜田到への押しの強い手紙なんかを思い出しますが、エネルギッシュで美意識がつよくて頭がよくて迷惑で、そしてひどく魅力的なひとだったのだろうな、とこの本を読んでいるとものすごく伝わってきます。

 

この本に収録されている新聞記事のインタビューで、本多さんは、中井英夫のことをこう語っています。

「難しい人で閉口したけれど、何かを書かなければいやされない渇きや生そのものへの悲鳴を、生涯保ち続けた人だった。作家の生のありようがその作品の文体になるのを見せつけられた気がする」(p.128)

 

また、田中幸一さんとの会話ではこんなことを言っています。

 

だが、こと中井英夫に対する思いでは、ほとんど完璧に一致したと言っても良いと思う。要するに「中井英夫はすごい作家だ。僕は(俺は)中井が大好きだ」ということに尽きたのである。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.166)

 

初めにも書きましたが、この本は本多さんの書いた中井英夫への追悼文だけではなく、本多さんが晩年の中井英夫を写した、たくさんの写真でも構成されています。

 

その写真には、見るからに気難しそうで、そしてアルコール中毒でやせ衰えて、自ら称した「黒鳥館主人」「流薔園園丁」という名の雰囲気は明らかになく、眼光のみが鋭い浮世離れした老人の姿が写っています。しかし時折みせる、おそらくは写真を撮っている本多正一に向けるとても優しいまなざしやそこに射している光に、胸を突かれる気持ちになります。

 

死の直前、本多さんと中井英夫は「死んだらどこに行くんだろう」という会話を交わします。それは、かつて最愛の人・田中貞夫とも交わした会話でもありました。

 

 93年11月下旬、病床の中井英夫に、

 「死んだらどこへ行くんだろう」

と尋ねられたことがある。「A公が教えてくれなくちゃ」というと、「教える」といって、少し、笑った。

 

 このことは中井英夫『月蝕領崩壊』の中の一節と重なって忘れることのできない会話となったのだが、翌年NHK・ETV特集「黒鳥館日記――作家・中井英夫の生と死」制作のため、徹夜で日記を繰っていたときに、91年のとある頁を見つけてからはなおさらのこととなった。

  11月8日(金) 雨

  死んだらどこへ行くんだろう、とB(堂園注:田中貞夫)はいった。教えてくれなくちゃ、教える、とBはいった。まだ教えてくれてない、どこへ行くとも本当は思ってない。チリアクタになると思っちょる、すべて――。

  11月9日(土) ハレ

  B、死んだらどこへ行くんだろう。A(堂園注:中井英夫)、教えてくれなくちゃ、B、教える、というのが最後の会話だった。Aはどこへも行きはしない、みんな喪われるだけだ、と思っていた。

  12月8日(日) 小雨 寒

  死んだらどこへ行くのか、Bのさいごの問いだった。教えてくれなくちゃ、教える、といった。

  「他人の心の中に」だ。

  この他人を、たとえばテレビなどでいつも「タニン」といい、「他人事」をタニンゴトなどと平気で発音するが、己(おれ)は「ヒト」としか読まない。それも平がなの「ひと」だ。死んだら「ひと」の心の中へ行く。

  やっと答が見つかった。(p.175)

 

中井英夫は、その晩年に「死んだら『ひと』の心の中へ行く」と日記に書きつけ、その2年後の1993年12月10日に71歳で亡くなりました。

 

もういちど、解説の田中幸一さんの言葉を引きます。

 

 中井英夫の最晩年は、彼の素晴らしい業績に比して、決して充分なものではなかった。最愛の人、B公こと田中貞夫を失って以来の自滅の結果だとはいえ、中井英夫ほどの人がこんなに貧しい生活を強いられねばならないのかと思うと、今更ながら現世(うつしよ)の冷厳さを感じずにはいられない。だが、それでも一面、中井英夫は確かに恵まれていたと私は思う。常識的に言えば、あんな身勝手な「きちがいじいさん」の面倒など、見る者が無くて当然だった。事実、実兄との付き合いはすでに途絶えて久しかった。それも中井が死を迎えるまで、少数ではあれ、彼を守り続けたひとが常に周囲に存在したという事実、そのことをもって中井が恵まれていたと言っても過言ではないと私は思う。身勝手な「きちがいじいさん」、アル中になり体を壊し、書けなくなって久しい小説家を、それでも心から献身的に支えた人がいたことをもって、中井が恵まれていたと表現しても良いだろうと私は思うのだ。たとえそれが中井英夫という浮き世ばなれした無垢な魂、それ故の寄る辺なき孤独な魂。……その魅力に起因することであったとしてもである。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.169,170)

 

中井英夫ほどの人がこんなに貧しい生活を強いられねばならないのか」「それでも心から献身的に支えた人がいたことをもって、中井が恵まれていたと表現しても良いだろうと私は思うのだ」……。

 

なんか今回ずっとウェットな感じで申し訳ないんですが、最後に本多さんの言葉を引用して今回のブログは終わりたいと思います。

 

  この地上で四年半という短い間でしたが、一緒に飯を喰い、ネコを抱き、テレビを見、シャンソンを聴き、お風呂に入れ、背中を掻き、おしっことウンチの世話をし、讃美歌を唄い、散歩をし、原稿を書けと怒鳴り、病院に連れてゆき、病院から逃げだされ、酒をかくし、かくされ、その全存在、持てるもの全てを賭けて罵倒しあってきた奇妙な老人、キチガイの酔っぱらいの英(ヒデ)ボコに、生涯最も豊かな時間を与えてくれてありがとう、と心からの感謝を伝えたいと思います。

 

 じゃあね、英ボコ、またね、おやすみポンポン。(p.22)

 

陳腐な言葉になってしまいますが、ここにあるのはやはり愛としか言いようがないと思うのです。この美しい本をぜひ探して読んでみてください。それでは。

 

 「本多君

早く可愛い猫ちゃんと

 お嫁さんが見つかりますよう

 

           へんな

            元小説家より

      

         中井英夫」(p.171)

 

 

第43回 大塚英志『キャラクター小説の作り方』

土岐 入門書

書かれなかった「キャラクター短歌論」のために 土岐友浩

キャラクター小説の作り方 (星海社新書)
 

 

 今、ぼくの手許には『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』という不思議な本があります。カバーはウサギ耳のロリータ少女が重そうなカバンを両手にぶら下げているイラストでちょっとアートっぽいのが気になりますがちゃんとエッチな感じがしてぼくは結構好きです。題名とカバーイラストをセットで見るとなるほど、これが手紙魔のまみという女の子で引っ越しの最中なのだな、と何となくわかります。

 さて、ではページをめくってみましょう。扉を過ぎた後の一行目を引用してみます。

 

  目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき

 

 さらに少し先のページの真ん中の辺りを引用してみましょう。

 

  『ウは宇宙船のウ』から静かに顔あげて、まみ、はらぺこあおむし

 

 と、こんな感じです。もう気がついたと思いますがこの本は実は短歌の本、歌集です。 大塚英志『キャラクター小説の作り方』)

 

キャラクターの話から始めよう。

 

手塚治虫の「まんが記号説」によれば「キャラクター」とは「記号」、つまり人物の顔立ちや髪型、表情などの「パターン」の組み合わせである。 *1

劇画など「記号」的ではないリアルな漫画もある、という反論があるかもしれないが、それは絵の「リアリティの度合いが高い」ということで、「リアリティの度合い」さえも作者が選択する「パターン」のひとつなのだと手塚は言う。

 

「記号」という作者と読者の共通認識を解体して、対象をありのままに見つめ直すというのがつまり、短歌のピーナツでも何度も出てきた「写生」なのだけれど、では、文学などの表現が「写生」それだけで成り立っているのかというと、決してそうではない。

話が少し脱線しましたが、ポイントは小説の中には極端に分ければ「写生文」的なリアリズムに基づくものと「記号」的なパターンの組み合わせに基づくものの二通りがある、ということです。けれども細かく検証すると「文学」の文章にもやはりパターンがあるし、一方、田島(昭宇)くんのまんがのように「記号」的でありながら一つ一つの記号は手塚治虫と比べれば「写生」的な例もあります。つまり実際問題としてぼくたちが目にする物語は「写生」的リアリズムと「記号」的組み合わせを相応の割合でミックスしたものです。実写の映画でも「マトリックス」などはアニメ的な「記号」の組み合わせが多く採用されています。逆に押井守のアニメなどは限りなく実写映画に近づこうとしているわけです。 (同「キャラクターとはパターンの組み合わせである」)

 

「写生」的リアリズムと「記号」的組み合わせのミックスというのは、短歌もその例外ではないはずだが、短歌で「記号」の方が問題にされ、論じられることは圧倒的に少ない。

 

僕がその数少ない例として思いつくのは、穂村弘の「モードの多様化について」という評論だ。 *2

 

穂村は、僕たちが現代短歌を読むとき、現実的な場面を思い浮かべるモードと、アニメ的な場面を思い浮かべるモードを無意識に使い分けているという。

そして塚本邦雄の「皇帝ペンギン」の一首にも「ぬいぐるみ的アニメ的、或いはマンガ的」な質感があるとして、それを良くも悪くも、「生の一回性」に支えられた近代短歌的なモードからの脱却と捉える。

我々は『生の一回性』の実感を手放すことで、何度でも再生可能なモノとしての言葉を手に入れたのである。

このようなモノ的アニメ的マンガ的なモードの発生には、おそらくは我々が生きている環境の変化が関わっているのだろう。具体的には、生活環境の都市化によって、対象との直接的な接触体験が減少したこと、一方で映像等のメディア環境の発達によってバーチャルな感覚が増大したことなどの影響が考えられる。 穂村弘「モードの多様化について」)

 

現代短歌が「モノ的アニメ的マンガ的」に読まれているという穂村の指摘は重要だけれど、先の説明を踏まえれば、モードの多様化というのはつまり、「写生」に「記号」がミックスされるようになった、という話なのだと考えられる。

穂村は現代の「バーチャルな感覚」を批評しているようで、近代短歌のモードを絶対化しすぎているというか、結局「アニメやゲームの影響で人の命が軽くなった」とかいうような意見と言っていることは何も変わらないのでは、という気がしなくもない。

 

そうではなくて、もっと積極的に「記号」による表現の意味を見直し、その可能性を考えようというのが、今回取り上げる『キャラクター小説の作り方』である。

 

 *

 

「キャラクター小説」というのは現在でいう「ライトノベル」のことだ。『キャラクター小説の作り方』が刊行された2003年の時点でその言葉は定着しておらず、本文でも「ジュニア小説」「スニーカー文庫のような小説」など文脈に応じて少しずつ違う言葉が使われている。

ここではライトノベルそのものを論じたいわけではないので、大塚にならって「キャラクター小説」で統一することにしよう。

 

本書は角川書店の「ザ・スニーカー」誌上で連載された、大塚英志による「キャラクター小説」創作のノウハウを講義形式でまとめたものである。

 

第1講「キャラクター小説とは何か」から始まって最終講「近代文学とはキャラクター小説であった」まで全12回。

僕は短歌を始めるよりも前、大学一回生の夏に読んだ。

 

大塚は講義を始めるにあたって、「キャラクター小説」の表紙に必ず「約束ごとのようにアニメやコミックのカバーが付いている」ことに注目する。

これは読者が、そのキャラクターが話したり動き回ったりするのを思い浮かべながら、その小説を読んでいるということで、大塚はそこに「文学」とも「エンターテイメント小説」とも決定的に異なる原理を見出す。

後者の小説がいずれもなんらかの「現実」を投影して書かれているのに対し、「キャラクター小説」では始めから「現実」ではなく、作者も読者も「記号」でできた、いわゆる二次元の世界の出来事として物語を受けとめているのだ。

 

第4講の冒頭で、大塚は穂村弘の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』を紹介する。

さて『手紙魔まみ……』が奇妙なのは俳句と短歌の違いはあれ(いや、本当はとてつもない「違い」があるのですが、ここでは論議を進める上で思い切ってそう記します)、小説から歌までぼくたちの書きことばが暗黙のうちに足場を置いている近代以降のリアリズムというルールから、意図的に逸脱しているからです。「言文一致」という点においては、この穂村弘さんの歌は「まみ」のような女の子が実際に居たらこんなふうにしゃべったり手紙を書いたりするんだろうな、と思わせるほどにリアルです。そして「まみ」がいるものとして考えれば穂村さんの歌は「まみ」の目に映った風景や彼女の感情を「写生」している、とも言えます。 (同「架空の『私』の作り方について」)

 

「写生」や「言文一致」というキーワードが、ばんばん出てくるのが面白い。

『手紙魔まみ』は、一見「まみ」のリアルな言葉で書かれているようだが、実際には穂村の作品である以上、近代的なリアリズムからは逸脱した歌集なのだと大塚は分析する。

けれども繰り返しますが、「まみ」は実在しません。彼女は穂村さんが作った架空の存在です。いない存在の「まみ」がリアリズムを暗黙の了解としているぼくたちの日本語を使って「歌」を作っているのが、この歌集が奇妙に感じられる理由です(同時に魅力でもあります)。

(中略)

ぼくが穂村さんのこの歌集を興味深く思い、敢えて本書で言及したのは、ここに書いたことをちゃんと不思議だと思ってほしいからです。つまり、この歌集はこの世に存在しないキャラクターが歌を詠んでいる、という歌集なのです。穂村さんは「まみ」のプロフィールを用意し、「まみ」への架空の手紙を書き、そしてタカノ綾さんのイラストが「まみ」のキャラクターに視覚的な輪郭を与えます。つまり、ここで採用されているのは、ぼくが本書で問題としてきた「キャラクター小説」と同じ技法なのです。その意味で穂村さんのこの歌集は「キャラクター短歌」の試みである、と言えます。 (同)

 

『手紙魔まみ』を「キャラクター短歌」であると大塚は位置づけた。

なるほど表紙に「まみ」というキャラクターをイメージさせるために「まみ」のイラストが大きく描かれており、挿絵もたくさんあって、そういう意味でこの歌集は「キャラクター小説」とそっくりだ。

「キャラクター」という言葉はそれ自体、なにか作品を軽んじるようにして使われることもあるけれど、大塚の考える「キャラクター短歌」という概念はとても刺激的で、『手紙魔まみ』以外にも、いろいろなことを考えてみたくなる。

 

ただし「まみ」が、大塚の言う意味での架空の存在なのかというのは、非常に重要な問題だ。これに関しては、後でもう一度言及することにしたい。

 

「モードの多様化について」では、僕たちが言葉を記号的に使うようになったのは戦後の環境の反映とされていたが、大塚は、近代以前の文芸では、むしろそれが一般的だったと述べる。

少し脱線しますが、そもそも近代以前の日本の小説は文章レベルでもパターンの組み合わせでした。つまり、こういう風景や状態を表現するには必ずこういう言い回しを持ってくる、とルールとして決まっていたのです。 (同)

 

その例として、大塚いわく「自然主義文学の成立に深く関わり、そのくせ、そのあとは生涯にわたって自然主義文学を批判し続けた天邪鬼な人物」である柳田國男の「頓阿の草庵集」という文章を引用し、こう要約する。

物凄く端折って要約すると、和歌というのも柳田が歌を学んでいた明治半ば頃までは「類題集」というデータベースというかお手本集の類からサンプリングして歌を作っていたので、恋愛体験のない深窓の令嬢でも、恋なんかしちゃいけないお坊さんでも、別の「私」になりすまして歌を詠えたんだと、ということです。このように「写生文」以前の文学は架空の「私」を作るジャンルとしてあったわけです。 (同)

 

大塚英志は漫画の原作者や評論家として知られているかもしれないが、大学では民俗学を志し、学問的系譜で言えば千葉徳爾に学んだ、柳田國男の弟子の弟子にあたる。

(大塚が書いた、折口信夫のもとにあやしい来客が次々に現れるオカルト小説『木島日記』はとても面白い。)

先にも触れたように説教節だけでなく、近代以前の「文芸」とはむしろこのような「決まり文句」の組み合わせでした。俳句に季語があるのも、短歌に枕詞があるのも「この時にはこういうことばで表現しなくてはいけない」という約束事にのっとって「創作」されるものがかつての「文芸」だったのです。

それが近代に入って日本語に「写生文」という考え方が入ってきて大きく変わったわけです。つまり目の前にあるものをあるがままに忠実にことばで「写生」していく、というのが新しい小説の形式となりました。すると別々の人物の類似した行動を同じ決まり文句で表現することは許されなくなりました。 (同)

 

控えめに言って、近代以降の短歌は「写生」を免罪符として「記号」についてあまりにイノセントで、無頓着であり続けてきた。

僕が思うに、問題は、その結果、記号化が無自覚に振りかざされているように見えることだ。記号化が差別と分かちがたく結びついていることは言うまでもない。

 

 *

 

本書は入門書、サブカルチャー民俗学の側からの文芸評論、大塚英志作品の舞台裏話など、いろいろな読み方ができるけれど、もっともスリリングなのは、最終講の「近代文学とはキャラクター小説であった」という章だと思う。

大塚は第1講で、近代の「写生」的リアリズムが「私」を生み出したのだと説く。

ところで、先に述べた自然主義文学はもう一つ、特徴的なものを作り出しました。それは「私」という存在です。つまり、自然主義の小説家たちは写生する対象を外の風景だけではなく自分の心の内側にも向けてしまったのです。日本のリアリズムはどちらかというと「現実」ではなく「私」という内面を「写生」する小説の方にずいぶん偏ってしまった、と考える人もいるくらいです。 (同「キャラクター小説とは何か」)

 

そして最終講で「私小説」の代名詞である田山花袋『蒲団』を手がかりに、「私」という存在の成り立ちを明らかにしていく。

多分、大抵の人がその作者名と題名だけは高校の現代文の授業あたりを通じて知っていて、確か別れた恋人の布団に主人公が顔を埋めるとかいうラストじゃなかったっけ、といった程度のイメージがあるものの、実際に読んだ方は少ないと思います。

(中略)

ぼくが花袋の『蒲団』を読み返したのはつい最近です。そして、ぼくはこの小説は文学史の教科書的な知識としてぼくの中にあった「私小説」の始まりとしての小説という印象とは決定的に異なる小説であることを知りました。確かに有名な布団に顔を埋めるあのシーンはありましたが、それはあってもなくてもいいような要素です。それよりも『蒲団』には「文学」の側が自らと「キャラクター小説」との間に空しい線引きをする小説であるように感じられました。 (同「近代文学とはキャラクター小説であった」)

 

明治30年代の当時、花袋は若い読者に「文学」を啓蒙する編集者兼作家だったが、『蒲団』の主人公である作家も同じように、芳子という「文学」を志す学生から多くの「熱心なる手紙」を受け取っていた。

『蒲団』という小説には芳子からの手紙がたびたび「引用」されているのだが、その「言文一致体」で書かれた手紙に頻出する「私」という主語に大塚は注目する。

先生、

私は決心致しました。昨日、上野図書館で女の見習生が入用だという広告がありましたから、応じてみようと思います。二人して一生懸命に働きましたら、まさかに餓えるようなことも御座いますまい。先生のお家にこうして居ますればこそ、先生にも奥様にも御心配を懸けて済まぬので御座います。どうか先生、私の決心をお許し下さい。 芳子

 

これは『蒲団』の後半で芳子が作家に送った手紙だ。

作家の説く新しい「文学」を生き方の指針として、芳子は作家のもとを離れ、恋人と暮らすことを決意し、その思いをしたためた。

しかしその芳子の「私」に反発し、否定したのが、他ならない作家自身だったという。

芳子にしてみれば、このように主人公の作家の語る「文学」を真に受けて、「昔の女のように依頼心を持たず」「新しい婦人として」「自ら考えて自ら行う」女子たれと師に説かれてから、「私」という主体を持って恋人と生きることを「決心」したのです。しかし、芳子が「私」として生きようとした途端、作家はいきなり前言を撤回します。「私」という「仮構」を芳子が現実に生きようとすることに狼狽えるのです。

(中略)

「文学」と「現実」は違うのだ、と主張しますが、それは彼が芳子を「文学」という虚構に閉じ込めておきたかったからです。ですから芳子が恋人と一線を越えたと知った途端に逆ギレして、彼女を父親とともに故郷に返してしまうという行動に出ます。 (『キャラクター小説の作り方』)

 

「文学」は芳子に「私」をもたらしたが、いざ「私」が「文学」の外に出ようとすると、「文学」は芳子から「私」を取り上げ、追いやってしまった。

 

『蒲団』が「私小説」だと言われるのは、作家が私生活をスキャンダラスに告白したからではない。

「私」の起源に「言文一致」という言葉の問題が深く関わっており、「私」は「文学」という権力によって与えられ、奪われもするものだということが、あからさまに示されているからなのだ。

芳子の「私」が西欧の「文学」や「言文一致」体が可能にした仮構の「私」だとすれば、そもそもそれを与えた作家の側の「私」もまた仮構ではないのでしょうか。

(中略)

けれども「文学」は「私」を女学生の芳子には許さず、自分たちの語る「私」のみが「私」なのだと主張しているように『蒲団』という小説は読めてしまいます。 (同)

 

「私」とは、近代の「言文一致」によって仮構されたキャラクターにすぎないと言い、それに気づかないことの危うさを大塚は様々な場面で繰り返し論じている。

その是非は読者に判断していただくとして、僕が本書を読んですごいと思うのは、「キャラクター小説」の考察が「写生」や「私」への批評にまで届いているということだ。

 

短歌では、フィクションを通して「現実」を描くという手法さえほとんど禁じ手のようになっているが、大塚は「キャラクター小説」という記号的な表現こそが「現実」を描けるのだと、講義の最後、読者に語りかける。

「仮構の私」をあることにして、西欧の概念が先行して入ってきた「仮想現実」をあるものとして描いたのが「文学」だったとすれば、「文学」と「キャラクター小説」は実は明治期に同時に成立していたことになります。というよりは本来、同じものだったのにそれは違うものとされ、芳子が描いた仮構の現実の中に仮構の私を描く小説は、少女小説やミステリーを経て、やがて、新井素子や「スニーカー文庫のような小説」として再び小説の歴史に現れたのです。

 そんなふうにして自分たちのジャンルの来歴を自覚し、その限界や困難さを知ることで、どんな小説も「文学」に多分、半歩、足を踏み出し得るとぼくは思います。

 ぼくが「キャラクター小説」が「キャラクター小説」の外側の「現実」を描くことの困難さについて本書で説明してきたのは、言うなれば『蒲団』のヒロインである芳子の「私」や「文学」が出会うことを禁じられた「現実」と、ぼくたちの「キャラクター小説」はいかにして出会うべきかを考えてみたかったからです。仮構しか描けない、と自覚することをもって、初めて描き得る「現実」があるのです。とうに「現実」と向かい合うことを止めた多くの文芸誌的「文学」の真似をする必要はまったくありません。

 キャラクター小説を志願するあなたたちは、しかし「文学」であることを恐れてはいけません。良質なキャラクターグッズとしての小説であることと「文学」であることを両立しても何ら構わないのです。それは作者としての製造者責任と社会的責任の両方に応えようとすることに他ならないのです。

 もう一度言います。

 キャラクター小説を志願するあなたたちは「文学」であることを恐れてはいけません。「キャラクター商品であること」のついでに「文学」であることを両立させてこそ「キャラクター小説」は「キャラクター小説」足り得るのです。

 

短歌のピーナツで本書を取り上げたのは、このメッセージがひたすら感動的なのと、それから大塚の読み解く『蒲団』という小説の構造が、『手紙魔まみ』とよく似ていると思ったからだ。

どちらも「手紙」がキーアイテムになっていること。

そして「手紙魔まみ」にはモデルとなる女性がいて、実際に穂村弘宛の手紙を書いて送っていたこと。これは穂村自身がインタヴュー等で明かしており、この手紙を自分だけが読むのはもったいないと思ったのが「まみ」というキャラクターを創造した理由のひとつだったという。

 

『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』という歌集をただの「キャラクター短歌」と読むか、それとも「仮構の私」をめぐる穂村弘と「まみ」の物語と読むか。

そこには現代短歌を考えるうえで、欠かせない問題が含まれているはずだ。

*1:『キャラクター小説の作り方』第3講「キャラクターとはパターンの組み合わせである」

*2:『短歌の友人』に収録

第42回 齋藤史『齋藤史歌文集』

エッセイ 永井

永井祐

こんにちは。

今日は齋藤史『齋藤史歌文集』をやってみます。

 

斎藤史歌文集 (講談社文芸文庫)

斎藤史歌文集 (講談社文芸文庫)

 

 

講談社文芸文庫なので入手はしやすいです。

本の前半三分の一くらいは齋藤史の短歌のアンソロジー、残り三分の二は随筆等の散文作品から選りすぐったもの、という構成になっています。

齋藤史は、わたしはいちおうちょっと読んではいたのですが、ずっとそれほど熱心な読者ではありませんでした。

でも、何年か前から昭和の初頭・戦前期の短歌が気になるようになりました。

『新風十人』というアンソロジーに代表されるのですが、この頃の歌集は名作が多いのです。

佐藤佐太郎『歩道』、前川佐美雄『植物祭』とか、わたしは好きなものが多い。

その流れで齋藤史『魚歌』を読み返してみると、この時代の歌の自由さとはかなさみたいなものがやっぱり通底しているように思えて、あらためて好きな歌集の一つになったのでした。

『魚歌』の頭からさっと引きます。

 

アクロバティクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き

 

飾られるシヨウ・ウインドウの花花はどうせ消えちやうパステルで描く

 

フランスの租界は庭もかいだんも窓も小部屋もあんずのさかり

 

夜毎(よるごと)に月きらびやかにありしかば唄をうたひてやがて忘れぬ

 

佐太郎、佐美雄、史ですでに、このへんの世代の人はすごいなと思うのですが、

新人だけでなく、

斎藤茂吉が後期の文体を確立してくるのも昭和9年の『白桃』くらいからだったり、

土屋文明が本格化してくるのもこのへんからだったり、

近代以来の短歌史の中でも、一つの作品的なピークがきているようにわたしは思えます。

この頃の歌集は一般的な評価も高いんですけど、

それはやっぱり迫ってくる戦争への緊張感が反映している、みたいに説明されることが多いですね。

それが妥当なのかはちょっとわかりかねるところもあるのですが、でもこの時代の短歌には独特のひりひり感があるように思います。それは明治大正の歌とは違う。それはたとえば『桐の花』と『魚歌』の違いであり、『赤光』と『歩道』の違いです。おおざっぱな話ではあるけれど、時代の空気の違いはなんとなくわたしでもわかる。

 

では、とりあえず読んでいきましょう。

齋藤史の文章は、なんだろう、きびきびしてて調子よく読めます。

それでなにより、話題が豊富です。

若い頃から色んな場所で暮らしてきて、戦前の銀座で遊んだ話もあれば、戦争時の疎開先で言葉がわからなくて苦労したという話も出てきます。

冒頭は「ちゃぼ交遊記」という、八十代のおばあさんになってからのエッセイです。

 

隣で住んでいる娘夫婦が、ちゃぼを二羽もらってきたところからはじまります。

 

もともと動物は大好きなのである。むかし父が軍人であったから、家には別棟に馬屋があり、馬がいた。兎も飼ったし、モルモットも飼った。居着いてしまった猫も飼ったことがあるし、犬はもちろん。

 

このように何かと経験値が高い。

 

しかし歳をとってからは、動物は飼うまいと決めていた。飼主が逝ってしまったあとの、生きものの哀れさも見て来たし、買い慣れたものに死なれたあとの悲しさもやりきれない。

 

なので色々思慮深い

 

生きものがくらしの中に加わるというのは、何となく心賑やかなもので、わたくしもペンを置いてはたびたび覗きにゆく。

 

しかしけっきょく、動物が来てうきうきしている。

そして、愛するものに死なれる悲しみをよく知っている齋藤さんが「ちゃぼ」にうきうきできるのは、次のような計算によるのでした。

 

しかし今度は娘達が飼うのだし、鶏ならば、猫や犬ほど人間と密接な関係にはならないだろう―とたかをくくったわけである。

 

わたしはこの一文が、ちょっとした「人の悪さ」を感じて好きでした。

鶏ならそこまで情が移らないし、自分は直接の飼主ではない。その二重のセーフティネットがあるなら、鶏と遊びまくっていざ死なれても、こちらの感情的リスクは最小限にとどめられる。

齋藤さんはそういう計算ができる人なのでした。

けれど、八十代のおばあさんならば、ふつうこのぐらいのことを心の中の言葉にして考えるのかな。おばあさん界の感情マネジメントの相場はわかりません。

 

「むかし―銀座」

 

 日比谷か有楽町で映画をみて、銀座でお茶を―というのが、いつものコースであった。日比谷映画劇場が開館をしたときは、真紅なじゅうたんを入口から敷き詰めて、たぶん映画館としては始めての豪華さ。それを踏むだけで、心はスクリーンに入ってゆくようであった。五十銭玉ひとつで、外国映画がたのしめた時代である。

 

行きつけの店の二階、窓側の席が運よくあいていれば、ことにごきげん。―眼の下の舗道をゆく人達を見おろしてのむお茶。

見られていることを知らない人々が、さまざまな服装で、さまざまな組合せで、通りすぎてゆく―かかわりのないことの気楽さ。もすこし人の悪い言い方をすれば、こちらが見られていないことの気楽さである。五階の十階のという距離ではこういかない。下をゆく人々との縁が切れすぎて、人間の匂いがしなくなる。

  

おみやげに買うのは、たいていコロンバンの木の葉型パイ。甘いケーキはそれはそれで悪くもないけれども、私達の仲間はパイ党が多かった。女の友達と二人、フランスの映画を見て(おおルイ・ジューヴェよ、アルレッティよ、モーリス・シヴァリエよ、フランソワーズ・ロゼエよ、ジャン・ギャバンよ)

 

なんか、たいそう楽しそうですよね。

もちろん、今の銀座に行っても映画みてお茶してパイを買って帰ることはできますが、齋藤さんと同じ経験はできないだろうなと思わされる。

ダンガールを満喫してたみたいな書きぶりですけど、ご自身はほんとにそんなにイケてたんですかね。おばあちゃん話盛ってるんじゃないかという気すらちょっとしてくるんですが。

かと思うと、空襲の恐ろしい話もでてきます。

 

―今日の空襲は、どの方面へ来るらしい―とだれとなく言うと、その通りにあたる。べつに予言をするわけではなく、まだ焼けていない場所を順にあげてゆくだけのことであった。

焼夷弾が夜空にばら撒かれ、落ちて来る間、距離を見定めている者にとって、じりじりするような時間がある。それが一度闇に沈んだのち、やがてその場所から、赤黒い火の手が逆に空に向いて吹き上がりはじめる。

 

 

これは東京での空襲の経験です。

ひどくなってきたので一家で長野県へと疎開します。新宿から中央線に乗って。

 

プラットホームに列を作って並んでいる間にも警報が出る。しかしその度に待避していては汽車に乗れないから、だれ一人動く者はいない。何時の汽車にのれるか、いつ目的地に着くかは向こうまかせ。子供たちの小さいリュックにも、それぞれいささかの食べ物、小さい水飲みコップ、手ぬぐい、ちりがみ、一本のろうそくとマッチと箸にスプーン。三角布の類。書けるものには全部住所氏名年齢。血液型まで彫りこんだ認識票は各人膚に着けている。

 

印象に残ったのは、八月十五日の話。

齋藤史は疎開先の長野の村で、いわゆる玉音放送を聞きます。

 

だれもひとことも言わなかった。激しい表情も見せなかった。半信半疑のところもあったが、大体に都会人のように軽率な反応は示さない。―わたくしにしても、かねてこのような時のことを考えたほどは悲しくなかった。しかし胸の底の方は冷えて重かった。おたがいの顔は見ないようにして、わたくしたちはまた畑へ戻ってゆき、ふだんと同じように働いた。

 

夕方、例のように道具を片付け、井戸端で足を洗い、部屋の一つだけの電灯の覆いをはずしてから点けた。

思いがけないところまで灯火の裾がひろがって、部屋の中のかげが減った。初めて出会った室内のように眺め回した。開いている戸口から伸びた光が土にとどいていて、そこの雑草に当たっている。草の色は昼間の直射日光の下の緑よりも黄色をおびて(当時はけい光灯ではない)若草のようにやわらかく、明暗を刻んで見えた。うつくしかった。

取りかかった食事の支度はいつもの通り乏しい。何からどのように変化してゆくのだろうか。今のところわたくしのしたことは電灯の覆いを取っただけである。この先はどうなってゆくことか―ます、黙って世の中の動きを見ていよう―。

 

 

引用の二つ目の文章のところだけ、ちょっと文体が違うというか、敗戦の日という大きなことと合わされると、描写がすごく暗示的に見えて、それが印象に残りました。

重たく受け止めているんだけど、一種の新生みたいなニュアンスが感じられる気がします。

 

齋藤史と同年生まれの佐藤佐太郎は、「昭和二十年八月十五日、家族とともに茨城県平潟町にあり」という詞書のついた「晩夏光」という一連の短歌を残しています。

そこから抜粋。

 

かすかなる民の一人とつつしみて御声のまへに涙しながる

 

おほみこと宣(のら)せたまへば額(ぬか)ふせるいのちの上にみこゑひびかふ

 

こゑひびく勅(みこと)のまにまうつしみの四肢ことごとく浄からんとす

 

まさに玉音放送を聞いている歌です。

で、こんなこと言える筋合いでもないのかもしれませんが、僕はこの歌に引いてしまうんですよね。とくに三首目の下句、「四肢ことごとく浄からんとす」。

佐藤佐太郎は好きだし、戦前の『歩道』が好きだし、シャープでクールだった佐太郎がまじか・・・という思いがちょっとしてしまう。

歌人たちが残した戦時詠、戦争協力歌と言われるものには、もう少し儀礼的なトーンもあるし、あまり生々しく引くことはないんですが、これは号泣しながらまじで言ってるなという感じがあって、ちょっと。

比べると齋藤史の散文のトーンは、共感とまではいかなくても、わからないとは感じない。まあ、こちらは戦後ずっと経ってから思い出して書いているものですからね。佐太郎のほうはリアルタイムでしょう。

それで、共感したり引いたりできるのは、やはり齋藤史とか佐藤佐太郎の『新風十人』ぐらいの世代の人というのは、北原白秋とか若山牧水とか明治大正に青春をすごした人たちとは明らかに違って、ずっとわたしたちに近いからなんでしょうね。当たり前といえば当たり前のことですが、あらためて思います。

 

巻末には「おやじとわたし―二・二六事件余談」という、昭和54年にNHKのラジオで語った談話が収録されています。

齋藤史の父親・齋藤瀏は軍人で、二・二六事件の裁判において「反乱を利す」とされ、禁錮五年となっています。

「おやじとわたし」はけっこう長く、そのときどきのディティールや気持ちなどが細かく話されています。

(直接関係ないですけど、人前で自分の父親の話をするとき、「おやじ」って言うんですね・・)

これはやり出すと長いので今回はここまでにしましょう。

 

この本は、とにかく色んな経験をしてきてウィットに富んだおばあさんの話集、という感じがしました。けっこう読みやすいです。

 

ではまた。