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短歌のピーナツ

堂園昌彦・永井祐・土岐友浩が歌書を読みます。

第46回 阿木津英『短歌のジェンダー』

寺井龍哉 ゲスト 評論

そして、なぜ、短歌なのか? 寺井龍哉

短歌のジェンダー

短歌のジェンダー

 

 

本郷短歌会の寺井龍哉です。
東京では寒い日が続いています。
少し歩くだけで寒さに身がちぢみ、喉がかわきますね。
外出先で喉がかわいて、でも喫茶店に入るような余裕はないとき、あなたならどうしますか?

 

自動販売機やコンビニを探して、とりあえず一番近いところにあるものを目指すでしょう。
遠くの方にコンビニの看板が見えるけれど、目の前に自動販売機がある。
この場合、ほとんど選択の余地はありません。
自動販売機が商品の詰め替え中でない限り、遠くのコンビニには行かないでしょう。
なぜ来てくれなかったんですか、とあとでコンビニの店主に聞かれても、自動販売機の方が近かったから、で十分な答えです。

 

では、いまあなたの机の上に置いてあるペン、これはどうでしょう。
なぜこのペンをお使いですか、と聞かれたら、どう答えますか。
奥村晃作さんなら、こう答えるでしょう。
「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」。
十分な答えです。
メーカーにこだわる方も多いと思います。
私も、消しゴムはAir-inと決めています。

 

でも、なかには明確な答えを出せない方もいるのではないでしょうか。
「何となく、前のが切れたときに買ったから」
「日光のお土産でもらって」
「落とし物を拝借してしまって」
何かのはずみで使いはじめてしまって、格別の不都合もないから、そのまま、ということでしょう。
奥村さんは他社のペンと比較したうえで他ならぬミツビシを選択されたのでしょう。
が、いま使っているペンと他のペンの書き味の違いを知っている人ばかりではないのです。

 

違う例を考えてみましょう。
このサイトをご覧になる方は、短歌を日頃から読んだり作ったりすることのある方が多いと思います。
そういう方々に聞いてみたいと思います。
なぜ短歌という形式をお使いなんですか?
やれやれ、またその質問か、というお気持ち、お察しします。

 

私も、短歌を作っていることを打ち明けると、よくこう聞かれました。
でもそれは、遠くのコンビニじゃなくて近くの自販機を使うようなものですよ。
机の上のペンをいきなり指されて、なぜこれをお使いで、と言われても困ります。
中学の授業で『万葉集』読むことがあって、茂吉の『万葉秀歌』という入門書のようなものを読んで、それから寺山修司俵万智を知って……、
と語ってはみるのです。
でも、どこかそらぞらしい。
私が他ならぬ短歌を作りはじめたきっかけは、もっと単純なものだったろうと思うのです。
つまり、ただ、面白そうだったから。
かっこよかったから。楽しそうだったから。
自分でも作れそうだ、と思ったから。

 

今回、私がとりあげるのは、阿木津英・編著『短歌のジェンダー』(本阿弥書店、2003年)です。
本書は二つの章から成っていて、第一章は「ナショナリズム・短歌・女性性」と題する二〇〇一年のシンポジウムの記録です。
第二章は阿木津さんと池田忍さんの対談「短歌と日本美術の交差地点」です。

 

第一章もさらに二部にわかれ、まず阿木津さん、千野香織さん、上野千鶴子さんの「提言」があります。
その後、さらに木下長宏さん、岡井隆さん、島田修三さんをくわえた六名のディスカッションの記録が収載されています。

 

第一章第一部で俎上にあがるのは、折口信夫の「女歌」についての議論です。
このブログでも折口さんの論・作にはくり返し言及がありましたね。
言わずと知れた文学史上、短歌史上の巨人です。
彼の「女歌」論は、当時の大結社「アララギ」の男性中心的な傾向に疑義を呈しました。
まず、阿木津さんのまとめを読んでみましょう。

 

まず、折口の女歌論が歌壇で大きな衝撃を与え、問題になったのは、戦後『短歌研究』に「女流の歌を閉塞したもの」という評論が出たときでした。これは、戦後に女性歌人の意識が盛り上がりまして、昭和二四年女人短歌会が結成され、翌年秋、女人短歌叢書として十数冊、続々と女性の歌集が刊行されるわけなんですが、その側面援護のようなかたちでなされた講演を、昭和二六年一月一月号の『短歌研究』に掲載したものです。
その中の、「女の方の歌は現実にかまけて、女性文学の特性をなくしてしまひ、本領を棄てたやうに見える」「アララギの第一のしくじり(﹅﹅﹅﹅)は女の歌を殺して了つた」「女歌の伝統を放逐してしまつたやうに見える」「ですから特殊な人でない限り、女性がアララギ風を賛美するといふのは、これだけは大きな間違ひでせう」というような発言が、反アララギ、反現実主義の主張として、その後の歌壇に大きな衝撃と影響を及ぼしていくわけです。
 ところが、じつは、アララギが女歌を振るわなくさせたというような意見は、戦前、昭和初期のころからの迢空=折口信夫の持論でした。敗戦直後、昭和二一年にも、『婦人文庫』にいち早く「女流短歌史」を連載していますが、そこでも述べられている意見で、このようなメッセージを受け取った女性歌人たちの何人かが、結果的には女人短歌会の中心になった。折口信夫は、女人短歌会を起こすに当たっての影の援助者でありました。(p.17~18)

 

斎藤茂吉や島木赤彦らが活躍していた「アララギ」は、大正の初年に「歌壇制覇」と称されるまでになり、その後は多少の曲折はありましたが、現実主義、写生を重視する考え方は非常に大きな影響力を持っていたようです。
そのアララギが、「女歌」を無視し抑圧してしまったというのが、折口の意見でした。
阿木津さんはこうも書いています。

 

 昭和八年、『短歌研究』では、当時指折りの有名な女性歌人、今井邦子、阿部静枝、岡本かの子、若山貴志子、杉浦翠子、そういった数人を一堂に集めまして、女性だけで座談会をやらせ、そのあと、折口信夫が短い談話をします。女性ばかりを集めて座談会をさせるという企画も、当時の短歌雑誌では、おそらく初めてのことではなかったかと思いますが、これは出版元の改造社社長山本実彦の関心が働いていたように思われます。折口信夫の女歌論を女性歌人にぶつけるとどうなるか、というような関心があったのではないかと思われますが、そこで折口は、万葉集などには男と違う女の歌というものをはっきりとたどることができる、それは古代の歌垣という生活文化の中から出てきたものだ、というようなことをあらまし論じます。そして、眼前の女性歌人たちに向かって、あなたたちが今、女の歌だと思っている子供に乳をやる歌とか、嫁入りの歌、子育ての歌、家事の歌なんていうのは、それはじつは男の歌なんですよ、そういった現実的な素材によるのではない、男とは違う女の歌といったものが歴史上にはあったのだから、男の歌に追従するばかりではなく、どううたったら女の歌になるのか、それをあなたがた、お考えなさい、といわば挑発したわけです。(p.19)

 

なるほど、こうした「女の歌だなあ」と思ってしまうような歌というのは、男の側から見た「女の歌」にすぎない、というのですね。
女であることを対象として要請するような視線から脱出せよ、という折口の考えのようです。
こうした折口の女歌論を、阿木津さんは「家族的国家観のもと、近代的家父長制下に押さえ込まれていた女性たちにとっては、大きな励ましでした」(p.26)と考え、ひとまず好意的に受けとめています。

 

〈人間〉とは近代の価値概念ですが、折口信夫は、男とは別の〈女の特質〉といったものを対置して考えていました。『青鞜』の新しい女たちは、女も人間だ、と声をあげたのですが、折口は、そんな西欧の女のプライドではなく、日本には昔から誇り高い女の伝統があるのだと、女性を励まします。(p.34)

 

青鞜』とは、平塚らいてう伊藤野枝が中心となって発行した月刊誌で、一九一〇年代に女性の権利拡張をひろく訴えました。
「原始、女性は太陽であった」という創刊号の文章が有名ですね。

 

一方で、社会学者の上野千鶴子さんは折口の女歌論に否定的です。
「提言」のなかで、次のように話しています。

 

男歌・女歌というとき、いつも典拠とされる折口信夫の「女流の歌を閉塞したものは何か」という問いは、じつに女にとって魅惑的な罠であり、男からの悪魔のささやきだったと思います。ここで何が女歌を定義するか、ということを考えて見ましょう。(p.65)

 

なぜなら、女歌を定義するのは、主題でも、情緒でも、文体でもなく、「作者の性別が女か男かは、とりあえずは関係がない」(p.66)から、と上野さんはつづけます。
たしかに女性歌人の歌がすべて「女歌」と言われるわけではなく、男性歌人が「女歌」をものすることもできそうです。

 

何が女歌を定義するのかの次に、誰が女歌を定義するのか、を考えて見ましょう。この中には、評価も入っています。これは女歌だ、これは女歌ではない、という判定の特権を行使しているのは、折口信夫本人にほかなりません。(中略)個々の作品について、これは女歌だ、これは女歌ではないと判定し、評価するのは、何を隠そう、折口のような評者であり、またさまざまな結社の領袖の方たち、主には男性の方たちでいらっしゃいます。そのときに、女性の歌人にはどのような生き延び方があるでしょうか。女には、女歌をうたってみせる、という生存戦略があります。「女歌」は「たをやめぶり」すなわち芸でありますから、いくらでも芸をやればよろしいんです。が、ひとりひとりの女には、女歌をうたって見せることもできれば、うたわない戦略をすることもできます。
女が女歌をうたって見せれば、よくやった、と力のある男から頭を撫でていただけることでしょう。そうすればひき立ててもらえ、活躍の場が広がり、知名度も上がるでしょう。他方で、女が女歌をうたわないという選択をすれば、男のようだといわれ、ペナルティを受けることすらあるでしょう。「女歌とは何か」を決めるのは男ですから、女が女歌からはみ出したときには、女はバッシングの対象になります。「女の(﹅)(つくる)歌」と「女歌」とは違います。(p.66-67)

 

折口信夫本人の意図はともかく、彼の女歌論が単に「励まし」であったのみではなく、「罠」でもあったという指摘はたしかなものでしょう。
折口信夫本人は、自分の歌について、「女歌」である、だの、そうでない、だのと言われることはありません。
彼の歌そのものは、「女歌」云々の議論に巻き込まれることはないのです。

 

彼の「女歌」についての議論の枠組は、そのような歌人の立場から設定されたものにすぎません。
だから、折口に唱導されている時点で、「女人短歌」などの試みも、結局は男の側から見られた「女歌」だ、ということになってしまうのですね。
ちなみに、「云々」は「うんぬん」と読みます。

 

 女歌をうたうという選択も、女歌をうたわないという選択も、女にとってはどちらも罠、というダブルバインドな状況が女を待ち受けています。あれかこれかの息苦しい選択肢の間で、そのどちらでもない隘路をたどるしかない、というところに追い詰められたのが、阿木津英さんという歌人でいらっしゃいます。(笑)(p.67―68)

 

上野さんはこのようにも言っています。
女歌か、そうでない歌か、という区分を意識してしまった以上、いや、その区分を知ってしまった以上、「ジェンダー二元制」からは逃れられない、ということでしょう。
阿木津さんの状況をそのように見たうえで、次の言葉は、かなり手きびしい。

 

私は外から、阿木津さんのご尽力や孤軍奮闘ぶりを、本当に尊敬して見ておりますけれど、このような奮闘をなさる方が―女歌をうたうことからも、うたわないことからも、そのいずれの罠からも逃れようともがいているこの自由を求める魂が―定型の世界にとどまりつづけている理由がわかりません。(p.70)

 

「隘路」にいながら、そしてそこを脱出したいと願うなら、なぜこの短歌という詩型を捨てて、離れてしまわないのか。
上野さんの問いはそのようなことでしょう。
短歌を作ったり読んだりしている身には、ずいぶんと残酷な問いに聞こえてしまいます。

 

短歌を作らなくなることを「歌のわかれ」と表現することがあります。
中野重治の小説の題名で知られています。
歌人でも、春日井建や寺山修司が、これを経験しました。
しかし、寺山も春日井ものちに歌をふたたび作るようになりました。
このことは、完全に「歌のわかれ」をすることの難しさを示しているようにも思えます。

 

さて、阿木津さんは、上野さんにどうこたえるのでしょうか。

 

戦後に生まれ育った私は、戦後的な価値観による戦後教育で教えられたわけで、もともと短歌なんか古臭い趣味、くらいの認識だったわけですね。それが、仕方なく短歌でもやってみるかと、やっているうちに、歌の言葉っていうものが私を遂行していくわけですよ。そして、歌というものを知ってしまうわけです。それは散文とも、詩の言葉とも違う、俳句の言葉とも違う――。
 いちばん顕著な例を申しますと、歌は、漢熟語を拒否するというか、歌の詩形が拒否するんですね。詩形が拒否するという感覚を身につけてしまう――そこが非常に面白い。そこに調べの問題、韻律の問題があるでしょうし、ナショナルなものの引きずり出され方、産出の仕方というものがあるでしょう。それを私がおこなってしまう。そして、そのことを決して後悔しない。まあ、喜びとするわけですよね。はじめて日本語というものの美しさが理解できたという気持ちになる。そして、現在世に行われている言葉というものがどうしても無意識のままでは受け入れられなくなる。小説の言葉も詩の言葉も吟味してしまう――、というような感覚が身についてしまう。
 ということは、私が、歌を言語行為として遂行、パフォーマティヴしていくうちに、そういう媒体、行為体(エージェンシー)になってしまったということなんですね。(p.88‐89)

 

この感覚、わかるような気がします。
短歌を推敲するとき、いくつも改変の例を出して検討してゆく。
助詞を「に」から「へ」に変えてみたり、下の句と上の句を入れ換えようとしてみたりしますね。

 

やがて、あ、これだ、これしかない、という気分になる。
このときの気分を「日本語というものの美しさが理解できたという気持ち」と言ってしまいたくなる、ということはよくわかります。
翌朝になってみると気の迷いに気づくこともありますが、いっときの陶酔感はたしかにある。

 

また、こうも書かれています。

 

ジェンダーの枠組は、ぜんぜん変わっていない。このことに、私は息苦しさを感じるわけなんです。そのジェンダーの枠組は何かというと、女らしさ・女性性を、〈男性〉の支配力に抗するに利用価値のあるものとして考えるまさに日本的な、このような形ですね。この形はぜんぜん変わっていない。(中略)
 「日本」という枠組と結びつきやすい短歌定型の美ということと、短歌の言葉、というか、短歌という形式の中で伝えられて来た言葉の使われ方というのは、区別すべきだというふうに思うんですね。折口信夫はしばしば短歌滅亡論を説いていて、新しい詩形へ移っていくことをつねに期待していました。私自身も、短歌形式というものに対しては、ほんとにぎこちないというか、居心地が悪いというか、自分との間にどこかで隙間があるような、そういう感じを感じ続けています。
 しかしながら、この短歌によって担われてきた私たちの言葉、その使い方あり方というのは、一人一人、自らの身を通して「遂行」すべきだと思うんですね。これ(私たちの行為としての言語遂行)がなくなっちゃったら、たんに日本語は道具にしか過ぎない、「メシ、フロ、ネル」くらいの意思疎通のためのたんなる道具にしか過ぎない。言語というものは、私たちの半ば肉に張り付いている仮面ですから、自己形成をそれでしていくわけですから。私は長い時間の中で、数え切れないほどの人々が「遂行」してきた言葉というものを、今、私たちも「遂行」すべきだと、すべきだというといけないかもしれないけど、していきたいなと。これまでも一方ならぬ力を傾けて「遂行」してきた人々の言葉の織物を読み解きたい、そこに参加したいと、いうふうに私は思うんですね。(p.97-98)

 

「遂行」という言葉がすこし独特の意味で用いられていますが、これは上野さんの「提言」の次の部分を受けています。
固有名詞がいくらか出てきますが、難しくありません。
島田修三さんは上野さんの発言を聞いて、「思想ってのは笑いながら理解できるんだというのは変な収穫で、ジュディス・バトラーが一瞬にしてわかってしまいました」(p.83)と言っています。
言葉が発されるとき、本人の意図や気持ちとは関係なく何らかの行為として、言葉を発すること自体が意味を持ってしまう、ということでしょう。

 

バトラーには、ジェンダーの「パフォーマティビティ」という概念がございます。たんにパフォーマンスといわずに、パフォーマティビティというのは、「行為遂行性」と訳すのですが、これはもともとオースティンという言語学者の言語行為論から来ております。言語というものは、行為の手段や道具ではなく、それが発されたときに、そのこと自体によって、すでに言語のなかでひとつの行為を行ってしまっている、という考え方です。言語は、それ自体が行為だっていうのが、言語行為論の核心ですが、言語行為のもっとも端的な例は、「君が代は千代に八千代に細石の・・・」という歌でございます。この「君が代」という歌に、私がもし唱和をいたしますと、この中でひとつの言語行為が行われることになります。そこでは第一に、「君」と呼ばれている存在、この国では天皇と申す方をさすようですが――「君」というのは、ボクたちやキミたち、つまり国民のことだと解釈する向きもあるようですが、たんに牽強付会というだけでしょう――その人に対する私の従属の表明と同時に、その歌をともに唱和する人々の集団、日本という国家および国民への同一化を、私は行うことになります。(p.54-55)

 

この発言をふまえて、阿木津さんは、「長い時間の中で、数え切れないほどの人々が「遂行」してきた言葉というものを、今、私たちも「遂行」すべきだと、すべきだというといけないかもしれないけど、していきたいなと。これまでも一方ならぬ力を傾けて「遂行」してきた人々の言葉の織物を読み解きたい、そこに参加したいと、いうふうに私は思う」と言っています。
お気持ちとしては、私も理解できるつもりです。

 

でも、上野さんは納得しません。

 

ただ、やはり、なぜ短歌なのか、という問いは残ります。短歌が延命してきたと言っても栄枯盛衰の波がある、少なくとも江戸時代はそうじゃなかった、近代初期もそうじゃなかった、戦時下がかなめじゃないかとか、いろいろなご発言がでました。先ほども申しましたように、短歌の延命というものは、自動的に起きるわけではなく、その時々の担い手の自発的な関与や努力、仕掛けがうまくいったり、外れたりしてようやくなしとげられるものですから、今もまた、それを担っていこうとしていらっしゃる方々がここにいらっしゃるわけです。
 そのなかで、たとえば戦時下の庶民の経験の集積が『昭和万葉集』のような形で整理されますと、痛ましさを覚えないわけにはいきません。ましてや『台湾万葉集』というようなものを見ますと、その痛ましさはもっと強くなります。庶民の経験が、国民的定型のなかに型式化されていくことを通じて、ベネディクト・アンダーソンの言う「想像の共同体」は生まれます。経験や感情をどのような形で様式化していくかという作法が、母語の中には埋め込まれています。それを生き続けさせよう、語彙や様式を更新しながら再生させようと思う人々がここにいらっしゃるのだと思いますが、その中で若い才能が育ってきているということも私は否定いたしません。しかしながら、私たちが注意して見なければいけないのは、短歌定型という言語的な遂行を通じて、この時代の文脈の中で何が成し遂げられようとしているのかという問いです。
 それは、私たちがこれまで背負ってきた歴史の重荷や桎梏を違う姿で再生産しようとしているのか、それとも古い様式を壊して超えようとしているのか、ということは、にわかには言えないと思います。私はその点では、やはり実作者の方の責任ということを考えます。阿木津さんはこの場で、短歌の世界に踏みとどまって言語遂行すべきだ、とまでおっしゃっていました。この方が、短歌という歌の様式にここまで殉じて運命をともにされようとする、短歌に責任を背負われる理由が、私にはよくわからないのですけれども、そのことの栄光と悲惨とを共に担われるであろう阿木津さんには、いずれ自分の作品で答を出していただけるであろうと期待しております。(p.125-127)

 

短歌は、ナショナリズムに結びつきやすいものであり、旧弊なジェンダー観に縛られやすいものであり、他者を傷つけ、抑圧しやすいものである。
そういうことを考えてから、私は短歌を作りはじめたでしょうか。

 

決してそんなことはないでしょう。
近くに自動販売機があったから、何となく使っているボールペン、たぶん、そんな気分ではじめました。
軽い気持ちではじめた、ということを、偽ることはできません。
短歌は、私にとってそういうものだったと思います。

 

軽い気持ちではじめて、いつのまにか本気になっている。
「まるで恋だね」とPerfumeがささやきます。
でも、そんな罠みたいなものだと、はじめる前に誰が予想できたでしょうか。
無視できない議論があり、無視することが罪になる議論がありうるのだと、身につまされる一冊でした。

 

ディスカッションでは劣勢に立たされているような岡井隆島田修三両氏の発言にも、もちろん傾聴すべき点が多くあります。
歴史的な動きと現場の実感をつなぐ思考という部分では、両名の発言に着実さを感じたのでした。
おふたりとも、サングラスをおかけになっているイメージがあります。
「色眼鏡」という言い方は、今でもするんでしょうか。

 

池田忍さんと阿木津さんの対談も、重要な論点を含んでいます。
詳細はぜひ、お手にとってお確かめください。

 

長くなってしまいました。
お読みいただき有難うございました。
寺井龍哉でした。

 

 

寺井龍哉(てらい・たつや)
1992年東京都生まれ。本郷短歌会所属。2013年短歌研究新人賞候補。2014年、評論「うたと震災と私」で現代短歌評論賞。2016年、月刊「短歌研究」にて「短歌時評」を担当(6月~8月)。剣道三段。@

第45回 穂村弘『短歌という爆弾』

宇都宮敦 評論 ゲスト

宇都宮敦

 

こんにちは、宇都宮敦です。ゲストです。とりあげるのは、穂村弘『短歌という爆弾』。いわゆる、ボムを投下、ってやつです(ちがう)。

 

『短歌という爆弾』は、小学館から2000年4月に刊行された穂村弘の商業出版デビュー作である短歌入門書です。2013年11月に小学館文庫で文庫化もされました。


 全体の構成は全5章(0〜3章+終章)+あとがきになっていて、各章には「爆弾」に見立てた章題がついています。「0.導火線」は、くすぶった初期衝動をかかえた人間を煽りまくる導入。「1.製造法」は、初心者の作品の批評・添削。「2.設置法」は、作品発表の場の紹介。「3.構造図」は、秀歌・名歌解説。「終章」は、まとめ、でいいのかな、0章に呼応した自身の短歌的出自を描いたエッセイ。「あとがき」は、あとがき。文庫版ではこれに、ロングインタビューと枡野浩一による解説がつきます。こうコンテンツを書き下すと、わりと穏当な入門書にみえますが、作歌法指南的な「1.製造法」の形式は、座談会とメールの往復書簡とちょっと変わったものになっています。しかも、このもっとも入門書っぽい章はメインコンテンツではなく、「3.構造図」の秀歌・名歌解説のほうにボリュームが割かれているという変さ。ついでに上の章題、もう一回見てみて下さい。「終章」、爆弾の見立てはどこにいったの(いや、いいけど、それだったら「0.導火線」じゃなくて「序章」じゃないの)? また、この「終章」、わりとあとがきっぽい感じなので、「終章」を読み終わった後に「あとがき」がはじまると、天丼感はんぱなかったりするんですよね。こんな感じで、実際読んでみると、入門書として、本として、だいぶ変わった物を読まされたなあという印象を受けると思います。

 

と、本書のアウトライン的なことを書いてきましたが、このブログを読むような人には、いまさら感漂うというか、紹介の必要がないくらい読まれている本かもしれません。とくに、「3.構造図」のいわば評論部は、単行本発刊直後からよく言及され、議論されてきました。ただ、今となっては、その言及や議論の印象に本書の本来の内容が覆われてしまっているのではないかという疑義もあったりします。というわけで、純粋な紹介というよりは、1回読んだことのある方々へ再読してみるのもいいっすよみたいな感じの文章を書きたいと思います。

 

『短歌という爆弾』「3.構造図」(以下、「3章」)は、全16節で構成されています。各節は、だいたい、名歌・秀歌があげられ、それらを名歌・秀歌たらしめている要素の抽出がキーワードの提示によってなされるという構造をもっています。既出のキーワードを受ける節もなくはないですが、原則的には各節は独立です。つまり、「3章」はほぼ各論で構成され、少なくとも目に見える形で総論は示されません。「3章」のキーワードは、そのキャッチーさゆえに数多く引用されてきました。しかし、引用される際、このような構造込みで引用されることはまれです。それらはあくまで各論のなかで名指されたものでしかなく、穂村弘の短歌観の「総論的まとめ」ではないことに注意を払うべきでしょう。とくに、最初の節「麦わら帽子のへこみ」で提示される「共感と驚異」は、砂時計のクビレの喩えとともに最も引用されたもののひとつですが、「3章」全体に戻してみると他のキーワードと較べかなり異質です。重要部を引用しながら論旨をまとめます。

 

まず、「共感と驚異」とはなんでしょうか(以下、引用末尾に記すページ番号は文庫版のものである)。

 

短歌が人を感動させるために必要な要素のうちで、大きなものが二つあると思う。それは共感と驚異である。共感とはシンパシーの感覚。「そういうことってある」「その気持ちわかる」と読者に思わせる力である。(「麦わら帽子のへこみ」p.140)
共感=シンパシーの感覚に対して、驚異=ワンダーの感覚とは、「いままでみたこともない」「なんて不思議なんだ」という驚きを読者に与えるものである。(同上p.142)

 

ここで共感と驚異と呼ばれているものが相反する価値として提示されていることがわかります。本節では、共感的秀歌の代表として俵万智石川啄木の歌があげられ、その共感がどこからくるのか分析がなされます。

 

砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね 俵 万智

 

例えばこの歌の場合、ポイントは「飛行機の折れた翼」にある。…(中略)…
 仮にこの歌のここの部分をブランクにして埋める問題を出したらどうだろう。…(中略)…多くの人は例えば「貝殻」などを選択するのではないか。

 

砂浜に二人で埋めた桜色のちいさな貝を忘れないでね 改作例

 

 体験に即しているという点では原作よりもむしろこの方が自然である。つまり多くの読者の体験と一致しているはずである。それにもかかわらず、感動の度合いでは明らかに原作のほうが強い力を持っている。「桜色のちいさな貝」では、心の深いところには刺さらないのである。読者の多くは、自分では「飛行機の折れた翼」を砂浜に埋めたことがないにもかかわらず、その思い出に対してより強い感情移入をすることができる。なぜだろう。
「翼」と「桜貝」の違いはそのまま、言葉が驚異の感覚を通過しているかどうかの違いである。おかしなたとえになるが、「桜貝」の歌がコップのように上から下までズンドウの円筒形をしているとすれば、原作の方は砂時計のようにクビレを持ったかたちをしている。この「クビレ」に当るのが「飛行機の折れた翼」の部分である。この歌を上から読んできた読者の意識はここに至って、「えっ? 飛行機の翼?」という、自分自身の体験とはかけ離れた一瞬の衝撃を通過することによって、より普遍的な共感の次元へ運ばれることになる。(同上pp.142-4)

 

長くなってしまいましたが、共感には相反するはずの驚異が必要であると砂時計の喩えを用いて説かれています。「驚異なくして共感なし」、「no 驚異, no 共感」、です。


 さらに本節では、「驚異志向」の例として啄木の歌集未収録作品や「驚異と共感の共振」した例として若山牧水の歌があげられます。しかし、このとき「砂時計のクビレ」ほどのキレのある説明はされていないため、驚異がより前景化したとき、共感との関係がどうなるのかいまいち不明瞭です。


 なぜそのようなことが起きているのか。端的に言って、本書は「驚異についての書」だからです(他の節で驚異という言葉は使われませんが)。そもそも本書のタイトルは『短歌という爆弾』です。共感と驚異、それぞれに同じ体重をかけようとする人間がつけるタイトルではないでしょう。冒頭のアウトライン紹介でちょっとちゃかし気味に書いた本としての体裁の不自然さ(もっと言えば不格好さ)は、驚異を引き込むためにとられたものだというのは言い過ぎかしら。ただ、「終章」についた副題は「世界を覆す呪文を求めて」で、いくらでも爆弾喩えできそうなのに敢えてしてない印象があるんですよね。ともかく、「共感と驚異」といわれるとそれらが並列の関係にあるようにみえる、もしくは、この節だけだと前景化している共感がより上の目的(共感を得るために驚異を使う)のように勘違いしてしまいますが、むしろ、穂村弘のなかでは圧倒的に驚異が上、共感ですら驚異の感覚がなくては成り立たないものとなっています。


 ただし、他節で扱われる驚異は、本節で「砂時計のクビレ」として扱われている驚異とは別物です。

 

その際一首のなかで「飛行機の折れた翼」はあくまでも共感へ向かうためのクビレとして機能しており、多くの俵作品同様に、ここに含まれる驚異の感覚は、それ自体の純度を追求されてはいないという点にも注意したい。(同上p.144)

 

「砂時計のクビレ」としてあらわれる驚異は、いわばスポイルされた驚異です。本来の驚異はクビレのみしかない砂時計=砂時計の比喩が通用しないようなものであり、なので、それぞれの驚異に対してつどつど対峙し、その痕跡がこの「3章」となったと言っていいでしょう。ただ、驚異のなかで示されるキーワードにも重みのちがいがあることが、筆ののりかた、テンションの違いでわかります。ずばり、もっとも価値のあるものとされるのが「愛の希求の絶対性」です。というか、明言もされていますね。

 

愛の希求の絶対性は、すべての表現を通じて最も大切な要素だと信じるが、
(「どんな雪でもあなたはこわい」p.247)

 

愛の希求の絶対性については、直接抜き書きしやすいところがないのですが、「キーワードは宙(そら)の知恵の輪、すなわち愛の希求の絶対性である。」とあって、「宙(そら)の知恵の輪」はこんな感じでまとめられています。

 

宙(そら)の知恵の輪は、現実の物語の顛末や、愛の成就をすら越えて、一首の中にあり続ける。その美しさはひとえに、知恵の輪の強度、つまりそれが永遠に解けないことに因っている。
(同上p.246)

 

また、『短歌という爆弾』刊行後の「早稲田短歌32号」(たぶん2001年)に穂村弘のがっつりとしたインタビューが載っていて、web版があるのでそれを貼っておきます。記名のないインタビュアー(ズ)は、たしか永井祐さんの代(原本もってないので、「たぶん」「たしか」ばっかりで申し訳ないですが)。

 

http://wasetan.fc2web.com/32/homura.html

 

結局、『短歌という爆弾』について語ること=「愛の希求の絶対性」について語ることになっています。それにしても、ジャンプ脳なので『スラムダンク』「vs陵南戦」の例え話がわかりやすすぎて困る。ここでの話や

 

愛の希求の絶対性は、恋愛というモチーフの限定性に直結するものではなく、その希求感覚は、次章で採り上げる葛原妙子などに典型的にみられるように、狭義の相聞の枠を越えて作品世界の全体を統べる力として強烈に作用する。
(同上p.249)

 

といったところを読むと、60年前の詩人のこんな言葉を思わずにはいられません。

 

そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在(ザイン)しないものへの憧憬である。

 

引用元は、萩原朔太郎『詩の原理』。青空文庫にもあります。

 

萩原朔太郎 詩の原理

 

永井さんが何回か前のここで取り上げていた吉本隆明は朔太郎のこの言葉に対して

 

朔太郎の原論で、「そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在しないものへの憧憬である」という個処は、あきらかにわたしの詩の動機と接触する。「現在しないものへの憧憬」を「現在しえないものへの憧憬」とでも言い直せば、一致するさえようにみえる。(吉本隆明「詩とはなにか」(思潮社詩の森文庫))

 

なんてことを言っています。ほかに、吉本には「世界を凍らせる言葉」っていう有名な言葉もありますね。

 

詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。(同上)

 

このあたりのある種の詩人たちの詩の定義との共鳴から、驚異とは「詩」の別名であり、「3章」は短歌における「詩」のありかについて延々と考えていると言ってもいいかもしれません。

 

 しかし、言葉というのは現在する世界に属するものです。言葉で「現在しえないもの」、「ほんとのこと」を目指せば、コミュニケーション的な「わかりやすさ」からは離れざるをえません。ただ、伝達をあきらめているわけではない。

 

ひとつの歌と出逢うことはひとつの魂との出逢いであり、言葉の生成も変化も、すべては魂の明滅、色や温度の変化に連動しているように感じる。魂を研ぎ澄ますための定まったシステムなどこの世になく、その継承は時空間を超えた飛び火のようなかたちでしかあり得ない。ひとりの夢や絶望は真空を伝わって万人の心に届く。(「しんしんとひとりひとりで歩く」p.280)

 

砂時計の寸胴部のような共感とは、別の共感が夢見られているのです。

 

 最初に各論が並んでいると書きましたが、その各論が「スポイルされた驚異によるスポイルされた共感」から「ほんとうの共感を夢見るほんとうの驚異」に到るように配されているというのが僕が読んだ「第3章」です。

 

「再読」を勧めると言っていたわりには、「ネタバレ」しすぎに見えるかもしれませんが問題ありません。読んでほしいのは要点ではないので。評論って、大きく2つに分けられると思うんですね。ひとつは結論が検証可能な(あるいは可能性を残す)もの。もうひとつは、短歌とは何か? みたいな大きな問題を扱っていて、検証不能なもの。地道に資料に当たることや取材が必要な前者のような評論がきちんと評価されるようになってきたというのが近年の流れで、それはすごくよいことだと思うのですが、後者は後者で大事だと思うんです。検証不能だからって放言でいいってわけじゃなくて、論理で届かないものだからこそ、最後の最後に飛ぶ手前までは論理でつめなくてはいけない。検証不能な大きな話の結論って、要約したら1桁種類くらい(もしかしたら2種類?)しかなくて、『短歌という爆弾』で言っていることも、朔太郎や吉本が既に言っていることとほぼ同じだというのは上でみたとおりです。でも、そのほぼ同じことにたどり着くまでにたどる論理はそれぞれに違い、読むべきはそこにあります。キーワードの創出という名付けによって追いつめていくのが穂村弘のスタイルで、同じ大きな問題を扱うでも、若手はもっとうだうだと書きながら考えるようなスタイルを好むのかなと思うのですが(僕もそういうのも好きだし、自分が書く物はそちらに近い)、穂村弘はたんにキーワードを振り回しているわけではないことが読めばわかると思います。『短歌という爆弾』は、その「ほとんど妄想に近い」考えをたんなるオカルトにしないために、一首一首に表出されているものを愚直に読んでいった軌跡が記録されていて、まだまだ読んでおもしろい、血液の温度があがる本だと思います。

 

 一応結論までいきましたが、ちょっと長めの余談。(前景化した)共感と驚異が横並びじゃなくて、上下(驚異が上、共感が下)の関係だと書いたけど、これは『短歌という爆弾』ではそうなっているというだけで(そうなっているというか、僕がそう読んだ)、逆の価値体系もぜんぜんあると思います。「愛の希求の絶対性」基準でみれば、「スポイルされた驚異によるスポイルされた共感」と「ほんとの共感を夢見るほんとの驚異」となるものも、現在する世界でなんとか他人に「詩」を届けることを考える人にとっては「まっとうな格闘」と「ひきょうな逃避」以外のなにものでもないでしょう。何年かに1回くらいある「わかる/わからない」問題って、この立場の違いってのが多分にあると思っています(さらに短歌に「詩」なんか必要ないって立場もある)。だから「わかる/わからない」問題って、根本的には「好き/嫌い」問題なのであって、好きじゃないけど評価するってことはできるはず。啄木や俵万智に対する『短歌という爆弾』での態度はこれで、そのような共感を自分が求めるわけではないが、求めるとしたら最上のものはこれって感じで挙げられているのだと思います。これが、挙げた上でディスだったら(まさに「スポイル」とかって言葉を使ってね)、最後のほうの「愛の希求の絶対性」とか「わがまま」が分かりやすくなるんだろうけどそうはしていない。

 

 余談の余談になりそうなので戻すと、好き嫌いとか短歌に対する態度で上下はいれかわることはあるだろうけど、どっちにしてもここでの共感と驚異は横の関係にはなりません。これは、共感と驚異がもつ本質的な問題なのでしょうか。僕はそうではなくてナナメなんじゃないかと思うんですね。つまり、比べている物が違うから上下になっているだけで、それぞれに対応して横にくるべき驚異、共感は別にあると考えられると。下の図のような感じ。

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まず、クビレがないと寸胴部が認識できないなら、クビレだって寸胴部がないと認識できないはずです。「驚異なくして共感なし」なら、「共感なくして驚異なし」って話。たとえば機知をみせたい歌なんかは、共通認識がなければそれが機知だとわからないはずです。また、本来、私のものではなく世界のものである言葉によって、わたし固有のひとつの「ほんとのこと」を希求するという不可能性とは別に、ある言葉がわたしとあなたで同じものを指しているか証明できない状況で、あなたの「ほんとのこと」に触れることを希求するという不可能性もありうるはずです。図にすると下のような感じ。

 

 

f:id:karonyomu:20170212015708j:plain

 

相対的/絶対的は、現実的/イデア的でも、スカラー的/ベクトル的でもいいかもですが。これだけだと態度の話で、その態度がどう表出されるかを述べるべきかもしれませんが、それは別の機会にゆずりましょう。ではでは。

 

 

宇都宮敦(うつのみや・あつし)
プロフィールはここを参照→ http://air.ap.teacup.com/utsuno/45.html

第44回 本多正一『プラネタリウムにて 中井英夫に』

堂園 その他

 最晩年の中井英夫とその助手について 堂園昌彦

プラネタリウムにて―中井英夫に

プラネタリウムにて―中井英夫に

 

 こんにちは、堂園です。

 

今回やるのは、2000年に葉文館出版から刊行されている、本多正一著『プラネタリウムにて 中井英夫に』です。

 

この本はどういう本かというと、稀代の作家・編集者であった中井英夫の晩年の日々を、最晩年の助手でありその死に立ち会った本多正一さんが、写真と文章でつづったものです。中身はいろんなところに発表した追悼文集みたいな感じです。本多正一さんは現在、中井英夫著作権管理者になっており、創元文庫版の中井英夫全集の編集者でもあります。

 

中井英夫は、戦後ミステリの金字塔『虚無への供物』を書いた幻想・推理作家。また、短歌でいえば、短歌雑誌の編集者として塚本邦雄寺山修司や春日井建や中城ふみ子らをプロデュースし、前衛短歌運動をけん引したことで有名です。このブログでも、第4回・浜田到のときに出てきましたよね。

 

まあググっていただければいいんですけど、中井英夫のことをご存じない読者の方に説明すると、知らないひとは全然知らないけれど、知ってるひとは、

 

中井英夫!!!!!

 

とかなるタイプの作家ですね、中井英夫は。

 

で、ご多分にもれず、私も高校生のころ『黒衣の短歌史』を読んで、なんだこれ短歌超おもしれえ!! と思い、続いて『虚無への供物』を読んで、なんだこれミステリ超おもしれえええ!!! と思いました。いやほんとどっちもまじで面白かった。しかし恥ずかしながら、その後中井英夫の他の著作へはそれほど深入りはしていないという、ものすごく浅薄な読者が私です。

 

だから、実は今回、この本を紹介するのがふさわしいのかどうか、正直ためらいがあります。浅薄な中井英夫読者である私には、その資格がないのではないかと思うからです。

 

ちょっと話が脇にそれますが、このブログの第36回で『塚本邦雄の青春』と映画「この世界の片隅に」を取り上げたときに、ありがたいことに様々な反響をいただけました。

 

 

 

なかでも歌人黒瀬珂瀾さんのこのツイートが私にはとても嬉しく、また深く感じ入るところがありました。でも同時に、私にはこの黒瀬さんと同じような気持ちになるのは難しいな、とも思いました。それはもちろん、生前の塚本さんとお会いしたことがないから当たり前なのですが、それ以上に、私は塚本邦雄という存在に対して、この黒瀬さんのツイートに込められているほどの深い精神的な親しみを、まだ抱けていないからです。

 

孤高の作家、特にその幻視の力によって非現実の王国を築いたような作家の、生前の姿や思い出を語る言葉や文章には、その「虚」と「実」の合間にあった「生身」にいくらかなりとも触れることができた者だけが持つ、独特の甘やかさのようなものがあります。

 

いや、もっと一般的に言ってしまえば、死者と立ち会えた人間だけが持つ侵しがたさ、のようなものがあり、それに私は圧倒されてしまうのかもしれません。

 

そして、今回紹介するこの『プラネタリウムにて 中井英夫に』という本は、その精髄のようなもののひとつになります。

 

 

著者の本多正一さんが、中井英夫の家で助手として働くきっかけとなったのは、1989年のことでした。

 

本多さんが中井英夫の名前を知ったのは、14歳のとき。『虚無への供物』を文庫本で読み、その世界に激しく魅了され、そのときはむしろ「自分にはこの作家に会う資格がない」とまで思いつめたようです。

 

それが大学卒業後の24歳のとき、本多さんは、エッセイから中井英夫が当時住んでいた東京都世田谷区の羽根木の家から引っ越すつもりである、ということを知ります。それで、引っ越しの前に敬愛する作家の家をひとめ見ておこう、できたら写真に収めようと中井英夫の家に向かい、門の前にたたずんだのでした。

 

 一瞬、目と目があった。ファンの子が来たな、とでも思ったのだろうか、縁側からサンダル履きでやってきて「もしよかったら上がりなさい」と声をかけてくださった、会う資格がない、とまで思いつめ尊敬していた作家が目の前にいた。動いていた(原文傍点)。(p.84)

 

なんと、家を見るだけだったはずの本多青年は、どうしたわけか中井英夫に家の中に招かれます。そして、中井英夫と直接話をする幸運に恵まれます。

 

居間に通され話をし、夕方になると「君、悪いんだけど台所にいってグラスと氷をもってきてくれない」とソファの下からウイスキーのボトルをごそごそと取り出した。写真を撮りに行ったはずだったが中井英夫にカメラを向けることなど思い及ばなかった。ひとりグラスを傾けながらふと気付いたように「君も飲む?」と言った。とんでもない、と首をふった。中井さんが六十六歳、健康と体調が急速に衰え始めたころだったのだろう、随分とお痩せになって家の中でも杖をついていらっしゃった。(p.84)

 

思いがけない幸運に恵まれた本多さんは、後日、お礼の手紙を出します。

 

 拝啓 急いで御礼の手紙を、と考えながらも筆不精のため遅くなりました。お許し下さい。六月二十五日日曜の午後に突然お邪魔をさせて頂いた者です。

 見ず知らずの者を歓迎して下さったこと、永年の愛読者として至上の喜びでありました。いずれ改めて御挨拶をさせて頂きたいと思っています。

 とりあえずの御礼まで。御健康をお祈りしております。

                         敬具

                        本多正一

 中井英夫様(p.81)

 

そして、ふたたびお礼を言いに行きます。そしたらなんと中井英夫から驚きの提案をされるのです。

 

この一枚の葉書を出してふたたびお目にかかったとき、「よかったら住み込みで助手になってくれない」と持ち掛けられた。……(p.84)

 

まさか憧れの作家の助手になるとは思ってもみなかった本多さん。すごい運命の転回です。しかし、彼を待っていたのは、なかなか大変な日々でした。

 

実は当時の中井英夫は、同棲までしていた最愛の人・田中貞夫に先立たれ、失意の中、アル中になっており、小説もまったく書けない状態でした。

 

この本の解説に、文筆家の田中幸一さんが初めて中井英夫邸を訪れたときの文章が載っています。

 

 小金井の家は広さこそ十分過ぎるものの、室内は雑然としており、はっきり言えば小汚いという印象だった。少なくとも「流薔園園丁」をかつて名乗った人の住む家だとは思えなかった。……また中井英夫その人も、衰えを知りつつ会いに行ったにもかかわらず、やはり痩せ衰えた見すぼらしい老人だった。べらんめえ調の話しぶりだけは妙に元気であった。初めて電話をもらった時、すでに中井は酔っていた。当時、中井はアル中であったから、それは不思議でもなんでもないのだけれど、その電話は、中井が酔っているという事実を差し引いても「かなりの変わり者だな、この人は」という印象を私に与えるに充分なものだった。私は実物を前にして、その感を更に強くしたのである。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.158)

 

あの、これ、けっこうまじでびっくりします。まさかあの中井英夫が、晩年たったひとりきりで、こんな生活をしていたのか、と。はっきり言ってしまえば、ものすごく貧乏なみすぼらしい生活です。しかも中井英夫は、この本からうかがえるに、生活能力もまったくなさそう。それで、身の回りの世話をしてもらおうと、たまたま自宅を訪れたファンである本多さんを、助手に誘ったのでしょう。中井英夫は基本、いつも酒ばっか飲んでる、気難しい爺さんです。

 

 ここでインタビュー(九〇年十二月)以降の私の生活の主な変化は、出歩かないせいか軀は十キロ痩せた代わりに、六月以降、酒をまったく口にしなくなった。それまでは夕方になるといそいそとウイスキーを取り出し、それも必ずボトル半分ほどあけてしまう。当然のようにひっくり返って頭を打ち、そこらじゅうを血だらけにしてベッドに辿りつくのが毎晩のことだった。(中井英夫「冷たい炎~近況報告~」『現代歌人文庫 中井英夫短歌論集』国文社)

 

自ら記しているところはこんな感じです。血だらけて。しかも、『プラネタリウムにて』から察するに、この記述の後も、実際には酒を止めた形跡はありません。こまったもんだ。

 

それでも本多さんは、中井英夫に酒を止めさせ、なんとか書けない小説を書かせようと奮闘します。

 

ここにある「インタビュー」は、歌人福島泰樹とのインタビューです。次のような会話がありました。

 

福島 それで、菱川さん(堂園注:菱川善夫)がお礼にって言って酒を送って来まして、この酒を一杯だけでも中井先生に飲んで頂こうと思って来たんです。(笑)

中井 (笑)ほかの人ならともかく、君に先生なんて呼ばれるとくすぐったくってね。まあ中井にしておいて下さい。あのねえ、あれが(助手の本多正一)うるせえの何のってね、というのはね、僕こっちに来てから酔っぱらっちゃ引っくり返って、玄関の土間に頭から落っこっちゃったりして。それで彼が許さんと。おとといひょっと見たら、酒瓶はもう全部隠しているんだけど、酒屋の電話番号まで消してあるんですよ。(笑)でも一杯だけ頂くぞや。(略)

中井 ああ、こりゃ旨いや。こりゃいいなあ。(笑)

福島 日本酒がお好きでしたよねえ。

中井 でもねえ、この頃駄目になっちゃってウイスキー、それも四分の一位が限度なのに、ついつい三分の一とか半分とか飲んじゃうんです。それだからもう。

福島 ボトルをですか。今でも。

中井 ええ。だから、この間も頭から凄く血を出してね。今でも瘡蓋が頭ん中にある。床屋にも行けない。この隅っこにね…

         〈絨毯の隅にある血痕を示して〉

福島 あら、凄いな、それは。大出血じゃないですか。
(「黒鳥の歌」『現代歌人文庫 中井英夫短歌論集』国文社)

 

血痕て。大出血て。こりゃ、本多青年、たいへんです。

 

印税収入もほとんどなく、また、原稿も書いていないので当然原稿収入もなく、たまにエッセイを書くくらい。注意しておきたいのは、本多さんは作家志望ではなく、中井英夫の弟子というわけではありません。もとは単なるいちファン。本多青年は、そこに実質無給(むしろ、中井英夫のために実家に借金したりしてます)で働いていました。

 

……そうした話からだっただろうか、本多の話題はやがて中井英夫の経済生活へと移っていった。

 「ああいう人でしょ、仕事もしてないのに生活できてるって思ってるんですよ。『働かなきゃ、お金入んないよ。お金が無きゃ御飯も食べられないでしょ』って言うんですけど、『それをどうにかするのがお前の役目だ』なんて言うんですから……」

 いかにも中井の言いそうなことであった。中井にとってそうしたことは理屈ではなく、そうしたものだ、ということなのだろう。中井の生活実感とはそういうものだったのである。

 「去年の中井の年間収入いったいいくらだと思います」と本多が問いかけてくる。私はかなり少ないだろうとは思っても、具体的な数字は失礼でとても口にはできない。さあ、とトボけてみせると、本多は私の予想よりも更に少ない驚くような金額を口にした。そして、今は羽根木の家を地上げで追い立てをくった、その保証金を食いつぶして生活している、しかしそれもそう長くは続けられないので早急に家賃の安い所へ引っ越さねばならないのだが、中井がマンションやアパートなんて人間の住む所じゃないと駄々をこねて困っている、この際、騙し討ちにしてでも引っ越さなきゃならないだろう。そう、ため息まじりに語った。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.161,162)

 

そんななので、本多さんと中井英夫は毎日喧嘩ばかりしています。

 

 「でも、びっくりしたでしょう、あの中井英夫がこんなじいさんだなんて」

 「とんでもない」と私が答えるところへ、中井が「お前はそんなことばっかり言っていつも俺をバカにする。飯の用意もろくにしていかないし、俺を飢え死にさせるつもりか」と文句を言いはじめる。すると助手は「だって、それは中井さんが……」云々と反論し、客を放っておいて軽い口喧嘩をはじめる。だが両者の話を聞き合わせると、どうも道理は助手の方にあって先生の方にはない。どう考えてみても先生は自分の都合ばかり主張しているだけなのだ。

 ……それにしても二人の口喧嘩は見事に対等の立場で行われていた。とても「先生と助手」の関係には見えない。どちらも本気で腹を立てている様子ではなく、お互い話の分からない奴を相手にしていると悟った上での口喧嘩という感じなのだ。

 「そんな勝手なことばかり言ってて、どうなっても知らないよ」と本多が言うと、「とにかくお前は俺の言う通りにしていれば良いのだ」

 ……威張っているというよりは、むしろ少し滑稽な感じで、中井は取り澄ましてそう結論づけた。

 どこか妙に微笑ましい口喧嘩であった。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.160)

 

こういうめっちゃめいわくな爺さんなので、次第に本多青年は中井英夫のことを「きちがいじいさん」と呼ぶようになります。あの、姿を見るには自分は値しない、とまで思いつめ、世界で一番尊敬していた中井英夫に対してです。しかしそこには、二人の間の何とも言えない関係性が出ているのです。

 

 本多正一中井英夫のことを語る時、しばしば中井を「きちがいじいさん」と呼んだ。実際、中井英夫は世間の道理の通らない人、自分の思い込みのままに言いたいことを言い、他人に要求する、世間の常識で言えばまさに「きちがいじいさん」だった。だが、本多の「きちがいじいさん」という言葉には、そうした反語でしか語れぬ愛情が籠っていた。「どうしようもないきちがいじいさんでしょ。でもねえ、僕は、中井を思う気持ちでは誰にも負けないつもりですよ」と彼は私に、そう率直に語った。そこに照れはなく、むしろ胸を張るような誇らしげな断言であった。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.168)

 

そして、中井英夫のほうも悪態をつきまくりながらも、本多青年に完全に何から何まで頼り切るようになります。

 

  「本多さん、来てませんね」と私が言うと、「正一の奴、何してやがんだ。悪いけど正一んとこ電話してすぐ来るように言ってくれませんか」と言う。電話はしたが留守のようだった。病院のベッドで退屈している中井の話し相手をしていると、通りがかった看護婦が「あら中井さん、本多さん来てくれたの。良かったわね」と笑いながら声を掛けてきた。あわてて私が見舞いの者だと説明すると、その看護婦は「先生は本多さんが来ないと、正一が来ない、正一が来ないって、とってもうるさいんですよ」笑いながら言った。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.165)

 

こうして不思議なめぐり合わせの結果、「ひどく現実ばなれした日々」「奇妙なワンダランド」と感じるような中井英夫との生活を、本多さんは送るようになりました。その時期は1989年から1993年まで。年齢で言えば中井英夫は66歳から亡くなる71歳までで、本多さんは24歳から28歳までの間です。

 

 書店の棚に中井英夫の本を見つけては、あの(原文傍点)中井英夫と一緒にいるんだなあ、と幾度嘆息を洩らしたことだろう。中井も「私自身、作家に会うたび、作品から受けるものとのあまりなイメージの違いにおどろくことが多かった」(「少年とカメレオンの話」)と記しているが、あるときふと「中井さんてホントはニセモノなんでしょ。ホンモノの中井英夫は本の中にいるんだよね」といったことがある。「バレてしまったか」と笑うばかりだったが、でもやはりあれが中井英夫だった。

 無茶苦茶なワガママじいさんだったし、仕事のことも酒のことも全然いうこと聞いてくれなかったし、病院に入ってからも「全部お前が悪い」としかいわなかったけれど、でもあれが中井英夫だった。中井英夫のどんな小説よりも、美しく、やさしい、忘れられない日々だった。(p.90)

 
第4回で取り上げた浜田到への押しの強い手紙なんかを思い出しますが、エネルギッシュで美意識がつよくて頭がよくて迷惑で、そしてひどく魅力的なひとだったのだろうな、とこの本を読んでいるとものすごく伝わってきます。

 

この本に収録されている新聞記事のインタビューで、本多さんは、中井英夫のことをこう語っています。

「難しい人で閉口したけれど、何かを書かなければいやされない渇きや生そのものへの悲鳴を、生涯保ち続けた人だった。作家の生のありようがその作品の文体になるのを見せつけられた気がする」(p.128)

 

また、田中幸一さんとの会話ではこんなことを言っています。

 

だが、こと中井英夫に対する思いでは、ほとんど完璧に一致したと言っても良いと思う。要するに「中井英夫はすごい作家だ。僕は(俺は)中井が大好きだ」ということに尽きたのである。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.166)

 

初めにも書きましたが、この本は本多さんの書いた中井英夫への追悼文だけではなく、本多さんが晩年の中井英夫を写した、たくさんの写真でも構成されています。

 

その写真には、見るからに気難しそうで、そしてアルコール中毒でやせ衰えて、自ら称した「黒鳥館主人」「流薔園園丁」という名の雰囲気は明らかになく、眼光のみが鋭い浮世離れした老人の姿が写っています。しかし時折みせる、おそらくは写真を撮っている本多正一に向けるとても優しいまなざしやそこに射している光に、胸を突かれる気持ちになります。

 

死の直前、本多さんと中井英夫は「死んだらどこに行くんだろう」という会話を交わします。それは、かつて最愛の人・田中貞夫とも交わした会話でもありました。

 

 93年11月下旬、病床の中井英夫に、

 「死んだらどこへ行くんだろう」

と尋ねられたことがある。「A公が教えてくれなくちゃ」というと、「教える」といって、少し、笑った。

 

 このことは中井英夫『月蝕領崩壊』の中の一節と重なって忘れることのできない会話となったのだが、翌年NHK・ETV特集「黒鳥館日記――作家・中井英夫の生と死」制作のため、徹夜で日記を繰っていたときに、91年のとある頁を見つけてからはなおさらのこととなった。

  11月8日(金) 雨

  死んだらどこへ行くんだろう、とB(堂園注:田中貞夫)はいった。教えてくれなくちゃ、教える、とBはいった。まだ教えてくれてない、どこへ行くとも本当は思ってない。チリアクタになると思っちょる、すべて――。

  11月9日(土) ハレ

  B、死んだらどこへ行くんだろう。A(堂園注:中井英夫)、教えてくれなくちゃ、B、教える、というのが最後の会話だった。Aはどこへも行きはしない、みんな喪われるだけだ、と思っていた。

  12月8日(日) 小雨 寒

  死んだらどこへ行くのか、Bのさいごの問いだった。教えてくれなくちゃ、教える、といった。

  「他人の心の中に」だ。

  この他人を、たとえばテレビなどでいつも「タニン」といい、「他人事」をタニンゴトなどと平気で発音するが、己(おれ)は「ヒト」としか読まない。それも平がなの「ひと」だ。死んだら「ひと」の心の中へ行く。

  やっと答が見つかった。(p.175)

 

中井英夫は、その晩年に「死んだら『ひと』の心の中へ行く」と日記に書きつけ、その2年後の1993年12月10日に71歳で亡くなりました。

 

もういちど、解説の田中幸一さんの言葉を引きます。

 

 中井英夫の最晩年は、彼の素晴らしい業績に比して、決して充分なものではなかった。最愛の人、B公こと田中貞夫を失って以来の自滅の結果だとはいえ、中井英夫ほどの人がこんなに貧しい生活を強いられねばならないのかと思うと、今更ながら現世(うつしよ)の冷厳さを感じずにはいられない。だが、それでも一面、中井英夫は確かに恵まれていたと私は思う。常識的に言えば、あんな身勝手な「きちがいじいさん」の面倒など、見る者が無くて当然だった。事実、実兄との付き合いはすでに途絶えて久しかった。それも中井が死を迎えるまで、少数ではあれ、彼を守り続けたひとが常に周囲に存在したという事実、そのことをもって中井が恵まれていたと言っても過言ではないと私は思う。身勝手な「きちがいじいさん」、アル中になり体を壊し、書けなくなって久しい小説家を、それでも心から献身的に支えた人がいたことをもって、中井が恵まれていたと表現しても良いだろうと私は思うのだ。たとえそれが中井英夫という浮き世ばなれした無垢な魂、それ故の寄る辺なき孤独な魂。……その魅力に起因することであったとしてもである。(田中幸一「中井英夫本多正一」『プラネタリウムにて 中井英夫に』p.169,170)

 

中井英夫ほどの人がこんなに貧しい生活を強いられねばならないのか」「それでも心から献身的に支えた人がいたことをもって、中井が恵まれていたと表現しても良いだろうと私は思うのだ」……。

 

なんか今回ずっとウェットな感じで申し訳ないんですが、最後に本多さんの言葉を引用して今回のブログは終わりたいと思います。

 

  この地上で四年半という短い間でしたが、一緒に飯を喰い、ネコを抱き、テレビを見、シャンソンを聴き、お風呂に入れ、背中を掻き、おしっことウンチの世話をし、讃美歌を唄い、散歩をし、原稿を書けと怒鳴り、病院に連れてゆき、病院から逃げだされ、酒をかくし、かくされ、その全存在、持てるもの全てを賭けて罵倒しあってきた奇妙な老人、キチガイの酔っぱらいの英(ヒデ)ボコに、生涯最も豊かな時間を与えてくれてありがとう、と心からの感謝を伝えたいと思います。

 

 じゃあね、英ボコ、またね、おやすみポンポン。(p.22)

 

陳腐な言葉になってしまいますが、ここにあるのはやはり愛としか言いようがないと思うのです。この美しい本をぜひ探して読んでみてください。それでは。

 

 「本多君

早く可愛い猫ちゃんと

 お嫁さんが見つかりますよう

 

           へんな

            元小説家より

      

         中井英夫」(p.171)

 

 

第43回 大塚英志『キャラクター小説の作り方』

土岐 入門書

書かれなかった「キャラクター短歌論」のために 土岐友浩

キャラクター小説の作り方 (星海社新書)
 

 

 今、ぼくの手許には『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』という不思議な本があります。カバーはウサギ耳のロリータ少女が重そうなカバンを両手にぶら下げているイラストでちょっとアートっぽいのが気になりますがちゃんとエッチな感じがしてぼくは結構好きです。題名とカバーイラストをセットで見るとなるほど、これが手紙魔のまみという女の子で引っ越しの最中なのだな、と何となくわかります。

 さて、ではページをめくってみましょう。扉を過ぎた後の一行目を引用してみます。

 

  目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき

 

 さらに少し先のページの真ん中の辺りを引用してみましょう。

 

  『ウは宇宙船のウ』から静かに顔あげて、まみ、はらぺこあおむし

 

 と、こんな感じです。もう気がついたと思いますがこの本は実は短歌の本、歌集です。 大塚英志『キャラクター小説の作り方』)

 

キャラクターの話から始めよう。

 

手塚治虫の「まんが記号説」によれば「キャラクター」とは「記号」、つまり人物の顔立ちや髪型、表情などの「パターン」の組み合わせである。 *1

劇画など「記号」的ではないリアルな漫画もある、という反論があるかもしれないが、それは絵の「リアリティの度合いが高い」ということで、「リアリティの度合い」さえも作者が選択する「パターン」のひとつなのだと手塚は言う。

 

「記号」という作者と読者の共通認識を解体して、対象をありのままに見つめ直すというのがつまり、短歌のピーナツでも何度も出てきた「写生」なのだけれど、では、文学などの表現が「写生」それだけで成り立っているのかというと、決してそうではない。

話が少し脱線しましたが、ポイントは小説の中には極端に分ければ「写生文」的なリアリズムに基づくものと「記号」的なパターンの組み合わせに基づくものの二通りがある、ということです。けれども細かく検証すると「文学」の文章にもやはりパターンがあるし、一方、田島(昭宇)くんのまんがのように「記号」的でありながら一つ一つの記号は手塚治虫と比べれば「写生」的な例もあります。つまり実際問題としてぼくたちが目にする物語は「写生」的リアリズムと「記号」的組み合わせを相応の割合でミックスしたものです。実写の映画でも「マトリックス」などはアニメ的な「記号」の組み合わせが多く採用されています。逆に押井守のアニメなどは限りなく実写映画に近づこうとしているわけです。 (同「キャラクターとはパターンの組み合わせである」)

 

「写生」的リアリズムと「記号」的組み合わせのミックスというのは、短歌もその例外ではないはずだが、短歌で「記号」の方が問題にされ、論じられることは圧倒的に少ない。

 

僕がその数少ない例として思いつくのは、穂村弘の「モードの多様化について」という評論だ。 *2

 

穂村は、僕たちが現代短歌を読むとき、現実的な場面を思い浮かべるモードと、アニメ的な場面を思い浮かべるモードを無意識に使い分けているという。

そして塚本邦雄の「皇帝ペンギン」の一首にも「ぬいぐるみ的アニメ的、或いはマンガ的」な質感があるとして、それを良くも悪くも、「生の一回性」に支えられた近代短歌的なモードからの脱却と捉える。

我々は『生の一回性』の実感を手放すことで、何度でも再生可能なモノとしての言葉を手に入れたのである。

このようなモノ的アニメ的マンガ的なモードの発生には、おそらくは我々が生きている環境の変化が関わっているのだろう。具体的には、生活環境の都市化によって、対象との直接的な接触体験が減少したこと、一方で映像等のメディア環境の発達によってバーチャルな感覚が増大したことなどの影響が考えられる。 穂村弘「モードの多様化について」)

 

現代短歌が「モノ的アニメ的マンガ的」に読まれているという穂村の指摘は重要だけれど、先の説明を踏まえれば、モードの多様化というのはつまり、「写生」に「記号」がミックスされるようになった、という話なのだと考えられる。

穂村は現代の「バーチャルな感覚」を批評しているようで、近代短歌のモードを絶対化しすぎているというか、結局「アニメやゲームの影響で人の命が軽くなった」とかいうような意見と言っていることは何も変わらないのでは、という気がしなくもない。

 

そうではなくて、もっと積極的に「記号」による表現の意味を見直し、その可能性を考えようというのが、今回取り上げる『キャラクター小説の作り方』である。

 

 *

 

「キャラクター小説」というのは現在でいう「ライトノベル」のことだ。『キャラクター小説の作り方』が刊行された2003年の時点でその言葉は定着しておらず、本文でも「ジュニア小説」「スニーカー文庫のような小説」など文脈に応じて少しずつ違う言葉が使われている。

ここではライトノベルそのものを論じたいわけではないので、大塚にならって「キャラクター小説」で統一することにしよう。

 

本書は角川書店の「ザ・スニーカー」誌上で連載された、大塚英志による「キャラクター小説」創作のノウハウを講義形式でまとめたものである。

 

第1講「キャラクター小説とは何か」から始まって最終講「近代文学とはキャラクター小説であった」まで全12回。

僕は短歌を始めるよりも前、大学一回生の夏に読んだ。

 

大塚は講義を始めるにあたって、「キャラクター小説」の表紙に必ず「約束ごとのようにアニメやコミックのカバーが付いている」ことに注目する。

これは読者が、そのキャラクターが話したり動き回ったりするのを思い浮かべながら、その小説を読んでいるということで、大塚はそこに「文学」とも「エンターテイメント小説」とも決定的に異なる原理を見出す。

後者の小説がいずれもなんらかの「現実」を投影して書かれているのに対し、「キャラクター小説」では始めから「現実」ではなく、作者も読者も「記号」でできた、いわゆる二次元の世界の出来事として物語を受けとめているのだ。

 

第4講の冒頭で、大塚は穂村弘の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』を紹介する。

さて『手紙魔まみ……』が奇妙なのは俳句と短歌の違いはあれ(いや、本当はとてつもない「違い」があるのですが、ここでは論議を進める上で思い切ってそう記します)、小説から歌までぼくたちの書きことばが暗黙のうちに足場を置いている近代以降のリアリズムというルールから、意図的に逸脱しているからです。「言文一致」という点においては、この穂村弘さんの歌は「まみ」のような女の子が実際に居たらこんなふうにしゃべったり手紙を書いたりするんだろうな、と思わせるほどにリアルです。そして「まみ」がいるものとして考えれば穂村さんの歌は「まみ」の目に映った風景や彼女の感情を「写生」している、とも言えます。 (同「架空の『私』の作り方について」)

 

「写生」や「言文一致」というキーワードが、ばんばん出てくるのが面白い。

『手紙魔まみ』は、一見「まみ」のリアルな言葉で書かれているようだが、実際には穂村の作品である以上、近代的なリアリズムからは逸脱した歌集なのだと大塚は分析する。

けれども繰り返しますが、「まみ」は実在しません。彼女は穂村さんが作った架空の存在です。いない存在の「まみ」がリアリズムを暗黙の了解としているぼくたちの日本語を使って「歌」を作っているのが、この歌集が奇妙に感じられる理由です(同時に魅力でもあります)。

(中略)

ぼくが穂村さんのこの歌集を興味深く思い、敢えて本書で言及したのは、ここに書いたことをちゃんと不思議だと思ってほしいからです。つまり、この歌集はこの世に存在しないキャラクターが歌を詠んでいる、という歌集なのです。穂村さんは「まみ」のプロフィールを用意し、「まみ」への架空の手紙を書き、そしてタカノ綾さんのイラストが「まみ」のキャラクターに視覚的な輪郭を与えます。つまり、ここで採用されているのは、ぼくが本書で問題としてきた「キャラクター小説」と同じ技法なのです。その意味で穂村さんのこの歌集は「キャラクター短歌」の試みである、と言えます。 (同)

 

『手紙魔まみ』を「キャラクター短歌」であると大塚は位置づけた。

なるほど表紙に「まみ」というキャラクターをイメージさせるために「まみ」のイラストが大きく描かれており、挿絵もたくさんあって、そういう意味でこの歌集は「キャラクター小説」とそっくりだ。

「キャラクター」という言葉はそれ自体、なにか作品を軽んじるようにして使われることもあるけれど、大塚の考える「キャラクター短歌」という概念はとても刺激的で、『手紙魔まみ』以外にも、いろいろなことを考えてみたくなる。

 

ただし「まみ」が、大塚の言う意味での架空の存在なのかというのは、非常に重要な問題だ。これに関しては、後でもう一度言及することにしたい。

 

「モードの多様化について」では、僕たちが言葉を記号的に使うようになったのは戦後の環境の反映とされていたが、大塚は、近代以前の文芸では、むしろそれが一般的だったと述べる。

少し脱線しますが、そもそも近代以前の日本の小説は文章レベルでもパターンの組み合わせでした。つまり、こういう風景や状態を表現するには必ずこういう言い回しを持ってくる、とルールとして決まっていたのです。 (同)

 

その例として、大塚いわく「自然主義文学の成立に深く関わり、そのくせ、そのあとは生涯にわたって自然主義文学を批判し続けた天邪鬼な人物」である柳田國男の「頓阿の草庵集」という文章を引用し、こう要約する。

物凄く端折って要約すると、和歌というのも柳田が歌を学んでいた明治半ば頃までは「類題集」というデータベースというかお手本集の類からサンプリングして歌を作っていたので、恋愛体験のない深窓の令嬢でも、恋なんかしちゃいけないお坊さんでも、別の「私」になりすまして歌を詠えたんだと、ということです。このように「写生文」以前の文学は架空の「私」を作るジャンルとしてあったわけです。 (同)

 

大塚英志は漫画の原作者や評論家として知られているかもしれないが、大学では民俗学を志し、学問的系譜で言えば千葉徳爾に学んだ、柳田國男の弟子の弟子にあたる。

(大塚が書いた、折口信夫のもとにあやしい来客が次々に現れるオカルト小説『木島日記』はとても面白い。)

先にも触れたように説教節だけでなく、近代以前の「文芸」とはむしろこのような「決まり文句」の組み合わせでした。俳句に季語があるのも、短歌に枕詞があるのも「この時にはこういうことばで表現しなくてはいけない」という約束事にのっとって「創作」されるものがかつての「文芸」だったのです。

それが近代に入って日本語に「写生文」という考え方が入ってきて大きく変わったわけです。つまり目の前にあるものをあるがままに忠実にことばで「写生」していく、というのが新しい小説の形式となりました。すると別々の人物の類似した行動を同じ決まり文句で表現することは許されなくなりました。 (同)

 

控えめに言って、近代以降の短歌は「写生」を免罪符として「記号」についてあまりにイノセントで、無頓着であり続けてきた。

僕が思うに、問題は、その結果、記号化が無自覚に振りかざされているように見えることだ。記号化が差別と分かちがたく結びついていることは言うまでもない。

 

 *

 

本書は入門書、サブカルチャー民俗学の側からの文芸評論、大塚英志作品の舞台裏話など、いろいろな読み方ができるけれど、もっともスリリングなのは、最終講の「近代文学とはキャラクター小説であった」という章だと思う。

大塚は第1講で、近代の「写生」的リアリズムが「私」を生み出したのだと説く。

ところで、先に述べた自然主義文学はもう一つ、特徴的なものを作り出しました。それは「私」という存在です。つまり、自然主義の小説家たちは写生する対象を外の風景だけではなく自分の心の内側にも向けてしまったのです。日本のリアリズムはどちらかというと「現実」ではなく「私」という内面を「写生」する小説の方にずいぶん偏ってしまった、と考える人もいるくらいです。 (同「キャラクター小説とは何か」)

 

そして最終講で「私小説」の代名詞である田山花袋『蒲団』を手がかりに、「私」という存在の成り立ちを明らかにしていく。

多分、大抵の人がその作者名と題名だけは高校の現代文の授業あたりを通じて知っていて、確か別れた恋人の布団に主人公が顔を埋めるとかいうラストじゃなかったっけ、といった程度のイメージがあるものの、実際に読んだ方は少ないと思います。

(中略)

ぼくが花袋の『蒲団』を読み返したのはつい最近です。そして、ぼくはこの小説は文学史の教科書的な知識としてぼくの中にあった「私小説」の始まりとしての小説という印象とは決定的に異なる小説であることを知りました。確かに有名な布団に顔を埋めるあのシーンはありましたが、それはあってもなくてもいいような要素です。それよりも『蒲団』には「文学」の側が自らと「キャラクター小説」との間に空しい線引きをする小説であるように感じられました。 (同「近代文学とはキャラクター小説であった」)

 

明治30年代の当時、花袋は若い読者に「文学」を啓蒙する編集者兼作家だったが、『蒲団』の主人公である作家も同じように、芳子という「文学」を志す学生から多くの「熱心なる手紙」を受け取っていた。

『蒲団』という小説には芳子からの手紙がたびたび「引用」されているのだが、その「言文一致体」で書かれた手紙に頻出する「私」という主語に大塚は注目する。

先生、

私は決心致しました。昨日、上野図書館で女の見習生が入用だという広告がありましたから、応じてみようと思います。二人して一生懸命に働きましたら、まさかに餓えるようなことも御座いますまい。先生のお家にこうして居ますればこそ、先生にも奥様にも御心配を懸けて済まぬので御座います。どうか先生、私の決心をお許し下さい。 芳子

 

これは『蒲団』の後半で芳子が作家に送った手紙だ。

作家の説く新しい「文学」を生き方の指針として、芳子は作家のもとを離れ、恋人と暮らすことを決意し、その思いをしたためた。

しかしその芳子の「私」に反発し、否定したのが、他ならない作家自身だったという。

芳子にしてみれば、このように主人公の作家の語る「文学」を真に受けて、「昔の女のように依頼心を持たず」「新しい婦人として」「自ら考えて自ら行う」女子たれと師に説かれてから、「私」という主体を持って恋人と生きることを「決心」したのです。しかし、芳子が「私」として生きようとした途端、作家はいきなり前言を撤回します。「私」という「仮構」を芳子が現実に生きようとすることに狼狽えるのです。

(中略)

「文学」と「現実」は違うのだ、と主張しますが、それは彼が芳子を「文学」という虚構に閉じ込めておきたかったからです。ですから芳子が恋人と一線を越えたと知った途端に逆ギレして、彼女を父親とともに故郷に返してしまうという行動に出ます。 (『キャラクター小説の作り方』)

 

「文学」は芳子に「私」をもたらしたが、いざ「私」が「文学」の外に出ようとすると、「文学」は芳子から「私」を取り上げ、追いやってしまった。

 

『蒲団』が「私小説」だと言われるのは、作家が私生活をスキャンダラスに告白したからではない。

「私」の起源に「言文一致」という言葉の問題が深く関わっており、「私」は「文学」という権力によって与えられ、奪われもするものだということが、あからさまに示されているからなのだ。

芳子の「私」が西欧の「文学」や「言文一致」体が可能にした仮構の「私」だとすれば、そもそもそれを与えた作家の側の「私」もまた仮構ではないのでしょうか。

(中略)

けれども「文学」は「私」を女学生の芳子には許さず、自分たちの語る「私」のみが「私」なのだと主張しているように『蒲団』という小説は読めてしまいます。 (同)

 

「私」とは、近代の「言文一致」によって仮構されたキャラクターにすぎないと言い、それに気づかないことの危うさを大塚は様々な場面で繰り返し論じている。

その是非は読者に判断していただくとして、僕が本書を読んですごいと思うのは、「キャラクター小説」の考察が「写生」や「私」への批評にまで届いているということだ。

 

短歌では、フィクションを通して「現実」を描くという手法さえほとんど禁じ手のようになっているが、大塚は「キャラクター小説」という記号的な表現こそが「現実」を描けるのだと、講義の最後、読者に語りかける。

「仮構の私」をあることにして、西欧の概念が先行して入ってきた「仮想現実」をあるものとして描いたのが「文学」だったとすれば、「文学」と「キャラクター小説」は実は明治期に同時に成立していたことになります。というよりは本来、同じものだったのにそれは違うものとされ、芳子が描いた仮構の現実の中に仮構の私を描く小説は、少女小説やミステリーを経て、やがて、新井素子や「スニーカー文庫のような小説」として再び小説の歴史に現れたのです。

 そんなふうにして自分たちのジャンルの来歴を自覚し、その限界や困難さを知ることで、どんな小説も「文学」に多分、半歩、足を踏み出し得るとぼくは思います。

 ぼくが「キャラクター小説」が「キャラクター小説」の外側の「現実」を描くことの困難さについて本書で説明してきたのは、言うなれば『蒲団』のヒロインである芳子の「私」や「文学」が出会うことを禁じられた「現実」と、ぼくたちの「キャラクター小説」はいかにして出会うべきかを考えてみたかったからです。仮構しか描けない、と自覚することをもって、初めて描き得る「現実」があるのです。とうに「現実」と向かい合うことを止めた多くの文芸誌的「文学」の真似をする必要はまったくありません。

 キャラクター小説を志願するあなたたちは、しかし「文学」であることを恐れてはいけません。良質なキャラクターグッズとしての小説であることと「文学」であることを両立しても何ら構わないのです。それは作者としての製造者責任と社会的責任の両方に応えようとすることに他ならないのです。

 もう一度言います。

 キャラクター小説を志願するあなたたちは「文学」であることを恐れてはいけません。「キャラクター商品であること」のついでに「文学」であることを両立させてこそ「キャラクター小説」は「キャラクター小説」足り得るのです。

 

短歌のピーナツで本書を取り上げたのは、このメッセージがひたすら感動的なのと、それから大塚の読み解く『蒲団』という小説の構造が、『手紙魔まみ』とよく似ていると思ったからだ。

どちらも「手紙」がキーアイテムになっていること。

そして「手紙魔まみ」にはモデルとなる女性がいて、実際に穂村弘宛の手紙を書いて送っていたこと。これは穂村自身がインタヴュー等で明かしており、この手紙を自分だけが読むのはもったいないと思ったのが「まみ」というキャラクターを創造した理由のひとつだったという。

 

『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』という歌集をただの「キャラクター短歌」と読むか、それとも「仮構の私」をめぐる穂村弘と「まみ」の物語と読むか。

そこには現代短歌を考えるうえで、欠かせない問題が含まれているはずだ。

*1:『キャラクター小説の作り方』第3講「キャラクターとはパターンの組み合わせである」

*2:『短歌の友人』に収録

第42回 齋藤史『齋藤史歌文集』

エッセイ 永井

永井祐

こんにちは。

今日は齋藤史『齋藤史歌文集』をやってみます。

 

斎藤史歌文集 (講談社文芸文庫)

斎藤史歌文集 (講談社文芸文庫)

 

 

講談社文芸文庫なので入手はしやすいです。

本の前半三分の一くらいは齋藤史の短歌のアンソロジー、残り三分の二は随筆等の散文作品から選りすぐったもの、という構成になっています。

齋藤史は、わたしはいちおうちょっと読んではいたのですが、ずっとそれほど熱心な読者ではありませんでした。

でも、何年か前から昭和の初頭・戦前期の短歌が気になるようになりました。

『新風十人』というアンソロジーに代表されるのですが、この頃の歌集は名作が多いのです。

佐藤佐太郎『歩道』、前川佐美雄『植物祭』とか、わたしは好きなものが多い。

その流れで齋藤史『魚歌』を読み返してみると、この時代の歌の自由さとはかなさみたいなものがやっぱり通底しているように思えて、あらためて好きな歌集の一つになったのでした。

『魚歌』の頭からさっと引きます。

 

アクロバティクの踊り子たちは水の中で白い蛭になる夢ばかり見き

 

飾られるシヨウ・ウインドウの花花はどうせ消えちやうパステルで描く

 

フランスの租界は庭もかいだんも窓も小部屋もあんずのさかり

 

夜毎(よるごと)に月きらびやかにありしかば唄をうたひてやがて忘れぬ

 

佐太郎、佐美雄、史ですでに、このへんの世代の人はすごいなと思うのですが、

新人だけでなく、

斎藤茂吉が後期の文体を確立してくるのも昭和9年の『白桃』くらいからだったり、

土屋文明が本格化してくるのもこのへんからだったり、

近代以来の短歌史の中でも、一つの作品的なピークがきているようにわたしは思えます。

この頃の歌集は一般的な評価も高いんですけど、

それはやっぱり迫ってくる戦争への緊張感が反映している、みたいに説明されることが多いですね。

それが妥当なのかはちょっとわかりかねるところもあるのですが、でもこの時代の短歌には独特のひりひり感があるように思います。それは明治大正の歌とは違う。それはたとえば『桐の花』と『魚歌』の違いであり、『赤光』と『歩道』の違いです。おおざっぱな話ではあるけれど、時代の空気の違いはなんとなくわたしでもわかる。

 

では、とりあえず読んでいきましょう。

齋藤史の文章は、なんだろう、きびきびしてて調子よく読めます。

それでなにより、話題が豊富です。

若い頃から色んな場所で暮らしてきて、戦前の銀座で遊んだ話もあれば、戦争時の疎開先で言葉がわからなくて苦労したという話も出てきます。

冒頭は「ちゃぼ交遊記」という、八十代のおばあさんになってからのエッセイです。

 

隣で住んでいる娘夫婦が、ちゃぼを二羽もらってきたところからはじまります。

 

もともと動物は大好きなのである。むかし父が軍人であったから、家には別棟に馬屋があり、馬がいた。兎も飼ったし、モルモットも飼った。居着いてしまった猫も飼ったことがあるし、犬はもちろん。

 

このように何かと経験値が高い。

 

しかし歳をとってからは、動物は飼うまいと決めていた。飼主が逝ってしまったあとの、生きものの哀れさも見て来たし、買い慣れたものに死なれたあとの悲しさもやりきれない。

 

なので色々思慮深い

 

生きものがくらしの中に加わるというのは、何となく心賑やかなもので、わたくしもペンを置いてはたびたび覗きにゆく。

 

しかしけっきょく、動物が来てうきうきしている。

そして、愛するものに死なれる悲しみをよく知っている齋藤さんが「ちゃぼ」にうきうきできるのは、次のような計算によるのでした。

 

しかし今度は娘達が飼うのだし、鶏ならば、猫や犬ほど人間と密接な関係にはならないだろう―とたかをくくったわけである。

 

わたしはこの一文が、ちょっとした「人の悪さ」を感じて好きでした。

鶏ならそこまで情が移らないし、自分は直接の飼主ではない。その二重のセーフティネットがあるなら、鶏と遊びまくっていざ死なれても、こちらの感情的リスクは最小限にとどめられる。

齋藤さんはそういう計算ができる人なのでした。

けれど、八十代のおばあさんならば、ふつうこのぐらいのことを心の中の言葉にして考えるのかな。おばあさん界の感情マネジメントの相場はわかりません。

 

「むかし―銀座」

 

 日比谷か有楽町で映画をみて、銀座でお茶を―というのが、いつものコースであった。日比谷映画劇場が開館をしたときは、真紅なじゅうたんを入口から敷き詰めて、たぶん映画館としては始めての豪華さ。それを踏むだけで、心はスクリーンに入ってゆくようであった。五十銭玉ひとつで、外国映画がたのしめた時代である。

 

行きつけの店の二階、窓側の席が運よくあいていれば、ことにごきげん。―眼の下の舗道をゆく人達を見おろしてのむお茶。

見られていることを知らない人々が、さまざまな服装で、さまざまな組合せで、通りすぎてゆく―かかわりのないことの気楽さ。もすこし人の悪い言い方をすれば、こちらが見られていないことの気楽さである。五階の十階のという距離ではこういかない。下をゆく人々との縁が切れすぎて、人間の匂いがしなくなる。

  

おみやげに買うのは、たいていコロンバンの木の葉型パイ。甘いケーキはそれはそれで悪くもないけれども、私達の仲間はパイ党が多かった。女の友達と二人、フランスの映画を見て(おおルイ・ジューヴェよ、アルレッティよ、モーリス・シヴァリエよ、フランソワーズ・ロゼエよ、ジャン・ギャバンよ)

 

なんか、たいそう楽しそうですよね。

もちろん、今の銀座に行っても映画みてお茶してパイを買って帰ることはできますが、齋藤さんと同じ経験はできないだろうなと思わされる。

ダンガールを満喫してたみたいな書きぶりですけど、ご自身はほんとにそんなにイケてたんですかね。おばあちゃん話盛ってるんじゃないかという気すらちょっとしてくるんですが。

かと思うと、空襲の恐ろしい話もでてきます。

 

―今日の空襲は、どの方面へ来るらしい―とだれとなく言うと、その通りにあたる。べつに予言をするわけではなく、まだ焼けていない場所を順にあげてゆくだけのことであった。

焼夷弾が夜空にばら撒かれ、落ちて来る間、距離を見定めている者にとって、じりじりするような時間がある。それが一度闇に沈んだのち、やがてその場所から、赤黒い火の手が逆に空に向いて吹き上がりはじめる。

 

 

これは東京での空襲の経験です。

ひどくなってきたので一家で長野県へと疎開します。新宿から中央線に乗って。

 

プラットホームに列を作って並んでいる間にも警報が出る。しかしその度に待避していては汽車に乗れないから、だれ一人動く者はいない。何時の汽車にのれるか、いつ目的地に着くかは向こうまかせ。子供たちの小さいリュックにも、それぞれいささかの食べ物、小さい水飲みコップ、手ぬぐい、ちりがみ、一本のろうそくとマッチと箸にスプーン。三角布の類。書けるものには全部住所氏名年齢。血液型まで彫りこんだ認識票は各人膚に着けている。

 

印象に残ったのは、八月十五日の話。

齋藤史は疎開先の長野の村で、いわゆる玉音放送を聞きます。

 

だれもひとことも言わなかった。激しい表情も見せなかった。半信半疑のところもあったが、大体に都会人のように軽率な反応は示さない。―わたくしにしても、かねてこのような時のことを考えたほどは悲しくなかった。しかし胸の底の方は冷えて重かった。おたがいの顔は見ないようにして、わたくしたちはまた畑へ戻ってゆき、ふだんと同じように働いた。

 

夕方、例のように道具を片付け、井戸端で足を洗い、部屋の一つだけの電灯の覆いをはずしてから点けた。

思いがけないところまで灯火の裾がひろがって、部屋の中のかげが減った。初めて出会った室内のように眺め回した。開いている戸口から伸びた光が土にとどいていて、そこの雑草に当たっている。草の色は昼間の直射日光の下の緑よりも黄色をおびて(当時はけい光灯ではない)若草のようにやわらかく、明暗を刻んで見えた。うつくしかった。

取りかかった食事の支度はいつもの通り乏しい。何からどのように変化してゆくのだろうか。今のところわたくしのしたことは電灯の覆いを取っただけである。この先はどうなってゆくことか―ます、黙って世の中の動きを見ていよう―。

 

 

引用の二つ目の文章のところだけ、ちょっと文体が違うというか、敗戦の日という大きなことと合わされると、描写がすごく暗示的に見えて、それが印象に残りました。

重たく受け止めているんだけど、一種の新生みたいなニュアンスが感じられる気がします。

 

齋藤史と同年生まれの佐藤佐太郎は、「昭和二十年八月十五日、家族とともに茨城県平潟町にあり」という詞書のついた「晩夏光」という一連の短歌を残しています。

そこから抜粋。

 

かすかなる民の一人とつつしみて御声のまへに涙しながる

 

おほみこと宣(のら)せたまへば額(ぬか)ふせるいのちの上にみこゑひびかふ

 

こゑひびく勅(みこと)のまにまうつしみの四肢ことごとく浄からんとす

 

まさに玉音放送を聞いている歌です。

で、こんなこと言える筋合いでもないのかもしれませんが、僕はこの歌に引いてしまうんですよね。とくに三首目の下句、「四肢ことごとく浄からんとす」。

佐藤佐太郎は好きだし、戦前の『歩道』が好きだし、シャープでクールだった佐太郎がまじか・・・という思いがちょっとしてしまう。

歌人たちが残した戦時詠、戦争協力歌と言われるものには、もう少し儀礼的なトーンもあるし、あまり生々しく引くことはないんですが、これは号泣しながらまじで言ってるなという感じがあって、ちょっと。

比べると齋藤史の散文のトーンは、共感とまではいかなくても、わからないとは感じない。まあ、こちらは戦後ずっと経ってから思い出して書いているものですからね。佐太郎のほうはリアルタイムでしょう。

それで、共感したり引いたりできるのは、やはり齋藤史とか佐藤佐太郎の『新風十人』ぐらいの世代の人というのは、北原白秋とか若山牧水とか明治大正に青春をすごした人たちとは明らかに違って、ずっとわたしたちに近いからなんでしょうね。当たり前といえば当たり前のことですが、あらためて思います。

 

巻末には「おやじとわたし―二・二六事件余談」という、昭和54年にNHKのラジオで語った談話が収録されています。

齋藤史の父親・齋藤瀏は軍人で、二・二六事件の裁判において「反乱を利す」とされ、禁錮五年となっています。

「おやじとわたし」はけっこう長く、そのときどきのディティールや気持ちなどが細かく話されています。

(直接関係ないですけど、人前で自分の父親の話をするとき、「おやじ」って言うんですね・・)

これはやり出すと長いので今回はここまでにしましょう。

 

この本は、とにかく色んな経験をしてきてウィットに富んだおばあさんの話集、という感じがしました。けっこう読みやすいです。

 

ではまた。

第41回 藤沢周平『白き瓶 小説長塚節』

堂園 小説

長塚節と初期アララギの混沌  堂園昌彦 

 

白き瓶―小説長塚節 (文春文庫)

白き瓶―小説長塚節 (文春文庫)

 

 こんにちは。

 

今回紹介するのは、藤沢周平が1985年に文芸春秋から刊行した『白き瓶』です。1988年に文庫化されており、上のアマゾンリンクにあるのは、2010年に出た新装版です。

 

この本は、時代小説家・藤沢周平が、子規の直接の弟子である長塚節の生涯を小説化したものです。

 

私は長塚節の歌が昔から好きで、以前やってたブログに取り上げたこともあります。

 

長塚節の歌を読む: 短歌行

 

なんでしょうね。子規の弟子の中でも変わってるというか。根岸短歌会からアララギに至る流れには、なんか歌も人間も濃い人が多いんですが、長塚節はその中で非常に爽やかかつ滋味深い歌を詠んでいます。一服の清涼な水、といった感じがあって私はとても好きです。

 

有名な歌はこんな感じ。

 

馬追虫(うまおい)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし

白埴(しらはに)の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり

垂乳根(たらちね)の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども

 

青空文庫にもあります。

 

青空文庫 長塚節歌集 上

青空文庫 長塚節歌集 中

青空文庫 長塚節歌集 下

 

そんな長塚節ですが、まさか藤沢周平が小説化しているとは思いもよりませんでした。なぜなら、歌人を小説化するときは、もうちょっと派手な人が選ばれる傾向にあります。与謝野晶子とか、中城ふみ子とか、岡本かの子とか、川田順とか、明石海人とか。情熱・恋愛・不倫・病気・夭折、などがキーワードですね。

 

実際には長塚節も37歳で結核で亡くなっているのですが、それでもやっぱりこれらの歌人たちに比べれば、長塚節は歌も人格も地味というか落ち着いた印象があります。

 

藤沢周平といえば、池波正太郎と並ぶ超メジャーな時代・歴史小説家です。映画にもなった『蝉しぐれ』とか『たそがれ清兵衛』とか『隠し剣 鬼の爪』とかが有名ですね。私はあんまり時代小説読んだことないので、それほどよくは知らないのですが。

 

この流れだと、藤沢周平がなんで長塚節のことを書いたのか誰でも気になると思うんですが、ご本人はこう語っています。

 

 発端は、平輪光三著『長塚節・生活と作品』という本だった。昭和十八年一月に、東京・神田の六芸社から発行された初版四千部のこの本の一冊が、そのころ山形県鶴岡市の郊外にある農村に住む私の手に入ったのである。それは本が出たその年か翌年の十九年のことで、私は十六か十七だったことになる。

 その年齢の私をその本にひきつけたものが何だったかは、いま正確には思い出すことが出来ないのだが、ひとつはやはり、中に引用されている「初秋の歌」、「乗鞍岳を憶ふ」などの短歌作品だったろう。それはいかにも文学好きの農村青年だった私に訴えかけるリリシズムと、理解しやすい親近感をそなえた歌だったのである。(中略)

 ともかくそんなことから、その一冊の本は私の愛読書となり、その後私の長い療養生活とか、生家の破産とかがあって、若いころの私の蔵書があらかた四散してしまった中で、不思議にいまも手もとに残る一冊となったのである。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

「初秋の歌」はこんな歌。さっき引用した「馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし」もこの連作中の一首です。

 

目にも見えずわたらふ秋は栗の木のなりたる毬(いが)のつばらつばらに

芋の葉にこぼるゝ玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ

 

 「乗鞍岳を憶ふ」はこんな歌です。

 

鵙のこゑ透りてひびく秋の空にとがりて白き乗鞍を見し

乗鞍は一目我が見て一つのみ目にある姿我が目に我れ見つ

 

いずれも、自然観察と繊細な内面が響いています。そこらへんが、「文学好きの農村青年」の藤沢周平のこころにビビッと来たのかもしれません。長塚節は、茨城県の豪農の出身で、繊細な自然観察が魅力のひとつです。そこらへんが藤沢周平にはグッときた、と。

 

 もっとも私は、最初から熱狂的に長塚節が好きになったというわけではなかった。平輪さんのその本にしても、しじゅうそばに置いて眺めていたというものではなく、時には何年に一度か、ふと思い出して本棚の隅からさがし出して読む、そういう本でしかなかった。だがそんな読み方を通して、節はやがて私の内部でいかにもなつかしい歌人となり、ことに近年小説を書くようになってからは、節はひととおりでない人間の謎を秘めた歌人として、再三にわたって私の脳裏に立ち現れることにもなったのである。

 ここまで来ると、私は小説にかぎらず、エッセーでか戯曲でか評論でか、何らかの形でいつかは長塚節について感想をのべざるを得ないところに来ていたというべきかも知れず、たとえば編集者との雑談の中で、新聞連載のあとに何か長篇のものを書きませんかと誘われて、ふと節の名前を洩らしたとしても、それはさきに記したとおり、必ずしも軽率な思いつきというものでもなかったわけである。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

そんなわけで、なぜか、藤沢周平のこころには若いころからずっと長塚節が残っていたようです。 あと、もしかすると、輝かしい栄光に浴することのない市井の人々を描き続けてきた藤沢周平の琴線に、どこか、長塚節が触れるところがあったのかもしれません。それで、藤沢周平は新聞の連載小説が終わったあとに、長塚節の小説に取り掛かります。

 

しかし、いざ長塚節の小説を書こうと決心した藤沢周平は、すぐに後悔することとなります。

理由の第一は 、まず節関係の資料が予想以上に多いことだった。単行本から各種雑誌、研究誌に掲載された論文、エッセーはおびただしい数にのぼり、それらの文章が節の作品、節の病気、節の恋愛について、それぞれに詳細に記述しているのだった。同じころに何かの雑誌で、明治以来の文人、作家について書かれた文献数といったものが取り上げられていて、長塚節が第七位を占めることも知った。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

明治以来の作家についての文献数で、長塚節が第七位! 長塚節そんななのか。どうりでやたらに古本屋で資料が手に入ると思った。

 

藤沢さんも「長塚節は地味な歌人で、その種の参考文献、資料類はそう多くはないのではないか、などという私の予想は完全にくつがえされ」たと言っています。私も正直なめてました。やばいすね。

 

そんな感じで書き始められたこの『白き瓶』。たいへん面白かったです。文庫本で600ページくらいあってけっこうぶ厚く、なかなか大変なのですが、さすが藤沢周平、ふつうの評伝より抜群に読みやすいです。

 

まあべつに、野盗に苦しめられている農民を救うために武士が七人集まるとか、昼行燈な下級武士が裏ではバットマン的な活躍をしてたりとかいった、エンターテインなシーンは一切ないので、なかなかじっくり読むことになるというか、はっきり言って地味な本なのですが、読んで行くうちにだんだんと、家や健康の問題に苦しめられながらも懸命に生きようとしている長塚節に感情移入をしてきます。

 

 

この本、小説的におもしろポイントはいくつかあるのですが、まずは面白いのは、長塚節と伊藤左千夫とのライバルものとして読める点です。

 

長塚節と伊藤左千夫は、子規の直接の歌の弟子のツートップで、かつ反対の個性を持つ二人でした。ちょうど、俳句における高浜虚子河東碧梧桐と重なりますね。

 

「俳句は虚子と碧梧桐(へきごとう)にまかせておけばいいんだ」

 不意に節のそばで声がした。見てたしかめるまでもなく、隣に坐っている伊藤左千夫の声である。

「しかし歌は長塚君、君と僕だ。二人でやって行かなきゃならん」(『白き瓶』p.47) 

 

『白き瓶』の初めのほう、子規の葬儀の席でのシーンです。子規の直接の弟子として、お互いを認め合った伊藤左千夫と長塚節ですが、子規の死後は二人で根岸短歌会を担っていかなければいかん、と左千夫は節に言います。

 

ふたりの個性の差を表す、子規が書いた面白い文章があります。

 

 左千夫いふ柿本人麻呂は必ず肥えたる人にてありしならむ。その歌の大きくして逼せまらぬ処を見るに決して神経的痩せギスの作とは思はれずと。節いふ余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならむと思ふ。その歌の悲壮なるを見て知るべしと。けだし左千夫は肥えたる人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引き比べて同じやうに思ひなすこと人の常なりと覚ゆ。かく言ひ争へる内左千夫はなほ自説を主張して必ずその肥えたる由を言へるに対して、節は人麻呂は痩せたる人に相違なけれどもその骨格に至りては強く逞たくましき人ならむと思ふなりといふ。余はこれを聞きて思はず失笑せり。けだし節は肉落ち身痩やせたりといへども毎日サンダウの唖鈴を振りて勉めて運動を為すがためにその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなむ。さればにや人麻呂をもまたかくの如き人ならむと己れに引き合せて想像したるなるべし。人間はどこまでも自己を標準として他に及ぼすものか。(正岡子規『病牀六尺』)

 

あるとき子規と左千夫と節の3人で、万葉集歌人柿本人麻呂はどんな風貌だったんだろね、という話題になりました。左千夫は「人麻呂は太ってただろう」と言い、節は「痩せてたはず」と言ったそうです。なぜなら、左千夫自身が太ってて、節は痩せてたから。人間はどこまでも自分を基準として物事を考えるものだなあ、みたいな感じの文章です。好対照の二人だったんですね。

 

人格も真逆で、左千夫はなんというか、野獣っぽい人で、もう人の気持ちとか考えなくて押し出しが強く、自分の思い通りにならないとめっちゃ人を批判します。しかし同時に不思議な魅力もあって、異様に勘がするどく、鈍いかと思ったら突然真実を突いたりします。

 

それに対して、長塚節は、あんまり人と揉めるのが好きではなく、ちょっと距離を置いて後輩を見てる感じ。繊細で批判に傷つきやすく、自分のやりたいことをひとりで黙々とやるタイプですね。

 

で、けっこうこの二人の文学的境遇、似てるんですよね。二人とも子規の写生説を独自のかたちで発展させることで自らの歌を作っていきますが、ほかにも、子規の始めた「写生文」を経由して、小説を書き、それぞれ『野菊の墓』と『土』という文学史に残る作品を書いています。で、どちらも漱石に褒められてます。

 

次のところは、二人が、お互いの小説を批評しあうシーンです。

 

「君はね、細部の描き方はじつにうまい。正直に言って、読んでいてうなったところが何ヵ所かあったな。しかし全体を通してみると、ちょっと首をかしげたくなる。不自然さが目立つんだよ」

「不自然かね」

 節はおだやかに反問した。

「前半と後半のつづきぐあいのことだな? あれはちょっとまずかった。」(中略)

 そして、そういうことから言えば、左千夫の小説だって五十歩百歩だろうと、節はひそかに思っていた。「胡頽子」の写生の拙劣さは、読むに堪えないほどのものだったのだ。左千夫の言い方を借りれば、左千夫の小説は、節とは逆に、全体としてのまとまりは悪くないものの、部分的な描写という点では支離滅裂だと節は考えている。(p.206,207)

 

ふたりは文学上でも批判し合い、お互いの作品を高めていきます。

  

左千夫の遠慮のない作品批判が節を傷つけることは再三で、節はのちに左千夫に対して愛憎相半ばするといった心境に追いこまれる。左千夫はいわゆる喧嘩上手で、その種の批判の応酬ということになると若い節にどうも分がなく、節はしまいにはいやになったのではあるまいか。しかし親友でありながら、同時に文学上の熾烈な競争相手でもあるという二人の関係が、両者の作品の質を高めたこともまた間違いないようである。 (「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

短歌の理論においても、長塚節が子規の衣鉢を継いで「客観写生」を標榜すると、伊藤左千夫はそれを批判して、短歌では「主観」の働きが大切だ、と述べる。この闘いの中で初期「アララギ」の理論は洗練されていきます。

 

 伊藤左千夫が、節の短歌の特色である客観写生の方法を、公然とまたはげしい口調で非難したのは、明治三十八年一月発行の「馬酔木」第十五号の中でだった。

 (中略)人事と配合してこそ茄子古幹も面白く見られるだろうが、人事的なものを一切抜きにして、つかねた茄子古幹を一首の中心にするのは、どう考えても不自然だ、節と自分が主観、客観ということで時時衝突するのは、こういう場合なのだと意見の相違のあり場所をあきらかにした。(p.90)

 

 要するに左千夫は、自然を捨てたわけでもなく、また四十年中の佳作「水籠十首」にみるように、主観による自然の把握という作歌の手法を捨てたわけでもなかったが、その興味はより人間に内在する自然にむかっていたのであり、また方法的には、「八面歌論」に記したように、内なる思いが余って歌になるという理論を確立しようとしてもいたのである。つまりこの時期、左千夫は次第に自然よりは人間に興味を移し、節はいよいよ自然に興味を深めて、子規という同根から出発しながら、二人の歌境は大きく相隔たろうとしていたのだった。(p.148)

 

要するにこの二人、ナルトとサスケ、花道と流川、悟空とベジータなんですよ。この二人がいなかったら、後の斎藤茂吉や、島木赤彦や、土屋文明らもいなかったでしょう。

 

しかしほんと、この『白き瓶』の中での伊藤左千夫の怪人物っぷりはすごいです。めちゃくちゃ俗物で困ったおじさんなのに、不思議と憎みきれないんですよね。完璧にこの小説のもうひとりの主人公です。

 

それはともかく、そういう事実をたしかめながら左千夫の評論や手紙を読んでいるうちに、私はすっかり左千夫というひとの個性のおもしろさにひきつけられ、しまいにはこの稀有な人間味を正確に伝えるためには、小説の形を少々損なっても誤字、脱字まじりの手紙をそのまま引用するしかないと考えるほどに、左千夫に気持ちが傾いて行ったのだった。(「小説「白き瓶」の周囲」『小説の周辺』)

 

左千夫の人物批評は、辛辣に過ぎて時には毒を帯びるが、不思議に間違わなかった。左千夫の性格の中には、万人がわかっているようなことを理解していない遅鈍なところと、誰もわかっていないものを鋭く看破している機敏なところが同居している。(『白き瓶』p.72)

 

節と同じように読者も、いらいらやきもきしながらも、何とも言えない魅力を伊藤左千夫に感じてしまう。そんなところが藤沢周平の筆によってけっこうはっきり伝わるのが、『白き瓶』の面白いところでしょうか。

 

 

あとは、長塚節の細腕奮闘記として読めるというか。長塚節茨城県のほうの農家の長男なんですが、家がわりと裕福で、村の中ではかなり偉い立場なんですね。

 

しかし、長塚節父親がけっこう破天荒というか、どうしようもない父親で、家業だった質屋経営を勝手にやめてしまって政治家になっちゃうんですね。で、落選して借金がかさんでしまったりしてしまう。

 

父が頼りにならないので、長男として節は家をなんとかしなければならない。そのことがいつも重くのしかかってきます。

 

家にいれば、家のことを考えないわけにはいかなかった。家は、巨大な難破船のように半ば傾いて、いつも節の頭上にうかんだまま絶え間ない圧迫を加えて来る。(p.69)

 

でもなかなか上手くいきません。節もいろいろ考えて炭焼きとか竹林経営とかやるんですが、いずれもそれほど軌道には乗らない。しかも、村の若い衆には疎まれたりとか、結婚は破談になったりとか、挙句の果てに身体を壊して結核にかかってしまいます。そんで、家の建て直しがうまくいかないと、旅好きの節は、すぐ現実逃避で旅に出ちゃいます。

 

私もよく現実逃避で旅に出るタイプなので、ここの気持ちはよくわかります。旅先で急にテンションが上がって絵葉書を送りまくるのとか、共感するなあ、と思いました。

 

そんなこんなで、節の人生はなかなか大変なのですが、そこに文学が絡んでくる。生活を成り立たせながら文学やる。それも、けっこう身につまされます。

 

で、晩年はぼろぼろになりながらも、「鍼のごとく」という傑作連作を作ったりします。

 

傑作残酷時代劇漫画『シグルイ』第9話で、道場の跡取りの座と想い人をライバルに取られちゃった主人公の藤木源之助が、絶望のどん底で神速の抜刀術を開眼するシーンがあるんですが、そんな「剣はまだ藤木源之助を見放していなかった」的な感じのことが、長塚節にも起きたりなんかします。

 

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山口貴由シグルイ』2巻 p.148より)

 

まあそれは、ある意味では長塚節を「物語」に押し込めちゃってるところもあるとは思うんですけど、それでもやっぱりこういうのは燃えますね。

 

 

 あと、読みどころもういっこ。このブログの第38回で永井さんが『近代短歌論争史 明治大正編』を取り上げて、アララギ初期メンの話をしていますが、それが現場ではどんな雰囲気だったのか。それがこの本にはすごくわかりやすく書いてあるんですね。

 

子規没後の根岸短歌会の流れがどうなったかが分かる。明治30年代後半~40年代前半くらいの話です。

 

⓪政治の改革に忙しくて文芸改革まだ(明治ひとケタ年代)

新体詩の登場(明治10年代)

新体詩に影響を受けた様々な試み 落合直文与謝野鉄幹など(明治20年代)

正岡子規歌よみに与ふる書」(明治31年)、鉄幹『明星』創刊(明治33年)

 

何度も出すこの表では、この後、④のところになるでしょうか。

 

④伊藤左千夫らが『アララギ』を創刊(明治41年)

 

子規の死後、彼が唱えた写生論が、その弟子たちによってどのように変わっていくのか。要するに、根岸短歌会がどのように「アララギ」になっていったのか、の話です。

 

以前にもちらっと書きましたが、与謝野鉄幹の「明星」に比べると、明治30年代はじめころでは子規門下の歌人たちは、歌壇の中ではそれほど目立ってはいませんでした。それが、少数精鋭の武闘派集団としてだんだんと有名になっていく過程が、この小説では描かれます。その第一歩が、子規の死後、結社の機関紙を作るところからなんですね。

 

「明星」などにくらべれば、子規の旧門人の集まりは、歌壇全体から見れば微微たる存在でしかなかった。発表の舞台といえば「日本」、日本附録の「週報」、それに森田義郎が編集委員をしている関係で、「心の花」に短歌会の記事を載せているだけで、拠るべき雑誌もない短歌結社など、だれも注目してはくれないのである。「心の花」や「日本」紙上で、左千夫が歌壇のあちこちに噛みついても、それは犬の遠吠えに似た印象しか与えなかった。(p.58)

 

とにかく、結社は自前の機関紙が大事。余談ですが、落合直文の話のときに、直文の作った「浅香社」を「結社の前身みたいなもの」と書きましたが、あれはなんでかというと、浅香社も機関紙がなかったんですね。内輪で歌会やってて時々新聞に載せてもらったりするだけだったので、結社ではない、という意味です。自前の機関紙があれば、対外的にもかなりアピールができます。その点、新詩社の「明星」は見た目もいけてたので、がんがん同人が増えます。

 

左千夫はそれに勝とうと、まず結社誌を作る。しかし、悲しいかな、自身の性質からこれを次々潰していくのです。

 

俳句も子規の死後、わりと「ホトトギス」周辺で揉めて、虚子がディスられたりしてるのですが、左千夫もまあよく周囲と揉める。

 

まずは最初に明治36年に「馬酔木(あしび)」を作るんですが、ここで同じく子規の弟子の森田義郎と喧嘩します。そんで森田が「馬酔木」を脱退し、いろいろあって「馬酔木」がつぶれて、次の「アカネ」という雑誌を作ります。で、その編集を任されていた若い東大学生・三井甲之とも左千夫は揉めて、別で「阿羅々木」を作り、「アカネ」と「阿羅々木」も一緒になくして、最終的に島木赤彦のいた「比牟呂」と合流して、明治41年に「アララギ」を作ります。

 

左千夫は、もう、揉めまくり。森田義郎と揉め、三井甲之と揉め、親友の長塚節とも結局揉め、自分の直弟子の斎藤茂吉・島木赤彦とも揉めます。

 

 左千夫は、一結社をひきいるだけの指導力も洞察力もそなえていたが、周囲にいて自分とは異なりかつ目立つ才能に対して、執拗に自分の主張に従わせるか、それを聞かれない場合には徹底して攻撃するという性癖も合わせ持っていた。家父長的な性格と言ってしまえばそれまでだが、その性格の中に含まれている頑なで偏執的な攻撃性が、古くは森田義郎からはじまり、山田三子、三井甲之、長塚節と、有望な才能がつぎつぎと佐千夫の周辺から去って行く原因をなしたことは疑えなかった。(p.434)

 

ただ、その揉め事のなかでだんだんと、子規の「根岸短歌会」を継ぐとはどういうことなのか、ということが煮詰まっていくんですね。喧嘩や論争を通して、ある意味シンプルだった子規の理論を内部的に練り上げていったのが、「アララギ」という集団と言えます。

 

子規の理論がどう変化していったかの詳しいところは、柴生田稔『短歌写生説の展開』(短歌新聞社、1987)とか読むといいと思いますし、あと他に、このピーナツの第8回大辻隆弘『アララギの脊梁』にも出てきましたが、左千夫を試金石として、それにぶつかっていくことによって、「アララギ」短歌システムは、だんだんと形成されていったのです。

 

  左千夫はそう言い、つづけて「僕の考では、前にも久保田君(堂園注:島木赤彦)の作物及び作歌態度に就て云つたことのある如く、創作理想も批判態度も、先づ意識が先に立つて、かういふ風にやつて見ようとか、かういふ事を歌にしたいとか、かういふ経路になるのが進歩であるとか、情緒的から情操的に移り、感激的から瞑想(めいそう)的になつたとか、総て計らひが先に立つ手、意識的行為に出ることが、僕にはどうしても、殊更に拵へるやうな感じがしてならないのである」と書く。

 左千夫の若い同人たちに対する不満は、ここに露呈している。つまり歌は理屈ではないのに計算ばかりしているという不満である。(中略)

 感情自然の動きの尊重と言い、言語句法の声化と言い、左千夫が言っていることは正論だった。歌はこしらえるものではなく、詩的感情がおのずから胸の中で熟した形で作品が生まれるべきだという言い方は、しかしあくまでも原則論を述べたに過ぎず、新しい文学状況に対する考察を示したものではなく、したがって茂吉以下の若い同人たちの悩みに答えたものでもないという意味では、不親切と言うほかないものだった。(p.429,431)

 

左千夫は「理屈を言うな」「短歌は叫びだ」みたいな感じで若手に怒るんですね。で、それは故なきことではないのだけれど、茂吉とか赤彦とかの若手は、当然それを煙たがる、と。いまでもよく見ますね、こういう光景。

 

ただ、「アララギ」のすごいところは、これを雑誌の論争の中で盛んに行っているところです。だから現代の私たちも、その流れが追える。で、その意見の差異をちゃんとチェックしてくと、「近代短歌」が何を担っていて、どう成立していったのかが分かる、とこういうことになっています。だから面白いんですよね、アララギ。具体的には、さっきも触れましたが、永井さんが取り上げていた篠弘『近代短歌論争史 明治大正編』でどうぞ。

 

しかし、左千夫といい、茂吉といい、なんでこの人たちはこんなに体力あるのか、と思います。「少数精鋭のとんがった同人誌、理論派で研究派で、そして超武闘派。」みたいに永井さんは言ってましたが、こんだけ内部で批判しあってりゃ、そりゃ他のグループとは一線を画していたはずです。その辺の事情がびんびん伝わってきます。

 

だからやっぱりこの本は短歌史の本でもあるんですよ。

 

あと、個人的にアララギってなんかすげえなあ、と思ったのが、左千夫の傑作を、茂吉が読むシーン。

 

時代は大正元年。茂吉は30歳くらい。左千夫は47歳、死の前年です。もう、左千夫と茂吉の喧嘩が極まって、どうしようもなくなってるころです。

 

ある時、「アララギ」の編集をしていた茂吉は、左千夫から送られてきた歌稿に次の一首を発見します。

 

今朝の朝の露ひやびやと秋草やすべて幽(かそ)けき寂滅(ほろび)の光   伊藤左千夫

 

この一首を含む連作を読んだ茂吉は、強い衝撃を受けます。

 

 要するにそのころの左千夫は、誰からも相手にされず結社の中で孤立していたのである。(略)「ほろびの光」は、左千夫に対する彼らのふだんのそういう気持や扱いに、一撃を加えるような作品だった。茂吉はじっとしていられないような感動に気持をゆさぶられながら、いそぎ足に市電の停留所の方へ歩いて行った。

――いい歌だ。

 先生は、やはり歌人だと茂吉は思った。歌の中で晩秋の風物と作者の心情は渾然と溶けあって、季節の嘆きを歌い上げていた。その季節の詠嘆が人生の詠嘆でもあるような重厚な作品だった。そのことを先生に言って上げたい、と思ったとき茂吉は突然に眼頭がうるむのを感じた。歌で結ばれた師弟という言葉が胸に溢れて来たのである。(p.453) 

 

 

「やあ、どうした?」

 左千夫は突然に庭に現れた茂吉を見て、碁石をつまんだ手をとめた。桐軒も茂吉を見た。

「『ほろびの光』を読みました。」

 茂吉は窓の外から言った。

「先生、あれは傑作です。僕は感動しました。あの歌は十一月号の話題作になります、きっと」

「そうかね」

「歌の中に何とも言えない悲傷が流れています。すばらしいです。何というか、非常に重厚で……」

「ありがとう。僕も君たちの悪口を言うだけじゃね。自分もちゃんとつくらんと……」

 と言って、左千夫は茂吉を手まねぎした。

「上がらんかね、君。そんなとこに突っ立っていないで。いま、蕨君と賭けをやってるところなんだ」

「………」

「君もやらんか。なに、大したものを賭けてるわけじゃない。負けた方が表へ行って甘い物を買って来るという約束なんだ」

 左千夫がそう言うと、桐軒が声を出して笑った。左千夫も二枚重ねの近眼鏡の奥から、小さな眼を茂吉にむけたままにやにや笑った。左千夫のその顔に、どことなく感じのいやしい、弛緩した表情があらわれているのを茂吉は見た。歌のことを考えている人間の顔ではなかった。茂吉は背筋のあたりに少し寒気に似たものが動き、感激がみるみるさめるのを感じた。茂吉は後じさりした。(p.454,455) 

 

で、こういうのがあった上で、茂吉の第一歌集『赤光』の中のあの名高い連作、伊藤左千夫の死を描いた「悲報来」になるんですね。 

 

ひた走るわが道暗ししんしんと怺(こら)へかねたるわが道くらし  斎藤茂吉「悲報来」『赤光』

 

師匠と弟子の得も言われぬ関係が、このエピソードに象徴されている気がしました。

 

 

私はいちいちチェックはしてないのですが、この『白き瓶』、文庫巻末の解説によると、資料集めまくって、小説内における情報は正確無比だそうです。なので、小説中の会話や、登場人物の気持ちの描写も、単に藤沢周平が想像で描いたものではなく、いちいち手紙や随筆から情報ソースを得ているみたいです。

 

ただ、永井さんが篠さんの『近代短歌論争史 明治大正編』の回の時に「篠さんはこの本で、一つの物語を語ろうとしていないように思います。そのぶんこちら側からいかようにも読み込める。」と書いていますが、『白き瓶』はもろ「物語」なので、そこらへんは注意したほうがいいというか、「真実」と思っちゃうと危ないところもあるのですが、そのへんを踏まえていただければ、かなり読み取りやすい本かと思います。

 

初めにも言ったように、なかなか分厚くて地味な小説ですが、ピーナツ的にはひと粒で何回も美味しい小説なので、読んでみるといいと思いますよ。

 

今回はこのへんで。それでは。

 

第40回 竹内博・編『香山滋全集別巻』

吉田隼人 その他 ゲスト

ゴジラの源流に短歌あり    吉田隼人

評論・年譜他 (香山滋全集)
 

 

 こんにちは、吉田隼人です。『シン・ゴジラ』、みなさんは何回観ましたか? 僕は歌舞伎町のTOHOシネマズ新宿で7月29日の日付が変わった直後(28日深夜)におこなわれた「世界最速上映」を含めても、まだ4回しか観ていません。最低でももう一度くらいは劇場で観ておきたいところですね。着ぐるみやミニチュアをほとんど使わない映画になるということで怪獣オタクとしてはいろいろと心配だったのですが、熱線を吐くゴジラの苦しそうな顔が表現されていたのにすっかり感動してしまいました。あの苦しんでいる感じを出すのは着ぐるみでは難しいですから、CGの強みを活かした、新しいゴジラ解釈の誕生と言っていいでしょう。ゴジラという怪獣自体がそもそも核実験の犠牲者として考案されたものですし、口から火を吐くというのはやっぱり生物として異常な状態です。これまで描写されてこなかったその苦しみが見られただけで、もう感激でした。


 今回はそんなゴジラの原作者が、実はもともと歌人だったという話を少し紹介させてください。東宝の怪獣映画は小説家に原作を頼むことが多く、「モスラ」の原作は中村真一郎福永武彦堀田善衛という堀辰雄周辺から出発した純文学作家三人によるリレー小説『発光妖精とモスラ』ですし、「大怪獣バラン」「空の大怪獣ラドン」は怪奇小説で人気のあった黒沼健という作家が原作を書いています。余談ですが、黒沼健の父親・左右田喜一郎は家業の左右田銀行で頭取として働くかたわら、経済哲学の研究者としても東京商大(のちの一橋大学)の教授をつとめ、西田幾多郎との論争のなかで初めて「西田哲学」という言葉を使ったことでも知られています。

 

 閑話休題ゴジラ・シリーズの第一作「ゴジラ」と第二作「ゴジラの逆襲」で原作を担当したのは香山滋(かやま・しげる)という作家です。レイ・ブラッドベリの短篇『霧笛』を原作とするアメリカ映画「原子怪獣現る」にヒントを得て、戦争映画「ハワイ・マレー沖海戦」などで既に有名だった“特撮の神様”円谷英二を起用した怪獣映画のプランが持ち上がったとき、東宝が白羽の矢を立てたのが香山でした。一説には、剛腕プロデューサーとして知られる田中友幸が彼のファンだったからともいわれています。時は昭和29年(1954)、香山滋は50歳。小栗虫太郎の跡を継ぐといわれた冒険小説や、古生物に対する深い造詣を活かした未知の生物が登場する怪奇幻想小説の書き手として、なかなか人気のある流行作家だったようです。

 

 もっとも、このころ既に香山は短歌を作っていません。ここでは香山滋と短歌とのかかわりを、彼の人生を大まかにたどるかたちで見てみましょう。幸いにして香山滋には、怪獣ライター・SF作家として活躍した故・竹内博氏の手でほとんどの作品を網羅的に収録した『香山滋全集』全14巻+別巻1冊が揃っています。版元はあの『現代短歌大系』の三一書房。その別巻には子供向け小説のほかに随筆と短歌、それに詳細な書誌と年譜が収められていますから、これを参考に書いていきます。


 香山滋の本名は山田鉀治(やまだ・こうじ)。明治37年(1904)、いまの東京都新宿区神楽坂に生まれました。祖父、父はともに大蔵省の職員。といってもエリート官僚ではなく一般の職員だったようです。それでも生活水準としてはまず裕福なほうといっていいでしょう。旧制の府立四中(いまの都立戸山高校)から法政大学経済学部に進学しています。中学生のころから古生物学や地質学に興味をもち、大学の講義録などを取り寄せて独学で勉強する一方、当時の文学青年の常として若山牧水などの短歌にも親しんでいたようです。法政大学の予科(いまでいう教養課程)では内田百閒からドイツ語を習っています。彼の学生時代はほぼ大正時代と重なっており、大正デモクラシーの世の中でのびのびと青春の日々を送ったといってよいでしょう。


 大正14年(1925)に大学を中退。祖父や父の跡を継いで大蔵省に入ってからは戦後までごく真面目で平凡な公務員として、預金部に勤めていました。しかし戦後間もない昭和21年(1946)、雑誌『宝石』の探偵小説募集に応募した「オラン・ペンデクの復讐」が江戸川乱歩の目にとまり、山田風太郎らとともに作家デビューを果たします。このとき職場との兼ね合いで本名を使うわけにいかず、つけたペンネームが香山滋です。昭和23年(1948)には第二作「海鰻荘奇談」で第1回探偵作家クラブ新人賞(いまの推理作家協会新人賞)を受賞、大蔵省を退職します。順風満帆で作家活動に入っていったように見えますが、本人も「千円の懸賞金欲しさに投書したまでで、これが作家生活のはじまりになろうとは夢にも思わなかった」(日経新聞、昭和24年1月8日)と書いているように、戦後の混乱期に公務員としての収入だけでは生活が厳しかったため経済的理由から筆を執ったというのが実情のようです。昭和24年(1949)、雑誌『別冊宝石』に発表したエッセイ「「人の世界」を凝視する」で香山はこんなふうに語っています。

 

私には文学の上の経歴は何ひとつない。それでも取り上げて見れば、筏井嘉一先生の門に籍を置いて短歌の勉強をさせていただくようになってから今年で十年――ちかごろはすっかりなまけてしまって同人誌「定型律」にも歌らしい歌も発表することなしにあわただしい日々を過してはいるけれど、私はやはり短歌の道に戻りたいと切なく思いつづけている。
二十有余年の官吏生活から足を洗って、いっきに飛び込んでしまった作家生活も、入って見れば、これほど恐ろしく悩み多い荊棘の道であるとは、思いも寄らなかった。

 

 というわけで、お待たせしました。ようやく香山滋と短歌の話です。『全集』別巻の年譜によって補いながら、彼の歌歴を概観してみましょう。昭和24年時点で「今年で十年」と書いてありますが、実際に短歌の投稿を始めたのは昭和12年(1937)。大蔵省の機関誌『財政』昭和12年8月号に掲載されたものが確認できる限り最も古いものです。なお彼の短歌作品はすべて本名で発表されています。

 

水槽に放てば小さき川蝦のすこし泳ぎて藻にとまりけり

 

 この『財政』に香山は他にも淡水魚の飼育法や熱帯魚についての随筆などを寄せているほか、これ以後に掲載された短歌も含め、魚介類を詠んだ歌が圧倒的に多いです。いまでいうアクアリウム趣味があり、短歌の題材ももっぱらそこから採っていたのでしょう。香山のこうした「生物オタク」的な側面が『ゴジラ』をはじめとする後年の作品に反映されているのは勿論ですが、短歌という詩形――とりわけ写生を主とするそれ――が小動物を観察し、愛でるうえで最適の器だったともいえるかも知れません。『財政』に掲載された歌を以下に5首ほど挙げてみます(なお『香山滋全集』は編集方針で短歌もすべて新字新仮名になっているので引用もそれに準じることとします)。

 

たまさかに鰻かかれば雑魚網(ざこあみ)を児等あまたして覗き合いけり
養魚池の水冷えたれば川鱒のただに寄りいてひそけかりけり
きららかにさやけき色の鰭ふりて瓶胴(びんどう)に透く囮のたなご
身をくねり闘魚の姿勢さだまると見えしすなわち生餌にむかう
陽に透きてあわれ小えびの体内のあからさまなる生命の機構

 

 これをきっかけに香山は本格的に短歌にのめりこんでいきます。前掲の随筆にいう「十年前」すなわち昭和14年(1939)、五島茂の主宰する歌誌『立春』に参加して随筆にも名前の出てきた筏井嘉一(いかだい・かいち)に師事しました。筏井嘉一は北原白秋の門下から出発した歌人で、坪野哲久や前川佐美雄らの「新興短歌連盟」に関係したほか、昭和15年(1940)の合同歌集『新風十人』に参加したことで知られ、塚本邦雄が「春荒寥のいのち――筏井嘉一」(『詩魂紺碧―詩歌の末来』所収)という作家論を書いています。


 その昭和15年、筏井嘉一は『新風十人』参加だけでなく歌集『荒栲(あらたえ)』を刊行するなど、かなり活躍していたようです。塚本が作家論の題に引いている代表歌「夢さめてさめたる夢は恋はねども春荒寥(こうりょう)とわがいのちあり」もこの歌集に収められています。そんな上り調子の筏井嘉一は『立春』を離れ、彼を慕う歌人たちも付き添って『蒼生』が創刊されました(現在の誌名は『創生』)。香山滋も『蒼生』に移り、戦争末期の昭和19年(1944)の休刊まで毎号出詠しています。その後、終戦をうけて昭和20年(1945)にふたたび筏井嘉一を主宰とする歌誌『定型律』が立ちあげられますが、ここにも香山は参加。しかし前述のように昭和21年に「オラン・ペンデクの復讐」で作家デビューしてからは、しばらく大蔵省職員との二足のわらじを履いていたこともあり(このころ同じく大蔵省勤務の作家だった三島由紀夫とも交流があったようです)多忙のためほぼ短歌を発表することはなくなってしまいます。昭和22年以降は年に一度、10首程度の発表にとどまり、昭和24年を最後に『定型律』に作品は掲載されていません。歌人としての香山の活動は実質的に昭和15年から21年まで、ほぼ戦中戦後と一致するといってよいでしょう。


 香山はデビュー当時すでに42歳と遅咲きだったこともあり、小説家としての活動も基本的には昭和20年代に集中しており、その後『ゴジラ』(昭和29年)『ゴジラの逆襲』(昭和30年)のヒットをうけて昭和30年代前半に少年向け雑誌への執筆が増えたものの、ブームが落ち着いた昭和30年代中盤以降は作品発表が激減、昭和50年(1975)に70歳で没するまでの十数年は作家としてはほぼ引退といっていい状態になります。しかし作家としての活動をほぼ絶っていた昭和41年(1966)になって、かつて「私はやはり短歌の道に戻りたいと切なく思いつづけている」と書いたように、香山はかつて発表した短歌作品を改稿して一冊のノートに筆記した私家版歌集『十年』をひそかにまとめていました。この歌集からの抜粋は昭和54年(1979)の『昭和萬葉集』(講談社)にも収められていますが、雑誌初出も含めて完全なかたちで読めるのは今のところ『全集』別巻だけです。


 歌集『十年』を読んでみてまず目につくのは、昭和13年から20年まで、ほぼ戦時中の作品が集められているにもかかわらず、戦争詠が少ないということです。これは私家版歌集にまとめるとき削ったというわけでもないようで、「補遺」として収録されている雑誌初出を通して見てもやはり戦争詠の割合はひどく少ないことがわかります。香山は大正デモクラシー軍縮の時期に徴兵年齢を迎えたのに加え、大蔵省に勤務していたこともあり、兵士として召集されることはありませんでした。戦後になって秘境を舞台にした冒険小説を立てつづけに発表したため、戦中は南洋の植民地にいたものと誤解されることが多かったようで、実際はずっと国内にとどまっていたのだと弁明するような文章も発表しています(「南への憧れ」『別冊宝石』昭和25年6月号)。そうした背景もあって、ただでさえ少ない香山の戦争詠はどれも型通りのものばかりで目立ったものはありません。凡庸な写生の歌が並ぶなかで目をひくのはやはり、香山の「生物オタク」としての側面を反映したような歌が多いようです。

 

厨辺(くりやべ)の月夜あかりはさびしきか親子守宮(やもり)の寄り添いており
はつはつにいのち保ちて冬を越す爬虫(はむし)の習性(ならい)うべないており
街中(まちなか)の店に飼われて山椒魚(はんざき)の呼吸(いき)ととのわず病みてやあらむ
軒端よりいく歩もあらぬ庭ながら蟇(ひき)のよこぎる道はありけり
汲み溜めしにごれる鹹(しお)の水に倦む海亀(かめ)うごかすと人の触(さ)やるも
安らわむ藻かげなき身は晒されてたつのおとしご日ねもす泳ぐ

 

 ヤモリ、越冬する爬虫類、サンショウウオヒキガエル、ウミガメ、タツノオトシゴなど、マニアックな動物ばかりが歌の題材に採られています。後年の香山が引用しているところによると、昭和17年(1942)の時点ですでに『蒼生』同人の沢津正彌が彼の短歌について「草木虫魚禽獣等に対する氏の性癖や深い愛情は甚だ注意せられる」と指摘しており、小説家としてデビューする前から既にその趣味ははっきりあらわれていたようです。これら動物を詠んだ作品にはとりわけ愛着があったらしく、ちょうど私家版歌集『十年』をまとめていた昭和40年(1965)から翌41年(1966)にかけて推理作家協会の会報に連載した随筆「私の博物誌」にも一首目、三首目、四首目、六首目が引かれています(ただし四首目のみ「蟇」が「とかげ」に改作されている)。

 

 歌集『十年』にはもっと身近な動物、蛾や魚なども多く登場しますが、共通しているのは異形の生き物に対する作者のやさしいまなざしです。もっと言えば、ここで香山は異形のものに共感し、かれらの穏やかな生活をおびやかし、ときに排除さえする人間たちへの嫌悪感を表明しているということになるでしょうか。

 

 サンショウウオを見世物にし、水族館のウミガメにちょっかいをかけ、タツノオトシゴの水槽に藻を入れてやらない。そうした身勝手な人々への批判的な視線は『ゴジラ』原作にまで受け継がれていきました。香山の筆になる「ゴジラ」には映画公開に合わせて発売されたノベライズ小説『怪獣ゴジラ』や少年向けに書き改められた『ゴジラ東京にあらわる』など複数のバージョンがありますが、直接に映画の原作となったものは『G作品検討用台本』と呼ばれています(全集以外にもちくま文庫ゴジラ』などで読めます)。映画「ゴジラ」で志村喬が演じた古生物学者の山根恭平博士は、水爆実験に遭ってもなお生き延びたその生命力を研究するためゴジラを殺すことに反対しますが、これが『G作品検討用台本』だともっと過激です。作者・香山滋の分身ともいうべき山根博士は、ゴジラを高圧電流に感電させる作戦を中止させるため、黒マントに身を包み、狂人のような顔をして「わしは絶対にゴジラを殺させはせんぞ」と発電所に侵入しようとして取り押さえられてしまいます。その後もゴジラが高圧電流でも死ななかったと知ると、うわごとのように「ゴジラが助かった」と騒ぐなど、とにかくゴジラへの肩入れがものすごい。ことによると、人間よりも怪獣のほうに作者が感情移入しているといってもいいほどです。映画第二作「ゴジラの逆襲」公開後、香山は「ぼく自身でさえ可愛くなりかけてきたものを、これでもか、これでもかと、奇妙な化学薬品で溶かしたり、なだれ責めにさせたり、今もって寝醒めはよろしくない」「だからぼくは『ゴジラの逆襲』を最後に、たとえどんなに映画会社から頼まれても、続編は絶対に書くまい、と固く決心している」(「『ゴジラ』ざんげ」『机』昭和30年12月号)とまで言っています。ひょっとすると今回の「シン・ゴジラ」でゴジラが死ではなく薬品によって“凍結”させられ、最後に人類との共存が示唆されているのも、『ゴジラの逆襲』でゴジラを殺すのがしのびなく「氷山を爆撃することで人工的になだれを起こして氷漬けにして眠らせる」という解決策を選んだ香山滋の精神が継承されているからかも知れません。

 

 ここまで引いた歌からもわかるように、香山滋の短歌は小動物を題材に採ることが多いという特徴こそあれ、技法の面ではごく平凡な写生による作品がほとんどを占めています。これは彼が師事した時期が、師の筏井嘉一がモダニズムの影響や浪漫的な作風から徐々に離れていった時期と重なっているためと思われますが、それでも架空の生物が所せましと暴れまわる後年の小説作品にも通じる、荒唐無稽な発想から生まれた歌もないわけではありません。

 

有尾人つどいてわめく洞窟に酋長われも尾を持ちて悲し
新月なすマンモス象の牙の反り滅びしものは美しきかな
月ふたつ空にかかれり今宵われ酔いしれりとは思われなくに
かわやつめ脛(はぎ)にとりつき血を吸うと夢みしゆうべ熱すこしあり
光りつつ青きとかげの過りけりげんげたんぼの畔の日ざかり
      
 香山は後年になって日本爬虫類両生類学会に参加したりしているので学術的な知識を蓄えるつもりもないわけではなかったはずなのですが、文献や論文がまだ完備されておらず正確な知識にアクセスすることの困難な時代が長かったこともあり、今でいうUMAのような怪しげな未確認生物を取り上げて、想像力をたくましくして小説に仕立て上げることも多々ありました。デビュー作「オラン・ペンデクの復讐」に登場する、スマトラの奥地に棲む矮小人類オラン・ペンデクなどはこの部類です。他にも「有翼人」などホモ・サピエンスとは別の進化を遂げた異形の人類が登場する小説は多いのですが、「有尾人……」の歌は昭和14年の作品ですから、この方面への香山の関心は筋金入りといっていいでしょう。二首目に登場するマンモスは、ゴジラのヒットをうけて立てつづけに書かれた少年向け怪獣小説のうちのひとつ「マンモジーラ」(昭和29年)のモデルになっています。


 三首目は昭和24年(1949)に発表された怪奇小説「月ぞ悪魔」の冒頭に出てくる歌です。まだ二十代の「私」が短歌同人誌の百号記念祝賀会の席で座興に披露したこの即詠(今でも歌人が集まるとこういうことをよくやりますね)に一人だけ、七十歳に近い老人がただならぬ反応を示します。かつて見世物専門の興行師として世界中を飛び回っていたこの老人・朝倉泰蔵が「私」に、かつてコンスタンチノープルでふたつの月が昇るのを見てしまった夜、怪しげな老婆から「次にふたつの月が昇る夜まで」預かってほしいと頼まれた美しいペルシャ女をめぐる数奇な体験を語って聞かせる、というのがこの小説の骨子。短歌や歌会はあくまで奇々怪々なおどろおどろしい物語を導くための、いわば話の枕に過ぎないといえばそれまでですが、香山の小説の多くがこの「月ぞ悪魔」と同様の、登場人物が切々と自分の体験を語るという形式で書かれていることに注意しておいてもいいでしょう。一人称で畳みかけるような会話体の「口説き」で物語ることを彼が得意とした背景には、戦中戦後にかけて“私性の文学”としての短歌を作っていたことが関係しているのかも知れません。

 

 四首目の「かわやつめ」は淡水に棲息するヤツメウナギのこと。香山滋出世作となった小説「海鰻荘奇談」(昭和22年)にはこのヤツメウナギと同じ円口類に属し、普通の生物なら生きることのできない深海にひそんでいた架空の電気ウナギ「ハイドラーナ・エレクトリス」が登場します。「あたかも恐竜が侏羅(ジュラ)の世紀に跳梁したごとく、海底の暴君として君臨し栄えたであろう」というこの怪物を創造した香山滋だったからこそ、古代の恐竜が水爆実験でよみがえる『ゴジラ』の原作を依頼されたといえましょう。しかしこの電気ウナギはゴジラと比べてずいぶん陰惨な怪物で、作中では獲物の美男美女を感電させた隙に膣や肛門からその体内に忍びこみ、内臓をことごとく食い荒らしてしまうグロテスクな生物として完全犯罪の“凶器”に使われています。ふくらはぎに取りついて血を吸うヤツメウナギの姿のみならず、その光景を夢想して恍惚とする「私」の姿まで詠みこんだこの歌は昭和13年(1938)の作ですが、雑誌などには発表されなかったようで、私家版歌集『十年』が初出です。この種の淫靡でグロテスクな嗜好は選者から嫌われたのでしょうか。

 

 最後の一首は連載随筆「私の博物誌」のうち「とかげ」を取り上げた回に引かれていた自作です。ここで香山は「蜥蜴の島」「蜥蜴夫人」といった自分の小説を挙げて、「なぜあんな気味の悪いものがお好きなのですか」という問いに答えるかたちでこう書いています。

 

 地球上にわれらの祖先人類が誕生したころには、もうあのゴジラ的怪竜(サウルス)は姿を消してしまっていた。そしておそらく、三つ目のムカシトカゲや、樹間を飛ぶドラコや、おとぼけ顔のカメレオンなどと退屈凌ぎに遊び戯れたことであろう。原始へのノスタルジアが、私をトカゲ類に引き寄せずにはおかない。

 

 この先にも香山は「ウガンダの七色のアガマや、ガラパゴスの夕焼のように赤いイグアナや、ベネズエラの緑のペンキに浸けたようなアノリス」……と好みのトカゲを列挙してやみません。小説「蜥蜴の島」(昭和23年)はそのガラパゴス諸島に棲息するウミイグアナを題材に、レズビアンの探検家が爬虫類研究のため訪れた絶海の孤島で、飛行機事故からただひとり生き残ってイグアナたちに育てられた少女と恋に落ちるという物語でした。この「蜥蜴の島」といい「蜥蜴夫人」といい、香山のなかでトカゲという生物には常に愛する女性のおもかげが重ねられているといえます。そしてそれは山根博士というキャラクターに託された、巨大なトカゲとしてのゴジラへの愛情にまでつながっていることでしょう。そういえば「シン・ゴジラ」に登場するゴジラにも、物語のキーパーソンである牧五郎元教授の妻のおもかげが重ねられているのでした。


 1997年刊行の全集別巻の解題に「歌人としての香山が今後どのように評価されてゆくか、静かに見守りたい」と編者の竹内博が書き付けてから早20年、香山の作品は短歌どころか小説すら新刊書店ではほぼ手に入らないという状況です。それでも小説は一部の稀覯本を除けば、特に1960年代以降の幻想回帰ブームに乗って文庫などのかたちで様々な出版社から刊行された選集類などは比較的安い値段でネット古書店などに売りに出ていますし、ネットで検索すればミステリやSF、幻想文学のファンによる紹介記事を読むこともできますが、こと彼の短歌への言及はほとんど見付かりません。この記事が「シン・ゴジラ」でゴジラや怪獣に興味をもったような人たちにとって、香山滋という異色の作家と、その作品のなかでもほとんど顧みられることのない彼の短歌に出逢うきっかけになればいいなあ、と思います。

 

吉田隼人:1989年福島県生まれ。早稲田大学大学院在学中。角川短歌賞、現代歌人協会賞ほか受賞。歌集『忘却のための試論』(書肆侃侃房)。

第39回 吉井勇『東京・京都・大阪』

土岐 エッセイ

芸と酔態と 土岐友浩

東京・京都・大阪 (平凡社ライブラリー)

東京・京都・大阪 (平凡社ライブラリー)

 

 

まぼろしは見るものではなく、見せるものだ。
短歌こそ、イリュージョンなのだ。

 

 *

 

吉井勇に「黒足袋」というごく短い随筆がある。京都に居を移してからも、落語家の履くような黒い足袋に勇は愛着を抱いているのだが、白い足袋を履くことが多い京都人からは野暮に見られてしまう、という。

結局黒足袋の持つてゐる庶民的な市井趣味が、私自身の好みや柄に合つてゐるのであつて、白足袋から感じられる貴族的な茶人趣味からは、かなり縁遠い存在らしい。 吉井勇「黒足袋」)

 

勇は「祇園歌人」とも呼ばれたが、どちらかと言えば市井の人だったことを、この黒足袋というアイテムが端的に伝えてくれる。

 

吉井勇は「市井」をこよなく愛した。

今回取り上げる『東京・京都・大阪』の前書きによれば、勇は「中学の三年頃から寄席や芝居通いをはじめ、(中略)樽に腰懸けてのんで一升、市井に於ける酒の味を解した。」そうだ。

 

『東京・京都・大阪』は現在書店で手に入れることができる、おそらく唯一の吉井勇の散文集である。

刊行は1954年。勇は68歳で、その6年後に病没している。

三都を舞台として、ありし日の交遊をつれづれと書き綴った、勇自身の言葉を借りれば「市井読本」という趣の一冊だ。森鷗外や近松秋江谷崎潤一郎といった同時代の文学者だけではなく、俳人や詩人、画家、舞台役者など本当にたくさんの人が登場する。僕が知らないだけかもしれないが、今ではほとんど顧みられない人も多いのだろう。

特に僕が好きなのは、勇が落語家について書いた文章だ。三代目蝶花楼馬楽や初代柳屋小せんなど、その噺を聞いたことはもちろんないはずなのに、彼らの声が聞こえてくるような気がする。

 

吉井勇というと「祇園歌人」のイメージが強いから、なんとなく京都人と思われているかもしれないが、生まれ育ちは東京山の手である。

短歌を本格的に始めたのは、中学校卒業後、鎌倉で肋膜炎の療養生活をしていたときだ。「明星」に心酔して与謝野鉄幹に師事し、新詩社の例会で、高村光太郎、木下杢太郎(もくたろう)北原白秋石川啄木らと知り合った。

歌人としての経歴では「明星」や「スバル」が重要だが、勇らしいという意味では、新詩社の有志と立ち上げた「パンの会」を外すわけにはいかないだろう。

「パンの会」とは、以下の引用に詳しく書かれているように、ヨーロッパのサロンにならって若い芸術家が集まり、語らった、言ってしまえば飲み会のことである。

 さて話を再び「柳橋界隈」に戻すことにするが、「第一やまと」と云ったところで、その当時の人達にさえ分らないような家だから、現今の人達には猶更分らないであろう。そこは両国橋の近く、広小路と称するところにあった牛鍋屋であつて、西洋館まがいの三階建の建物の窓からは、大川の流れが見渡され、飛んでいる鷗の影も、はつきり視野に入つて来た。

 そこで第一回の会合を開いた「パンの会」は、伯林に於て詩人美術家の一団が、新しい運動をしたものと同じ名前のものであつて、「パン」というのは希臘神話の中にある牧羊神のことで、ヘルメスとニュンフェの間に出来た子だと称せられ、顔は山羊に似て額に角があり、鉤鼻で髯が長く、山羊の足を持った半獣神だといわれている。

 これに因んで「パンの会」と名付けたのは、この神が現われると、突然の恐怖が現れると云い伝えられているためであつて、当時みんなは自由主義に目覚めた革命児であり、その力に依つて何が起るか分らないといったような意味も含まれていたのだろうと思う。いずれにしても、そこに集まった人達は、封建制を打破し、新しい異国情調的な文学を打ち建てようと念願したものばかりであつて、多少急進的な傾向のあったことは否まれない。 (「第一やまと」)

 

「パンの会」開催中は、店の入口に目印として、牧羊神の絵を描いた大きな提灯が下げられていた。だから、というわけでもないが、宴の最中に刑事がやってきて、社会主義者の会か何かと疑われたこともあったそうだ。

吉井勇というと「祇園歌人」以外に「ロマン」「デカダン」、そんなフレーズがついてくるけれど、それはこのあたりの雰囲気から来ているのだろう。

   両国の橋のたもとの三階の窓より牧羊神(ぱん)の躍り出づる日

 これはその「第一やまと」で開催された、明治四十一年十二月十二日の第一回「パンの会」の時の幻想をうたつた私の歌であるが、最初の会合の時に集つたのは、文学者としては木下杢太郎、北原白秋と私、美術家としては石井柏亭(はくてい)山本鼎(かなえ)森田恒友、それに木版彫刻の伊上(いがみ)凡骨(ぼんこつ)、写真製版の田中松太郎、そのほか異色あるものとしては、凡骨の弟子である独逸人のフリッツ・ルムプであつて、その時は別に文学や美術を談ずるというのでもなく、唯酒を飲んで気勢を揚げ、凡骨は得意の都々逸をうたい、ルムプは独逸語で伯林の駅の物売りの真似などをした。 (同)

 

勇の第一歌集『酒ほがひ』は、装丁が高村光太郎、口絵は木下杢太郎で、その木版を伊上凡骨が制作している。「酒ほがひ」とは「酒で祝う、寿ぐ」の意味で、この歌集は文字通り「パンの会」によってつくられ、「パンの会」を称えたものだった。

 

伊上凡骨というのは特に強烈な人物だったようで、本書でもいろいろと書かれているけれど、酔って歌い出すということなら、歌人も負けてはいなかった。

明治の終わりから大正にかけて、斎藤茂吉、島木赤彦、古泉千樫、北原白秋若山牧水太田水穂、中村憲吉など歌壇の第一人者たちが定期的に集まる、その名も「歌人会」というそのまますぎるネーミングの会があった。

勇は会の様子を、こう振り返っている。

 ここに集つた歌人達の中で酒を飲むのは、白秋、牧水、憲吉、千樫などで、みんなまだ三十代の血気盛んの時分だつたから、その飲み振りも凄まじかつた。その酔態もそれぞれに個性があつて、牧水が落ち着いて目をつぶり、澄み通つた美音で短歌朗詠をやると、白秋はトンカジョンらしい無邪気な顔付で、「空に真つ赤な雲のいろ、前に真つ赤な酒のいろ」と、自作の詩をうたい出すといつたような有様。酔うと憲吉は、よく舌をぺろぺろ出したが、これは茂吉にも共通した癖であつて、アララギぶりの酔態だつたのであろう。酒癖のあまりよくなかつたのは千樫で、酔つて来るとだんだん顔が青ざめて来て、何かにつけてからんで来るようなことがあつた。 (「歌人会」)

 

以前のピーナツでも酔うと短歌朗詠を始める牧水の話が出てきたが、白秋も似たようなタイプだったようだ。

引き合いに出すことに特に他意はないけれど、このあたりのカオスな感じは、『短歌という爆弾』に書かれていた「かばん」の青空朗読コンサートにも少し通じるものがあると思う。

 酔うと舌を出すのを、アララギぶりの酔態と云つたが、私がそれをはつきり感じたのは、大正九年五月頃、長崎に往つて斎藤茂吉君と会つた時で、その時私は銅座町の永見夏汀君の家に十日近くも滞在していて、そのあたりの社寺や旧蹟などを見て歩いた。その時分茂吉君は、病中であつたにも拘らず、大抵毎日私と行いを共にしてくれたが、茂吉君の歌集に名前の出て来る武藤長蔵君も、時々やつて来ては一緒にそこらを歩き廻つてくれた。武藤氏は書痴と云つてもいい位書物好きで、いつも四五冊の本を大事そうに小脇にかかえていて、何かというと直ぐに書誌学的な話になつた。その間に茂吉君とは丸山の花月南京町四海楼などで酒を飲んだが、酔うと舌を出すことだけは、七八年前「歌人会」で会つた時と少しも変つていなかつた。花月に往つた時も、「ここには時々学生がやつて来るので、廊下でぶつかりして困るようなことがあるんだよ」と云つて笑つたが、直ぐにその後ではアララギぶりを忘れずに舌を出した。

 私にはこの長崎行の際にうたつたこんな歌がある。

  長崎の茂吉はうれし酒飲みてしばしば舌を吐きにけるかも

歌人会」に出席した人達も、もう大方はこの世を去つてしまい、水穂君のほかは私ぐらいのものになつてしまつた。 (同)

 

茂吉と勇は、意外と通じ合うものがあったようだ。

アララギというと、ちょうど前回永井さんが取り上げていたように、当時から議論好きの「ヤバそうな」集団だったのかもしれないが、あたかも勇の眼には、そんなことは関係なく、舌をぺろぺろ出すばかりの愉快な飲み友達と映っていたかのように思えて、おかしい。

 

「写生」といい、「私性」という。

だが、自然詠であれ境涯詠であれ、少なくとも読者にとって、歌の向こうに見えているものは、すべてまぼろしのはずではないか。


 春の夜の祇園の街の灯を見てはわかうどの胸躍らざらめや  吉井勇

 ああ銀座こころ浮かれて歩みしもいつか昨日となりにけるかな

 

短歌の話をするつもりが、お酒の話ばかりになってしまったけれど、吉井勇の生涯と酒とは、やはり切り離すことはできない。

そもそも、勇にとって酒とは何だったのだろうか。

 

勇は、人生のよろこびを謳歌するために飲んだ。

あるいは勇は、人生のかなしみから逃避するために飲んだ。

 

どちらの見方も、まったく正しい。勇自身、実際にそのような歌をたくさん詠んでいる。

そこにひとつだけ付け加えるとすれば、勇にとってお酒を飲むというのは、どこまでも能動的で、制作的な意思に貫かれた行為だったということだ。

逆説的なようだが、だからこそ勇は、酒で身をほろぼすというような生き方とは無縁だった。

 

塚本邦雄はかつて「短歌といふ定型短詩に、幻を視る以外の何の使命があらう」と述べたが、塚本が見ていたのはまぼろしではなく、現実のネガ・フィルムだったという気がしてならない。

かの日の両国橋に牧羊神が降り立ったように、前衛短歌とは違う方法でまぼろしを現出させようとした歌人として吉井勇を考えたいと、僕は思っている。


  *

 

今回が今年最後の更新です。

4月に始まった「短歌のピーナツ」、みなさまからの応援に支えられながら、なんとか週1回ペースの更新を欠かさずに続けることができました。

僕が代表というわけでもなんでもありませんが、年末の挨拶に代えつつ、この場をお借りして、読んでくださった方々に、心からお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

来年がみなさまにとってよい年でありますよう、お祈りします。

第38回 篠弘『近代短歌論争史 明治大正編』

短歌史 永井

永井祐

こんにちは。

今日やるのは、

『近代短歌論争史 明治大正編』(篠弘)です。

 

近代短歌論争史〈明治大正編〉 (1976年)

近代短歌論争史〈明治大正編〉 (1976年)

 

 

この本はまあ、、

ちょっと専門書っぽい本なんですけれど、

一種のデータベースみたいにして使えるというか、

はじめから終わりまで通読するのではなくて、気になる項目のところだけ読む

という使い方をわたしはしてます。

ほんとうに平たく言うと、まとめサイトみたいなものです。

篠弘さんという生ける伝説のまとめ職人による、まとめ集です。

 

「論争史」という形をとってますが、それはなんというか、

文学史の1ジャンルとして今回は論争史をやってみた、ということではなくて、

近代短歌史を記述するうえで、もっとも適した形として「論争史」というスタイルを

選んでいる。少なくともそういうニュアンスを感じます。

これはけっこう、短歌というジャンルのローカルな事情によるのかもしれませんが、

歌人たちは常にディスカッションし続けていて、その文脈の中から歌論とかも出て

くるので、そのディスカッションの経緯を押さえてないと、そのテキストの意味が

わかりづらかったりするんですよね。

 

現在の短歌でも論争っぽいことが持ち上がったりしますが、それは昔からずっとやってるんですね。

その明治大正版のまとめ集がこの本です。

 

それで僕の場合は、

この本を読んでぐっとよくわかったのが「アララギ」についてですね。

アララギについては、ぐぐってもらうといいと思うんですけど、

近代以降の短歌史の最重要グループの一つで、当然のように現在までその影響は

残っています。

このピーナツでも話題としてはよく出てきますよね。

でも、その源流である正岡子規の歌論を読んでも、

代表作家である斎藤茂吉の短歌を読んでも、

それぞれはそれぞれに面白いんですけど、「アララギってなに?」っていうのは意外とわからないんですよ。

具体的に言うと、子規の歌論から茂吉の実作までに非常に大きなジャンプがあるんです。

この本はその間を埋める時代、明治四十年代からはじまります。

正岡子規は死んでいて、伊藤左千夫がトップで、斎藤茂吉や島木赤彦などの後のビッグネームが二十代から三十代前半、その先輩格で長塚節がいる、みたいな布陣。

この本の

若山牧水と伊藤左千夫の『別離』論争」

「伊藤左千夫と斎藤茂吉・島木赤彦の内部論争」

長塚節斎藤茂吉・古泉千樫の乱調論議」

などは、

この時代、伊藤左千夫時代の初期アララギのドキュメンタリーみたいに読めます。

この時代のアララギってすっごくかっこいいんですよ。

少数精鋭のとんがった同人誌、理論派で研究派で、そして超武闘派。

みなから恐れられている。

ふだんからつるんでるのに飲み会でも固まって座り、近づきがたいオーラを放っている、みたいな。(イメージです)

後に大きくなるグループって、ジャンルを問わず初期はだいたいこういう感じだと思うのですが、この本を読んでいると若くて才能ある人たちがつるみながらぐつぐつと文体を作っていくありさまが、生き生きと、それこそそれぞれの歌論を読んでいるよりも体感できるような気がします。僕の場合はなんかそうでした。

 

では、具体的に引用しながら進めるのがこのブログの特徴みたいになっているので、やっていきましょう。

仕事が繁忙期でちょっと忙しい感があるのですが、昨日はなんだかんだ「逃げ恥」の最終回もフリースタイルダンジョンもみたし、時間はあるはずです。

はじめの「若山牧水と伊藤左千夫の『別離』論争」だけちょっとやってみましょう。

 

 

若山牧水の第三歌集『別離』は明治43年に出ました。

自費出版だった第一、第二歌集に新作133首を加えて編集された上下二巻組で、初期の代表歌が全部入ってる、メジャーデビューにして牧水決定版となる歌集でした。

そしてこれはたいそううけた。

短歌界を席巻してしまったので、このころは牧水夕暮時代と呼ばれたりするそうです。

学生たちは風呂屋の帰り道で牧水の歌を口ずさみ、お酒を飲んでは朗詠しました。

 

そして、そこにかみついた人たちがいました。アララギです。

しかもそのかみつき方がほかと一線を画していた。

それまでの牧水に対する批判は、たとえばこんな感じでした。

 

で、若山君の芸術は、どうかすると余りに至酵に過ぐるの傾があつた。どうにかすると殊更に醜を避けんとする癖があつた。自分は思ふ。も少し突破した態度でも少し醜い方面をも歌つて欲しい。歌ふべき対照をも少しく選択し過ぎはしまいかと思はれる、が、それは余りに豊満な要素かもしれぬ。(前田夕暮「『別離』を読む」)

 

こんな感じの、歌集全体に対するふわっとした不満の表明はあったそうです。

しかし、アララギは自分たちの誌上を使い、『別離』から六首だけを取り上げ、主要同人たちでそれを一首一首精査する、合評の形式を取ったのでした。

そこであがったのはこんな歌です。

 

風凪ぎぬ松と落葉の木の叢のなかなるわが家いざ君よ寝む  若山牧水

 

初句と四句で二回切れてる歌ですよね。

風が凪いだ。木々のなかにあるわたしたちの家。さあ寝よう。

ということですよね。

 

伊藤左千夫はこの歌にはなから否定的でした。

これは、万葉集の東歌、

 

麻苧(あさを)らを 麻笥(をけ)に多(ふすさ)に 績(う)まずとも 明日着せさめや いざせ小床(をどこ)に

 

を思わせることを指摘した上で、

「言語配布が散漫」であり、「情緒が一貫していない」としています。

わかるようなわからんようなですけど、たぶん、牧水の歌の大ざっぱさみたいなことが言いたいのだと思います。

思ひつきは新しくとも、活きた情緒の動きが三十一文字の全語に行渡つて居ねば生命のある歌でない。

 

左千夫は具体的に、「落葉の木の叢のなかなる」が弛緩した表現であると言っています。

これはわたしでもちょっとわかる気がします。リズムのノリだけで乗り切ってる感が

あるというか。「叢」はこの場合は「むら」と読むのでしょう。「木叢(こむら)」で木が茂っているところ、という意味になります。

 

斎藤茂吉はこの歌に対して「発想が『拵物』である」として、

 

元来<いざ君よ寝む>といふ如き心持に起り来る第一位の動きは松だの落葉だのといふ下らぬ事であらうか内省して見るがよい。

 

と言っています。

言いぶりが激しいですが、どういう意味かというと、「いざ君よ寝む」というのは、「Let`s make love」ということですから、その心理的な段取りとして「松だの落葉だの」はおかしいでしょ、と言っています。俺は認めない的な。

これはたいへん茂吉っぽい批判だと思います。ちょっと難癖でもあると思うんですが、歌会などやると、こういう率直な人がいるほうが面白いですね。

 

島木赤彦は、この歌は「不自然な構成」であるとし、

 

<松と落葉の木の叢のなかなる吾が家>は外から我家を見た所でなくてはならぬ。所が第五句に突然<いざ君よ寝む>となると何だか家の内の事に思はれる。<いざ入りて寝ん>などあれば外部から見た感じとは合つてゐる。或は二三四句は矢張家の内に居て自分の家を斯く意識してゐるかも知れぬが夫れでは<松と落葉の木の叢の中なる>といふ詞は説明的になつてしまふ。一体<いざ君よ>など相対的に云つて居乍ら相対的な情が全体に沁み出て居らぬから結局相対的に<君よ>など云つてる功が無くなつて無駄な詞になつてしまふ。

 

と言っています。

これは視点の固定ができてない、という話ですね。どの位置から見てるのかわからんし、最後の「いざ君よ」は唐突過ぎて浮いている、と。

 

アララギの人たちはこういう風に一首一首について細かい批判を、17ページにわたってわーっと加えていきました。

牧水はかなりびびったみたいです。

自作について、

「いかにも句と句とがばらばらになつて、そして大きな点をぼつぼつと落して一貫して調和を保つという様なことにもならずに、極めて貧弱な細い線で斯の大きな題材を描き上げやうとした様な拙劣な矛盾を平気でやつて居る、今思えば誠に汗顔の至りである」

 

とまで言っています。

牧水は「議論下手」を自認するお人好しキャラだったそうで、それがよく出ているコメントでもありますが。

それでも牧水は精細な批評を受けてすごく喜んでいたそうです。これはたぶん今にも通じる実作者の心理で、細かく読まれるのって、それ自体がけっこううれしいことなのだろうと思います。

 

アララギの『別離』批評特集はかなりのインパクトがあったみたいです。

篠さんは書いています。

なるほど、『アララギ』のようなスタイルの『別離』批評は見あたらない。空穂・柴舟・夕暮・緑葉らのいずれも、作品内容面のいわば情趣についての検討であり、分析的、科学的ではなかった。

 

当時の文芸誌などでも

短歌研究欄で、根岸短歌会同人(アララギのこと)が若山牧水の短歌を研究的に合評してゐる。内容についても、外形についても忠実な分析を加えてあるので、それぞれ面白く読まれた。併し、ただ一つ此の派の人々は、細かくこれを解剖しての研究のみに走つて、却つて一首全体から来る情緒を閑却してはゐなからうかと思はれる点がある。牧水の歌には確に技巧上の欠点はあるが、それを補つてなほ余りある情緒の横溢してゐるのも事実である。其処を見ないのは嘘だと思ふ。(『文章世界』「雑誌合評」)

 

こんな批判まで出てきました。

先に見たアララギの批評スタイルは、今ではがっつり短歌やってる人と歌会などやれば、似たような評言は出てくるようなものかもしれません。

でも、当時にあっては、

アララギはヤバい。

なんか研究してるらしい。

なんか理論的らしい。

なんか哲学があるらしい。

短歌って、ふんわりしたノリで書いちゃいけないのかも・・・

みたいなビビりを人々に与えてたみたいなんですよね。

篠さんのこの本を読んでいると、もちろんこんな言葉ではないですが、そういう空気をなんとなく感じます。

この「歌の言葉の一語一語を問題にする分析的な短歌観」みたいなものって、アララギってなに? というときにけっこう本質的なところであるように、この本を読んでわたしは思えたのでした。

 

一方、アララギの若手層にはむしろ牧水の歌がよい刺激になったのでは、という見方も篠さんはしています。

こののち、伊藤左千夫と茂吉・赤彦が反目し合うようになる顛末が

六章「伊藤左千夫と斎藤茂吉・島木赤彦の内部論争」

論争まとめは全部で三十五本も入っています。

篠さんはこの本で、一つの物語を語ろうとしていないように思います。そのぶんこちら側からいかようにも読み込める。そして資料の引用は山盛り。それがこの本の魅力です。

第37回 岡井隆『現代短歌入門』

阿波野巧也 評論 ゲスト

 60年代論争史 阿波野巧也

現代短歌入門 (講談社学術文庫)

現代短歌入門 (講談社学術文庫)

 

 

こんにちは。阿波野巧也です。

去る11月23日、東京で行われたガルマンカフェで楽しくビールを飲んでいたら、ピーナツ三銃士が僕の方へ近づいてきました。

 

「ピーナツになんか書いてよ!」

「ええ、まぁ、そのうち……」

「じゃあ締切12月でよろしく!」

 

……というわけでやっていきます。

 

(1)前書き

 

さて、みなさん、こういうの見たことありますかね。

 

短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。 (p.236)

 

〈私性〉の話をするときにほぼ必ず引用される、あるいは、引用されずに「岡井隆によるあの高名な定義」みたいにぼやっと言及されるやつですね。

『現代短歌入門』は、篠弘の文庫版解説によると1961年1月から、1963年2月の間に、角川「短歌」に「現代短歌演習」として連載されていたものを一冊にまとめたものです。

当時の岡井隆の年齢は、33歳~35歳。この年齢で2年間がっつり連載を持ってたあたりにやばさを感じます。そういうわけもあって、普通の入門書のようにハウツーが並べられているのではなく、前衛短歌を経て「現代短歌」的なものが確立してきていた真っ最中の時期に、では「現代短歌」を構成する諸要素は何なのかを思索していった文章たちが並んでいます。

 

もちろん、連載していたわけなので、時評的な性格も帯びてきます。第十章「喩法について(2)」では、滝沢亘(たきざわ・わたる)の塚本邦雄批判に対しての反論から起こるやり取り(いわゆる論争)が収録されています。滝沢はこんな風に批判します。

 

また、上句の〈釘、蕨、カラー〉(阿波野注:塚本邦雄〈釘、蕨、カラーを買ひて屋上にのぼりきたりつ。神はわが櫓〉の上句)は、それぞれ何かを暗喩しているらしいのですが、この一首からそれを読みとるのは、作者と暗号表を取り交わしていない私たちには全く不可能です。そうした独善的な表現が、一層「櫓」の存在を曖昧な無限定さに追いこむ結果ともなっているわけです。 (p.190より孫引き)

 

昨今の「わかる/わからない」の話に対応するような問題提起は50年前にすでになされていたことがよくわかりますね。これに対する岡井の反論がこちら。

 

「作者と暗号表を取り交わしていない」などと、ふざけたことをいってはいけません。(中略)「釘、蕨、カラー」のそれぞれが何かであるような喩の「暗号表」的な固定化こそ、つまらない非詩的な日常的な喩の世界への転落である。それは、もはや衝撃力を失って約束の世界にとじこめられた喩法であり、詩における喩の、あらあらしい原始性を失っているのです。そんな子供だましみたいな「書き換え遊び」では、現実は表現できません。(p.191)

  

「日常的な喩の世界への転落である」!!! かっこいい。

 

釘、蕨、カラーは、一定の何かの暗喩ではないが、おのおの具象的なものの名でありながら、それらをこの順につらねることによって、イメージの重層と交響をはかっています。(中略)どうも、「釘、蕨、カラー」が偶然性を逆用しているように見えて、塚本らしい冴えがなく、またいえば、三者が少しつきすぎた感じで、「神はわが櫓」というアイロニカルな喩の片方の重みとつりあわぬのです。 (p.191~192)

 

岡井は「暗号表」発言の批判から入って、一般論からぐいぐいいってます。暗喩は固定化されたらあかんのやで、と。これはすごくよくわかりますね。直線的な喩は「うまいこと言った系短歌」に見えちゃうよね~って話と結構近くて、現代の私たちにも響いてくる言葉です。その後に、塚本の一首については、「偶然性を逆用」「三者が少しつきすぎ」という批判を加えます。

 

暗喩ってのはこういうものなんだ! みたいなことを言いつつも、だめなものはしっかり批判するというアティテュードが単にかっこいいですね。

 

これに滝沢はさらに反論するんですが、岡井はそれをスルーします。そのため、岡井が論争に勝ったように見えます。(ちなみに、滝沢はこの数年後、肺の病でなくなります。晩年の滝沢の歌、〈生き残る者にまことの孤独あらむ冬日に鈍くひかる金蠅〉などからは〈ひかる金蠅〉など暗喩の駆使が見て取れます。滝沢なりの岡井への反論を作品で示したということなのかどうかは、わからないところです。)

 

岡井隆の文章のすごいところは、ボディーブローのように重いパンチラインを吐き出して、相手が何を反論しても弱く聞こえてしまうところです。その辺がかなり立ち回りがうまい。

 

さて、前置きが長くなっちゃいました。

今回の記事では、前述の〈私性〉のテーゼが、どのように出てきたものなのか、ということを確認していきます。

執筆にあたって、篠弘『現代短歌史 III』、小瀬洋喜『回帰と脱出』からの引用も混ぜていきます。

 

(2)岡井・小瀬のフィクション論争

 

岡井隆の〈私性〉のテーゼは、「斧」という岐阜県歌人による同人誌に掲載された、小瀬洋喜(おせ・ようき)の「イメージから創作へ」を契機とした、岡井と小瀬の論争の中で出てきたものです。まず小瀬の「イメージから創作へ」を見ていきましょう。

 

短歌――それが私の文学である限りは、それ(阿波野注:歌集が作者の生活経験が如何に詩に昇華されるかということで評価されること)も許されることであろう。しかし、それが許されるのではなくて、それでなくては許されぬのであれば問題は全く別のものとなって来る。 (『回帰と脱出』p.134)

  

新聞歌壇である時は炭鉱夫、あるときは農夫、またあるときはセールスマンの歌を出していたひとに、斉藤正二というひとが「通俗の暴威」として批判をしました。そういう評価の背景には、短歌から上記のような生活体験の詩への昇華を見出す鑑賞態度があります。小瀬はそうであってもいいけど、そうでなくてはならないわけじゃないでしょ、というつっこみをいれます。

 

フィクションが短歌に持ちこまれたとき、事実よりも真実をという命題が、短歌の領域を拡大するためのものとして、歌壇での目録に加えられた。この命題は作品をそのまま真実と思いこむ習慣を矯正するのに幾らかの力を果したが、作者の側においておのずからなる限界を設定し、それを超えることをしなかった。(『回帰と脱出』p.135)

 

ここから小瀬は前衛短歌批判へと移りこみます。旧態依然的な、短歌に書かれたことは事実だという考えへの批判はもちろん、そこからの脱却としてフィクションを導入の仕方にも批判を加える。

 

そこで引き合いに出されるのが、平井弘です。表舞台へはあまり出ないですが、現在でも根強いファンがいる歌人ですね。

「斧」の同人でもあった平井の歌集『顔をあげる』には、戦死した「兄」のモチーフがたくさん出てきます。

 

兄たちの遺体のごとく或る日ひそかに村に降ろされいし魚があり

兄と共に戦わざりしわれの手といもうとの脛冬まつ傷ら

もう少しも酔わなくなりし眼の中を墜ちゆくとまだ兄の機影は

 

ここで小瀬は平井弘に実在の兄が存在しないことを指摘して、これこそ戦後の日本人の血脈に訴えかける新しいフィクションなんだと称揚します。

 

事実として存在しない兄を画いて成功した「顔をあげる」は、従来的なフィクション論議からは全く別の次元にあるものなのだ。短歌が長く閉じて来た創作の世界への斧をふりあげたものだからである。想像力の回復を云った前衛作家たちは、私性の脱却のためにとるべき創作の方法をさけて、非現実の世界に舞台を求めた。(中略)しかしキリスト教や、ギリシャ神話が日本人の血液には殆ど何の栄養をも与えていない現実にあっては、水に油は遂に親和力を示すことがなかったのである。(『回帰と脱出』 p.137)

 

「斧をふりあげたものだからである」!!! これが「斧」って同人誌に載ってるのちょっとおもしろくないですか?

小瀬は続けて、「前衛作家は”私性”からの脱却をイメージと想像にすりかえってしまったのである。然かもかなり多くの前衛作家は、血脈のない概念に日本人の抒情を仮託した。」と批判を加えます。

 

かみくだくと、前衛短歌は私性からの脱却をうたっているけれど、西洋的なモチーフの導入や、イメージの重視に苦心しているだけじゃないか、そんなものは日本人の抒情じゃねえぞ! という感じですかね。

小瀬は「兄」「母」などのフィクショナルな創作は従来の短歌ではできなかったのに平井含む「斧」の同人はそれをやっている、これこそが「私性の克服」なんじゃないか、とまとめています。

つまりは、前衛短歌のようにイメージに振り切ったフィクションの文体でフィクションをやるよりも、リアリズムの文体にちょいちょいフィクションを混ぜていったほうがむしろ「私」を脱却できるんじゃね? というのがこの論の重要なポイントでしょう。

ただし、この文章は「斧」に掲載されたもので、「斧」同人たちの歌がどういう可能性を持っているのか、ということを主眼に置いた文章になっています。それがちょこっと前衛短歌に文句を言ったために岡井に取り上げられ、攻撃されたんだろうとおもいます。

 

それでここからが『現代短歌入門』に書いてある小瀬への反論です。

 

まず岡井は、小瀬の「恋人にはウソがあっても、兄や母は短歌ではウソがないものとされて来たのだ」という言葉から論を立てていきます。ここで『現代短歌史』を参照しますが、岡井隆は「平井の作風のような、主体にまつわる事実関係の変更は許容できなかった」のだろうことを頭に入れておいてください。

 

岡井は、文芸上における虚構と、実生活における嘘の決定的な違いは、「文芸上の虚構があくまでそれが虚構にすぎぬという約束を前もって読者のまえにあきらかにしているという点」であるとします。「恋人」がいる、という嘘も、いないはずの「兄」「母」がいる、という嘘も、文芸上では同じものだろう、と。ではそもそも、短歌のなかで嘘をつくということはどうか。

 

写実派の短歌に関するかぎり、恋人も兄も母も区別なく、その実在性に関してのみならずその人々にまつわる個々の事実の内容についでまで、「ウソがない」のがたてまえです。(p.211)

 

えー! その反論ちょっとずるくない? と思わないでもない。

 

歌壇が他のどのジャンルよりも不幸だったのは、写実派が存在したことではなく(中略)、写実派がえらび取り世上に流布させた「約束」だけが唯一の約束であるかのような錯覚が、あまりに長く歌壇を制圧しすぎた点にあるのです。(p.212)

 

約束というのは、作者と読者との間の作品の受け取り方の約束です。その結び方は多種多様にありうる、というのが岡井の主張です。ここから事実偏重主義への懐疑がつづき、「嘘は毒のようにひそかに写実派の作品に入りまじってきましたが、しかもそれがあくまで「事実」らしい顔をしてあらわれ、読む側もそれを事実として読んでいたのです。」とまとめます。

 

塚本をはじめとする前衛短歌の一派は、そういった「写実派流の約束の万能説を否定しようとするもの」でした。しかし、それが徐々に受け入れられていったことによって、「さまざまに非写実の毒を嚥下しつつ歌を作っているのに、他方、形式上は旧来の約束を盾に取っているという二重の嘘」が歌壇をおおっていった、と岡井は言います。岡井はその二重の嘘にのっとって、「恋人も母も兄も区別がない」と述べたわけですが、これってどうなんでしょうね。彼自身の筆の迷いが表れてると捉えてもいいのかもしれません。

こういう二重の嘘、現代でもありそうですよね。たとえば、短歌を「一首を基本として鑑賞する」と「連作・作者情報などのコンテクストを参照しながら鑑賞する」とかは、どちらか一方が正しいとかじゃなくて、この二つをどっちも援用しながらひとびとは歌を読んでいきます。良く言えばバランスを取っているわけですが、これもまた「二重の嘘」と言えるのかもしれない。

 

岡井は平井の作品について、「一見してそれとわかるどぎつい非写実の特徴を持たず、むしろ写実派のそれとして読んだ方が素直に受け取れる種類のもの」と述べ、「平井の場合「兄」を虚構と考えるより、そういう「兄」を持つ「われ」が仮構であり作者のアルター・エゴの化身と考えるべきではないか」と述べます。アルター・エゴというのは別人格、ぐらいの意味にとらえてOKだとおもいます。

 

また、「「母」を創作した先例には、すでに寺山修司の有名な「アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちてゐむ」があるではないですか。「新次元の開拓」はまこと容易ではない。」と切り捨てます。この「まこと容易ではない。」で小瀬への反論を終えるんですがこの辺りかっこいいですね。論争慣れしてる感じがあります。

 

そして、読者の方も小瀬さんに突っこみたくなったかもしれませんけれど、やはり岡井は小瀬に対して、「わたしは小瀬に一つ問いただしたいと思うのですが、塚本邦雄がしばしば彼の作品のなかに登場させる「父」や「母」の実在性について、一体小瀬はどのような根拠から疑いをいだこうとしないのか。」と文句を言います。まあそうなりますよね。

 

両方読むと、岡井さんの立ち回り方けっこう見えにくい気がしますね。小瀬の「兄」や「母」の虚構という「日本人の血脈」に訴える私性の拡張に関する主張や、イメージ重視で私性を脱却できていないじゃんという前衛批判について、岡井は「虚構するということにおいて兄も母も恋人も同じだし、前衛でも塚本や寺山は架空の家族歌ってるじゃん」って感じにかわします。

 

さて、今まで見てきたのは第十一章、「私文学としての短歌」の(2)の部分です。次に、例のテーゼが出てくる(3)を見ていきましょう。小瀬による岡井への反論は、これも面白くはあるんですが、今回はあまり重要ではないので置いておきましょう。

 

(3)〈私〉の拡散と回収

 

「私文学としての短歌」の(3)はAとBの対話形式からなる文章で、ちょっとおもしろいです。

 

A くさくさしてるんだよ、まったく。よそで有用だった概念や分析を無反省に持ちこんできて、その実、短歌的土壌の一寸も掘れていないという手合いが多すぎるんだ。他国他郷生まれの概念や分析用語は、税関で厳重審査の上、入国させてほしいよ。

B しかし、あなたがそんなこと言っていいんですか。この「議論」がそもそも成り立たなくなりぁせんですか。(p.230)

 

文体が話し口調だし「税関で厳重審査の上、~」なんてジョークも飛ばします。なんか饒舌で僕なんかは読んでると笑ってしまう。この「A」と「B」両方が岡井隆の「アルター・エゴ」、すなわち別人格のようなものであるというのがちょっとメタ的なかんじですね。

 

この(3)でのお相手はもっぱら、寺山修司です。寺山は岡井の歌集『土地よ、痛みを追え』について、岡井は、歌集『土地よ、痛みを負え』の中の「ナショナリストの生誕」や「思想兵の手記」といった連作において、「ナショナリスト」や「思想兵」といった、「全体という概念の中に〈私〉を拡散」させているが、「そのあとの回収された〈私〉を見出すことは、この歌集の限りでは不可能にちかい」と言っています。あとは「〈私〉が観念に疎外されている」とか「トータルな人間にヴィジョン」とかいかつい評言が飛び交います。

 

ちょ、いきなり拡散とか回収とかなんやねん、みたいな感じですね。

まあとりあえず岡井の反論を見てみましょう。岡井は作中の「われ」と作者との関係を三つに分類します。

1.「われ」=作者

2.「われ」と作者の間に第三の人物(例:「思想兵」「ナショナリスト」)が介在して、「われ」と作者を媒介する場合

3.一首の歌に三人称の主人公を仮構し、そこに作者の分身を定着させようとする場合

岡井はもちろん2の立場だと表明します。一人称の「われ」を仮構することで、1の立場からも読めるようにしつつ、作品世界に客観性・普遍性を与えようとしているのだと。

 

この場合、その架空の歌い手は作者のなかのどの要素かが強調拡大されてとり出されたものであり、普通に、作者の分身と呼ばれています。(中略)その意味で、寺山修司は、これを〈私〉の拡散と呼んでいました。しかしこれらの歌が、はたしてその後に回収を要するような〈私〉の拡散の仕方を示しているかは、むしろ疑問なのではないでしょうか。

 

こういう構造を持った連作の場合、(もし成功しさえすれば)一首一首は、一枚一枚のレンズが同一焦点に集光するように、その背後に一人の告白者の像を結ばざるをえないように構成されている。(中略)全体のプロポーションとしては現実の作者そのものとちがっているが、たしかにそれは、作者の分身です。そしてそれらの分身像の重積から、作者に関する統一したイメージを画くことを、もし〈私〉の回収というのなら、それは、作者の行なう〈私〉の拡散作用の逆作業を読者が行ないさえすれば可能なわけで、もともと、そういうことを予想せずには拡散作業はできるはずもないのです。(p.238~239)

 

ここでも岡井さんは、言葉の定義があいまいなことを逆手にとって、自分の中でがっつりその言葉を解釈し、〈私〉の拡散と回収ということについて普遍性のあるパンチラインを吐いてきます。一首一首がレンズとなって、連作中の〈私〉像を結ぶ…その像を結ぶということが〈私〉の回収なのだ、と定義してみせてますね。これほぼ、〈私〉論というか連作論になってますからね。

 

寺山修司のその後の反論で示された「拡散と回収」の定義はこんな感じです。篠弘『現代短歌史 III』からの孫引きすると、「作者の中にある全体像のイメージ、「幻の私像」が存在」していて、「その全体像のイメージが一首一首の中の私的具象性を持って拡散されてゆく」のが拡散です。回収については、「こうした全体像、つまりメタフィジックな「私」を内部に創造し得ぬまま、拡散されてしまった個人体験、個人のイメージはきわめてバラバラであって、読者には決して回収作業などできないであろう。」と述べています。

 

ふむ。わかりましたかね。「幻の私像」てなんやねん、て感じですよね。

 

ここで小瀬さんの活躍です。『回帰と脱出』中の「〈私〉の論理」には寺山と岡井のいう「拡散」「回収」についての定義の検証がなされています。見ていきましょう。

 

〔定義1〕 “私”とは作者の拡散した一つである。

 

内部現実(=真実?)と外部現実(=事実?)が結合している場合に、

(A 寺山の場合)

・その外部現実(事実)を破壊して、再構成することを「拡散」という。

・その再構成のためには、構成基盤としての一つの作者の姿勢が必要であり、この姿勢が明らかになっている状態を「回収」という。

・(具体例)平井弘のような、初めから一冊のテーマがある歌集を意図しながら、歌の配置を考えていく態度。作歌においては、一首ずつが、回収点からの投影となる

 

(B 岡井の場合)

・その外部現実(事実)を破壊して、再構成することを「拡散」という。ただし、再構成のために、一首一首、作者の分身としての独自性が与えられ、その一首一首の分身の姿勢を構成基盤とする。

・作者は、一首一首の分身の統合体として初めて統一的なイメージを結び得る。この統一像を得ることを「回収」という。

・(具体例)岡井隆が「ナショナリスト」「思想兵」など、それぞれの分身として画いたものがまとめられる。分身の一部を欠いたり、分身の一部が加えられれば、統一像は変わる

 

がんばってまとめましたけど若干小難しいし、僕も完全に理解はしていないので難しかったら読み飛ばしてください。

 

ともあれ、寺山の立場は、その「拡散」を統べるべきひとつの回収点(=作者のなかの「幻の私像」)が揺るぎなく存在しなければならない、ということでしょうか。着地点が見えてるべき、あるいは作者が全部コントロールすべき、みたいな感じで僕は理解しましたが、どうだろう。一方で岡井の立場は、歌を連ねるごとに像の結ばれ方が変わってくる、(ともすれば結べなくなる)という感じでしょうか。

 

ちなみにそもそも小瀬さんは、〈私〉の拡散と回収は一首の中で行われるべきだ、という立場を主張しています。こんな感じです。

 

ピペットに梅干色にわが血沈む 一揆にも反乱にも敗れたりき/斎藤史

上句と下句とには異質の分身の拡散がある如くでありながら、実は同一体に他ならない。その同一体が具象表現と抽象表現に場を分けて描かれ、見事に回収されているのである。

短歌において問題とすべき拡散と回収はそれが一首の中でどう位置づけられているかということであって、幾つかの作品からの作者像の結像ではない。(『回帰と脱出』p.155)

 

夜の花屋の格子の彼方昏睡の花々の目 クレー展見そびれつ

緑蔭を穿ちて植ゑし新緑の杉 愛しすぎて友を失ふ/塚本邦雄

 

(中略)わたしは「分る、分らない」の分岐点は一首の中での〈私〉の回収の成否にあると思う。(中略)クレー展を見そびれたという塚本と、昏睡の花々の眼を感じた塚本との間に、まったく別個に拡散し独立した〈私〉を認める読者は回収し得ぬ〈私〉に焦らだつに違いない。(同上p.157~158)

 

どうでしょう!? これ、永田和宏の有名な歌論、「「問」と「答」の合わせ鏡」に通じる部分がありませんか。上句と下句に拡散した〈私〉が統一した〈私〉に帰ってくるか、というのはそこに短歌的な、詩情としての連関を見ることができるか、ということにつながってくるのではないでしょうか。

 

また、小瀬洋喜は〈私〉の回収について、このように寺山批判を行います。

 

問題とすべき〈私〉性とは、一首のなかにみごとに〈私〉の回収が行われているか否かである。(中略)しかしこの〈私〉とは作者であるという定義がややもすると、作者をして、“短歌的抒情に規定された人間像”にだけ制約させてしまう危険があることも、われわれは充分に知っている。〈私〉の問題においてこの危険を無視することはできない。一首には一つの〈私〉が回収されていなければならないが、その一つの〈私〉がそのまま作者全部であると思ってはいけない。(同上 p.159)

 

この辺は、僕が角川短歌の年鑑座談会で、「短歌では受け入れられやすい人間を演じてしまいがちになる」って発言したのとやや似ているところがあって、やっぱり昔からそういうの考えてるひといるんだな~って思わされます。

 

まぁ、こういう風に、〈私性〉議論って、連作論だったり、一首の読みの理論だったり、あるいは読者論だったり、色んな物を巻き込んでるわけですね。そりゃあ紛糾もするし、語の定義もあやふやになります。小瀬さんは水質学の先生で、短歌評論中にも図表をぶちこんでくるかなりの「定義厨」「分類厨」なんですが、その彼をしても、正確に分類しきれていないように感じます。難しい話題なんでしょうね。いま資料を追っかけて読んでもだいぶわけわかんないですからね。

 

(4)ただ一人だけの人の顔

 

さて、話を戻して、寺山・岡井バトルの後半戦です。

 

そして、寺山修司の、「前衛短歌のひとたちは告白(コンフェッション)しない」という批判に対して、岡井は次のようにまとめていきます。

 

A ただね、その場合、これは何度もくりかえしていうのだけれど、告白性こそ短歌固有のものだとか、あるいはその逆だとか、それから、私性はいけない、トリヴィアリズムはいけない。そういったことを妙に固定化して、どうしていけないのか、その原因追究をおこたったままいってみても仕方がないということですよね。(中略)私小説の生理と病理は、短詩型文学の〈私性〉の生理と病理と大へんよく似ながらまったく別のことでもあるのです。(中略)所詮、短歌は〈私性〉を脱却しきれない私文学である、などとあきらめたような言い方をする人があるが、こういう無気力な受身の肯定も、他方また、短歌に〈私性〉を脱した真に客観的な人間像の表現を期待するオプチミストも、結局、短歌の生理に暗い点においては同罪でしょう。短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。そういう一人の人物(阿波野注:即作者である場合もあるしそうでない場合もある)を予想することなくしては、この定型詩は、表現として自立できないのです。その一人の人の顔をより彫り深く、より生き生きとえがくためには、制作の方法において、構成において、提出する場の選択において、読まれるべき時の選択において、さまざまの工夫が必要である。(p.235~236)

 

A (中略)戦後以来一貫して悪しき〈私性〉の復活の風潮は流れています。〈私性〉の悪用または濫用は、ね。(中略)それと闘うためには、良貨を発行するほかない。〈私性〉の活用ですね。(p.237)

 

ちょっと長くなっちゃいました。

ちょうどこの時期は、安保以降の「後退期」と言われて、前衛の「脱・私」みたいな方法論が挫折してんじゃね? みたいな空気感が漂っていたようです。岡井自身がリアリズムへ回帰してるんじゃないかみたいな。そんな中で、1人称のアルター・エゴを仮構して連作を組んだりして、「私が回収されてない」と批判され、「拡散された断片がレンズのように像を結び、回収される」という図式的にわかりやすい反論を行ったわけです。そして、従来のトリビアルな日常性に終始する「悪しき私性の濫用」に釘を刺す一方で、自らの方法にも対応できる〈私性〉の単純かつ明快な定義として、「作品の背後にただ一人の顔が見える」ということを提唱し、それを生かすも殺すも歌人次第、という言い方をしたわけです。ある種、岡井さん自身の生存戦略であったようにも僕には見えます。

 

長々と書いてきましたが、特に華々しい結論があるわけではありません。ただ、岡井隆の言葉だけが非常に有名になってひとり歩きしていますが、その周りには、寺山やら、小瀬やら、さまざまな他の歌人がいたわけです。岡井さんの文章だけが残っているから岡井さんが論破しきってるようにも見えますが、ディグってみると意外と論点ずらしてうまく切り抜けたりしながら、岡井さんが落としどころを探っていった結果、この有名なテーゼが出てきた、というような感じがあります。

 

とにかくこの『現代短歌入門』は、他者との論争が載っているのが面白いところです。これ一冊だけでも、相手側の主張も引用し、説明されるのでなんとなくその時代の雰囲気がわかります。そして、その論争を通じて岡井隆はあくまで一般的な結論へ着地しようとしているのが見てとれます。そのため、「入門書」として成立しているのでしょう。(ほんとうの初学者にはあんまりおすすめしないですが。)

もちろん、その当時の論争相手の文章をディグるのもおすすめですし、あとは篠弘『現代短歌史』を読みながら読んでいくのも面白いです。年末年始をゆったり過ごす方にはもってこいですよ!

 

阿波野巧也:1993年、大阪府生まれ。「京大短歌」、「塔」、「羽根と根」で活動。